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2020年7月18日土曜日

2020.07.18 外山滋比古 『忘れる力 思考への知の条件』

書名 忘れる力 思考への知の条件
著者 外山滋比古
発行所 さくら舎
発行年月日 2015.11.13
価格(税別) 1,400円

● 忘れることの重要性を説く。学校秀才が大成しないのも,忘れることが下手だからだよ,と。
 ところで,この本,前にも読んだことがあるかもしれない。読了してなお,はっきりとは思いだせない。ということで,ぼくの忘却力に問題はない。

● 以下に転載。
 まず覚えて,そのあと忘れる,という順であるように思われているが,本当は逆なのではないかと考える。(中略)たとえていえば,ものを食べるようなものである。一般に,まず食べて,それから消化,そして排泄すると思われているが,実際は,まず消化によって胃の中を空っぽにしておく必要がある。(中略)「忘却先行」が正常なのである。それを知らずに記憶をどんどん増やせば,頭は記憶過多になる。知的メタボリック・シンドロームである。(p8)
 新しい知識はおとなしくしていないで暴れることがある。いったん鎮めるのが賢明である。(p16)
 忘れようとしなくても,自動的に忘れるようになっているのは,それだけ重大な作用だからである。呼吸とか心臓の脈拍も自動的だが,これは生命にかかわる最重要な作用だからである。(p19)
 一心不乱に勉強すれば,優等生にはなれても,人間としての力をもっていない。(p26)
 よく学ぶには,よく遊ばなくてはいけない。学びをよくするには,よく遊ぶ必要があるという含みがある。(p29)
 記憶だけではよい記憶にならない。遊んでいるあいだの忘却によって,記憶の一部が欠落する。つまり忘れるのである。この忘却を経由した知識が,その人間にとって,力をもった知識となる。(p31)
 知識の漁が少ないあいだは,知識は多ければ多いほどよろしいと考えられる。ところが,知識情報が多くなりすぎる情報化社会になると,(中略)ゴミのような知識を排出することが,重要な精神活動になるのである。(p38)
 すべてのニュースは,時がたつにつれて新しさが消えて,変質する。さらに,十年,二十年もすると,ほとんどのニューーすは消えて,わずかなもののみが,歴史となる。歴史になった出来事は,しばしば,信じられないように変容しているはずである。(中略)歴史は,風化による創造である。(p47)
 思い出は,記憶の力によってできるのではない。忘却が記憶を食い荒らしてつくるものである。(p64)
 さっき歩いてきたところの題材を,そそくさとまとめて句にしたようなものが,おもしろいわけがない。あまりにも新鮮すぎる。(中略)生のものはそのままでは詩になりにくく,回想されたものが心を動かす表現になる。(p70)
 忘却を嫌い,おそれるのは,時の流れを否定するようなもので,自然の大理に反することである。(p76)
 忘れ方が下手になると,忙しくもないのに多忙なように勘違いして,小さなことにこだわるのを知的であるように誤解する。(中略)うまく忘れることができるようになるためには,生活が多忙でないといけない。毎日が日曜日といった生活では,忘れることができないから,ボケという“悪玉忘却”があらわれる。(p86)
 いくら細かいことを書きならべてみても,日記では人生は変わらない。(p97)
 日本人はユニークであったといってよい。耳より目を大切にする。談話より文章の記録をありがたがる傾向が強いのは,漢字という視覚中心の文字に生きてきた長い歴史が深くかかわっている。(p116)
 散歩は体のためによいだけではなく,精神的効果もある,ということに気づくのには時間がかかるようで,いまだに周知とはなっていないように思われる。(p133)
 ひとりで学問をするのでは,談論風発もないから小さく固まってしまうが,いろいろな人と付き合っている学者には飛躍がある。勉強はひとりでするもの。そう思って若い人は,本ばかり読む。その努力は立派であるが,そのわりには伸びない。(p146)
 われを忘れることによって,新しい自己があらわれる。そうとわかっていても,ひとりでは,自己忘却は不可能に近い。(p147)
 浪人はおもしろくないが,その経験のある人は,秀才で,受ける試験にすべて合格したというような人にはない人間力をもっていることが多い。(p157)

2019年7月15日月曜日

2019.07.15 外山滋比古 『お金の整理学』

書名 お金の整理学
著者 外山滋比古
発行所 小学館新書
発行年月日 2018.12.05
価格(税別) 780円

● お金の稼ぎ方,貯め方,使い方,が整理されているわけではない。定年後の年寄にとってのお金の価値といつたところが論じられている。
 が,著者が確信をもって書いているのは,末尾の2章。株の話だ。

● 以下にくつか転載。
 とりわけ問題なのは,日本のサラリーマンの多くが,自分たちのことをむしろ〈アリ〉だと思って生きてきたことだろう。(中略)日本人の多くは,「定年後」という冬の時代の厳しさを真面目に考えず,なんとなく働き続ける〈キリギリス〉になってしまっていたのではないだろうか。(p13)
 節約と貯金に熱心になり,財産に余裕があれば子供に相続させるという考え方では,世の中にお金は回らない。家族のことばかり考える個人主義的な思考である。それでいて,困ると社会保障に寄りかかろうというのでは,矛盾している。(p45)
 退屈な社会はリスクの高い社会だ。(p47)
 人間らしい生き方をするために,リスクを伴う選択は必要だ。定年退職をしたら,あとは安全運転で余生を過ごす--そんな思考では,長い人生は面白くならない。(p59)
 人生の第一部はなるべく早く終わらせて,次のステージへ移行する。(中略)国が定年を延ばしたからといって,ダラダラと第一部を続ける必要はない。(p82)
 同じ清掃作業をするにも,大企業のビルのなかを清掃するよりも,小さなお寺の敷地を掃除するほうがいい。お墓参りに来た人に感謝されたりする。(p87)
 趣味で嗜んでいる程度の知識や実力で,お金がもらえるはずはない,と決めつけるのは早計である。どんな趣味でも,自分より後に始めた「初心者」はいるものだ。(p95)
 定年後が退屈になる原因の一つは,「失敗」する機会がないことだ。(中略)新しい仕事を始めていると,そうはいかない。緊張する。(p103)
 意外に思われるかもしれないが,一人きりで実験室に籠ってビーカーを動かしていても,なかなか発明にはたどり着かない。一人で座禅を組んで悟りを開くなんて,常人ができることではない。どの分野であっても,独学には限界がある。むしろ,クラブ的思考に基づき,皆で酒を飲んだり,ものを食べたりしながら勝手なことを言い合っているほうが,新たな気づきへの近道になる。(p111)
 (株投資で)損をして刺激を受ければ,気持ちは若返るだろう。自分がこの世に存在している自覚が生まれる。(p136)

2019年7月13日土曜日

2019.07.13 外山滋比古 『「長生き」に負けない生き方』

書名 「長生き」に負けない生き方
著者 外山滋比古
発行所 講談社+α文庫
発行年月日 2016.07.20
価格(税別) 540円

● 老年期の生き方を説いた実用本ではなくて(そういうものとしても読めるが),短い随筆を束ねたものと受け取った方がいいと思う。
 対決姿勢で読んではいけない。同意しかねるところはあるかもしれないが,その場合であっても著者と対決してはいけない。

● 以下に転載。
 とにかく,みじめでない,生き生きした年寄りになりたかったら,まず,この,“自ら助くるもの”でなくてはいけない。自分のことはなるべく自分でする。人の手を借りない。(p6)
 いつまでも,死ぬことは考えず,明日ありと思って生きる。それには仕事をするに限る。なければつくる。(p19)
 すこしなら,酒もタバコも,外はすくなく,ときとして活力を生む効果がある。いけないのは度をこすこと。適度なら,害は,その効用によって帳消しになる。人間はそうできているように思われる。(p34)
 時間と競争すると,おのずから緊張する。(p55)
 友人は食べものではないが,やはり賞味期限がある。(p64)
 はじめから,いついつに死ぬとわかっていたら,人生というものはそもそも存在しないであろう。(p74)
 ぜいたくが世のため,人のためだけではなく,自分にとってもいいことであるとわかったのも発見である。(中略)そうは言っても,ぜいたくは節約より難しいようである。(p79)
 難局に当たっては怒るに限る。(p92)
 風邪をひいて休養したがために,大事に至らなかったことが,思い返しても,何度もあるような気がした。(p157)
 つけた日記は一度だって読み返さない。(中略)となると,古い日記が場ふさぎで,じゃまになる。が,といってゴミに出すわけにはいかないから,始末が悪い。(p169)
 (菊池寛は)「学問的背景のあるバカほど始末の悪いものはない」といった意味のことばを残しているが,やはり生活の達人でなくては思いもおよばない。生活を文学にした内田百閒が,「なんでも知っているバカがいる」と言ったのもおもしろい。(p176)
 いったん実務の世界へ足をふみ入れた人間には,あてどもなく,本を読んで,知識を増やし,それを利用したレポート的論文を書くのは耐えられなく退屈だった。(p178)
 忘れる力のつよいのは人生の勝者である。(p199)
 叱られると寿命が縮み,ホメられると,寿命がのびる,というのは昔からどれくらいおこっていたかしれないのである。(p210)
 友を選ぶのに,切磋琢磨の相手を求めるのはごく若いうちのこと。一人前の人間になったらケチをつけるような人間は一人でもすくないほうがいい。(p213)

2018年10月8日月曜日

2018.10.08 外山滋比古・前田英樹・今福龍太・茂木健一郎・本川達雄・小林康夫・鷲田清一 『何のために「学ぶ」のか 中学生からの大学講義Ⅰ』

書名 何のために「学ぶ」のか 中学生からの大学講義Ⅰ
著者 外山滋比古
   前田英樹
   今福龍太
   茂木健一郎
   本川達雄
   小林康夫
   鷲田清一
発行所 ちくまプリマー新書
発行年月日 2015.01.10
価格(税別) 820円

● 中学生に向けた学び方,生き方指南。自分が中学生の頃,これがあったとして,果たして読み解くことができたろうか。
 特に,最後の鷲田清一さんの話は,折にふれて何度も読み返すべきものだと思った。簡単に“わかる”ことの危険を説く。

● 以下に多すぎる転載。鷲田清一さんからの転載が多い。
 日本では一九世紀からつい最近まで,満点のほうが七〇点や六〇点よりいいと,学校も世の中も考えていた。その結果,いつしか社会は活力を失ってしまった。(外山 p11)
 いったい,「満点をとる」とはどういうことだろう? 私に言わせれば,それは「頭が機械的に優秀である」ということだ。(外山 p12)
 知識が増えると,どうしてもその知識をそのまま使用して物事を処理しようとしがちになる。自分自身で考えることが,ついついおっくうになりがちだ。(外山 p15)
 人間は非常に保守的な生き物だ。いったん始めたことはなかなか変えない。(外山 p18)
 勉強は体を動かすことと組み合わせないといけない。(中略)体をうごかして集中力を高める必要がある。(中略)文武両道でなければダメなのである。(外山 p31)
 人間が自分の頭で考えるようになるためには何が必要か。(中略)不幸とか,貧困とか,失敗とか,そういう辛い境遇から逃げないことだ。困難な状況の中にいないと,頭は必死になって考えることをしない。(外山 p34)
 文章にかけて,百閒の右に出るものはない。ドイツ文学を専攻し,ドイツ語の先生をしていたのに,百閒の文章には外国語のにおいがまったくないのにおどろく。(外山 p38)
 対象への愛情がないところに学問というものは育たないと私は思う。(前田 p55)
 君たちが教員から学ぶべきなのは専門知識ではなく,彼らがものを考えるときの身ぶりや型なのだ。そこにその人のほんとうの力が現れている。(前田 p58)
 自分を発見すること。世界と出会うこと。この二つは表裏一体の出来事だ。世界と出会うことによって改めて自分を発見しなおす,と言ってもよい。(今福 p67)
 「わかりやすいこと」は,すでにある,誰もが知っている情報のパッケージとして組み立てられているから「わかりやすい」のだ。(中略)だから新しいものには,はじめ必ずわかりにくさがつきまとう。「わからない」のは,ネガティブでつまらないことではなく,ポジティブでおもしろい未知がかくれているということなのだ。(今福 p84)
 「頭がいい」とはどういうことか。それは「努力の仕方を知っている」ことだ。(中略)勉強というのは情熱を注ぎ込めばすごいところまで行ける。(茂木 p105)
 脳をうまく使うには,ドーパミンをよく出してあげることが必要だ。それでこのドーパミンは,少し自分には無理かな,と思うくらいのことに挑戦して,それをクリアできたときに,いちばんよく出る。(茂木 p108)
 いつも他人と比較して劣等感を抱いていると,そのことをだんだん見ようとしなくなる。避けるようになる。(茂木 p113)
 余計なことを省略して,やるとなったら一秒後から実質に入る。(中略)「九時になったら勉強しよう」「あと三〇分ゲームをやったら勉強しよう」-そんな「自分への花束贈呈」みたいな儀式は即刻中止して,思い立ったらすぐ机に向かおう。(茂木 p117)
 一生,勉強し続けなければ,先はないと思ったほうがいい。もちろん,がんばって志望校に合格することは大切だ。でも,それがゴールだとはくれぐれも思わないでほしい。クリアすべき第一関門でしかない。だから逆にいえば,その程度のことはとりあえずクリアしてほしい。(茂木 p121)
 感覚を研ぎ澄まし,いわば野生動物のように,あの本,この本と渡り歩くようでないといけない。だから,「どんな本がオススメですか」と他人に聞く癖がある人は,ぜひともそういうことはやめて,自分自身の原始感覚を磨くようにして欲しいと思う。(茂木 p125)
 七〇年生きるゾウも,二年くらいで死ぬハツカネズミも,心臓の打つ回数は一五億回,呼吸の回数も三億回で同じ。同じことを二年で凝縮してやるか,七〇年かけるかで生き方はだいぶ違うはずだ。(本川 p139)
 子どもは私である,孫は私である。そう考えると,子どもを産める条件を備えていながら子どもをつくらないという選択は,生物学的には自殺に当たる。生物としての基本は次世代の私をつくること。それがすなわち大人になるということだ。ところが,最近はみんな大人にならない,なりたがらない。(本川 p145)
 実は新発見というものは,発見者が一五~一六歳の頃からその種を自分の中に宿していることが多い。(中略)これは分野によらない。このことが端的に示しているのは,世界を変えるのは知識ではなく「若い力」だということだ。若い力とは「知らない」力であり,「知っている」ということよりも「知らない」ということのほうが重要なのである。(中略)新発見は,それまでの常識からすればエラー,あるいはアクシデントと呼ばれる事態の中でなされることが多い。(小林 p163)
 数学の勉強が嫌いなら,どこが好きでどこが嫌いなのかを考えてみてほしい。考えることが,単なる好きや嫌いの感覚から距離を置くことを教えてくれるから。それが学ぶことの第一歩。(小林 p165)
 学ぶためのもう一つのポイントは,全体を見ること。それと同時にどこか一点を見なければならない。全体だけを見ていても絶対に自分のものにはならない。(中略)これは思考の基本でもある。人間がものを考えるとき,公理から出発することはありえない。全体のコンテクストをぼんやりと視野に入れながら,その中で手がかりを見つけて,考えを進める。(小林 p165)
 人間は,決して完成しない存在なのだ。しかし,それでも完成してしまったらどうすべきだろう。実は,完成は壊さなくてはならない。(小林 p167)
 高校生たちは「何もかも見えちゃってる」などと言っている。だから元気が出るはずないよ,という顔をする。(中略)が,「見えちゃってる」のはいいことしか見ていないからだ。(鷲田 p180)
 ほんとうにつらいときの人間は,ただ生きていること,それすらできない。つまり,人間はただ生きるだけのためにも,自分がここにいる理由が欲しい。(鷲田 p182)
 一つだけてっとりばやい逃げ道がある。それは恋愛だ。恋愛は相手から,自分の存在の理由を与えてもらえる。(中略)こんなに楽な状態はない。(鷲田 p183)
 近代社会は「生まれ」,つまり階層,地域,言葉,性別,といった本人が選びようのない条件はすべて無視しようという考えを基本に成り立っている。(中略)その代わりあとは自分で選びなさい,と放り出される社会だ。そうするとどうなるか。今ある自分は自らが選択した結果なのだからすべて自分の責任だ,ということになる。(鷲田 p186)
 そんな大きい責任を課せられている今の時代であるにもかかわらず,若い人に限らず,すべての世代が,どんどん無力になっていると私は感じている。大げさな言い方だと思うかもしれないが,では,この中にお産のときに赤ちゃんを取り上げることができる人はいるだろうか。(中略)昔は,こういったことは女性であれば全部できたのだ。(中略)人にものを教えることも,うまくできなくなっている。教育は学校の責任になった。(中略)最低なのは,隣近所とのもめ事が起こったとき,それを解決する能力すらない。すぐに役所に電話したり,何かというと弁護士に頼んだりする。(鷲田 p187)
 近代社会は,全員が責任を持った「一」である市民社会をつくろうとしていたはずなのに,結局私たちは「市民」ではなく「顧客」になってしまった。(鷲田 p190)
 最近カウンセラーたちが,「トラウマ」や「アダルトチルドレン」「うつ」などといった言葉を使う。これらは本来慎重に扱うべき言葉なのだが,安易に使われている。人生は,そのようなひと言で言い当てられるほとシンプルではないはずだ。(鷲田 p191)
 「あなたはうつ的な状態です」と診断しても,今の患者さんは受け入れず,「違います。私はうつ病なんです」と,言い張るそうだ。つまり病気にしてもらわないと困る,というわけだ。理由は簡単だ。病気であれば,「私のせいではない」からだ。(中略)ふさぎやしんどいことには,自分で真正面から格闘しなければどうしようもない。(中略)これは単に逃げているだけ。一番してはいけないことだ。そういう思考回路に陥ると,次第にものの考え方が短絡的になっていってしまうのだ。(鷲田 p191)
 だから,私たちは「ちっとは賢く」ならなければいけない。「賢い」というのはつまり「簡単な思考法に逃げない」ということだ。物事の理由は簡単にはわからない。それを知り,受け入れようとすることが賢くなる第一歩なのだ。(鷲田 p192)
 例えばここに一枚の絵がある。素人は,ここのピンク色は隣とのバランスで黄緑色にしてもいいんじゃないか,などと偉そうなことを言うかもしれない。しかし描いた側にとって,すべての色は必然なのだ。そのピンク色を黄緑色にすれば,絵全体がだいなしになる。ただ,その理由は,画家には説明できない。しかし必然だということだけはわかる。(鷲田 p193)
 政治,ケア,表現活動といった人生に非常にたいせつな局面ではほんとうに必要とされるのは,一つの正解を求めることではなく,あるいは正解などそもそも存在しないところで最善の方法で対処する,という思考法や判断力なのだ。(鷲田 p194)
 世の中には問いと答えが一対一の問題は,めったにない。「光は波動であるか粒子であるか」という大論争があったが,これは正解が二つある例だ。(中略)無力な状態から脱し,自分の問題を自分で考えて,責任を負うことができるようになるために,私たちは,「一つの問いに一つの答えがある」という考え方をやめなければならない。物事は,こちらからはこう見えるが,後ろから見ればこんなふうだ,といろいろな補助線を引きながら考えよう。(鷲田 p195)
 投げ出さずに考え続ける,いわば知的な肺活量も持ってほしい。理解はあるとき一瞬でできることでは決してなく,じっと考え続けて到達できるものだ。(鷲田 p197)
 自分の持っている狭い枠組みの中で無理やり解釈して,わかった気になっても何も解決しないし,とても危ない。必要なのは,わからないことでもこれは大事,としっかり自分で受けとめて,わからないままにずっと持ち続けることなのだ。(鷲田 p199)
 この世界を見るわたしたちの視野というのはけっして広くありません。いつもここから,自分の立っている場所からしか,見られないという限界がまずあります。次に,自分が習ってきた知識や習慣の枠の中でしか見られないという限界があります。加えてさらに,自分がなじんでいる言語のなかでしか考えられないという限界もあります。(鷲田 p200)
 世界の襞を広げるとは,すでに知っている知識を量的に拡大するということなく,これまでそんなものがあることさえ知らなかったものの見方,問い方にふれるということです。(鷲田 p200)

