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2017年10月6日金曜日

2017.10.06 内田 樹・釈徹宗 『聖地巡礼 コンティニュード』

書名 聖地巡礼 コンティニュード
著者 内田 樹・釈徹宗
発行所 東京書籍
発行年月日 2017.09.01
価格(税別) 1,800円

● シリーズ,4冊目。今回は対馬。副題は「対馬へ日本の源流を求めて!」。
 本書で蒙を啓かれたところは2つある。ひとつは,日本神話は対馬発祥であるらしいこと。古き日本が対馬には残っていること。
 もうひとつは,対馬に朝鮮半島から受けた文化的影響の痕跡は皆無であること。地理的に近いから影響を受けるという単純なことではないらしい。

● 案内役の永留史彦さんが主役。情報の提供役。著者二人はそれに乗って勝手に喋っているだけ。もっとも,それが編集方針かもしれない。

● 以下にいくつか転載。
 やっぱり旅の友は司馬遼太郎ですよ。『街道をゆく』です。頁折りすぎて,一体どこが大事なんだかわかんなくなっちゃいましたけど。(内田 p13)
 「じゃあ対馬では朝鮮の文化と日本の文化が融合しながら発達していったような形跡があるのか」と,よく聞かれるんですが,そういうものはほとんどありません。(中略)言葉なんかもですね,対馬の言葉,特に対馬の南端の豆酘という所には,対馬の中でもまたちょっと独特の方言が残っていたりします。(中略)対馬に残るそういう言葉は,中世以来の日本の古い言葉だということがわかりました。(中略)古い朝鮮語の影響というのはまったくない。(永留 p16)
 対州ソバは名物ですね。源流がわからないんですが,対馬では,縄文時代の貝塚から蕎麦の実が見つかっています。だから,それがそのまま続いていたとしたら,対馬の蕎麦はもっとも古代の蕎麦に近いんじゃないかと。(永留 p68)
 植生ですね,やっぱり,風土感というのは。(内田 p77)
 近代化があれほど早く可能になったのも,幕藩体制があったからだと思います。日本中に人材がいたわけだから。中央集権一極集中だったら,あんなことできませんよ。(内田 p93)
 体制が腐るときは頭から腐っていくわけだから,一極集中で頭が腐ったら手がつけられませんよ。(内田 p93)
 永留 南のほうも対馬海流は流れてはいるけど,幅が広い分,流れは穏やか,航海しやすいです。水道にホースをつないで,口を細くすると勢いが強くなる。あれと同じです。(中略) 内田 離れているほうが渡りやすくて,近いほうが渡りにくい。ここは流れが速いんですね。 釈 距離じゃないんだ。(p106)
 対馬に阿麻氐留(あまてる)神社というのがあります。この阿麻氐留神社というのも,天照大神を祀るようになって阿麻氐留神社になったんじゃなくて,その逆じゃないかというのが神話研究者の定説なんですね。(永留 p137)
 永留 海で生活する人たちにとってはね,遭難した人は助けるというのが,これがまず原則なんですね。 内田 そうか,海民の常識なんだ。海民というのはね,砂漠のノマドと同じだという話を,前にしていましたよね。(中略)砂漠でもね,荒野の彼方から到来して旅人は必ず幕屋を上げて歓待しなければならない。(p183)
 聖地は大体この世とあの世の境界線上にあるんです。海と陸の境界は「さき」と呼ばれるんだと中沢新一さんの『アースダイバー』に書いてありました。(中略)今は海岸線が遠ざかって,海なんか見えないような町中でも,古い岬の突端だった地には今も神社仏閣,病院,大学,墓場,そしてラブホテルがあるのです。(p241)
 釈 ここに来たら,日本神話をリアルに実感できますね。 内田 本で読むとリアリティーないけど,ここに来るとリアルですね。(p243)
 対馬を巡って,あらためて「日本の宗教は神道で,仏教は外来の宗教だ」などといった捉え方がいかに見識がせまいかっていうのがよくわかりました。神道もかなり外来ですから。(釈 p252)
 政治が絡むと聖地は力を失います。でも,延喜式から延々とやっているわけだよね。千年以上前から政治は宗教に介入している。(内田 p257)
 昔,天安門の前で行進するとき毛沢東がいたり朱徳がいたりして,後ろのほうにレーニンとかマルクスとかエンゲルスの写真も一緒に行進してたじゃないですか。あれは中国共産党の境内に,ご祭神としてマルクスやレーニンを勧請しているんですよ。(中略)毛沢東神社に合祀しちゃうの。毛沢東神社の神格を高めるために,いろいろと有名で霊験あらたかなご祭神を勧請してくる。(内田 p258)
 考えてみたら,パレスチナ地方の一民族の神話が,キリスト教の展開によって世界中で共有されることになったわけです。我々が日本人の神話として共有しているのも,いくつかある部族の一つの神話だったのでしょう。(釈 p263)
 全く国境を閉ざされてしまうと,ほんとうの日本の辺境になっちゃうんですよ。(中略)国境が開かれていると,外国への窓口になるんです。閉ざされると条件が一八〇度変わります。(永留 p274)
 「貧すれば鈍す」って,ほんとうに汎用性の高い教訓ですよ。経済的余裕がなくなると,人間は思考力が衰えるんです。(中略)「金がある人」というのは「金のことを考えない人」のことです。ですから,逆も同じで,実際はどれほど貧乏でも,「金のことを考えない人」は「金のある人」なんです。暇だから。(中略)自分は「貧乏だ」と思っている人は四六時中お金のことばかり考えて,お金さえあればすべてが解決するというシンプルな思考にはまり込んでしまう。(内田 p331)
 釈 何度も聖地巡礼をやっていて,体感的にわかったことなのですけど,「ある程度歩いて到達しないとダメ」な気がします。 内田 ダメです。いきなり,「はい,聖地に着きました」というのは。(p338)
 倍音声明で面白いのは,自分は声を出さないで,ただ他人の声を聴いているだけの人には,倍音がちゃんと聴こえてこないということです。超越的な音,誰のものでもないその音を聴き取るためには,自分のパーソナルな,自分に固有の声をその場に差し出さなければならない。(内田 p357)

2017年9月10日日曜日

2017.09.10 内田 樹・釈徹宗 『聖地巡礼 リターンズ』

書名 聖地巡礼 リターンズ
著者 内田 樹・釈徹宗
発行所 東京書籍
発行年月日 2016.12.01
価格(税別) 1,600円

● 聖地巡礼シリーズの3冊目。副題は「長崎,隠れキリシタンの里へ!」。案内役の下妻みどりさんが重要な役割を果たしていて,3人目の著者といっていいと思うんだけど,彼女は著者には入っていない。

● 話は八方に飛ぶ。それがこの聖地巡礼シリーズの面白さ。隠れキリシタンから日本の風土や鎖国の話に及ぶ。
 編集段階で整理はしているんだろうけども,整理しすぎないその按配がよろしいのだろう。

