書名 新・冒険論
著者 角幡唯介
発行所 インターナショナル新書
発行年月日 2018.04.11
価格(税別) 740円
● 面白い。これだけの筆力をもった冒険家がいるのは,ぼくらの共有財産というか,ぼくらの宝なのではないか。
● 以下に転載。
こういう行為にあたっては意味の追求など,それこそ無意味である場合が多くあり,意味などといった既成概念で解釈できるような価値体系にとらわれていたら,こうした常識外れの行動をとるのは難しい。(p9)
川下りとかケービング(洞窟探検)とか自転車旅行とか,そういうある特定のジャンル化した行動,アウトドア専門店に行ったらそれ専用の販売コーナーができあがっているような活動にもどこか醒めた意識があり,そういったものとは一線を画した,まだ命名されていない知られざる行動形式によって困難な旅を実践してみたいと学生時代から欲求していた。(p20)
冒険における無謀性とは,じつは管理されていない自由で不確かな領域におけるクリエイティブな試行錯誤の中にこそあるといってもいいだろう。(p53)
現代の冒険が陥っているジレンマとは,到達すべき場所が無くなってしまったジレンマのことである。(p78)
二〇一七年春に早稲田大学の女子学生が北極点に到達したと発表したが,彼女も飛行機で北極点の近くに着陸して最後の百キロを歩いただけだから事実上,観光客としての到達者だ。(p128)
人間は本能的にどこかに到達したいのだが,この現代においてはすでに新しくて価値ある到達点が無くなってしまった。じゃあ既存のゴールを使って,あとは内容で優劣を競おうじゃないかというのが冒険がスポーツ化する最大の要因だ。いいかえれば,ゴールの数が決まっている以上,到達するという視点に縛られているかぎり,スポーツ化して優劣を競う方向でしか発展のしようがない。(p134)
〈どこかに到達することではない冒険〉は現代においても可能だし,そうした冒険が素晴らしいのは地理的な制限を受けないので未知なるフィールドが一気に,ほとんど無限大にまで広がる可能性があることだ。(p138)
冒険における自由とは何か。それは自分の命を自力で統御できている状態のことである。(中略)不安定な自由状態の中で冒険者は,システムの保護によってではなく自分の力で命を管理して安定させる努力をしなければならない。(p179)
冒険である以上,一歩でも判断をまちがえれば自分の命が失われてしまう危険があるわけで,要するに冒険の自由の対価は死,なのだ。自由であることの責任は命で償わなければならない。(p182)
ひとつだけ断言できるのは,自力性を増し,自由になればなるほど行為は困難になり,内容は濃いものになるということだ。冒険の世界で自力という観念が尊ばれるのは,こうした理由による。(p185)
冒険者は脱システムすることで,自力で命を管理するという,いわば究極自由とでも呼びうる状態を経験することになる。この自由はたしかに不快で面倒くさい側面があるが,同時に圧倒的な生の手応えがあるので,一度経験するとそれなしではいられないようなヒリヒリとした魅力というか中毒性もある。(中略)死は絶対に避けなければならない事態であるが,同時に死の危険があるからこそ,冒険者は冒険の現場に惹きつけられもする。(p188)
死が見えなくなったせいで現代人の生は活性化される機会も失い,だらだらといたずらに時間が流れる寄る辺の無い漂流状態を強いられるようにもなった。(p189)
よくよく考えてみれば,便利であることそれ自体に本質的な意味は無く,ただプロセスが省略されて時間と労力が節約されるというだけの話にすぎない。(中略)私の目から見れば,どれだけ便利さを追求しても,その先には虚無しかなく,結局何も得られないようにしか思えないのだが,しかし世間の目から見れば,おかしいのは私のほうなのだ。(p196)
現代という時代は,ほとんどの人間が自分の頭で考えない時代であり,非個人的な組織の原理が人園を組織している。だから自分の頭で考えることは必ず反社会的になる。(渡辺広士 p207)
書名 探検家の日々本本
著者 角幡唯介
発行所 幻冬舎
発行年月日 2015.02.10
価格(税別) 1,400円
● 著者の角幡さんをひと言でいえば,おそろしく文才のある探検家,ということになろうか。内省する探検家といってもいい。内省しないで探検家が務まるとも思えないが。