2018年2月21日水曜日

2018.02.21 外山滋比古 『考えるとはどういうことか』

書名 考えるとはどういうことか
著者 外山滋比古
発行所 集英社インターナショナル
発行年月日 2012.01.31
価格(税別) 1,000円

● 本書に述べられているのは,すでに著者が別の著書で語っていることではある。
 知識と思考は排斥しあうところがある。教育は知識を詰めこむものだから,思考力を阻害する側面があることに注意せよ。憶えること以上に忘れることが重要だ。
 要約すれば,そういうことが述べられている。

● 以下に転載。
 知識がふえればふえるほど思考は弱体化し,知識の乏しいものは,思考力をつよく発揮できる。(中略)不用意に知識をふやしていけば,知識メタボリック症候群の病状を呈するおそれもあります。これまでの知識万能思想はそのことを故意に見落としていたのです。ふえすぎた知識は捨てなくてはならない。(p6)
 よく忘れ,よく考えるのが,これからの頭です。余計なもののない,整理された頭を自由に働かせるのが,思考です。(p8)
 知識は基本的に過去のものですから,情報としては半ば死んでいます。したがって,いくら多くの知識を集めてみても,そこから新しいものを生み出すのは難しい。(p37)
 知識だけに頼って経験を軽んじているからでしょう。別のいい方をすると,生活をバカにしています。(p37)
 一般企業で学校で学んだ知識が求められる仕事はそう多くありません。ほとんどの仕事は,経験や生活力が物をいいます。それを無視した学校教育の優等生に,いきなり仕事で結果を出すことを期待するほうが間違っているのです。(p41)
 知識はうまく使えば大きな力になりますが,その使い方を身につける上でも生活による経験が必要です。生活から遠く離れたところでまとめた知識は,いくらたくさんあってもあまり価値がありません。(p42)
 昔の社会は「経験人間」が大多数でした。「知識派」は少数派だったからこそエリートとしての価値があったのです。(p43)
 創造的な思考とは,無から有を生み出すものではなく,新しいものを考え出すには,何らかのタネが必要です。もちろん知識もタネにはなりますが,これは多くに人々が共有しているので,それだけでは独創的なアイデアにはなりません。そこに自分ならではの経験というタネを加えることで,オリジナルな化合物としての思考が生まれます。(p55)
 日本人は,良くいえば謙虚,悪くいえば自虐的なところがあって,身近なものをみなダメだと考えがちです。(中略)日本人自身が欠点だと思い込んでいる物事の中に,実は高い価値をもっているものがあります。(p84)
 連句や俳句のような詩だけでなく,ふつうの散文の場合も,論理だけで構成すると平面的で退屈なものになりがちです。起伏のある表現で読者の興味を惹きつけるには,いくらか論理が飛躍したとしても,飛躍の空白を作ったほうがいいのです。(p97)
 言語と論理は,きわめて深い関係にあります。言語が違えば論理が変わり,論理が違えば言語が変わる。これは切り離すことができません。同じ日本でも関東と関西せは言葉が違い,したがって論理も異なります。(p104)
 富永仲基は合理主義の立場から儒教・仏教・神道を批判したことで知られていますが,その批判も加上の説に基づくものでした。簡単にいうと,加上の説とは,ある話が時間をかけて人づてに伝わっていくうちに雪だるまのように大きくなっていき,元の話は大きく変わってしまうというものです。あまり広くは知られていない学者ですが,この理論をひとりで考え出したのは実に天才的だといえるでしょう。(p109)
 一般に文章の区切りがはっきりしないため,日本語の文章は長ければ長いほど論理構成が不明確になりがちです。(中略)しかもその理論は,ヨーロッパの言語のように線でつながるものではありません。日本人は点を並べるように論理を構成します。(p115)
 最初から最後まで線でつなぐ論理では,書かれていることが表現のすべてです。しかし与えられた点を線に仕立てるだけの読解力を読み手が持っていれば,こうした奥深い論理が可能になる。日本人は,これが得意です。逆に,きっちりと引かれた線ですと,日本人は退屈な気分になってしまいます。(p116)
 日本人は大事なことを先に言いません。「後方重点」の論理を持っています。これが,「前方重点」の欧米人とのコミュニケーション・ギャップを生む最大の要因といってもいいでしょう。(p121)
 昔は火口がひとつだったから,仕上げの時間を合わせるのは,一般家庭などでは困難でしたが,いまはガステーブルに火口がいくつもある。(中略)それだけことは複雑になってきましたが,頭にものをいわせることが容易になりました。つまり,かつてより料理は面白くなっています。(p126)
 食べるほうではグルメが現れて文化的にも向上しましたが,作る側の二次的創造に心を向ける人が少ないのは,食文化の未熟さを表すものでしょう。(p127)
 文化的なモノを作る喜びを感じれば,衣服を作るのは単純労働にない創造的欲求を満たす点で,本などをワケもなく読んでいるのに較べて,ずっと手ごたえがあったでしょう。(p130)
 話すのと書くのでは,鮮度が違います。生きが違うのです。話を軽んじるのは間違いです。近代文化は声を失っていて,そのために文化全体が大きく歪んでいるように思います。(p156)

2018年2月17日土曜日

2018.02.17 外山滋比古 『ものの見方 思考の実技』

書名 ものの見方 思考の実技
著者 外山滋比古
編者 栗原 裕
発行所 PHP
発行年月日 2010.09.01
価格(税別) 1,000円

● 外山さんのこれまでの著書の中から代表的な論考を集めたもの。外山さんの考えの概要を知りたかったら,本書を読めばいい。
 が,小さな本であるにもかかわらず,読み通すのにけっこうな日数を要してしまった。平明な文章で決して読みづらくはないんだけども,目下のぼくの頭の具合では,ま,やむを得ないかな。

● 若い人なら,勉強論,学習の方法論としても読むことができるだろう。なるほどこうすればいいのか,と示唆を受けるところも多いのではないか。
 年寄りにとっては,こうすればよかったのかという遅すぎるかもしれない発見に満ちている。

● 以下に,多すぎるかもしれない転載。
 眼の走る方向に交叉する線が多ければ多いほど,文字を読みとるのに要するエネルギーは少なくてすむ。(p14)
 俳句は横組みを嫌う。逆に,横組みの日本語の中からは,おそらく俳句のような詩は生れないであろう。(p17)
 印刷文化は“読者”を生み出した。つまり,かならずしも書き手を個人的に知っているとは限らない人間に印刷物を読ませるのである。当然,野暮な人間がいる。(p28)
 日本的表現法の特色のひとつは,相手を尊重する心である。そのためあえて曖昧な表現様式をとって,相手に下駄をあずけるのが好まれたりする。何から何まではっきり言ったのでは,はしたない,含みの乏しい表現になる。(p29)
 どうして翻訳の多くが悪文になるのか。それを考えているうちに,文順墨守がいけないのだと思うようになった。つまり,原文のセンテンスの並んでいる順序をバカ正直に守って,それを“原文忠実”なりとする考えに責任がある。(p39)
 絶えずものを読んでいる人は,いつか音読から黙読へと移って行くと想像される一方,たとえ理解力に秀れていても,読むことに馴れていなければ,音読によらなければ読めない。(p43)
 イギリスの中世において,本が読まれるのは,音読であり,朗読であり,ときには,職業的読書技術ををもった吟遊詩人の「演技」ですらあった。そこにはつねに聞き手が予想されている。声を出して読まれるのは,読者ひとりのためでなくて,小コミュニティのためであった。(p43)
 人が共同社会に属しながら,その共同社会の中に生れた表現を読むときには,音読ということが必然であった。人々の群から独りはなれて,自分のためにのみ読むという意図を読者が抱くようになったとのときから,リーディングの性格は変る。(p44)
 たいていの黙読に際して,われわれは声こそ出さないが,声の出る一歩手前の声帯の小さな運動を行っているらしく,それを心声と感ずるもののようである。黙読でも長時間本を読むと,声帯が疲れてくる。今日のいわゆる黙読も音から完全に絶縁した読み方ではないことは認めてよい。(p47)
 その詩歌でも,声を出さずに読まれることが次第に普通になりつつある。それが現代詩の性格を関係するように思われる。(p49)
 ただ対象のありのままを自然に写した写真を芸術とは言わず,そういう写真を撮ることを創作活動とは言わないのに対して,画家が風景を絵にするのは創作であり,絵は芸術になるのである。かりに,正常な「読む」活動が,この比喩における画家の活動に通ずるものであるとすれば,読書もまたクリエイティブな機能をもつと言ってもよいはずである。「読む」と言うと,とかく,受動一方のように考えるのは正しくない。(中略)解釈の加わる積極的な精神の活動だからである。(p61)
 われわれ自身が昔に立ち返ることができない限り,歴史的過去はつねに距離をもった対象である。それを完全に理解することは不可能である。どうしても,そこへわれわれ自身の考え方を補充することが必要になる。その補充が,実は,しらずしらずのうちに行われているアナクロニズムになるのである。(p69)
 身近なものは,われわれにとって鮮明である。強い印象を与える。よくわかりそうなものであるが,その強い印象に圧迫,圧倒されて,かえって,よい理解にはならないことが多い。(中略)ものごとはある程度,時が経ち,古くなってはじめておもしろく感じられるもののようである。(p70)
 もの自体の美しさとは別に,それを見る人との間の関係が生む美のあることに注意しなくてはならない。(中略)はるけきものをあこがれる心--これがロマンティシズムの中核的特質であることは,いまことあたらしく言うまでもないが,これは,距離の美を求めていることにほかならない。(p74)
 絶対にして普遍的な美は少ないと見なければならない。美は多く見者の感情移入によって支えられているのである。(p78)
 文化的概念が科学的概念と根本的に違うのは,科学上の概念は,時間と空間の中を移動し得るのに対して,文化や文化的概念は移動し得ないという点である。(p80)
 シェイクスピアの戯曲は今日の基準からすれば剽窃的要素をかなりふくんでいるけれども,彼の天才はそういうことではすこしも損なわれることがない。借り物を自家薬籠中のものとして絶妙なとり合わせにもっていったところに天才の天才たるところがあった。こういう作者はいわば編集者的であるといってよい。(p87)
 一般に,ひろく人々の心を惹く表現のおもしろさにはエディターシップによることろがすくなくないように思われる。ものごとは単独に存在するのではなく,ほかのものと並べられて,あるいは,より大きな全体へ入れられたときの,とり合わせの妙からおもしろさが感じられるのである。(p88)
 明治以来のわが国の文化,思想がなんとなく生気に乏しく,創造性に欠けるのは,エディターシップがながい間,文筆志望の青年の腰掛け仕事みたいに考えられてきたことと無関係ではなかろう。(p93)
 新しいものを認識する。これは,新しいものごとが独立して頭に入るのではない。既存のものと関係づけられて,はじめて認識になるのである。(中略)創造も精神のエディターシップによって可能になる。自然,事件,情緒などがなまのままに表出されても芸術的創造にはならないのである。(p94)
 エディターシップはニュートラルである。ことさら創造的であろうとするのは本ものではない。ただ,触媒に徹することにおいておのずから創造的になるのである。(p96)
 オーサーシップ(執筆)の絶対性からいえば,推敲はともかく,添削や編集が作品,表現に改修を加えるのは許しがたいことのように考えられるであろうが,実際には,そいういう改変がよい結果を生んでいることがすくなくない。(中略)作者だけにしかわからないようなものは,伝達を目的とする言語表現の資格を放棄しているとすらいえる。(p98)
 人間的記憶には,その裏の亡失が不可欠である。忘れることが不活発になると,新しいものを吸収する能力も低下するのである。(p104)
 歴史的事実そのものは太古から存在するが,歴史に対する意識は近世の産物である。この二者の区別ははっきりしておく必要がある。(p120)
 自己中心的な考え方は,近世のヨーロッパに限らず,どこの社会にも見られる人間にとって基本的認識態度である。(p121)
 ルネッサンスがギリシア,ローマの古典的世界の復古思想によっておこったことはよく知られているが,一方では,当時,毎年のように,新しい国土がつぎつぎ発見されて,たえず地図が書きかえられなくてはならなかったということも忘れてはならない。歴史的展開とともに空間の地理的発見があったことが,ルネッサンス人のわき立つような想像力の一つの秘密であった。(p125)
 異質な文化を混ぜ合わせると,公約数的なものに収斂されるから,元来具わっていた個性的ニュアンスが削りとられて,原始的単純へ向かう。文化交流は,本質においては,一見,プリミティヴィズムと思われる簡素化の傾向を有している。(p128)
 姿,かっこうは変装することができても,言葉づかいを隠すことは難しい。しかし,現代人は案外こういうことに無頓着に生きているのではあるまいか。そうだとすれば,われわれがいつの間にか視覚人間になっているからで,根は文化の深部にあるということになる。(p134)
 声は地域的制限をもつのに対して,活字は自由にどこへでも広がって行く。それで活字文化は,地方性のプラスの面,伝統の破壊に手を貸すことになる一方,マイナスの面,固陋と閉鎖を開放するという両刃の剣となるのである。いずれにしても,社会の体制を大きくゆさぶらずにはすまないもので,活字文化と切り離した近代というものを考えることはできない。(p140)
 活字による個性的表現は,よほどの名文家でもない限り,肉声による味わいには及ばないのが普通である。(p141)
 われわれがもち合わせている既成の認識のパターンは人間関係,はっきり言うならば,ゴシップ的人間関係に大きく傾いているから,ゴシップ的表現ならおもしろがるが,すこし抽象的になればハナもひっかけない読者ばかり多くなる。(p144)
 目に見てからでないとわかったような気がしない視覚タイプの人間が多くなった。文章を読んでもそこからすぐ情景を心に描くのではなく,既往の体験,パターンをまず連想し,それをもとにして表現に向う,具体先行の認識である。小説や旅行記ならこれでもいいが,言論思想についても同じやり方でわかろうとする読者があるのは問題である。(p145)
 古来,すぐれたアイディアを散歩中に得たという例がはなはだ多い。ことにヨーロッパの学者には散歩型が多いように思われる。(中略)散歩が日常性からの離脱を意味しているのは注目してよかろう。(中略)問題は,やはり日常性の止揚である。(p159)
 知的環境としては,住めば都,はもっともまずい状態なのである。行きずりの旅人として見た場合には,おもしろい発見ができても,住みつくと,ものが見えなくなる。(p160)
 ここで注意しなくてはならないのは,トラヴェラーにとって,旅さきのことを,そこの土地の人と同じように知る必要はないという点である。むしろ,新しい土地が触発するものを楽しめばよい。(p161)
 いくら研鑽をつんでも初心を忘れず,何でもないことに日々おどろくような精神をもっていれば,語学はいつまでも創造的思考の母体たり得るであろうが,人情として,一日も早く安心立命の境に達したいと願う。その気持自体が不毛の道につながっている。(p163)
 発見や創造に心を砕いた人たちは申し合わせたように,アイディアが浮かんだらすぐ記録できるように小さな紙片を持ち歩いている。(p172)

