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2020年8月8日土曜日

2020.08.08 森 博嗣 『面白いとは何か? 面白く生きるには?』

書名 面白いとは何か? 面白く生きるには?
著者 森 博嗣
発行所 ワニブックスPLUS新書
発行年月日 2019.09.25
価格(税別) 830円

● 哲学書だと思って読んだ。哲学とはいかに生きるかという問いに解答するものだと思っているので。
 自分ひとりで作る,味わう,楽しむ面白さ,が究極の面白さであって,友人や仲間と一緒でなければ面白くないというのは寂しい人だ。しいて本書の結論めいたものを示せば,そういうこと。

● 以下に多すぎる転載。
 自分が「面白い」と思うものを作れば良い,というほどシンプルではない。大勢の人たちが,商品を買ってくれるのだから,大勢が何を求めているのか,大勢に注目されるにはどうすれば良いのか,と考える必要がある。(p11)
 作家になれないのは,技術的な問題ではない。理由は明らかで,作品が「面白くない」からである。「才能がない」というのは,「面白いものが作れない」とほぼ同義である。(p13)
 そんなカリスマ編集者と話をしたことが何度もある。たしかに彼らは目利きができる。面白い作品が出てきたら,ぴんとくるものがあるそうだ。(中略)けれども,そうでない作品に対して,何がいけないのか,どう直せば良いのかは,的確に説明ができないという。(p14)
 人間は,いろいろいるし,また個人の中にもさまざまな価値観が混在し,非常に複雑に絡み合った反応をする。それなのに,大勢が同じものを「面白い」という現象が観察されるのは,とても不思議なことだ。この「共感」も人間の凄さの一つかもしれない。(p35)
 面白いかどうかは,読んだ人の感性に支配された判断なのだから,一般的なものとはなりえない。ただし,それが多数になって,どういう意見が多いのか,という傾向は,一つの事実として受け止める必要がある。個々の意見に左右されず,全体像を把握することが重要だ。このような観察において,最も重視すべきなのは反応の数,すなわち数字である。(p40)
 Amazonの評価点と本が売れた部数の相関を調べたことがある。(中略)驚いたことに,「負の相関」が顕著だった。つまり,Amazonで評価が低いものほど,売れているのである。(中略)売れていない本ほど,熱心なファンが割合として多く買っているから,評価が高くなる。売れる本は,好意的でない人にまで広く知られる結果になるので,マイナスの評価をする人の割合が増える,ということだ。理屈がわかれば,当たり前のことだが,評判の良いものは売れている,つまり「面白い」ものだ,と勘違いする人が多数いるはずである。(p42)
 子供のときからネット社会で育った世代は,「みんなで感じる」という意味で「共感」という言葉を使っている。穿った見方をすれば,自分で感じたいのではなく,感じることで他者とつながりたい欲求が優先されている。そうなると,みんなが笑うから可笑しい,みんなが泣くから感動できる,という価値観になる。その結果,ネットの評価に過敏になったり,「いいね」の数を気にして,日常生活にまでその影響が表れる。(p45)
 人間は,そもそも「新しい」ものが好きだ。これは「好奇心」と呼ばれる性質でもある。(中略)多くの動物にも,好奇心はあるにはあるが,人間ほどではない。自然界の動物は,新しいものをむしろ避ける。危険なものかもしれない,と判断するためだ。(p51)
 「意外性」というものが存在するのは,人間が未来を予測するからだ。(中略)この行為自体が,人間の特徴でもある。(中略)「意外性」とは,その人が思い描いていない未来が訪れることだ。これは,普通は「面白い」ことではない。(中略)ところが,その意外性が「面白さ」になる。(中略)「意外性」の「面白さ」を理解するには,ある程度の思考力や知性が要求される。(p54)
 どちらかというと,自分の推理が当たっていた場合よりも,推理が外れて,意外な結末になった作品を「面白い」と評価する傾向にある。(中略)ここが不思議なところで,問題が解けたという快感よりも,解けなかった方が「面白い」と感じるのだ。(p57)
 人間の脳は,頭に思い描いたことが現実になることを欲している。(中略)僕は,この状況を「自由」と定義している。自由とは,「思ったとおりになること」「希望したことが現実になること」なのだ。(中略)自由は,自分が計画したとおり,自分が予定したとおりに生きることであり,それが人間の満足の根源でもある。したがって,「面白い」というのは,この自由へ向かう方向性を感じている状況であり,いうなれば,いずれ自分は満足するぞ,という予感が,その人を笑顔にさせるのである。(p63)
 人を笑わせることは,けっこう難しい。少なくとも泣かせたり,怒らせたりするよりは断然難しい,というのが小説を書いている僕の感覚である。人を笑わせることを仕事にしている人も沢山いる。簡単になれる職業ではない。特別な才能が必要だし,常に考えなければならない。かなり頭を使う,頭脳的な活動だと思われる。(p70)
 お金を出して活字を読むというのは,非常にマイナな趣味になったので,その中でも読者を選ぶようでは,さらに消費者を少数に限定してしまう。一方で,エンタテインメントの中では,活字で出力されるものが一番生産性が高い。一人で制作でき,しかも短期間で作り上げることが可能なので,生産者側から見れば,非常にコストパフォーマンスに優れている。(p79)
 珍しいもの,得体の知れないものには,まず注目し,緊張する。これは動物の本能だ。ところが,それが無意味なもの,無害なもの,自分に対して攻撃してこないものだとわかれば,そこで緊張感から解放されて,笑いが生じる。(p80)
 動物は,動くものに注目する本能があるらしく,止まっているものではなく,動くものが目立つように視神経ができている。(中略)この本能的な性質が,「動き」が「面白い」と感じさせる一つの要因だ。(p89)
 もともと,音楽もいわば「動き」の一種だった。人が演奏して音楽が作られるわけで,人も動き,音も変化している。音楽を,多くの人が聴きたがるのも,やはり「動き」に注目する本能によるものだと思われる。(p91)
 人間はスピードというものを体感できない。(中略)体感できるのは,加速度であり,これ目を瞑っていても感じられる。加速度は,「力」として物体に作用するからだ。面白さが生まれるのは,つまりは「加速度」によるものだと考えても良い。ちなみに,音楽でも,スピードを変化させる。音の大きさにもメリハリをつける。こうした「変化」を人は「面白い」と感じるようだ。(p93)
 この「面白い」ものが色褪せる現象は,非常に顕著で,面白さが大きかったほど,衰退のし方も際立つ。(中略)本当に一斉に消えてしまうように観察される。(p101)
 知るために重要な条件は,それまで「知らない」状態であることだ。(中略)知ることによって,自分が「欠けた」存在だったとわかる。「知る」ことを体験するまで,知らないことを知らなかったのだ。(p103)
 ただ知るだけではなく,知ることによって,なにかに「気づく」という体験があると,さらに劇的に「面白い」ものになるだろう。(中略)それを知ることで,自分の頭の中で,既存の知識とのつながりができる。(p106)
 具体的かつ詳細になっていくほご,「面白さ」は強くなる。一方で,それを「面白い」と感じる人が減っていく。鋭く尖った「面白さ」は,それだけ人を選ぶ。(p108)
 古来,多くのユーモアは,少なからず差別的であり,戦争や死を扱ったブラックなものだった。(中略)人が死ぬことをジョークにして,人間は笑えた。それで苦しんでいる人もいるじゃないか,という主張は正しいし,まちがいなく正義だ。でも,正義では笑えない。(p109)
 それを得ることで,なんとなく自分が成長し,あるいは元気になれる。そして,結果的に自己の満足を導く。そういうものを摂取することが「面白い」と感じるように,人間の脳はできているようだ。(中略)結局,生きるとは,「面白さ」の追求でもある。「面白い」ことを見失ったら,生きていけないのではないか。(p111)
 多くの人が,実行することが難しい,と考えているようですが,それはまったく正反対でしょう。実行することは,誰にだってできます。でも,思いつけない。何をしたら良いのかが,わからないのです。ですから,そこを考えることが第一です。(中略)「面白いことがない」という状況は,「面白いことが思いつけない」状況だ,ということです。そして,思いつかなくなってしまったのは,面白さを他者から与えられたり,売っている面白さを買ったりといった生活が続いたからでしょう。(p120)
 人の上に立ちたい,人を蹴落としたい,それがお「面白い」と感じる人が多いうちは,世の中は豊かになりません。豊かになっても,豊かさに偏りが生じたままです。ただ,このような「さもしい」精神も,結局は余裕がないから生まれるのだと僕は考えています。(p125)
 子供は,なにか面白そうなものを見れば,必ず自分でそれをやりたがります。何故なら,基本的に,享受するよりも作ること,インプットよりもアウトプットの方が何十倍も面白いからです。両方を経験すれば,この差がわかります。(p127)
 世の中を変えたいと思ったことは一度もありません。自分の人生にしか興味がなくて,世の中をどうこうしたいとは,まったく発想しません。そういったことを考える暇があったら,今自分が楽しんでいることを考えます。(p130)
 「つまらない」ときに「面白い」ことをすると,「つまらない」と「面白い」の両方が存在する状況になるだけのことです。「つまらない」を,早く処理することが,「つまらない」をなくす唯一の方法です。(p132)
 少しの「面白さ」で生きられる人もいれば,沢山の「面白さ」がないと生きられない人もいます。前者は慎ましく生活ができるし,後者は,ばりばり働いて大儲けをしないと生きられません。どちらが良い悪いということもなく,そちらが得で損だということもありません。自分に合った生き方ができれば,けっこうなことだと思います。(p136)
 「面白さ」は,発見するものというと,少し違っている気がします。発見できるのは,既に存在するものだからです。「面白さ」は,自分で作らないと生まれません。(中略)一番似合う言葉は「発明する」かな,と思います。「面白さ」とは,発明するものでしょう。(p137)
 大勢で集まらないと楽しめない人たちというのは,「一人の面白さ」から落ちこぼれた集団だったのである。だから,抜け駆けして本当の「面白さ」に手を出そうとする仲間を牽制し合って,集団の結束を維持していたのだ。集団になるのは弱いからである。仲間外れにされた社会的弱者や,暴力団などの法律で禁止された弱者になる人たちは,グループを組まざるをえない。ブループを組むことでしか立場が保てないからだ。大勢で集まって酒を飲み,わいわいがやがやと騒ぐ人たちは,実のところは「面白さ」を知らない「寂しい」人たちである。(p152)
 念頭におくべき大原則がある。人間は,死ぬときは一人だ,ということだ。一般に,若いときほど仲間が多い。若い人は,そもそも友好的であり,相手を毛嫌いせずに受け入れる性質がある。ほとんどの動物にこの傾向があるから,本能的なものといえるだろう。しかし,年齢を重ねるほど,自分は相手を受け入れなくなるし,相手も年寄りを避けるようになる。大雑把にいうと,死ぬまでに一人になれるようにできているといっても良いほど,少しずつ孤独へ向かうのである。(p155)
 「孤独死」という言葉は,二つの間違いを含んでいる。一つは,孤独が悪いものであるという思い込み,もう一つは,一人で死んだら孤独だったという思い込みである。(p157)
 ビジネスの多くは,「面白さ」を作って売るものになるだろう。そういう業種の割合がおkれからは増える。既に,衣食住も,生きるために必要なものを供給するレベルではなく,より快適なものへとシフトしている。(p158)
 社会への貢献を漁で測るとしたら,それは納めた税金の額ではないだろうか。客観的に見て,これが一番直接的な指標である。つまり,仕事をして金を稼げば,それに応じて納税するわけで,それだけ社会貢献していることになる。(p163)
 どうして,「自己満足」がいけないものになったのか。(中略)何故ここまで,自分を殺して社会に貢献することを重要視したのかといえば,集団の結束が「力」になった時代だったからだ。(中略)だが,今は明らかにそうではない。(中略)自己満足がいけない,という方向性は,今ではパワハラに近い意見と認識しなければならないだろう。(p164)
 大勢が意見を交換できるような情報化社会になったことが,不正が行われにくい社会を作ったともいえる。(p167)
 金額に比例して「面白さ」が増えるわけでもない。これは,どんな商品にもいえる法則だが,高くなるほど,価値の増分は小さくなる。(中略)高い商品に金を使うのは,その僅かな価値の差に満足できる精神の持ち主である。また,その僅かな差でも,他者と比較することで優位性に満足できる人だ。(p170)
 コピィができるコンテンツ(音楽,映画,絵画,文学など)は,いずれは世の中に行き渡ることになる。今はまだ過度期だが,近い将来には必ずそうなる。しかも,地球上の人間はもう増えるわけにはいかない。これからは人口は減る方向である。(中略)ただし,無料でどこにでもある,いつでも手に入る,という環境になれば,おそらく大勢の人が,それらをそれほど「面白い」と感じなくなるのではないか(p172)
 簡単に手が出せるものには,ありがたみが感じられない,という現象がある。苦労をして手に入れたものほど,自分にとって価値があると思える。(中略)これは,ペットでも観察される。(中略)飼い主から与えられたおもちゃにはすぐに厭きてしまうが,自分がイつけたものには相当愛着があるように観察される。(p177)
 大勢に買わせよう,と考えるよりも,少数が絶対買ってくれるものを作った方が有効なビジネスになる,安定した商品になる可能性が高い,ということがわかってきた。(p183)
 小説を読むことはインプットである。ただ文字を読むだけでは「面白く」はない。その物語の中に入る,いわゆる「感情移入」ができると,頭の中でイメージが作られる。これはアウトプットだ。感情が誘発されるのもアウトプットである。結局は,「面白さ」の本質はここにある。(p189)
 ネットは,初期の頃にはインプットのためのメディアだった。世界中の情報が得られ,検索でき,非常に使いやすく,また有意義なツールだったのだ。しかし,ここ十年ほどは,ネットは個人がアウトプットするメディアになった。(中略)ネットが引き起こしたこの爆発的なアウトプット現象は,むしろインプット不足を招いている,ともいえる。みんなが発信し続けるあまり,明らかに受信者が不足だ。ただ,誰も聞いてなくても,発信するだけで「面白い」というのが,現在の状況ではないか,と分析できる。(p191)
 今のところ,「いいね」などのサインを出し合って,お互いに「インプットしていますよ」という仮想を抱いているようだ。まるでお金のように「いいね」が世間を巡っているけれど,実際のところ,ほとんどの人は他者のことをしっかりと見ていない。インプットしている者はほとんどいない。(p195)
 これまでは,たしかにネットでは誰だかわからなかった。それは監視していたのが人間だったからだ。(中略)これからは違う。監視をするのはAIだ。しかも,過去の膨大なデータも含めて関連したものを見つけ出すだろう。(中略)恐いのはこれからだ。(p196)
 こうしてネット上で繰り広げられる「アウトプットの乱舞」は,今後どうなっていくだろうか? 僕が想像するのは,やはりいつまでも,この「面白さ」が維持できるはずはない,ということ。(中略)すべての流行はいずれ廃れる。どうして廃れるのかというと,それは「みんながやっているから面白い」というものが,「みんながやっているから面白くない」へシフトするためだ。(p197)
 魅力的な伴侶や恋人もバーチャルで作り出せるし,家族も仕事も,それらしくネットで再現できるようになる。そういうアプリも登場することだろう。(中略)そうなると,ネット上での個人のアウトプットを誰も信じなくなるだろう。近い将来,必ずそうなる。(p198)
 現代ほど個人主義の時代はかつてなかった。社会のあらゆるシステムが,一人暮らしをサポートするように機能している。ネット環境がそうだし,携帯電話がそうだし,ワンルームマンションも,コンビニも,すべて一人で生きていけるようにデザインされている。みんなが望んでいるから,こういう社会が実現したのだ。それなのに,何故かマスコミは,「反孤独」的なプロパガンダを続けている。(p206)
 傍から見ると「寂しい」状況に見えても,外部に向けて「楽しさ」を発散しない方が,「面白さ」はむしろ大きく膨らむのである。(中略)外部に向けて発散しないと「面白い」ものではない,という価値観は,今のネットでは,よく見られる症状といえる。インスタ映えしないものは面白くない,という病んだ感覚がそれだ。(p210)
 自分の楽しみは,各自の自由だが,一方的にアウトプットしてばかりでは,迷惑となる。他人の孫の写真など見せられても,面白くもなんともない。アウトプットするからには,他者にも価値があるものを選ぶ必要があり,客観的な評価ができることが条件である。それができないなら,しない方がよろしい。(p216)
 こういった達人たちに共通するのは,家族の話をされないことだ。昔の話もされない。どんな仕事をしていたのかも聞いたことがない。奥様がいらっしゃるのかどうかもわからなかった。それくらい,自分が夢中になっている今の「面白い」話しかされなかったし,作られるものが,最高に素晴らしく「面白い」ものだった。(中略)僕も,そういう生き方がしたい。死に方などはどうだって良い,と思っている。(p218)
 芸術作品は,少数の人の高い評価で価値が決定する。ところが,エンタテインメント作品は,大勢に向けた商品となることが前提だから,結果として,何人がそれを買うか,が作品の価値といえるだろう。(中略)芸術作品は,突出した長所が武器となり,エンタテインメント作品は,悪いところができるだけ少ない,つまりバランスが重視される傾向がある。(p223)
 常に気をつけていることは,自分以外の人の「大白さ」を素直に受け取る感受性である。「面白いな」と思う積極的な気持ちが大切である。「面白くないな」と思うのは,はっきりいって損だ。隅々まで探して,「面白さ」を見つける姿勢を,いつも持っていること。それが,「面白い」生き方の基本だ,と思う。(p239)
 不思議なもので,「面白さ」というのは,成し遂げるとそれで終わり,というものではなく,さらなる「面白そう」なことが目の前に現れる。本当にキリがない。(p249)
 夢は夜に見るもの。現実ではない。「夢」も「希望」も,あっても良いが,べつになくても良いものだと思っている。必要なものは,ずばり「計画」であり,「作業」である。実物の,建築も都市も,ピラミッドも万里の長城も,すべて「夢」や「希望」でできているのではなく,人間の「計画」と「作業」で実現したものだ。(p252)

