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2015年5月19日火曜日

2015.05.11 中村天風 『真人生の創造 中村天風講演録』

書名 真人生の創造 中村天風講演録
著者 中村天風
発行所 PHP
発行年月日 2015.04.26
価格(税別) 1,800円

● 以下に,少々多すぎるかもしれない転載。
 私は神仏というものの存在を,第二義的に人生を考えるものには必要かもしれないが,自分自身を真理に沿って正しく生かすものに対しては,既成宗教は何ら顧みる必要のない存在だという,大きな確信の下に人生を生きているものであります。(p19)
 あの病から来る苦痛に耐えかねてやっちゃった,えらいみすぼらしい憐れな心。人に侮辱を受けたより,自分自身が自分自身の心の中の憐れさを感じたときぐらい悔しいことはありません。 ここが違うんだ,あんた方と私と。あんた方は人に馬鹿にされると怒る。(p35)
 人生は,よろめきかけたところで止まっているとこにいいとこがあるね。そして向こう向く心に,「こっち向け」って向け得るようにならなきゃあかん。それを「これを怒らずにいられるか」とかね,「これを怖れないで,どないするねん」なんて。(p38)
 風邪を防ぐ一番の根本的な秘訣は,風邪をおっかながらないことだよ。「引くんなら引きやがれ,チクショーめ。風邪なんか引かされたって,こっちは引かねえから」って,こういう気持ちでいりゃいいんで,おっかなびっくりやってるとすぐ来るぜ。(p42)
 人生を本当に生きがいあるものにするのに必要な条件っていうものは,よろしいか,金の力や,あるいは名誉や地位の力や,あるいは物質の力じゃ,どうしてもできっこないんであります。また,それでできるとしたら,貧乏人にはこういう力がないはずだが,皮肉なるかな皮肉なるかな--。 ついこの間の老人の日,東京の一番長命な奴はどこにいると探したら,下谷の金杉の裏町にルンペンのおじさんで百三歳。(p61)
 我々の魂というものは,学問をしようがしまいが,そんなことは別問題。人生への真理というものをことごとくよく知ってるんですよ。本心を煥発するということは,その知ってる魂から一切を心へと引き出すということと同じことになる。(p80)
 本当の幸福というものはね,なんぞ図らん,凡人の多くが忌み嫌う苦悩というものの中にある。すなわちその苦悩を,わかりやすく言えば,むしろ楽しみに振りかえるというところにある。 もっとも普通の人は,苦悩を楽しみに振りかえるなどと言うと,「そりゃとてもたやすくできるもんじゃない」と言うでしょう。しかしです,我々は「観念要素の更改法」というのを知ってる。したがって,苦悩を楽しみに振りかえるということをさして難しいこととは思いませんわ。(p87)
 ただ感覚してる世界だけを考えて生きているからいけない。感覚しない世界,すなわち自分の生命の後ろ,見えないところにちゃんと完全であらしめようとする自己,どこまで行っても自分を完全たらしめるという力がちゃんと用意されているんだということを考えたら,なんにも悶えることも悲しむことも,怒ることもないだろ? (中略) そうすると,長くその消極的な思考と絡み合っている愚かなことをしなくなっちまうんだよ。出ることは出ますよ。(中略)それがパッと消えるんだ。(p91)
 「怒らず,怖れず,悲しまず,正直,親切,愉快」と,この「三勿三行」は,最もよい感情,言い換えれば,すべて融通性を持つ円満具足的な値の高い感情。その感情を,自然と自分の心の中から常に湧き出させしめようとするためにも,大変に必要なことなの。 理屈なしに,ただもう「怒らず,怖れず,悲しまず,正直,親切,愉快」,これを実行に移さなきゃだめですよ。(p97)
 どんな場合にも親切に,どんな場合でも愉快であるということにしましょう。そして始終,人の欠点は見ないでもって,人をほめることを心がけ,そして自分は最善を尽くそうということに努力しましょう。ね? 人を批判する間には,自分も批判されるということを考えなきゃいけないから,だから人の落ち度を発見したならば,それはもう頭から許しちまわなきゃ。ね?(p99)