2017年10月21日土曜日

2017.10.21 外山滋比古 『20歳からの人生の考え方』

書名 20歳からの人生の考え方
著者 外山滋比古
発行所 海竜社
発行年月日 2013.05.29
価格(税別) 1,300円

● 外山人気は今も持続しているようだ。90歳を超えてなお,出版ペースが落ちない。それ自体が人気の理由のひとつなのだろう。

● 20歳にここまで求めるのは酷のように思う。それは20歳の自分を顧みて感じることで,普通に優秀な人は,このあたりのことには気づいているのかもしれないけれど。

● 以下にいくつか転載。っていうか,少し多すぎるかもしれない。
 本に書いてあったことを自分の考え,知識のようにふりまわすのは趣味がよくない。いわゆる知識人に反感をもつことが,年とともに多くなった。知識,教養を疑うようになった。(中略)ものまねはやめよう。自分の責任で新しいことを考え出そう。(中略)たとえ間違っていても自分の頭で考えたことは独創である。人間は独創によってのみ進化する。模倣では変化を起こすことはできても,創造はできないのではないか(p9)
 弱は能く強を制す,というが,そうではない。強は勝手に自滅するのである。(p15)
 失敗をおそれては逆上がりだってできない。失敗先行である。成功先行を望むのは人情かもしれないが,それでは何もできない。(中略)マイナスがあってプラスが続く。そのマイナスが大きいほどプラスも大きくなる。(p18)
 いけないのは三代目である。個人の問題ではない。その役まわりになったのはむしろ犠牲であった。だれがなっても三代目では勝ち目が少ない。(p24)
 思考力は困ったとき,苦しいときに働くもののようである。何不足ない状況では思考はしばしば,眠っている。(p31)
 思考を育てるにはあまりよけいな本など読まないことである。ことに,すぐれた本は敬遠するほうが賢明である。いささか困った矛盾である。(p33)
 勉強家,博学多識の人は概して模倣的になりやすいのは是非もない。(p35)
 発憤というのは,この内燃化した我慢をもとに大きなことを動かす心的活動だと考えることができると思われる。発憤には,内圧の高まった我慢の蓄積がないといけないのだが,そのストレスは多く,不幸,苦難によって生ずる。(中略)不幸(?)にして,恵まれた環境に育つものは,苦難,困窮にあうことも少なく,したがって,発憤のチャンスも少ない。恵まれた育ち方をした人間の背負っているハンディキャップである。(p42)
 ある有名な女性の作家が,「描写が大切である。比喩に逃げるのはいけない」と述べていると聞いてひどく反発を覚えた。比喩に逃げるのではなく,描写できないものは比喩を援用して表現するほかはない。新しい考えを伝えるには比喩はもっとも有効な手法である。小説家は勝手な作り話をするしか能がない。未知,抽象などを相手にしないから比喩をバカにできる。(p50)
 十九世紀までの歴史家は,歴史は過去を再現できると信じた。いまなお,そう考える歴史家がいるようだが,時というものの存在をよく考えないための錯覚である。歴史は過去のあるがままを再現することはできない。(中略)歴史は過去の現実,事実をそのものを表しているのではなく,時によって生まれたものだからである。(p64)
 事実ということから言えば,歴史はウソを含んでいるが,ウソが入らないところからは歴史は生まれない。(p65)
 富士山の近くに住む人は,そして遠望の富士を見たことのない人は,そもそも,富士が美しいなどと感ずることもない。(中略)遠くからやって来た人は,地元の人の知らなかった価値を苦もなく見つけることができる(p68)
 ヨーロッパに“名著を読んだら著者に会うな”ということわざがある。(中略)読んで感銘を受けるのは,どこにいるかわからない人の書いた本だからである。(p69)
 カネを出すほうが,受け取るほうより強いのである。供給が需要に追いつかなかった長い間,人々は,この大原則に気づかなかった。供給過剰になって初めて消費者は選択肢が自分の側にあることに気づいて自覚・自立する。(p81)
 ことわざを読み解くのはへたな小説よりはるかにソフィスティケイション(洗練)のすすんだ思考を必要とする。(中略)正しい意味というのか,文字,文章ほどにはっきりしないことが多い。言い換えると誤解に寛大である。(p83)
 本の知識から新しい発見の生まれることは少ない。創造は多く生活の中にある。(p100)
 教育は小学校から大学まで,一貫して,目の勉強を強制する。知識は増えるけれども,自ら考える力は少しも伸びない。(中略)少し落ち着いたところで,そろそろ知力の枯渇を意識するようになったところで,あわてて耳で考える修行に入る。晩学は成り難し,と昔の人も言った。考えるのはものを知り,学ぶよりはるかに厄介である。(p101)
 傷のあるリンゴは甘い。それを知らないから傷のあるリンゴは安い。少し黒い斑点のできたバナナがうまい。しかし面くい消費者から見向きもされないから捨てられる。(p119)
 選ぶ人が賢くないと,選ばれる人も賢くなれないで,有権者のご機嫌をとるポピュリズムが流行する。弱者支援などと言って,バラマキを善政のように考える。心ある有権者はデモクラシーに懐疑的になるが,それを口にすることはタブーだから,口にするものは少ない。(p123)
 台所に立つようになってから,頭の働きがよくなったような気がする。それまで,浮世ばなれたことばかり考えていたのに,炊事をするようになって,足が地についたというか,具体的,実践的な考え方が,わずかだができるようになった。(p128)
 知識があれば,万事うまくいく,と思っていると,考えることの出番がなくなり,ひどいのになると,知識さえあれば考える必要はないと誤解するまでになる。(p140)
 少しくらい悪く言われても,考えを変えるほど意気地なしではない。(p154)
 あるとき,テキストを離れて,詩作について,ちょっと,おもしろそうな顔をされて,“かるたとり”方法という話をされた。ご自身(西脇順三郎),詩を創るときに試みられるものらしい。主題について頭に浮かぶことを,小さな紙片につぎつぎ書きとめる,ひとつひとつは短いフレーズである。出そろったら,しばらく風を入れる。寝させる。放っておく。そして,今度は,先の紙片を気の向くままに拾っていく。これが“かるたとり”である。全部拾ってしまったら,はじめから見直す。つながりがおもしろくないところは,前後の入れ替えをする。そしてまた分秒ながめる。これをくり返して,これでいい,となったら糊づけするなどして,順序が狂わないようにする。それが原型になる。それに基づいて詩を書いていくのだ,と言われた。(p183)
 (T・S・エリオットは)詩人は新しい詩情を自ら生み出すのではなく,化合によって新しい詩情の結合の仲立ちをするのだというのである。(p185)
 万物流転する中にあって,あえて,流れを否定,源泉を目指すのは誤った歴史的思考ではないだろうか。作品もほかのすべてのものごとと同じように時間の流れに沿って生きていくことができる。そういうように考えて,文献学の原理を批判し,文献学が,原稿,それにもっとも近いもののみをよしとし,他をすべて,乱れたテキスト,異本ときめつけるのに強い反感をもった。(p207)
 平安朝の名作で,いま原稿に近いテキストの残っているものはひとつもない。現存する最古のテキストは鎌倉期になってからのものである。長い空白がある。文学史は,京都の大火によって古稿本がいっせいに焼失したという説明をしていたが,とても信じられない。やはり,鎌倉期に現れたすぐれて強力な異本によって,それまでのもろもろのテキストをすべて消滅させたと考えるほうがずっと自然である。(p211)

2017年6月25日日曜日

2017.06.25 外山滋比古 『ワイド版 思考の整理学』

書名 ワイド版 思考の整理学
著者 外山滋比古
発行所 筑摩書房
発行年月日 2017.01.25:元版 1983
価格(税別) 1,000円

● 有名なロングセラー。探せば文庫もあるんだけど,こちらで読んだ。理由は文庫を探すのが面倒だから。

● その文庫を買ったのは,もう30年近く前のこと(もっと前かもしれない)。結局,読まないままできてしまった。そういう本(積ん読っていうんでしょうか)がぼくの書庫の8割を占めている。
 そのほとんどは,ぼくが死ぬまで読まれることはないだろう。

