2019年6月11日火曜日

2019.06.11 半藤一利・出口治明 『明治維新とは何だったのか』

書名 明治維新とは何だったのか
著者 半藤一利
   出口治明
発行所 祥伝社
発行年月日 2018.05.10
価格(税別) 1,500円

● 幕臣の阿部正弘がグランドデザインし,大久保利通が具体化した。大久保が暗殺されて,残ったのは小物の伊藤と山縣。大久保がもっと長く生きていれば,山縣の跳ねっ返りもなかったろうに。
 が,太平洋戦争末期には,「伊藤公,出でよ。山縣公,出でよ」と言わせるくらいに,悲惨な状況だつたのだよね 。

● 以下にいくつか転載。
 シーパワーというと武力だけのように解釈されることが多いのですが,実は通商がシーパワーの基本なんですよね。通商をしっかりやるために,それを守るための武力が必要になる。(半藤 p23)
 これが日本人の良いところなのか悪いところなのか,「起きて困ることは起こらない」と思い込んでしまうんですね。(中略)「起きないんじゃないか」と主観的かつ楽観的にいいほうにいいほうに考えて対応をズルズル引っ張ってしまうんです。(半藤 p27)
 明治維新の「開国」「富国」「強兵」というグランドデザインを描き,そのための準備に着手した阿部正弘は,明治維新の最大の功労者のひとりではないでしょうか。(中略)有為な人材登用や人材育成策は,お見事の一語に尽きます。(出口 p33)
 お尻に火がついて大変なときには,若い人が頑張るんじゃないでしょうか。(中略)幕末は,維新の志士たちだけではなく,幕府のほうもみんな若くて優秀なんですよね。大きな時代の変わり目には,これまでの経験則が役に立たないので,勉強している人じゃないと対応できないのだと思います。(出口 p39)
 明治維新は江戸時代の鎖国による二〇〇年の遅れを取り戻す運動だったと思います。(出口 p46)
 実際には,お金を持っている商人のほうが威張っている。現実に秩序は守られておらず,いわば有名無実だった。だから逆に言葉(士農工商)だけ残っているわけですね。(出口 p49)
 そんなに勉強してないんじゃないですか。少なくとも,わが長岡藩では朱子学なんて誰も聞いたことないと思いますよ。(半藤 p50)
 それ以前から幕府がいちいち「こういう国策を決めましたので,ご了承願いたい」と朝廷に許可を得ていたかというと,そんな話は聞いたことがありません。一体いつから,そんなことになったのか。それがよくわからなかったんですよ。それでいろいろと調べたところ,光格天皇のときに変化があったようなんです。(半藤 p64)
 「討幕の密勅」なるものは,岩倉らによる偽造文書であることはもう明瞭です。公家の後ろ盾があるから,いつの間にか薩長軍が「官軍」,幕府軍が「賊軍」になってしまいました。(半藤 p77)
 どの世界でも,将来のビジョンや設計図を描く人と,実際にそれを具体的な行動に落とし込む人は違いますからね。同じ人がやれればいいけれど,そんなに器用な人はあまりいません。龍馬は,実際に動き回るほうのタイプの人だった。(出口 p86)
 薩長の連中は,新しい国家をどうやって作るかというイメージをほとんど持っていなかったんですよね。唯一,大久保の頭の中にはあったと思います。(半藤 p103)
 西郷が去った後,大久保はどんどん参議のクビを切って,小さな政府に仕立て直して自分で支配するようになりました。最初に新政府を立ち上げたときは,一応は薩長土肥のみんなの顔を立てなければいけなかったので,無駄に大きな政府だったんです。(半藤 p111)
 伊藤は大した力量がなかったからこそ,大久保が生前に考えていたことをそのまま忠実に実行していったのではないでしょうか。(出口 p115)
 一般的には,三月一四日の西郷・勝会談で万事うまく片づいたと思われているのですが,そこではまだ話は終わっていなかった。むしろ,そこから先の備え方が,政治家・勝海舟の真骨頂なんです。(半藤 p131)
 (勝海舟は)きわめて合理的に物事を考えられる人ですよね。(中略)社会が大きく揺れ動いているときは,狂信的な人はあまり仕事ができないんじゃないかと思います。(中略)ひたすら攻めていけばいいときは,むしろ狂信的なリーダーのほうがいいんですよ。あまり合理的に考えてしまうと,ネガティブな要素が気になって「やはりやめておこう」という話になりやすい。合理的思考だと勢いがつかないんです。でも大変な状況をまとめるときは,合理的思考が求められるんですね。(出口 p140)