● 以下に,多すぎるかもしれない転載。
 キリスト教にしても,浄土真宗にしても,弱者の宗教という面があります。弱者が苦難の人生を生きるための手立て,それは「信じる」です。「信じる」という態度は,人間のあらゆる感情やパフォーマンスの中で最も強いものだと思います。(釈 p18)
 「日本の宗教土壌にはキリスト教のような一神教は合わない」とよく指摘されますよね。確かに反りが合わない面もあるのですが,日本においてもときどき一神教的な宗教が大きく展開するんです。たとえば,浄土真宗や日蓮宗などは一神教的な性格を持っている宗派です。(釈 p26)
 世界に誇れる日本の資源といったらそれですよ。霊的な資源というのは,土地に長い時間をかけて堆積してゆくものなんですから。その上に現代的なものが乗って押しつぶしているけれど,これをどうやって賦活させるのか,それが二一世紀の日本の課題だと思います。(内田 p61)
 自己利益とか党派性とかまったく無関係に純粋に論理的にある立場の瑕疵を吟味するというのは,ユダヤ教が源流でしょうね。ラビたちの聖句をめぐる論争というのは,「あなたがそう言うなら,私はそれと反対のことを言う」という知的な訓練ですからね。自分の個人的信条をいったん「棚に上げて」,ある主張の論理的瑕疵を徹底的に追求する。あれやると,頭よくなるんです。(内田 p65)
 来世に強烈なリアリティがないと態度をつらぬき通すことなどできなかったでしょう。純粋な信仰だけで殉教したのは,ローマと長崎だけだとも言われます。(釈 p79)
 日本は(太平洋戦争で)負けすぎたんです。もう少し負け方が穏やかだったら,臥薪嘗胆,「次は勝つ」という気持ちも持てたでしょうけれど,もうそんな言葉も出ないほどにボロボロに負けた。(内田 p87)
 コアに本来の濃厚な宗教性があって,周りにそれを守ろうという人たちがいて,さらにその周りには観光客がいる。だから強い聖地の周辺は俗化する。(釈 p96)
 もしかすると,キリスト教にはある「巨大な言い落とし」があって,それは「自分を愛する」とはどういうことかについて何も教えていないことじゃないかなと,あるときふっと思ったんですよ。(中略)東洋的な発想からすれば,「孝の始め」はまず自分の身体を大切にすることであって,自分の身体をできるだけ傷つけないように保持する。でも,身体保全の原理は,殉教と矛盾する。だから,身体髪膚を「与えられたもの」だとは考えないで,自分の所有物だと思う。(中略)身体軽視はユダヤ教からキリスト教が分離するときのたぶんいちばん大きな切断線じゃないかと思うんです。(中略)ユダヤ教では日々守るげき祭祀儀礼や食事や服装についても詳細な規定がある。自分の身体をていねいに扱って,栄養状態もよく管理して,身体を気分よく使える状態にしておかないと,こういう煩瑣で具体的な儀礼は守れない。でも,キリスト教の場合は,心の中にほんとうの信仰があれば,外形的な戒律や儀礼はどうでもいいとされる。(内田 p106)
 どういう理由か,行政が手がけるアートってことごとくダメですよね。道を綺麗に整備して,点々と置いたりするアートにしても,まともなものってないですから。(釈 p130)
 聖地の霊的な力は行政が介入すると必ず衰えますね。聖地の力と行政の介入は反比例する。(内田 p134)
 踏んじゃった自分に対する自己評価は激しく下がる。だから,自己評価を上げるためには,私は恥ずべき人間だという厳しい倫理的断罪を自分自身に突きつけるしかない。(中略)だから,踏み絵ってほんとうに残酷な刑罰だと思うんです。処罰するのが役人ではなく,自分自身なんですから。自分からは逃れようがない。(内田 p135)
 他と妥協しにくいタイプの宗教もけっこうあります。浄土真宗や日蓮宗などはその代表です。弱者の宗教はその傾向が強い。(釈 p160)
 オラショはたぶん瞑想の道具なんでしょうね。たぶん途中からトランス状態ですよ。(内田 p161)
 やはりどこか自然とシンクロしないと,宗教って明るさが出ませんよね。逆にいえば,内省型の宗教も自然とシンクロさえすれば開放的な部分が生まれる。(釈 p161)
 日本のクリスチャンって,どこかの段階で自己決定して洗礼を受けるわけじゃないですか。だから,どこか自分の信仰に不安がある。自己決定して選ぶことができた信仰なら,自己決定で捨てることもできるわけですから。でも,この土地の人たちにはそういう不安がない。(内田 p170)
 釈 成功者のうしろめたさというのは世界の各文化圏で見られるそうです。むしろプロテスタントのように,社会的成功こそが神の救いという考え方のほうがちょっと珍しいみたいです。そうすると,あらためてカトリックの共同体志向とプロテスタントの個人志向が確認されますね。 内田 だから,カトリックの方が海外布教がうまいし,その延長で植民地経営もうまい。アメリカのプロテスタンティズムは植民地経営向きじゃないですね。(p180)
 邪悪さというのは,どこからか「スケールの問題」になるんです。人間が制御できないものは人間世界に持ち込んではいけない。人間の物語に回収できないんですから。(内田 p201)
 個人的にどれほど苦しもうとも,殺した事実は変わらない,殺された人は生き返らない,だから無意味だというのは悪質なニヒリズムです。システムに対して我々が抗せるのは屈託とかやり切れなさとか,そういうどうしても片付かない気持ちなんです。片付かない気持ちってね,思っている以上に現実変成力があるんです。(内田 p203)
 もっとキリシタンの心性の解釈には多様性があっていいんだと思います。(遠藤周作の)『沈黙』という物語は力がありますから,ついそれに居着いてしまいますけれど,複数の物語が共生している方が土地にとっては風通しがよいんじゃないですか。(内田 p207)
 中国がそうでしたよね。イエズス会は明代に宮廷に入り込んで,多くの宮廷人を改宗させることに成功しました。特にヨーロッパの科学技術を持ち込んで,それによって知識人層の関心をつかんだことが大きかった。でも,後にやってきた修道会は,イエズス会に比べるとはるかに原理主義的で,祖霊崇拝の儀式をすべて否定した。(中略)それが皇帝の逆鱗に触れて以後キリスト教は禁教となります。(内田 p227)
 戦国時代まではじゃんじゃん山の木を伐採して,築城や製鉄に使っていた。特に製鉄は大量の木材を消費した。そのせいで,戦国末期には日本の山は次々と禿げ山になっていった。その森林の保護を徳川政権が行った。ジャレド・ダイアモンドの『文明崩壊』によると,人類史で,文明による自然破壊を政治権力が介入して停止させた事例は徳川時代の日本だけだそうです。(内田 p234)
 鎖国というのも,よくよく考えると実に大胆な政策難です。強制的に歴史の進歩を停止させようとしたんですから。経済を定常化し,社会のかたちも定常化しようとした。(中略)その方が人間は幸福だと考えたんでしょう。これは独特の統治理念の実践だったと思いますね。(中略)これは,かなり性根の据わった統治理論を持ってないと維持できないですよ。(p234)
 鎖国が完成したのは家光の時代か。そこまで考えて鎖国に踏み切ったんだろうか。むしろ何も考えてなかったのではないか。
 (戦国末期に)日本人は当初は外来の科学技術の導入に対して貪欲でしたけれども,どこかの段階でブレーキがかかった。僕はどうしてブレーキがかかったのか,それが気になるんです。(中略)信長や秀吉の時代の日本の統治者たちは,海外についてもかなり信頼性の高い情報を有していたはずだからです。(中略)東アジアに限って言えば,当時の日本の政権の方が,マドリッドの政府よりも,情報収集力も分析力も圧倒的に高かったはずですよ。(内田 p240)
 イエズス会士たちが個人的には島原の乱に対して同情的だったのは当然ですけれど,修道会として他国の内戦にコミットするということはしないでしょう。でも,そういう「陰謀集団がすべてを陰で操っていた」という話は歴史解釈において知的負荷を劇的に軽減してくれるので,あまり深くものを考える習慣のない人は飛びついちゃうんです。(内田 p242)
 僕は告白については,やや懐疑的なんです。告白するとき,当人は自分をふたつに分裂しているわけですよね。罪や弱さを暴露される自分と,それを容赦なく暴露する自分。そうやって人格を便宜的に二分割する。いわば成熟した自分と未熟な自分に分けてしまう。そして,成熟した自分が仮借なく未熟な自分を分析し,切り刻んでいく。それってうまくゆきすぎて,結果的にあまり人間を成熟させない気がする。成熟って,自分の未熟さを受け入れるってことだと思うんです。(内田 p256)
 儀礼は心身の負担を軽減するために装置なんですよ。儀礼なしで,自分の信仰は果たして真実のものであろうか,それとも表層的な欺瞞的なものに過ぎないのか・・・・・・なんて頭抱えだしたら,身体が持たないですよ。(内田 p260)
 内田 この「負けしろ」の大きさが,僕は日本の最大の国民資産だと思います。「落人部落」とか「隠れキリシタン」というのは,すぐれて日本的な存在なんだと思いますけれど,それを可能にしたのは,この奥深い谷なんです。 釈 なるほど,負けても生きていける,そういう地形なんですね。(p264)
 宗教って,ある種のひとつの「病み方」なんですよね。健全な人ってこの世に一人もいないですから。程度の差はあれ,みんな心を病んでいる。そして,人間の持つ本質的な弱さは必ず「物語」を求める。宇宙を統べるひとつの統一的な摂理があって,自分の個人的な祈りが,そこに伝わると,宇宙の風景に,自分の祈りによってわずかではあれ変化がもたらされる。(中略)どこかで類的な宿命に繋がっていたい。有限的な存在が,無限の境地と,ある超越性の回路を経由して繋がることを夢見る。そういう物語を人間はどうしても必要としているんだと思います。(内田 p284)
 宗教的迫害の対象になることは,強烈な選民意識を刺激するはずです。ネガティブではあるけれど,劇的な高揚感があるはずで。(内田 p286)
 神に至る道には神なき宿駅があるというのがユダヤ教以来の一神教の基本です。神が今まさにここに顕現して来ない,神が今ここでは不在であるという事実そのものが,神の不在に耐えても信仰を維持できるような宗教的成熟を促す,という。(内田 p287)
 地下に潜伏というのをネガティブに考えがちですけど,地下に潜伏ってけっこうワクワクする経験のような気がするんです。(内田 p287)
 国民国家というのは一個の幻想であり,イデオロギーです。(中略)かつてはそうではなかったし,いずれそうではなくなる。そういう期間限定の歴史的構成物です。でも,「国民国家の時代」においては,その事実はなかなか可視化されません。(内田 p293)

