2018年9月16日日曜日

2018.09.16 森 博嗣 『読書の価値』

書名 読書の価値
著者 森 博嗣
発行所 NHK出版新書
発行年月日 2018.04.10
価格(税別) 820円

● 知識を得るためにではなく,“思いつき”や“発想”を得るために,読書はするものだ。したがって,雑多な分野の本を読むのがいい。これが本書の要諦。
 読みながら気持ちが飛ぶのはむしろ読書の功徳の最たるもので,そのことについて自覚的であれ,と。ゆえに,遅読みがいい。速読は害でしかない。

● 以下に多すぎる転載。
 いずれにしても明らかなことは,僕がもの凄く沢山のことをすべて本から学んできた,という事実である。文字がすらすらと読めないハンディを背負いながらも,とにかく本を読むしかなかった。知りたいことは,活字を追うことでしか得られなかったのだ。(p21)
 僕が本から得た最大の価値は「僕が面白かった」という部分にある。だから,もし同じ体験をしたいなら,各自が自分で自分を感動させる本を見つけることである。同じ本が別の人間に同じ作用を示す保証はないからだ。(p23)
 文章を読んでも,本当の意味は理解できない。むしろその逆だといえる。意味が理解できたとき,初めて文章が読めたことになるのだ。しかし,多くの一般読者は,どうもそうではない。特に本を沢山読む方は,文章を読んでいる。文章をそのまま鵜呑みにしていて,その意味を自分の頭の中で展開していないようなのだ。展開していなければ,つまりちらりと見た程度の体験となる。(p28)
 近頃では,ベストセラの小説でも,数十万部程度の売行きである。それどころか,数万部売れれば,週間や月間ならベストセラになる。この数字は,一億人以上いる日本の人口からすれば,0.1パーセントにすぎない。つまり,多目に見積もっても,千人に一人しか小説を読まないのだ。(p43)
 大学生になると,専門の講義を受けることができる。これは,ほとんど本を読むのと同じ感覚だった。本を読めばわかることを,先生が直接教えてくれる,というだけだ。(中略)ただ,本を読んだ方が時間がかからないし,細かいところまでわかるし,明らかに効率が良い。(p49)
 文章からイメージを展開することが,小説を読むという行為だろう,僕は認識していた。だからこそ,読むのに時間がかかる。逆に,頭の中のイメージを文章に書き写すことは比較的時間がかからない。(p56)
 これくらいのものならば自分も書けるな,とも感じたのだが,それは明らかな勘違いである。まず,遠藤周作か北杜夫に匹敵するほどの人物にならなければ,誰も読んではくれないだろう。(p66)
 僕は,学生が書いてくるレポートを沢山読んだ。(中略)そして,それらのレポートに書かれている内容は,悉く「ありきたり」だった。(中略)千人に二人くらいしか,「なるほど,こういう発想は独自だな」と感心するようなものに出合わなかった。(p70)
 結局,本というのは,人とほぼ同じだといえる。本に出会うことは,人に出会うこととかぎりなく近い。それを読むことで,その人と知合いになれる。(p75)
 自分にないものを持っている人と知合いになることが,そもそも知合いになる価値なのではないか,と思えるのだ。(p77)
 さらに書いておきたい重要な事項がある。それは,本が面白いかどうか,すなわち,読んだものが当たりか外れかは,実はそれほどはっきりと判別できないということだ。(中略)面白いものを探して読めば面白い点を見つけられるし,つまらないように読めばたいていのものがつまらない。そのときの気分というか,読み手の状況や姿勢によって評価は一転するといっても良い。(p85)
 僕は,本を読むときに,まず,この本を読んで自分の意見や知識が塗り変えられることがあれば,と願っている。影響を受けたいという気持ちで読む。(中略)これは,人と話をするときも同じで,まずは,説得されたい,この人の意見に同調したい,という気持ちで聞く。そういった姿勢で受け入れることが,相手への礼儀だと考えている。(p86)
 どんな本もどんな人も,読んだり話を聞いたりしたら,第一に感謝をすることである。この気持ちが大事だと思う。感謝をすること,尊敬することで,その内容が僕の中で綺麗に留まり,優しく発展し,あるいは発酵し,違うものに展開するかもしれないのだ。(p87)
 人間関係というのは,お互いに責任がある。問題があっても,お互いに原因があるのだ。ただ,どうしても我慢ができない場合は,その人から離れるしかない。会わないようにする,という選択である。本の場合も,ほんのときどきそういった噛み合わないものがあるかもしれない。(中略)ただ,簡単にやめられるからといって,嫌いなものは読まない,という姿勢を貫いていると,結局は損をすることになるだろう。(p88)
 なんとなく,新しいことを求めているとき,今までになかった面白そうなことはないか,と探しているとき,そんな場合は,むしろ自分が知っている関連ではなく,遠く離れた他分野へいきなり飛び込むことをおすすめする。こういったことが比較的手軽にできるのが,本の良いところでもある。(p98)