● 以下に多すぎる転載。
 勉強したい,と思う。すると,まず,学校へ行くことを考える。学校の生徒のことではない。いい年をした大人が,である。(p10)
 今はこの傾向はずっと顕著になっている。社会人大学,社会人大学院が猖獗を極めている。まぁ,ひと頃の熱狂は過ぎたのかもしれないけれど。
 勉強好きと大学側の経営的視点が合致しての結果だろうけど,たぶん,大学院に行けばどうにかなるというのは幻想だよね。
 かつてのMBAブームも同じだったのではないか。大金を使ってアメリカの経営大学院でMBAを取った人たちには申しわけないけれども,元は取れたかい? と聞いてみたい。流行に乗せられただけだったのではないか。その流行の仕掛人って,それで儲かる人で,それにウマウマと乗ってしまった人たちは,しょせんは鴨にされるタイプ。
 学校の生徒は,先生と教科書にひっぱられて勉強する。自学自習ということばこそあるけれども,独力で知識を得るのではない。いわばグライダーのようなものだ。自力では飛び上がることはできない。(p11)
 一般に,学校教育を受けた期間が長ければ長いほど,自力飛翔の能力は低下する。グライダーでうまく飛べるのに,危ない飛行機になりたくないのは当り前であろう。(p12)
 寝て疲れをとったあと,腹になにも入っていない,朝のうちが最高の時間であることは容易に理解される。いかにして,朝飯前の時間を長くするか。(p27)
 文学研究ならば,まず,作品を読む。評論や批評から入って行くと,他人の先入主にとらわれてものを見るようになる。(p31)
 外国に,“見つめるナベは煮えない”ということわざがある。早く煮えないか,早く煮えないか,とたえずナベのフタをとっていては,いつまでたっても煮えない。あまり注意しすぎては,かえって,結果がよろしくない。しばらくは放っておく時間が必要だということを教えたものである。(p38)
 同じ問題について,AからDまでの説があるとする。自分が新しくX説を得たとして,これだけを尊しとして,他をすべてなで切りにしてしまっては,蛮勇に堕しやすい。(p46)
 ことばでも,流れと動きを感じるのは,ある速度で読んでいるときに限る。難解な文章,あるいは,辞書首っぴきの外国語などでは,部分がバラバラになって,意味がとりにくい。残像が消滅してしまい,切れ目が埋められないからである。そういうわかりにくところを,思い切って速く読んでみると,かえって,案外,よくわかったりする。(p63)
 何かを調べようと思っている人は,どうも欲張りになるようだ。大は小を兼ねるとばかり,なんでも自分のものにしようとする傾向がある。これでは集まった知識の利用価値を減じてしまう。対象範囲をはっきりさせて,やたらなものに目をくれないことである。これがはじめのうちなかなか実行できにくい。(p86)
 ものを考える頭を育てようとするならば,忘れることも勉強のうちだ。忘れるには,異質なことを接近してするのが有効である。学校の時間割はそれをやっている。(p119)
 二十年,三十年とひとつのことに打ち込んでいる人が,そのわりには目ざましい成果をあげないことがあるのは,収穫逓減を示している証拠である。(中略)知識ははじめのうちこそ,多々益々弁ず,であるけれども,飽和状態に達したら,逆の原理,削り落し,精選の原理を発動させなくてはならない。(中略)はじめはプラスに作用した原理が,ある点から逆効果になる。そういうことがいろいろなところでおこるが,これに気付かぬ人は,それだけで失敗する。(p129)
 頭の中で,あれこれ考えていても,いっこうに筋道が立たない。混沌としたままである。ことによく調べて,材料がありあまるほどあるというときほど,混乱がいちじるしい。いくらなんでもこのままで書き始めるわけには行かないから,もうすこし構想をしっかりしてというのが論文を書こうとする多くの人に共通の気持である。それがまずい。 気軽に書いてみればいい。あまり大論文を書こうと気負わないことである。(p135)
 書き進めば進むほど,頭がすっきりしてくる。先が見えてくる。もっとおもしろいのは,あらかじめ考えてもいなかったことが,書いているうちにふと頭に浮かんでくることである。そういうことが何度も起れば,それは自分にとってできのよい論文になると見当をつけてもよかろう。(p137)
 これはよく言われること。って,最初に言ったのは外山さんかもしれないけれど。書くという行為自体が,頭を刺激することがたしかにある。
 書き出したら,あまり,立ち止まらないで,どんどん先を急ぐ。こまかい表現上のことなどでいちいちこだわり,書き損じを出したりしていると,勢いが失われてしまう。(p137)
 森博嗣さんも同じことを言っていたな。小説家になりたければ,まず書いてみること。一作を仕上げることだ,と。
 考えごとをしていて,おもしろい方向へ向かい出したと思っていると,電話のベルがなる。その瞬間に,思考の糸がぷっつりと切れて,もう手がかりもなくなってしまうという経験もする。(中略)それくらい姿をかくしやすいのが考えごとである。(p147)
 お互いに自分の過去をふりかえって,とにかくここまでやってこられたのはだれのおかげかと考えてみると,たいていは,ほめてくれた人が頭に浮かぶのである。ある老俳人は,ほめられたからこそ,ここまで進歩したとしみじみ述懐している。ほめてくれた批評によって伸びた。けなされたことからはほどんど裨益されなかったというのである。(p148)
 調子に乗ってしゃべっていると,自分でもびっくりするようなことが口をついて出てくる。やはり声は考える力をもっている。われわれは頭だけで考えるのではなく,しゃべって,しゃべりながら,声にも考えさせるようにしなくてはならない。(p159)
 同じ専門の人間同士では話が批判的になっておもしろくない。めいめい違ったことをしているものが思ったことを何でも話し合うのがいい(p163)
 生物学的にインブリーディングがよろしくないとすれば,知的な分野でもよかろうはずがない。企業などが,同族で占められていると,弱体化しやすい。(中略)それなのに,近代の専門分化,知的分業は,似たもの同士を同じところに集めた。(p167)
 ブレイン・ストーミングはこうして,いろいろな考えを引き出すのだが,はじめのうちに出てくるものは,多く常識的で,さほどおもしろいものではない。もうあらかた出つくしたというところで,さらに頭をしぼっていて生まれるのが,本当に新しい,これまでは夢にも考えられなかったようなアイデアである。 よく,考える,という。すこし考えて,うまくいかないと,あきらめてしまう。これでは本当にいい考えは浮かんでこない。(p169)
 夜,床に入ってから眠りにつくまでよりも,朝,目をさまして起き上がるまでの時間の方がより効果的らしい。(p173)
 本に書いていない知識というものがある。ただ,すこし教育を受けた人間は,そのことを忘れて何でも本に書いてあると思いがちだ。(p178)
 よくしゃべる人の方が老化しにくいと,老人ホームの職員たちはいう。しゃべるには頭を使うからであろうか。それについて思い出されるのは,スウェーデンだったかの老人ホームの試みである。老人たちに,趣味のグループをつくらせた。その中に外国語学習グループを設けた。はじめは人気がなかったのに,やがて,もっとも人気のあるグループになった。メンバーがみんな元気で,なかなか死なないからであった。(p182)
 社会人も,ものを考えようとすると,たちまち,行動の世界から逃避して本の中へもぐり込む。読書をしないと,ものを考えるのが困難なのは事実だが,忙しい仕事をしている人間が,読書三昧になれる学生などのまねをしてみても本当の思索は生まれにくい。(p195)
 考えるのは面倒なことと思っている人が多いが,見方によってはこれほど,ぜいたくな楽しみはないのかもしれない。何かのために考える実利実用の思考のほかに,ただ考えることがおもしろくて考える純粋思考のあることを発見してよい時期になっているのではあるまいか。(p217)

2017年5月27日土曜日

2017.05.27 外山滋比古 『新聞大学』

書名 新聞大学
著者 外山滋比古
発行所 扶桑社
発行年月日 2016.11.01
価格(税別) 1,000円

● 自己学習や頭の体操をするための素材として,新聞は恰好のもの。その具体的な活用法を説く。
 しかし,それだけではなく,新聞批判や教育論にも及ぶ。

● かつては新聞を取ってないと奇異の目で見られたものだ。おたく,そこまで貧乏してるの,みたいな。新聞は取るのがあたりまえでしたね。
 今は,新聞を取らない家庭が増えているのではないだろうか。ニュースはネットで知ることができるせいでもあるだろうけど,そもそもニュースって知らなくても別に困らないんだよね。

● 新聞を取らなくなって,一番助かるのは,古紙が大幅に減ったことだ。古紙回収は月に1回だから,ひと月分の新聞を家の中に置いておかないといけない。実際にはそこに折り込みチラシが加わる。ひと月分だとけっこうな量になる。
 それをビニール紐で結わえて,ゴミステーションに持って行く手間がなくなった。これは大きいですよ。

● 新聞に載ってるのはニュースだけではない。書評や人生相談や読者投稿や識者の随筆や,その時々のトピックの特集記事もある。
 が,それらを含めて,知らないからといって,何か困るかといえば,さぁて,さほどには困らないのではないか。

● というような者が本書のような本を読むのもおかしなものだけど,外山さんが新聞について何を語っているのか,そこを知りたいと思った。

● 以下にいくつか転載。
 “自ら助くる”というのはヘルプ・ゼンセルブズ(help themselves)の訳であるが,“助ける”という日本語にしてしまうと,この言葉の趣旨が大きく失われる。“ヘルプ・ゼンセルブズ”は“自らを助ける”という意味ではなく,自分のことは自分でする,人の世話にならない,という意味である。(p2)
 われわれの社会では,いまだに知的散文は確立していない。そのことをはっきり認める知識人も少ないから,言論がおしなべて,情緒的に流れやすい。ウェットな文章が喜ばれ,ドライな文章には人気がない。(p60)
 もっともいけないのが,単行本である。薄くても二百ページを割ることは少ない。小さなテーマで,十万字の論文,原稿を書ける人は,そんなに,いるわけがない。どうしてもおもしろくない長文を読まされることになる。(p65)
 ことばは声が基本である。文字はそれを写した記号であって,声を失っている。文字だけを読んでいると,どこかおかしくなるおそれがあるが,いまの人たちは,そのことを考えない。そして文章のほうが話より高級であると決めこんでいるようであるが,近代の誤解のひとつである。(p68)
 署名のあるなしなど,ノンキな人は問題にしないようだが,大違いである。匿名のほうがいい書評ができる。身分を明かした原稿には,いろいろのシガラミがまつわりやすい。(p78)
 日本人は金銭への関心が高い。小金を貯めるのを生き甲斐にする人が多い。その割には,経済ということに関心が低いのである。(p84)
 日本人の経済的関心はゴシップの色彩が濃い。本当のところを突き留めるのではなくて人事に関心を持つ。企業の社長交代がいいニュースになる。(p87)
 外国から日本人は働きすぎると批判され,企業などが週休二日制を始めた。あれほど楽しみであった休みが,それを境に輝きを失いはじめる。(p98)
 その森(銑三)さんが,かつて,こっそり私に教えてくれたことがある。読んでおもしろいと思う新聞記事があったら,切り抜く。切り抜けないものなら,書写する。それを分類して袋に入れておく。だんだん,袋がふくれていく。ある程度,ふくらんだら,袋から取り出して整理する。うまく整理がついたら,それをもとにして,本を書く。そうすると,しっかり本が書ける,と森さんは教えてくれた。(p109)
 古き良き時代の話だろうね。今でも新聞の切り抜きだけで本を書く(書ける)人はいるんだろうか。
 人間にとって,おもしろいのは,動くものである。ニュースは一回きりだから,動きを感じさせない。株価は,毎日,動いているから,ニュースとしても,犯罪などと違って,知的興味を与えることができる。(p117)
 昔から,月曜日はいやな日である。学校へ行きたくない。しかし,火・水・木・金と学校へ行っていると,それなりの調子,リズムができ,それほど,いやでなくなるようである。調子の出たところで,週末,二日もぶっつづけて休めば調子の狂わないほうがおかしい。(p143)
 どうやら,教育はノロマを育てるらしい。俊敏でないのが多いのである。高等教育が普及して,ノロマ人間が増えたのではないかと思われる。(p151)
 モノマネするには,余計なことを考えたりしてはいけない。本に書いてあることを鵜呑みにして知識を増やせば進歩しているように錯覚した。幼い学習者がそう考えたのではなく,指導的な人たちが,知識は力なりという考えに支配された。(p159)
 文化における西高東低の傾向は,いまなお完全に消えてはいないようである。政治と文化の相性はあまりよくないのだろうか。少なくとも,歴史がないと,文化と相性は生じないことを暗示している。(p169)
 普通の大学は,専門によって小さく分かれている。(中略)日本史の学生でも西洋史の教養をもつことは例外的である。大学という文字が泣くようなのが一般大学である。 新聞大学は違う。政治も経済も,文化も社会もみな目が届く。八宗兼学である。(p175)
 学校教育の泣きどころは,知識が古いことである。教室で教える知識は常識的なものである。昔からのことをこと新しく伝える。(p176)
 講演会の記事には,たいてい“聴衆はせっせとメモを取っていた”などという文句があった。メモを取りながら講演を聴くのは熱心な聴き手であるという誤った観念にとらわれているわけで,すこし恥ずかしいことである。(p182)
 本は,読者の求めるものを与えなかった。古くさい知識をわけもなくありがたがって,博学多識を学問と取り違えている本があまりにも多い。若い燃えるような志をもった読者は,やがて,本から距離を置くようになった。書物文化は,それほど大したものではないと感じた読者はただの怠けものではなかった。(p183)
 小中高の教育がまがりなりにもうまく行っているのは,しっかりした,時間割に基づいて行われているからである。(中略)どういうわけか,大人は,宵っぱりの朝寝坊が好きである。ことに,早起きが苦手,朝食をそこそこにして出勤する。(中略)近代の泣きどころである。(p186)
 同世代人口の九十パーセント超が大学生になった。一般はそれを社会の進歩として歓迎した。学校教育は過ぎると人間を劣化させることがある,ということに気づく人は少なくて,高学歴化を喜んだ。(p201)
 日本だけのことではないが,近代文化の泣きどころは,知るを知って,考えることを知らないことである。いくらたくさん本を読んでも,博学多識にはなっても,みずから考える力はまるでない,ということが主知主義の泣きどころである。(p212)
 学校教育が努力の割りに成果が乏しいのは疑問を起こさせないからである。ことに日本の教育は丸呑み,丸暗記で,問題に答えることしか考えない。(p212)
 いまの人は,昔もそうだったが,読むということを誤解している。つまらぬことは読める。よく知っていることを書いた文章ならわかる。しかし,少し難しい内容の文章はわからない。おもしろくない,と言って放り出す。本当に,ものが読めていないのである。(p216)

2015年11月29日日曜日

2015.11.26 外山滋比古 『ライフワークの思想』

書名 ライフワークの思想
著者 外山滋比古
発行所 ちくま文庫
発行年月日 2009.07.10(単行本:1978)
価格(税別) 560円

● 知識の脆弱性と,ことばの,良きにつけ悪しきにつけ,強力な作用。このふたつが説かれている。

● イギリスのパブリックスクールを素材に島国の特徴を考える。イギリスについて言えることは日本にもあてはまるかもしれない。

● 以下にいくつか転載。
 日本人はこれまで,ヨーロッパに咲いた文明の“花”を切り取ってきて,身近に飾ることを勉強だと思い,それを模倣することをもって社会の進歩と考えてきた。(中略)これでは,いかにして花を咲かすかを考える暇は,もちろんない。(p10)
 もし人生が百メートル競走なら,スタートにおける五メートルの遅れは,決定的なつまずきになろう。だが,人生をマラソンと考えるならば,出足の遅速など問題にならない。マラソンのスタートでトップに立ったからといって,誰がその人の優勝を予想するだろうか。(p18)
 まず,何もしないでボーッとする時間をもつことだ。充実した無為の時間をつくることである。これがやってみると意外に難しい。たいていの人は,空白な時間を怖れる。よほど強い個性でないと,ぼんやりしていることはできないのである。本を読むのも結構だが,読まないのもまた,きわめて大切な勉強である。(p19)
 日本の文化はだいたいにおいて若年文化だ。若い時には華々しくても,少し齢をとるとまたたく間にダメになってしまう。日本の音楽家は十代のときには国際コンクールで優勝したりするほど水準が高いのだが,二十代ではだいぶあやしくなり,三十代になるとすっかり元気がなくなる。(p21)
 経験を思いつきとを一緒にし,これに時間を加える。この時間なしには酒はできない。(中略)頭のなかにねかせておいてもよいが,この二つのことを何かに書きとめておくのが便利である。そして,時々これを取り出して,のぞいてみる。のぞいてみて,何も匂ってこなければ,まだ発酵していない。(p27)
 エリートが齢をとるとだんだんつまらない人になってくるのは,彼らが一筋の道を折り返しなしに走っているからだろう。 前半の四十五歳くらいまでは,なるべく個性的に,批判的に,そして自分の力で生きていくのが,その人間を伸ばす力になるが,折り返し点をまわった人間は,もう小さな自分は捨て,いかにして大きな常識をとり込んでゆくかを考える。(p30)
 ことばで考えるのは技術的である。根本のところは体で考えるのでなくてはならない。体を動かさずに頭だけ働かすことができるというのは迷信であろう。(p39)
 横のものを縦にすることさえ億劫がるような人間が,ダイナミック(動的)な思考などと言う。空虚なことばの乱舞。(p39)
 近代において,比喩は,ほかに描写の方法がないとき,やむを得ず援用されるもので,できれば避けたいものと考えられている。(中略)こういう常識は発見の心理にいちじるしく不都合であるといわなくてはならない。(p61)
 ものが存在すると,そのものはそのかげにあるものをかくす。ものと同じように,知識もそのかげにあるものを隠蔽する。それで知識が多くなると,それだけものが見えにくくなる。(p66)
 発見するには,成心があってはならない。何とか発見してやろうというような緊張があってはならない。かたくなな心ではだけである。心を半ば空しくしている必要がある。(p72)
 自分のプライベートな利益のために,パブリックなものを利用しようとする考えは,いついかなるときも,卑劣である。(p175)
 役に立つ教育といったケチな目標でなされることが,子供の魂に火をつけるわけがない。(p176)
 デパートで正札千五百円の下着があまり売れないから,二千五百円に正札をつけ替えたら売れるようになった。品物を買っているのではなく,値段を買っている。(中略)高級品のイメージを買いたいのである。(p181)
 われわれは似たりよったりということを好まない。すこしでもほかの人たちと違ったことがしたい。賢くなりたい,美しくありたい,ひとより多くの収入がほしいと思う。これがまさしく“常民”である証拠だ。常民はだいたいにおいてどんぐりの背比べである。似たりよったりである。だからこそ,すこしでも違うところを見せたがる。逆にそれだけ一般的価値観につよく支配されていることになるのだ。(p195)
 どんなに巧妙なCMでも,リピートが不足していたのでは効果は上がらない。なぜか。繰り返しによって,表現が固有名詞に近い性格のものになるからである。(p218)
 人を傷つけると言う。実際の危害を加えなくても,ことばひとつで相手に当分立ち上がれないくらいの打撃を与えることができる。(中略)ことばの力はこんなにもつよいものである。(p223)
 わたしたちにとって本当の幸福とは,いったい何か。(中略) 心の楽しみがなくてはいけない。つまり,人からほめてもらうことだ。人をほめること,これがいまの世の中でいちばん欠けている。(p229)
 若さを保つにはどうしたらいいか。いちばん簡単なのは,新しいことばを毎日すこしずつ英語でもフランス語でも,あるいは朝鮮語でもマレー語でも結構。(p231)

