書名 経営者の運力
著者 天外伺朗
発行所 講談社
発行年月日 2010.09.15
価格(税別) 1,600円
● 「運力」とは,自らの運命に対するマネジメント力(p56)だと定義される。ただし,このマネジメントを日常用語のマネジメントとして理解するのは,ちょっと違うようだ。
本書を読んでわかるのは,運命はマネジメントできないものだということ。運命に対するこちら側の対応の仕方をマネジメントしろということのように思われる。
● 以下に転載。
運命には周期性があること,自分に起こっていることをすべて受けとめること,運命に直面すること,どん底状態でもブレないでしっかり準備をすれば,次の飛躍の種が潜んでいること,準備にひたむきさがないと運は呼び寄せられないこと(p40)
逆境でものをいうのは,経営学の知識や,孫子の兵法や,ランチェスター戦略とかいった方法論ではなく,表面的な商売の才覚でもない。もっと人間の土性骨に近いところの実力であり,それこそが「経営者としての土台」になるのだ。(p45)
MBAなんて,ピザでいえば,トッピングのようなものさ!(p48)
人間の中で,知識として頭から入ってきたものと,実際の活動を通じて体験として入ってきたものは,まったく異質の体系になっている(中略)言語で記述された知識というのは,ロボットのプログラミングと同様,平板で,質感や情動を伴っていない。(p51)
人や集団や社会の動きの底には,宇宙の流れがあり,その自然な流れに沿って,あるべき方向に落ち着かせることが大切なのだ。(p57)
運命というのも海の波と同じようなものではないかということだ。たしかに目で見るとピークが在り,ボトムもある。しかしながらボトムといえどもエネルギーがない訳ではない。ピークとまったく同じエネルギーを保有する。(p75)
ピークだろうとボトムだろうと,私たちが遭遇する出来事は,本当はどれも「宇宙のはからい」なのだ。「悪い運命」というのは外からやって来るのではなく,本人の精神的未熟さが,それを捏造してしまうのである。(p77)
私自身は,(卦は)「当たるからすばらしい」という心境には到底なれない。あまりにも多くの闇を見てきてしまったからだ。いまの心境は,「当たるから恐い」「当たるから危険」「できれば近寄りたくない」というのが,正直なところだ。(p81)
私は「易」に頼って会社をつぶした経営者を二人知っている。ひとりは名の知られたベンチャー企業の社長で工学博士だったのだが,どうしたわけか「易」に凝ってしまった。(p83)
占いというのは,どうでも良いことは心が乱れないのでいくらでも当たる。どころが,人生の勝負を賭けたとき,危機に瀕したとき,欲がからんだとき,あせっているときは邪念に支配されてしまい,当たらなくなってしまう。結局,いちばん必要なときに当たらないという困った傾向があるのだ。(p86)
たしかにね。並のボトムでもジタバタしない人は,「これは何かいいことの予兆に違いない」と,心の底から思える人ですよ。この心の底からというのがミソで,心の底からそう思えない人が,表面だけ真似をするもんだから怪我をする。だからね,波のボトムでジタバタしないようになりたかったら,まずはしっかり心の底からジタバタする以外に道はない。(p93)
ボトムであせりまくり,絶望してジタバタしている人が,次のピークに向かって有効な手を着実に打てる訳はない。必死な努力というのは,未来に希望をもっているからこそできるのだ。(p105)
山あり谷ありの波乱万丈の人生を歩んでいる人は,進行する運命のエネルギーが大きい。つまり,成功が大きいほど,失意のボトムも深くなる。逆に,山も高くなく,谷も浅い平穏無事な人生を歩む人は,エネルギーが小さいといえる。(p120)
ヒンズー教の僧侶は,たとえ交通事故で重傷を負ったとしても,あるいは愛する家族が惨殺されても,会社が倒産したとしても,ひたすら「ああ,それは良かったね」という。あらゆる出来事に対して絶対的に肯定するのだ。(p130)
アメリカ流成功哲学は,原理的な部分をヒンズー教の競技からつまみ食いしているが,その深遠な哲学はまったく無視されており,何とも安直なハウトゥーものにアレンジされている。そのほうが,人々が飛びつき,本が売れるのだ。(p131)