2016年10月11日火曜日

2016.10.10 内田 樹 『内田樹の生存戦略』

書名 内田樹の生存戦略
著者 内田 樹
発行所 自由国民社
発行年月日 2016.06.10
価格(税別) 1,500円

● 世の中には頭のいい人がいるものだと驚かされることがある。リアルの世界でもたまにあるけれど,本を通じてそれを知らされることの方がずっと多い。
 内田樹さんもそのひとり。

● この人の特徴は,何ものかに対する反骨を底に抱え持っていること。その何ものかとは,自民党であったり,経済界であったり,世間の良識であったり,マスコミの体質であったりするようなのだが,それそのものというより,それらに顕現しているところの大元になっているものに対してのように思われる。
 しかし,その大元は何かと言われても,ぼくにはわからない。

● ただし,政治状況や国際情勢についての内田さんの分析は,面白いのだけれども,同時につまらない。
 なぜつまらないのかというと,豹変しないからだ。主張が一貫している。ぶれないのはけっこうなことじゃないかと言われるか。
 ぶれないのは現実から出発していないからだ。現実は始終,大きくぶれているものではないか。

● 自分の中の価値観から演繹して結論を出しているようなのだ。価値観というより,思考の型のようなものか。それゆえぶれないのだが,ここは“君子は豹変す”であるべきではないか。
 故井上ひさし氏を思いだした。大変な読書家で博覧強記,あれだけの業績を残した作家なのに,政治的提言はかなりお粗末だったような。非自民,親社会(党)的な。この落差はどこから来るのかと思ったものだったが。