2020年7月6日月曜日

2020.07.06 森 博嗣 『アンチ整理術』

書名 アンチ整理術
著者 森 博嗣
発行所 日本実業出版社
発行年月日 2019.11.10
価格(税別) 1,400円

● 哲学というとやや違うかもしれないけれども,認識論の範疇に属するものだと思った。整理術を肴にして認識論を語っている。スラスラとは読めなかった。何回かページを前に戻すことがあった。
 なので,読むのにけっこう時間を要した。もともと,ぼくは読むのは遅い方なんだけど。

● 以下に多すぎる転載。
 「仕事術」というものを,僕は事実上持っていない。なんの拘りもなく,方針もなく,これまで仕事をしてきた。拘りがなかったから,研究者なのに,小説を書いたのだ。(p6)
 日本人の半分くらいは,本など読まないし,活字を読んでも意味を頭に展開できない。だから,文字を読めるという基本的な能力に加えて,自分の人生を工場させたいという意欲を持っているだけで,なにごとにも積極的になれるはずだ。これが,成功を導く要素となる。(p8)
 世の中も自然も,不公平にできている。だからこそ,「公平」というルールを作って,人間社会を改善しようとしているのである。(p9)
 能力が低い場合には,その分時間をかけて人よりも余計に努力をしないと,同じ目的に到達できない。だが,これを「損」だと考えるかどうかは,人によって異なる。他者と比較をする競争のような場合は,時間が短い方が有利であるけれど,自分の好きなことにうちこんでいる場合ならば,目的になかなか到達しなければ,それだけ楽しい時間が増えるのだから有利である。(p9)
 僕の断捨離に対する考えは一つだ。不要だと断言できるものは捨てれば良い。そうでないものは持っているしかない。これだけである。(p11)
 最近よく話題に上るのは,「終活」なるもの,つまり,死ぬときの準備のことだ。身の周りを整理しておこう,ということらしい。これも・僕にはまったく無駄に思える。そんなことをして楽しいか?と首を傾げてしまう。(p12)
 断捨離するなら,持ちものなど,どうだって良い。そのまえに,自分の気持ちを断捨離しておこう。終活も同じだ。どちらも,まずは死ぬ覚悟をしておくことである。その次には,人間関係を断捨離しておくこと。(中略)借金があったり,人から援助してもらっていたり,といった関係を処理しておくこと。親戚関係で,子供たちになにかいってきそうな人がいたら,縁を切っておくこと。そういうものが,本当の断捨離である。(p14)
 動物というもの,あるいは生命というものが,不均質な状態なのである。つまり,生命というのは,宇宙の平均的な状況からすると,極めて奇跡的なバランスを保っている特殊な状態であり,ある意味で,綺麗に整理・整頓されたものといえなくもない。(中略)ということは,人間が整理・整頓に憧れるのは,それが生命を感じさせるものだからではないか,というのが僕の思いつきである。(p22)
 一人で作業をする現場というのは,僕が知る限りでは,だいたい散らかっている。(中略)逆にいえば,その状態が自分にとっては「効率的」なのである。(p25)
 片づけることでは,新しさは生まれないのだ。せいぜい,思い描いたとおりの綺麗さが表れるだけのことで,想像もしなかった展開にはならない。ここが,片づけることのつまらなさである。(p35)
 綺麗に片づいた職場というのは,必要なものと不要なものが,きっちりと区別できる作業を行なっているため実現するものであり,いわば決まった作業を繰り返すルーチンワークをしている場所なのである。(中略)創造的な仕事をしている場合ほど,片づけられない。逆に,片づけられるのは,創造的な仕事をしていないから,といえるだろう。(p35)
 やる気がないときは,部屋とか机とか,できる範囲で良いから,ちょっと片づけてみる。すると,なんとなく気持ちの整理がつくものである。(中略)なにか一つをすることで,次にできるものがわかってくる。上手くすると,やる気も出てくるかもしれない。(p39)
 何をすれば良いかわからない状態とは,なんでも良いからした方が良い状態である(p39)
 「嫌だな」と思っている,その状態のままやる。それが正解である。嫌な気持ちを「やりたい」気持ちに切り換えるのは,かなり難しい。(中略)嫌だけれど,やった方が得だとわかっているから,得と我慢の交換として,やっていることである。(p40)
 世間で良いといわれている方法が,必ずしも個人の役に立つわけではない。(中略)どんな方法が自分に効くのかは,実際に試してみるしかない。(中略)これは,時間をかけて試行錯誤を重ねて見つけるもの,築くものなのであり,時間がかかる。(中略)自分に適した方法を早く見つけるコツというのは,できるだけ多くの意見や事例を参考にすることだが,そのときに,好き嫌いで評価をしないこと。嫌な奴がいっていたから,あいつの意見は聞きたくない,ということは,自分にとっては明らかな損である。(p42)
 それくらいものは増える。どうして増えるのか,といえば,どんどん新しいことを始めるからであり,それだけ面白いこと,やりたいことが多いからなのだ。活気に溢れている場所というのは,必然的にものが増える。自然に減っていく,などということは滅多にない。(p54)
 この人間に求められた「集中力」とは,結局は「機械のように働け」という意味であるから,僕は「機械力」と名づけるのが相応しいと考えている。(中略)では人間に要求される能力とは何か? それは,新しい問題を見つけること,これまでになかったアイデアを発想することである。(中略)こういった問題発見や新発想に必要なものは,一つの対象に集中する思考ではなく,沢山のことに目を配り,また無関係なものからヒントを得るような「連想」である。「連想」とは,思いもしないところから「思いつく」行為だ。これらには,集中力とは正反対の姿勢が有利となる。(p62)
 量子力学における「不確定性原理」という言葉を聞いたことがあるだろう。(中略)「なにごとも,突き詰めていけば,その核となる大元に行き着くわけではない」くらいの意味なら,そのとおりかもしれない。(p87)
 学習は,栄養補給であるから,学習するほど頭が太る。だから,適度に計算や発想でアウトプットしないと,頭の肥満になりやすい。頭が肥満すると,頭の動きが鈍くなる。頭を使うことが億劫になる。面倒なことを考えたくない頭になる。(p92)
 (発想するのに)リラックスが必要なのは,重要なポイントであるけれど,リラックスするためには,緊張した時間がなければならない。(p95)
 発想をするためには,無関係なデータも必要である。必要なデータだけ学んでいれば,スペシャリストにはなれるかもしれないが,斬新な発想は生まれないといっても良いだろう。(中略)教養というのは,「役に立たないものなど一つもない」という精神が育むものだろう。(p96)
 多くの場合,忘れてしまうようなものは,それだけ印象が薄いわけで,結局は大したアイデアではないか,熟成されていないかのいずれかだろう。そういう場合は,一旦忘れてしまうのがよろしい。熟成した頃に,ふと思い出すことになるからだ。(p97)
 大事なことは,むしろすぐに答えを出さない姿勢だ,と僕は考えている。もしできるならば,しべて保留にすれば良い。(p98)
 たとえ自分が決断して実行したことであっても,いつも半信半疑で良い。(p98)
 頭脳は,考えることで沢山のエネルギィを消費するから,できるだけ考えないようにしたい。頭が疲れないようにしたい。そういう本能があるから,てきぱきと判断して,自分の立場を早く確立しようとする。これが,判断を急ぐ理由である。いわば,考えることからの逃避なのだ。(p99)
 判断する段階では,失敗を恐れないのは危険な指向といえるだろう。こうした楽観が,どれだけ大きな不幸を招いたことか。(p100)
 頭を整理・整頓するよりも,頭を使うことの方が効果がある。いつも頭を動かしていれば,回転数が歳とともに低下する傾向があるにしても,止まるようなことはない。その意味でも,判断をいつもするように気をつけること。すなわち,自分の立場はこちらだと決めつけないで,常に周囲の条件などを評価し,新しい判断をする姿勢が,頭を使い続けることになる。(p103)
 つい最近になって,インターネットが突然現れ,人々がそこに吸い込まれた。せっかく古い柵を切り,都会に出てきた人たちが,あっという間にネット社会の「村」に取り込まれた。(中略)フェイク情報に影響されたり,赤の他人に腹を立てて炎上させたり,といった現象は,かなり古いタイプの人間関係に酷似している。近代社会は,そういうものを排除したはずだが,何故復活したのだろうか?(p121)
 自然は不確定なものであり,災害をもたらす危険がある。だから,徹底的に自然を遠ざけて,すべて人工的なもので人間が活動する場所を作ってしまおう,と考えた。その結果が都市である。集中し,密集することで高効率を得る。これは,集積回路と同じ理屈である。お互いのアクセス経路が短いことが,効率を高めるからだ。構造は多層化し,平面から立体へシフトする。(p123)
 インターネットのストラクチャは,これまでの集中系ではなかった。(中略)完全な分散系であり,社会の構造とも異なっている。ただ,人間の頭の構造には分散系が近いかもしれない。人間の頭脳は,図書館の分類のように整理はされていない。(p127)
 インターネットが一般に普及し始めたのは九〇年代初めであるが,このとき僕が感じたことは,「社会の秩序が乱れるだろうな」というものだった。個人どうしが勝手につながることは,社会に存在するあらゆる枠組みを破壊する可能性がある。(中略)それまでは,ある枠組みに属すれば,他の枠組みには属せない,という暗黙の了解があった。これは「集中系」のストラクチャの基本だ。(中略)ネットでは,このような二重登録が簡単に実現する。個人が複数のアカウントを持つことができ,複数の人格を装える。そこには,個人の可能性を広げる自由がある。むしろ,現実でそれが不可能なことが,いずれ不自然となりそうである。(p128)
 昔は,大勢が均一な生活をするようにデザインされた社会だったが,今はそうではない。ランダムになるような方向であり,これが分散系のネットの仕組みにも類似している。個人の人間関係は,今後も限りなく多様化,多層化するはずである。その限界は,個人の頭がついていけるところだ,と思われる。認識できるうちは,自由に複雑化するはずである。(中略)この状況自体を,僕は「悪くない」と感じている。このようなランダムで複雑なストラクチャは,人工的ではなく,むしろ自然に似ている。自然の生態系は,人間の理解を超えるほど複雑で,あらゆるものがリンクし,しかもどこにもグループらしきものを形成しない。一つのものが一箇所で増えることを,自然は嫌っているようにさえ見える。(p132)
 人間は長生きするが,時代の変化は速くなっている。個人が何度もリセットしなければ追いつけない時代になった,といえるかもしれない。(p134)
 その理想の中には,自身だけではなく他者にまで,どう考えるべきだ,どう行動すべきだ,と要求するようなものまである。それはまるで,人を操る殿様か催眠術師のような能力を想像させる。そんな範囲にまで自分の理想を持つこと自体に問題があるのだが,残念ながら,それに気づく人は非常に少ない。(p136)
 問題は,通常一つの要因で発生した結果ではない。一つの要因であれば,大きな問題にはならないだろうし,気づいた人がすぐに手を打てたはずだ。そうではなく,複数の要因が絡んでいるから,どんな手を打てば良いのかがわかりにくい。(中略)その要因というのは,探して見つかるようなものではない。なんらかの手を打って,その結果を見ることで,そこではないか,そちらだったか,と把握する。つまり,試してみないとわからない場合がほとんどだ。(p140)
 仮想の他者,仮想の社会を,自分の中に作ってしまうことを,ときには「自意識」と呼ぶことがある。(中略)ネットの普及によって,この自意識が平均的に活性化していることは,おそらく誰もが感じるところだと思われる。ネットは,仮想の「他者」や「社会」を個人の意識の中に構築するのを促す機能を有している。(p145)
 自分を考えるとは,自分と社会との関係を考えるということと,ほとんど同じである。自分が何者であり,どのような可能性を持っているのか,と考えることだ。(中略)自分のことを考えるというのは,自分のことだけを考えるのではない。なんでも良いから,とことん考えているうちに,だんだん自分というものがわかってくる,という知見である。(p148)
 具体的な手法など役に立たない。そういう手法がもしあるなら,その手法が実践できる人に,仕事として頼めば良いだけである。自分がしたいことに活用するためには,手法がもっと抽象化されていなければならない。もっとぼんやりとして,方向性を示すくらいまで概念的になっていなければ,個々の対象に活かせない。(p152)
 運に任せるという楽観では,ほぼ成功はありえない。幸運で成功した人は,運を見逃さなかったし,それ以前に努力や試行錯誤があったから,運が訪れたことに気づけたのである。ぼんやりと,ただ待っているだけの人には,運がどのようにやてくるかも想像できないはずである。つまり,そういう人には見えないものだと思ってもらえば良い。(p154)
 ほとんどの場合,本質や真の目的から目を逸してしまう原因は,「感情」にある。感情というのは,問題を見誤らせる。(中略)客観的に見れば,さほど大きな問題ではないにもかかわらず,感情がそれを増幅して見せることが多い。(中略)もっと問題なのは,その障害のために,先が見えにくくなることである。(p157)
 人間の精神は,自分を庇うようにできている。基本的に自分贔屓だ。(中略)しかし,相手も同じ感情で判断をしているから,当然ながら争いになる。(中略)感情とは,一度湧き起こると,自分で自分を煽るから,どんどんエスカレートする。(p158)
 信頼を得て,他者に使ってもらえる人間は,人間として片づいている必要がある。少なくとも,そう見えるようでなければならない。(中略)そのためには,感情を抑制することが第一条件である。(中略)社会の人間関係は,人格の本質でぶつかり合うほど深いものではない。見かけだけのレベルなのだから,ちょっと装うだけで,ずいぶん社会で生きやすくなるだろう。これが,社会性とか協調性などと呼ばれるものである。(p160)
 研究とは,すべて世界初でなければならない。他者に追従するものではないし,他者の成功をトレースするものでもない。同じことをしている人はいないのだから,研究者のあり方のようなものは存在しない。それぞれが,自分のやり方で前進しているはずだ。(p166)
 考えることです。もう必死になって考える。ずっと考え続けます。僕たちの分野では,それ以外に成果を出す方法はありません。誰も教えてくれないし,誰も知らないことだからです。(p169)
 方法ではない,ということがまず第一だと思いますよ。方法なんて,そのうちできてくるものです。とにかく,結果を出す,必死になって前進します。すると,振り返ったときに道ができている。それが『方法』というものです。方法というのは,同じことをもう一度するときには役立ちますが,最初にするときには,方法はありません。(p170)
 (論理的思考は,どのようにすると身につきますか)論理を出力することです。(p177)
 力を出し切らないで仕事をした方が健全だと思います。そんなに一所懸命になる必要はないし,それくらい力を抜いた状態こそが,その人の性能だと思います。機械は,みんなそうですよ。最大出力で使ったりしません(p180)
 勉強法を確立できるのは,試験対策としてだけです。どんな試験かだいたい決まっているからできたことです。一般の場面では,勉強法なんて確立できないと思いますよ。(p183)
 事前に学ぶことはないと思います。いつでも学べるのです。問題が起こってから,仕事で直面したこと,必要なことを学べば良いのではないでしょうか。(p187)
 情報過多といっているわりに,みんな薄っぺらい情報しか見ていないし,深く追求もしません。情報と情報の関連性も考えません。それも,やはりインプットだけではなく,アウトプットすることが大切です。つまり,情報について考えること。情報というのは死んだデータです。もう変化しないものです。考えなかったら,情報は死んだままですが,考えることで,初めて情報が生きます。(p191)
 何を学べば良いのか,と考えることが,スペシャリストへの第一歩です。(中略)教材があり学習法があったのは,十代までのこと,共通する基礎的な事項,つまりジェネラリストを育てる段階だったからです。(p197)
 貴女は考えることが苦手なのでしょうね。だから,効率の良い方法を求めてしまう。計算はするから,数字と式を教えてほしい,とおっしゃっているのです。でも,社会にある問題は,すべて応用問題です。計算をしなさい,という問題はありません。(p200)
 研究者の素質としても,コンピュータの前に十時間くらい毎日座っていられることは条件といえます。続けることで,自分の能力を増幅できるわけですから,こんなに簡単な方法はほかにありませんよ。(中略)こつこつと続けることで,ほとんどのことは実現します。(p202)
 皆さんにいえることは,人にきくまえに,自分で考えましょう,だと思います。(p203)
 効率的に学ぶと,効率的に忘れていくかもしれませんよ。(中略)効率なんてものは,その程度のものだということです。(p206)
 部屋は,なんにでも使えるスペースだったのだ。(中略)そして,それらの行為が終わったら片づけて,なにもない場所に戻す。この精神は,「みそぎ」的なものといえる。つまり,あらゆるものが「けがれ」を持っているから,常に綺麗にリセットすることで,正しさを保つのである。(中略)散らかっている状態は「乱れ」だと捉えれれる。(中略)常日頃から乱れることがないように,クリーンな社会を目指そう,といった精神が共有されてきた。(p209)
 人間は,創作的な作業を担い,それ以外は機械が生産する,という世の中になるだろう。これは客観的に見れば,「乱れ」がまっとうな仕事になったようなものだ。人が面白がるもの,興味を示すものは,「秩序」ではないからだ。(p211)
 僕は,デビューしたときからずっと,創作ノートというものを持ったことがない。小説のプロットは書かない。予めストーリィを決めておくようなこともしない。テーマなんか考えないし,誰が登場するか,どんな結果になるかも,まったく白紙のまま執筆を始める。事前に考えるのは,作品のタイトルである。これは半年ほどかけて考える。(p213)
 頼まれたわけでもない,褒められたいわけでもない,自分がやりたいからやっている。この自発性というか,自己完結的な部分が,人園としてとても魅力的に見える(p233)
 言葉で説明しても,全部は伝わらない。わかってもらえることなど,ほんの少しだ。大部分は誤解される,と考えて良いだろう。文章を書くことが仕事の僕でさえ,そう理解している。(中略)誰にもわかってもらえなくても,自分はわかっている。自分が知っている自分が,一番本物だし,その評価を自分ですれば,それで良い。これがつまり,気持ちの整理・整頓というものだろう。(p235)
 自分には内と外があるが,内とは,主に自分の頭の中だ。環境は,自分の外側に存在する。自分の肉体を,内と見るか外と見るかは,人によって異なるだろう。僕は自分の躰は外だと認識している。(中略)環境の一部だろう,と僕は考えている。(p236)
 人間は,本当に自由なのだ。疑っている人は,一度試してみると良い。明日,自分の好きなところに出かけて,好きなものを食べてみると良い。それを,誰かに逐一報告したりしない。誰にも自慢したりしない。ただ,自分でにっこりすれば,それで良い。自由にできることが,どれくらい価値があることか,少しわかるだろう。(p243)

