著者 森 博嗣
発行所 日本実業出版社
発行年月日 2019.11.10
価格(税別) 1,400円
● 哲学というとやや違うかもしれないけれども,認識論の範疇に属するものだと思った。整理術を肴にして認識論を語っている。スラスラとは読めなかった。何回かページを前に戻すことがあった。
なので,読むのにけっこう時間を要した。もともと,ぼくは読むのは遅い方なんだけど。
● 以下に多すぎる転載。
「仕事術」というものを,僕は事実上持っていない。なんの拘りもなく,方針もなく,これまで仕事をしてきた。拘りがなかったから,研究者なのに,小説を書いたのだ。(p6)
日本人の半分くらいは,本など読まないし,活字を読んでも意味を頭に展開できない。だから,文字を読めるという基本的な能力に加えて,自分の人生を工場させたいという意欲を持っているだけで,なにごとにも積極的になれるはずだ。これが,成功を導く要素となる。(p8)
世の中も自然も,不公平にできている。だからこそ,「公平」というルールを作って,人間社会を改善しようとしているのである。(p9)
能力が低い場合には,その分時間をかけて人よりも余計に努力をしないと,同じ目的に到達できない。だが,これを「損」だと考えるかどうかは,人によって異なる。他者と比較をする競争のような場合は,時間が短い方が有利であるけれど,自分の好きなことにうちこんでいる場合ならば,目的になかなか到達しなければ,それだけ楽しい時間が増えるのだから有利である。(p9)
僕の断捨離に対する考えは一つだ。不要だと断言できるものは捨てれば良い。そうでないものは持っているしかない。これだけである。(p11)
最近よく話題に上るのは,「終活」なるもの,つまり,死ぬときの準備のことだ。身の周りを整理しておこう,ということらしい。これも・僕にはまったく無駄に思える。そんなことをして楽しいか?と首を傾げてしまう。(p12)
断捨離するなら,持ちものなど,どうだって良い。そのまえに,自分の気持ちを断捨離しておこう。終活も同じだ。どちらも,まずは死ぬ覚悟をしておくことである。その次には,人間関係を断捨離しておくこと。(中略)借金があったり,人から援助してもらっていたり,といった関係を処理しておくこと。親戚関係で,子供たちになにかいってきそうな人がいたら,縁を切っておくこと。そういうものが,本当の断捨離である。(p14)
動物というもの,あるいは生命というものが,不均質な状態なのである。つまり,生命というのは,宇宙の平均的な状況からすると,極めて奇跡的なバランスを保っている特殊な状態であり,ある意味で,綺麗に整理・整頓されたものといえなくもない。(中略)ということは,人間が整理・整頓に憧れるのは,それが生命を感じさせるものだからではないか,というのが僕の思いつきである。(p22)
一人で作業をする現場というのは,僕が知る限りでは,だいたい散らかっている。(中略)逆にいえば,その状態が自分にとっては「効率的」なのである。(p25)
片づけることでは,新しさは生まれないのだ。せいぜい,思い描いたとおりの綺麗さが表れるだけのことで,想像もしなかった展開にはならない。ここが,片づけることのつまらなさである。(p35)
綺麗に片づいた職場というのは,必要なものと不要なものが,きっちりと区別できる作業を行なっているため実現するものであり,いわば決まった作業を繰り返すルーチンワークをしている場所なのである。(中略)創造的な仕事をしている場合ほど,片づけられない。逆に,片づけられるのは,創造的な仕事をしていないから,といえるだろう。(p35)
やる気がないときは,部屋とか机とか,できる範囲で良いから,ちょっと片づけてみる。すると,なんとなく気持ちの整理がつくものである。(中略)なにか一つをすることで,次にできるものがわかってくる。上手くすると,やる気も出てくるかもしれない。(p39)
何をすれば良いかわからない状態とは,なんでも良いからした方が良い状態である(p39)
「嫌だな」と思っている,その状態のままやる。それが正解である。嫌な気持ちを「やりたい」気持ちに切り換えるのは,かなり難しい。(中略)嫌だけれど,やった方が得だとわかっているから,得と我慢の交換として,やっていることである。(p40)
世間で良いといわれている方法が,必ずしも個人の役に立つわけではない。(中略)どんな方法が自分に効くのかは,実際に試してみるしかない。(中略)これは,時間をかけて試行錯誤を重ねて見つけるもの,築くものなのであり,時間がかかる。(中略)自分に適した方法を早く見つけるコツというのは,できるだけ多くの意見や事例を参考にすることだが,そのときに,好き嫌いで評価をしないこと。嫌な奴がいっていたから,あいつの意見は聞きたくない,ということは,自分にとっては明らかな損である。(p42)
それくらいものは増える。どうして増えるのか,といえば,どんどん新しいことを始めるからであり,それだけ面白いこと,やりたいことが多いからなのだ。活気に溢れている場所というのは,必然的にものが増える。自然に減っていく,などということは滅多にない。(p54)