● とはいえ。本書はとても面白かった。以下に多すぎる転載。
 あらゆる欠点はその人の個性の根幹の部分とつながっています。そこからしか際立った長所も出てこない。欠点と長所は完全に裏腹です。欠点だけ補正して、長所だけ伸ばすということはできません。そこが「クッションの結び目」なんですから。だから,そこをピンポイントで,「いいね」とほめる。そこから能力が開花してくる。(p9)
 読んでいる人の生きる力を賦活するような。そういう力のあるものを本来は「批評的」と呼ぶべきだと僕は思いますが,どこからかとにかく毒舌辛口嫌味のことと混同されてきた。(中略)そこから何か生産的な,知的な対話が立ち上がるということがまったくなくなってしまった。(p12)
 世の中には「受ける才能」ってあるでしょう。山下洋輔タイプの。誰がどんな話をしても,その中の最高におかしいところをピンポイントして大笑いしてくれる才能。(中略)そういう人がみごとに地をはらってしまった。受信感度のいい知性がなくなって,「オレが,オレが」の発信型知性ばかりになった。(p14)
 正義がたいせつなのは,社会的なフェアネスが担保されている方が,そうじゃない社会よりも,みんな陽気になれて,わいわい騒げるからですよ。正義の執行のせいで,みんなが気鬱になって,新しいことを始める気概も失せて・・・・・・ということになるなら,正義なんかない方がましです。(p16)
 「どうすればいいんですか?」という問いはイノベーターが口にする言葉ではありません。「どうすればいいんですか?」という問いは「標準的なふるまいはどうなんですか?」ということです。(中略)「みんなができること」を私もできるようになりたいというような仕方で自分の能力開発を構想している人は(中略),たぶんたいした仕事はできないと思います。(p19)
 基本的に他人が大事にしているものについてはそれなりの敬意を示すとうのは「礼儀」の基本です。(p29)
 国家だって一種の「ヴィークル」なんだと僕は思っています。ヴィークルである以上,どういうふうに手当てしたら,そのパフォーマンスが最大化するかを考える。(中略)車に敬礼しないヤツ,車を讃える歌を歌わないヤツを処罰すれば車の性能が上がると思っている人間がいたら,そいつはかなり知性に問題があると僕は思いますよ。(p36)
 ものを学ぶときは,学び始める前にあまり予備知識を持たない方がよい。これは僕の経験的確信です。というのは,「その有用性や価値をわかっていること」を習得しようとすると,人間は費用対効果のよい方法を探すからです。(中略)どんなことでもそうですけれど,「最小の努力」が何か豊かなものをもたらすということはありません。絶対。(p41)
 これまでのご相談では「効率ばかり考えるのはよろしくない」という回答を続けておりますけれど,それは「効率ばかり考えていると効率が悪い」からです。(中略)僕が言いたいのは,世の「合理主義者」や「効率主義者」はとてもじゃないけど,そのような呼称にふさわしい人たちじゃないということです(あと「現実主義者」もね)。(p49)
 勘違いしている人が多いけれど,「優勝劣敗・弱肉強食」というのは「豊かな」社会に特有の現象なんです。ゲームに負けても死にはしない,金をなくすだけだと思っているから人は競争に夢中になれる。「ゲームに負けた人間は死ぬ」というようなシビアなルールなら,そんなに気楽に「勝ち組負け組」とか言ってられません。(p78)
 自分の決意によってものごとが動かせる範囲を「世の中」,その外側は「世の外」だと考えましょう。そして,「世の中」をだんだん広げていく手立てを考える。(中略)「自分ひとりではどうにもできないこと」を「どうしたらいいんだ」と悩んでも,まるで時間の無駄ですよ。(p97)
 処罰で脅すというのは,はっきりした到達目標とタイムリミットがある場合に限られます。(p108)
 スポーツ指導者が暴力の行使を正当化するときの理由づけはだいたい同じです。それは「これほどの資質に恵まれていながら,努力を怠ることが許せない。もともと才能がないなら,叱りはしない」というものです。この主張の前提にあるのは,身体能力は人によって生得的な差があるが,努力する能力には個人差がないという信憑です。(中略)でも,実際にはその前提が間違っている。自分の限界を突破したいという「努力するモチベーション」が起動する仕方は,人によってまったく違うからです。(p109)
 少年野球で連投して、そのとき肩を壊してそのあと野球ができなくなった人とか,柔道の部活で膝を傷めて,それから足を引きずっている人とか,ときどき見かけます。彼らは一生丁寧に使い延ばして使わなければならない身体資源を「先食い」してしまったわけです。(p111)
 人の善良さを引き出すか,邪悪さを引き出すかは,多分にこちらの態度で決まるんです。(p116)
 邪悪な人間だってのべつ邪悪なわけじゃないんです。邪悪になれる相手を選んでいる。(中略)邪悪な人間が狙うのは,閉じている人間です。(中略)パブリックなネットワークに参加していない人,親身になってくれる友人がいない人。そういう人の弱さにつけ込むんです。(p117)
 借りた相手だってわかっているわけだから。「こいつ,金がないくせに,かっこだけつけるヤツだから」って。向こうに見切られているわけですよ。そんなのにお金貸しちゃったわけですから。返るわけないじゃないですか。(P124)
 結婚の基本目標は「生き延びるチャンスを高めること」です。だから,配偶者を探すときの基準は,「夢中になるほど好きになる」とかではないんです。(p128)
 どんな相手と結婚しても「そこそこ」幸福になれる能力というのは人間の成熟度を考量するたいせつな指標です。(p129)
 賭場では玄人が勝つに決まっているんです。バブルのときに素人が丸裸に剥かれたのをみんな忘れちゃったんですか? 最初のうちは「電話1本で月給分稼いじゃったよ」と高笑いしていた人が,バブルが終わったときは稼いだ分も元金もきれいになくして呆然としていたじゃないですか。(p139)
 これに対しては異議あり。株式市場のことを言っていると思われるんだけど,株の玄人って何だ? そんな人がいるのか。証券会社が抱えているトレーダーのことか。あいつらはすべて玄人なのか。
 バブルが終焉したときに,声をあげたのは(したがって,マスコミが取りあげたのは)損した連中ばかりだった。が,高笑いのまま終えた人もたくさんいたと思うぞ。そういう人は黙っていただけだ。だから表には出てこなかっただけのこと。
 今以上に活動的になれというようなアドバイスは鬱患者に対してありえません。とにかく休ませてあげること。(p147)
 恒常的に嘘をついていると創造性が損なわれる。創造性って,自分の中にふっと湧き上がる微細なシグナルにかたちを与えることですけれど,不倫をしている人って,(中略)特に楽しいことなんかありませんという演技をしていないといけない。だから,自分の中の感情の動きに対して抑制的になる。(p151)
 結婚に必要なのは,勇気じゃなくて,心の弱りです。(p158)
 会社を大きくする人って,基本的に非人情なんですよ。人間同士の細かな軋轢とか,すれ違いとかが気にならないんです。(p169)
 未然に災厄を防いで「歌われざる英雄」になるよりは,災厄が起こるまで待って,衆人環視の下で問題をてきぱきと処理して,拍手喝采される方が得じゃないかと,ほとんどの人が考えている。成果主義とか,評価とかいうのはそういうことですよ。(中略)そのせいで,社会の安全のためのコストがどんどん高騰していて,みんな損をしているのに,それには気づかない。トラブルを未然に防ぐ方が社会的コストは圧倒的に安い。(p213)
 だいたい独立志向の強い人は,身の振り方について他人に訊いたりしません。組織にいると,息が詰まって死にそうだ,という人たちがせっぱつまって独立するわけであって,このままいようか,独立しようか「迷う」ことができるというのは,そもそも独立向きじゃないんです。(p215)
 近代戦では,損耗率30%で「組織的戦闘不能」とみなされます。(中略)損耗率100%まで戦い続けるどころか死んで幽霊になっても戦い続けるというようなことを言って日本は戦争をしたので,歴史上類を見ない負け方をした。(p223)
 世の中には,呼吸をするように嘘をつく人がいます。でも,不思議なもので病的な嘘つきは大きな被害が出るような嘘はつかないものです。(p232)
 僕は移民の拡大には反対です。移民対策で成功した国は一つもないからです。あえて成功と言えば,アメリカだけです。(中略)でも,あの国の場合は,移民が先住民を殺して「移民が主人」の国にしたことで成功したわけですから,アメリカの先例に倣うつもりなら,移民を入れて代わりに日本人が列島から出ていくしかない。それなら成功するかもしれない。(p252)
 移民の社会的統合とは,彼らを「日本人みたいに」改造することではありません。日本社会の方を改造して,彼らが「ここは自分のホームグラウンドだ」と実感できるようにすることです。その覚悟が日本人にあるのか。僕はないと思います。(p253)
 文化交流は「相互の敬意」がベースですが,経済的な移民受け入れは移民たちをただの「金」としか見ていない。そのような敬意のない関係の上に始まる関係は必ず不幸な帰結をもたらします。(p256)
 貴族というのは,乱暴な定義をしてしまえば,中央から指示がなくても,自己判断で戦争ができるようなメンタリティのことです。(中略)何が国益であるかを教えてもらわなくてもわかる。そこまで深く「公」を内面化できている。(p273)
 究極の医療は不老不死です。(中略)生きながらえるためになら超富裕層はいくらでも金を出す。だから,世界中の優秀な医療人が再生医療に集まってくるのは当たり前のことなんです。(中略)長生きできるのは一握りの人たちだけでいい。あとはさくさく死んでもらわないと食料も水もエネルギーも年金システムも保険制度も実はもたない。だから市場に委ねておけば,これからは超富裕層に医療資源が集中すると僕は思っています。(p282)
 ヨーロッパの場合,税率の高い国はだいたい高福祉高負担の仕組みになっていますが,それが可能なのは国のサイズが小さいからなんですよ。(中略)自分たちの払った税金がどこでどう使われているか自分の目で点検できる。(p287)
 中国人にとって過去100年をさかのぼっても国民統合の成功体験は抗日戦しかありません。だから,国民を統合する求心力の強い「物語」が必要になると,彼らはそのつど日本軍国主義に対する中国人民の勝利の物語を呼び出すことになる。(p305)
 人間というのは「あとどれくらいで死ぬか」という消失点を基準にして次の行動を選択するわけですから。昔の45歳は「死ぬまで5年」のつもりで生きていたけど,今の45歳は「死ぬまで35年」のつもりで生きている。これからまだまだいくらでも迷ったり,バカやったりしても,人生のやり直しがきくと思っているわけですから,老成の仕方が違う。(p312)
 グローバル経済というのはそういう仕組みなんです。犠牲を負担するのは国民国家だけれど,利益を得るのはクロスボーダーで無国籍の富裕層。(p330)
 敗戦国は敗戦の経験の総括にみんな失敗します。同じように,一度でも植民地であったことのある国は植民地支配の歴史の総括に失敗する。正確に記述しようと思ったら,植民地支配に協力した同胞をひとり残らず洗い出して,断罪しなければならない。でも,そんなことはできるはずがない。「その話はなかったこと」にするしかない。(p339)
 市場にすべてを委ねていれば,所得の不均衡が生じるのは当たり前です。市場ではポジティブ・フィードバックがかかりますから,勝つものが勝ち続け,負けるものは負け続ける。(p342)
 なぜかある種の「ダメな政府事業」(たとえば,高速増殖炉もんじゅ)については市場原理を適用して淘汰に委ねないで,温情を以て存命させている。政府が温存しているその種の「勝てないセクター」に税金がブラックホールのように吸い込まれている。そのせいで,貧困層への分配の原資が失われている。(p344)
 人間というのは弱くて,脆くて,壊れやすくて,傷つきやすい生き物だから公的な機関はそれを守ることが最優先の仕事なのだという覚悟がぜんぜん感じられない。むしろ社会を強者を標準にして設計しようとしている。(中略)そういうふうに「強者に手厚く,弱者に冷たい」社会をつくれば,みんな競って努力して,自分の能力を高めて,社会全体が活性化すると彼らはたぶん本気で信じているんでしょう。(p348)

2015年9月30日水曜日

2015.09.28 内田 樹 『下流志向』

書名 下流志向
著者 内田 樹
発行所 講談社文庫
発行年月日 2009.07.15(単行本:2007.01)
価格(税別) 524円

● 「学ばない子どもたち 働かない若者たち」が副題。
 なぜそうなったか。それは子どもたちや若者たちが怠惰だからではなく,むしろ勤勉だからである。愚かであり続けることを全力で維持しようとしているのだ。
 なぜか。そうするように社会から強制されているからである。
 概ね,そのような内容。