2018年9月16日日曜日

2018.09.16 森 博嗣 『読書の価値』

書名 読書の価値
著者 森 博嗣
発行所 NHK出版新書
発行年月日 2018.04.10
価格(税別) 820円

● 知識を得るためにではなく,“思いつき”や“発想”を得るために,読書はするものだ。したがって,雑多な分野の本を読むのがいい。これが本書の要諦。
 読みながら気持ちが飛ぶのはむしろ読書の功徳の最たるもので,そのことについて自覚的であれ,と。ゆえに,遅読みがいい。速読は害でしかない。

● 以下に多すぎる転載。
 いずれにしても明らかなことは,僕がもの凄く沢山のことをすべて本から学んできた,という事実である。文字がすらすらと読めないハンディを背負いながらも,とにかく本を読むしかなかった。知りたいことは,活字を追うことでしか得られなかったのだ。(p21)
 僕が本から得た最大の価値は「僕が面白かった」という部分にある。だから,もし同じ体験をしたいなら,各自が自分で自分を感動させる本を見つけることである。同じ本が別の人間に同じ作用を示す保証はないからだ。(p23)
 文章を読んでも,本当の意味は理解できない。むしろその逆だといえる。意味が理解できたとき,初めて文章が読めたことになるのだ。しかし,多くの一般読者は,どうもそうではない。特に本を沢山読む方は,文章を読んでいる。文章をそのまま鵜呑みにしていて,その意味を自分の頭の中で展開していないようなのだ。展開していなければ,つまりちらりと見た程度の体験となる。(p28)
 近頃では,ベストセラの小説でも,数十万部程度の売行きである。それどころか,数万部売れれば,週間や月間ならベストセラになる。この数字は,一億人以上いる日本の人口からすれば,0.1パーセントにすぎない。つまり,多目に見積もっても,千人に一人しか小説を読まないのだ。(p43)
 大学生になると,専門の講義を受けることができる。これは,ほとんど本を読むのと同じ感覚だった。本を読めばわかることを,先生が直接教えてくれる,というだけだ。(中略)ただ,本を読んだ方が時間がかからないし,細かいところまでわかるし,明らかに効率が良い。(p49)
 文章からイメージを展開することが,小説を読むという行為だろう,僕は認識していた。だからこそ,読むのに時間がかかる。逆に,頭の中のイメージを文章に書き写すことは比較的時間がかからない。(p56)
 これくらいのものならば自分も書けるな,とも感じたのだが,それは明らかな勘違いである。まず,遠藤周作か北杜夫に匹敵するほどの人物にならなければ,誰も読んではくれないだろう。(p66)
 僕は,学生が書いてくるレポートを沢山読んだ。(中略)そして,それらのレポートに書かれている内容は,悉く「ありきたり」だった。(中略)千人に二人くらいしか,「なるほど,こういう発想は独自だな」と感心するようなものに出合わなかった。(p70)
 結局,本というのは,人とほぼ同じだといえる。本に出会うことは,人に出会うこととかぎりなく近い。それを読むことで,その人と知合いになれる。(p75)
 自分にないものを持っている人と知合いになることが,そもそも知合いになる価値なのではないか,と思えるのだ。(p77)
 さらに書いておきたい重要な事項がある。それは,本が面白いかどうか,すなわち,読んだものが当たりか外れかは,実はそれほどはっきりと判別できないということだ。(中略)面白いものを探して読めば面白い点を見つけられるし,つまらないように読めばたいていのものがつまらない。そのときの気分というか,読み手の状況や姿勢によって評価は一転するといっても良い。(p85)
 僕は,本を読むときに,まず,この本を読んで自分の意見や知識が塗り変えられることがあれば,と願っている。影響を受けたいという気持ちで読む。(中略)これは,人と話をするときも同じで,まずは,説得されたい,この人の意見に同調したい,という気持ちで聞く。そういった姿勢で受け入れることが,相手への礼儀だと考えている。(p86)
 どんな本もどんな人も,読んだり話を聞いたりしたら,第一に感謝をすることである。この気持ちが大事だと思う。感謝をすること,尊敬することで,その内容が僕の中で綺麗に留まり,優しく発展し,あるいは発酵し,違うものに展開するかもしれないのだ。(p87)
 人間関係というのは,お互いに責任がある。問題があっても,お互いに原因があるのだ。ただ,どうしても我慢ができない場合は,その人から離れるしかない。会わないようにする,という選択である。本の場合も,ほんのときどきそういった噛み合わないものがあるかもしれない。(中略)ただ,簡単にやめられるからといって,嫌いなものは読まない,という姿勢を貫いていると,結局は損をすることになるだろう。(p88)
 なんとなく,新しいことを求めているとき,今までになかった面白そうなことはないか,と探しているとき,そんな場合は,むしろ自分が知っている関連ではなく,遠く離れた他分野へいきなり飛び込むことをおすすめする。こういったことが比較的手軽にできるのが,本の良いところでもある。(p98)
 この「無作為」の選択法は,それなりに効果がある。好きなものを選ぶ,という選択では,すでに自分の頭の中にあるものに支配されていることと同じで,いわば不自由なのだ。無作為ならば,その支配から解放される。(p99)
 人が読んでいるものを避ける,ということである。(中略)書店でも,平積みされ,ポップが立っているような本は無視する。(中略)そうすることで,自分が得たものの価値が相対的に高まる。大勢が得たものならば,もう僕が得なくても,社会に満ちているものといえる。(p103)
 もし小説家になりたいなら,小説を読まないこと。もしエッセイストになりたいなら,エッセィを読まないこと。自分がそれでプロになりたいなら,もっと別のところに目を向けるべきだ。(中略)僕は,そもそも小説がそれほど好きではなかったから小説家になれた,と思っている。なにを書いても,これまでになかったものになる可能性が高いからだ。(p106)
 問題を解決することは,院生レベルでもできる。一流の研究者というのは,問題を見つける人のことなのである。(p115)
 詩は,オリジナリティを出すのが難しいけれど,着眼や言葉選びの先鋭さみたいなもので,優劣は確実につけられる。その点では,小説よりもわかりやすい。(p122)
 キーボードの文字の配列は,アルファベットだ。それは英語の文章を打つために考えられた配列なのである。かつては,複数の配列があったが,協議会などを行って,最も速く打てる配置が選ばれた。(中略)しかし,日本語でこれを使う場合は,ローマ字入力になるから,英語のスペルトは文字の出現頻度が違ってくる。(p132)
 残念ながら,プログラミングをする機会もあったし,英語で論文を書かないといけないので,僕はこのとき,平仮名入力に切り換えるのを断念した。後年作家になるのだから,切り換えておくべきだった。先見の明がなかったことになる。現在,僕は一時間に六千文字を打つ作家として知られているけれど,平仮名入力だったら,一時間に一万文字は軽く打てるはずである。(p133)
 作家になって,小説を書き始めたときも,まずは執筆のルールを明文化することが自分にとって急務だった。(中略)ルールさえ決まれば,それに則って書いていける。ルールが大事なのではない。余計なことで迷わない環境が重要なのだ。(p143)
 ついつい効果を狙って余分な強調をしがちであるが,それらを削ぎ落とした方が,文章が引き立つことも多い。残った言葉に重みが出てくるからだ。(p143)
 文章を書く技術を向上させるには,できるだけ文章を沢山読んだ方が良い,という人がいるが,これは効率が悪すぎる。(中略)やはり,文章をできるだけ沢山書くことが,文章が上手くなる一番の方法だろうと思う。音楽だって,聴いているばかりでは演奏は上手くならない(中略)アウトプットすることで初めてわかることが非常に沢山ある。(p144)
 英語だって,英会話能力よりは,英語が読めて,英語が書ける能力の方がずっと重要である。それができる人が少ないからだ。この点では,日本語とまったく同じだ。しゃべる能力なんて,大したものではない。特に,エリートに求められるのは,文章の読み書きである。(p145)
 知らないことがある,というのはもの凄く嬉しいものだ。それは,処女雪のような綺麗さである。そこへ足を踏み入れる,自分だけの足跡がつく,それが面白い。期待に胸が踊り,落ち着かないほどだ。(p147)
 僕の場合の話になるが,簡単にそれを量として捉えれば,文章を読んだとき,頭の中でその百倍以上はイメージしている。ものによって違うが,必要ならば千倍くらいはイメージを膨らませる。同様に,頭の中にある映像を文章に書き落とすときは,百分の一,千分の一が文字になる。(中略)論理を記述したものであっても,やはり,僕の場合は映像的な展開をする。(中略)これは,言葉で考える人には信じてもらえないことが多い。(p152)
 言葉で考えている人は,数字も言葉だと理解しているようだった。僕には,そういう人がどうやって計算をするのか不思議だ。(p154)
 知識を頭の中に入れる意味は,その知識を出し入れするというだけではないのだ。頭の中で考えるときに,この知識が用いられる。(中略)一人で頭を使う場合には,そういった外部に頼れない。では,どんなときに一人で頭を使うだろうか?それは,「思いつく」ときである。(中略)このとき,まったくゼロの状態から信号が発生する,とは考えられない。そうではなく,現在か過去にインプットしたものが,頭の中にあって,そこから,どれかとどれかが結びついて,ふと新しいものが生まれるのである。(p155)
 誰にでも共通して効果があるのは,やはり読書だと思う。それは,そこにあるものが,人間の個人の頭から出てきた言葉であり,その集合は,人間の英知の結晶だからである。(p160)
 インプットとしての読書の効率の良さを,連想,発想という面から指摘した。それらは,知識よりもはるかに大切なものであり,だからこそ,広い範囲の本を読むことに意味がある。自分の興味の範囲でとことん知識を深めていくことも大事ではあるけれど,それ以上に,無関係なものを眺めることが有意義なのだ。(中略)そして,そういった連想や発想を期待する読書において注意が必要なのは,ゆっくりと読むことだと思う。(中略)文字や文章だけを辿るのではなく,そこからイメージされるものを頭の中で充分に「展開する。それが可能な時間をとりながら読むのが良い。遅い方が良い読書だということ。読んでいるうちに別のことを考えてしまい,読書に集中できない,ということがあるけれど,それは願ってもない状況といえる。(p161)
 僕の場合,大学の教官になって,学生に対して講義をするようになってから,人に話すこと,説明をすることで,もの凄く記憶に残ることがわかった。つまり,教えることで覚えられるのだ。聴いている学生の頭には入らなくても,話している先生には効果的な勉強となる。(p164)
 僕はほとんどメモというものをしない人間だ。執筆する小説のストーリィさえメモしない。トリックもオチも,すべて頭から出さない。(p165)
 メモをしたから忘れるのだろう。外部に出すといっても,こういったアウトプットはむしろ書き留めたことで安心してしまい,頭の中のデータが消えてしまう,ということなのではないか。(p165)
 なかには,本の中から文章を抜き書きして,大量のコピィだけをブログに挙げている人もいる。おそらく,傍線を引いたのと同じ作業の一環だろう。そこをあとで自分で読み,そのときの気持ちを思い出すつもりだろうか。しかし,どう感じたかを記録しなくても良いのか,と心配になる。(p167)
 自分の感情を言葉にすることは,それほど大事なことだろうか。僕自身は,無理に言葉にすることで失われるものの多さが気になる。ぼんやりと,「ああ,おもしろかったなあ・・・・・・」と溜息とともに心に刻んでおけば,それで充分なのではないだろうか。(p172)
 論文などの科学的なものや,議論をすることに意義がある論考ならば話は別であるけれど,文芸作品に対する評論というものの意義を僕は認められない。僕にとっては,評論は必要ない,と考えている。評論をするのなら,その才能を使って新たな創作をした方が良い。その方が生産的だ。そうすることが,最も正しい芸術に対する評価になる,という立場である。(p173)
 人間というのは,つい理由を探すものである。これは,「言葉で思考する」という立場から導かれるものでもある。僕自身が言葉で思考しないので,そうも「理由」というものが単なる名称くらいにしか聞こえない。(中略)理由というのは,数学的にいうと,必要条件と呼ばれるもので,結果を導くために,この条件が必要だった,という集合である。しかし,その条件が満たされたからといって,必ず同じ結果になるわけではない。(p173)
 本を読んで感動したときには,本の中のさまざまな要因が複雑に影響しているし,本以外,読んだ人の環境などの影響も受ける。それらは分離することはできない。(中略)つまり,本の価値は,その本に特有の性質から生じるだけのものではない,ということだ。(p174)
 作文を書く目的の大半は,履き始める以前にある。何について書こうかな,と考えを巡らすその思考にあるのだ。(中略)文章を書く技法も,デッサンや絵の具の使い方も,それほど高等な作業とはいえない。現に,それらはコンピュータやAIが簡単に実現してしまう。問題は,どこに着眼するか,という最初の選択,最初の思考,最初の発想なのである。(中略)これをするのが,人間だ。(p176)
 ブログでも,テーマを限定しない方が,書く力がつく。本について書くと決めていると,それだけ考えなくなる。パターンが決まっているアウトプットは楽なのである。そして,そういったアウトプットが,パターンが決まったインプットを誘発するから,ますます閉じていく。こうして,才能が萎んでいくのである。(p177)
 その多くの読者は,それぞれの頭の中で,なんらかのイメージを思い描くことになるだろう。つまり,僕のアウトプットが行き着く先は,そこだ。したがって,僕は,結局はそれが僕の作品である,と考えている。本が単なるメディアあるのと同様に,本の中に書かれている文章もまた,その最終的なイメージを運ぶメデイアにすぎない。(中略)もし誰にも読まれなければ,それは書かなかったことに等しい。言葉や文章のアウトプットとは,そういう宿命にある。(p181)
 ネットが普及しても,まだ印刷書籍を宅配で送りつける販売システムが先行していたのである。このこと自体が,僕には理解しがたい状況だったが,でも,社会というのはそういうもの,すなわち鈍重でなかなか変われないものなのだな,と思うしかなかった。(p200)
 本というのは,不況に強い商品といわれていた。(中略)しかし,インターネットが登場し,暇潰しには事欠かない人ばかりになった。雑誌が売れなくなり,漫画も頭打ちとなった。そもそも,若者の数も総人口も減り続けているのだから,売上げが伸びることはありえない。(p207)
 出版というビジネスは,今後はどんどんマイナへ向かうだろう。「本」に拘っている場合ではないし,「文章」に囚われている場合でもない。大量にコピィして配布するというビジネスモデルも,根本的に見直す必要がある。(p216)

2018年9月1日土曜日

2018.09.01 森 博嗣 『庭煙鉄道趣味』

書名 庭煙鉄道趣味
著者 森 博嗣
発行所 講談社
発行年月日 2009.07.28
価格(税別) 3,000円

● ディープ。ここまで手間暇かけるか。国内だけでも数人はいるらしいのだ。敷地にレールを敷いて,実際に走る機関車(蒸気だったりバッテリーだったり)を走らせている人が。キットもあるが,自作もするのだ。
 これに比べりゃ(比べる必要はないのだが),大方の人は趣味に対して入れ込みが足りない。入れ込もうと思って入れ込むものじゃないんだろうけど。気がついたら入れ込んでいた,というふうであるものだろうけど。

● 以下にいくつか転載。
 庭園鉄道を始めた当初から,これを「本にしよう」と考えていました。この趣味を始めた頃,関連の情報を求めて雑誌や書籍を探したのですが,皆無といって良いほど見当たらなかったからです。(p6)
 趣味というのは本来無駄なものではないでしょうか。それどころか,人間が生きていることさえ,目的は判然としません。日々が楽しく過ごせれば,それが有意義な人生になるでしょう。つまり,生きていることは,仕事ではなく,趣味なのです。(p7)
 とても自分にはできないな,と思っていたものが,やってみるとできてしまうのです。苦労して失敗を重ねることもあれば,あっさりと上手くいくこともあります。工作の楽しさは,そこにあるのです。換言すれば,「自分の変化」を知ること。(p47)
 結局,作ること,学ぶことの効用は生きていくうえでの「前向きさ」だと思います。きっと,前を向いている自分を体験できるから,楽しく感じるのでしょう。(p47)
 この趣味を理解してもらおう,同好の士を少しでも増やそう,というのは,業界的な発想であって,趣味人の思考ではありません。自分の楽しみを持っている人は,他人の楽しみも基本的に理解しているものなのです。(p113)
 どんな条件であっても,自分の目指すものを実現するために今できることがあります。これは間違いのないことです。(p189)
 その楽しさは,その人のものです。使ったお金や時間にも無関係です。たとえば,子供を見ればそれがわかります。資金もないし,技術もないのに,どんなふうにしてでも自分の時間を精一杯楽しんでいます。(中略)もともと素直に行動すれば,きっと誰もが子供のように遊べるはずなのです。(p189)

2018.09.01 森 博嗣 『実験的経験』

書名 実験的経験
著者 森 博嗣
発行所 講談社
発行年月日 2012.05.25
価格(税別) 1,600円

● 初出は「小説現代」の連載。こういうものを指し示すのに適当な名前はない。いろんなものがミックスされている。地の文を「」に入れて,会話を外に出すという試みもある。
 それゆえ,書く側にも読む側にも「実験的経験」なのかも。名前があろうとなかろうと面白ければいいじゃん,と単純に思うわけだが。