当時私は上席常務で,部下には部長も課長も大勢いましたけど,評価シートなんか無視しろ,と宣言しました。会社の方針に,公然と反旗をひるがえしたのです。評価というのは命をかけて独断と偏見でやれと。それ以外に,まともな評価はあり得ない,とね。この,命をかけてというところがミソなんですね。(中略)評価シートなんか使って,これは何点,これは何点,合計すると・・・・・・なんてやっていたら,命をかけて,というところがどこかにいってしまう(p136)
一九九五年にトップが替わり,それまでのソニーの伝統だった「フロー経営」を捨て,アメリカ流の合理主義経営を導入してしまった。(中略)その結果はどうなったか? 外部には二〇〇三年春のソニー・ショックとして知られているが,ソニーは凋落の一途をたどり,社内は地獄の様相を見せ,心身をこわす社員が続出した。(p149)
出井伸之さんのことだが,著者と出井氏はソリが合わないのだろうね。出井さんが社長のときのソニーは,前半は好調で後半は失速したイメージがあるが。
このとき精神的にも不安定になったことから,成功体験というものは,それがどんなに世間から評価されようとも,まったく心の支えにはならないことを思い知った。心の平穏というのは,成功体験を積み重ねれば自動的に得られるのではなく,それとは全然別のアプローチが必要なのだ。(p160)
人数が半分以下になれば,残った人たちの覚悟は定まる。つまり,「変容」に対する準備が整うのだ。「大きな変革をするときには,人数を減らすべきだ」というのは,マネジメントの世界ではよく知られている。(p165)
モンテッソーリ教育では,教師は,子どもたちに指示・命令を一切しない。それどころか,手助けすることも,間違いを訂正することも,褒めることもほとんどない。子どもたちは,いつ,どこで,何をするか,まったく自由であり,すべてが本人の判断にまかされている。じつは,それくらいの自由が与えられていないと,人はなかなかフローには入れないものだ。(p168)
企業でも,下手な報奨制度は「燃える集団」の火を消す。ソニーの創業者の井深大氏は,ことあるごとに「仕事の報酬は仕事だ」というメッセージを発信していた。いい成果を挙げれば,もっと面白い仕事に取り組めるようになる,という意味だ。そういう雰囲気があれば「燃える集団」は生まれやすい。(p170)
どうも,求めると与えられないんだね。それを僕らは,「執着の呪縛」といっている。(p186)
科学というのは,新皮質の論理で全部記述しようとするから,古い脳の知恵にはまったくお手上げ。だから,科学的に説明できる世界だけで生きていると,古い脳の知恵にアクセスできない。(p187)
プロジェクトを信念を持って,しっかり遂行すれば,専門家はすぐ育つし,ノウハウもあっという間に蓄積できる。(p193)
士気が高ければ成功するし,低ければ失敗する,と思われている。これは基本的に間違いだ。(p194)
謙虚でなければならない。どんなに自信があっても,それを絶対と思い込んで発言してはならない。もう一つは,笑いがなければならない,ということだ。どんなにきちんと正しく身を処していても,その過程でまったく笑いがない場合には,どこかで破綻が生じる(米長邦雄 p197)
事実にもとづいて常識があるのではなく,常識にもとづいて事実が起きてしまうこともあり得るのだ。(p203)
「癌になったら死ぬ」という常識が定着している。逆に,「想いを変えれば癌は治る」などといおうものなら「そんな馬鹿な!」と反撥されてしまう。つまり,癌患者は藁をもつかむ心境でサイモントン療法を受けに来るのだが,心の底のほうではそれを否定するという傾向がある。それは,治療法や個人というよりは社会全体の問題だ。(p207)
祈りには感謝のことば以外はいらない,という師匠の教えは,いまの私は確信を持って語ることができる。(中略)人はすべて,自分を中心として宇宙全体の秩序を形成しているように思う。一人ひとりがその秩序の責任者なのであって,誰かが作った秩序に受動的に参加しているわけではない。(中略)人間という存在は,一人ひとりが宇宙全体の秩序の支配者であり,一瞬一瞬の言動により,その秩序がゆれる。(中略)感謝の祈りというのは,まさにその秩序を強力にし,整える力を持っている。(p218)
天外塾では,あらゆる問題は一〇〇%,自分の内側にある,と教えています。それを掘り下げていくと,結局死の恐怖に行きつくことが多い。だから,死と直面できている人は,悩むことが少ないんです。一般の経営学では逆ですよ。問題は全部外側にあると教えている。それをよく観察して,分析して,合理的に論理的に解決策を考える。僕も昔はそういうやり方をやっていたけど,あまりうまくいかない。(p228)
