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2012年11月21日水曜日

2012.11.21 小田嶋 隆 『地雷を踏む勇気』


書名 地雷を踏む勇気
著者 小田嶋 隆
発行所 技術評論社
発行年月日 2011.12.01
価格(税別) 1,480円

● 『もっと地雷を踏む勇気』が面白かったので,手順前後になるんだけど,本書も読んでみた。もっと早い時期に読みたかったんだけど,そこがなかなか。
 「地雷を踏む勇気」というタイトルを付けたことについて,著者は「まえがき」で次のように述べている。
 コラムニストにとって,時事ネタは時に地雷になる。時間軸に沿ってその意味を変える主題は原稿の賞味期限を短くするものだし,政治的な話題を扱うためには,文章上の技巧を云々する以前に,結果を顧みない思慮の浅さみたいなものが必要だからだ。
 覚悟の表明といっていいのだろう。

● この本で菅内閣時代の「復興構想会議」の「提言」を(もちろんほんの一部だが)初めて読むことになった。なるほど,これはひどい。どんなふうにひどいのかは「提言」本体を読めばわかるが,さすがにそれを読み通せる人は稀だろうから,本書を読んでもらうのが一番いいかもしれない。

● 著者ならではの切り口と切り方の鮮やかさを味わえばいいのでしょうね。いくつか引用。まずは,三陸に伝えられる「てんでんこ」の教えについて。
 三陸の人びとは,「老幼の者を助けようとして一家共倒れに」なったり「家族をさがしているうちに逃げ遅れ」たり,「点呼を取っている間に津波に呑まれ」たりしてきた苦い経験から,緊急時にあっては,とにかく「個人の判断と責任において,一刻も早く逃げる」という方針を徹底してきたというのだ。 より詳しい解説をする人は,「てんでんこ」は,「たった一人でも生きていかねばならない」という決意および,「家族やまわりの者を助けきれなかった者(自分も)を責めてはならない」という事後の心構えも含んでいるのだという。 で,この「てんでんこ」の教えが,結果として,大船渡や釜石で,その教えに沿った避難訓練を繰り返してきた子供たちを,津波の被害から救うことになった,と,そういう話だ。 印象的なエピソードだ。 なにより実践的である点が素晴らしい。避難訓練というと,「一糸乱れず」に,「全員が一致」して「整然と」避難する過程をイメージしがちだが,実体験から来る知恵は,訓練のための訓練とは発想の根本が違っている。 非常時にあって,決断を他人に委ねたり,周囲の状況に安易に同調することは,命取りになりかねない。普段から,自分の状況に合った避難の方法と経路を,自分のアタマで考えられるようにしておかねばならない。そういうことなのであろう。(p151)
● 次は,風評被害に対する政府対応について小田嶋さんが述べていること。
 買う側の論理(というよりも「感覚」だが)からすると,ハエがとまったケーキの商品価値はとりあえずゼロとして扱わざるを得ない。 「科学的」に考えれば,ハエが接触した部分を素早く除去すれば,害は無いのかもしれない。 でも,一瞬でも,たとえばほんの一部でも,ハエがとまったケーキは,市井のスイーツ愛好者にとっては,商品価値を失う。商品価値というのは,そもそもそういう性質のものなのだ。 「実害のないものを恐れる態度は,間違った情報にまどわされる愚民の反応だ」 と,科学的に真であること以外を信じない冷静で冷徹で怜悧で賢明な有識者は,放射能が検出されたイカナゴのいた漁場から50キロのところで捕れた魚であっても,有害なレベルの放射能が検出されていないのであれば,まったく恐れることなく食べるのであろう。 庶民は違う。食べない。理由は,「なんとなく気持ちが悪い」からだ。 食べ物の商品価値は,この「なんとなく」といったあたりの弁別不能な思い込みを根拠に生成されるところの,多分に感覚的な関数のようなものだ。農水省が発表する数値に基づいて算出される科学的なデータではない。であるから,たとえば,たったの5%でも不安があれば,食品の価値は,ほぼ100%失われる。(p163)
● 生産と消費と娯楽について。
 私たちの生活は,つまるところ,生産的な労働を通じて得た収入を,非生産的な娯楽に振り向ける過程でもあるわけだからだ。「生産的」と「非生産的」を「健全」と「不健全」に置き換えてもよい。いずれにせよ,われわれは,無駄を省くために生きているわけではない。 われわれは,働く活力を取り戻すために,余暇時間を持っているのではない。順序が逆だ。むしろわれわれは,余暇時間を安逸無為に過ごすに足る収入を確保するために,余儀なく生産に従事している。もし人々が生産だけに血道をあげて,消費を排除したら,世界は動かなくなる。(p177)
 あらゆる娯楽は-旅行も,スポーツも,ギャンブルも酒も-ある臨界点を超えると,単純なレクリエーションとは質の違う,厄介な段階に到達する。(中略) 再開日にディズニーランドに駆けつけた人妻の歓喜の様子が,見る者に居心地の悪い感慨をもたらしたのは,彼女が自粛していなかったからではなくて,彼女の渇仰の対象があまりにも資本主義的だったからなのだと思う。 平凡な結論だが,なにごとも適度に取り組むのが一番なのだと思う。 もっとも,適度というのは,実は,非常に困難なミッションだ。(p181)
● 「より高カロリーな食品をできる限りたくさん摂取して,それでも太らないためにジムに通うみたいな生活が最高で,その生活を支えるべく,睡眠時間を削って大車輪で働くことが,より実り多い人生の秘訣である」(p173)という表現が出てくる。もちろん,世間(の一部の人たち)を揶揄する言い方だけれども,巧いなぁと思いますね。
 この種の愚は,自分もけっこうやってしまっているかもしれない。一度,精査した方がいいかもな。