● 以下に転載。
 それくらい遅れているんです,受けてというのはね。本当に新しいものならば,価値が認められるのには十年はかかるということです。(p19)
 対談なんかでも,発想が豊かだったり,情報量が多い発言というのは,ゲラのときに加筆した部分ですからね。(p21)
 じっくりと話を聞いてみると,ていていの場合,話す人自身が何を話したいのかよくわかっていなくて,こちらが質問したり,なにか関連した話題を振らないと,話がまともに進まないことが多いですね(p32)
 もの凄い大きな怪我をした人は,一分後に死ぬとしても,怪我の直後は意外に普通に判断をし,普通に生きている。そういう例は非常に多い。(p41)
 論理的というのは本来どういうことなのか。(中略)少し大雑把にいえば,数学の集合論におおかた帰着する。(p44)
 トリックやどんでん返しやオチというものが,馬鹿馬鹿しさを評価値の一つとして持っていることは否定できないのです。複雑で難解なものであっては良いトリックにはならないわけで,誰もが理解できるけれど思いつけなかったという『肩透かし』を狙うのです。(p95)
 長編を多少長めに書くと,絶対に中弛みだと言われ,かといってシャープに短めに書くと,もの足りないと言われ,親切心を出して詳しく書けば,難しすぎてわからないと言われ,難しいところを避けて易しく書けば,知らずに書いていると言われ,本格の方へ歩み寄れば,マニア受けだと言われ,文学的に歩み寄れば,こんなのミステリィじゃないと叱られる。(p125)
 書かれているのに,それを読んだのに,伝わらないことってあるのです。多くの場合,先入観というのか,こうだとイメージしているものが既にそれぞれにあって,それから大きく外れるものはシャットアウトする,といった防御能力が働くからです(p145)
 言葉がおおかた伝わったら,作品の役目はそこで終わりです。したがって,作者の責任もそこまでです。あとは,読者が勝手に想像して,誤解するか理解するかの違いですね。(p146)
 製品がみんなに行き渡った豊かな社会においては,製品メーカーの役割は終っている。しかし,メーカーは作り続けようとするし,みんなを騙してでもそれが正義だという物語を作る。(中略)樵は,自分の山に樹がなくなっても樹を切る仕事を諦めない。(p148)
 はっきりここで言明しておくけれど,僕は長生きをしたいなんて思っていない。大病を早期発見したいとも思わないのである。病気になったら死ねば良いではないか。苦しさは同じだろう。(p149)
 なにしろ,やっているその時間が最高に楽しいから,いつできなくなっても収支に不釣合いはない。(p150)
 数学っていうのは,そういう物語性を排除し,物事を抽象化するものです。数学性というのは,その抽象性のことです。だから,物語を加えて具体的にしてしまうと,もう数学的ではなくなりますね(p166)
 文章はできるかぎり,観察した順番,認識した順番に書くのが自然だ。たとえば,「赤い帽子を被った人」であれば,まず赤い色が目に入り,それが帽子だとわかり,次に,それを被った人間を認識する,という順番になる。(p170)
 ネットっていうのはさ,どうも素人ばかりというか,浅い趣味人しかいない気がする。どうしてもそういうふうに見えるんだよね。なんか,同じ質問を繰り返しているし,またその話かよってのばっかりじゃない?(p175)
 やろうと思えば,たいていのことは一人でできる,という証明は,大変面白くまた有意義だと感じます。年寄りになると,なんでも周囲の人間に頼んでしまう傾向がありますが,できたら,死ぬまで自分のことは自分でやりたいものです。(p177)
 一般に,受け手が,こんなものとても発想できない,と感心するものほど,実は創ることが簡単なのです。何故なら,こんなもの発想できないと思わせるもの,という目標が明確にあるからです。目標があれば,それをひたすら考えれば良い。しかし,それよりも難しいのは,新たな目標を発想することです。(p200)
 日本人は,余計な心配をして,危うきには近寄らず,ことなかれ主義を重んじる「自粛ラブ」な民族だから,この程度の言葉まで消してしまうのか,というようなものが沢山ある。(p215)
 差別用語は,差別の意味が含まれていますよ,ということを機会があれば伝えれば良いと思う。むやみやたらと,「その言葉は使うな」と怒るのは大人げないし,危険な思想でもある。(中略)必死に消し去って,見ない振りをして,何が差別なのかもわからなくしているだけ,むしろ誤魔化しているようにさえ見える。(p216)
 「この作家は,いったい何がしたかったのか?」と不満をもらすのである。したがって,作家に反論が許されるならば,こうなる。「いったい,君はこれを読んで何がしたかったのか?」(p239)
 甘えさせることと,きちんと躾をすることの両立は,貴族的な家庭の伝統である。こういったものが長く受け継がれていることは,人間によって見出された美徳の一つの形だったにちがいない。(p251)
 突飛なものは大衆には望まれていません。それなのに,突飛なものを見せたい,というのが創作の基本的衝動です。このギャップを埋めるために歩み寄り,ぎりぎりの妥協の線として提示することも,創作者の使命の一つであって,これは,デザイン,アートを問わず,常に,そして暗黙のうちに掲げられる,ほとんど唯一の共通テーマであると思われます。逆にいえば,この挑戦を避けること,忘れることは,すなわち創作の堕落であり,惰性への隷属であり,芸術から生産への没落,「求められるものを与えるのだ」という偽善としての背信ともいえるものでしょう。(p254)
 どんな突飛な創作よりも,人間の思考,そして感覚はさらにはるかに突飛です。文字にすること,言葉にすることで,既に大半の思考は失われ,輝きは鈍化します。皆さんが読まされているのは,死んだ発想なのです。創作者は,発想を殺して,文字にするのですから。しかし,行きていたときの輝きを,どうか思い描いてください。(中略)感性とは,この「想像」によって磨かれるし,その感性によってしか,創作の輝きを見ることはできないでしょう。(p254)

2018年7月28日土曜日

2018.07.28 森 博嗣・佐久間真人 『失われた猫』

書名 失われた猫
著者 森 博嗣(作)
   佐久間真人(画)
発行所 光文社
発行年月日 2011.12.20
価格(税別) 2,000円

● 何か教訓を読み取ろうとしてしまうのは,凡人の愚というものか。キーワードは“問い続けなさい”というものなのだが,キーワードという発想がすでにダメなのかもしれない。

● 佐久間真人さんの絵は半世紀前の人が描いた未来図のようでもあり,舞台はイギリスでもあり東京の下町でもある。

2018年7月22日日曜日

2018.07.22 森 博嗣 『道なき未知』

書名 道なき未知
著者 森 博嗣
発行所 KKベストセラーズ
発行年月日 2017.11.25
価格(税別) 1,400円

● 自分に自信を持つな。楽観は馬鹿でもできる。自分の相撲を取るしかないと言ったところで,それで負けたら,自分の相撲を考え直さなければならない(が,そうする人は少ない)。
 といったことがみっしりと詰まっている。明晰であり,したがって説得力に富む。何より,読んでいて面白い。

