著者 外山滋比古
編者 栗原 裕
発行所 PHP
発行年月日 2010.09.01
価格(税別) 1,000円
● 外山さんのこれまでの著書の中から代表的な論考を集めたもの。外山さんの考えの概要を知りたかったら,本書を読めばいい。
が,小さな本であるにもかかわらず,読み通すのにけっこうな日数を要してしまった。平明な文章で決して読みづらくはないんだけども,目下のぼくの頭の具合では,ま,やむを得ないかな。
● 若い人なら,勉強論,学習の方法論としても読むことができるだろう。なるほどこうすればいいのか,と示唆を受けるところも多いのではないか。
年寄りにとっては,こうすればよかったのかという遅すぎるかもしれない発見に満ちている。
● 以下に,多すぎるかもしれない転載。
眼の走る方向に交叉する線が多ければ多いほど,文字を読みとるのに要するエネルギーは少なくてすむ。(p14)
俳句は横組みを嫌う。逆に,横組みの日本語の中からは,おそらく俳句のような詩は生れないであろう。(p17)
印刷文化は“読者”を生み出した。つまり,かならずしも書き手を個人的に知っているとは限らない人間に印刷物を読ませるのである。当然,野暮な人間がいる。(p28)
日本的表現法の特色のひとつは,相手を尊重する心である。そのためあえて曖昧な表現様式をとって,相手に下駄をあずけるのが好まれたりする。何から何まではっきり言ったのでは,はしたない,含みの乏しい表現になる。(p29)
どうして翻訳の多くが悪文になるのか。それを考えているうちに,文順墨守がいけないのだと思うようになった。つまり,原文のセンテンスの並んでいる順序をバカ正直に守って,それを“原文忠実”なりとする考えに責任がある。(p39)
絶えずものを読んでいる人は,いつか音読から黙読へと移って行くと想像される一方,たとえ理解力に秀れていても,読むことに馴れていなければ,音読によらなければ読めない。(p43)
イギリスの中世において,本が読まれるのは,音読であり,朗読であり,ときには,職業的読書技術ををもった吟遊詩人の「演技」ですらあった。そこにはつねに聞き手が予想されている。声を出して読まれるのは,読者ひとりのためでなくて,小コミュニティのためであった。(p43)
人が共同社会に属しながら,その共同社会の中に生れた表現を読むときには,音読ということが必然であった。人々の群から独りはなれて,自分のためにのみ読むという意図を読者が抱くようになったとのときから,リーディングの性格は変る。(p44)
たいていの黙読に際して,われわれは声こそ出さないが,声の出る一歩手前の声帯の小さな運動を行っているらしく,それを心声と感ずるもののようである。黙読でも長時間本を読むと,声帯が疲れてくる。今日のいわゆる黙読も音から完全に絶縁した読み方ではないことは認めてよい。(p47)
その詩歌でも,声を出さずに読まれることが次第に普通になりつつある。それが現代詩の性格を関係するように思われる。(p49)
ただ対象のありのままを自然に写した写真を芸術とは言わず,そういう写真を撮ることを創作活動とは言わないのに対して,画家が風景を絵にするのは創作であり,絵は芸術になるのである。かりに,正常な「読む」活動が,この比喩における画家の活動に通ずるものであるとすれば,読書もまたクリエイティブな機能をもつと言ってもよいはずである。「読む」と言うと,とかく,受動一方のように考えるのは正しくない。(中略)解釈の加わる積極的な精神の活動だからである。(p61)
われわれ自身が昔に立ち返ることができない限り,歴史的過去はつねに距離をもった対象である。それを完全に理解することは不可能である。どうしても,そこへわれわれ自身の考え方を補充することが必要になる。その補充が,実は,しらずしらずのうちに行われているアナクロニズムになるのである。(p69)
身近なものは,われわれにとって鮮明である。強い印象を与える。よくわかりそうなものであるが,その強い印象に圧迫,圧倒されて,かえって,よい理解にはならないことが多い。(中略)ものごとはある程度,時が経ち,古くなってはじめておもしろく感じられるもののようである。(p70)
もの自体の美しさとは別に,それを見る人との間の関係が生む美のあることに注意しなくてはならない。(中略)はるけきものをあこがれる心--これがロマンティシズムの中核的特質であることは,いまことあたらしく言うまでもないが,これは,距離の美を求めていることにほかならない。(p74)
絶対にして普遍的な美は少ないと見なければならない。美は多く見者の感情移入によって支えられているのである。(p78)
文化的概念が科学的概念と根本的に違うのは,科学上の概念は,時間と空間の中を移動し得るのに対して,文化や文化的概念は移動し得ないという点である。(p80)
シェイクスピアの戯曲は今日の基準からすれば剽窃的要素をかなりふくんでいるけれども,彼の天才はそういうことではすこしも損なわれることがない。借り物を自家薬籠中のものとして絶妙なとり合わせにもっていったところに天才の天才たるところがあった。こういう作者はいわば編集者的であるといってよい。(p87)