内省を言葉に翻訳するのが巧みなのだろう。この文才は新聞記者を経たことによって鍛えられたものではない(たぶん)。持って生まれたものだろう。
● 探検家であることがまずある。その上での文才だ。探検家の心性は,自らを危険にさらすことを厭わないどころか,ジリジリとそっちに近づこうとする心の構えだ。
著者にいわせれば,それが「表現」だからであり,「生き死ににかかわるような緊張感に触れなければ」調子が出ないからというのだけれども。
つまり,ぼく(ら)には理解できないもの。というか,頭の表面では理解できても,それ以上には行かないように,たぶん無意識にストッパーを掛けているものだ。そのストッパーが壊れている人を探検家というのかもしれない。
● 「サードマン現象」の話が面白かった。「極限状況に直面した時,自分とは別の人間がそばにいて,助けてくれるという不思議な体験」をする人がいるらしい。
もちろん,その人の脳の仕業に違いないのだが,言われてみればあっても不思議はないように思えてくる。もっとも,著者はその体験をしたことはないそうだ。
● 以下にいくつかを転載。
こと本を読むことに関する限り,私は誤読を恐れない。たとえ著者の意図とはことなるものであっても,読み手の感性と共鳴するものがあれば,それは読書としては成功だからである。(p8)
読書には未消化だった経験に適切な言葉を与えてくれるという効能があり,言葉が与えられることでかたちの曖昧だった経験は明確な輪郭を伴った思想に昇華されるのである。(p8)
本を読んだほうが人生は格段に面白くなる。読書は読み手に取り返しのつかない衝撃を与えることがあり,その衝撃が生き方という船の舳先をさずかにずらし,人生に想定もしていなかった新しい展開と方向性をもたらすのだ。(p9)
どうやら子供というのは自然そのものであるらしい。自然というのは人間には制御できないもの,どうしようもないものと私は理解している。(中略)そう考えると子供というのは雄大な自然そのものだ。(中略)つまり,子供を育てるということは自然を相手に格闘するのに等しいわけで,やっていることは山登りと同じなのだ。(中略)男は子供のような大自然を胎内に宿すという経験を永遠に持てないため,女のように自分の独立した身体で自然を理解することができないのである。(p18)
少なくとも学生なら私は就職に対して抵抗感を持つべきだと思う。なぜならそれは社会に対して安易に迎合しないという,若者だからこそ許される反逆の精神の表れだからだ。(p27)
フェイスブックに象徴されることだが,お互いに誉めそやしたり,いいね!と励まし合ったりするあの雰囲気は一体何なのだろう。(中略)およそ他人にとってはどうでもよい話にしか思えない日常の話題を写真付きで公開し,おまけに喜び合って,気持ちよくなれそうな相手に一方的に友達リクエストなるものを送って交際を求めるという,あのわけの分からない空間の魅力が私にはさっぱり理解できないのだが,あれなどは典型的な優しさ,気持ちよさ蔓延ツールであろう。(p31)
ネットやメールというのは,実名で書く表向きの部分は優しさと思いやりであふれており,(中略)一方,そこからハミ出した悪口や露骨な本音や誰かを傷つけるような言動をする時,(中略)匿名で散々やるという,裏表がきっちり分かれた情報世界なのだと私は認識している。(p32)
読書強制的状況は探検でフィールドに出た時に最大限に達する。行動中は動くのに忙しいし疲労も蓄積するので,本を読む暇などないのではないかと思われるかもしれないが,案外そうでもない。(p37)
何かを表現することには狂気が宿る。ひとつのころを徹底的に肯定するためには,他のすべてのことを切り捨てなければいけないのだ。(p43)
クライマーが山に命を賭けることができるのは,それが表現だから以外の何物でもない。(p44)
表現することにはどうしても他者と相いれない部分が出てくる。作品を作ることの本質は他者と何かを共有することではなく,むしろ自己と他者を区別し,独自の世界を構築することにある。(p44)
出発する前は死ぬ確率が三割ぐらいあると冷静に考えていたが,だからといってそれが私の行動を妨げる要因にはならなかった。たとえそれをやることによって好きな女から振られ,家族から勘当され,友人も離れ,全財産を失い(全然なかったけど),路頭に迷うことになったとしても,ツアンポー峡谷を探検しない人生よりはマシだった。(p45)