● 彼らは社会との関わりを消費者として始めることを強いられている。どういうことか。
 今の子どもたちと,今から三十年ぐらい前の子どもたちの間のいちばん大きな違いは何かというと,それは社会関係に入っていくときに,労働から入ったか,消費から入ったかの違いだと思います。(中略) 社会的能力のない幼児が,成長していく過程で,社会的な承認を獲得するために何をしたかというと,まず家事労働をしたわけです。(中略)親からすれば自分たちの分担すべき家事労働がわずかなりとも軽減するわけですから,当然「ありがとう」とか,「よくやったね」とかほめてくれる。子どもはそれがうれしいし,誇らしい。(中略) ところが,今はそうではない。今の子どもたちは,労働主体というかたちで社会的な承認を得て,自らを立ち上げるということができない。そういう機会をほとんど構造的に奪われている。(p45)
 むしろ,今の子どもに求められているのは,「何もしないこと」です。 子どもが動き回ること自体が家庭内の秩序を乱す壊乱的なファクターであるのですから,できればじっとしていて,割り当てられた空間内で静止していることが子どもの果たしうる最良の貢献である。そういうふうになっている家庭がたいへんに多いと思うのです。「いいから,あなたは何もしないでちょうだい!」という母親たちの怒声を僕たちはずいぶん聞き慣れています(p48)
 消費することから社会的活動をスタートさせた子どもはその人生のごく初期に「金の全能性」の経験を持ってしまう。そのスタートラインにおける刷り込みの重みは想像される以上に大きいと僕は思います。それは単なる拝金主義的傾向が刻印されてしまうということとは違います。そうではなくて,消費主体として立ち現れる限り,買う主体の属人的性質については誰からも問われないということです。 問題は金の多寡ではないのです。「買い手」という立場を先取することなのです。(p51)
 さらに危機的なのは,子どもの目から見て,学校が提供する「教育サービス」のうち,その意味や有用性が理解できる商品がほとんどないということです。(中略)教育の逆説は,教育から受益する人間は,自分がどのような利益を得ているのかと,教育がある程度進行するまで,場合によっては教育課程が終了するまで,言うことができないということにあります。(p54)
 五十分間の授業を黙って耐えて聴くという作業は子どもたちにとっては「苦役」です。彼らはその苦役がもたらす「不快」を「貨幣」に読み換えて,教師が提供する教育サービスと等価交換しようとする。学校において,子どもたちが交換の場に差し出すことのできる貨幣はそれしかないからです。(p57)
 公立の中高の生徒たちに授業に対する「興味がない」という意思表示の激しさにいつも驚かされます。(中略)これ以上だらけた姿勢を取ることは人間工学的に不可能ではないかと思われるほどだらけた姿勢で立ち上がり,いやいや礼をし,のろのろ着席する。僕はこの精密な身体技法にほとんど感動してしまいました。「きちんとした動作をしたせいで,うっかり教師に敬意を示していると誤解される余地がないように」この生徒たちは全力を尽くしている。(p60)
 今の子どもたちが最初に社会関係に登場するときに,労働主体としてではなく消費主体としてであること。それは(当然ながら)彼らの責任ではなく,そういう社会になっていること。ここを指摘したのは著者が初めてではないか。

