2019年1月1日火曜日

2019.01.01 岩城宏之 『フィルハーモニーの風景』

書名 フィルハーモニーの風景
著者 岩城宏之
発行所 岩波新書
発行年月日 1990.08.20
価格(税別) 550円

● 30年前の風景になる。5章構成。
 最初の2章(全体の3分の1)が,本書の価値の8割。ウィーン・フィルとベルリン・フィル。世界を代表する2つの“ハーモニカー”についての分析。両方を指揮したことがあればこその説得力。

● 以下に多すぎる転載。
 何故ウィーン・フィルが世界唯一の無形文化財であるかという秘密は,彼らの音楽に対する「趣味性」だ,と思うのである。(p8)
 カラヤンに抵抗し,彼の棒とは全く関係のないテンポで,整然と引き出したあのアンサンブルの秘密は,いったい何なのだろう。コンサートマスターが大袈裟に合図をしたわけではない。実に不思議だった。(p15)
 オーストリアは人口七百万の小さな国である。純血を貫くのは甚だ困難であろう。同時にこれは,ウィーン・フィルのすべてのセクションの音楽家たちが,同門であることを意味する。つまり師弟関係で成り立っているわけだ。(中略)同じ奏法,同じ音色の集合体ということが,あのオルガントーンの最大の秘密だと思う。(p34)
 ひとりがクールな感じで言った。「あのジイさん(ベーム)の棒の通りに弾いたらエライコトになるんだぜ。もうすっかりモウロクしているからテンポは延び放題だし,手がブルブル震えっぱなしで,何がなんだかわからないんだ。でもとにかくエライ指揮者だし,いや,偉大な人だったんだから,お客さんの期待と感動に水を差さないように,あれたちがカバーしてやってるのさ。苦労するよ。ショウバイ,ショウバイ」(p36)
 メイフラワー号から始まった複合民族の移民国家が短期間に世界最大の国を形成したエネルギーは,彼らが「味覚への欲求」を捨て去ったことからくるのではないかと思うのだ。(p53)
 最近数年間の両者のギクシャクはかなり話題になったが,本来運命的に敵同士である指揮者とオーケストラの関係を考えると,三十年という長い年月の付き合いとしては信じられないほど良好な関係だったといえる。(中略)オーケストラが彼のもとで演奏することの利益は,多大の収入の保証はともかく,まず第一に働きやすいからなのである。(p55)
 「ドライブしてはいけない。オーケストラをキャリーしろ」(中略)手綱を緩め馬を自由にさせてやる。馬は乗り手の存在を忘れ,自分が行きたい方へ好きなスピードで進む。しかし本当は乗り手に統御されている。指揮とはこうあるべきだとカラヤンは言ったわけである。(p58)
 コッホは笑いながら言うのだった。「われわれフィルハーモニカーは,どんな曲でも一度聴いたら全員のパートを覚えなければならないように躾けられているからでしょうね」 全身に鳥肌が立った。(中略)コンサートマスターのシュヴァルベは「お互いが聴き合わない」とベルリン・フィルの欠点を指摘し,机を叩いて怒っていたが,それはコッホのような能力を全員がふまえた上での,その先の次元のことだったのだ。高いレヴェルの長い伝統の積み重ねに加え,二,三十年でこのような「自発能力者」ばかりの集団に育てあげたカラヤンの凄さに,改めて驚嘆した。(p69)
 指揮とは教わることも教えることもできないものだと,ぼくは思っている。「盗む」だけというのが信念である。だからレッスンなるものをしたことはない。(p84)
 もともと明るい性格で,これはオーケストラの裏方として絶対条件だ(p93)
 わが国でも劇場-芝居小屋の裏方サンにちゃんと「挨拶」しておかないと,公演中に頭の上からトンカチが降ってくるという,何となく伝説みたいな話があるが,洋の東西を問わず「小屋」とは,そういうものらしい。(p97)
 上手くいって当たり前で,ちょっとのミスでも演奏家やお客にこっぴどく怒られる仕事である。だからこそ,われわれは裏方を畏れなければならないし,言い換えれば,彼らへの「感謝」を思わない,あるいは忘れている人間は表方になる資格がないと思う。(p97)
 残響の中での音楽はゴマカシだ。こういう意見がわが国の音楽界の大勢を占めていたと思う。(中略)明治初期に西洋の音楽を受け入れたとき,「音楽は美しい響きの中で聴くもの」という観念が,日本に入ってこなかったのが悔やまれる。(p197)
 概して日本の伝統音楽では,スパッと断ち切る音が素材として使われているようである。ということは同時に,音と音のあいだの「無」-「間」を大切にしたわけだろう。この空間の魅力を,日本人は「余韻」と表現したのではないか。 一方,音と音の間を残響でつなげ,ひとつの流れにしているのが,西洋の音楽だと思う。(中略)われわれの民族では「無」も「有」であり,ヨーロッパ人には「有」のみが「有」なのである。(p200)
 とにかく断言できるのは,超一流のオーケストラならば,必ず超一流の会場を本拠地にしていることだ。良いホールが良いオーケストラを作る,と言ってもいい。普段,音の良いところで演奏している団体は,音の悪いホールに行ってもビクともしないものである。(中略)逆は成り立たない。(p206)
 自分たちの練習場を持っていないオーケストラが,日本にはいくつもあるのだ。毎日のように練習場所を借りてまわるオーケストラに,繊細な音作りを望むのは,無理というものである。(p206)
 最晩年のカラヤンの指揮を,ぼくはTVでしか見ていない。世の中には,以前の華麗な指揮ぶりが見られなくなったと,カラヤンの衰えばかりを騒ぎたてたひとが多かった。しかしぼくは,かれの指揮がとてつもなく高い次元に到達したと感じていた。動きが極端に制約されてしまった身体から,より多くの表現をオーケストラに与えていたと思う。(p211)