この人間に求められた「集中力」とは,結局は「機械のように働け」という意味であるから,僕は「機械力」と名づけるのが相応しいと考えている。(中略)では人間に要求される能力とは何か? それは,新しい問題を見つけること,これまでになかったアイデアを発想することである。(中略)こういった問題発見や新発想に必要なものは,一つの対象に集中する思考ではなく,沢山のことに目を配り,また無関係なものからヒントを得るような「連想」である。「連想」とは,思いもしないところから「思いつく」行為だ。これらには,集中力とは正反対の姿勢が有利となる。(p62)
量子力学における「不確定性原理」という言葉を聞いたことがあるだろう。(中略)「なにごとも,突き詰めていけば,その核となる大元に行き着くわけではない」くらいの意味なら,そのとおりかもしれない。(p87)
学習は,栄養補給であるから,学習するほど頭が太る。だから,適度に計算や発想でアウトプットしないと,頭の肥満になりやすい。頭が肥満すると,頭の動きが鈍くなる。頭を使うことが億劫になる。面倒なことを考えたくない頭になる。(p92)
(発想するのに)リラックスが必要なのは,重要なポイントであるけれど,リラックスするためには,緊張した時間がなければならない。(p95)
発想をするためには,無関係なデータも必要である。必要なデータだけ学んでいれば,スペシャリストにはなれるかもしれないが,斬新な発想は生まれないといっても良いだろう。(中略)教養というのは,「役に立たないものなど一つもない」という精神が育むものだろう。(p96)
多くの場合,忘れてしまうようなものは,それだけ印象が薄いわけで,結局は大したアイデアではないか,熟成されていないかのいずれかだろう。そういう場合は,一旦忘れてしまうのがよろしい。熟成した頃に,ふと思い出すことになるからだ。(p97)
大事なことは,むしろすぐに答えを出さない姿勢だ,と僕は考えている。もしできるならば,しべて保留にすれば良い。(p98)
たとえ自分が決断して実行したことであっても,いつも半信半疑で良い。(p98)
頭脳は,考えることで沢山のエネルギィを消費するから,できるだけ考えないようにしたい。頭が疲れないようにしたい。そういう本能があるから,てきぱきと判断して,自分の立場を早く確立しようとする。これが,判断を急ぐ理由である。いわば,考えることからの逃避なのだ。(p99)
判断する段階では,失敗を恐れないのは危険な指向といえるだろう。こうした楽観が,どれだけ大きな不幸を招いたことか。(p100)
頭を整理・整頓するよりも,頭を使うことの方が効果がある。いつも頭を動かしていれば,回転数が歳とともに低下する傾向があるにしても,止まるようなことはない。その意味でも,判断をいつもするように気をつけること。すなわち,自分の立場はこちらだと決めつけないで,常に周囲の条件などを評価し,新しい判断をする姿勢が,頭を使い続けることになる。(p103)
つい最近になって,インターネットが突然現れ,人々がそこに吸い込まれた。せっかく古い柵を切り,都会に出てきた人たちが,あっという間にネット社会の「村」に取り込まれた。(中略)フェイク情報に影響されたり,赤の他人に腹を立てて炎上させたり,といった現象は,かなり古いタイプの人間関係に酷似している。近代社会は,そういうものを排除したはずだが,何故復活したのだろうか?(p121)
自然は不確定なものであり,災害をもたらす危険がある。だから,徹底的に自然を遠ざけて,すべて人工的なもので人間が活動する場所を作ってしまおう,と考えた。その結果が都市である。集中し,密集することで高効率を得る。これは,集積回路と同じ理屈である。お互いのアクセス経路が短いことが,効率を高めるからだ。構造は多層化し,平面から立体へシフトする。(p123)
インターネットのストラクチャは,これまでの集中系ではなかった。(中略)完全な分散系であり,社会の構造とも異なっている。ただ,人間の頭の構造には分散系が近いかもしれない。人間の頭脳は,図書館の分類のように整理はされていない。(p127)
インターネットが一般に普及し始めたのは九〇年代初めであるが,このとき僕が感じたことは,「社会の秩序が乱れるだろうな」というものだった。個人どうしが勝手につながることは,社会に存在するあらゆる枠組みを破壊する可能性がある。(中略)それまでは,ある枠組みに属すれば,他の枠組みには属せない,という暗黙の了解があった。これは「集中系」のストラクチャの基本だ。(中略)ネットでは,このような二重登録が簡単に実現する。個人が複数のアカウントを持つことができ,複数の人格を装える。そこには,個人の可能性を広げる自由がある。むしろ,現実でそれが不可能なことが,いずれ不自然となりそうである。(p128)