「プラス思考」を説く人はきわめて多いが,これはかなり危険な方法論だ。表面的な意識レベルの想いと,無意識レベルの認識が大きく食い違って苦しんだり,自己否定に陥ることがある。しばしば,うつ病を誘発することもある。「運のいい人の真似をしなさい」と説く人も多いが,このアドバイスはでたらめだ。運力の弱い人が,強い人の真似をするのは危険だ。(中略)逆に,運力の弱い人は,まずそれを自覚しないといけない。(p248)
書名 五十歳からの成熟した生き方
著者 天外伺朗
発行所 海竜社
発行年月日 2006.11.14
価格(税別) 1,429円
● 副題は「スピリチュアルな成長へのいざない」。天外さんの本を読むのは久しぶり。
若い頃から読者だった。それがいいことだったかどうかは,少し以上に微妙だと思っている。それはつまり,葉を茂らせるべき時期に,葉を落とすことをやっていたようなものかもしれないから。
もともと,生存競争に不向きだったのだろう。彼の読者でなかったとしても,結果は同じだったはずだ。
● 生存競争云々とは別に,若さをもって良しとする若さ第一主義とでもいうべき文化が,社会全体を覆っているように思われる。老人もそのように考えていて,どうにか若さを保とうとする。自分はまだまだ若い,元気だ,と感じられると安心する。
もちろん,寝たきりになるよりならない方がいいに決まっているし,老人医療費が縮減されればそれに越したことはない。
● のだが,生涯現役を標榜し(若い世代からは老害の元凶だと言われる),社会への影響力を保持し続けようとするのは,健康なまま朽ちるという範囲を超えて,若さにしがみつこうとする無惨さを感じさせるところがある。
いつまで経っても自分は社会から必要とされていると思いたいのだろうか。やめておくがいい。そのことが社会にどれほどの負荷をかけることになるか。
● 社会の側も,若者が減少しているので,年寄りに頼るしかないところが,なくもないのかもしれない。年寄りをヨイショするしかないという。
一方で老害を嘆きつつ,他方で年寄りにも働いてもらわないと(そして,しっかり消費してもらわないと),経済が回っていかないのかもね。
● しかし,そうではあっても,慎んでいるのが年寄りの義務の第一に来るものだと思う。自分にそれができる自信はまったくないが,心構えとしてはそうあるべきだと思っている。
そのことと,本書で説かれていることが,直接にリンクするわけではない。が,本書を読んでみることは,若さにしがみついていてはいけないと反省するよすがにはなるかもしれない。
● 以下に転載。
一般的には,このような活動的な老後をよしとする風潮が強いが,じつはそれは本人の心の奥底にある不安が反映している。そのまま年老いるということは,植物でいえば「腐る」方向性だ。幸か不幸か,私自身はその病理性に気づいてしまった。(p3)
いくら理性で自分をコントロールしようとしても,がんばっても,努力しても無駄だ。より深いレベルからの,ごく自然なスピリチュアルな成長が必須なのだ。(p4)
もし老いを拒絶することなく,しっかりと受け入れられるようになると,一日一日はより愛しいものになり,人生の味わいはよりいっそう増していく。(p16)
老いを忌み嫌い,男性なら現役で働き続けることにこだわったり,女性ならアンチエイジングに憂き身をやつしたりする。(中略)そんな人たちが大好きなのが,サムエル・ウルマンの「青春」という詩だ。(中略)そういうとウルマンのファンは怒るかもしれないが,彼は,歳をとることの本当のすばらしさがわかっていないのではなかろうか。(p16)
人の老い方も,まさに三通りある。腐るか,枯れるか,干からびるのだ。現代の高齢者の悲劇は,老いのイメージとして「腐る」か「干からびる」しかないことだろう。(p19)
植物は栄養を与えすぎると腐ってしまうという。なるべく肥料をやらないでいると,植物は一生懸命根を伸ばして栄養を取ろうとする。そんなふうにして実った野菜や果物は美味しいだけでなく,腐らず,原形をとどめたまま,ただ枯れていくそうだ。(中略)人がきちんと枯れていくためには,「感動する心」という水分を取り入れつつ,表面的な欲望(仏教でいう「煩悩」)という養分を控える必要があるのだろう。(p21)