● この問題をさらに深刻にしているのは,消費主体にとって,自分の知らないことは存在しないことになるということ。
 学力低下の危機的な要素の一つは(中略)子どもたちが,自分たちには学力がないとか,論理的思考ができないといったことを,多少は自覚していても,そのことを不快には思っていないという点にあります。 どうしてそういうことができるのか,僕にはよくわからなかったのです。でも,これを説明できるロジックというのは,よく考えると一つしかない。 それは,彼らは「自分の知らないこと」は「存在しない」ことにしているということです。(p32)
 消費主体にとって,「自分にその用途や有用性が理解できない商品」というのは存在しないのです。そのようなものはそもそも商品としては認識されない。(p52)
● そうした消費=市場原理の特徴は無時間モデルであること。しかし,学びは時間性を本質とするものだから,教育に市場原理を持ち込むことはそもそもできない。
 学びは市場原理によっては基礎づけることができない。これが教育について考えるときの基本です。この基本原則を見逃してしまうと,あとはどのような精緻な教育モデルとつくってみても,どのように斬新な教育方法を考案しても,無駄なことです。(p70)
 母語の習得は最も原型的な学びです。他のすべての学びは,この経験を原型として構築されます。そう断言してよいと思います。 母語の習得を,私たちは母語をまだ知らない段階から開始します。(中略)母語の学習を始めたときは,これから何を学ぶかということを知らなかった。これがたいせつなところです。(中略) つまり,起源的な意味での学びというのは,自分が何を学んでいるのかを知らず、それが何の価値や意味や有用性をもつものであるかも言えないということろから始まるものなのです。というよりもむしろ,自分が何を学んでいるのか知らず,その価値や意味や有用性を言えないという当の事実こそが学びを動機づけているのです。(p74)
 まず,学びがあり,その運動に巻き込まれているうちに,「学びの運動に巻き込まれつつあるものとしての主体」という仕方で事後的に学びの主体は成立してくる。私たちは自らの意思で,自己決定によって学びのうちに進むわけではありません。私たちはそのつどすでに学びに対して遅れています。私たちは「すでに学び始めている」という微妙なタイムラグを感じることなしに,学び始めることができないのです。(p76)
 教育を「苦役と成果」「貨幣と商品」「投資と回収」というビジネス・モデルで考想する限り,それは必ず無時間モデルで下絵を描かれることになります。なぜなら,消費主体は時間の中で変化しない,というより変化してはならないからです。手持ちの貨幣のいくぶんかを投じ,それと等価の商品を手に入れるという交換を繰り返している限り,手持ちの資産は形態は変化するけれど総額は変化しない。それが等価交換プロセスを生きる主体の宿命です。変化することを禁じられているというのが消費主体の宿命なのです。(p182)
● それはまた,子どもたち自身にも過酷な結果をもたらすと著者は言う。
 子どもがまず学ぶべきことは「変化する仕方」です。学びのプロセスで開発すべきことは何よりもまず「外界の変化に即応して自らを変えられる能力」です。「学び」の人類学的意味はそれに尽きます。「学び」は人類と同じだけ古い。それに比べれば,市場経済や等価交換の原理が人間世界に入ってきたのは,ぼく最近のことにすぎません。ですから,市場原理を掲げて学校教育に立ち向かう子どもたちは,いわば,人類学的な進化圧に抗して戦っていることになります。(p82)
 おのれの幼児的欲望を抱え込んで,決して成長変化することのない消費主体のままでいること。市場原理は子どもたちにそうであることを要請します。(p82)
 知性とは,詮ずるところ,自分自身を時間の流れの中に置いて,自分自身の変化を勘定に入れることです。 ですから,それを逆にすると,「無知」の定義も得られます。 無知とは時間の中で自分自身もまた変化するということを勘定に入れることができない思考のことです。(p182)
● 市場原理を支えるイデオロギーは「自己決定・自己責任論」である。しかし,これは官が奨励したもので,かつて流行った(今も流行っているのか)いわゆる「自分探し」も同様である。
 「自分はほんとうはなにものなのか?」「自分はほんとうはなにをしたいのか?」 ちょっと申し上げにくいのですが,このような問いを軽々に口にする人間が人格的に成長する可能性はあまり高くありません。(中略) もし,自分がなにものであるかほんとうに知りたいと思ったら,自分のことをよく知っている人たち(例えば両親とか)にロング・インタビューしてみる方がずっと有用な情報が手に入るんじゃないでしょうか? 外国の,まったく文化的バックグラウンドの違うところで,言葉もうまく通じない相手とコミュニケーションして,その結果自分がなにものであるかがよくわかるということを僕は信じません。(p83)
 この「自分探しの旅」のほんとうの目的は「出会う」ことにはなく,むしろ私についてのこれまでの外部評価をリセットすることにあるのではないかと思います。(中略) 「自分探し」というのは,自己評価と外部評価のあいだにのりこえがたい「ずれ」がある人に固有の出来事だと言うことができます。(p84)
 「何の役に立つのか?」という問いを立てる人は,ことの有用無用についてのそのひと自身の価値観の正しさをすでに自明の前提にしています。(中略)では,「私」が採用している有用性の判定の正しさは誰が担保してくれるのでしょうか? (中略)この個人的な判定の正しさには実は「連帯保証人」がいるのです。「未来の私」です。 「私」に自己決定権があるのは,自己決定した結果どのような不利なことが我が身にふりかかっても,その責任は自己責任として,自分が引き受けると「私」が宣言しているからです。 これが「何の役に立つのか?」という功利的問いを下支えしているのは「自己決定・自己責任論」です。これもまた「自分探しイデオロギー」と同時期に,官民一体となって言い出されたものでした。そして,それが捨て値で未来を売り払う子どもたちを大量に生み出しているのです。(p90)
● さらに。「自己決定・自己責任」は自分でリスクを取るということだけれども,そのリスクは誰にでも遍在的に存在しているものではない。弱者ほどリスクが大きくなる構造がある。
 リスク社会では必ず二極化が進行します。それは,努力におけるごくわずかな入力差が成果において巨大な出力差として結果することがある,ということです。 しかし,リスク社会のほんとうの問題はその次にあります。それは,「このリスク社会をどうやって生き延びるか」という生存戦略の選択において,さらに二極化が進行するということです。 もっとも典型的なのは学校システムにおけるふるまいです。(中略)パイプラインに亀裂が入っているときに,それでもなお学習努力を続けられる子どもと,学習努力を放棄してしまう子どもの間にはあきらかな学力差がつきます。そして,リスク社会では入力におけるわずかな差が,巨大な出力差として現れる可能性が高い。(p96)
 一般的印象としても,社会上層の家庭の子どもたちは下層家庭の子どもたちよりも学力が高いように思われる。(中略) 上層家庭の子どもは「勉強して高い学歴を得た場合には,そうでない場合よりも多くの利益が回収できる」ということを信じていられるが,下層家庭の子どもは学歴の効用をもう信じることができなくなっているということです。ここにあるのは「学力の差」ではなく,「学力についての信憑の差」です。「努力の差」ではなく,「努力についての動機づけの差」です。(p97)
 リスク社会におけるリスクはすべての社会成員に均等に分配されているわけではなく,階層ごとにリスクの濃淡があるのです。そして,自分たちが生きているのは努力と成果が相関しないリスク社会であるということを認め、それゆえ「努力してもしかたがない」という結論を出しているのは,いちばん多くのリスクをかぶっている階層なのです。(中略) まことに奇妙な話なのですが,リスク社会とは,そこがリスク社会であると認める人々だけがリスクを引き受け、あたかもそれがリスク社会ではないかのようにふるまう人々は巧みにリスクをヘッジすることができる社会なのです。(p98)
 失業するのも,ホームレスになるのも,病気になるのも,すべてはそのようなリスクのある生き方を選んでしまった自分自身の責任であるという言い方には,リスクというのは個人的なものだということを前提にしています。 しかし,この言明は論理的にはすでに破綻しています。だって,リスクヘッジというのは一人ではできないことだからです。(中略) リスクをヘッジするためには,少なくとも二人が必要です。Aを選択した人間とBを選択した人間がいて,どちらに転んでも,利益と損失を均等にシェアするという約束が成立している場合にしかリスクはヘッジできない。(p116)
 リスク社会を生き延びることができるのは「生き残ることを集団的目的に掲げる,相互扶助的な集団に属する人々」だけです。ですから,「リスク社会を生きる」というのは,巷間言われているように,「自己決定し,その結果については一人で責任を取る」ということを原理として生きることではまったくないのです。「自己決定し,その結果については一人で責任を取る」というのはリスク社会が弱者に強要する生き方(というよりは死に方)なのです。(p120)
 「迷惑をかけ,かけられる」ような双務的な関係でなければ,相互支援・相互扶助のネットワークとしては機能しません。「誰にも迷惑をかけてないんだから,ほっといてくれよ」というのは若い日本人の常套句です。たしかに,その人は,誰にも迷惑をかけていないのでしょうが,それは他人に迷惑をかけたくないからそうしているのではなく,他人に迷惑をかけられたくないからそうしているのです。自己決定について他人に関与されるのがわずらわしいので,「あなたの生き方にも関与しない」と宣言しているのです。こう宣言することによって,人々は戻り道のない社会的降下のプロセスを歩み始めます。(p126)
