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2018年1月19日金曜日

2018.01.19 藤原智美 『あなたがスマホを見ているとき スマホもあなたを見ている』

書名 あなたがスマホを見ているとき スマホもあなたを見ている
著者 藤原智美
発行所 プレジデント社
発行年月日 2017.12.18
価格(税別) 1,300円

● 著者が新聞に連載したエッセイを1冊にまとめたもの。その中の1つのエッセイのタイトルが「あなたがスマホを見ているとき スマホもあなたを見ている」。
 だから,本書全体がスマホを話材にしているわけではない。

● 以下にいくつか転載。
 情報断食中は,一日がこんなに長かったのかと驚くはずだ。私は3か月に1回ほど,3日の情報断食を続けているが,効果はというと,しだいにSNSから遠ざかり今ではまったくやらなくなったこと。ネット全体に費やす時間も以前よりだいぶ少なくなった。(p33)
 人を撮るという行為にはコミュニケーションが必要だ。すぐれた写真家はそれがうまかった。土門拳,木村伊兵衛,現役では荒木経惟。しかしネットの時代は,自己防衛として撮られる側の権利意識がどうしても強くなる。そうした「心のバリアー」は,見知らぬ人とのコミュニケーションを難しくする。こうなると,やがて他者への関心自体も薄れていくのかも。(p44)
 ある料理屋で板前さんが常連客とかわした言葉が耳に入った。「最近の店は白い無地の器ばかり使うから,盛りつけが雑になっている。彼らは色や絵のある器は,使いこなせないんじゃないか」(中略)なんでも無地で無難,というのではちょっと貧相ではないか。(p200)
 昔は「無地で無難」を最も上等なものとして推奨することが多かったような気がする。文士と呼ばれた人たちが男性の服装について語るときは,ストライプの難しさを指摘するのと,無地を勧めるのが定番になっていたような。このあたりも時代とともに移ろうんだな。

2016年11月6日日曜日

2016.11.06 藤原智美 『スマホ断食』

書名 スマホ断食
著者 藤原智美
発行所 潮出版社
発行年月日 2016.07.20
価格(税別) 1,200円

● 副題は「ネット時代に異議があります」。藤原さんの著書を読むのは,『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』に続いて2冊目。
 1冊目のときは,SNSに手を染めていなかったけれども,今はスマホでSNSをやるようになっている。

● 中身を見ていこう。
 ネット社会とは「個が個を意識できる」,言葉をかえれば「あなたがあなただけでいられる」時間を剥奪する社会です。(中略)自己の内面の深みに達するような思考が非常に難しい世界です。(p15)
 ネット以前は,今よりも自分だけでいられる時間を享受していただろうか。ぼく一個に関していうと,そうだとは言い難い。
 著作権とは,権利の保護だけでなく,その作品に対しての責任が明確にされるという意味もあるのです。しかしネット上に存在する情報の多くには実名がない。いったいどこの誰の発言なのか,誰がつくった画像や映像なのか実態がよく分からない。(p68)
 フェイスブックもいつまで実名主義でいるかわからない,とも指摘している。それはそうなのだろう。しかし,実名がないのはじつはマスメディアも同じなのではないか。
 個人の責任を明記しての意見表明は,雑誌と書籍に限られていた。そして,雑誌や書籍は今と同様に,昔もさほどに読まれるものではなかった。
 私たちは日常的にネット上でいろいろな情報を発信していますが,一つひとつは相手や仲間に知られても心配ないものです。しかしバラバラに点在するその情報が誰かによって収集され体系的に統合されたとき,そこから思わぬ秘密が露呈することもあります。(p164)
 手元のスマホはあなたの望み通りに働く従順な道具ではありません。スマホがあなたをプロファイリングによって評価し,いつのまにか操っているということもありえます。スマホの画面を覗いているあなたは同時に,知らない誰かによって覗かれているのです。(p170)
 たしかにそうだろう。しかし,だから何だというのかとも思う。ぼくなんかは自分のかなりの部分をネットに晒しているので,年齢,家族構成の変遷,居住形態(持ち家か貸家かなど)の変遷,興味のありか,性格,職業,食べものの好き嫌いなど,すべてが知られうる。おそらく,年収だってかなりの確度で推測可能だろう。
 しかし,そんなものを知ってどうするのか。知りたければ知るがいいが,知ったところで実益はあるまい。

 その前に,電話帳がネットに上がっていたりするわけだから,自分の住所や電話番号は知られているのだ。実名でネットに発言するということは,それに対して見も知らぬ人からの反発を電話で受けることもあり得るということだ。覚悟のうえだ。
 とはいっても,そんなことをされるようなことは言っていないと思うんだけどね。