私が活動的なことは決して美徳ではなくて,私が枯れきっていない証拠にすぎない。そういうふうに活動的なのは,一歩間違えると「永遠の青春」を追い求める方向に行ってしまう危険をはらんでいるのだ。(中略)ちなみに,「上手に枯れているな」と思える先輩方は,社会的にはむしろ特に目立った活動はしていない。(p26)
私たちが生産性を重視しているかぎり,「経済発展のため,二十四時間戦いまくる」戦士が社会を担うという構造を変えることはできない。競争社会とは結局,「戦士の社会」であり,それ以外の生き方を軽んじる社会の別名なのだ。(p33)
おそらく未来のリーダーとは,社会的には目立たず,人々と競争することもないが,ひたすら存在することによって,周囲にゆっくりと深い影響力をおよぼすような人物だろう。(p35)
多くの人たちは若い頃から,あまりにも無自覚に,戦士としての人生を過ごしてきた。戦士として戦う生き方とは,結局はエゴの欲求にしたがって突っ走ることにほかならない。(中略)現代人が老いから目を背ける理由の一つは,もはや戦士として戦えなくなり,社会の厄介者となった自分を直視するのが怖いからだ。(p36)
残念ながら,ほとんどの場合,私たちがそれまでの人生で得たものは戦う知恵であり,いわばエゴを追求する知恵であって,この先の人生を生きるにはもはや役に立たないどころか,邪魔な荷物にすぎない。(p38)
宗教があるから宗教性が生じるのではなく,人間が本来もっている宗教性をかたちにしたのが宗教なのだ。スピリチュアリティとは,その宗教性のことである。(p46)
シャドーに起因する戦いの衝動は必ずしも人には向かわず,より抽象的な対象を選ぶこともある。たとえば,いまの社会の中でゆるされてる金銭・名誉・地位などを求める戦い,平和運動や環境運動などが絶好のターゲットになる。だから,平和運動家の心が平和であったためしはなく,平和運動団体は互いにいがみ合っている。(p58)
成熟した自我のレベルは自分の欠点をあまり隠そうとせず,無邪気に裸で堂々と生きている。そのため,あまり仁徳者や聖人には見えないかもしれない。(p59)
現代人のほとんどは,社会生活を円滑にするために怒り,敵意など,ネガティブとされる情動を抑圧しているが,そのために喜びの情動も抑圧してしまい,人間本来の生きる喜びを感じられないでいる。したがって,ゴルフやレジャーや海外旅行に行ったりして,常に外側の喜びを追い求めるようになる。(p62)
テレビに出てくる霊能者やスピリチュアル・カウンセラーのたぐいは,全員間違いなく,私の定義では単なる病気に分類される。(p65)
わかりきったことだが,ただ漫然と生き延びてさえいれば,知恵がつくわけでもない。とはいえ,たとえそれまでどんな人生を送ってきたとしても,「思い立ったが吉日」というのも本当だ。(p69)
結局,意識の成長・進化を妨げているのは,究極的には死に対する恐怖だということになる。死から目を背けているかぎり,私たちは決して,成長という階段を上ることができない。(p72)
「良識的で立派な社会人」は,他人を受け入れるポーズはできても,枠が強ければ強いだけ,実際は誰かを,そして自分自身を,本当に受け入れることはできない。どうしても枠からはみ出した部分を否定しようとしてしまうのだ。本来の自然な人間の姿は,自分でも他人でも,そのような枠におさまりきれるものではない。(p78)
老境にさしかかってさえ「良識的で立派な人」を演じ続けようとする人は,はっきりいって傍迷惑だ。(p79)
「病気が治ってよかったね」と言うのは当然だ。だが一歩進んで,病気になったおかげでこんな気づきが得られたとか,それまでの人生が一変したといった,「病気になってよかったね」と言えるような,病へのアプローチが必要ではないか。(p81)
伊藤(慶二)さんは,医療の現場で,「食事」と「想いのあり方」の大切さを訴え,それを変えればほとんどの病気が治るということを実証してきた。なにより伊藤さんのすごいところは,病気を通じて人々の実存的変容を指導してきたことだ。(p85)
もし私たちが宇宙との一体感を感じられるとしたら,それはまさに,私たちの心の中に宇宙が存在するからにほかならない。私たちの心の中に宇宙があることがわかれば,完璧な人間を装う必要などないということになる。(p93)