雪崩に遭って分かったことは,状況が危険な局面に突入しようとしているまさにその瞬間に,当人がその状況を的確に捉えることはできないということである。いい換えると決定的な一線を越えるその瞬間,本人は一線を越えたことを自覚できない。(p54)
それにしてもなぜみんな同じところに行くのだろう?(中略)登山は本来自由を目指す行為のはずなのに,今では多くの人が同じ山を目指し,そして同じことをやろうとする。(p103)
誰もやったことがない旅。昔から私はいつかそういう旅をしてみたかったのだ。それこそまさにイグジュガルジュクの言う,「人類から遠く離れたところ,はるか遠くの大いなる孤独のなか」であろう。たった一度の人生,そこを目指さずに一体どこに行こうというのか。(p121)
探検というのは別に地理的な探検だけに限定されているわけではない。自分たちの世界の枠組みや常識の外側に飛び出てしまうこと,それこそが探検行為の本質である。(p127)
ヒマラヤや極地や大海原に挑んだ探検家や冒険家の中には極限状況に直面した時,自分とは別の人間がそばにいて,助けてくれる「サードマン現象」という不思議な体験をする人がいるという。(p137)
登山のルポは難しい。確固たる視点を持たずに山に行っても,そこには基本的に自然しかなく,対自然は対人間と違い会話などのやりとりがないため,文章にメリハリをつけるのが難しいのである。服部(文祥)さんの山岳ルポが面白いのは,自然と対話し,そこから読者を唸らせる発想を得ているからだ。(p141)
カルトや狂信的テロ集団が生じるのは別に珍しいことではない。カリスマ性のあるリーダーと,閉鎖的な空間があれば,それはいつでも現れ得る。(p145)
森達也の本は,常にシーンの連続だ。新聞記者はデータとして有用な内容ばかり重宝するから,シーンは不必要な情報として切り捨ててしまう。しかし映像を撮っている人はシーンの中に本質が表れることを知っている。(p146)
山や北極に比べると都会での生活はどこかフワフワしていて生きていることの臨場感に欠けるので,定期的に自然の中で,多少大げさにいうと生き死ににかかわるような緊張感に触れなければ日々での生活でも調子が失われてしまうのだ。(p172)
ノンフィクションを書く時に最も難しい問題のひとつに,予断にどのように対処するかということがある。(中略)ノンフィクションを書く場合は,この予断がないと取材に取りかかることは絶対にできない。(中略)その一方で予断が予断通りのまま進んでも,決して面白い本にはならないということもいえる。(中略)つまりそこには新しい発見が何もない。(中略)予断が崩壊する時は作品にとってピンチでもあるが,新しい物語が広がるチャンスでもある。予断が崩壊した時にこど作り手の感性は試される。(中略)ノンフィクションが作品として成功するかどうかは,予断が覆された時に生じる自分の感情のぶれをどのように描き出すかという,ただその一点にかかっているとさえいえる。(p191)
記者というのは視点が内向きで,他社の知らない特ダネ(あくまで重視されるのは他社が知らないかどうかであり,社会的に有用かどうかという観点は新聞記者の価値判断にはふくまれない)をいかにすっぱ抜くかしか考えてないので,事件の場合は各社の記者が警察幹部から情報を取ろうと血眼になって競争し,特ダネを聞いたら,それが本当に事実かどうかなど二の次で,警察が認めたからというだけの理由で正真正銘の事実であるかのように報道する。(中略)極端な言い方をすると,新聞記者は事実に関心がない。新聞記者が関心があるのは,それが事実かどうかではなく,それが事実として書ける素材であるかどうかであり,より正確にいえば,それが書けるということが誰によって認定されているかどうかである。そもそも本当に事実かどうかなど,誰に分かるというのだろう? 新聞は独自で事実認定する努力を事実上放棄しているのだ。(p210)