 これってSNSやネットだけでなく,クレジットカードや各種ポイントカードからだって,覗かれていることに変わりはない。
 たとえば,ぼくの相方はJALカードをこよなく偏愛してて,スーパーでの買いものから病院の支払まで,すべてJALカードを使っている。マイルの魅力にはあらがえない。となれば,購買履歴も健康状態も,そのほぼすべてをカード会社に把握されていることになる。
 この情報は,おそらく売買の対象になっているに違いない。情報が社外に流出したと騒ぎになることが時にあるけれども,騒ぎにならない情報流出がないわけないだろ,と思う。
 SNSでは,他人に自分のメッセージが受け入れられるということが最も重要なことであり,そのためにはリツイートされたり,ネット上の仲間を介してさらに多くの人に広がるということが目標になります。だから,メッセージの内容はなるべく人目をひくようなもので,しかもとぎれることなく送りつづけなければならない。しかし毎日発信するメッセージなのだから,そんなに価値の高い,有益な内容をつくることは不可能です。勢い,中身は他愛ない,ばかげたものが多くなる。(p69)
 さらに問題なのは「いいね」クリックです。これをたくさんとるには,誰にも分かりやすい,そして平均的な価値観や感覚からはずれないメッセージでなければならない。ユニークで独創的な,あるいはクリティカル(批判的)な主張などは敬遠されます。(中略)このようにSNSを主戦場として言葉をくりだすうちに,他者の視線に合わせるように自分の思考そのものが,実に平均的で奥行きの欠けたつまらないものに変化していく。(p195)
 そのとおりかなぁ。特にフェイスブックにそれを感じる。大半は仲間内でどうでもいい情報のやり取りをしている。
 だいたい,ツイッターと違って140文字の制限を受けないのに,140字を超える投稿がほとんどない。ので,最近はフェイスブックからは足を洗いつつある。
 でも,ツイッターにはユニークや独創的やクリティカルも存在しているのじゃないか。大論はないけれども。
 書き言葉は少しずつ蓄積されていくのですが,ネット言葉は「流れ」のなかにあります。(中略)書き言葉が「私」の中に掘られた井戸に溜まっていくとすれば,ネット言葉は「皆」の間を川のように流れていく。SNSで発信した言葉は,一年もたてば記憶に残っていることはまずありません。(p199)
 たしかに。でも紙の日記帳に書いたことでも,1年もたてばたいてい忘れているだろうよ。

● その他にもいくつか転載。
 学校でも最近は個性という言葉が以前ほどきかれなくなった。代わりに,絆,つながりが重視されます。祭りにおける群衆,学校における集団,あらゆる場所で個から集団へのシフトが進んでいます。(p17)
 人は外部からの情報や刺激が減るほど,さまざまな考えが浮かび,それを消し去ることはなかなかできない。だからただ座ること,座禅が修行になるのです、(p25)
 ものいわぬモノもメッセージを発していて,常に人を新しい消費へと駆り立てます。よほどの片づけ魔でもないかぎり,その人の部屋には,衣服がうんざりするほどのメッセージがあふれているはずです。衣類を捨ててすっきりするというのは,このメッセージを切り捨てるということ。情報の整理整頓です。(p41)
 人間が処理できる情報には量的な限界があります。私たちが暮らしの中で受けとる情報量はその限界値をとっくに超えています。しかし情報をデジタル化すればとりあえずストックして目の前からモノを消すことができる。(中略)「ぼくらはスマホで何でもできる」(『ぼくたちに,もうモノは必要ない』) そう,実はミニマリストとはモノに占有された暮らしからの離脱者であり,スマホを信奉する情報主義者でもあるのです、(p44)
 ネットでは「ミスよりのろまのほうが悪」といわれます。多少の間違いより,ともかくすぐに発信することが正しい,という考え方です。(中略)しかし,私たちにとっての言葉というものは思考そのものです。(中略)スピードが最優先されるネットでは,熟考する,内省する,深く考えるという,言葉による人間的な営為がないがしろにされているのではないか。(p76)
 いくら記録しても自分の中に記憶されていない言葉は,物事を発想したり考えたりするときには役立ちません。それは「私は三〇〇〇冊の本を持っている。だから頭がいい」と威張っている愚かな人にたとえられるでしょう。(p183)
 SNSが「個」の発信ではなく,結果として「集団」への従属を促進する装置のように見えるからです。「私」を伝えているように見えながら,実は「皆」に溶けこむために発信されている言葉,それによって組み立てられるのが,SNS思考です。(p200)

2014年4月15日火曜日

2014.04.15 藤原智美 『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』

書名 ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ
著者 藤原智美
発行所 文藝春秋
発行年月日 2014.01.30
価格(税別) 1,100円