2015年11月27日金曜日

2015.11.20 外山滋比古 『「読み」の整理学』

書名 「読み」の整理学
著者 外山滋比古
発行所 ちくま文庫
発行年月日 2007.10.10(単行本:1981.11)
価格(税別) 560円

● 「未知」を読むことの重要性を説く。著者は,わかっていることをスラスラと読むアルファー読みに対して,そういう読書をベーター読みと名づけ,ベーター読みこそが読書だという。
 
● 何度も読まなければならないから自ずと時間がかかるし,時間をかければ了解に至るとも限らない。しかし,それを試みなければならない。禅の公案を何年も考えるがごとくに。

● 以下にいくつか転載。
 つまり,わかることは読めるが,わからないことは読めない,ということである。(p17)
 文学作品や評論のようなものを読んで,文章が読める,というのは,いわば,錯覚である。科学,技術などの文章はほとんど読んだことがないから,詩を読むようなつもりで,マニュアルを読むという誤りをおかして平気でいられる。(p21)
 知らないことを文章で知るのは,マニュアルに限らず,つねに困難である。(p22)
 文章やことばを,あるがままに読んだり解したりする,というけれども,客観的な理解ということは,頭では考えられても,実際には存在しない。頭に入ってきたものは,かならず,受け手の先行経験や知識によって「加工」される。(p52)
 人間には,批評本能ともいうべきものがあるらしい。真の批評を理解するだけの素養はないという読者も,その批評本能を満たしたいとは考える。そのための文章が人物評である。(p89)
 これまでの日本人は翻訳という名のもとに破壊された日本語を読まされて,どれほど頭を悪くしてきたか知れない。 (中略)ところが,ごく最近になって,そういう悪文の標本みたいな翻訳も,案外われわれの文化に貢献してきたのではないかと考えるようになった。これは決してたんなる皮肉ではない。(中略) 難解至極な訳文と悪銭苦闘することが,とりもなおさず,読者にとって,知的活力の源泉になったのではないか。(p92)
 既知にみちびかれて読む読み方はやさしく,ときにたのしい。それでいて,ものを読んでいるという満足感を与えてくれる。しかし,知っていることをいくら読んでも新しいことがわかるようにならない。(p104)
 素読を可能にするには,古典的価値の高い少数の原典を選定することである。それを学習者,そのまわりの人々が絶対的なものであると信じ込む必要がある。信頼していないものでは反復読みに耐えられるはずがない。(p151)
 くりかえし読んだ本のない人は,たとえ,万巻の書を読破していても,真に本を読んだとは言われないのである。(p158)
 昔のことは古い。だからと言って古くさいとは限らない。新しいことはおもしろそうだが,時の試練をくぐり抜けていない。新しいものごとは古くなるが,古いものはもう古くならない。(p160)
 本当に読むに価いするものは,多くの場合,一度読んだくらいではよくわからない。あるいはまったく,わからない。それでくりかえし百遍の読書をするのである。時間がかかる。いつになったら了解できるという保証はない。(中略) わからぬからと言って,他人に教えてもらうべきではない。みずからの力によって悟らなくてはならない。(p187)
 正しい解釈,解決を得るのに,「時間」が大きな働きをするのが,こういう場合で見のがしてはならないところであろう。即座の理解では。時の働く余地がない。(中略)時間によって,未知である対象も,わかろうとする人間も,ともにすこしずつ変化して,やがて,通じ合うところまで近づくようになるのかもしれない。(p190)
 古典化は作者の意図した意味からの逸脱である。いかなる作品も,作者の考えた通りのものが,そのままで古典になることはできない。誰が改変するのか。読者である。(中略)読者は,作者とは別の意味において,創造的である。(p202)
 いかに細かく書いた文章でも,第三者からすれば,不明なところ,不可解なところが随所にひそんでいる。そのわからないところがすなわち読者の未知である。これは読者みずからによって解明するほかはない。解明はしばしば発見になる。(中略)創造的であり創作的な読みは,その不明部分を補充して,その読者に固有の意味をつくり上げる。(p220)

2015.11.16 外山滋比古 『思考力』

書名 思考力
著者 外山滋比古
発行所 さくら舎
発行年月日 2013.08.06
価格(税別) 1,400円

● 本書で説かれていることは,すでに読んだ著者の中でも言われている。学歴有害論というか,知識有害論である。
 と書くと,著者は,いやそこまでは言っていないと仰るだろうけど。

● 自分が習う知識はすべて借りものである。借りもので頭の中をいっぱいにすると,自分で考える思考力は落ちざるを得ない。
 だから,憶えたら忘れることが大事で,忘れることによって頭の中に空きを作ららなけれならない。そういうことが説かれている。

● 以下にいくつか転載。
 知識を教えるのは簡単だが,思考力というものは,知識のようにうまく教えられない。だから,趨勢としては,依然としてベーコンの「知識は力なり」という考えがいまもつづいている。(p9)
 知識とは,いろいろとある雑多なものから抽出した究極の形だから,不純物を含まない。○か×,白か黒しかない。しかし,人間の実際の経験では,白と黒のどちらかわからない,灰色の中から,白ができたり,黒ができたりしているのに,いまの人は経験が乏しいから,はじめからこれは安全,これは危険,これはいい,これはいけない,と善悪を決めてしまう。(p10)
 実行力がある人は,教養をあまり重んじない。昔から「インテリは使いものにならない」といわれるのは,経験に乏しいから知恵がない,応用がきかない,という意味である。こういう人が,一人でなにかをしようとすると,たいてい失敗する。(p20)
 自分で論文を書くには,まがりなりにも頭で考えなければならない。ところが,とくに学校の成績がいい学生ほど,途方にくれる。(p25)
 我流というものは,しぶとくてなかなか滅びない。 一方,借りてきたものは,すぐに賞味期限が切れてしまう。その代わりを自分でつくれないから,また借りてくる。(p33)
 人間としての存在価値は,「忘れる」ことでしか発揮できない。記憶と忘却が共存し,記憶したものの中で不要なものを忘れ,忘れたあとに新しいものを記憶し,忘れてさらにその先を考える・・・・・・忘却は睡眠中だけではなく,覚醒時に意識的にできるところまでいけば,コンピュータにも負けない。(p36)
 思考力低下の最大の原因は,知識偏重の風潮である。他人の論文などは,必要以外ほとんど読まなくてもいい。(中略)知れば,それにとらわれて,そこから抜け出せなくなる。(中略)自由な発想のためには,すぐれたものをごく少数だけ読んで,あとはよけいなことは知らないでおいたほうがいい。(p42)
 日本で,学問のあるバカの存在を最初に指摘したのは,おそらく菊池寛だろう。「学術的根拠をもっているバカほど始末が悪いものはない」というようなことを述べている。(p46)
 ものを吸収したい,勉強したいという気持ちをおこすには,頭は空腹の状態でなければならない。満腹状態でいくら勉強しても,それ以上は入りきらない。(p55)
 女性にくらべ,男性は指をめったに使わないが,パソコンのキーボードを打つのは有効な運動になるかもしれない。(p62)
 手の散歩のほかに,口の散歩も有益である。 散歩で足を使うのと,口でしゃべるのとでは,使うエネルギー量は後者のほうが多いという学者もいる。人によってもちがうが,発声にはおどろくほどのエネルギーが必要だ。(p62)
 坊さんが概して長生きなのは,年をとってからも読経という運動をしているからかもしれない。後継者ができて,自分ではあまりお経をあげなくなると,すぐに老けこんでしまうことが多い。(p65)
 小学校で,体育の次に軽視されているのが,理科である。その理由は,女性教師の割合が圧倒的に多くなったことだ。(p68)
 知識というのはすべて借りものである。自分で考えた知識を,われわれはほとんどもっていない。(中略)そもそも,「学ぶ」の語源は「まねぶ」,つまり,まねることである。 したがって,勉強を長くしていると模倣性が強くなり,それにつれて,自分のオリジナルなものを考え出す力が低下していく。日本で高等教育を受けると,能力の低い専門家が増えてしまう。(p73)
 ぼんやりとしか目標にしていなかったものに失敗すると,とたんに自分の目標がはっきりとすることがある。落ちれば,たいていの人はそこでいやでも考える。考えて,新しい発見をすることもある。これは貴重な機会である。(中略) いま日本人がもっとも嫌っているのは,「落ちる」ということだ。入学試験に落ちる,就職試験に落ちる・・・・・・。とにかく,多くの人は落ちることを頭からおそれ,極端に嫌っている。これが日本人を弱くしているということに気づくべきである。(p85)
 いまの家庭は,いいことばかりをやろうとしている。それが,子どもにとって理想的な環境だと思っている。しかし,いいことばかりやっていると,悪いことに弱くなる。ある種の危険は,次の安全に向かっての大事な訓練である。(p87)
 たとえば,本田宗一郎とか松下幸之助といった人は,学歴といえるものがない。この人たちがもし大学を出ていたら,あれだけの仕事はできなかったのではないだろうか。(中略) 学校を出ていない人は,知識が不足しているので,ことを為すのに苦労をする。けれども,天賦の能力がつぶされないまま残っているところが多いから,いったん動き出すと,目ざましく伸張する。(p106)
 いまの少子化の最大の問題は,マイホーム主義だ。こどもを自分の家の中に囲いこんで,大人が一生懸命に世話をすれが,いい子が育つ,というまちがった考え方からは,できるだけ早く脱却しなければならない。(p110)
 人がやることは,あらいざらい,やらなかった。人がやらないことばかりを,やってきた。意識的に人のやらないことだけをやろうと考えていたわけではないけれど,あまり常識的な生き方ではつまらない,とは思っていた。(p154)
 当時のサラリーマン,先輩教師などを見ていると,定年になると,口では悠々自適などと言うものの,とたんに元気がなくなってしまう。その原因は,どうもお金の問題らしい。(p155)

2015年11月10日火曜日

2015.11.03 田中眞紀子・外山滋比古 『頭脳の散歩 デジタル教科書はいらない』

書名 頭脳の散歩 デジタル教科書はいらない
著者 田中眞紀子・外山滋比古
発行所 ポプラ社
発行年月日 2010.10.09
価格(税別) 1,400円

● 「デジタル教科書はいらない」といっても,それがメインテーマになっているわけではない。ここは出版社が入れたものだと思う。
 外山さんの発言だけを読んでいった。

● 以下にいくつか転載。
 回りの情報が豊かになってきますと,満腹になってしまって,やっかいなものにいちいち興味を持たなくなります。 ですから,ちょっと難しい本を読むと,これはだめだと思ってしまう。(p24)
 昔の植民地の時代,宗主国はだいたい自分の国の言葉を植民地に強制したわけです。その植民地はだいたいバイリンガルになります。そうするとですね,ものを考える力とか創造する力というのが衰える傾向があります。(p34)
 私たちはわかりきったことは馬鹿にするようにできています。わかりきったものを作っていく努力は,技術面においては大きな価値があると思いますけど,文化として考えると,わからないものの方がわかりきったものよりはるかに面白いのです。(p49)
 本当は,言葉は物事をあまり正確には伝えていないのです。不正確な表現から元の感情とか経験とか物事に到達するには,読む側に大きな精神力や知力とかが必要となります。それが面倒ですから,読むのをだんだんやめる人も出てきます。(中略) 書いた文字は一種の暗号だと思うんです。それを解読するには訓練が必要で,いつの時代でも,ものを読むのが限られたエリートにならざるを得なかった理由もそこにあると思います。(p54)
 戦後にアメリカやイギリスと自由に交流ができるようになってからよりも,ほとんど情報なしに,古い辞書が1冊か2冊ぐらいで読んでいた戦争中の方が面白かったような気がします。 飢餓状態の頭は,なんとかして意味を取ろうと必死です。誰も教えてくれる人はいない。この経験はよかったと思います。(p69)
 デジタルは情報の伝達の効率から言えば優れています。でも,だいたい,得やすい情報というのは失いやすくて価値が低いのが一般です。本当に価値のある情報は暗号みたいで難しい。どうでもいい情報はただでいくらでも得られる。(p73)
 国会図書館はおそらく,日本で一番勉強に適している。大学なんか比じゃないですよ。(中略) 新聞でコラムを書いている人は非常にいい引用をします。あれは新聞社に,しっかりした資料室があるからですよ。あれは新聞社の特権だと思っていますが,おそらく国会図書館の機能をうまく利用すればずっとすごい論文ができて,大変な仕事ができるんじゃないかと思います。(p78)
 無用の用みないな頭の働きをするには,読書というのは人がありがたりすぎてよくない。どうしても読書過多になる。普通はあんまりならないですけど,1日に2冊読んだりする人は年取ってから不活発になりがちです。(p81)
 政治家が年を取ってだんだん賢くなっていくという傾向はね,たとえば学校の教師と比べると著しい。 それはつまり,選挙とか有権者とか,そういうものを絶えず意識して,常に頭を働かせているからだと思うのです。選挙といったら大変な問題でしょう,一生懸命。(中略) 教師をしていると,「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」と言われるようになりがちです。知っていることをただ口に出しているだけで,本当に頭を働かせて,自分で考えたことを言っているということが少ない。(p92)
 読書に関して言えばね,読み切れない本が必要なんです。読めなかった,途中でやめてしまう,そういう本が何冊もないと,本を読めるようにならないんです。(p97)
 上にも下にもきょうだいがいないというのは孤児の状態です。子どもにとって非常にまずいと思います。なんとかして早い段階で,同年齢の子どもを一緒にしてやる。一日少なくとも何時間,数人の子どもと遊ぶというのを経験させてやらないといけないように思います。(p104)
 合理的でいい方法でどんどん教えていきますと,子どもはかえって学習的意欲をなくしがちです。(p127)
 自主的な学習努力は禁じられたところから生まれるもので,奨励されると積極性を失いがちです。(p128)
 知識はいわば無機質で,そこから新しいものが生まれにくい。知恵は有機質で,新しいものを生み出す。知識は無機質ですから,混合しても化合しない。化合したものでないと,人間を動かしていくことにならないでしょう。(p140)
 自然の知恵みたいなものがわれわれの周りにいくらでもある。それは本を読んでものを考えるのとは違って,実際的です。(p146)
 国立の学校というのは,やっぱり広い意味においてお役所的です。(中略)ところが私立には一種の理想みたいなものがあるわけです。志ですかね。少なくとも創立者にはあります。(中略)国立の学校は,優れた教師がいても,理念に結晶されることが少ない。(中略)そういう意味では,私は私立の学校というのが非常に大事だと思うんです。(p150)
 今のところ,家庭は聖域ですから,批判できなくなっているんです。たとえばマスコミでも家庭を批判すれば,相当強い反論があるでしょ。新聞なんかも,恐くて書きません。不買運動を起こされかねません。家庭の教育が大事だということは言っても,今はこれが欠けているなんてことを言ったら,それこそ大変です。 これは家庭にとってもたいへん危険なことです。批判を受けないものは堕落するのですから。(p158)