事実というと硬い石のようにカチッと確固として存在しているように思えるが,実際にはそうではなく,実は非常に曖昧で捉えどころがない。(中略)さらに事実というものを深く考察すると,ひとつひとつの事実そのものにはさほど意味はないことに気がついていく。(中略)事実に意味を持たせているのは,その事実を事実として成り立たせている事実性のようなものである。(中略)事実というのは事実性にまで到達しないと精確に書くことはできない。いくら表面的には正しく書いたとしても,背後にある事実性を認識した上でそれを書いたのでなければ,本当に事実を書いたことにはならない(p213)
ノンフィクションを書くには,たとえそれがどのようなテーマであれ,絶対に皮膚感覚レベルの実感が必要なのだ。(p217)
自然は死を基調とした恐ろしい世界であり,その奥深くに入れば入るほど人は死に近づくことになる。しかし,というか,だからこそ,というか,とにかく冒険者は自然が与える死の匂いの中で生きることで,その奥底にある,自分たちの命を律動させている何かと触れ合っているような気になるのである。(中略)千日回峰行もまた冒険と同様,自然の中で抽象的で観念的な何かを掴み取ろうとする行為である。回峰行は台風でも豪雨でもとにかく千日間続行しなければならないという人為的な制約を課すことで,本来北極やヒマラヤに比べたら穏当な大峰山を,それらと同じレベルの過酷な自然環境に変成させる。(p264)
書名 探検家,40歳の事情
著者 角幡唯介
発行所 文藝春秋
発行年月日 2016.10.20
価格(税別) 1,250円
● 『探検家,36歳の憂鬱』に続く,角幡さんの2冊目のエッセイ集。文章の才というのは,持って生まれたものなのかねぇ。平明達意の文章だ。
角幡さんに言わせれば,バカ言うなよ,どんだけ苦労してると思ってんだよ,ってことでもあると思うんだけど,苦吟すれば誰でも書けるかというと,そういうものではないんだと思うんだよね。
● 歳をとったら,若い頃に読んで記憶に残っている小説やエッセイや対談集を再読して,余生を過ごそうと思ってたんだけど,これはできそうにない。
次々に新しい作家が登場して,面白い作品を発表するからだ。それを読んでいくだけで手一杯で,昔読んだものを読み返すだけの時間は遺されていないように思えてきた。
● それとやはり時代の勢いというものがあって,30年前に読んで感激した作品を今読んでみても,ピンと来ないってところもあるのじゃないかと思う。思うっていうか,そういう経験をすでにしている。
本は一回勝負。一度読んだら二度目はないというつもりで,時代の今に対峙(というと大げだだけど)すべきなのかなと思うようになった。
● 以下にいくつか転載。
後悔する人生とは決断できなかった人生であり,後悔しない人生とは決断できた人生のことだ。重要なのは決断できたかどうか,自分の葛藤に主体的に決着をつけられたかどうかであり,どのような結果がおとずれるかはさして本質的ではないとさえいえる。だとすると決断すべきだ。(p9)
極地の長期旅行において,一日五千キロカロリーという数字はかならずしも人体を健康的に保つには十分な熱量ではない。(p32)
どこの親も自分は誰よりも育児に手を焼かされたと思いこんでいるので,親にとっての子供の思い出話というのは大体,わが子がいかに手に負えない腕白小僧だったかを語る傾向がある。(p46)
登山や探検の場合は軽量化をはかるため,極端なことを言えば,これがないと死んでしまうという重要な装備しか持っていかない。だから途中での忘れ物は命にかかわる事態を招きかねない。(p51)
失くした瞬間こそ死んだほうがいいんじゃないかと思うぐらい焦ったが,探しながら,まあ,どうにかかるか・・・・・・と気をとりなおしていた。立ち直りが早いのは私の唯一の取柄である。キャップがなくなったのなら代用品を作ればいい。(p57)
七カ月もイヌイット村で生活していると,さすがに郷にいれば郷に従えじゃないが,否応なく彼らの食生活に同化していく。そもそも地元の人と同じ食事をしたほうが経済的に安上がりだ。(p75)
肉を日々,生食していると身体にビタミンが補給されていることがじつによくわかる。(中略)それになんといっても肉は旨い。(p76)
コウモリの煮込みはメチャクチャ旨い(味の素が存分に投入されていたので余計,旨かった)。(中略)あのコウモリの見たまんまの姿が味覚に転換されたらコレになるというしかない味で,じつに深みのある味だった。(中略)コウモリで一番旨いのは脳ミソだという。(中略)私も真似してお玉でコツコツ開頭してズルズルズルーっとすすったが,その旨いこと。ドロっと濃厚で,少し苦味のきいたコウモリ独特の味が生きている。(p95)