昔は,大勢が均一な生活をするようにデザインされた社会だったが,今はそうではない。ランダムになるような方向であり,これが分散系のネットの仕組みにも類似している。個人の人間関係は,今後も限りなく多様化,多層化するはずである。その限界は,個人の頭がついていけるところだ,と思われる。認識できるうちは,自由に複雑化するはずである。(中略)この状況自体を,僕は「悪くない」と感じている。このようなランダムで複雑なストラクチャは,人工的ではなく,むしろ自然に似ている。自然の生態系は,人間の理解を超えるほど複雑で,あらゆるものがリンクし,しかもどこにもグループらしきものを形成しない。一つのものが一箇所で増えることを,自然は嫌っているようにさえ見える。(p132)
人間は長生きするが,時代の変化は速くなっている。個人が何度もリセットしなければ追いつけない時代になった,といえるかもしれない。(p134)
その理想の中には,自身だけではなく他者にまで,どう考えるべきだ,どう行動すべきだ,と要求するようなものまである。それはまるで,人を操る殿様か催眠術師のような能力を想像させる。そんな範囲にまで自分の理想を持つこと自体に問題があるのだが,残念ながら,それに気づく人は非常に少ない。(p136)
問題は,通常一つの要因で発生した結果ではない。一つの要因であれば,大きな問題にはならないだろうし,気づいた人がすぐに手を打てたはずだ。そうではなく,複数の要因が絡んでいるから,どんな手を打てば良いのかがわかりにくい。(中略)その要因というのは,探して見つかるようなものではない。なんらかの手を打って,その結果を見ることで,そこではないか,そちらだったか,と把握する。つまり,試してみないとわからない場合がほとんどだ。(p140)
仮想の他者,仮想の社会を,自分の中に作ってしまうことを,ときには「自意識」と呼ぶことがある。(中略)ネットの普及によって,この自意識が平均的に活性化していることは,おそらく誰もが感じるところだと思われる。ネットは,仮想の「他者」や「社会」を個人の意識の中に構築するのを促す機能を有している。(p145)
自分を考えるとは,自分と社会との関係を考えるということと,ほとんど同じである。自分が何者であり,どのような可能性を持っているのか,と考えることだ。(中略)自分のことを考えるというのは,自分のことだけを考えるのではない。なんでも良いから,とことん考えているうちに,だんだん自分というものがわかってくる,という知見である。(p148)
具体的な手法など役に立たない。そういう手法がもしあるなら,その手法が実践できる人に,仕事として頼めば良いだけである。自分がしたいことに活用するためには,手法がもっと抽象化されていなければならない。もっとぼんやりとして,方向性を示すくらいまで概念的になっていなければ,個々の対象に活かせない。(p152)
運に任せるという楽観では,ほぼ成功はありえない。幸運で成功した人は,運を見逃さなかったし,それ以前に努力や試行錯誤があったから,運が訪れたことに気づけたのである。ぼんやりと,ただ待っているだけの人には,運がどのようにやてくるかも想像できないはずである。つまり,そういう人には見えないものだと思ってもらえば良い。(p154)
ほとんどの場合,本質や真の目的から目を逸してしまう原因は,「感情」にある。感情というのは,問題を見誤らせる。(中略)客観的に見れば,さほど大きな問題ではないにもかかわらず,感情がそれを増幅して見せることが多い。(中略)もっと問題なのは,その障害のために,先が見えにくくなることである。(p157)
人間の精神は,自分を庇うようにできている。基本的に自分贔屓だ。(中略)しかし,相手も同じ感情で判断をしているから,当然ながら争いになる。(中略)感情とは,一度湧き起こると,自分で自分を煽るから,どんどんエスカレートする。(p158)
信頼を得て,他者に使ってもらえる人間は,人間として片づいている必要がある。少なくとも,そう見えるようでなければならない。(中略)そのためには,感情を抑制することが第一条件である。(中略)社会の人間関係は,人格の本質でぶつかり合うほど深いものではない。見かけだけのレベルなのだから,ちょっと装うだけで,ずいぶん社会で生きやすくなるだろう。これが,社会性とか協調性などと呼ばれるものである。(p160)
研究とは,すべて世界初でなければならない。他者に追従するものではないし,他者の成功をトレースするものでもない。同じことをしている人はいないのだから,研究者のあり方のようなものは存在しない。それぞれが,自分のやり方で前進しているはずだ。(p166)
考えることです。もう必死になって考える。ずっと考え続けます。僕たちの分野では,それ以外に成果を出す方法はありません。誰も教えてくれないし,誰も知らないことだからです。(p169)