 世の中によく時々予言が的中するとか言い当てるとかという人見ると,自分と全然かけ離れた人間のように思うだろ。とんでもねえことだ。同じ人間だもん。頭の中が,脳みそが別に向こうのほうが塩気が多くて,こっちのほうが砂糖気が多いわけでも何でもねえんだ。ただ彼らは先天的かあるいは何かのことによって,そういう力が啓発されただけ,訓練されただけなんだ。だからあなた方だって訓練すりゃ出てくる(p146)
 自己以外に自己の生命の支配を行なう権利を持ってるのは絶対にない。それで,その自己はなんだってことを考えてごらん。自己とは何だ。自己とは学問的な言葉を使えば「真我」と言います。本当の我。真我とは何だというと,生命の根本要素を成すところの霊魂と称する一つの気体が本当の姿だ。形はないんだよ,本当の自分というものには。(p156)
 あなた方どうしても今それを思わなきゃ,また考えなきゃ,もう一分といえども現在が過ごせないというような大事なことを現在思ったり考えたりしてるかい? たいていあんた方の腹を立てることや悲しいことや煩悶してることは,考えなくても考えてもどうでもいいようなことで,また考えても考えきれないことか,考えりゃ考えるほど自分の気持ちを悪くして,果ては健康や運命を悪くするようなことばかりじゃねえか。(p166)
 事実において人生苦というものの九割九分は,よろしいか,入念に分析してみると,心を己の生命の生きるための道具として使わないで,反対にそれに使われているがためであるんですよ。生命に対する支配権を心が持つものと誤解しているからなんだ。もっとはっきり言うと,自分というものを知らず知らず,心の奴隷にいているために,年がら年じゅう煩悶苦悩というものに苦しめられているんですよ。(p167)
 心を完全に操縦し,又これを完全に支配する威力を有するものは,実に意志なるものよりほかには絶対にない。意志なるものが,心の働きの一切を統率する最高なる統率者なんです。 そもそも意志というものは,元来真我の属性なんですから,俗に意志が強いとか弱いとかいうのは,これは意志そのものの強弱をいうのではなくして,意志の力の発現の強いか弱いかを指していってるんだよ。(p182)
 だってねえ皆さん,よく考えてごらん。例えば,自分がいくら財産をこしらえて銀行の預金帳増やしてみたところで,それがいったいどうなる? ただ観念の上でいくらか安心が行くだけでしょ。なんかの拍子でもって自分がくたばってごらん。そのカネがあったばかりにこりゃ,家族でもってお互いに諍いを初めて大騒動が起こるぜ。 だからカネなんか貯めるなというんじゃないんですけど,差し支えのないだけ以外貯めたって何もなりませんよ。(p227)
 人生は生きてる時間が極めて短いということは気がつかないでもって,朝から晩までねえ,閻魔様が塩舐めたような顔して,ちっとも愉快な気持ちを出しゃしねえ。(p231)
 現在ただ今,どんどんどんどん過去へとスピードフルにリールは回ってるんだ。それ考えてみたらば,すぐ怒ることがあるから怒るんだ,悲しいことがあるから悲しむんだ,怖れることは怖れるんだっていうようなことを言ってたんじゃ,人生に極楽は来ないぜ。(p232)
 今,私の心の中のどっかに憎んでる人がいやしないか。嫉んでる人がいやしないか,恨んでいる人間がいやしないか。そういうものが少しでもあなた方の心の中にたとえ一人でもいるような心を持っている人は,さもしい,卑しむべき下等な人だ。(p233)
 事の如何を問わず,事情のなんたるを問わずです,断然自分の心に争いの気持ちを起こさないことなんです。常に親しみ穏やかに溶け合うという和の気持ちを心に堅く持つこと。第一,この争う気持ちというのは,厳格に言うと,自己の存在とその周囲関係の貴重な因縁をいうものをないがしろにし,それを無視没却しているから起こる,極めて蔑むべき心持ちなのであります。(p239)
● 斎藤一人さんが説くところとの共通点を感じる。上の「三勿三行」は,斎藤一人さんの上気元(上機嫌)に過ごせというのと同じことだ。
 こういうものは,自ずとそうなるのだろう。行き着くところは,結局,その一点になる。

