2018年2月6日火曜日

2018.02.06 天外伺朗 『五十歳からの成熟した生き方』

書名 五十歳からの成熟した生き方
著者 天外伺朗
発行所 海竜社
発行年月日 2006.11.14
価格(税別) 1,429円

● 副題は「スピリチュアルな成長へのいざない」。天外さんの本を読むのは久しぶり。
 若い頃から読者だった。それがいいことだったかどうかは,少し以上に微妙だと思っている。それはつまり,葉を茂らせるべき時期に,葉を落とすことをやっていたようなものかもしれないから。
 もともと,生存競争に不向きだったのだろう。彼の読者でなかったとしても,結果は同じだったはずだ。

● 生存競争云々とは別に,若さをもって良しとする若さ第一主義とでもいうべき文化が,社会全体を覆っているように思われる。老人もそのように考えていて,どうにか若さを保とうとする。自分はまだまだ若い,元気だ,と感じられると安心する。
 もちろん,寝たきりになるよりならない方がいいに決まっているし,老人医療費が縮減されればそれに越したことはない。

● のだが,生涯現役を標榜し(若い世代からは老害の元凶だと言われる),社会への影響力を保持し続けようとするのは,健康なまま朽ちるという範囲を超えて,若さにしがみつこうとする無惨さを感じさせるところがある。
 いつまで経っても自分は社会から必要とされていると思いたいのだろうか。やめておくがいい。そのことが社会にどれほどの負荷をかけることになるか。

● 社会の側も,若者が減少しているので,年寄りに頼るしかないところが,なくもないのかもしれない。年寄りをヨイショするしかないという。
 一方で老害を嘆きつつ,他方で年寄りにも働いてもらわないと(そして,しっかり消費してもらわないと),経済が回っていかないのかもね。

● しかし,そうではあっても,慎んでいるのが年寄りの義務の第一に来るものだと思う。自分にそれができる自信はまったくないが,心構えとしてはそうあるべきだと思っている。
 そのことと,本書で説かれていることが,直接にリンクするわけではない。が,本書を読んでみることは,若さにしがみついていてはいけないと反省するよすがにはなるかもしれない。