2015.11.03 外山滋比古 『忘却の整理学』

書名 忘却の整理学
著者 外山滋比古
発行所 筑摩書房
発行年月日 2009.12.10
価格(税別) 1,200円

● これまで読んだ外山さんの著書にも,知識と思考は相性がよろしくない,思考のためにはいったん入れた知識を忘れることが必要だ,と力説されていた。
 その忘却の効用をまとめて説いているのが本書。

● 本書にひんぱんに登場するフレーズは「休み,休み」。休みを取らないで,読み続けるのは害あって益なし。

● 以下に転載。
 大学で卒業論文を書く学生はだれしも苦労するが,日ごろよく勉強して知識も豊富な,優秀だと見られている人が意外に混乱し,テーマが決められない一方,普段はあまり勤勉でなく,本なども読み方の足りない学生が,もちろんすべてではないが,しばしば,驚くようなおもしろいテーマをつかむのである。(p6)
 どうして知識が独自の思考に結びつかないのか。両者の間に,忘却を考えないと,説明がつかない。知識をいったんかなりの部分,忘れたあとで,もとの知識から離れてオリジナルな思考の生まれる余地が生じる。忘却がないと,知識は途方にくれる。(p7)
 まず吐いて,残っているよくない空気を全部出してしまってから,きれいな空気を存分に吸い込む。これが深呼吸である。吸い込むのを先行させれば,肺臓によごれた空気が残ってしまう。充分な換気にならない。 それと同じで,忘却が先行する。そうあるべきである。(p16)
 完全な記憶は没個性的である。だれもが同じように記憶できる。試験で百点満点の答案は,何人あっても同じ答えをしている。ところが,忘却作用がはたらいて,欠損部分がある答案は,十人十色,それぞれのところで間違っている。(中略) 没個性的な知識を習得することを通じて個性が生まれるのは,つまり忘却の作用によるのである。(p17)
 頭を使いっぱなしにして,休ませてやらないと,あとから新しいことを吸収することができなくなってしまう。頭へ入れたことを適当に整理する時間,うまく忘れる時間がないと進歩するのは困難である。(中略)勉強も休み,休み,するのが賢明である。(p81)
 本ばかり読んでいると,考えることのできない人間になりやすい。教育が普及した現代,知識過多な読書人が昔に比べて,多くなっている。それに社会も個人も気がつかない。 本を読むのはほかの人の考えたことの跡をたどり,追うことである。いくら行っても本を書いた人の先に出ることは叶わない。(p84)
 思考のとりえはとにかく疾いこと。一瞬,千里を走ることができる。三分の黙考が,本にしたら十ページ,二十ページになることも不可能ではない。それこそ休み,休み,忘れ,忘れて継続的に思考を積み重ねる。いくら忙しい人でも,二分や三分の思考の時間がとれないということはあるまい。(p85)
 実際,歩きはじめて三十分くらいの間は,考えごとはうまくできない。頭が濁っているからである。(中略)散歩の効用は思考そのものをおこすのではなく,思考のための準備をととのえるところにある。忘却するには歩くことがよいようで,その上,忘却はたいてい爽快感をともなっている。思考はその中から生まれるというわけである。(p103)
 原稿は風を入れて,ひととき寝かせてやらないと,うまい推敲にならない(p118)
 夢中,時を忘れ,われを忘れていれば,いつまでも年をとらない。 そういう忘我,夢中の状態にしてくれるものが,そんなにころがっているわけがない。人為によって,見るものに,われを忘れ,時のたつのも気づかないようにさせるものが考え出された。ドラマ,演劇である。(p123)
 悲劇を見ると,人は内にかかえている鬱積した情緒を解放し,それによって,精神を浄化するというのがカタルシスである。(中略)カタルシスには,下剤によって腸内のものを排出する意味もあるが,心に付着したものをはがし,処理するのは,忘却の一種である。(p125)
 いくら古い時代でも人間のいるところにはかならず,祭りがある。人々はそれによって,めいめいカタルシスをおこし,精神を浄化,活力を増進させられることを,為政者たちはいち早く発見していたのである。祭りはいくらかの反社会性をはらんでいるけれども,それは社会の安定を高めるために有用である。毒をもって毒を制する知恵としてよい。(p126)
 カタルシス効果においては,美談,あるいはサクセス・ストーリーのようなものは,凶悪,悲惨なニュースに及ばない。同類だからこそ毒を毒で制するようにしたときカタルシス効果が大きい。マスコミはひどいニュースばかりをとりあげようとしているかに見えるが,カタルシスを求める読者が無意識のうちに,ネガティヴなものを欲していて,それに対応しているにすぎない。(p127)
 自然に,必然的,本人が望むと望まないとを問わず,勝手にどんどん忘れるようになっている。ということは,記憶より忘却の方が人間にとって重大なものだということになる。(p130)
 集中講義ですばらしい授業があったら例外的だし,大きな知的刺激を受ける学生もほとんどないはずである。 大学の授業は週一回と決ったものである。よほど熱心な学生でも,先週の授業のかなりの部分は忘れている。ひどいのになると,まるきり忘れてしまっていることもある。それを非能率だと考えるのは,勉学というものを知らない人で,喜んで集中講義をするだろう。(p141)
 良心的,というか,気の小さい人は,ほかのことにかかずらうのは不純といわんばかりに,一心不乱でその問題だけを考えつめるかもしれない。しかし,これは誤っている。そういう熟慮の結果は,しばしば即答とあまり変わるところがない。(p146)
 この読み方を昔の人は,「読書百遍,意おのずから通ず」と言った。ふつう,百回,つまり何度も読むという点が注目されるけれども,一回一回の間に,空白の時間のあることは注意されない。その空白は頭の整理をする忘却のためにあるのだ。立て続けに何回も読んだのでは,「意おのずから通ず」とはならない。(p151)
 メモをとった話は結局,聴いたことにならないのだ,ということに気づかないのは問題である。忠実にメモしたつもりでも,話半分も書きとれないし,文字を書くのに気を取られているから,話は頭を素通り。あとには何も残らない。メモしたから,後で読めばと本人は考えるが,お生憎さま,メモはまず後で読むことはない。(中略) だいたい,聴いた話をすべて,わがものにしようというのがよろしくない。半分わかれば上等,五分の一覚えていれば上々,としなくてはいけない。(p174)
 やはり,聞き流し,読み流すのが,自然で,またもっとも有効な情報の取得方法になる。記憶と記録と忘却と理解は,一般に考えられているよりずっと複雑な関係にある。(p179)
 時間はただ流れるのではなく,不要なもの,不快なもの,腐敗する部分を洗い落とし,流れ落とすはたらきをもっていることがわかる。はっきり言えば,時は忘却なり,である。古いものは,時の忘却を経ているから,なつかしく,美しく,心ひかれるのである。(中略)思い出はもとのものごとをそのまま再現することではなく,時の忘却作用によって加工,変化した過去である。歴史家はこのことを頭に置かないといけないように思われる。(p182)
 時は距離でもある。そうだとすれば,空間的距離も時の忘却作用に似た作用をおびている。距離も美化の機能をもつ。 すぐ近くで見れば,岩と雑木のかたまりのような山も,遠山となれば,青く霞んで美しい。(p183)
 詩は強い感情の自然の発露だけれども,ナマの感情ではなく,心静まり,時を経て思い出された情緒に根をもっていなくてはならない(p185)
 毎日毎日,病める人とばかり接している医師の仕事は精神衛生上,きわめて厳しい仕事である。息抜きが必要で,好きなことにひと時われを忘れるのは,医師の力を高めることになるはずである。(中略)モンテーニュが,「よく笑う医者はよく治す」という意味のことを言っている。仕事ひと筋の医者は笑うゆとりがなく,したがって,良医ではないとも言える。(p188)
 ひと筋につながっていては忘却するヒマがないが,何足も履物をはいていれば,労せずして,どんどん忘れることが出来る。(中略) ひとつでは多すぎる。いくつかを同時実行すれば,どうしても,休み休み,になる。それが,頭の好むところでもあって,忘却は,忙しいほど進む。忙しい人ほど頭がよく働くことになる。(p190)

2015年10月31日土曜日

2015.10.31 外山滋比古 『「マイナス」のプラス』

書名 「マイナス」のプラス
著者 外山滋比古
発行所 講談社
発行年月日 2010.01.28
価格(税別) 1,143円

● 副題は「反常識の人生論」。本書は著者の箴言集のような趣がある。

● 「まえがき」にある次の文章が本書の要諦。
 幸福をプラス,不幸,災いをマイナスとすれば,プラス,マイナスは縄のように交錯してあらわれる。その場合,マイナス先行がよく,プラス先行ではうまくない。禍福と言って,福禍と言わないのがおもしろい。(p4)
● ほかにも以下に転載。
 相手が調子に乗ってなんでもいろいろしゃべるのを,いやな顔もしないできいている,というのは,案外,難しいことである。(中略)きき上手はひとつの徳である。きき手の沈黙は話し手の雄弁にまさることがすくなくない。(p16)
 自分を売り込もうとしている人間はおもしろくない。(p16)
 人間はいずれ死ぬ。どうせ死ぬのだから,よく生きる努力など空しいではないかと考えるのは,先を見透しているようで,実は,考えが足りない。人生に,美しく生きる人生に,“どうせ”はない。さかしらに,よく考えもせず,タカをくくってなすべきことをしないのは怠慢である。(p25)
 若いときの考えなど考えにならないのである。なにも考えないのがかえってよい結果につながることがある。(p31)
 よそからの差し出口はすべて無益有害である。(p32)
 われわれは,ことに若いときは,努力すればなんでもできる,いや,できるはずだ,という途方もない思い上がりにとりつかれている。(p34)
 努力,人事の限界を知れば,人生は気が楽である。すべてを自分の責任とするのは,いかにも,りっぱなようであるが,その実,うぬぼれであり,不遜である。(p35)
 三分の人事といっても,三分の一だけ努力すればいいというわけではない。十をすべてやるのである。しかし,成果を収めるのは三分である,という覚悟がほしい。(p35)
 敵は味方よりも人間を成長させてくれるものだ,ということがわかるようになるには,いくつもの強敵をねじふせておおしく生きてきた経験が必要である。そういう苦労人には敵に味方以上に熱い気持ちをいだくことができる。(p38)
 昔の人は口が悪い。「惣領の甚六,末っ子は三文安い」と言ったものだ。(中略)ひとりっ子は惣領と末っ子をかねているようなものだから,(中略)よほど危険,苦労,失敗などを経験しないと,もっている可能性も発揮できなくなってしまう。(p38)
 親がえらいうちの子が,親を越えることもないではないが,多くは,及ばない。父の苦労の方が子よりも大きいのが理由のひとつである。(中略)子の育ち方が親より恵まれていることによるのであって,二世の努力不足ではないということを考えるべきである。(p41)
 張り合っていた相手が急にいなくなると,目標が消えたようなものである。努力は目標を失って空を切り不発に終わる。それが,相手と実際に張り合っているよりはるかに大きな消耗になる。スランプに陥る。 (中略)ここでいちばん賢明なのは,新しい敵を見つけて,それと張り合って,自分をのばしていくことである。なかなか,そこに思いつかないだろうが,これができるかできないかは,大問題である。(p44)
 知識は力なりと,ノンキなことを言った哲学者がいるけれども,知識によりけり。悪性知識,有毒知識は命とりになる。ものを知らなくても死にはしないけれども,なまじおそろしい知識を吹き込まれると命をおとす。(p47)
 病気だと知ると病気になる。知らないでいれば病気ではない。そんなバカげたことがあってたまるか,と人は言うかもしれないが,人間は弱いもので病気ということばで病気になり,病気だ病気だと気に病んでいると,ひょっとして,死んでしまうかもしれない。知らぬが仏,である。知るは災い,知らぬは力であるというのが,案外,道理に近いのかもしれない。(p49)
 早期発見・早期治療というが,早々と病人にされるのはありがたくない。知らぬうちに治ってしまうかもしれないのを,ほじくり出し,ひっかきまわして,本ものの病気にする医学が絶対にないとは言えないような気がする。(p53)
 このごろの医学は,アメリカにかぶれて,告知ということを当然のことのように考える。(中略)われわれ人間はみんな生まれながらにして死ぬ運命にあるが,いつ執行されるかわからないから,笑って生きていられる。神だって死期の告知を遠慮しているのに,医学があえてそれをするのは,天を怖れざる業ではないのか。(p53)
 人間,敏感であるのは考えものである。つまらぬことにいちいち反応し,いつまでもそれにこだわって悩み苦しむのは人間として賢明だとはいえないだろう。それに引きかえ,鈍根はよろしい。(中略)どんな大きな不幸でも,病苦でも,反応しなければ,かなり毒が消えるのである。(p54)
 いわゆる恵まれない境遇にある人はとかく自分たちを不幸と思うけれども,それは当たらない。真の不幸は,我慢すべきものがない,すくないことである。(p60)
 コンプレックスは弱きものの友である。コンプレックスのない人はひとりで人生の難関に立ち向かわなくてはならない。(p73)
 人間を教えるのは人間ではない。苦労,貧困,病苦などおそろしい体験によってのみ,人間は人間らしくなる。(p93)
 企業で働くようになっても,別に,馬車馬のようにただ働くばかりが能ではありません。人からきいた,おもしろい話,さしさわりのある話,秘密は,胸にしまって,ほかの人に話さないようにすると,五年もすればまわりの信望が集まり,出世できます。とくに大きな仕事をしなくても,評価されることうけ合いです(p96)
 ことばづかいが乱れていると戦後ずっと言われてきたが,つまり,もともと相手本位,相手を立てることを基本にしていた日本語を,アメリカ流コミュニケーションのスタイルへ変えようとし,変えたところに混乱の原因がある。(p108)
 ホテルの喫茶室は,中年女性に人気がある。ことに数人でコーヒーとケーキ,それにおしゃべり,が最高のレジャーになるらしい。ボソボソやっているテーブルはない。みんな大声の競争のようで,仲間の言うことさえきこえない。だからますます大声になる。ひとりでお茶をのんでいる客は五分とはいたたまれない。声が大きいという自覚がないから,注意でもしようものなら,どんなトラブルがおこるかわからない。(中略) こういう自分勝手,はた迷惑を,それと自覚しない人間は洗練されることが難しい。(p120)
 年をとるにつれて欲は深くなるのが普通で,老人には欲のかたまりのようなのが珍しくない。欲は欲でも,物欲などは,あからさまにあらわれることがなくてすむだけに,とくにはた迷惑ということもないが,見ぐるしいのは自慢の欲望である。(p140)
 かげでほめるのはきわめて効果的である。ただし,なかなかできない。(p148)
 よく試行錯誤という。新しいものごとをするとき,やってみて,失敗してもまたやってみる。それを繰り返してすこしずつ上手になるのをそう言うのである。いちばん大切なのは,失敗をくり返す点である。いっぺんでうまくいく,というようなことはこの世の中に,そんなにあるはずがない。(p166)
 試行錯誤のおもしろいところは,失敗は忘れる,成功したことは記憶する,という点にある。つまり,成功体験は蓄積するが,失敗体験はその都度,消滅して加重しない。それでやがてうまくいくようになる。(p168)
 日記はいわば日々の決算のようなものだが,それより大切かもしれない予算というものを考えない。日記だけつけて得意になっているのは,予算を立てずに決算を行っているみたいなもので,おかしくはないか,そう思った。 (中略)さっそく予定を立てることにした。朝,前日の日記をつけたあと,その日にしなくてはならない予定の仕事を紙片に書き出す。(p186)
 多少の我慢をしないと,カネはたまらないようにできている。精神の自立を保証する第一はカネであるというのは決して俗物のたわごとではない。(p200)
 どういうものが,自由思考か,純粋思考であるかというと,いまないもの,わからないものを考えることである。 算数の応用問題の答えを求めて考えるのは,(中略)前段思考,具体思考である。それに対して算数の応用問題を“つくる”のは自由思考である。どういう問題をつくるかは自由である。一般に問題に答えるのより問題をつくる方がはるかに難しい。そのためもあって,問題を解く思考のみ力を入れる教育が行われている。(p211)
 朝,目をさましたら,すぐ起きないで,ぼんやりする。なるべく過ぎ去ったことは頭に入れない。浮き世ばなれしたことが頭に浮かんだら,それを喜び,忘れてこまるようなことだったら,メモする。毎朝,十分か二十分,こういう時間をもてば,誰でも思考家になれる。考える人間になれる。夜,考えごとをするのは賢明でない。思考は朝に限る。(p214)