2012年10月24日水曜日

2012.10.24 小田嶋 隆 『もっと地雷を踏む勇気』


書名 もっと地雷を踏む勇気
著者 小田嶋 隆
発行所 技術評論社
発行年月日 2012.10.25
価格(税別) 1,480円

● 面白い。どうしようもなく面白い。
 面白さの要素は大きく分けて3つ。ひとつめは文章。体を削るような思いで文章を紡ぎだしているのではあるまいか。この書き方ではたくさんは書けないでしょうね。
 しかし,そうして紡ぎだされた文章は若干の韜晦を含んだ洒脱に満ちている。単純に読む喜び,読む楽しさを,文章で味わわせてくれる。

● ふたつめは,溢れんばかりの知。なんて頭がいい人なんだろう,っていうね。
 冒頭の橋下大阪市長を扱った文章から,それは炸裂してて,かくも複雑なことをかくも深く考え,それを明快に腑分けして,ズバリの結論を明示する。読む側に自分も賢くなったんじゃないかっていう錯覚をプレゼントしてくれる。
 「むずしいことをやさしく,やさしいことをふかく,ふかいことをおもしろく」とは井上ひさしの言葉だったと思うが,なんかね,それを思いだしましたよ。

● みっつめは,自分の足で立とうとする潔さっていいますか,読者に媚びないっていいますか,「赤信号みんなで渡れば怖くない」を徹底的に拒否するっていいますか,敵を作ってもかまわないと思い決めているといいますか,「風に立つライオン」(さだまさし)のようなっていいますか,孤高の感じがとてもいいんですね。

● ひとつだけ引用。橋下大阪市長が文楽の補助金を削減するという話題に関して,小田嶋さんは次のように言う。
 世界一のスーパーディレッタントであっても,世界中の文化芸術の半分すら味わい尽くすことはできないはずだ。芸術というのは,そういうふうに,「選ばれた少数者に向けて」作られているものだ。(中略) 私が言おうとしているのは,「ある芸術はある一群の人々にしか理解されず,別の芸術は別の少数者にしかわからない」ということだ。(中略)にもかかわらず,一部の人々にとっては「それなしには生きていけない」ほど貴重なものなのである。 ということはつまり,芸術の大半は,大半の人間にとって,理解不能だということになる。 しかしながら,にもかかわらず,あるいはそうであるからこそいやがうえにも,それらは,尊重されなければならない。自分から見れば意味不明でも,一部の人々にとっては,全人生を賭けるに値する価値を持っている。そこのところを尊重しないのであれば,人類に文化が必要な理由が根底から失われてしまうからだ。 逆の立場に立てば,自分が心から支持している何かを,世間の人は,ほとんどまったく評価していないということである。 だから,どんな作品であっても,単純な多数決を取れば,必ず,「必要ない」に投票する人間が多数を占める。そういうものなのだ。(p57)
 じつは,(中略)の部分に小田嶋さんの味わいがあるんですけどね。