著者 外山滋比古
発行所 さくら舎
発行年月日 2015.11.13
価格(税別) 1,400円
● 忘れることの重要性を説く。学校秀才が大成しないのも,忘れることが下手だからだよ,と。
ところで,この本,前にも読んだことがあるかもしれない。読了してなお,はっきりとは思いだせない。ということで,ぼくの忘却力に問題はない。
● 以下に転載。
まず覚えて,そのあと忘れる,という順であるように思われているが,本当は逆なのではないかと考える。(中略)たとえていえば,ものを食べるようなものである。一般に,まず食べて,それから消化,そして排泄すると思われているが,実際は,まず消化によって胃の中を空っぽにしておく必要がある。(中略)「忘却先行」が正常なのである。それを知らずに記憶をどんどん増やせば,頭は記憶過多になる。知的メタボリック・シンドロームである。(p8)
新しい知識はおとなしくしていないで暴れることがある。いったん鎮めるのが賢明である。(p16)
忘れようとしなくても,自動的に忘れるようになっているのは,それだけ重大な作用だからである。呼吸とか心臓の脈拍も自動的だが,これは生命にかかわる最重要な作用だからである。(p19)
一心不乱に勉強すれば,優等生にはなれても,人間としての力をもっていない。(p26)
よく学ぶには,よく遊ばなくてはいけない。学びをよくするには,よく遊ぶ必要があるという含みがある。(p29)
記憶だけではよい記憶にならない。遊んでいるあいだの忘却によって,記憶の一部が欠落する。つまり忘れるのである。この忘却を経由した知識が,その人間にとって,力をもった知識となる。(p31)
知識の漁が少ないあいだは,知識は多ければ多いほどよろしいと考えられる。ところが,知識情報が多くなりすぎる情報化社会になると,(中略)ゴミのような知識を排出することが,重要な精神活動になるのである。(p38)
すべてのニュースは,時がたつにつれて新しさが消えて,変質する。さらに,十年,二十年もすると,ほとんどのニューーすは消えて,わずかなもののみが,歴史となる。歴史になった出来事は,しばしば,信じられないように変容しているはずである。(中略)歴史は,風化による創造である。(p47)
思い出は,記憶の力によってできるのではない。忘却が記憶を食い荒らしてつくるものである。(p64)
さっき歩いてきたところの題材を,そそくさとまとめて句にしたようなものが,おもしろいわけがない。あまりにも新鮮すぎる。(中略)生のものはそのままでは詩になりにくく,回想されたものが心を動かす表現になる。(p70)
忘却を嫌い,おそれるのは,時の流れを否定するようなもので,自然の大理に反することである。(p76)
忘れ方が下手になると,忙しくもないのに多忙なように勘違いして,小さなことにこだわるのを知的であるように誤解する。(中略)うまく忘れることができるようになるためには,生活が多忙でないといけない。毎日が日曜日といった生活では,忘れることができないから,ボケという“悪玉忘却”があらわれる。(p86)
いくら細かいことを書きならべてみても,日記では人生は変わらない。(p97)
日本人はユニークであったといってよい。耳より目を大切にする。談話より文章の記録をありがたがる傾向が強いのは,漢字という視覚中心の文字に生きてきた長い歴史が深くかかわっている。(p116)
散歩は体のためによいだけではなく,精神的効果もある,ということに気づくのには時間がかかるようで,いまだに周知とはなっていないように思われる。(p133)
ひとりで学問をするのでは,談論風発もないから小さく固まってしまうが,いろいろな人と付き合っている学者には飛躍がある。勉強はひとりでするもの。そう思って若い人は,本ばかり読む。その努力は立派であるが,そのわりには伸びない。(p146)
われを忘れることによって,新しい自己があらわれる。そうとわかっていても,ひとりでは,自己忘却は不可能に近い。(p147)
浪人はおもしろくないが,その経験のある人は,秀才で,受ける試験にすべて合格したというような人にはない人間力をもっていることが多い。(p157)

0 件のコメント:
コメントを投稿