 この「無作為」の選択法は,それなりに効果がある。好きなものを選ぶ,という選択では,すでに自分の頭の中にあるものに支配されていることと同じで,いわば不自由なのだ。無作為ならば,その支配から解放される。(p99)
 人が読んでいるものを避ける,ということである。(中略)書店でも,平積みされ,ポップが立っているような本は無視する。(中略)そうすることで,自分が得たものの価値が相対的に高まる。大勢が得たものならば,もう僕が得なくても,社会に満ちているものといえる。(p103)
 もし小説家になりたいなら,小説を読まないこと。もしエッセイストになりたいなら,エッセィを読まないこと。自分がそれでプロになりたいなら,もっと別のところに目を向けるべきだ。(中略)僕は,そもそも小説がそれほど好きではなかったから小説家になれた,と思っている。なにを書いても,これまでになかったものになる可能性が高いからだ。(p106)
 問題を解決することは,院生レベルでもできる。一流の研究者というのは,問題を見つける人のことなのである。(p115)
 詩は,オリジナリティを出すのが難しいけれど,着眼や言葉選びの先鋭さみたいなもので,優劣は確実につけられる。その点では,小説よりもわかりやすい。(p122)
 キーボードの文字の配列は,アルファベットだ。それは英語の文章を打つために考えられた配列なのである。かつては,複数の配列があったが,協議会などを行って,最も速く打てる配置が選ばれた。(中略)しかし,日本語でこれを使う場合は,ローマ字入力になるから,英語のスペルトは文字の出現頻度が違ってくる。(p132)
 残念ながら,プログラミングをする機会もあったし,英語で論文を書かないといけないので,僕はこのとき,平仮名入力に切り換えるのを断念した。後年作家になるのだから,切り換えておくべきだった。先見の明がなかったことになる。現在,僕は一時間に六千文字を打つ作家として知られているけれど,平仮名入力だったら,一時間に一万文字は軽く打てるはずである。(p133)
 作家になって,小説を書き始めたときも,まずは執筆のルールを明文化することが自分にとって急務だった。(中略)ルールさえ決まれば,それに則って書いていける。ルールが大事なのではない。余計なことで迷わない環境が重要なのだ。(p143)
 ついつい効果を狙って余分な強調をしがちであるが,それらを削ぎ落とした方が,文章が引き立つことも多い。残った言葉に重みが出てくるからだ。(p143)
 文章を書く技術を向上させるには,できるだけ文章を沢山読んだ方が良い,という人がいるが,これは効率が悪すぎる。(中略)やはり,文章をできるだけ沢山書くことが,文章が上手くなる一番の方法だろうと思う。音楽だって,聴いているばかりでは演奏は上手くならない(中略)アウトプットすることで初めてわかることが非常に沢山ある。(p144)
 英語だって,英会話能力よりは,英語が読めて,英語が書ける能力の方がずっと重要である。それができる人が少ないからだ。この点では,日本語とまったく同じだ。しゃべる能力なんて,大したものではない。特に,エリートに求められるのは,文章の読み書きである。(p145)
 知らないことがある,というのはもの凄く嬉しいものだ。それは,処女雪のような綺麗さである。そこへ足を踏み入れる,自分だけの足跡がつく,それが面白い。期待に胸が踊り,落ち着かないほどだ。(p147)
 僕の場合の話になるが,簡単にそれを量として捉えれば,文章を読んだとき,頭の中でその百倍以上はイメージしている。ものによって違うが,必要ならば千倍くらいはイメージを膨らませる。同様に,頭の中にある映像を文章に書き落とすときは,百分の一,千分の一が文字になる。(中略)論理を記述したものであっても,やはり,僕の場合は映像的な展開をする。(中略)これは,言葉で考える人には信じてもらえないことが多い。(p152)
 言葉で考えている人は,数字も言葉だと理解しているようだった。僕には,そういう人がどうやって計算をするのか不思議だ。(p154)
 知識を頭の中に入れる意味は,その知識を出し入れするというだけではないのだ。頭の中で考えるときに,この知識が用いられる。(中略)一人で頭を使う場合には,そういった外部に頼れない。では,どんなときに一人で頭を使うだろうか?それは,「思いつく」ときである。(中略)このとき,まったくゼロの状態から信号が発生する,とは考えられない。そうではなく,現在か過去にインプットしたものが,頭の中にあって,そこから,どれかとどれかが結びついて,ふと新しいものが生まれるのである。(p155)
 誰にでも共通して効果があるのは,やはり読書だと思う。それは,そこにあるものが,人間の個人の頭から出てきた言葉であり,その集合は,人間の英知の結晶だからである。(p160)
 インプットとしての読書の効率の良さを,連想,発想という面から指摘した。それらは,知識よりもはるかに大切なものであり,だからこそ,広い範囲の本を読むことに意味がある。自分の興味の範囲でとことん知識を深めていくことも大事ではあるけれど,それ以上に,無関係なものを眺めることが有意義なのだ。(中略)そして,そういった連想や発想を期待する読書において注意が必要なのは,ゆっくりと読むことだと思う。(中略)文字や文章だけを辿るのではなく,そこからイメージされるものを頭の中で充分に「展開する。それが可能な時間をとりながら読むのが良い。遅い方が良い読書だということ。読んでいるうちに別のことを考えてしまい,読書に集中できない,ということがあるけれど,それは願ってもない状況といえる。(p161)