一般に,ひろく人々の心を惹く表現のおもしろさにはエディターシップによることろがすくなくないように思われる。ものごとは単独に存在するのではなく,ほかのものと並べられて,あるいは,より大きな全体へ入れられたときの,とり合わせの妙からおもしろさが感じられるのである。(p88)
明治以来のわが国の文化,思想がなんとなく生気に乏しく,創造性に欠けるのは,エディターシップがながい間,文筆志望の青年の腰掛け仕事みたいに考えられてきたことと無関係ではなかろう。(p93)
新しいものを認識する。これは,新しいものごとが独立して頭に入るのではない。既存のものと関係づけられて,はじめて認識になるのである。(中略)創造も精神のエディターシップによって可能になる。自然,事件,情緒などがなまのままに表出されても芸術的創造にはならないのである。(p94)
エディターシップはニュートラルである。ことさら創造的であろうとするのは本ものではない。ただ,触媒に徹することにおいておのずから創造的になるのである。(p96)
オーサーシップ(執筆)の絶対性からいえば,推敲はともかく,添削や編集が作品,表現に改修を加えるのは許しがたいことのように考えられるであろうが,実際には,そいういう改変がよい結果を生んでいることがすくなくない。(中略)作者だけにしかわからないようなものは,伝達を目的とする言語表現の資格を放棄しているとすらいえる。(p98)
人間的記憶には,その裏の亡失が不可欠である。忘れることが不活発になると,新しいものを吸収する能力も低下するのである。(p104)
歴史的事実そのものは太古から存在するが,歴史に対する意識は近世の産物である。この二者の区別ははっきりしておく必要がある。(p120)
自己中心的な考え方は,近世のヨーロッパに限らず,どこの社会にも見られる人間にとって基本的認識態度である。(p121)
ルネッサンスがギリシア,ローマの古典的世界の復古思想によっておこったことはよく知られているが,一方では,当時,毎年のように,新しい国土がつぎつぎ発見されて,たえず地図が書きかえられなくてはならなかったということも忘れてはならない。歴史的展開とともに空間の地理的発見があったことが,ルネッサンス人のわき立つような想像力の一つの秘密であった。(p125)
異質な文化を混ぜ合わせると,公約数的なものに収斂されるから,元来具わっていた個性的ニュアンスが削りとられて,原始的単純へ向かう。文化交流は,本質においては,一見,プリミティヴィズムと思われる簡素化の傾向を有している。(p128)
姿,かっこうは変装することができても,言葉づかいを隠すことは難しい。しかし,現代人は案外こういうことに無頓着に生きているのではあるまいか。そうだとすれば,われわれがいつの間にか視覚人間になっているからで,根は文化の深部にあるということになる。(p134)
声は地域的制限をもつのに対して,活字は自由にどこへでも広がって行く。それで活字文化は,地方性のプラスの面,伝統の破壊に手を貸すことになる一方,マイナスの面,固陋と閉鎖を開放するという両刃の剣となるのである。いずれにしても,社会の体制を大きくゆさぶらずにはすまないもので,活字文化と切り離した近代というものを考えることはできない。(p140)
活字による個性的表現は,よほどの名文家でもない限り,肉声による味わいには及ばないのが普通である。(p141)
われわれがもち合わせている既成の認識のパターンは人間関係,はっきり言うならば,ゴシップ的人間関係に大きく傾いているから,ゴシップ的表現ならおもしろがるが,すこし抽象的になればハナもひっかけない読者ばかり多くなる。(p144)
目に見てからでないとわかったような気がしない視覚タイプの人間が多くなった。文章を読んでもそこからすぐ情景を心に描くのではなく,既往の体験,パターンをまず連想し,それをもとにして表現に向う,具体先行の認識である。小説や旅行記ならこれでもいいが,言論思想についても同じやり方でわかろうとする読者があるのは問題である。(p145)
古来,すぐれたアイディアを散歩中に得たという例がはなはだ多い。ことにヨーロッパの学者には散歩型が多いように思われる。(中略)散歩が日常性からの離脱を意味しているのは注目してよかろう。(中略)問題は,やはり日常性の止揚である。(p159)
知的環境としては,住めば都,はもっともまずい状態なのである。行きずりの旅人として見た場合には,おもしろい発見ができても,住みつくと,ものが見えなくなる。(p160)
ここで注意しなくてはならないのは,トラヴェラーにとって,旅さきのことを,そこの土地の人と同じように知る必要はないという点である。むしろ,新しい土地が触発するものを楽しめばよい。(p161)
いくら研鑽をつんでも初心を忘れず,何でもないことに日々おどろくような精神をもっていれば,語学はいつまでも創造的思考の母体たり得るであろうが,人情として,一日も早く安心立命の境に達したいと願う。その気持自体が不毛の道につながっている。(p163)
発見や創造に心を砕いた人たちは申し合わせたように,アイディアが浮かんだらすぐ記録できるように小さな紙片を持ち歩いている。(p172)
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