2015年10月24日土曜日

2015.10.21 外山滋比古 『乱読のセレンディピティ』

書名 乱読のセレンディピティ
著者 外山滋比古
発行所 扶桑社
発行年月日 2014.04.05
価格(税別) 920円

● 本ばかり読んで知識を詰めこむことに警鐘を鳴らしている。忘れることの重要性を説く。この点は,今月読んだ他の著書でも何度も説いていること。
 知識は思考の邪魔になる。借りものの知識より自力で考えることのほうがずっと重要だ。本書の肝をひと言で表せと言われれば,そういうことになるだろう。

● 本を読む場合,ノートを取りながら読むなんてのは下策。なぜならスピードを殺してしまうからで,本はある程度のスピードを保って「風のように」読むほうがいい。そうでないとわからないことがある。

● たぶん,本を読んだあとにこんなふうにブログ(記録)を書くのも余計なことだと言われるのではないかと思う。
 が,半ば惰性で続けている。自分のためのブログだけれども,自分で読み返すことはほとんどない。書いたあとはそっくり忘れている。
 だけど,それだったら書かなくても同じだなと思う。

● 以下に,いくつか転載。
 書いた人間の顔がチラチラするようでは本当の読書にならない。どんなすぐれた著者の本でも,近い人の心をゆさぶるのは難しい。(p11)
 なれ親しんだ仲間,親しきものは,多く,不毛である。われわれはよく知っているものごとや人間からよい影響を受けることが下手である。その代わり,えたいの知れない遠くのものから,おもいがけない美しき誤解とともに深い教えを受けることができる。(p13)
 戦前の青年はいまよりもよく本を読んだが,あまり個性的ではなかった。そして常識的読者が多かった。哲学的なものが高級だと信じこんで,難解な翻訳にとり組んで粋がっていた。(p24)
 読ませたかったら,まず,読むことを禁止するのが案外,もっとも有効な手となる。(中略)かくれて読み,禁書を読むのははじめから自己責任である。かくれて飲む酒は,すすめられて飲む酒よりつねにうまい,にきまっている。(p30)
 わかりやすい文章を書くのは難しく,チンプンカンプンの文章を書くのはいともやさしい。そういうことを,教わらなかった日本人はずっと長い間,わけのわからぬ難解文をありがたがる悪習から抜け出すことができなかった。(p38)
 本当にわからない本でも,百遍読み返したら,わかるようになるか。ためした人はいなかっただろうが,わかる,のではなく,わかったような気がするのである。自分の意味を読み込むから,わかったような錯覚をいだく。(p41)
 いまはむしろ速読に人気がある。十分間で一冊読み上げる法などを言いふらしている向きもある。そんな本なら,いっそ読まない方が世話がない,とは考えないところが,かわいい。(p43)
 本を読んだら,忘れるにまかせる。大事なことをノートしておこう,というのは欲張りである。心に刻まれないことをいくら記録しておいても何の足しにもならない。(p45)
 読書ということはそれほどありがたいことではない。どれくらいご利益があるのかもはっきりしていない。(p49)
 知識はすべて借りものである。頭のはたらきによる思考は自力による。知識は借金でも,知識の借金は,返済の必要がないから気が楽であり,自力で稼いだように錯覚することもできる。(p51)
 文章の上手,下手は,技術の問題であるけれども,話すことがりっぱであるのは,その人の心,頭のはたらきそのものを反映する。そう考えると,書くことばよりも話すことばの方が,大きな意味をもっていることが納得される。(p56)
 ことばは,ゆっくり読まれると情緒性が高まる一方,速く読まれると,知的な感じがつよくなる。重々しい感じを与えたかったら,ゆっくりゆっくり話せばいい。知的な印象を与えるには,速度が大切で,早口だと,なんとなく知的にきこえる。(p61)
 辞書をひいたりして,流れをとめてしまい,むやみと時間をかけると,ことばをつないで意味を成立させている残曵が消えて,わかるものがわからなくなってしまうのである。一般にナメルようにして読んだ本がおもしろくないのは,速度が足りないからである。(p66)
 どうも,人間は,少しあまのじゃくに出来ているらしい。一生懸命ですることより,軽い気持ちですることの方が,うまく行くことがある。なによりおもしろい。(p88)
 学校を出て,自分で考えた問題をつくり,借りものではない思考によってモノを書きたい,論文をまとめたいと思うようになるのに十年はかかったのだから,いかにも血のめぐりがよくないのである。(p96)
 オリジナルなテーマは頭の中だけでは生まれない。生きていく活動の中からひょっこり飛び出してくるらしい。机に向かって考えるだけでは充分でない。常住坐臥,いつも頭の中にとどめていてはじめて,テーマになるもののようだ。(p97)
 読み飛ばしたって,心にひびくところは消えたりしない,ということがわかって,ノートをとりながらの読書をやめた。(p109)
 あえてよい条件からはなれ,不利なところで努力する方が新しいものを見つけることができる,と考えている。(p117)
 映画は俳優の演技によるが,廃油が勝手に動きまわっても映画にならない。監督が俳優を活かしてフィルムにする。俳優が一次的創造とすれば,監督の役割は二次的である。かつては,一次的創造の俳優の方が二次的創造よりも社会的に注目されたが,だんだん映画が進化するにつれて,監督の方が俳優におとらず,やがては俳優以上の評価を受けるようになる。(p125)
 風刺というものはピストルのようなもの。至近距離には威力をふるうが,遠くにはタマが飛んで行かなくて無力である。(p146)
 古典は作者ひとりで生まれるのではなく,後世の受容によって創り上げられるもののようである。絶対的作者の概念は,古典に関する限り,修正されなくてはならない。(p147)
 作者自身の評価はしばしば偏っている。客観的でないからで,作者は自作について,客観的になることはきわめて難しい。(中略) 近いということは,ものごとを正しく見定めるには不都合なのである。近いものほどよくわかるように考えるのは,一般的な思い込みである。自分のことがいちばんわかると思っているが,実は,もっともわからない。(p149)
 中国人は大昔,耳の方が目よりも高度の知性を育むことを知っていたようである。聡明。聡は耳の賢さであり,明は目の賢さであるが,順位は,聡,つまり耳の方が上である。そういうことばを移入させておきながら,日本人は耳を軽んじ,耳でする勉強を耳学問などと言っておとしめたのである。(p160)
 知識が少なくて,利用が活発であれば,余分な知識がたまって,病的状態になることはないが,知識,情報があふれるようになり,さらにせっせと摂取していれば,消費されないものが蓄積されて,頭の健康を害することがありうる。 つまり,体のメタボリック・シンドロームに似たことが,頭においてもおこりうる。(p169)
 忘却力のつよい人は頭がからっぽ近くになるまで忘れることができるのに,自然忘却力の弱い人は,覚えていなくてもいいことまで忘れない。これまでは,こういう忘れない人を優秀だと考えてきた。(p171)
 スポーツをする,勉強もつよい文武両道の子どももある。スポーツの練習で勉強の時間が少ないのに,勉強ばかりしている生徒より学業の成績がよいということがある。スポーツで,頭をきれいにしているからであろう。(中略) 不眠不休は大働きのように見えるが,疲れて,あまりよい成績が得られないことがあるのも,忘れる時間がないからである。(p173)
 知識によって人間は賢くなることができるが,忘れることによって,知識のできない思考を活発にする。その点で,知識以上の力をもっている。(p176)
 記憶はいつまでももとのままであるのではなく,忘却によって,少しずつ変化する。しかも,よりよく変化する。(中略) つまり,回想はつねに甘美である。甘美でないものは消える。(p179)
 知識を得るには本を読むのがもっとも有効であるが,残念ながら思考力をつけてくれる本は少ない。ものごとを考える思考力を育んでくれるのは散歩である。(p190)

2015年10月21日水曜日

2015.10.18 外山滋比古 『リンゴも人生もキズがあるほど甘くなる』

書名 リンゴも人生もキズがあるほど甘くなる
著者 外山滋比古
発行所 幻冬舎
発行年月日 2014.07.25
価格(税別) 1,000円

● 今月になってから外山さんの著書を読むようになった。これが4冊目。外山さんでなければ書けない。少なくとも,今までには読んだことがない類のエッセイ集。滋養があるというか,じんわりと染みてくるというか。
 90年も現実に生きてきて,現在も生きているというその事実が,後の盾になっている。

● 自分の今までの価値観に,やんわりと,しかし完膚なきまでに,訂正を迫る。が,その訂正作業は苦行ではなくて,そうなのか,そう考えてもよかったのか,と荷を減らしてくれるようでもある。

● 以下にいくつか転載。
 忙しい仕事をもつ人は,めったに約束の時間におくれたりしない。これといった仕事もしていない人が,おくれる。ヒマだからおくれるのである。ヒマな人はなにごとも,時間をかける。(p28)
 人と人は近いほどよいなどということはない。近いものは,近いものに,よい影響を及ぼすことができない。(p33)
 若いうちに人生を占うことはできない。しかし,トップより後続の方が,チャンスは大きいのははっきりしている。(p61)
 人間も仕事をするキカイのようなものだが,キカイは同じ調子で動いているのがよろしい。止めたり,動かしたりをすると故障になりやすい。リズムを刻んで順調に作動しているものを不用意に停止させるのはいけないことである。休みなど,すくないほどいいということになる。(p64)
 幼い子が一生でいちばん,かわいい,美しい顔をしているのは,わが子を充分やさしくかわいがらない親のいることを前提にしているのである。(p74)
 人を育てるにはホメるに限る。ということは,あまり広く知られていない。教師でも,教育とは叱ることなりと考える人が多い。(p96)
 慢心を生ずると,つい威張りたくなるのが人情である。威張ると,本人は気がつかないがたいへんなエネルギーを失う。それだけ弱くなるから,次の試合には負けることになる。(p134)
 難しい試験に合格すれば,得意になるのが当たり前,単純な人間は威張るかもしれない。試験はそうそうあるわけではないから,次に失敗することができない。何十年も威張って生きていく人がたくさん生まれる。停年でやめることになると,かつて試験に落ち,労苦の多い人生を歩んできた人よりも虚ろな人間になっていることがザラである。(p136)
 「道を歩かぬ人,歩いたあとが道になる人」 これはすぐれた日本の芸術家のことばである。名前はあえて伏せる。 無人島ならともかく,道を歩かないのは危険である。すくなくともハタ迷惑になることを考えないのは幼稚である。芸術は一般社会とはちがうから,道を歩かぬのが美徳につながるのかもしれないが,やたら歩きまわられては迷惑である。それを顧みないのは,悪しきエリート意識である。気取っては見苦しい。(p143)

2015年10月18日日曜日

2015.10.11 外山滋比古 『老いの整理学』

書名 老いの整理学
著者 外山滋比古
発行所 扶桑社新書
発行年月日 2014.11.01
価格(税別) 760円

● 『50代から始める知的生活術』『知的生活習慣』と重複するところがあるけれども,言っていることは,知識・勉強・読書よりも生活が大切だということ。生活が貧弱な人がいくら本を読んでもダメだよ,と。
 男よりも女のほうが,たいてい生活は豊かだ。ここから一歩進めると,男は女を見習えということになる。

● クヨクヨするな,楽天的であれ,知らぬが仏ということもある,怒りを抑制するな,といったところが説かれている。
 つまり,目新しいことは特にないといっていい。が,実際に90歳になった著者が説いているというそのこと自体が,説得に力を与えている。読み手のほとんどは90歳になったことがないわけだから。

● 以下に転載。
 わたくしは,未来にいいことがあるという希望というより勘のようなものをいだきつづけた。つまずき,病気になり,仕事をとりかえたり,おもしろくないこともいろいろだったが,気にしない,すぐ忘れてしまうことで,ノンキに生きて来たように思う。(p6)
 日本人はほかの国の人に比べて元気がないらしい。さきごろ内閣府の行った国際調査は,それを示している。 「自分に満足している」と答えた若者は45%で,米,英,独,仏,韓,スウェーデンと日本の七ヵ国中,最低である。(中略) なぜだろうか。ちょっと考えて答の出ることではなさそうだが,思い当たることがないではない。 端的に言えば,日本人はひとをホメないからであるように思われる。たえず他人の欠点を問題にし,批判,攻撃する。叱ることは少なくないが,ホメることを知らない。(p26)
 お茶を飲んで,とりとめのない話をしているだけで,どれだけ元気が出るかしれない。ハラをかかえて笑うようなことがあれば最高である。(p39)
 エラーより,それをくよくよ気にするほうがいっそういけない。(p52)
 ストレスは新陳代謝しているのが望ましい。溜まったら,発散,放出して,ストレス・フリーの状態にする。そこで,新しいこと,別の活動をして新しいストレスを溜める。減らして,溜めて,という交代を繰り返していて,心身の生活のリズムが生まれ,それにともなって,元気,活気のエネルギーも生まれる。(p60)
 昔の人は“泣く子は育つ”といってみどり子(乳児)の泣くのにむしろ好意を示し,うるさいのを我慢していたのであろう。近年では泣き声がうるさい,不快であるという大人の気持ちが強くなって,赤ん坊が泣かないようにしつけられているのか。もしそうだとすると,こどもの将来の健康が心配になる。(p69)
 老人は赤ん坊に似ている。(中略)年寄りは,赤ん坊にはなり切れないが,なるべく,赤子の心を取り戻したい。(p73)
 高齢者の読書は,泣くか笑うかのものがいい。変に理屈っぽいのは敬遠するのが賢い。いまさら,ためになる本を読んでもなんにもならない。(p75)
 ケンカといってもやり合うのではない。絶交するのである。しかし,それによって得る気力,元気,活力はバカにならない。気の小さい人間は,こういうケンカによって,気を大きくすることができる。(p81)
 本を読まなくてはならない,多く読むほどよいといった不自然な考えが一般に広まっているために,どれくらい損をしたかわからない。 本を読むことは立派なことである。だからと言って,本ばかり読んでいては,人間がおかしくなる。バカになる恐れも大きい。 年を取って,することがないから,本を読もうというのもよろしくない。することがなかったら,すること,仕事をつくるのである。本はいくら読んでも仕事ではない。仕事がなくては人間らしくなれない。(p99)
 いつしか,“風のように読む”のがいいと考えるようになった。さらっと上辺をなでるように読む。それでけっこうおもしろい。それどころか,そういう読み方でなくては目に入らないことが飛び込んでくる。(p101)
 ヨーロッパに「名著を読んだら著者に会うな」ということばがある。会ってロクなことはないということを前提にしていて,残念ながら,当たっていることが多いと思う。(p113)
 細々と書いているのでは,二千枚の原稿用紙は多すぎる。使い切るのにひどく長いことかかった。しかし使い切るころには,いくらかものが書けるようになっていた。二千枚の原稿用紙はムダではなかった。それどころか,仕事を呼びこむ,大きなはたらきをしてくれたのである。仕事のタネまき,として,まず,道具をこしらえるというのは,案外,現実的なのかもしれない。(p124)
 彫刻の大家平櫛田中は九十歳を超える高齢でありながら,十年分の材料を仕入れたというのである。長生きのための,すばらしい知恵である。たいへん感銘を受けた。(p125)
 勉強ばかりしていてひと息入れることを忘れると,いくら努力してもよい大成は望めない。(p134)
 眠りのほうが横臥よりも大事であるとするのは疑問である。眠りも横になるのもともに大切だが,眠りだけを気にするのは不当である。睡眠時間も大事だが,横臥時間はそれ以上に大切である。(p137)
 かつて中国文学の学者から,“料理”というのは“理(ことわり)を料する(考える)”ということです,と教わった。中国では深いところで料理を考えたことを示していて,たいへんおもしろく思った。 手をはたらかせ,頭もつかって作る料理は食べるよりむしろ作るのに意味がある。(p157)
 作ったものが,“おいしい”と言われたときの快感は特別である。原稿を書いていても,そういう思いをすることはまずない。(p160)
 ある元公立高等学校長は,絵画の趣味があって,勤めを辞めたあとは,せっせと絵を画いて,ときどき展覧会をひらいた。(中略)あるとき先輩から,手だけでなく,脚を動かさないと運動不足になるといって散歩をすすめられた。 元校長は,こどもを教えることには馴れているが,ひとから教えられることが下手である。先輩の忠告に反発した。 「目的のないことをするのは厭です」と言った。自分のしている絵画には目的があるつもりなのであろうが,無用の用ということを解しないのは知性の欠如である。(p171)
 体を動かすには,ときどき,思い出したようにしたのでは,話にならない。年中無休。毎日するのである。 それを自分にもはっきりさせるために,毎日の予定表をつくるとよい。(p177)
 流れる水は腐らない。動きまわるものには老いがゆっくりでいつまでも年より若い,と言われる。(p177)
 われわれの心を元気づけ,活力を高めるためには,先々に喜びをもつことが必要らしい。楽しみ,喜びを心待ちするとき,人間はもっとも元気を出すらしい。楽しいという気持ちは,それにつけた名前である。(p182)
 人間にとっても心配,悩みはたいへん怖いものであるはずだが,ふだんは忘れているのは,幸いであるかもしれない。心配ごと,悩みを気にするのは,「気」の「毒」で,気の毒な結末になる恐れがある。(p186)
 平穏無事の一生ということは考えられない。病気になった,災難に遭ったとしても,すぐ,これでおしまいと考えない。楽天的であるのがいい。なんとかなるさ,とタカをっくくっていると,案外,そうなる。人間のおもしろいところである。(p197)
 いやなことは“知らぬがホトケ”。運悪く知ってしまったら,“忘れるがカチ”。(p199)