 僕の場合,大学の教官になって,学生に対して講義をするようになってから,人に話すこと,説明をすることで,もの凄く記憶に残ることがわかった。つまり,教えることで覚えられるのだ。聴いている学生の頭には入らなくても,話している先生には効果的な勉強となる。(p164)
 僕はほとんどメモというものをしない人間だ。執筆する小説のストーリィさえメモしない。トリックもオチも,すべて頭から出さない。(p165)
 メモをしたから忘れるのだろう。外部に出すといっても,こういったアウトプットはむしろ書き留めたことで安心してしまい,頭の中のデータが消えてしまう,ということなのではないか。(p165)
 なかには,本の中から文章を抜き書きして,大量のコピィだけをブログに挙げている人もいる。おそらく,傍線を引いたのと同じ作業の一環だろう。そこをあとで自分で読み,そのときの気持ちを思い出すつもりだろうか。しかし,どう感じたかを記録しなくても良いのか,と心配になる。(p167)
 自分の感情を言葉にすることは,それほど大事なことだろうか。僕自身は,無理に言葉にすることで失われるものの多さが気になる。ぼんやりと,「ああ,おもしろかったなあ・・・・・・」と溜息とともに心に刻んでおけば,それで充分なのではないだろうか。(p172)
 論文などの科学的なものや,議論をすることに意義がある論考ならば話は別であるけれど,文芸作品に対する評論というものの意義を僕は認められない。僕にとっては,評論は必要ない,と考えている。評論をするのなら,その才能を使って新たな創作をした方が良い。その方が生産的だ。そうすることが,最も正しい芸術に対する評価になる,という立場である。(p173)
 人間というのは,つい理由を探すものである。これは,「言葉で思考する」という立場から導かれるものでもある。僕自身が言葉で思考しないので,そうも「理由」というものが単なる名称くらいにしか聞こえない。(中略)理由というのは,数学的にいうと,必要条件と呼ばれるもので,結果を導くために,この条件が必要だった,という集合である。しかし,その条件が満たされたからといって,必ず同じ結果になるわけではない。(p173)
 本を読んで感動したときには,本の中のさまざまな要因が複雑に影響しているし,本以外,読んだ人の環境などの影響も受ける。それらは分離することはできない。(中略)つまり,本の価値は,その本に特有の性質から生じるだけのものではない,ということだ。(p174)
 作文を書く目的の大半は,履き始める以前にある。何について書こうかな,と考えを巡らすその思考にあるのだ。(中略)文章を書く技法も,デッサンや絵の具の使い方も,それほど高等な作業とはいえない。現に,それらはコンピュータやAIが簡単に実現してしまう。問題は,どこに着眼するか,という最初の選択,最初の思考,最初の発想なのである。(中略)これをするのが,人間だ。(p176)
 ブログでも,テーマを限定しない方が,書く力がつく。本について書くと決めていると,それだけ考えなくなる。パターンが決まっているアウトプットは楽なのである。そして,そういったアウトプットが,パターンが決まったインプットを誘発するから,ますます閉じていく。こうして,才能が萎んでいくのである。(p177)
 その多くの読者は,それぞれの頭の中で,なんらかのイメージを思い描くことになるだろう。つまり,僕のアウトプットが行き着く先は,そこだ。したがって,僕は,結局はそれが僕の作品である,と考えている。本が単なるメディアあるのと同様に,本の中に書かれている文章もまた,その最終的なイメージを運ぶメデイアにすぎない。(中略)もし誰にも読まれなければ,それは書かなかったことに等しい。言葉や文章のアウトプットとは,そういう宿命にある。(p181)
 ネットが普及しても,まだ印刷書籍を宅配で送りつける販売システムが先行していたのである。このこと自体が,僕には理解しがたい状況だったが,でも,社会というのはそういうもの,すなわち鈍重でなかなか変われないものなのだな,と思うしかなかった。(p200)
 本というのは,不況に強い商品といわれていた。(中略)しかし,インターネットが登場し,暇潰しには事欠かない人ばかりになった。雑誌が売れなくなり,漫画も頭打ちとなった。そもそも,若者の数も総人口も減り続けているのだから,売上げが伸びることはありえない。(p207)
 出版というビジネスは,今後はどんどんマイナへ向かうだろう。「本」に拘っている場合ではないし,「文章」に囚われている場合でもない。大量にコピィして配布するというビジネスモデルも,根本的に見直す必要がある。(p216)

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