著者 角幡唯介
発行所 インターナショナル新書
発行年月日 2018.04.11
価格(税別) 740円
● 面白い。これだけの筆力をもった冒険家がいるのは,ぼくらの共有財産というか,ぼくらの宝なのではないか。
● 以下に転載。
こういう行為にあたっては意味の追求など,それこそ無意味である場合が多くあり,意味などといった既成概念で解釈できるような価値体系にとらわれていたら,こうした常識外れの行動をとるのは難しい。(p9)
川下りとかケービング(洞窟探検)とか自転車旅行とか,そういうある特定のジャンル化した行動,アウトドア専門店に行ったらそれ専用の販売コーナーができあがっているような活動にもどこか醒めた意識があり,そういったものとは一線を画した,まだ命名されていない知られざる行動形式によって困難な旅を実践してみたいと学生時代から欲求していた。(p20)
冒険における無謀性とは,じつは管理されていない自由で不確かな領域におけるクリエイティブな試行錯誤の中にこそあるといってもいいだろう。(p53)
現代の冒険が陥っているジレンマとは,到達すべき場所が無くなってしまったジレンマのことである。(p78)
二〇一七年春に早稲田大学の女子学生が北極点に到達したと発表したが,彼女も飛行機で北極点の近くに着陸して最後の百キロを歩いただけだから事実上,観光客としての到達者だ。(p128)
人間は本能的にどこかに到達したいのだが,この現代においてはすでに新しくて価値ある到達点が無くなってしまった。じゃあ既存のゴールを使って,あとは内容で優劣を競おうじゃないかというのが冒険がスポーツ化する最大の要因だ。いいかえれば,ゴールの数が決まっている以上,到達するという視点に縛られているかぎり,スポーツ化して優劣を競う方向でしか発展のしようがない。(p134)
〈どこかに到達することではない冒険〉は現代においても可能だし,そうした冒険が素晴らしいのは地理的な制限を受けないので未知なるフィールドが一気に,ほとんど無限大にまで広がる可能性があることだ。(p138)
冒険における自由とは何か。それは自分の命を自力で統御できている状態のことである。(中略)不安定な自由状態の中で冒険者は,システムの保護によってではなく自分の力で命を管理して安定させる努力をしなければならない。(p179)
冒険である以上,一歩でも判断をまちがえれば自分の命が失われてしまう危険があるわけで,要するに冒険の自由の対価は死,なのだ。自由であることの責任は命で償わなければならない。(p182)
ひとつだけ断言できるのは,自力性を増し,自由になればなるほど行為は困難になり,内容は濃いものになるということだ。冒険の世界で自力という観念が尊ばれるのは,こうした理由による。(p185)
冒険者は脱システムすることで,自力で命を管理するという,いわば究極自由とでも呼びうる状態を経験することになる。この自由はたしかに不快で面倒くさい側面があるが,同時に圧倒的な生の手応えがあるので,一度経験するとそれなしではいられないようなヒリヒリとした魅力というか中毒性もある。(中略)死は絶対に避けなければならない事態であるが,同時に死の危険があるからこそ,冒険者は冒険の現場に惹きつけられもする。(p188)
死が見えなくなったせいで現代人の生は活性化される機会も失い,だらだらといたずらに時間が流れる寄る辺の無い漂流状態を強いられるようにもなった。(p189)
よくよく考えてみれば,便利であることそれ自体に本質的な意味は無く,ただプロセスが省略されて時間と労力が節約されるというだけの話にすぎない。(中略)私の目から見れば,どれだけ便利さを追求しても,その先には虚無しかなく,結局何も得られないようにしか思えないのだが,しかし世間の目から見れば,おかしいのは私のほうなのだ。(p196)
現代という時代は,ほとんどの人間が自分の頭で考えない時代であり,非個人的な組織の原理が人園を組織している。だから自分の頭で考えることは必ず反社会的になる。(渡辺広士 p207)
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