一度,彼にトランプの神経衰弱のやり方を教えたことがあったが,彼らはつねに深い密林のなかで鳥やコウモリを追いかけているので,瞬間的な光景を空間的に把握する能力が発達しているのだろう,彼が一度,神経衰弱のルールを覚えると,それからはまったく歯が立たなかったことをよくおぼえている。(p133)
なんのニオイもせず,清潔で,爽やかな笑顔をかわすこの人たちは,樹木や泥や土や雪や氷や濁流や炎といった万物の根源を形成する自然から切りはなされた世界に住んでいるのだ。そして自然から切りはなされているということは,すなわち自然がもたらす汚いもの,臭いもの,ドロドロしたもの,汚穢なもの,要するに生と死そのものからも切りはなされているのだ。世界の根源から去勢された,上辺だけの,浅薄な世界で,何も知らないまま生きている現代の都市生活者だち。(p140)
原始人こそすべてを知る者だった。野生のなかで生き抜くために知恵をしぼり,創意工夫をこらし,大胆に,そして細心に行動し,命を連綿とつないだ彼等こそ,この世界の真実を知る者だった。(中略)彼らには自らの判断や行動によって自らの生と死すら決定するという究極の自由が存在していた。(p141)
人間の生活から遠くへだたった世界。人間の痕跡が感じられない場所。そこにあるのは氷と風と太陽と太陽がつくる影だけだ。私は一匹のイヌとともにそこにいる。私が死んだらイヌは死ぬ。イヌが死んだら私も死ぬ。そのとき私とイヌとのあいだに引かれていたあらゆる区分や差異は消滅し,二つの生物種を規定する異なる概念に意味はなくなるだろう。そこにあるのは私とイヌがある種の契りをむすんでいること,ただそれだけだ。(p171)
書名 探検家,36歳の憂鬱
著者 角幡唯介
発行所 文藝春秋
発行年月日 2012.07.20
価格(税別) 1,250円
● 著者は早稲田大学探検部の出。次のような青年だった。
大学の講義にはまったくといっていいほど出席しなかったが,それでも大学には毎日通い部室に顔を出した。時間はたっぷりとあったし,学生時代は悩んだり考えたりして時間を無駄に使うことが将来の貴重な財産になりうる人生で唯一の時間だった。(p15)
探検部の活動は本気になればなるほど将来が見えなくなり,人生が混沌としていく。多分自分にはそこが合っていた。ある意味で,安定した未来から逃げたくて,私は探検部に居座り続けたのだ。(p18)
小さい頃,背広とネクタイが嫌いだった。背広とネクタイをしめる人生だけは御免だと思っていた。(p18)
たぶん私は六〇年代とか七〇年代に青春を過ごしていたら,確実に学生運動にのめり込んでいたタイプの人間だったはずだ。昔から時代の常識とか規範とか支配的な枠組みに対して,どうしても生理的に嫌悪感を抱いてしまうのである。(p19)
自分は社長の息子なのだ。しかも長男なのだ。(中略)つまるところ自分は生まれながらにして恵まれているのだ。そういう過剰な自意識が小さな頃から私の中にあって,それが成長するに従って変な劣等感を生み出した。つまり恵まれているという劣等感だ。(p20)
● 本書の特徴は,香り高い文章にある。読ませるエッセイだ。素材は探検絡みから取られているけれども,そうしたものに興味がなくても,純粋に文章を味わえるものだと思う。
● 以下にいくつか転載。
新聞社という安定的な大機構の中に身を置いていると,どうしても自分は今生きているというヒリヒリした感覚は失われる。記事を書こうと書くまいと,毎晩寿司を食べて,キャバクラに行っても,基本的には生活の不安を感じない程度の給与が勝手に銀行口座の中に振り込まれてくるのだ。(p37)
書くことでも映像をとることでも何でもいいのだが,結果として表現に置き換えることを前提に何かの行為をする場合,その行為の純粋性を保つことは想像以上に難しい。(p50)
こうした実況中継にみられる,常に行為をジリジリと表現形態に置き換えようとする表現者としての態度は,よほど気をつけてかからないと,行為を面白く見せるためのヤラセを引き起こす可能性がある。よりスリリングな物語を提示したいという表現者側の論理は,純粋に行為に専念したいという行為者側の立場を常に飲み込もうとしているのだ。(p55)