 ああいう土壇場で何事かを成し遂げる人間というのは,立派な大義名分を掲げたりしない。それこど終戦時の総理大臣だった鈴木貫太郎も,ただ一点,昭和天皇を守らなければいけないということだけを求めて本気で取り組んだんです。そいういうときは,あんまりデカいことは言わないし,考えないほうがいんですね。むしろ狙いを一点だけに定めて,それを守り抜くほうが大きな力が発揮できるのではないでしょうか。(半藤 p145)
 西郷は永久革命家だと思います。だから彼がいると革命が終わらないんですね。その意味で,征韓論で敗れて野に下ったのは正解だったと思います。(出口 p146)
 廃藩置県はまだ岩倉や大久保が国内にいるときに決めましたが,岩倉使節団が船の碇を上げて旅立った途端に,西郷はどんどんやりたいことをやりました。まず第一に,朝敵だった大名をみんな大赦してしまうんです。(半藤 p151)
 ものすごく荒っぽくいってしまえば,明治維新は大久保利通の作品ですよね。(出口 p159)
 大久保さんは何でもできる不思議な人で,私生活がきれいだからといっても単に清廉潔白なわけでもなく,理屈の通った正論を吐ける一方で悪だくみもできるんです。ああいう人がいたからこそ,スムーズに明治新政府が立ち上がった面はあると思いますね。(出口 p161)
 権力争いというのは難しいもので,大事なのはどちらが勝つかではないんです。どちらが先に諦めるかで決着がつくんですよ。(半藤 p169)
 吉田松陰にいわせると,山縣は「丸太ん棒」だそうです。その何の役にも立たない「丸太ん棒」が残っちゃったんですよ。吉田松陰そのものも大した人物ではないが,伊藤と山縣はその門下生の中でも大したことないんです。(半藤 p177)
 森鴎外がベルリンに行くなど,当時の留学生はドイツへの憧れが強かったというイメージが強いのですが,実際に留学した人数を見ると,アメリカが圧倒的に多いんです。(中略)明治政府は世界の実勢をきちんと知っていたのだと思います。(出口 p195)
 そうやって日本語で外国の学問を教えられるようになったことは,教育水準を向上させる上で実に大きかったんです。明治以降,日本の文化レベルがそれこそ「脱亜」と呼べるぐらいまで一気に上がったのは,日本語で高等教育ができるようになったからなんですね。これは明治の人たちの大功績ですよ。近代日本の基礎を作ったといっていいほど重要な仕事だったと思います。(半藤 p202)
 日本の軍国主義は,本格的な立憲国家が成立する前に,山縣有朋という個人の野心的な性格によってポンとできちゃったんです。(半藤 p208)
 たとえば乃木さんの第三軍が,旅順要塞を落とすためにムチャクチャな作戦を実行して,どれだけ多くの兵隊を死なせたか。ものすごく悪戦苦闘してようやく落としたんですが,「大和魂をもってうする日本の白兵戦術は近代戦においても非常に有効であった」みたいな美談として語られていったんです。ここで本当の歴史を隠してしまったので,昭和の軍人たちは陸軍も海軍も真実を教わらなかったんですね。(半藤 p214)
 ルーズベルトは,国力や戦力の点では明らかにロシアのほうが日本より上なのに,金子堅太郎との友情に免じて,一対一ぐらいの対等な講話を斡旋してくれたわけですよね。いわば日本を依怙贔屓してくれたのですから,日本の国民は自分に感謝するはずだ,と思うのが普通の人情でしょう。ところが,そこまで親切にしたのに日本人は,「俺たちはロシアに勝ったのに,こんな講話を斡旋したルーズベルトはけしからん!」などと怒っている。ルーズベルトは「こんな国と仲良くできるのか」と思ったのではないでしょうか。(出口 p217)
 アメリカもイギリスも受け入れてくれないから,海軍の人たちもみんなドイツに行くんですよ。でもドイツ海軍なんて,日本の海軍にとって勉強になるものは何もないんです。ではドイツに行った連中が何をやっていたかといえば,女を抱かせられていた。(半藤 p228)
 どちらかというと,「幕府を倒せ」というのは楽だと思うんですよ。関ヶ原からの積年の恨みもあるわけですしね。しかし幕府の中にいながら,二〇〇年も続いた鎖国という体制をみずから壊す改革を決断するのは,ものすごく勇気がいったと思います。その勇気が阿部正弘にはありました。(出口 p231)

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