そんな人間でも歳を重ね,経験を積むと,表面的な出来事の背後にとうとうと流れる大いなる宇宙の営みをほのかに感じ取れるようになっていく。それを私は「大河の流れ」と呼んでいる。(p99)
あらゆるものが溶け合った状態を,仏教では「空」といいます。「空」というと,何もないように思うかもしれませんが,そうではありません。すべてがあるのです。でも,すべてが溶け合った聖なる状態なので,一見すると何もないように見えるだけです。それはちょうど,すべての色を含んだ太陽光が無色であるのと同じことです。(p174)
自我が確立しない状態で自我を超えろといっても,ぜったいに無理だ。意識の成長・進化を遂げるには,まず非常に自分本位で,一見するとネガティブな印象をもつ自我を確立させ,独立したひとりの人間として立つことが大切だということを強調しておく。(p190)
道元は,著書『正法眼蔵』で「只管打坐」の大切さを説いた。これは「ただひたすら座禅をしなさい」という教えだ。道元は,意識の成長・進化を遂げるには,悟りを開きたいとか涅槃に入りたいとか,いい瞑想状態を体験したいとかいった目的意識をもつことは,かえって妨げになると指摘したのだ。(p202)
瞑想に親しんでいると実感できることだが,私たちの内側には,広大な世界が広がっている。そして,宇宙の根源ではあらゆる命がとけ合っていて,「個」は幻影にすぎないという世界像が見えてくる。すべてが一つにつらなっているとき,そこには愛,すなわり究極的な安らぎしか存在しない。それを知ったとき,私たちはもっと素直に,老いを受け入れられるようになるだろう。(p223)
老いることはすばらしい。そしておそらく---死ぬことも。(p226)
書名 「悩み」 溶かすか,戦うか!?
著者 天外伺朗
発行所 KKロングセラーズ
発行年月日 2010.02.01
価格(税別) 905円
● 1年前に八重洲ブックセンター宇都宮店のアウトレットコーナー(今はなくなっている)にあったのを購入。
読むのは今になってしまった。
● 本書のキーワードは「意識レベル」と「セパレーション感覚」か。
もともと自分は宇宙は一体なのだけれども,自分は他から切り離された存在だと思っている。そこから諸々の悩みが生じてくる。意識レベルに応じて,自分を取り巻く環境は変わっていくとしても,悩みが消え去ることはない。だから,それを丸ごと引き受けるしかないのだ。
● いくつか転載。
プラス思考を単純に崇拝することは,百害あって一利なしです。 悲観的になっている自分に気づいたら,無理やりプラス思考をしようとするのはやめた方がいいでしょう。大切なのは,「いま自分はマイナス思考をしているな」ということに気づいて,自分をあたたかく見守ってあげることなのです。 マイナス思考は,理性ではコントロールできません。そして,そんな自分でも受け入れるいうことが必要なのです。(p37)
アメリカンドリームの結末がメンタルクリニックに大金をつぎ込んで終わるように,日本の大企業の役員も,決して幸せとはいいきれません。私は四十六歳でソニーの取締役になって以来,過去の自慢話と現執行陣の悪口にうつつを抜かす退役した役員をずいぶん見てきました。彼らの精神的な飢餓感を考えると,いま愚痴をこぼしながら働いているふつうの会社員の方が,はるかに幸せだと思います。(p119)
そういわれると,ぼくらペーペーは救われるというか,あぁそうなのかと安心するね。実際,そうなんだと思うんですよ。ぼくに大企業の役員をやっている知り合いはいないけどさ。
私たちの多くは「個」の確立さえおぼつかない状態ですが,「個」を確立してこそ「個」と「宇宙」が一体であるという境地に達することができるのです。「個」が未熟なうちは,そもそも宇宙と一体になるべきものをもちませんから,本当の意味で一体感を味わえるわけがありません。(p138)
ひとつの情感を抑えると,他のすべての情感も抑えられてしまうということです。つまり,日常的に怒りを抑えていると,喜びや楽しさといったポジティブな感情も抑えられてしまうことになるのです。 いま成功している人たちは,みなそのメカニズムにはまっていて,基本的な心の底からの生命の喜びが感じられない体になっています。(p173)
これは痛感するところ。少なくとも,まともにサラリーマンを務めている男性の多くは,そうなっているんじゃなかろうか。特定の感情を抑制することは,自らの生命力をも抑制することになる。