冒険する価値のある対象が地球上から失われてしまっただけではなく,仮にそれがあったとしても,もはやそうした大きな価値観自体が社会の関心をひかなくなったという事情もアルのだ。(p62)
何かを表現するということは,その何かに含まれるテーマを個人の領域から社会の領域に昇華させる作業のことを言う。つまり表現することは多くの他者を相手にした社会的な行為であり,人々に訴えかけるストーリーを提示しなければならない。 しかしエベレストからも北極からもアマゾン川からも冒険する社会的意義が失われた今,冒険は簡単に他者に理解してもらえるストーリーを提示しにくくなった。(p64)
個々人を引きつける冒険の本質的な魅力はいったい何か。死ぬかもしれないのに,無益なことをやる理由はどこにあるのか。もはや社会的な価値がなくなったのに冒険を続けるのだから,冒険者たちには社会的な価値の他に,それを続けなければならない個人的な事情があるのだろう。(中略)個人が冒険を続けざるを得ないその事情をうまく抽出して描き出すことができれば,今日でも社会性のある物語に敷衍できるかもしれない。(p65)
身も蓋もない言い方をすれば,遭難でもしなければ冒険は面白い物語になりにくいのである。(中略)冒険の現場とは通常,冒険をしない人が考えるほどスリリングではない。冒険の最中は単調で退屈な時間が続くことが多く,それは人間のいない自然を相手に行う冒険の場合はことのほか顕著だ。(p68)
本当のノンフィクションの物語とは,現場での体験や取材が事前の見通しを上回った時に初めて立ち上がってくるものでもある。逆説的な言い方になるが,筋書きのないドラマとは,まず筋書きがあって,かつそれを越えたところにしか存在しないのだ。(p70)
冒険の場合は命がかかっているので,基本的には現場で起きるあらゆるトラブルに対処できるように計画を作る。そのため予想を裏切る体験というのはなかなか起きないし,もし実際に起きたら,それは(中略)限りなく死に近い深刻な事態に陥ったことを意味している。(p71)
グローバルに情報がいきわたると思える時代になったとはいえ,人間が身体を通じて周囲の有様を知覚する動物である限り,物理的な距離は今でも単純に情報の格差をもたらすのだ。(p84)
私がこの時に知ったのは,死は意外と日常のすぐぞばにあるという単純なことだった。いつもと少しだけ違う細かな状況の変化が,自分でも気がつかないうちに積み重なって,最悪の状況というのはやって来る。当人は実際に死に直面するまで,状況が決定的に悪化していることに気がつかない。(p128)
インターネットの進展が自然との乖離を決定的に加速させた。ネットによる情報収集には身体により外界を知覚するという要素がほとんどなく,動かす部位が指先と目と脳に限られるため,身体性の喪失と生感覚の無化を二次関数曲線を描くように進展させる。(中略)日常生活の中から生感覚が失われてしまったのだから,現代社会に閉塞感が広がるのは当たり前だろう。(p160)
自然に深く入り込むということは,自ら積極的に生と死の境界線という危険なエリアに身をさらすことを意味する。なぜなら本当の自然とは常に人間の意図を越えて振る舞う,生と死に満ち溢れた世界だからだ。(中略)極地探検に限らず,外部との通信手段を確保したまま行う冒険がどこか不完全な感じがするのは,そうした冒険の本質がぼやけてしまうからである。(p189)
北極点通信手段不携帯無補給到達。それは考えられないほどの恐怖と不安に支配される,間違いなく「世界最難の旅」となるに違いない。(中略)帰った方がいいのではないか,戻れるのは今しかないのではないか,このまま進むと死ぬのではないか・・・・・・。何よりもそうした不安に耐えられる強靱な精神力が求められる。 しかし考えてみると,ナンセンやピアリー,クックといった人たちは,それを当然のやり方として受け入れ,探検していた。昔の人たちは強かったというのは,単なる過去の理想化ではなく事実である。(p195)
その目は周囲を睥睨し,その場を完全に支配しているような力強さに満ちていた。どれほどの覚悟があれば,あのような目になるのだろう,と私は思った。(中略) その迫力の背後にあったのは,明らかに彼が背負っていた死への覚悟だった。(p212)
人間は死ぬ直線まで,自分がこれから本当に死ぬということを精確に認識することはできない。(p218)