● 以下に多すぎるであろう転載。
 なにをしても上手くいかない,と悩んでいる人は,ほとんどの場合「道」を探している。上手くいく方法はないか,成功した人が知っていて自分は知らない方法があるに違いない,と。しかし,そうではないと思う。(中略)どこに問題があるのかといえば,それは「道を探そうという姿勢」にある。積極性は立派だが,自分の道というのは,探すのではなく,自分で築くものだからだ。(p15)
 たとえば「どんな仕事がしたいのか」と尋ねると,ほとんどの人は既に存在する職種を具体的に答える。(中略)世の中で大成功をして大金持ちになった人というのは,たいてい,それまでなかった仕事を始めた人である。誰もやっていなかったことを発想して実行したのだ。(p16)
 根本的に間違っている点がある。それは,(中略)「やり甲斐」や「生き甲斐」を誰かからもらおうとしていることだ。「見つけよう」としていることだ。そういうものが,どこかにあると信じている。(中略)その言葉の本来の意味が示すとおり,抵抗に遭いながらも,それを成し遂げたとき,本当の「価値」があなたの内から生まれる。したがって,やってこそ,生きてこそ,本人だけが感じるものなのである。(p205)
 情報というのは,生きものである。自分から採りにいったものは,生きた情報だが,誰かからもたらされた場合は,ほとんど死んでいる情報だと考えて良い。(中略)情報も自分の中に取り込まれた瞬間,あるいはその直前に殺される。情報は死んだもの,固定されたものになって認識される。その後は変化しない。他者を介した情報が死んでいるのはこのためだ。(p19)
 多くの情報は死んでいるものであって,それはそのままでは活かせない。単なるヒントでしかない。それを生き返らせるには,「想像力」という人間だけが使える魔法が必要なのである。(p23)
 馬鹿に大袈裟に(しかも必要以上に繰り返し)伝えられる情報は,実は大したものではない。大騒ぎさせて,誰かが儲けようと仕掛ているだけのことで,慌てるような事態ではない。(中略)真に受けると,高いものを買わされるだけだ。(p20)
 四十代になるまではシンプルなものを求めて,無駄なものを極力排除して生きてきた。でも,それは間違いだった。生きているうちは,どうしたって単純にはならない。決まりきった形にはならないのである。(p22)
 死ぬときになって初めて,自分が歩いてきた道の全貌が見える。もうその先がないから,道が定まるというわけだ。(p22)
 やる気を出すことよりも,実際にやることの方が簡便な場合があるからだ。それなのに,素直な若者は,やる気を出そうと無理をする。たとえば,「仕事を好きになろう」と努力するのも同じだ。でも,仕事を好きにならなくても仕事はできるし,やる気がなくても,やることはできることに気づいてほしい。(p25)
 馬鹿な者は皆を馬鹿にして終わり,賢い者は馬鹿を見て学ぶから,さらに賢くなる。(p26)
 本当に自分を救えるのは自分だけである。そして,どんな場合にも,どんな悩みにも,あるいは,誰にでも通用するアドバイスはたった一つだけだ。それは「やれば」である。(中略)今直面していること,やりたくないこと,それをやれば良い。やる気なんか出す必要はない。いやいややれば良い。泣く泣くやれば良い。ただそれだけのこと。(p26)
 ものを作る人は知っていることである。どんなに難しく,どんなに面倒なものであっても,少しずつやれば,必ず完成する。(p27)
 もし,人によって能力に差があるとしたら,それはスピードの差だ。百メートルを九秒台で走れる人はざらにいない。(中略)しかし,凡人でも数秒長くかければ百メートルくらい到達できる。さらに言えば,その時間をかけようとせず,自分には才能がないから,と走らないのが大多数の凡人である。たまたま走ってみた凡人が成功者となる,というだけのこと。(p28)
 どんな偉業も,緻密な計画のもと,こつこつと日々積み重ねて,ときには大勢が力を合わせ達成されたものである。たとえば,ピラミッドを思い浮かべてほしい。〆切間際にえいやっと作ったものなど歴史に残るはずがない。(p29)
 本当の達人とは,けっして一発勝負のようなやり方をしない。偶然良いものができることなど期待していない。回り道と思えるほど面倒であっても,誰にもできそうな簡単な方法を採用する。面倒くさい道が最も失敗が少ないと知っているからだ。神業とは,手間をかける方法のことである。(p32)
 大事な約束の時間に遅れてくる人がいる。「電車が遅れまして」と言い訳をするのだ。「おや,この人は電車が絶対に遅れないものだと認識しているのか。そんな現状把握力では,なにをやっても成功しないだろうな」と僕は思うのである。(p33)
 一言でいえば,自分の意志に反している時間が「無駄」である。(p35)
 楽しさとはそういうもので,楽しんでいるほど,もっと楽しいことを発想してしまう。だから,雪だるま式に楽しくなるのである。(p38)
 できないことはない。少しずつ進めれば,ほどんどのことは誰にでも可能になる。ようするに,できないと予測した主原因は,能力不足ではなく,「面倒だな」と感じた自分の感情にある。(p40)
 自分は人と同じだと思いたがる。それは違う。似ているかもしれないけれど,絶対に同じではない。また,この違っていることこそが,人間の優れた点でもある。(p45)
 同じ趣味の人とつき合いたい,と言う人がいるけれど,どうせなら違う人間の方が面白いし,チームとしても有利だ。(中略)違う資質の者が集まってこそ協力し合える。(p46)
 カメラで写真を撮るとき,何を写すか,どういう構図にするのか,という決断が最大の仕事である。「さぁ,撮るぞ」と決まったら,シャッタを押すだけだ。あとは機械がやってくれる。写真を撮るという仕事は,実は写真を撮る動作を起こす以前にすべて終わっているのである。世間で観察される仕事の多くは,このカメラがやる段階の作業でしかない。(中略)ほとんどの道は,道を歩きだしたときには,その大半は終っていると考えても良い。どの道をいつ歩きだすのか,というところに最大の人間的決断がある,ということ。(p52)
 柔道とか華道とか書道とか,古来,さまざまな分野で日本人は「道」を築いてきたけれど,いずれも,技を極めるだけではなく,なんらかの礼節を重んじる。そして,人間の品を磨こうとしている。そういう文化が,西洋に比べて強いのは,たぶん,コミュニケーションを充分に取らない民族性が根本にあって,その反動として生まれてきたものではないだろうか。(p55)
 近頃の報道というのは,ただ発信源が用意した情報をもらいにいき,それを広めているだけであって,広告に限りなく近い機能になってしまった。(p56)
 インターネットも初期の頃は,みんな自分で調べ,自分で考え,自分で作り出したものを公開していた。だから価値があった。(p58)
 ときどき,ちょっと高価なものを求めるのも良いと思う。素晴らしい道具は,帰納的な満足度だけではなく,使う人間の背筋を正す効果があるものだ。(p66)
 僕はパソコンに出合わなかったら,文章を書く仕事をしていなかったと思う。(p66)
 世の中には,計算では辿り着けない問題が多い。(中略)それは道が見えない状況であり,こんな状況からの思考は,遠くをぼんやり眺めて,「あそこは何だろう?」と思った瞬間にワープして新しい発見をする,というような体験になる。(p72)
 小説の執筆は,発想で夢を見るような行為なのである。「理系なのに小説が書けるの?」と言われるのだが,僕には,小説と数学は「同じ頭」を使う対象に思えるのだ。(p73)
 大事なことは,「自分は今道草をしている」という自覚だろう。その自覚の下,多少なりとも後ろめたさを持っていれば,大きな無駄にはならない。そうまでして道草をするのは,なんらかのメリットがあると感じているからであって,その予感を信じた方がよろしいでのではないか。(p75)
 「他者からのおすすめ」は,自分の「予感」よりもだいぶ当りの確率が低い,ということは確かなように観察できる。(p75)
 自分を見つけたかったら,なんでも良いから,自分以外のものに没頭することである。(中略)自分を見つけるには,「我を忘れる」ことが大事なのだ。(p78)
 よく「自給自足」なんて呼ばれる田舎暮らしがあるけれど,あれは,ただ食料を自分で作っているというだけの話だ。自給自足だったら,衣料品も電気も水道も治安もすべて自給自足しなければならないのではないか。病気になったからといって薬を飲んだり,医者にかかるようでは,自給自足とはいえない。(p85)
 社会において,絆よりももっとずっと大切なのは,他者の自由をお互いに尊重することだ。(p88)
 それでも人間は長生きをするのだから,その人生の中で,自分の道を見つけ,そこへ挑む姿こそ尊い,ということ。他者の顔色を窺ってばかりいては,道は見つからない。また,人が歩かなければ,道は草木に覆われ,たちまち消えてしまうのである。(p90)
 健康というのは,大事なことではあるけれど,それが生きる目的になるのだろうか?(中略)車や道具は,それを使って何をするのか,が目的なのである。人間も,健康に支えられて何を成すのか,が人生である。(p92)
 人生の道を進むうえで,自分の気持をコントロールすることは大事だ。それができることが「自由」という概念でもある。(中略)「では,具体的にどうすれば実現できるのか?」という疑問を,大勢の人たちが抱いているはずである。(中略)皆が欲しがっているノウハウは,この世に存在しないのだ。(p95)
 ダイエット法だって,つぎつぎ開発される。実は,食べないで運動する,という究極のノウハウがあるにもかかわらず,ああでもないこうでもない,と方々で謳われ,沢山の本が出る。何故なら,みんな,食べたいし運動もしたくないけれど,痩せたいからだ。生き方や仕事のし方についても,これと同じで,みんな,そんなに頑張りたくないのに,楽しく生きたい,楽しく仕事がしたいと望んでいるのである。(p97)
 多くの人は,「考える」を,本を読んだりして勉強することだ,とイメージしているが,これは間違い。学ぶことは,頭に情報を入れる行為であり,つまり食べることと同じだけれど,考えるのは,頭を動かすことで,これは運動すること,アウトプットする行為なのだ。したがって,頭を使って考えると,お腹が減るように,頭の空腹感を覚え,知識や情報が欲しくなる。(p99)
 まず,何を考えれば良いのか,を考える。これが大切であって,この思考をいつも持っているかどうかが,その後の人生を決めるだろう。(p102)
 楽しいことは,「発想」から生まれるものだ。他者が持ってくる面白そうなものに飛びつくだけの人生では,真の楽しさを知らずに終わることになる。そういう人は,誘われることでしか楽しめない。誘われるようになるにはどうすれば良いのか,と悩んでばかりいる。(p102)
 学んだり,誘われることは出費になるけれど,発想は生産的で,収入につながる可能性が高い,という違いだ。アウトプットするから,仕事になり,対価が得られる,という側面である。(p103)
 「発想」ごいうものは,そんな一分や一時間で頭から出てくるものではない。それこそ,じっくりと考える,頭を使う行為なのだ。(p104)
 現代人は,情報を食べすぎて頭が肥満気味のはずだ。肥満になると,頭が動きにくくなってしまい,深く考えなくなり,どうでも良くなり,カッとしやすくなったりするように観察される。(中略)もし自覚があったら,気をつけてもらいたい。特に,自分だけのことならばそれでも良いが,その決断を人に押しつけようとする人がわりと多いのだ。(p109)
 考えたことを言葉で述べる。これは,述べるために考える,という行為を促す。最近は,ツイッタなど,短くしがちだけれど,本来は,言葉を尽くして,丁寧に論じることが大事だ。したがって,ツイッタよりはブログの方が少しましである。(p110)
 感情的な表現を排除して,理屈で述べることも重要であり,また,自分の立場や自分の利益を基盤とした理屈でないことが,説得力を増す。そういったことを考えることが,いわゆる「思想」というもので,ぼくは行動よりもこちらの方がずっとレベルが高く,品があり,人間的だとイメージしている。(p112)
 丁寧な言葉で自分の考えを述べ,また反対意見にも耳を傾ける。もし自分の考えが間違っていると気づいたら,素直に謝って,意見を変える。議論とは,こうして自分を修正するためのものだ。自分だけでは行き着けないところまで考えを巡らすための有力な手法の一つである。この試論をするためには,自分の意見を言葉で述べることが第一歩だ。(p112)
 「考えを言葉で述べる」とはいっても,「言葉で考えろ」という意味ではない。たとえば,僕自身,考えることの九割は言葉ではない。映像で考えている。(p112)
 いろいろな場合を想定して考えておくことで,予定や計画どおりに実行できる。結局この確率の高さが,その人を成功へと導くのである。この,自分が思ったとおりになることを「自由」という。自由に必要なものは「想定」だといっても良い。(p115)
 それは「ああ,よくここでこれを思いつきましたね」と感心する部分である。すると,この成功者はにんまりとして答えるのだ。「そうなんですよ。これを思いついたときには,絶対に上手くいくとかんじましたね」と。これが「発想」である。(p115)
 プログラミングをしていた頃には,目を瞑ってもアルゴリズムやコードが見えた。寝ているときには天井にリストが現れた。それくらい「没頭」していると,ふとした切っ掛けで生まれてくる発想がある。(p116)
 よく「メモをしない」ということを書いていて,周囲に驚かれるのだが,そもそも文字で考えていないので,メモをしてもしかたがない。できないのである。(p120)
 たとえば,キャラクタの「目」で見たシーンであれば,そのキャラクタの視力によって見え方が違う。近視の人ならば,同じシーンでもぼんやり見える。そういったそれぞれのカメラで映像を考えている。そうすることで,そのキャラクタ本人の「体験」を作り出すことができ,それがそのまま自分の体験となる。小説で書いたことか,それとも実際に体験したことか,が時間が経つとわからなくなる,といったことは,僕の場合は日常茶飯事だ。(p121)
 なにごともそうだが,未来を悲観的に考えることが基本だ,と僕は思っている。自分がやろうとしていることに対しては特にそうだ。(中略)ものごとを成功させたかったら,とにかく徹底的に心配することが大事なのである。多くの失敗は,楽観的な予測から生じている。(p129)
 悪いことを考えると,それに取り憑かれてしまい,ろくなことはない,などとおっしゃる方も多いのだが,これこそが失敗する人の精神論と呼ぶべきものだ。もう少し強い言葉であえて表現すると,「楽観は馬鹿でもできる」となる。(p130)
 しかし,理論は正しい。理論を理解することは,たとえるなら,神を信じるのと似ている。必ずできるという自信を生み,だからこそ,諦めずに実験を続けられる。(p135)
 誰にでもできるのが「努力」である。一歩一歩進むだけ。ゴールを信じることの難しさに比べれば,努力はむしろ楽しいほど易しい,といえるだろう。努力が苦しいのではない,上手くいかない場面になって,どうすれば良いかと迷うことが苦しい。わからないことが苦しいのだ。ここで,また理屈を編み出す。やることが決まる。するとあとはそれを試してみるだけだ。(p136)
 努力が苦しいと感じるのは,その道が正しいことを疑っている状態だからである。(中略)「道に迷った」と思うだけで,ハイキングは遭難になってしまう。そうなると,一歩一歩が苦しみになる。(中略)このような場合,まず考えるしかない。(中略)暫定的な対策を練る。このようにして,生まれるのが「仮説」である。仮説であっても,なんらかの道理が必ずある。正しそうだ,という雰囲気がある。それをとりあえず信じて,つまり,仮説が正しいと信じ込んで,またあるき始めるのだ。(中略)このようなことを繰り返して,人間は物事を進める。人生もまったくこれと同じだ,と僕は思う。(p139)
 人生も,あなたが生まれて,あなたが生きているのは,世界で唯一の条件であって,過去にあなたが生きた例はない。誰も研究していないし,どこにも発表されていない。人生とは,フロンティアなのだ。あなたの生き方は,あなた自身が研究し,あなたの仮説をあなたが試してみるしかない。(p142)
 結果は,方針よりも常に具体的であり,直接的に人の心を揺さぶる。これこそが,「現実」という落とし穴である。この落とし穴に嵌らずに生きるためには,どうしたら良いだろうか。(中略)結局,眼の前のケーキに手を出してしまう人たちから搾取する構造が,今の社会の基本的仕組みなのだ。(中略)まずは,搾取されないこと,あるいは,搾取されていることに気づく自覚が大切で,それだけでも,道はずいぶん歩きやすくなるだろう。(中略)大事なのは,他者の理屈ではなく,自分の理屈によって進むことである。誰にでも通用する理屈というのは,数学や物理学だけだと思ってまちがいない。(p152)
 人間社会は,空気よりもずっと密度も粘性も高い。(中略)そんな中で人よりも違った動きをしようものなら,たちまち大きな抵抗に遭う。その抵抗は,速度に比例している。目立ったことをするほど,いろいろな邪魔が入るのだ。こういったときに,日頃から自分のフォルムを整え,洗練させ,表面を滑らかに磨いておくと,すっと抜け出すことができる。そういう人は,動いても周りが乱れないからだ。(p156)
 周囲の理解とは,ねっとりとつながっている状態であって,結局は,その理解が抵抗になっていることに気づいていない人が多い。(p158)
 ここでいう矛盾とは,両立しない選択肢を抱えている状態のことだ。なんとか両立させよう,と考えるのは甘い。両立させられるようなキャッチを謳って,商売をする人がいるけれど,両立しない道理があれば,それは無駄な考えといえる。両立とは,ほとんどの場合,どちらにつかず,中途半端になるだけである。(中略)ただ,ここでいう選択とは,思考の選択ではない。行動の選択である。(中略)思考は矛盾を矛盾のまま取り扱うことができる。人間の頭脳はそれだけの要領を有している。(p160)
 生きている状態というのは,例外なく「死ぬ途中」である。どんなに成功していても,どんなどん底にあっても,それがその人の最終的な結果ではない。(p164)
 僕自身は,人間も動物であって,野垂れ死にするのが本来である,と考えているから,死ぬときの状況はさほど気にならない。(p165)
 生というものは,死と切り離すことはできない。有るか無いかではなく,表裏だと思う。どちらかが,たまたま上になっているだけだ。(p168)
 研究論文には,最初に「既往の研究」なる章がある。そのテーマの研究の動向を取りまとめた内容だ。(中略)だが,この部分は研究ではない。(中略)つまり,まとめるだけの行為は,なにも「考えていない」のだ。(p170)
 そういった集会が好きな人は,出席しない人を仲間外れだと思い,「あいつは寂しい奴だ」と非難するかもしれない。逆に,集会が嫌いな人は,「馬鹿が集まっている」くらいにしか思っていない。(中略)大事なことは,反対派のことを意識しすぎないことだろう。相手を非難しないと自分たちのアイデンティティが確保できないというのは,それこそ非常に危うい状況といえる。(p172)
 プログラミングをした経験のある人は誰もが知っていることだが,入念にプログラムを作っても,走らせてみると必ずエラーが出るものだ。(中略)ここで学ぶことは,「人間は絶対にミスをする」という現実である。どんなに確信があって,いかに慎重に熟慮したうえであっても,絶対に間違いがある。(p175)
 世間では,「自分を信じていけ」という言葉がよく聞かれるみたいだが,自分を信じて失敗することは数多い。これを「過信」という。(中略)自分の能力を信じないからこそ,対策が打てるのだ。(p176)
 自分が良いと思うことを貫け,という教えは,趣味の道ならば正しい。しかし,相手があるビジネスでは,自分が正しいかどうかではなく,相手が何を求めているのか,を知る必要があるだろう。自分が信じるものに価値があるのではなく,他者が求めるものに価値が生じる,というのが商売の原則だからである。(p176)
 日本の大寒波がニュースになっていた。フランスもロシアもそうだ。温暖化するほど,気象は荒れる。それなのに,誰も火力発電所に反対しないのはどうしてなのだろう?(p178)
 「絶対に私は勝つ」とか,「俺は絶対に失敗しない」とか,そういう台詞を,ドラマ以外でもし本気で言う人間がいたら,あまり近づかない方がよろしいだろう。そんな人は信頼がおけない。信頼とは,そういった強気の発言によって成立するものではない。(p179)
 一番難しいのは,エラーがでなくなってからだ。つまり,プログラムとして間違いがなく,コンピュータはちゃんと計算するのに,出てくる結果が明らかに間違っている,という場合である。(中略)何を考えれば良いかわからないときというのは,なんでも良いから問題を見つけたい。(p185)
 ものごとを探求する楽しみは,誰かが手にすれば自分の分がなくなる,というものではない。探求する対象はいくらでもあるし,探求している自分の中から,楽しみが無限に湧き出てくるからだ。(p190)
 かように皆さん感情的だということ。言葉が言葉の意味のまま通じるなんて本当に奇跡だ,と文章を書く仕事をしているとしみじみと感じる。(p195)
 周囲の人の声に流されない,という姿勢は非常に重要である。無視できないほどに大量に声は押し寄せるけれど,その大部分を遮断しないと,自分の考えが前面に出てこないし,流されていると,そのうちに「考えない人間」になってしまうだろう。(p199)
 個々の人が何を言っているかではなく,何人がものを言っているかの方がはるかに大事であり,その人数をきちんと把握すること。(中略)発表した作品に対しては,みんなが評価点をつけるし,いろいろな感想も届くけれど,最も確かなデータは,何人が読んだか,何部売れたか,という数字なのである。(中略)僕は,純粋にそう考えているので,良い評価も悪い評価も同じと見る。(p199)
 世の中でよく聞かれる台詞は,「量より質」だろう。この言葉が強調されるのは,現実には,その逆だからである。(p202)
 自分たちが良いと信じるものが良い商品ではない。相手が求めるものが良い商品になる。そして,良い商品とは,量が売れるものだ。質を上げれば売れるという幻想を,まず捨てる必要がある。何故なら,質は,人によってまちまちだからだ。作家が仕事ならば,ファンの声ではなく,読者にならない人が,どれくらいいて,何故手に取らないのかを観察しなければならないはずだ。(p203)
 掃除という行為は,エントロピィ増大への抵抗という意味で,実に生命的というのか,人間らしい行動である。(中略)落葉を掃き集めたり,雑草を取り除いたり,手入れをすることで実現されるのは,明らかに不自然な光景なのだ。放っておくのが一番自然保護になりはしないか。しかし,人間の感覚として,掃除をして異物を排除すると,そこが「綺麗」になったと感じるのだ。この環状は,人間にとっては自然である。(p209)
 日本人が,浮世絵とかアニメなどの平面的な絵で世界観を膨らませられるのは,思考が映像的でないことに起因している,と僕は考えている。つまり,映像イメージがそもそも頭にないから,二次元で満足できる。(p215)
 日本語というのは,論理性に乏しい。非常に曖昧な表現しかできない。必然的に,この日本語で思考をする日本人の多くは,論理が苦手で,しかも言葉に拘る。議論をすると,相手の言葉尻を捉え,揚げ足の取合いになってしまう。(中略)英語教育がいろいろ試行されて久しいのに,ちっとも日本人は英会話ができない。しかし,そもそも日本語会話でも不自由なのである。(中略)つまり,英会話が不得意なのではなく,そもそも聞取りや発言が不得意なのである(p216)
 多数はというのは,たまたま意見が一致した大勢のことではない。意見を一致させようとした大勢なのだ。(中略)これは,民主主義だからではない。それ以前から人間社会にあった「群れ」への羨望という本能的な指向といえる。(p219)
 少数派というのは,群れることに嫌悪を感じる人たちである。自分の意見を変えてまで仲間になりたくはない,という価値観であり,したがって,少数派どうしで結びつくこともない。(p220)
 僕は,群れるのが嫌いで,「会」がつくものには近づかないことにしている。遊ぶときも一人が良い。「なんか寂しくないですか?」とおっしゃるかもしれないが,寂しいのが大好きなのである。(p223)
 こういう思考をする人は,けっして自信家にはならないだろう。発想というものは,それくらい偶然に湧いてくるものであり,自分の能力によって作られたとは到底思えないからだ。(p226)
 人間の行動の原理は,自分が好きなことの実現だ,それがすべてだ,という価値観に留まっているうちは,社会情勢も人間関係も,真相を見抜くことは難しい。何故なら,人間はそんな単純な原理で行動しているのではないからだ。(p230)
 勉強でも,好きでやるわけではない。嫌いでもやった方が良い,将来のためになる,という理屈があるためだ。なのに,勉強している有人に対しては,「あいつは勉強がすきなんだ」とやっかんだりする。囚われているのは,どちらだろう? 教育する側の人も,大多数が勘違いしている。子供になにかをやらせるときに,それを好きになってもらおうとする。(p232)
 自然界は熾烈な過当競争なのだ,と思い知らされる。自然は,基本的に残酷だ。野生には人情など微塵も働かない。(p233)
 つきあいのある友人や仕事関係の人たちを,なんとなく歳上だと認識する傾向が,僕にはある。二十歳は若いだろうという相手であっても,「先輩だ」と感じてしまう。(p239)
 一人で遊べない大人の方が,人間関係では難しくなる。子供は一人で遊べるし,誰とでも遊べる。馬が合うとか,合わないとか,そんなことは考えてもいない。大人は,例外なく,かつては子供だった。学んで,苦労をして,大人になったはずなのに,本当に子供より賢くなったのだろうか?(p243)
 過去のどの状態よりも今が一番良い。昔に戻りたいなんてまったく思わない。それは,僕だけではない。日本も,社会も,かつてよりも今の方が良い状態に,僕には見える。きっと,これからも,まだまだ良くなっていくだろう。(p243)
 世間の人の発言を,最近はネットでいろいろ覗き見ることができるのだが,わりと大勢が真剣に後悔しているようなのだ。(中略)そんな様子をみて,僕は,「この人たちは全然ダメージを受けていないな」と感じる。(中略)彼らに比べると,僕は判断ミスがあればダメージを受ける。だから,考えに考え抜いて,これだけ考えたのだから,もう後悔する事態になっても自分を許せる,というレベルに持っていくのだ。(p245)
 本当に後悔しているなら,内に秘め,今後は後悔しないように生き方を改めるべきだ。そして,それが取り戻せたと思ったとき,実はこんなことがあった,と初めて語れば良い。失敗しました,これからやり直します,では信用できない。すっかりやり直してから語ってほしいのである。(p248)
 知識を沢山持っていることが教養だと信じている人がいるが,それは間違いである。(中略)自分がいかに知らないかを知っていることこそが教養といえる。知っているから思い上がり,油断をし,そして考えなくなる。(p249)
 道の先にあるものは未知だ。なにかがありそうな気がする。この予感が,人を心を温める。温かいことが,すなわち生きている証拠だ。したがって,行き着くことよりも,今歩いている状態にこそ価値がある。知識を得たことに価値があるのではなく,知ろうとする運動が,その人の価値を作っている。(p250)