2015年10月14日水曜日

2015.10.09 外山滋比古 『知的生活習慣』

書名 知的生活習慣
著者 外山滋比古
発行所 ちくま新書
発行年月日 2015.01.10
価格(税別) 800円

● 先日読んだ『50代から始める知的生活術』と重なるところもあるけれど,90歳を超える人でなければ書けない(かどうかはわからないにしても),相当以上の説得力を感じる。
 知識なんて大したものではないというのが,本書に通底する主張(あるいは事実の指摘)のように思う。

● 読み進めていくうちに気分が楽になるのを感じた。ゆったりとしてくる。

● 以下に転載。
 いかに賢く忘れるかは,昔の人の知らなかったいまの人間の課題である。(中略)日記は心覚えのためにつけるのではなく,むしろ,忘れて頭を整理する効用のあることがわかってくる。(p26)
 知識と思考は仲がよくない。知識がふえればふえるほど,思考の必要が小さくなって,考えなくなる。必要が思考の母である。知識で間に合わせれば考えるまでもない。それでいつしか思考を忘れ,思考ができなくなる。(p48)
 知識を得たら,すぐに,使わない。時間をおいて,変化するのを待つ。(中略)“時”の力を加えることで,知識は変容し,昇華する。正確でなくなるかもしれないが生産性を獲得する。そういう特化した知識は,思考と対立しない。(p48)
 図書館で書き上げた本がどれくらいあるか,自分でもわからない。書いていてわからぬことがあると,十歩も歩けば書架である。辞書類もわりによく揃っている。図書館は,私にとって,本を借りて読むところではなく,主として,執筆の代用書斎として役立っている。うちの書斎より仕事のはかが行くのである。(p57)
 あるとき,われわれの日常の生活も,形のない雑誌のようなものではないかと考えた。ぼんやり,なんとなくすごす一日は,編集のない同人雑誌のようなものではないか。(p85)
 自分で編集者になったつもりで,スケジュールをつくるのである。(中略)一日の生活編集である。(p86)
 モノマネによって得られた知識は,それ自体では活力をもたない。新しい知識を生む力を欠いているが,それを反省するのは愉快ではないから,飾りもののような知識のことを教養と呼んで価値づけ,実用よりも一段上のものであるような錯覚をもつようになったのはシッタシズム文化の成り行きである。(中略) 人文学の学者は多くこの教養シッタシズムに陥って,無力である。モノマネの知識は振りまわしても,自分のことばがない。知ったかぶりをしても,借りものの着ていい気になっているおしゃれくらいにしか評価されるべきではない。(p91)
 腑に落ちないこと,わからないこと,不思議なことに出会ったら,素朴に,「なぜ」「どうして」などと自問するのである。すぐ本を調べたりすることは必ずしも賢明ではない。疑問はいつまでも疑問としていだいていれば,そこにおのずから独自の思考が生まれるきっかけになる。(p94)
 飲み屋の雑学的放談はすばらしいエネルギーを与える。象牙の塔に立てこもると,そういう低俗をきらい,ひとり高しとしていると下降し始めるのに気づかない。(p104)
 机の上ではまとまらなかったことが,近所をひとまわり,ふたまわりしてくると,スラスラと解決することがあって,散歩の信者になったのである。散歩中の思いつきをメモにとる習慣が付いた。その後,散歩より,朝,目覚めたあと三十分か小一時間,天井をにらんでいる方が,思考にとって生産的であることに気がつく。枕もとに大きなメモ紙を置いて,自由思考を楽しむ。(p120)
 じっと座っているのがたいへん心身にとってよくないことだという常識を現代人はもっていない。人間はしゃべる動物である。だまってひとりでながい時をすごすのは人間ばなれたことになる。(p135)
 明治の話だが,日露戦争のあったことも知らず,勉強,研究した学者がいて,世人はそれを学問の権化のようにたたえた。象牙の塔では,そういう人たちによって守られると誤解した。生活がすくなければすくないほど人間として価値があるという考え方である。象牙の塔には生活がなくて,ただ知識の残骸あるのみ,ということを啓蒙期の社会は知らない。おくれているのである。(p175)
 人間は生活があるから人間なのであって,知識がいくらあっても,生活のない人間は価値が小さいのである。(p181)
 学校を出て勤めるようになると,生活欠如を反省したりしているヒマがない。ただ勤勉にはたらけば,充実した生活であるように考えやすい。つまり,仕事人間であって,本当の人間らしさを失うおそれが大きい。(p183)
 文学青年は眼高手低である。自分ではできもしないで,他人の仕事にケチをつけるのを得意とし,それを批評だと思い込む。判断力が欠けている上に,反省することを知らないから,ハタ迷惑である。(p201)
 学生だったあるとき,英語学者の大塚高信博士が,こんなことを言われた。若いうちは文学がおもしろいが,年をとると,語学の方がおもしろくなる。私はこのことばに強い感銘をうけたが,私自身,文学青年的であることに満足できなくなっていたからであろう。(p202)
 日本語の散文確立にとって木下是雄『理科系の作文技術』の果たした役割は大きい。文系の人たちの「文章読本」は充分に散文的でない。それをはっきりさせたのが,物理学者の書いた『理科系の作文技術』である。(p206)
 バーナード・ショーがえらいのは,書いた手紙の数ではなく,ほかの人が書かないことを手紙の中で書いたことである。そのひとつに,「今日は疲れている。体力がないから,長い手紙になるが,かんべんしてください」という冒頭の手紙がある。(中略)すぐれた手紙を書く人は,短くて要領よく心にひびく手紙を書く。(p218)

2015年10月5日月曜日

2015.10.03 外山滋比古 『50代から始める知的生活術』

書名 50代から始める知的生活術
著者 外山滋比古
発行所 だいわ文庫
発行年月日 2015.02.15(単行本:2010.03)
価格(税別) 650円

● 本書刊行の時点で,著者,91歳。

● 知的生産術といいながら,その前提として,健康と資産がなければならない。健康については歩くことを奨励している。
 「老後」ということばを意識し始めてから,ずいぶんと歳月がたちました。思いのほか長いのが,老後です。この老後を輝かしきものにするために考えたのは,(中略)まず自分の足で歩くことでした。(p17)
 ウォーキングを毎日の習慣として持続させるためには,自分のスタイル,「型」を持つことが大切です。型とは怠け心が頭をもたげても崩れないスタイルです。わたしの場合は,自宅まわりを歩くのではなく,定期を買って遠方に行くことが自分の流儀です。(中略)定期を買った以上,使わなくてはもったいない,という気持ちがはたらきます。だから,ひたすら歩くことになります。自分のケチな根性を生かすのが,自分でも愉快です。(p55)
● 資産については株式投資。若いときからやっておけ,と。
 どうせ株式投資をするなら,若いうちからがいいと思うのは,年をとると欲が深くなるからです。欲が深くなると,判断も狂いがちになります。(p30)
 その会社に対する投資にしても,見誤ることがあります。投資の格言である「人の行く裏に道あり花の山」を地で行ったとしても,その裏道で迷ってしまうこともあるのです。(p31)
 株を始めてしばらくすると,教員という人種がいかに世間知らずかを痛感するようになります。世の中の経済動向や流行などにも,からきし無頓着。新聞を読むとき,文化欄ばかり読んだりする。 これでは,浮世離れするのも当然,世間が狭くなるのも,むべなるかなです。(p32)
 老後の備えは,早くから自助努力すべし。しかも,自己責任がともなう株式投資がリスクが大きいからよろしい。自己責任に対する意識が希薄なうちは,人生に対するリスクテイクの意識も芽生えません。(p37)
 では,株式投資に失敗して,足を洗った人はどうすればよいのか。そんなことは知ったことじゃないのである。

● 本題(?)の知的生産については,知識をインプットすることではなく,考えることをせよ,と説く。考えるためには知識は邪魔になることが多い。したがって,忘却も大事である。
 知識が増えれば増えるほど,それに反比例するように,思考力が低下することに,はっきり気づくべきです。(p103)
 テストの点が七十点の学生は,その足りない分,自分なりに頭で考えていこうとしているのです。対して,九十点をよしとする人のほうは,自分の知識で勝負します。だから,独自の思考力がもとめられるときになると,途方にくれるのです。(p104)
 染みついた知識・常識の多くは,他人のこしらえた思考です。それを自分でつくったように使うのは,正直さに欠けます。(p107)
 忘却こそ,知性のはたらきをさかんにする,大切な下ばたらきをしていると言ってもいのです。(中略) 個性的なアイデア,発想,思考は,この忘却なくしては不可能と言ってもいいでしょう「知的生活」を実践するために,よくノートなどで記録したりします。いまならパソコンに入力します。しかし,あれは記憶の保護に過ぎず,むしろ考える作業の邪魔にさえなるかもしれないのです。(p117)
 読書体験もせいぜい三十代くらいまで。それ以後の読書は,あまり役に立たない。(中略)よけいな本は読まないことです。(p120)
 自分で考えないで本に答えを求めるというのは間違っています。人が考えたことを信じて,その通りにしてもうまくいくはずはありません。(p121)
 忘れようと思ってもなかなか忘れなられないことでも,書いてみると,案外,あっさり忘れることができます。書いて記録にしてあると思うと,安心して忘れることができるのです。(p170)
 思考は,生きている人間の頭から生まれるのが筋です。研究室で本を読んでいる人は思考に適しません。生活が貧弱だからです。(p212)
● その他,いくつか転載。
 サラリーマンの場合はもともと,自分の本来の価値とピタリとはまったものを仕事にしているわけではありません。 そのことを,組織のエスカレーターに乗っているうちに,いつのまにか自分の「得意」と思いこんでしまっていることもあります。 もし,あるとき人生の二毛作を志したのなら,そのエスカレーターはいったん降りて,自分の足でのぼる階段を見つけたほうがいいでしょう。階段も無ければ,自分ではしごをつくるくらいの気概があってしかるべきです。(p24)
 若いときの友人関係は,もう賞味期限が切れています。賞味期限の切れたものは,捨てて,買い換えないといけないのです(p84)
 雑談・放談は,人生最大の楽しみであり,人間が発見した最高の元気の素ではないでしょうか。(p92)
 『源氏物語』を英訳して世界に知らしめたアーサー・ウェイリーは,日本に招聘されたとき,「自分の愛する日本は昔の書物のなかにある」と,辞退したそうです。このエピソードに,わたしは強い感銘を受けていました。(p110)
 いまの企業は考えが古いから,休みはムダ,休みなく働くのが望ましい,という単純な労働至上主義にとらわれているのです。それが結局,生産性を落とすとは考えていません。(p149)
 机に向かい何時間も仕事をするというのはたいへん不自然なことです。野生の動物だって食べるために働きますが,同じところに何時間も座っているなどということをするものはありません。じっとしていることは,動物にとってときに危険です。(p150)
 まじめな人は,朝から晩まで,ひとつのことに集中することができます。それをいいことのように思っている人は,一日中,図書館にこもって難しい本を読んで得意になるかもしれませんが,知恵が足りません。図書館,もちろん結構ですが,一日中というのがいけません。せいぜい二,三時間です。(p151)
 少し高等な教育を受けると,知識をありがたがって,生活を小バカにします。知識さえあれば人間は進歩するという古い思想にいまなおとらわれています。(p155)
 これ,グサッとくるところがある。若いときの自分はそうだった。いや,中年に達してからもしばらくはそうだったかもしれない。
 本当に好きなことがないと,流行の後追いをすることになる。(中略)人のことばに動かされたり,世間の常識に引きずられたりします。(p161)
 くよくよするのは,要するに,後ろ向きになっているからです。いくら過ぎ去ったことにこだわっても,過去が変わるはずがありません。(p170)
 これもあたりまえのことなんだけど,言われてみないとわからない。くよくよするのは後ろ向きになっているからだ。憶えておこう。
 年をとったら,おしゃれ,ぜいたくは,いいクスリです。やはり若返るのはむずかしくても,元気は出ます。なりふり構わずというのは,若いうちのこと。年をとったら,なりふりをできるだけよくしたいものです。(p190)
 江戸中期の俳人,滝瓢水の句に, 濱までは海女も簑着る時雨かな という名句があります。(中略) 海女は浜へ着けば,海に入る身,濡れることはわかっています。時雨が降ってきても,どうせ,すぐ濡れるのだから雨に濡れていこう,などというつつしみのない考えはしない。やがて濡れる身であることはわかっているが,それまでは濡れないように簑を着てわが身をいとう,大切にするというのです。どうせ,という弱い心をおさえて,わが身をかばい,美しく生きるたしなみ,それが人間の尊さであるのを暗示しています。(p192)
 文学青年などは,「文学が第一,生活否定」といった思想にとらわれると,一生を無為に終えてしまいます。小説を書くには,生活がわからなくてはなりません。二十歳にもならない若者にも「傑作」が書ける小説などというものに,人生的意義はあまりないと言うべきです。(p214)