方法ではない,ということがまず第一だと思いますよ。方法なんて,そのうちできてくるものです。とにかく,結果を出す,必死になって前進します。すると,振り返ったときに道ができている。それが『方法』というものです。方法というのは,同じことをもう一度するときには役立ちますが,最初にするときには,方法はありません。(p170)
(論理的思考は,どのようにすると身につきますか)論理を出力することです。(p177)
力を出し切らないで仕事をした方が健全だと思います。そんなに一所懸命になる必要はないし,それくらい力を抜いた状態こそが,その人の性能だと思います。機械は,みんなそうですよ。最大出力で使ったりしません(p180)
勉強法を確立できるのは,試験対策としてだけです。どんな試験かだいたい決まっているからできたことです。一般の場面では,勉強法なんて確立できないと思いますよ。(p183)
事前に学ぶことはないと思います。いつでも学べるのです。問題が起こってから,仕事で直面したこと,必要なことを学べば良いのではないでしょうか。(p187)
情報過多といっているわりに,みんな薄っぺらい情報しか見ていないし,深く追求もしません。情報と情報の関連性も考えません。それも,やはりインプットだけではなく,アウトプットすることが大切です。つまり,情報について考えること。情報というのは死んだデータです。もう変化しないものです。考えなかったら,情報は死んだままですが,考えることで,初めて情報が生きます。(p191)
何を学べば良いのか,と考えることが,スペシャリストへの第一歩です。(中略)教材があり学習法があったのは,十代までのこと,共通する基礎的な事項,つまりジェネラリストを育てる段階だったからです。(p197)
貴女は考えることが苦手なのでしょうね。だから,効率の良い方法を求めてしまう。計算はするから,数字と式を教えてほしい,とおっしゃっているのです。でも,社会にある問題は,すべて応用問題です。計算をしなさい,という問題はありません。(p200)
研究者の素質としても,コンピュータの前に十時間くらい毎日座っていられることは条件といえます。続けることで,自分の能力を増幅できるわけですから,こんなに簡単な方法はほかにありませんよ。(中略)こつこつと続けることで,ほとんどのことは実現します。(p202)
皆さんにいえることは,人にきくまえに,自分で考えましょう,だと思います。(p203)
効率的に学ぶと,効率的に忘れていくかもしれませんよ。(中略)効率なんてものは,その程度のものだということです。(p206)
部屋は,なんにでも使えるスペースだったのだ。(中略)そして,それらの行為が終わったら片づけて,なにもない場所に戻す。この精神は,「みそぎ」的なものといえる。つまり,あらゆるものが「けがれ」を持っているから,常に綺麗にリセットすることで,正しさを保つのである。(中略)散らかっている状態は「乱れ」だと捉えれれる。(中略)常日頃から乱れることがないように,クリーンな社会を目指そう,といった精神が共有されてきた。(p209)
人間は,創作的な作業を担い,それ以外は機械が生産する,という世の中になるだろう。これは客観的に見れば,「乱れ」がまっとうな仕事になったようなものだ。人が面白がるもの,興味を示すものは,「秩序」ではないからだ。(p211)
僕は,デビューしたときからずっと,創作ノートというものを持ったことがない。小説のプロットは書かない。予めストーリィを決めておくようなこともしない。テーマなんか考えないし,誰が登場するか,どんな結果になるかも,まったく白紙のまま執筆を始める。事前に考えるのは,作品のタイトルである。これは半年ほどかけて考える。(p213)
頼まれたわけでもない,褒められたいわけでもない,自分がやりたいからやっている。この自発性というか,自己完結的な部分が,人園としてとても魅力的に見える(p233)
言葉で説明しても,全部は伝わらない。わかってもらえることなど,ほんの少しだ。大部分は誤解される,と考えて良いだろう。文章を書くことが仕事の僕でさえ,そう理解している。(中略)誰にもわかってもらえなくても,自分はわかっている。自分が知っている自分が,一番本物だし,その評価を自分ですれば,それで良い。これがつまり,気持ちの整理・整頓というものだろう。(p235)
自分には内と外があるが,内とは,主に自分の頭の中だ。環境は,自分の外側に存在する。自分の肉体を,内と見るか外と見るかは,人によって異なるだろう。僕は自分の躰は外だと認識している。(中略)環境の一部だろう,と僕は考えている。(p236)
人間は,本当に自由なのだ。疑っている人は,一度試してみると良い。明日,自分の好きなところに出かけて,好きなものを食べてみると良い。それを,誰かに逐一報告したりしない。誰にも自慢したりしない。ただ,自分でにっこりすれば,それで良い。自由にできることが,どれくらい価値があることか,少しわかるだろう。(p243)

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