2018年4月30日月曜日

2018.04.30 森 博嗣 『つぼみ茸ムース』

書名 つぼみ茸ムース
著者 森 博嗣
発行所 講談社文庫
発行年月日 2016.12.15
価格(税別) 530円

● 感想も何もない。圧倒される。
 すると,転載する分量がやたらに増える。恥ずかしいったらありゃしない。

● 以下に多すぎる転載。
 今時は,「食べやすい」「読みやすい」という軟食,軟読が好まれるようだけれど,内容まで「同意しやすい」ものを選んでいると,太鼓持ちに囲まれた殿様みたいに馬鹿になっていくだろう。(p3)
 「取返しがつかない」といった事態は,人生においてほとんどない。大部分のことはいつでも常に取り返せる。(p22)
 自分の気持ちを知ることって,そんなに簡単ではない,と僕は認識していて,少なくとも,僕は僕の気持ちをよくわからないまま生きているのだ。(p28)
 研究や開発に携わる職種は,いらいらしない人は向いていない。(p30)
 「教えてもらう」ことでは,その指導者を超えられない場合がほとんどである。(中略)一流になった人の多くは,教えてもらうことで一流にのし上がったのではない,という事実である。(中略)自分で考えるからこそ学べるし,そうしたプロセスだけが,一流を育てるのである。(p39)
 「強い意思」とは,揺らぎのない論理性のことだ。「意思」なんて言葉を使うからわかりにくくなってしまう。(p41)
 他者になにかを依頼する場合,金を取ってくれるプロにお願いする方が,善意だけでやってくれる人に頼むよりも信頼できる。(p48)
 小説の価値を理解している人が少ない。仕事としては,沢山売れればそれで良い。しかし,価値を認めてもらうには,わかる人に読んでもらいたい,と僕でさえ思うのである。(p53)
 人間は,本能的に,自分に歳が近いものに傾倒する。親よりも友達の影響を受けやすい。(p57)
 自分の夢に他者を巻き込むな,ということである。家族であっても,自分ではない,他者である。(p59)
 情報の選別は,関心があるものに向ければ良いけれど,しかし,得られた情報が好ましいか好ましくないかは,素直に受け止めるしかない。好ましくないからといって突っ返しては,自分にとって損失となる。情報の価値とは,そういうものなのだ。(p62)
 万人がネットに自分の言葉を流す時代になった。(中略)けれども,その大部分は,その人の言葉ではない。(中略)どんどん衰退するだろう。その原因は明らかで,オリジナリティがない,ということに尽きる。(p64)
 良い建築とは何かを一言で表現すると,それは価格の高いものだ。(中略)安くても工夫をすれば,というのは綺麗事であって,多くの条件は,良いものほど高い。(p67)
 カロリィのない食べものを食べるというのは,腹は膨れるがエネルギィは摂取できない,という不自然な行為を肉体に強いていることになるけれど,問題はないのだろうか。どこかで弊害が出そうに思われる。(p97)
 自分から遠い才能に触れることが,芸術の醍醐味である。自分に近いものだけにしか心を動かさないのは鈍感のやり方だ。(p105)
 ユーモアというのは,一言でいうと「発想の妙」なのである。この種のものに向いているのは,知識量ではない。知識も必要だが,なにかギャップがあるところへジャンプする発想力が不可欠な思考である。したがって,数学が得意な人が適している。(p116)
 感想を書いているつもりの人でも,(中略)なにも考えていないことがまるわかりの文章が大多数だ。なにも考えていないというのは,つまり「馬鹿」だという意味で,これは「感想」ではなく「馬鹿の反応」である。(p127)
 初期のインターネットは,宣伝がないのに無料だったのだ。だから画期的だった。誰も商売をしていない世界は素晴らしく清らかで自由だった。今は見る影もない。(p129)
 (神は細部に宿るの)「細部」というのは,構造的な細部であって,骨組みの接合部がすっきりと収まっているか,窓と壁の取付けが滑らかになっているのか,といったデザインであって,日本語で言うならば,「整合性」という表現が,僕は適当だと感じている。(p143)
 大多数の読者は,ネタばれを歓迎しているのだ。(中略)結果がわかっている方が,興味を引かれ,それを見る。(中略)確かめるために行くのだ。驚きたいのではない。(p145)
 卒業式や結婚式で女子や新婦が涙を零すのは,幼さだと解釈すれば赦せるだろう。でも,父親が泣くのは馬鹿だと思う。(p165)
 多くの商売は,言葉によって搾取するのが機能だ(p169)
 何故,もの凄く贅沢で自由な生活をしている人と,なにもできず苦しみや悲しみの毎日を送っている人がいるのだろうか,と考えると,自然というものの残酷さがわかる。放っておけば,自然になる。(p172)
 現在の子供べったりの親というのが,歴史的になかった特殊な状況といえる。(p175)
 僕はほとんど出かけないし,毎日同じことをしているので,これといって変化がない。でも,ブログは,そのまま変化のないことが書けてしまう。(中略)ブログが簡単なのは,ここに原因がある。同じことが書けるのだ。(p178)
 ユーチューバだって,今から目指すものではない。もうなっていないと駄目だ。その仕事に名称がつく以前に,それになっていることが,一番正しい「なり方」である。(p179)
 執筆中も,リアルタイムで文字数を表示させておいて,あとどれくらい書くか,そろそろこの章は終わりか,などと考えながら書く。文字数が出ていないと書けない,と思う。(p187)
 客と店員が和気藹々と話をしている店は,僕には「居心地が悪い空間」となる。(p194)
 先駆とは,自分と同じことをやっている他者がいない状態であるから,この楽しみを分かち合うことは無理だ。そういった孤独の楽しみこそ,僕は本当の幸せだと感じている。(p196)
 楽しいことを探している人は,楽しいことを見つけるし,つまらないことばかり見つけてしまう人は,つまらないことを探しているのである。(中略)苦しいことだって,大部分は自分で探しているのではないだろうか。(p204)
 残された時間は,未来にしかない。だから,もしやるなら,今日である。(中略)そして,一つだけ絶対的な法則がある。それは,「し始めなければ,できない」ということだ。(p207)
 僕は,自分の近くで亡くなった人の名も,そのうち忘れようと思っている。それは,あくまでも僕の問題であって,死者の問題ではない。僕が決めることである。(p215)
 科学というのは,分野というよりも,大勢で真理を追求していく枠組みのようなものだ。(中略)科学のせいで失われるものはない。科学が排除したのは,非科学的な迷信の類だけである。(p217)

2018年4月29日日曜日

2018.04.29 森 博嗣 『ツンドラモンスーン』

書名 ツンドラモンスーン
著者 森 博嗣
発行所 講談社文庫
発行年月日 2015.12.15
価格(税別) 530円

● 森博嗣さんの本を読むと,全部転載したくなる。そう感じていまうのは,たぶん何も読めていないからなんだと思う。
 読めていないんだから感想も何もあったものではない。そういう読み方をしてはいけない。もっと真面目にやれ,と神様に叱られても仕方がない。

● で,以下に多すぎる転載。
 自分から遠い方が「気づき」は大きいし,価値がある。それを受け入れる柔軟性をいつまでも持っていることが,「気づき」のコツなのである。(p23)
 観察を妨げるものは,「知ったつもり」である。「自分は知らない」と思い続けることが,「知る」ことの原動力になる。これが好奇心というものだ。(p25)
 感謝というのは,一時的に相手を持ち上げる気持ちだ。水が高いところから低いところへ流れるように,自分を低く位置づけると,あらゆるものが自分の方へ流れてくる。(p39)
 家族に見送られて死ぬのも,どこかで一人突然死ぬのも,どちらが良い死に方というわけでもない。ただ,切りが良いか悪いかだけの違いである。惨めな死に方というものはない,と僕は考えている。(p43)
 そういう人は,出来上がったものを展示することはあっても,工作の過程は見せない。そこで僕は気づいたのだ,「過程を見せることは恥ずかしい行為なのだ」と。(p53)
 金額と人間が感じる価値は,線形に比例していない。(中略)金は多くなるほどコストパフォーマンスが悪くなる。使った金額に見合った見返りがなくなるように社会ができている,といえる。自然に発生した累進課税みたいなものだ。(p54)
 たとえば,知識とか,人生の楽しみ方といったものは,それを持っている人と持たない人の差が著しい。(中略)貧乏でも知識人は多いし,また貧乏でも楽しく生きている人も多い。知識や楽しさのことを,多くの場合,「教養」というのだろう。僕がみた範囲では,収入の格差よりも,この教養の格差の方がずっと大きく,また,こちらこそ社会問題だと思う。(p55)
 歳を取って体力が衰え,いろいろな不自由がやってくる。そんな不安に怯えていてもしかたがない。それよりも,どんどん新しいものにチャレンジし続ける方が,きっと健康的だと思う。健康というのは,そういう意味なのではないだろうか。(p65)
 情報は無料だが,発想は有料,ということなのだ。(中略)あらゆる創作は,本来は有料である。無料にする場合があっても,それは特別なことであって,サービスだったり,宣伝だったり,なんらかの理由がある。(p90)
 物書きを仕事にする場合の基本は,相手が興味を示すものを出力する,ということである。自分自身を売り込むことではない。自分をどう見せようか,という点はどうでも良い。(p92)
 自分の夢,自分の人生のためには,ある程度の計画が必要で,明日や明後日のために今日は我慢をする,ということがなければ実現は覚束ない。毎日その日限りの楽しさに溺れていたら,ほとんど廃人になる。(中略)遊ぶのだって,だらだらと流されていたら,楽しくは遊べないということである。(p100)
 工事現場で働く職人さんたちは,けっして走ったりしない。ゆっくりと歩いている。慌てないし,一所懸命にはならない。たびたび休憩をする。そのペースが,結果的には最大の効果を上げるということなのである。(p103)
 人に見せることが楽しみだと勘違いしている場合は大変多い。自分だけで楽しさを独り占めできると,それに気づく。外に出さなくても良い。(p133)
 ローンを組むのは,金持ちではない。ローンを組ませる方が金持ちだ。だから,さらに格差が広がる。(p146)
 やる気のほとんどは「体調」だと思っている。したがって,体調を整えることに注意をしている。(p150)
 ものを制作する立場の人は,それを受け取る側の人に比べると,革新的でなければならない。新しいものを作る,今までにないものを目指す,といった気持ちが,ものを作ることの原点だからだ。(p158)
 (人に褒められることは)自分が自分を褒めることに比べたら,無視できるほど小さい喜びになる。自己満足の大きさというのは,そんなものではない。桁が違う。小さいときに一人遊びをしていない人の多くは,人に褒められる嬉しさに目を向けすぎていて,自分に褒められる嬉しさを見逃している。(p161)
 成功には努力か才能のいずれかが必要だ,とも思っていない。以前に,研究者に最も必要な素質は何か,という問いに,「何時間もコンピュータの前に座っていられること」と答えた。つまり,これがすべてだ。(p166)
 物事がどう変化するかを予測したいときには,とにかく観察をすることが第一なのだが,その観察は,知りたい場所だけでは充分ではない。ここを多くの人が認識していないみたいだ。(p172)
 一般に,天才と呼ばれる人は自由だ。しかし,そんな天才でも,なにか一つくらいは,なんとなく,意味もなく,ほんの縁起担ぎで採用しているものがあったりする。(中略)そういう部分に,素人は目を向けて,そこに天才の真髄を見たつもりになってしまい,「拘り」として語ったりする。(p180)
 動物もそうだし,自動車などもそうだが,サイドからみたシルエットが,最もフォルムを的確に表している場合が多い。(p183)
 犬は,大人にならない。巣立っていかない。ずっと子供だ。何匹か育てたが,どんなに厳しく躾けても,飼い主を信頼している。それは,食べものを与えるし,世話をしているからだ。褒めたり,煽てたりしているからではない。(p185)
 重さはまだだいたい誰にとっても重いものは重い。これが「面白さ」になると,人の意見などまったく参考にさえならなくなる。(p190)
 始めたときには難しかったものが,いつの間にか簡単になる。何故簡単になったのかといえば,「始めた」からなのだ。(p191)
 没個性というのは,個性的な人間にとっては簡単な切換えなのだ。(中略)一方,没個性の人が個性的に振る舞うことはほぼ不可能である。(p193)
 日本の組織では,配置換えが頻繁だ。(中略)すぐに交替することがわかっているから,仕事を最適化しない。(p194)
 配置換えは,長く続ければ仕事や環境に慣れるという人間の長所を台無しにしている。だんだん力を発揮するタイプには向かないシステムともいえる。(p195)
 小説を書く前に,関連するテーマのものを読むということは,僕の場合はない。取材をしたこともないし,資料を当たって調べることもない。だから,知っている範囲で想像して書く。創作なのだから,現実と違っていてもかまわない。自分の世界を描くのである。(p196)
 表に出さない文章は,洗練されたものになりにくい。(中略)この意味では,受け手の多い少ないはともかく,他者へ向けての発信は有意義だ。(中略)しかし,あまり簡単に出しすぎないことも,重要だと考える。(中略)すぐに外に出すと,自分に問う時間が短くなるし,あるときは,外部から回答を知らされる。同じ解決であっても,自分から出る解決の方が,自分の将来には有利に働く。ここが簡単に片づけられない部分なのだ。(p198)
 違う視点,違う立場,違う表現による情報を拾うことで,そこに述べられていることが,どうやら「今のところは正しそうだ」と判断される。この違う視点,違う立場,というのが重要なのだが,多くの場合,反対派の意見を集めようとしないから,結局,自分側も揺らいだままになる。(p205)
 感情に流され,「嫌だ」で決めてしまうと,結果的に大きな損失が待っていて,もっと嫌な目に遭うことになる。(p209)
 本を読む理由なんて,だいたい軽いものだし,ほとんどは「興味本位」なのではないだろうか。(p211)
 シンプルなものに憧れる指向も,結局はこの複雑さに対する反動だろう。単純なものは美しく,またあるときには力強い。数学であれば,それは正しい。しかし,現実の人間社会においては,そういった美しさ,力強さ,正しさを主張すれば,人と人が争い,戦争になり,命を奪い合うことにもつながる。そうならないようにするには,複雑なバランスを取るしかない。(p213)
 ものを考えるときにも,常に自ら反論することで,思考は深まる。(p213)

2018年4月22日日曜日

2018.04.22 森 博嗣 『つぼねのカトリーヌ』

書名 つぼねのカトリーヌ
著者 森 博嗣
発行所 講談社文庫
発行年月日 2014.12.12
価格(税別) 500円

● 著者は短文エッセイの名手でもある。諸々のトピックを捉えて,スラッと差しだす。著者の言うところを信ずれば(信じない理由はない),文章に苦吟することもない。
 短文エッセイだけではなく,ひとつのテーマについて1冊書くのも,好きかどうかは知らないけれども,得意。すでに何冊も出ている。
 ぼくは著者の小説は1冊も読んだことがないのだが,エッセイ(昔の作家は雑文と言っていた)はあらかた読んでいる。

● 気になるのはタイトル。言葉で考えないらしいのだが,どうしてこういうタイトルが出てくるのか。どういうタイトルにするかを,著者はかなり重視しているらしいのだが。
 ここで連想するのは,ゲッツ板谷さんの同じくエッセイ集のタイトルだ。「直感サバンナ」とか「情熱チャンジャリータ」とか「戦力外ポーク」とか「妄想シャーマンタンク」とか。

● 以下に多すぎる転載。
 人間の思考には,矛盾はつきものだし,矛盾なんて,そもそも小事だと考えている(p3)
 成長したあとは,もう成長戦略など基本的にありえない(p26)
 皇室の人はけっして人前では泣かない。それが,子供ではない大人の普通の嗜みだったのだ。(p28)
 何歳になっても「悩み多き年頃」であり続けることが,精神の成長を止めない唯一の方法ではないか。(p31)
 精確に作るというのは,器用な手の技術ではなく,修正すべき点を見つける目の精度が大半だといえる。(p33)
 ものを買うときは,出した金の価値が,買ったものの価値になる。安く買えば,安い価値と交換しただけのことだ。(中略)安くなるまで待てるということが,それほど欲しくない心理の表れである。だから,手に入れたときに満足できないのは当然だろう。(p34)
 そういう「そこそこの人生」というのは,もちろん悪くはない。悪くはないが,少なくとも「お得」ではない。(p35)
 どんな習慣も,絶対にやめられないというものは僕はないと思う。意志というものは,それくらいの力はある(薬物などは,この意志自体を破壊するものだ)。(p45)
 本当に大切なことは,「努力」にこそ価値があるという点であって,これは才能があってもなくても,まったく平等に授かることができる。(中略)最後はこの「人の評価」というものの差になるのである。そんなものは大した価値ではない,と思えるだけのしっかりとした自分がいれば,努力は楽しいものになる。それが信じられない人には,努力は虚しいものになる。(p50)
 嫌われる覚悟とは,他者に嫌われることの「普通さ」を知ることにほかならない。(中略)そんなことよりも,ずっとずっと大事なことは,自分に嫌われないことだ。自分の考えに対して誠実に行動すること,これは別の言葉にすると「自由」だ。(p60)
 自分の状態を知るには,なんらかの出力をするしかない。一番簡単なのは,なにかを作ってみることだ。(p69)
 僕は天才を何人も実際に知っている。(中略)どの天才も例外なく上品で,人当たりが優しく,とても良い人,常識人に見える。(中略)これに似たものに,「金持ち」がある。金持ちも,ドラマなどでは少し困った人間に描かれるが,実際にはまったくその逆である場合がほとんどだ。金持ちほど,相手に気を遣い,礼儀正しいし,偉そうな態度を絶対に見せない。(中略)つまり,天才は非常にバランスが取れているのである。人に突飛に見られる必要がそもそもない。(p78)
 高校生にもなって親が入学式に出席するなんて,僕には馬鹿げた行動としか思えない。行っても良いが,恥ずかしさを感じてほしい。(p80)
 僕は,自慢じゃないけれど,奇跡を信じたことは一度もない。そんな一か八かのことを真面目に信じるほどお人好しではない。確率が低いものは,起こりにくいのである。(中略)奇跡を信じるまえに,奇跡に縋らなければならない状況に陥らないことが大事だ。当たり前の道理である。(p92)
 自分ばかりにトラブルが降り掛かるのか,と嘆いている人が多いが,トラブルは誰にも常に降り掛かっている。ただ,それを想定しているかどうか,の違いにすぎない。(p97)
 死をたいそうなものに扱いすぎているのが現代の日本だと思う。(中略)子供は親が死んだら泣くだろう。それが「子供」だということである。大人になれば,自分の親を冷静に看取ることができるはずだし,それは薄情なのではなく,むしろ大人としての品格だと思う。(p103)
 こういうときに泣きたい人がいるみたいだが,それは泣くことが苦にならないからできるのだろう。泣くことは苦しいから,できない人もいる。苦しいと感じる人の方が,僕の定義では「優しい」ということだ。(p113)
 犯罪でもそうだし,戦争でもそうだ。しかたなくやっているように見えても,当事者はその瞬間は前向きだし,かなり楽しんでやっている。楽しまなければできないことなのかもしれない,と想像する。(p114)
 馬鹿なことをする人間は,馬鹿なのだからしかたがない。(中略)大きな馬鹿は警戒し,小さい馬鹿は許せば良い。(p115)
 レトロなものの形は,その当時の技術に支えられた最先端であって,現在の最新鋭の技術で作るべき形ではないからだ。したがって,自動車などでレトロなデザインのものは眉を顰めたくなる。偽物感が大いに漂っていて鼻につく。(p116)
 英語を話す人の多くは英語が書けない。スペルは,日本の漢字みたいに難しいものなのだ。(p131)
 若者たちは,自慢を素直に受け取り,こちらを注目してくれる。逆に,自虐的な謙遜をすると,素直に軽蔑されて,話を聞いてくれなくなるのだ。(中略)この傾向に気づいてから,自分がなした仕事については,きっちりと自慢をすることにした。(p135)
 頭が良いなと感じるのはどんなときか,というと,それは,なんらかのトラブルが起きたときの対処で一番わかる。(中略)広い発想を持つことは,やはり知識量ではない。これができる人間は,いつも人よりも多くの発想をする。これが,頭が良いな,と僕が思う能力である。いかに短時間に多くのもの,まったく道筋が違う可能性を思いつくか,という力である。(p138)
 勉強も仕事も,いうなればすべてが反応だ。問題や人間に対して,どう対応するか,である。それは,つまり自分が受け手であって,投げられたボールを受け,それを返す,という作業だ。しかし,重要なことは,誰がボールを投げるのか,である。反応ばかりしている人間は,自分からボールを投げられない。(中略)本を読んでそれについて書く,と決めている人は,反応しているだけだ。なにもないところから,今日あったことでもなく,今日聞いた話でもなく,なんとなく,こんなことを書いてみよう,と「思いつける」だろうか。それが,自分からボールを投げる,という意味だ。(p140)
 ところが,実際にはみんなが時間を大いに無駄にしている。混んでいるところへ出かけていって,わざわざ列に並んで待っていたりする。いつもより少し安いから,という理由だったりするのだ。(p144)
 ドイツを知りたかったら,ドイツに行くに限る,というわけではない。ドイツに一度も行かなくても,ドイツの通になれる。むしろ書物を精力的に調べる方が効率が良い。現地へ行くことは,ほんの一部を瞬間的に捉えるだけで,かえって誤解を生みやすい。(中略)現地を歩き回ってもわからなかったのに,地図を見ていて気づくことも多い。スケールによって見えるものと見えないものがある。(p151)
 景色を見て「綺麗だ」と感じるのは,その人の心であり,景色の特性ではない(p160)
 時間ぎりぎりで出来上がって,慌てて品物を届けにいく,といった仕事をしていると,いつまで経っても腕は上達しないだろう。(p176)
 揺るぎないものを構築するためには,過去へ遡って掘り返す作業がまず必要になる。その過程で,思いもしない歴史が現れたりする。(p189)
 のび太君は,ドラえもんに,「素晴らしいのび太を出して」と何故言わないのか。それは,素晴らしいものを望んでいるのではなく,駄目な自分のまま,素晴らしい体験だけを望んでいるからだ。これは,詐欺に引っ掛かる人の状況そのものである。(p203)
 僕のような素人が歴史を振り返って思うのは,宗教というものの原形は,「戦い」にあったのではないか,という点だ。生活を支える狩猟も一種の戦いだ。他部族との争いを繰り返し,そこで流れた血が神に捧げられるものだった。(p205)
 人間はそれ(意思)を自分が持っていることの違和感を処理するために,ほかにももっと大きな意思がある,と考えざるを得なかった。そうでないと,意思のやり場がなくなる。(p207)
 たぶん,僕は,「執着」していたのだ。そして,この執着があったから,僕は発する側の人間になれた,ということだと思う。(p213)
 一つわかっていることは,人間は誰も生き残れない,という事実である。人間が作った会社も社会も,いつまでも存続はできない。生まれ変わって,子孫に受け継がれても,受け継ぐものがいずれ薄まって,別のものになる。その子孫も,いつの日か,全滅するだろう。自然は,人工物よりもごちゃごちゃだ。人が頭で考えているような「理屈」のとおにには絶対にならない。それが,宇宙の法則だからである。(p215)
 会話というのは,相手の人間性を観察するには適しているが,意見交換やプロジェクトを進めるときなどには不向きだ。一番の問題は,テーマから外れた情報が多すぎること,話しているうちにテーマを見失うこと,人間性の観察をしていると,良い悪いではなく好き嫌いが判断に混ざること,そして,意見交換ではなく,敵か味方かといった立場の見極めに陥ること,などである。(p216)
 幸せというのは,死に近づいた者にしかわからない。最後の素晴らしい交換会で,幸せと死を取り替えっこするのだ。誰でも死を持っているから,この交換ができる。(p221)