● 以下に転載。
 一般的には,このような活動的な老後をよしとする風潮が強いが,じつはそれは本人の心の奥底にある不安が反映している。そのまま年老いるということは,植物でいえば「腐る」方向性だ。幸か不幸か,私自身はその病理性に気づいてしまった。(p3)
 いくら理性で自分をコントロールしようとしても,がんばっても,努力しても無駄だ。より深いレベルからの,ごく自然なスピリチュアルな成長が必須なのだ。(p4)
 もし老いを拒絶することなく,しっかりと受け入れられるようになると,一日一日はより愛しいものになり,人生の味わいはよりいっそう増していく。(p16)
 老いを忌み嫌い,男性なら現役で働き続けることにこだわったり,女性ならアンチエイジングに憂き身をやつしたりする。(中略)そんな人たちが大好きなのが,サムエル・ウルマンの「青春」という詩だ。(中略)そういうとウルマンのファンは怒るかもしれないが,彼は,歳をとることの本当のすばらしさがわかっていないのではなかろうか。(p16)
 人の老い方も,まさに三通りある。腐るか,枯れるか,干からびるのだ。現代の高齢者の悲劇は,老いのイメージとして「腐る」か「干からびる」しかないことだろう。(p19)
 植物は栄養を与えすぎると腐ってしまうという。なるべく肥料をやらないでいると,植物は一生懸命根を伸ばして栄養を取ろうとする。そんなふうにして実った野菜や果物は美味しいだけでなく,腐らず,原形をとどめたまま,ただ枯れていくそうだ。(中略)人がきちんと枯れていくためには,「感動する心」という水分を取り入れつつ,表面的な欲望(仏教でいう「煩悩」)という養分を控える必要があるのだろう。(p21)
 私が活動的なことは決して美徳ではなくて,私が枯れきっていない証拠にすぎない。そういうふうに活動的なのは,一歩間違えると「永遠の青春」を追い求める方向に行ってしまう危険をはらんでいるのだ。(中略)ちなみに,「上手に枯れているな」と思える先輩方は,社会的にはむしろ特に目立った活動はしていない。(p26)
 私たちが生産性を重視しているかぎり,「経済発展のため,二十四時間戦いまくる」戦士が社会を担うという構造を変えることはできない。競争社会とは結局,「戦士の社会」であり,それ以外の生き方を軽んじる社会の別名なのだ。(p33)
 おそらく未来のリーダーとは,社会的には目立たず,人々と競争することもないが,ひたすら存在することによって,周囲にゆっくりと深い影響力をおよぼすような人物だろう。(p35)
 多くの人たちは若い頃から,あまりにも無自覚に,戦士としての人生を過ごしてきた。戦士として戦う生き方とは,結局はエゴの欲求にしたがって突っ走ることにほかならない。(中略)現代人が老いから目を背ける理由の一つは,もはや戦士として戦えなくなり,社会の厄介者となった自分を直視するのが怖いからだ。(p36)
 残念ながら,ほとんどの場合,私たちがそれまでの人生で得たものは戦う知恵であり,いわばエゴを追求する知恵であって,この先の人生を生きるにはもはや役に立たないどころか,邪魔な荷物にすぎない。(p38)
 宗教があるから宗教性が生じるのではなく,人間が本来もっている宗教性をかたちにしたのが宗教なのだ。スピリチュアリティとは,その宗教性のことである。(p46)
 シャドーに起因する戦いの衝動は必ずしも人には向かわず,より抽象的な対象を選ぶこともある。たとえば,いまの社会の中でゆるされてる金銭・名誉・地位などを求める戦い,平和運動や環境運動などが絶好のターゲットになる。だから,平和運動家の心が平和であったためしはなく,平和運動団体は互いにいがみ合っている。(p58)
 成熟した自我のレベルは自分の欠点をあまり隠そうとせず,無邪気に裸で堂々と生きている。そのため,あまり仁徳者や聖人には見えないかもしれない。(p59)
 現代人のほとんどは,社会生活を円滑にするために怒り,敵意など,ネガティブとされる情動を抑圧しているが,そのために喜びの情動も抑圧してしまい,人間本来の生きる喜びを感じられないでいる。したがって,ゴルフやレジャーや海外旅行に行ったりして,常に外側の喜びを追い求めるようになる。(p62)
 テレビに出てくる霊能者やスピリチュアル・カウンセラーのたぐいは,全員間違いなく,私の定義では単なる病気に分類される。(p65)
 わかりきったことだが,ただ漫然と生き延びてさえいれば,知恵がつくわけでもない。とはいえ,たとえそれまでどんな人生を送ってきたとしても,「思い立ったが吉日」というのも本当だ。(p69)
 結局,意識の成長・進化を妨げているのは,究極的には死に対する恐怖だということになる。死から目を背けているかぎり,私たちは決して,成長という階段を上ることができない。(p72)
 「良識的で立派な社会人」は,他人を受け入れるポーズはできても,枠が強ければ強いだけ,実際は誰かを,そして自分自身を,本当に受け入れることはできない。どうしても枠からはみ出した部分を否定しようとしてしまうのだ。本来の自然な人間の姿は,自分でも他人でも,そのような枠におさまりきれるものではない。(p78)
 老境にさしかかってさえ「良識的で立派な人」を演じ続けようとする人は,はっきりいって傍迷惑だ。(p79)
 「病気が治ってよかったね」と言うのは当然だ。だが一歩進んで,病気になったおかげでこんな気づきが得られたとか,それまでの人生が一変したといった,「病気になってよかったね」と言えるような,病へのアプローチが必要ではないか。(p81)
 伊藤(慶二)さんは,医療の現場で,「食事」と「想いのあり方」の大切さを訴え,それを変えればほとんどの病気が治るということを実証してきた。なにより伊藤さんのすごいところは,病気を通じて人々の実存的変容を指導してきたことだ。(p85)
 もし私たちが宇宙との一体感を感じられるとしたら,それはまさに,私たちの心の中に宇宙が存在するからにほかならない。私たちの心の中に宇宙があることがわかれば,完璧な人間を装う必要などないということになる。(p93)
 そんな人間でも歳を重ね,経験を積むと,表面的な出来事の背後にとうとうと流れる大いなる宇宙の営みをほのかに感じ取れるようになっていく。それを私は「大河の流れ」と呼んでいる。(p99)
 あらゆるものが溶け合った状態を,仏教では「空」といいます。「空」というと,何もないように思うかもしれませんが,そうではありません。すべてがあるのです。でも,すべてが溶け合った聖なる状態なので,一見すると何もないように見えるだけです。それはちょうど,すべての色を含んだ太陽光が無色であるのと同じことです。(p174)
 自我が確立しない状態で自我を超えろといっても,ぜったいに無理だ。意識の成長・進化を遂げるには,まず非常に自分本位で,一見するとネガティブな印象をもつ自我を確立させ,独立したひとりの人間として立つことが大切だということを強調しておく。(p190)
 道元は,著書『正法眼蔵』で「只管打坐」の大切さを説いた。これは「ただひたすら座禅をしなさい」という教えだ。道元は,意識の成長・進化を遂げるには,悟りを開きたいとか涅槃に入りたいとか,いい瞑想状態を体験したいとかいった目的意識をもつことは,かえって妨げになると指摘したのだ。(p202)
 瞑想に親しんでいると実感できることだが,私たちの内側には,広大な世界が広がっている。そして,宇宙の根源ではあらゆる命がとけ合っていて,「個」は幻影にすぎないという世界像が見えてくる。すべてが一つにつらなっているとき,そこには愛,すなわり究極的な安らぎしか存在しない。それを知ったとき,私たちはもっと素直に,老いを受け入れられるようになるだろう。(p223)
 老いることはすばらしい。そしておそらく---死ぬことも。(p226)

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