 現在の教育の問題は,単に子どもたちの学力が低下しているからということではありません。それが子どもたちの怠惰の帰結であるのではなく,努力の成果である,ということです。(中略) それは「自分のことは自分で決める」という自己決定権に対する固執です。自己決定したことであれば,それが結果的に自分に不利益をもたらす決定であっても構わない。(中略) つねに正しい選択肢を選ぶことができるから自己決定が推奨されるのではない。「私は私の運命の支配者である」という自尊感情のもたらす高揚感が,間違った選択肢のもたらす心身のダメージをカバーできる限り,自己決定は有用である。 だから,「自己決定することはいついかなる場合でもよいことである」という信憑が社会全体に根づいている社会では,自己決定は多くのプラスをもたらす可能性が高い。でも,そうでない社会ではそうではない。そして,日本はそういう社会ではない。(p137)
 選択を強制されていながら,選択したことの責任は自分でかぶることを強いられている。これはどう考えても不条理です。でも,子どもたちはそのことを特に不条理だとも思っていない。(中略)不条理が現実のものであり,ある程度以上の人間によって引き受けられていると,それはもう不条理のようには見えない。(p144)
 日本では,社会的弱者が進んで差別的な社会構造の強化に加担するという仕方で階層化が進んでいる。弱者が自分自身の社会的立場をより脆弱なものとするために積極的に活動している。(p146)
 「未婚化・非婚化」といわれていますけれど,現実には高学歴で高収入の人たちの方が結婚率は高いのです。収入と学歴が下がるにつれて,離婚率,未婚率が上がる。つまり,社会的弱者たちほど支援者が持てないようなシステムになっている。(中略)弱者が弱者であるのは孤立しているからなんです。自己決定・自己責任とか,「自分探しの旅」とかいうイデオロギーに乗せられて,セーフティネットの解体に同意し,自分のリスクを増大させていることに気づいていない。(p238)
● 子どもたちにとっては自分が属する階層がすなわち世界であって,その世界に過剰適応してしまいがちだ。その結果,階層が固定化が促進されることになる。著者は「文化資本」を例にとって説明する。
 子どもたちが「自信を持つ」のは,彼が属する社会集団のおいて支配的な価値観に合致する場合だけです。(中略)「自信を持ちたがる」子どもは自分の属する集団のイデオロギーに過剰反応してしまう可能性があります。(中略) 例えば日本でも,社会上層では「文化資本(いわゆる教養)には差別化機能がある」と信じられていますから,子どもたちは進んで文化資本を身につけようとします。逆に,社会下層では「文化資本には差別化機能がない」という考え方の方が受け容れられやすいので,子どもたちはむしろ積極的に文化資本を拒否するふるまいによって同集団の大人たちからの評価を期待します。(p134)
 階層化がいちばん進んでるのは,(中略)実は文化資本においてなんです。(中略)フランスは階層社会ですから,所属階層が違うと生きる世界が違う。(中略)文化資本は所属階層を表示する「名刺代わり」です。だから,その取り扱いにはみんな非常に慎重です。階層の下の人間がヴィトンとかエルメスを身につけたり,高級レストランで食事をすることは,「ルール違反」というか,ほとんど「経歴詐称」のようなものですから,階層社会では禁忌とされる。 でも,日本は久しくそういうことはなかったわけです。「あいつは野暮だね」くらいのことは言いますけれど,それは所属階層とはあまり関係ない。(p231)
 佐藤学さんから伺ったんですけれど,東大のゼミでももう学生同士の話題が噛み合わなくなってきているそうです。音楽の話とか,美術の話とか,文学の話になると,そういう話題にまったくついていけない学生と,そういう話題がちゃんとできる学生の間にはっきりとした断層が生じている。(中略)いわゆる昔ながらの上流社会の「リベラルアーツ」を身に付けて育ってきた子どもが一方にいて,子どものころから塾通いで勉強だけしてきて,本も読まないし,音楽も聴かないし,美術もわからない・・・・・・というような学生が他方にいる。その落差がもう埋めがたくなっている。(p232)
 文化資本は統計的には正規分布していないんですから,下の方の階層の人は文化資本が豊かに備わっている日本人が存在するということ自体を知らない。日本人はみんな「自分程度」だと思っている。「教養のある人」がどこかにいるということがわかっていれば,自分には教養がないということもわかるし,教養を身につけないとまずいということもわかる。現に,大学に進んではじめて自分に文化資本がないということを知った東大生は必死になってその遅れを取り戻そうとする。でも,自分には文化資本が欠けているということを知らない階層にはそもそも努力するモチベーションがない。だから,階層間の文化資本格差は拡大する一方なんです。(p233)
● 自分が最もギョッとしたのは,次の指摘だ。思いあたる節がありすぎるのだ。そうか,自分は妻や子どもに取り返しのつかない傷を負わせてしまったのかもしれない,と思った。そう,もう取り返しがつかない。
 昔は給料袋というものがあって,月末になると父親がそれを持ち帰り,その日だけはトンカツやすき焼きなど,ふだんと違うごちそうを食べて,扶養者たる人への感謝の意を家族で確認するという行事が行われていました。そんな美風も給料が銀行振り込みになってからはなくなりました。(中略) その結果どうなったかというと,父親が家計の主要な負担者であるという事実は,彼が夜ごと家に戻ってきたときに全身で表現する「疲労感」によって記号的に表象される以外になくなりました。(p64)
 家庭の電化が進んで,主婦の家事労働は劇的に軽減されます。育児を除くと,家事のうちに「肉体労働」に類するものはもうほとんど存在しないと申し上げてよいでしょう。となると,子どもから手を離せるようになった主婦たちが家庭内において記号的に示しうる労働とは何でしょう? それは「他の家族の存在に耐えている」という事実以外にありません。たいへん悲劇的なことですが,現代日本の多くの妻たちが夫に対して示している最大の奉仕は夫の存在それ自体に耐えていることなのです。(p65)
 今の子どもたちには家庭に貢献できるような仕事がそもそもありません。彼らに要求されるのは,「そんな暇があったら勉強しろ」とか「塾に行け」という類のことだけです。(中略)子どももまた子どもなりに「おつとめ」を立派に果たしたことを示そうとします。父や母がそうしているように,充分に不機嫌でありうるということによって,子どもたちは不快に耐えて,家産の形成に与っていることを誇示しているのです。 家族の中で,「誰がもっとも家産の形成に貢献しているか」は「誰がもっとも不機嫌であるか」に基づいて測定される。これが現代日本家庭の基本ルールです。(p66)
● ほかにも多すぎる転載。
 「誰にとっても同じように正しくないソリューション」で合意形成を果たす方が,当事者双方が「私はあくまで正しい」と言い募って合意形成ができないよりも「まし」であるということについての社会的合意は日本社会からは急速に失われつつあるように思われます。(中略) 「つねに正しいソリューションを採択する」という条件が課せられた場合,「正しいソリューション」が何であるかを確定するためには,たいへんな手間ひまがかかります。うっかりすると「正しいソリューション」を採択させるために投じられた努力と時間の総量が,「正しいソリューション」が採択実施されたことによってもたらされる利益よりも大である,ということになりかねません。(p110)
 日本人がリスクヘッジという技術について考えるのを止めてしまって,「正しいソリューションだけを選択し続けなければならない」というような途方もないことを言い出したのは,「間違っても大丈夫」という無根拠な安心に全国民がのどもとまで浸かっていることができているからです。日本人はそれほどまでに無防備なのです。その理由を言い当てることは少しもむずかしいことではありません。 それは戦後六十年間戦争をしたことがなかったからです。(p113)
 「自立」と「孤立」の間には千里の逕庭があるのですが,そのことを指摘した人はほとんどいません。 「孤立している人」にとって,他者はすべて彼または彼女の自由や自己実現の妨害者です。百パーセントの自由を享受するのが「孤立した人間」の目標なわけですから,「他者が存在する」ということ自体がすでに主体の自由を制約することになります。(p128)
 「オレは自立しているぞ」といくら力んでみても,それだけでは自立した人間にはなれません。その人の判断や言動が適切であることが経験的に確証されたために,周りの人々から繰り返し助言や支援や連帯を求められるようになった人が「自立した人間」と呼ばれるというだけのことです。(p129)
 ヨーロッパのニートは階層化の一つの症状です。本人に社会的上昇の意思があっても機会が与えられない。でも,日本のニート問題はそれとは違います。社会的上昇の機会が提供されているにもかかわらず,子どもたちが自主的にその機会を放棄している点に日本固有の問題があります。 「青い鳥」を探して,若い人がどこか遠くへ行ってしまうというのは,昔からよくあったことで,そういうこと自体が悪いというわけではありません。(中略) でも,少数の人だけがやっているときには本人にとっても社会にとっても有用だけれど,それをする人の数が一定数を超えてしまうと,本人にも社会にも弊害が出てくる,ということがあります。たいせつなのは按配なんです。(p151)
 転職を繰り返すのは「よりよい雇用条件」を求めて行われているわけです。しかし,実際には,(中略)階層下降しているケースが多い。 (中略)転職を繰り返している人を見ると,仕事がつまらないから,職場での人間関係に投資しない,仕事の質を上げる努力も怠る,その結果,勤務考課が下がり,つまらない仕事しか与えられなくなり,耐えきれずに転職する・・・・・・という悪循環に陥っている人が多いように思われます。(p154)
 失敗の責任を他人に押しつけて,自分には何の過誤もなく,自分のやったことはすべて正しかったということにすると,その「正しいふるまい」を繰り返さなければならなくなる。人間はそうやって失敗に取り憑かれます。(p156)
 彼らが「有用無用」の判断に際して判断基準に採るのは,学びの場合と同じく,財貨やエロス的愉悦や政治的威信や享楽的な熱狂といった「子どもにもわかる価値」だけです。(p171)