結局のところ冒険を魅力的にしているのは死の危険なのだ。(中略)生とは死に向かって収斂していく時間の連なりに過ぎず,そうした生の範囲の中でも最も死に近い領域で展開される行為が冒険と呼ばれるものだとしたら,それは必然的に生の極限の表現ということになるだろう。(中略)死を意識した瞬間に,その行為は最も生の煌めく瞬間に変わる。だから冒険者は冒険からなかなか足を洗えない。(p222)
● 次のような役に立つトリビアも。著者のブログからもってきた文章らしい。
マルタイ棒ラーメン(しょうゆ味)のおいしい作り方を紹介しよう。お湯を少なめにして,麺をかためにゆでる。刻んだネギとおろしニンニク,ごま油,酢を加え,コショウ,七味を少々ふりかけると,あら不思議。そのへんのラーメン屋よりも,よっぽどうまいラーメンができあがる。(p105)
書名 地図のない場所で眠りたい
著者 高野秀行
角幡唯介
発行所 講談社
発行年月日 2014.04.24
価格(税別) 1,500円
● 早稲田大学探検部OBによる対談。学生時代の思い出話から,これまでの探検履歴を語りあう。さらに,書く作業や文章について,情報のとり方など,創作についても。
● 各章の末尾で「探検を知る一冊」を紹介している。次の5冊。
ディヴィッド・グラン『ロスト・シティZ』(日本放送出版協会)
高井 研『微生物ハンター,深海を行く』(イースト・プレス)
ジョン・ガイガー『奇跡の生還へ導く人』(新潮社)
ショーン・エリス ペニー・ジューノ『狼の群れと暮らした男』(築地書館)
ダニエル・L・エヴェレット『ピダハン』(みすず書房)
お二人の作品はまだどれも読んだことがない。ということは,それらを読む楽しみができたということだ。あわせて,上の5冊も読めるといい。読みたくさせる紹介をしている。
● 以下に,転載。
探検部って,そんなサバイバルみたいなことばかりしているように思われてるよな。いちいち火起こしなんてしてたら活動ができないって。(高野 p39)
俺が入ったころは,タクラマカン横断みないに念入りな準備をしてやっている活動はあまり多くなくて,わりと気軽に行ってしまうものが多かった。そういうのを見てると,こんなすごいことをこんな気軽にやっちゃえるものなのかと最初は思ったね。(高野 p45)
交渉して自分のやりたいことを伝えていく。それをしつこくやっていく。そうすると道は開けるということ。(中略) 日本人より外国人のほうが話せばわかるということもわかった。日本人はルールが先にあるから,話して解決することがなかなかない。(高野 p49)
僕がやりたいことというのは,やり方が決まっていないことなんです。登山は好きですけど,登山ってルールとかモラルがすでにあって,ある程度やり方がきまっているんですよね。そういうものがまったくないところに行って,その場所にいったい何が必要なのかとか,一から自分でやり方を考える。そういうことが楽しいわけですよ。(角幡 p86)
自分の中のモチベーションが高くないと俺は文章を書けないということと,すごくおもしろいことはそのへんには転がっていないんだということもやっとわかった。俺がパッと思いついて,パッと行けて見られるようなものなんて,所詮たいしたことないんだよね。(高野 p112)
「日ごろノンフィクション作品では書けない雑談を自由に書けるのがストレス発散になる」みたいなこと。それだよ,ブログというのは。(高野 P124)
難民がいるところでもそうだけど,ニュースで報道されることというのは,いちばん派手なところを切り取って,それを水増しして伝えてるのでしかないということがよくわかった。それは現実と全然違うんだよ。日常とか文化みたいなこともあるわけだし,(中略)おもしろいことも,笑えることもたくさんあるし。(高野 p158)
角幡の本は現地の人の話がすごく少ないよね。現地の人に話を聞いていくと泥沼になっていくんだよ。(中略)ものすごく多種多彩な話が出てきて,もう自分がなにをしているのかもよくわからなくなってくるんだよね。(高野 p170)
探検って,自分たちが属している社会なりコミュニティの知識や常識の外側に行くことだと思うんです。(角幡 p176)
書くことを意識している時点で,それに引きずられる部分ってどうしても出てきますよね。今やっている旅をどうやって書こうかとかいうことを考えた瞬間に,その旅は純粋ではなくなると思うんです。(中略)だから(中略)ゴールを設定するのはよくないなと思ったんです。(角幡 p188)