2017年9月8日金曜日

2017.09.08 森 博嗣 『MORI Magazine』

書名 MORI Magazine
著者 森 博嗣
発行所 大和書房
発行年月日 2017.08.01
価格(税別) 1,200円

● 森博嗣が雑誌を作るとこうなるというわけなんだけど,この雑誌が一般受けするかというと,もちろん,そうはいかない。
 売れる雑誌には下世話なところがないとね。男性誌なら女性のヌード。女性誌ならセックス記事と占い欄。そういうものは本書にはないのでね。

● が,面白いですよ。読み始めれば,たぶん終わりまでノンストップで行くと思う。まず,読んでみてくれと言うほかはない。

● 以下にいくつか転載。
 僕は,そんじょそこらの厭き性ではありません。心底,根っからの厭き性です。厭きると,頭が疲れます。そういうときは無理をせず,すぐに別のことをやり始めます。じっと集中して一つのことを続けるなんて,まったく無駄なことだと考えている人間なのです。(p2)
 小説にはキャラがいるのです。このキャラが,読む人の身近な存在になり,物語が読者の頭の中で展開します。人は,自分が好きな人の言うことはしっかりと理解しようとする傾向があります。だから,キャラさえ好きになってもらえば,どんな嘘も通してしまえるようになるでしょう。小説には,そんな有利さがあります。(p3)
 黙っているのが,年寄りの嗜みではないでしょうか。(p12)
 日本の都市は,こういったインフラストラクチャの歴史が浅く,ほとんどは前後に急ピッチで整備されたものです。一度に築き上げたものですから,老朽化などの問題も一度に押し寄せてきます。新しい道路や橋を造っている場合ではない,ということですね。(p19)
 かつては常識的だったことも,今では問題になります。常識的だったというのは,問題がなかったのではなく,もみ消されていたり,泣き寝入りしていた,ということです。問題として出てくることは,良い傾向だと思います。(p20)
 だいたい,(ポケモンが)ニュースになったのは,半分は宣伝ですよね。思ったほど流行っていないから,やっきになって宣伝したのではありませんか?(p23)
 AIに関して,唯一の心配は,人間がAIを悪用する危険性です。(p30)
 もの凄くクリーンで良いイメージだった期待のオバマ氏が,結局何をしたのか,という失望感がすべてだったでしょう。オバマで駄目だったのに,オバマに負けたクリントンでは駄目だ,というまっとうな判断ですよ。(p37)
 この選挙で特徴的だったことは,マスコミが自分たちの願望をニュースにして流していたことです。これは,日本でもしばしば見られる傾向です。ようするに,マスコミは自分勝手な報道をするのだと,大衆が知ることができたのは大きな成果だったでしょう。年寄りは,まだ気づいていませんが,若者はしっかりと見届けたのではないか,と思います。(p37)
 世間がどう思っているかを意識するのが,もう大人なんですね。子供はそんなことを気にして遊んでいません。(p46)
 大人は,ある意味で,頭が不自由な人なのです。子供は知識もない,ルールも知らない,だから自由に思いつける。そこが大人が失っている要素です。知識なんて,発想の障害になるといっても過言ではありません。(p53)
 周囲の理解を超えた新しい発想と,未知の分野へのチャレンジ精神こそが必要なのではないかと。言われたことをやればいい,仲間と一緒にしていれば良い,という人ばかりでは,人類の文明はここまで発展しなかったのではないか,とも思います。(p47)
 今世紀になってから,言いたいことが自由に言えない空気が,急速に立ち込めてきた感じはありますね。主として,ネットの普及で,コミュニケーションが短絡的になったためです。まるで,近所の人が何倍にも増えたみたいな効果です。(p48)
 屈しても良いのですが,執念深く忘れないことです。自分の正しさを,みんながいずれ知ることになるだろう,と自信を持っていれば良い。自分で考え抜いた理屈であれば,それくらいは信じられるはずです。(p63)
 理系の人間は,「知らない」ことを恥じないし,また「知らない人」を蔑まない。それは単に,ポケットにたまたま持っている小銭くらいの価値だと考えているからだ。知識は人間の能力ではなく,状態にすぎない。(p83)
 人生の役に立つのか,と敬遠される数学ではあるが,役に立たないものとは,つまり私利私欲,人間関係,歴史に無関係な純粋さにほかならない。そんな不毛ともいえる大地に,人間は興味を抱き,エネルギィや時間を捧げて,開拓してきた。その精神こそが,人間という生き物の崇高さを示している。(p99)
 「この成功にはこんな苦労があった」という物語は,結果がわかっているから安心して聞ける,お子様向け,あるいは年寄り向けの「ありきたりの物語」でしかない。まさにそこが,つまらないのである。(p103)
 野生の動物でも群れを成す場合は,ボスに服従する。そのボスも,自分に餌を持ってくる奴を引き立てたりはしない。自分に迫る力の持ち主を恐れ,いずれは地位を明け渡すことになる。 この習性は,もちろん人間でも同じだ。世話になったり,借りのある人間に従うわけではない。(中略)人間らしさの多くは,自然の本能に逆らったものなのである。つまり,その種のモラルは,人間に生来備わっているものではない。教えられて身につく。(p106)
 僕は,小説を読まない。この十年で読んだ小説は,十冊もない。八割は,吉本ばなな氏の本である。小説を書くのに,小説を読むことは障害になる。(中略)小説以外であれば,一ヵ月に二十冊くらいは本を読む。これは,雑誌を含まない。(中略)読むものは,ほぼノンフィクションで,ジャンルはさまざまである。古いものはあまり読まず,新刊を読んでいる。ちなみに,そうやって読んだ本から,自作品の引用文に使うことも滅多にない。(p166)
 一言でいえば,人間嫌いだろう。人ごみの空気が生理的に合わない。他者がすぐ近くにいたり,座っているような場所は駄目である。そういうものの最後は,七年くらいまえのボブ・ディランのライブだったか。(p172)
 声を出して話したり聞いたりするよりも,文字を書いたり読んだりすることの方が圧倒的に多い。なにかを買いにいっても,店員と話すようなことはない。(中略)よく,英語が話せないから外国には住めないという人がいるけれど,誰も話なんかしていませんよ。(p171)
 しゃべるよりも書いた方が速いし,楽です(p186)
 自分のやりたいこと,好きなことを仕事にするなんて,ろくなことがありませんよ。金を稼ぐ手段は,割り切ってやるのが一番健全だと思います(p183)
 仕事は純粋に,ニーズに応え,新しい製品,ほかにない商品を,いち早く提供していく,ということに尽きます。自分の好みを入れたら,それだけ不純なものになるだけです。(p183)

2017年7月13日木曜日

2017.07.13 森 博嗣 『STAR EGG 星の玉子さま』

書名 STAR EGG 星の玉子さま
著者 森 博嗣
発行所 文藝春秋
発行年月日 2004.11.05
価格(税別) 1,000円

● 王子さまではなくて玉子さま。絵本。その絵も著者が描いている。これについて,著者自身が「ようやくなんとか,人に薦められる本を,絵という(僕だけが認める)奥の手を使って作ることができた」と語っている(→『STAR EGG 星の玉子さま』発刊にあたって)。

● 著者としてはいくつかの仕掛けを施したわけだろうか。あとがきにも,絵をいろんな方向から見てほしいということが書かれているんだけど。

● ぼくはスッスと見ていってしまった。想像力のなさを証明しているかもしれない。

2017年5月27日土曜日

2017.05.27 森 博嗣 『夢の叶え方を知っていますか?』

書名 夢の叶え方を知っていますか?
著者 森 博嗣
発行所 朝日新書
発行年月日 2017.01.30
価格(税別) 760円

● 夢の叶え方というよりは,目標管理の方法論といった方が,本書の内容を表す標題になるかもしれない。
 強く念じよ,すべは叶う,という内容ではもちろんない。夢が実現したシーンをありありと細部にわたるまで,できれば色つきでイメージできれば,それが潜在意識に到達するから,あとは潜在意識に任せておけばいい,と説くものではない。

● 本書で著者が口を酸っぱくして説くのは,自分の夢を見ろ,ということ。他人に見せるための夢ではなく。
 人に認められたいとか,周囲の評価を得たいという,そのための夢になりがちだということ。そんなものは無価値ではないか,と。

● 以下に,多すぎるかもしれない転載。
 特に助手の頃は,研究が面白いため没頭してしまう。趣味が不要なのだ。ここは,危ないといえば危ない。ついついのめり込んで,躰を壊す人間が周囲の同僚にも多かった。(p7)
 僕は大勢の人たちと一緒に遊びたいのではない。一人で遊びたいのだ。クラブに入るという選択はありえない。(p9)
 大事なことは二つある。(中略)一つは,自分の夢を知っていること。自分が何をしたいのか,明確なビジョンを持っていることである。(中略)そして,二つめには,それをなるべく早く実行することである。この実行が伴わないと,夢を思い描くことがライフワークになってしまう。(p16)
 「特になりたいものはない」「べつに決めていない」「そのときになってみなければわからない」という答は,どこか投げやりで,そんな台詞を吐く冷めた若者は,きっと社会から歓迎されない。年寄り受けしないからである。(p33)
 僕は「有名」になりたくない。有名が嫌いだ。人に注目されることを生理的に嫌っている。したがって,有名なものに価値を見出さない。必然的に,大勢が認めるものに,僕は見向きもしない。価値の判断に,不特定多数の意見をほとんど取り入れない。(p34)
 僕が言いたいのは,その「職業」に執着していない,という意味である。研究者の活動は面白い。作家も創作する時間はわりと楽しい。それは,職業でなくてもできるし,続けることが可能なのだ。ようするに,それで人に認められなくても良い,と僕は考えているのである。(p35)
 老人というのは,若者に「回り道」をさせたがる傾向にある。安易に目的を実現するのではなく,充分に修行して,時を待て,という教えだ。(p36)
 自分の夢の中に他者が介入している場合が多いことが理解できるだろう。(中略)他者に認められて初めて実現する夢を思い描く人が実に多い。(中略)つまり,自分の夢なのに実は他者との関係が入り込み,むしろそちらが主になっているのだ。(p41)
 おそらくは,子供の頃から,大人たちに「凄いね」「楽しいね」という満足を「もらって」成長してきたのだろう。満足を自分から発することができない。自分で満足するなんて,「自己満足」という醜いものなのだ,と信じているのである。(p44)
 「大自然の中で子供を自由に育てたい」という夢は,子供にとってはいい迷惑かもしれない。ペットではないのだ。小さいうちはまだ良いとしても,少し成長すれば,都会に憧れるだろう。あなたの夢が若者を縛ることになる。その想像をしているだろうか?(p50)
 「家族の理解」という言葉を使っているだけで既に道を誤っているようにも観測できる。何故,あなたの夢に家族の理解が必要なのか,と問いたくなる。(p51)
 もし,身近な大人が楽しさを作ることができる人だったら,子供はそれを見て,自分にもそれができる,いつかできるようになりたい,と考えるだろう。ところが,大人はただ働いて,その金で子供に楽しさを買い与えているだけなのだ。そのことが子供にもよくわかる。このような環境で育てば,自分も金を稼ぎ,その金で楽しさを買おうとする。(p54)
 どんな楽しいことでも,熱中したあとには厭きてしまうものだ,と思っている人は多いと思う。しかし,厭きる原因は,本当の楽しさではなかったから,ということに気づいているだろうか? 厭きてしまうということ自体が,まだ楽しさの本質を知らない証拠なのである。(中略)それを本当に楽しんでいる人は,けっして厭きることがない。楽しめば楽しむほど,もっと楽しいことが現れる。毎日が発見の連続で,つぎからつぎへと新しい楽しさが生まれてくるのだ(p55)
 他者(外部)から与えられる快楽というのは,慢性化していく。「厭きる」というのは,つまり慢性化のことなのである。(p57)
 最近は,「感動をもらう」「元気をもらった」などと言う人が増えた。明かな危険信号といえる。(p59)
 楽しさの本質は,個人の中から生まれる発想にある。自分が思いつき,自分で育て上げた結果初めて得られるものだ。(p59)
 大事なことは,「元気」「やる気」のような気持ちではない。この本を読んで,森博嗣の言葉に反応して出たやる気なんて大したものではない。その元気ややる気が今日一日で何を成したのか,ということが重要なのだ。元気もやる気もなくても何を成せるか,を考えた方がずっと良い。(p68)
 僕の印象として,想像力がなく,自分の楽しみを持っていない人ほど,夢として「旅行」を選びがちかな,と観察されるのだが,気のせいだろうか。(p84)
 その「諦め」の回答をした人も,まだ四十代か五十代が多い。僕は六十代でも,そんな境地に達するのにまだ早いのではないかと感じる。(中略)まだまだ一花も二花も咲かせられるのではないだろうか。(p97)
 多くの人が見ている夢は,ある一時のシーンを想定しているものが非常に多い,ということ。たとえば,「結婚」などが好例だ。これを夢見ている人は,結婚式や新婚生活が見えているだけか,せいぜい結婚後数年間の想像しかしていない。(p97)
 たとえば,「楽しいことをしたい」という「夢」があったとしよう。茫洋としていると感じられるだろう。まさに夢のようだ。しかし,まずはこのような「本質」をしっかりと掴むこと,意識することは馬鹿にならない。むしろ具体的なものを思い描くよりも大切なのではないか,と僕は感じている。(p102)
 拘るのは素晴らしいことだと思っている人が多いだろう。けれど,この言葉はそもそもその意味ではない。つまらないことに執着してしまい,大きな目標を見逃す,という意味に使う表現なのだ。(p103)
 何故か,「目標は高い方が良い」などと教える指導者も多い。僕はそうは思わない。目標なんて,「実現できてなんぼのもん」なのである。たとえ,高い目標を掲げたとしても,そこへ向かう道筋の一段一段は低く設定しておこう。(p105)
 人間は,古来自分の躰よりもずっと大きなものを作った。時間をかけて,想像を絶するような規模のものを構築し,後世に伝えてきた。(中略)また,工芸や美術の分野でも,技を極め,数々の手法を試し,またそれらを受け継いで,より高いものを目指してきた。そういったものを見て,これは特別な人たちだ,と思うか,それとも,自分もやってみたい,と思うか,そこに「夢の強さ」の差が生じるのではないだろうか。(p119)
 人間はつまり,夢を見るように作られている。進化論に従えば,夢を見て,それを実現するkとに楽しみを見出した種族が生き残ったのだ。(p126)
 いつか出口がある,と思って進めば,トンネルだって面白いものだ。子供はトンネルが好きだ。出口があることを知っているから,楽しめる。(p132)
 「自由」とは,自分が思ったとおりに行動することである。これは,「自在」とも表現される。ごろごろと寝転がってばかりで,怠けている状態は,「自由」ではない。(p137)
 スピードが半分ならば,倍の時間をかければ良いだけのことだ。この程度のことをハンディだと思ってはいけない。(p146)
 毎日駒を進めるために,僕が採用している一つの手法は,キリが悪いところで終わる,というものである。(中略)これは,翌日の自分のために,手掛かりを残しておくというのか,アイデアを譲るというのか,そんなサービスだといえる。(p150)
 日頃から,こつこつとコンスタントに進めることが,夢への道の歩き方だ。休み休みでも良い。メリハリをつけず,調子が良いときも,調子が悪いときも,同じように進めるのが,結局は合理的である。自分をできるかぎり忙しくしない,ということ。(p155)
 小説を書きたいと考えているような人は,もう小説をたくさん読んでいるはずだから,小説がどんなものかは知っている。それさえ知っていれば,ほかに知識は必要ない。とにかく書き始める。(中略)作品を仕上げてみて初めてわかることもある。とにかく,一作を最後まで書いてみること,これが小説を書くことに最も重要な経験となる。(p157)
 ちょっと書いたところで,自分の作品を読み直す人が多いようだが,これもおすすめしない。直したければ,全部書き上げてからの方が良い。それから,その書き始めたものをネットなどで公開しないこと。他者に見せるのは,まったく感心しない。必ず完成したものを発表すること。作品というのは,完成して初めて一作になるのである。(p159)
 僕は,とにかく悲観的に予定を立てることにしている。最低限これくらいはできるだろう,という数字を(パソコン上の)カレンダーに書き込む。(中略)自分に対してけっして楽観しない,というのは基本的な姿勢だ。(160)
 一つのことが続けられない。もっと面白いものがあれば,そちらを優先してしまう。いわゆる「浮気性」というやつである。これを克服するために,僕が採用した手法は,複数のことを同時に進める,というものである。(中略)別の作業をしている間,まえの作業のことは頭から消えている。考えたりしない。しかし,ぐるりと巡って,また小説の執筆に戻ると,すぐに頭が切り替わって,いきなり書き始めることができる。リフレッシュしているというか,この方が高効率なのである。(p162)
 道具も大事である。できるかぎり良い道具を使うことに心掛ける。安物を買わない。その方が長持ちするし,なによりも,それを使う自分の士気が高まる。(p163)
 夢を実現したい,という気持ちが基本にあって,そこへ近づいていく自分を意識している。そして,そのために,自分にノルマを課し,騙し騙しで進めているのである。それができるのは,「好きだから」ではなく,「やればやっただけの見返りが必ずある」ということを知っているからだ。(p165)
 一番知っているのは自分なのであり,その自分に褒めてもらいたい,と思う。評価はあくまでも自己評価が基本だ。(p166)
 多くの人たちは,(中略)不特定多数から褒められたい,できるだけ沢山の人に見てもらいたい,といった欲求を何故か持っていて,(中略)ちょっとした思いつき程度でもネットにアップし,みんなから「いいね!」がもらいたくなる。(中略)「小粒な自分」になっているのだ。この小粒さはあらゆるものに波及し,夢も人生も,きっと小粒になるだろう。(p167)
 その意味では,夢を追う過程において,周囲からの「支配」をいかに断ち切るのか,ということが重要になってくる。(中略)支配とは,一見面白そうなもの,周囲との関係をつなぎ止めるもの,そして少しずつ搾取をされるものだ。(p168)
 「大きな成功への最大の障害は,小さな成功である」という言葉がある。これは,僕が考えたものだ。(p174)
 ちょっとした失敗を気にして,消極的になってしまう人は多い。(中略)このような人は,「恙なく」勤めることを望み,「健康でありさえすれば良い」という謙虚さを語るかもしれない。(中略)それが本音だとしたら,「生きていれば良い」と同義であって,非常に本能的というか動物的な生き方になる。人間性を放棄しているように,僕には感じられる。(p174)
 スポーツ選手も芸能人も,「ファンに喜んでもらえることが一番」と口にする。(中略)それを真に受けてはいけない。ここを見誤っている人は,なれても二流止まりだろう。一流のスターは「人を喜ばす」程度の動機でなれるものではないのである。 では,何が目的なのか。それは,自分の価値を高めることである。(p181)
 こういった「摩擦」あるいは「抵抗」は,どこにでもある。自分の周囲から嫌なものをすべて排除すると,これまでそうでもなかったものが嫌なものになる。(中略)それを実現するには,自分の評価眼,価値観をコントロールするしかない。ようは見方の問題なのである。(p206)
 先生について教わる必要はない。むしろ,自分一人で楽しんだ方が良い。(p212)
 自分が作ったものを商品化したい,と考えている人が多い。(中略)このような夢を実現するために必要な要素が,やはりオリジナリティなのだ。案外,多くの人がそこに気づいていない。つまり,「上手であること」「完成度の高さ」といったものを求めがちなのだ。(中略) いくら技術的にプロ級でも,既にあるものに似ていると商品化の妨げになる。(中略)新しいものに挑戦すると,多少見栄えが悪くなったり,辻褄があわなくなったりする。それを見た人は,驚くかもしれないし,なんとなく敬遠するだろう。しかし,それが正しい。敬遠されるくらいの力がなければ,オリジナリティではない(p217)
 とにかく,普通の人がしているようなことに,ほとんど金を使わない。(中略)やりたいことがある,自分の楽しさを持っている,つまり目指す「夢」があるから,このようなことができる。(中略)だから,「夢」を持っていることは,非常に経済的だといえる。(p226)