● で,それができるようになるためのメソッドを両者ともに用意しているわけだけれども,問題はそのメソッドで上手く行った例があまりないことだ。
 メソッド以前の条件があるのだろうと思う。

2015年5月12日火曜日

2015.05.04 中村天風 『幸福なる人生 中村天風「心身統一法」講演録』

書名 幸福なる人生 中村天風「心身統一法」講演録
著者 中村天風
発行所 PHP
発行年月日 2011.11.09
価格(税別) 1,900円

● まず,いくつか(というには多すぎるか)転載しておく。
 人生は,悟ったように見えるとか,悟ったような気持ちになるというような薄っぺらなことじゃ,解決がつかないのですよ。どんな場合があろうとも,牢乎として抜くべからざる強さが心につくられなきゃだめです。 変化変転極まりなき人生の荒海の中を生き抜く際,何かちょいとした健康上,運命上のこわばりのあるたびに揺る動かされるような心だったら,いくら目に万巻の書を読み,耳にどんな美しいことばを聞いたからとて,煙が風に吹かれていくようなものです。(p121)
● ではどうすれば,そうした強い心を作ることができるのか。たとえば,次のようなことだ。
 難しく考えるてえと際限ない。易しく考えて易しくおやりなさい。一番いい方法を教えてあげるから。 寝際に,いろいろな心配や煩悶が起こるのは,普通の人間なら当然でしょう。況や健康に障害があったり,運命に障りがあれば,何かと心に浮かんでくるのは当然でしょう。感覚があったり,神経がある以上は。けれど,枕に頭をつけたら一切それを心の中に考えさせない努力を習慣づけることです。努力して習慣づけると言うほうがわかるかな。 「身に降りかかることを考えずにいられるか」というようなことを言うからいけないんだ。どんな大事件だろうと,その晩考えなきゃ解決のつかないというような事柄など,めったやたらとあるものじゃないよ,人間の人生に。(p130)
 もう今夜からこういうふうにしてごらん。消極的なことが心の中に浮かんできても,それに一切関わり合いをつけないようにするの。「思い浮かばせちゃいけないぞ」とは言わない。言ったって出てくるもん。出てきても,そいつは相手にしないことなの。冷遇しなさい。何もそれを優遇する必要はない。(p130)
 関わり合いをつけない練習を効果づけるのには,どんなことでもいいから,思うほどに,考えるほどに自分の心が何となく勇ましく,微笑ましくなるようなことだけを考えてりゃいい。 観念の世界は自由だ。楽しいこと,面白いこと,嬉しいこと,自然と微笑まずにはいられないようなことを考えればいいんだ。そのぐらいのことを考えられる心は持っているでしょう。(p131)
 言葉に常に注意深く,どんなことがあっても消極的な言葉を出さないように,日常生活を営む際,自分の言葉を自分自身が取り締まっていかなければいけない。弱音,悲観,失望というようなものを表現する言葉を使っちゃいけない。(中略)言葉は自己感化に直接的な力を持っているのよ。しょっちゅう泣き言ばかり言ってるやつの人生というのは暗いです。(p140)
● さらに,たとえば次のようなことだ。
 尻の穴を締めることを一番先に習慣づけなきゃだめよ。見えないところだから開けっ放しにしておいてもいいと思うかもしれないけれども,これは開けっ放しておくべきところじゃないもの。(p211)
 息を少し長く深く穏やかにするということをやるっていうと,それで今度はさらにクンバハカ応用のプラナヤマ,活力の吸収という尊い方法が行えることになる。(p214)
 何をするときもパッパッと気を打ち込んでやるとね,これはもう意識を明瞭にする,すなわち,とらわれから離れて,はっきりした気持ちになる。これが最上の手段です。これ以外に手段はない。 気が散るというのは,打ち込まれていないから散るのです。気が散ったために打ち込まれないんじゃなくて,打ち込まれないから気が散るの。(p223)