しかも,それが低年齢化しているのじゃないかとも思われる。子どもが子どもでいることを許さない社会風潮がこの国にはあるように思える。
成熟した自我に達しても悩みから解放されるということはありません。単に悩みの性質が変化するだけです。(中略)成熟した自我は,心が自由になった分,社会の枠におさまらなくなっています。かといって,社会の束縛から逃れることはできないため,そこに様々な葛藤が生じます。 会社の価値観のままに生きることに疑問を感じ,自らの価値観に忠実に生きようとするのですが,そうすると出世街道から外れてしまい,それを悔やむ,といったたぐいのアンビバレントな悩みが典型です。(p177)
あ,オレ,ここに該当するわ,と思う人は多いのじゃないか。そうか,オレ,成熟した自我に達しているのか,って。少し考えてみるといいね。たぶん,違うと思うよ。
ひとつ御理解いただきたいことは,成熟した自我が,決して究極の意識レベルではなく,それよりはるか手前の中間点にしか過ぎないこと。したがって,そこに達しても,まだまだ悩みは尽きないこと。 一生かかっても,成熟した自我まで到達できる人はきわめて僅かなので,いつかは悩みのない状態に到ることができる,と考えるのはまったくの幻想であること,などです。 むしろ,そういう幻想を夢見ることが,現実からの逃避になってしまい,意識の成長,進化を遅らせています。(p179)
私は,来るべき社会でそういった新しいリーダーシップを発揮していくような人は,いまの社会のドロップアウト組の中にいるのではないかと思うのです。 定職に就かない若者や引きこもりの若者の中には,人類の進化を先取りして,戦う社会にうんざりし,新しい生き方を模索している人がたくさんいるはずです。(p183)
生活のために,がむしゃらに戦っている人生も,それなりに価値ある人生です。しかし,本当に豊かで幸せな人生を望むなら,成功することだけを目標にするのではなく,その先の林住期を視野に入れておくべきなのです。逆に林住期を中心に考えるなら,その前に成功していようが,貧乏だろうが同じであり,社会的な成功が何の意味を持たないことになります。(p187)
古代インドでは人生を4つの時期に区切って考えた。学生期,家住期,林住期,遊行期。そのこと自体は若い頃に聞いたことがある。が,現代では維持できない考え方だなと思っていた。が,山の中に庵を結ぶかどうかは別にして,この区分にはかなり惹かれる。最後はその庵をも捨てて,遊行のうちに死んでいく。
一般には,仕事を進めるには努力したり頭で計算したりすることが大切だと考えられているので,「わくわくする」などという,つかみどころのない状況のときほど仕事がはかどるというのは,意外な感じがするかもしれません。 けれど,それは当然といえば当然のことです。 わくわくしながら仕事をしているとき,私たちは競争相手や利益計算に頭を悩ませることはありませんし,自分と他人,売り手と買い手という区別が心に浮かぶこともありません。つまり,それだけセパレーション感覚が少ない状況なのです。(p210)
ワクワクすることをしなさいというのは,成功哲学なんかでも言われているんですかね。けっこう,しばしば聞くことだ。
が,なぜワクワクするといいのか。そりゃいいに決まってるわけだけども,こういう説明をされるとなるほどと納得できる。
自分と他人を比べ,競争していくというのは,セパレーション感覚を増大させる方向に働きます。本来,私たちは宇宙と一体でありすべてがひとつであるというのに,「自分は違うんだ」と,あえてエゴを肥大する方向に教育されてきたのです。 しかも,「少年よ,大志を抱け」とばかりに,人生の目標をもってそれを達成することを奨励する風潮は,目的意識も強化することになります。 そして皮肉にも,目的意識をもつことで私たちの視野は狭まり,見えない流れをつかむことが苦手になってしまったのです。(p222)
「運命を変えられるか」という疑問は,本質的に「いあまの自分に予想される未来よりも,もっといい未来を引き寄せたい」という願望の現れでもあるのです。 ここに,「運命を変える」という発想に潜む落とし穴があります。つまり,「運命を変えよう」と思ったとたん,私たちはいまの現実と自分を否定することになります。 それは,自分は宇宙から切り離されているという,強烈なセパレーション感覚の現れでもあります。そのため,そういう発想をしていると,かえって運を逃してしまいかねないのです。(p225)