2017年4月20日木曜日

2017.04.20 森 博嗣 『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』

書名 人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか
著者 森 博嗣
発行所 新潮新書
発行年月日 2013.03.20
価格(税別) 700円

● 頭が強い人が書いたものを読む快楽の今月2冊目。

● 著者が折にふれて言っていた“抽象的に考える”というテーマについて展開している。あちらからこちらから,説いて説いてという感じ。

● ところで。読了してから,これ一度読んでいたことに気がついた。
 これって,昔からわりとある。まったく新鮮な気分で二度目を読めたのだから,お得かなと思う。バカか,おまえは,という意見もあると思うんだけどね。

● 以下に多すぎる転載。
 世間一般の多くの人たちの考え方は,極めて主観的であり,大多数は具体的だ。それを自分で意識しているならば問題はないが,無意識にそれがスタンダードだと思っているから,ときとして「狭いものの見方」になりがちで,また,主観的で具体的すぎるがゆえに感情的になってしまい,結果として損をすることになる。(p5)
 (現代アートでは)芸術として描かれる絵は,それが何を描いたものかを伝えるためにあるのではなく,作者がどう感じたのか,ということを訴えるものになった。(中略)「凄い!」という感動を絵にするのである。これが抽象画だ。(p25)
 客観的に考える場合には,自分の経験や知識や立場を忘れる必要があるし,抽象的に考える場合には,表面的なもの,目の前に見えているものに囚われないことが大切である。これはたしかに難しい。でも,できないわけではない。人間にはそれだけの能力がある。それができるから人間だ,といっても良い。(p27)
 僕の友人には,自殺してしまった人が数人いる。周囲の誰も,彼らを救うことができなかった。たぶん,彼ら自身しか,救えなかっただろう。多くの場合,自殺する人の思考は,主観的であり,具体的すぎる,と僕は感じている。(p30)
 だんだん文章が速く読めるようになる。これは,読む能力が増したように錯覚する人が多いが,そうではない。言葉が表していたはずの元のイメージを頭の中で展開せず,ただ言葉を鵜呑みにして処理するようになっただけだ。こういった状態で読んだものは,次第にインパクトが薄くなるし,すぐに忘れてしまうようになる。本を沢山読む人,読むのが速い人ほど,この傾向があるように観察される。(p35)
 社会では,沢山の人がそれぞれの分野の専門となって仕事を分担している。なんでもみんなで多数決を取る,というのは考えもので,それぞれその専門家が考える方が間違いがない。原発反対の人が多いから原発は廃止すべきだ,という数の理論は成り立たない。(p57)
 「どうしてこんな馬鹿なことをするんだ?」と怒ってしまう人は多いが,少なくても「どうしてか」が理解できないから腹が立つのだ。(中略)冷静さに必要なのは,この「理解」なのである。(p62)
 重要なのは,決めつけないこと。これは,「型」を決めてしまって,そのあとは考えない,では駄目だという意味だ。抽象的に,ぼんやりと捉えることで,決めつけない,限定しない,という基本的な姿勢を忘れないように。(p65)
 自分に都合の良い主張をするのは簡単だが,それを聞いた相手がどう感じるのかを予測しておくことは,一つには「思いやり」であり,また逆に考えれば,相手の反応を見越して,より有効な表現を選択するという戦術が取れるわけで,自分にとっても非常に有利となる。(p67)
 歳を取ると,自分に無縁なものが増えてくるし,割り切れるようになる。そんなことに金をかけても,なんの足しにもならない(ならなかった),と処理する。こうして欲求はすべて小さな具体的なものばかりになり,予感や願望だけの「美しさ」は無益なものとして排除される。(中略) こうなってしまった年寄りは,ぼんやりと悩んでいる若者に対して,つい「はっきりしろ」「もっと具体的に」と言いたくなるはずだ。しかし,若者の「はっきりしない思考」というのは,それも価値があるものであって,それを失ったのが「年寄り」なのである。(p83)
 悩むことはけっして悪いことではない。とにかく,考えないよりは考えた方が良い。この法則は例外が少ない。(p92)
 抽象的思考を身につける方法というものは,具体的にはない。こうすれば間違いなくできるようになる,という方法は存在しない。したがって,教えることなんてできない(p98)
 教育というのは,結局のところ,具体的な知識を詰め込むことしかできていない。「才能を育てる」というのは,もともとあった才能が活かされる場を用意するだけのことだ。(p99)
 僕が見たところ,現在の若者は常識に縛られ,具体的な大量の情報によって抑制されている。できるのに,できないと思い込まされている人が大勢いる。(中略)教育という行為は,少なからず,具体的情報を押しつける行為であり,ぼんやりと存在していた個人のイメージに対し,みんなで共有するために意味を限定(すなわち,定義)する作業の集積でもある。結果として,皮肉なことに,教育が抽象的思考を阻害する可能性があることを,まず自覚しなければならない。(p103)
 知識を得ることは,抽象的思考とは方向性がまったく異なる。もしも,知識の多さが「理解」であり,知識によって物事がすべて解決できると思い込めば,もうなにも考える必要がなくなってしまう。(p103)
 自分が知ってしまった情報に対して,「もしも自分がこれを知らなかったら」と仮定して考えることが,抽象的思考の基本なのである。(p115)
 なにか具体的な例を挙げようと思ったのだが,多くの読者は,僕がたまたま挙げた具体的な例に囚われるだろう。その具体例だけ覚えてしまい,逆に抽象的な本質を意識できなくなる。言葉で説明したり,人を納得させるときに,難しいのはまさにこの点なのだ。(p118)
 注意したいのは,芸術を評価する目というのは,裏データを知る必要がないことである。(中略)頼りになるのは,自分の感性だけだ。これをしなければ,芸術に触れる意味がないとさえ思われる。(中略)芸術の本質とは,貴方の目の前にある作品と貴方の関係なのである。(p122)
 言葉で表されていても,それを言葉で理解することは,僕は間違っていると思う。しかし,いわゆる評論家というのは,これを無理にしている人たちである。(p123)
 感想文を書くことが上手になれば,きっとその分,芸術家になれなくなるだろう。解釈という単純化が,芸術をたんなる技術にしてしまうからだ。(中略) 創作を自分で行うには,「感動できるけれど言葉にならないもの」,そんな「わからないもの」を自分の中に持っていなければならない。(P124)
 抽象化する力が不足している人は,創作するものが,人真似になるだろう。自然にそうなってしまう。それは,まだ具体的なものに囚われている証拠で,自分が目指すものが,充分に抽象化されていないことを示唆している。(p125)
 抽象的なものには,論理が完全には適用できない。また,論理的思考とうのは,発想があったあとに,それを吟味する役目のものである。論理的にいくら考えても,新しいことを思いつくことはできない。(p126)
 いつだったか,(たしか新聞の投稿で)子供が満天の星を見て,「蕁麻疹みたい」と言ったことに対して,「近頃の子供は夢がない」と嘆く論調のものがあったが,とんでもない話である。その子供の発想は素晴らしい,と褒めなければならない。星空は綺麗なものという固定観念に囚われている方が,明らかに「不自由」な頭の持ち主であろう。(p129)
 誰もが自殺について考えたことがあるだろう。それをしないで生きているのは何故なのか? この問いは,非常に重要なものである。(中略)しかし,この答を具体的に語れる人も少ない。少なくとも,僕にはできない。ただ,なんとなく,生きていた方が良いような気がする。ここでも大切なことは,「ような気がする」という極めて抽象的な方向性なのである。 すなわち,そもそも人が生きている,人を活かしているものは,抽象的な,ぼんやりとした理由でしかない。探求すれば,もっと深く考えることも可能だろうけれど,しかし,けっして具体的になるものではないだろう。(p132)
 世間の人がよく誤解をしていることがある。研究とは,「調査:だと思われがちだ。(中略)しかし,僕の認識では,これは研究ではない。研究のための準備か,あるいは確認作業だ。(中略) では,研究というのは,どんな行為なのか,といえば,考えて考えて,思いついて,そして,それを確かめる,もし確かめられなかったら,また考えて考えて,思いつく,という繰り返しである。(中略)なくてはならないのは,やはり思いつくこと。すべては,発想に起点がある。それは,時間にすれば,ほんの一瞬のことだ。(p137)
 僕は,メモというのは一切取らない。これは,研究でもそうだった。メモを取ろうと思った瞬間に,つまり,言葉にしようとすることで失われることが多すぎる。どうせ最後は言葉にするのだ。メモよりは,本文を書く方が言葉の数が多いので,失われるものは最小限になる。発想したときメモを取るくらいなら,発想しながら本文を書いた方が効率的だ,と考えている。(p144)
 作りたい気持ちはあるけれど,作りたいものがあるとはかぎらない。これが抽象的な指向である。そうではなく,作りたい気持ちは大してないけれど,作りたい(できれば,誰かに作ってほしい)ものがある,というのが具体的な指向になる。前者の方が良い状態だと思う。(p148)
 楽しいものを求めるときに,楽しくない手法では元も子もないという場合もある。(p150)
 世の中は,具体的な方法に関する情報で溢れ返っている。こんなに沢山の情報が存在できる理由は,結局それらの方法では上手くいかないからである。(p151)
 人生なんて,長生きしてもたかだか百年ではないか。さらにもっと未来を見れば,いつかは地球は太陽に呑み込まれて消滅してしまうだろう。自分がどう生きようが,最後はすべてが無に帰すのである。それは確実なことなのだ。(中略) このように,抽象的に見るために客観性を増して遠望すると,「すべてが虚しくなる」という人もいる。(中略)しかし,「虚しくなるから考えない」というのも理由として変だ。おそらく,「虚しいことは悪いことだ」と思い込んでいるのだろう。 日本には古来,虚しさを楽しむ文化があるではないか。(p154)
 思考は,自由で常にダイナミックだ。しかし,具体的な(肉体の)生活は,質素で無変化であってもかまわない。むしろ,その方が健康を維持しやすい。健康は,思考を支えるためにある,と僕は思っている。(p160)
 究極的には,その人の考え方なのだと思う。考え方がすべての基本なのだ。だから,現実がどんな状況にあっても,肉体がどんな状態であっても,思考は自由であり,いつでも楽しさを生み出すことができるはずである。ただ,現実や肉体といった具体的なものに囚われ,不自由を強いられているのである。(p161)
 論理的な思考というのは,それに集中し,「脇目もふらず」突き進む感じのものだが,発想するときの思考は,「どれだけ脇目をふるか」が重要になる。(p168)
 人間の頭脳が考えるものは,そういう「人工的」なものである。実は,「論理」というものも人工的なもので,計算も推論も人工だ。(中略) しかし,その当の人間の頭脳は,まちがいなく自然なのだ。頭は,人工物ではない。したがって,自分の思うとおりにはならない部分がどうしてもある。(中略) 優れた発想とは自然から生まれるものなのだ。思うようにならないのは,人間の頭が作り出した人工の論理から生じるのではなく,人間の頭という自然の中から育ってくるものだからである。したがって,まさにガーデニングや農業と同じで,抽象的思考の畑のようなものを耕し,そこに種を蒔くしかない。発想とは,そうやって収穫するものなのである。(p179)
 学び方,考え方といった具体的な手法を数々取り入れたところで,それはその場限りの,つまりお金を払って庭師さんに作ってもらった庭園であって,自分が作り上げたものではないため,やはり次第にアイデアは枯れ,土地は痩せてくる。毎日こつこつと雑草を取っている(抽象的な思考を続ける)人の庭には,どう頑張ってもかなわない。(p181)
 この頃は,「楽しく学ぼう」というような幻想を追い求めすぎていないだろうか。はっきり言って,勉強は楽しいものではない。考えることだって,どちらかといえば苦しいことだ。のんびりとリラックスしているときにアイデアが浮かぶよりも,忙しくて必死になって考えているときの方が,断然発想することが多い。(p184)
 大事なことは,「もうちょっと考えよう」という一言に尽きる。(中略)なにに対しても,もうちょっと考えてほしいのである。なにしろ,全然考えていない人が多すぎるからだ。(p186)
 知らないから不安になるという人が多いけれど,誰も本当のところは知らないということくらいは,知っておいた方が良い。専門家は,比較的詳しいというだけだ。(中略)自分で少し考えるだけで,かなり理解が深まるのに,それをせず,ただ知ろう知ろうとするから,疑心暗鬼になって「ちゃんとすべてデータを見せてほしい」「なにか隠しているんじゃないか」と疑ってしまう。(p190)
 情報は,それを発信した人の主観が基本になっている。自分に有利になることを書いている場合がほとんどだ。(p191)
 僕の場合は,引用を極力しないことにしている。誰かの意見を直接参考にして考えたわけではないし,具体的な事実にも無関係な,抽象的なことを話題にするように心がけているからだ。(p192)
 将来の方向性といった問題については,できるかぎり判断を保留した方が良い。この保留することも,抽象的思考から導かれるものの一つである。 慌ててどちらかに決める必要などない。ぼんやりとしたままで良いではないか。(p195)
 〇か一かを決めないといけない,と考えるのは,「もう考えたくない」という生理的な欲求によるものだと思われる。(p195)
 好きか嫌いかを決めて,好きなものからは情報を入れ,嫌いなものからは情報を入れない,ということは,あまりにも理由がない。(中略)そんな「好き」や「嫌い」は,僕は嫌いである。馬鹿馬鹿しいとさえ感じるし,明らかに理不尽だとも思う。(p203)
 僕は,人の意見を聞くときや,人が書いた本を読むときには,それで自分が影響を受けようという気持ちでいる。そうでなければ,意見を聞いたり本を読む意味がない。(p206)