 たとえば,心の中に百の力があるとするでしょう。このまま気が散らずにいれば,そのままあるんだ,心の中に。あなた方ともなるってえと,十は食い物に,十はお金に,十は恋に,十は心配に,十は健康に,十は煩悶に,といった具合に気を散らしてしまうんだ。すると心には四十しか残ってねえ。(p224)
 ただ漫然と何の用意もなく,準備もなく,反省もなく,思うがままに思う,考えるがままに考えるというような状態でやっていくってえと,この肉体本位のまがままいっぱいに振る舞おうとする本能心だけが心の全体を占領する。 もちろん理知教養を受けてくると,そこへちょいちょい理性心というやつが首を出してくる。「だめだ,そんなこと思っちゃ」ということは言うのですよ。だけど,力のないヨボヨボの姑が口やかましく五月雨小言を言っているのと同じでもって,本能心が言うこと聞きやしねえ。(p237)
● また,次のようなことも。
 「まず目的を定めろ。人生のデスティネーションができなかったならば,あてどもない旅に出たと同じじゃないか。だから目的を定めて,その目的に向かって勇往邁進しろ」というのが,今も昔も学者や識者が後輩を教えるときに必ず言う言い草なんです。私はそれに賛成しないのであります。なぜかというと,目的を定めてやると,焦りが来るからです。「まだか,まだか」という焦りが来ると,ファイトに傷がつくんです。これは大事なところだから聞きなさいよ。普通の学者や識者が言うこととは全然違いますよ。がむしゃらでもいいからファイトで行くんです。(中略) われわれの持っている人間に与えられた知識の範囲というものは知れております。それでとやかく思案していたら,この時代に本当のファイトが出ますか。(p155)
 とにかく縁があってあなた方が今の会社にいるのならば,そこでベストを尽くすんです、ベストを尽くすことに対して誰も文句を言う者はいないんだもの。(中略) がむしゃらなファイトというのはベストのことなんだ。がむしゃらというと言葉が下等になるけれども,結局,右顧左眄するなということですよ。右を見たり左を見たりしていると,躊躇という心が出てくる。(p163)
 靴ひとつ磨いたからとて,桶ひとつ洗ったからとて,自分のしてる仕事に対しては自分自身が尊敬を払わなきゃ。ところが現代人は非常に重要なポストを与えられて,普通の人よりもはるか上回った仕事をさせられると非常に尊さを感じられるけれど,たとえば課長級の人に,「おい,ちょっとおまえ,きょう受付しろ」とか言ったらしやしませんよ。「ばかにしやがって,おれは課長じゃないか」と。(p166)
 石橋を金で叩いてるような,薄い氷の上をおっかなびっくり渡っているような人生を生きてたら,そのままあなた方の人生は萎縮しちまうぜ。空気の抜けた風船みたいになっちゃう,どんなに学問しようが,どんなに経験積もうが。 結局,当たって砕けろです。無茶な考えであるかもしれないけれども,ベストを尽くして行きさえすれば当たっても,向こうのほうが砕けちまう。(p169)
 がむしゃらという言葉を考えてごらん。「がむ」とは我を無くしちまえということ。感情や感覚が我なんですから,これを捨てちまうのが,がむしゃらです。(p173)
 大抵の者は我慢しきれなくなっちまうんですよ。追い詰められたとき,生きる道を見出す時間が待ちきれなくなって,大抵は自分の命を落としてしまうようなばかげたことをやっちまうんです。忍耐力というものは,結局,胆力と相対比例していますから。(p184)
● 天風会の心身統一法は体系だった修法がある(と思う)んだけど,中心になるのは「観念要素の更改」だと思う。心を積極化する方法。
 寝入りばな,鏡に映った自分に,おまえは信念強い,とつぶやく。これを子供だましだと受けとめる人もいるだろう。
 しかし,天風会に限らず,このやり方しかないのじゃないか。斎藤一人さんの場合は,言葉が大事だよという(天風さんも言葉は重要視する)。強気になりたければ,「強気,強気,・・・・・・」と言ってればいい,3ヶ月も経てばすっかり強気になっている,と。
 つまり,言葉によって「観念要素の更改」を行おうというわけだ。しかし,これまた子供だましじゃないかと感じる向きもあるだろう。