予定調和に終わるより,自分の構想がぶち壊されるぐらいのことが起きたほうが,書くときだってノルじゃないですか。そういうのが欲しい。でも,自分の行きたいのは人がいないとか人が行ったことがないところなので,準備はかなりしなくちゃいけないし,そういう準備作業もおもしろかったりするんですよね。行為自体の完成度と作品のおもしろさを一致させるのはなかなか難しいなと思って。(角幡 p189)
その「行くしかない」っていう感じが,本を書くうえでもいちばんいいんだよね。「行っても行かなくてもいいけど,行きたいから行った」というよりは,「行くしかない」と思って行ったほうがはるかにおもしろくなるんだよ。(高野 p193)
集英社文庫の担当が堀内倫子さんという人で,その人にすごく言われたんだよね。「高野さんの芝居は小さすぎる」って。小劇場とかそういうところではすごく受けるけれど,武道館か東京ドームでやると「動きが小さすぎて遠くの人が見えない」と言うわけだよ。(中略) その堀内さんによく言われたのが,「高野さん,これ,いったいなんの話なの?」ということ。それが「ひと言で言えないとダメだ」と言うんだよね。(高野 p194)
文章ってのはだいたい若いころのほうがおもしろい。ちょっとぎごちないほうが駆動力がありますよね。うまくなってこなれてくると,きれいな文章なんだけどパワーがなくなってしまう。(角幡 p197)
吉田一郎という人の『国マニア』っていう,変な国がたくさん載っている本があるんだよ。俺,それをけっこうネタ本にしていて,その本を読んでインドとバングラディシュの飛び地に行ってみたりとかもしてるんだ。(高野 p209)
情報がたくさんあると急に嫌になってやめたりすることも多い。「ああ,情報すでにあるんだ」と思って。だから,そもそも情報があるところには行かないほうがいいんだよ。(高野 p215)
高野 でも,書くことによって自分の頭の中が整理されていくというのはあるじゃない。 角幡 というか,書かないと整理されない。 高野 されないよな。書かないと,どんどん忘れていくし,深まらないしね。(p255)
モガディシュの人間はソマリランドがすごく平和だってことを知らないんだよね。俺が「誰も銃なんか持って歩いてないよ」と言うとビックリする。それもジャーナリストとかがだよ。結局,平和な部分というのはニュースにならないからわからないという,根本的な欠陥だよね。(高野 p263)
角幡 歴史を動かすような大きな変化って,一昼夜で起こるわけではなくて,事態は少しずつ進んでいきますよね。でも,そういうことってニュースになりにくいから,あとから振り返って初めて,あのとき,一線を越えていたんだなというのがわかるんですよ。これはもうマスコミの宿痾みたいなもんで・・・・・・。 高野 でもね,ニュースといっても物語の一種だと思うんだよ。やっぱりストーリーを作らなきゃいけないわけでしょう。とのときに悲惨な話というのは,ストーリーを作るのがすごく簡単。(中略)悲惨な中にも日常をキープしていくのが人間の力だと思うんだけど,そういう話を書けるかというと,すごく難しいわけでね。(p265)
素材を変形させたらダメだとも思っているんです。会った人とか取材した人とか,言葉の内容とか,自分の体験とか,書く素材になるものを変形させてしまうと,なし崩しになっていくから。(中略)だから取材対象の心の内側を推測して書くようなことってどうなんですかね。(角幡 p266)
行って半分,書いて半分だよね。後半の半分をどうするかというのは,現地でやることに匹敵する大問題なのに。(高野 p273)
書き方とか表現で開拓したいという気持ちはものすごく強いから,なにを言われていちばん嬉しいかというと,やっぱり「文章がおもしろい」と言われることなんですよ。「すごいことやってるね」と言われても別に嬉しくない。(角幡 p275)
現地では病気,事故,犯罪,戦闘,対人トラブル,自然災害,一文無しになるなどトラブルの可能性が無限大だ。先のことを深く考えていたら出かけられない。また,過去の痛い目にあったことは速やかに忘れないと,次の活動にとりかかれない。間違っても懲りたりしてはいけないのだ。(高野 p289)