● 深刻な問題提起なのか,壮大な取り越し苦労なのか。
 政治も司法も教育も国家も,「書きことば」によって成立している。その「書きことば」が「ネットことば」に駆逐されようとしている。そのことの影響は甚大なものになるだろう。個人は個として中空に放りだされるかもしれないし,日本語が消滅することだって考えられる。
 著者の問題意識はそのようなものだ。
 インターネットで人は言語的な活動範囲を爆発的に拡大したといわれています。しかしその代償として,言語の自由が制限されはじめていて,思考が見えない壁でかこまれ,ひどく窮屈になっているのではないか。そう思えてしかたがないのです。(p22)
 人の認知力というのは案外あやふやで,ことばによっても変更されたり,創造されたりするものだということです。認知も思考も,ことばとひと続きにつながっている。(中略)ことばが変化すれば,認知の仕方や思考方法も変わってくる。(p28)
 日本語の土台の上に接ぎ木するようにして得た道具程度の英語力は,しょせんそれを母語とする人たちにはかなわない。英語という土俵に上がるまえに決着がついています。つまりその土俵とは思考そのものであり,日本語で考える人は圧倒的に不利なわけです。(中略) グローバルネットワーク拡大のもうひとつの側面は「英語」対「他の母語」という言語間の戦争なのです。それは静かに,しかし急速に進行しています。(p33)
 これまで社会は,書きことばを話しことばの上位に位置づけてきました。なぜなら書きことばは,印刷することで世の中に広範に伝播し,なおかつ時間をこえて未来に受け渡される記録性をもっていたからです。だからこそ社会は,書きことばの教育に力を入れてきた。しかし話しことばが,デジタル化しネットにのせることができるようになり,状況は一変しました。(p58)
● 印刷技術が歴史を作ったという視点から,西欧や日本の歴史を概観する。骨太で読みごたえがある。
 明治期に日本語をローマ字化してしまえとか,英語やフランス語を移植しろといった議論が真面目に検討された。そんなエピソードを紹介して,「言語を国家の政策として発言する文学者を,あまり信用しないほうがいいようです」(p136)という。
 坪内逍遙に始まる言文一致運動を生んだのも,近代国家建設に向かうエネルギー。

● 著者の結論は次のようなもの。 
 いま社会にあふれている「絆」「つながる」ということばに,ぼくは欺瞞の臭いを感じてしまいます。それは自己の思考力や自立をネット的な,あるいは情報的な場に回収する動きのようにも見えます。現代はむしろ他者との対話より,書きことばによる自己との対話こそがたいせつなのです。 書きことばとは突き詰めると,自己との対話であり,思考です。 他者との上っ面の会話や技術としてのコミュニケーション力で,自分を支えることはできません。(p227)
● 以下,いくつかを転載。
 現代人は読書から遠ざかり読む力が衰える傾向にあります。しかしそれを自覚しあらためようとするよりもむしろ,文書=書きことばがメッセージを伝えるものとしては不十分であり,信頼性にかけるものとみなすようになっています。(p53)
 文章では内容を評価しますが,プレゼンでは顔が見えるプレゼンターを聴衆が身近に感じるがゆえに,評価は話の内容よりもプレゼンター本人にむかいます。プレゼンの成功は話者そのものの評価になります。(p54)
 元旦に郵便ポストに届く年賀状は,そこに書かれている「明けましておめでとうございます」という紋切り型のメッセージよりも,元旦に届けられた郵便物であるということに大きな意味があります。一月一日に届いたハガキであるということで,メッセージも説明されつくしている。メディアがメッセージを規定している。つまりメディアはメッセージなのです。(p182)
 ネット社会ではだれもが「つながることができる」という幻想がふりまかれています。現在のコミュニケーション至上主義,対話絶対の人間論が,むしろ安易なネットのつながりに人を追いこむことになっているともいえます。(p213)
● 著者は,高校3年のとき,受験に備えて日本国憲法を暗記しようとした。ところがこれが難しい。「憲法作成当時の書きことばは戦前までの権威主義の衣を着たままでしたから,このような分かりにくいいいまわしを好んで使用しています。それは,現在でも官僚的な独特の表現形式として残っています」(p87)というわけだ。
 じつは,ぼくも中3のときに,日本国憲法の全文を暗記した。社会科の教科書の巻末に載っていたので,何気に読み始めて,よし憶えてやろう,と。
 前文を含めて,わりと楽に憶えることができたと記憶している。中3という年齢がよかったんだろう。「指示代名詞のオンパレードの文を」官僚的と感じるよりは,今まで見たことのない斬新な文章だと思っていたから。大人の世界を感じていたんだと思う。
 もっとも,「官僚的な」文章感覚をわざわざ自分に植えつけるような愚行だったかもしれないけれど。