● ところで。天風さんと斎藤一人さんの違いのひとつは,食に関する見解だ。天風さんは肉食を戒めるのに対して,斎藤さんは肉も食べなきゃダメだよと言ってるからね。
 草食動物に共通な特徴は臆病なこと。驚くだけでショック死する動物だっている。人間も同じ。肉しか食べないというのはいけないけれども,酸っぱいものと一緒に食べればいいよ,と。
 動物性のタンパク質は,医者の言うとおり消化しやすい。消化しやすいけれど,消化する際に副産物として尿酸という酸が生じる。こいつがおっかないんですよ。(p265)
 肉を食う者だけに限って存在する痛風という病がありますわ。(中略)それから水虫。これなんかも肉食をしている者には多いんだ。そして病に罹っても治りが遅い。その上,とかく難病に冒されやすい。(p267)
 本当に人間らしい活動を完全にしたいと思う者は,肉食を控えなさいよ。断然するなと言いたいけれど,これ,あなた方の現在の文化生活ではできないことだから,まず比率を三割にする。(p279)
 経済の問題からいくてえと,動物性のものを食ってるほうが安上がりなんです。この節,果物なんていうのはびっくりするほど高いもんね。けれど,最後の締めくくりで考えてごらん。安いなと思って食ってるもので病気したら,高いものになるね。普段ある程度の金払って食ってるもので病気しなかったら,そのほうが安かねえか。(p290)
● 天風会の会員累計はかなりの数になるのじゃなかろうか。斎藤一人さんの本の読者も相当な数に昇ると思う。
 が,天風会の会員で,天風さんの高みにまでは行かずとも,心を積極化できた,それ以前とは違う自分になれた人って,ひょっとしたら皆無に近いのではあるまいか。「一人さん仲間」も同じだろうと愚察する。
 天風会があろうとあるまいと,中村天風は最初から中村天風であって,その因って立つ由縁は「観念要素の更改」では説明できないのではないか。

● しかし,天風さんはこうも言っている。
 あなた方の一番いけないところは,自分でこしらえた一つの見えない偶像をあまりにも崇拝しすぎることですよ。人が偉いというと,自分が近寄れないほどとびきり偉いように思ってしまう。やれキリストが偉い,釈迦が偉い,マホメットが偉い,孔子が偉い,イプセンが偉い,ソクラテスが偉いって,見たこともないくせしやがって,何かとんでもなく偉いもののように考えて,自分なんか寄りつけないように思っている。だから,いつまでたってもあなた方は下積みでもって,憐れな惨憺たる人生に生きるのだ。(p124)
 私とあなた方と大した差はありゃしないぜ。ただ,ここに立っているか,そっちに座っているかだけなの。裸にしてみろ,私だってへそは一つだ,二つあるわけじゃねえんだ。(中略)だから,及びもつかない,そばにも近寄れないほど偉いなんて思いなさんなよ。(p124)