 「実学」というのは,「実際に役立つ知識や技術」ということであると理解されていますが,そうではありません。「実学」とは,それが「実際に役に立つことを高校生でも知っている知識や技術」のことです。「高校生でも知っている」という限定は譲ることができません。どれほど有用な学問でも,高校生にその有用性が理解できない学問は「実学」とは認定されませんから,専攻としては選択されません。(p175)
 「適切な勤務考課ができる人間」というのは,客観的にものが見られて,冷静で,手際のいい人ですから,それ以外の仕事だってできるに決まっている。そういう,企業にとっていちばん重要な人材をあらいざらい評価活動にもっていかれてしまったら,企業はたちゆきません。 実際に,どこの企業でも,ある段階までやって「成果主義はあきらめよう」という雰囲気になってきています。個人の成果を評価するのはいいことなんですけれど,評価コストが評価のもたらす利益を超えることが確実だからです。(p187)
 学校で身につけるもののうちもっとも重要な「学ぶ能力」は,「能力を向上させる能力」というメタ能力です。いうなれば「ものさしを作り出す能力」です。「ものさしを作り出す力」をできあいの「ものさし」で計測できるはずがない。 教育のアウトカムは数値的に評価できない。それは当たり前のことなんです。(p188)
 なぜ貨幣と商品を交換することに私たちが熱中するのかというと,交換が安定的にスムーズに進行するためには,交換の場を下支えするさまざまな制度や人間的資質を開発する必要があるからです。交換そのものよりもむしろ,交換の場に厚みを加えること,それ自体に目的があるわけです。(p193)
 児童虐待の事例がだんだん増えてきていますけれど,これは育児を等価交換で考える習慣の必然の帰結のように私には思えます。(中略) 自分の子どもは自分が作り出した「製品」であり,親の「成果」は「製品」にどんな付加価値を付けたかによって査定されると考えている。その成果が評価されると,親は育児の「成功」というかたちで社会的な自己実現を果たした,と考える。メーカーが工場から送り出した製品の売れ行きや評価に一喜一憂するのと同じメンタリティです。(p196)
 それで子どもの成長を気長に待つということができにくくなっていると思うんです。子どもというのは,意味のわからない行動をする。なんだか訳のわからないことをやる。そういうときに,「この子は何をやっているんだろう」と親もぼうっと見ているのがまっとうな育て方だろうと思うんです。でも,そういう育て方が許されなくなっている。(p197)
 精神科のお医者さんに聞いたんですけれど,思春期で精神的に苦しんでいる子どもたちの場合,親に共通性があるそうです。子どもの発信するメッセージを聴き取る能力が低い親が多い。子どもが発信する「何かちょっと気持ちが悪い」とか「これは嫌だ」とかいう不快なメッセージがありますね。それを親の方が選択的に排除してしまう。というのは,子どもが心身に不快を感じているという情報は,いわば「製品」がノイズを出しているようなものだからです。それは製造過程に瑕疵があるということを意味する。それを親は自分の育児の失敗を意味する記号として理解する。だから,耳を塞いでしまう。(p198)
 自分の理解の枠組みをいったん「かっこに入れて」,自分にはまだ理解できないけれど,注意深く聴いているうちに理解できるようになるかもしれないメッセージに対して,敬意と忍耐をもって応接する。そういう開放的な態度で耳を傾けないとノイズはシグナルに変わらない。ノイズはノイズであり,シグナルはシグナルであるというふうにきれいに切り分けてしまう人には,ノイズがシグナルになる変成の瞬間が訪れない。(p200)
 時間は過去・現在・未来という順序で不可逆的に進行しているわけじゃない。未来までたどりつけないと過去は確定できないし,過去が確定されないと未来は成立しない。時間というのは,そういう高速度で往還する力動的なプロセスなんです。(p201)
 ビジネスが実際の人生といちばん違う点は,やったことに対してすぐにリアクションが返ってくることです。自分の選択が成功か失敗か,すぐに市場の反応でわかる。そして,「マーケットは間違えない」というのは,ビジネスの場合,プレイヤー全員が承認しているゲームのルールです。(中略) 男が仕事をしたがるのは,仕事の方がはるかにシンプルで,アクションに対する成否の反応がすぐに出るゲームだからというにすぎません。(p205)
 けれども,無時間モデルのピットフォールは,あまり気持ちがいいので,「それだけ」になってしまうということにあります。(p206)
 「師であることの条件」は一つでいい,ということだと思うんです。「師であることの条件」は「師を持っている」ことです。(中略) 弟子として師に仕え,自分の能力を無限に超える存在とつながっているという感覚を持ったことがある。ある無限に続く長い流れの中の,自分は一つの環である。長い鎖の中のただ一つの環にすぎないのだけれど,自分がいなければ,その鎖はとぎれてしまうという自覚と強烈な使命感を抱いたことがある。そういう感覚を持っていることが師の唯一の条件だ,と。 弟子が師の技量を超えることなんかいくらでもあり得るわけです。そんなことあっても全然問題ではない。長い鎖の中には大きな環もあるし,小さな環もある。(p210)
 私が技術上のことで質問しても,師は「これこれこうだ,と私は思う」とは言わない。そうではなくて,「私は師からこう聞いた」としか言わない。私見を述べない。師は断言しない人なのです。(平川克美 p219)
 人から尊敬される方法は一つしかないんです。「人を尊敬するとはどういうことか」を身をもって示せるということです。その人に敬意を示す仕方を私たちは,その人が敬意を示している当の仕方を通じて学ぶからです。(p220)
 どういうわけだか,こちらが楽しそうだと,向こうも「ちょっと仕事を出してやらせてみようか」ということになって仕事をくれる。たぶん,何か訳がわからないんだけれど,俺より楽しそうなやつがいるというのが向こうにはどうも気になったんでしょうね。 仕事の原動力というのか,何でもそうなんだけれど,何かわからないけれど,楽しそうな人たちがいると,どうして楽しいのか知りたくなる。(平川 p224)
 「幼児や病人や老人の面倒を押しつけられると私の自己実現の障害になるから,そういうものの面倒は行政が見ろ」と声高に言える人は,「幼児であり,病人であり,老人である自分」を勘定に入れ忘れている。かつて自分がそうであり,これから自分がそうなるかもしれないものとして「家庭内弱者」をとらえたときにはじめて,家庭内の誰かに過度の負担をかけることもなく,行政に丸投げするのでもなく,弱者たちをどういうふうに細やかにすくい上げてゆくかという問題が「自己救済」の問題として立てられることになる。(p236)
 今は孤立した個人と個人が中間的な緩衝帯抜きで向き合っている。これを風通しがいい関係だと思っている人もいると思うのですけれども,やはり,これほどストレスフルな環境に人間は長くは耐えられません。(中略)地縁的なものであれ,血縁の共同体であれ,とにかく複数の人間で構成される相互扶助組織を持っていないと,やっていけないと僕は思います。(p238)
 今は家の中に他人に入り込まれるということに対して強いアレルギーがあります。(中略)たぶん,今は家の中に他人を迎え入れて共生する能力がなくなってしまったということだと思うんです。 これはけっこう重要な能力だと僕は思うんです。ふすまと障子だけの仕切りで公私の切り分けができるというのは,かなり気配りができないとむずかしい。(p241)
 「ニートになったやつは自己責任だから,勝手に飢え死にしろ」というロジックを正論として認めれば,僕たちの社会はこれからも無数のニートを生み出し続けることになる。(中略)「オレのことはほうっておいてくれ」という人々がもたらす社会的コストを減らす方法は,「悪いけれど,ほうっておけない」という「おせっかい」しかないのです。(p244)
 余計なコミュニケーションが人を育てるのです。過不足ないコミュニケーションなんてありえませんよ。(p254)
 今の方がされた「日本社会は均質的で,アメリカ社会は価値観が多様である」というような言い方って,それ自体が日本人の均質的なものの見方の「見本」みたいな言葉づかいだと思うんです。(中略)「均質的だから多様化しよう」という発想そのものがすでにして絶望的なまでに均質的なんです。(p259)
 その人が話を聴く前から持っている手持ちの枠組みの中に聴いた話を全部収めようとする。枠に収まらない部分は全部カット。聴いてわかるところだけ拾う。(中略)そういう人,どんどん増えてますね。(p262)
 都市生活の中でいかに時間性を回復するかというのは,すごく大きな、面白いテーマだと思います。僕の思いつきですけれども,一つあるとすれば,ルーティンを守ることです。日課を崩さない。意外かもしれませんが,都市化のもたらしたいちばん大きな変化は,人々が日課を守らなくなったということだと思っているんです。(中略) そうすると,なんというか,生活がもっとゆったりと平和なんですよ。ルーティンを守って暮らしていると,一日が長いんです。(p265)
 今の子どもたちを見ていると,曜日によってスケジュールが違うし,ご飯の時間も違う。(中略)それに耐えるためには時間意識をむしろ鈍感にしていかないといけない。(中略)寝る時間も食事の時間も風呂に入る時間も,毎日違うような生活をしていれば,体内時計は狂ってくる。日変化もわからなくなるし,四季の変化にも気づかなくなる。(p267)
 天才的プレーヤーというのは,野球でもバスケットボールでもそうでしょうけれど,時間変数込みで,三次元のシミュレーションができる。背走していって,くるりと振り返ると外野フライがすっぽりとグローブに収まるというような芸当ができる。 「待ち合わせ」をするのは,こういう能力開発の基礎訓練だと思うんです。でも携帯のせいで,もう「待ち合わせ」は死語になりつつある。(p269)
 宇宙には起源があり,終末がある。時の始まりがあり,終わりがある。その悠久の流れの中のこの一瞬,という時間のとらえ方ができる人間のことを「宗教的な人間」あるいは「霊的な人間」と呼んでよいと思います。自分がこの広大な宇宙の,他ならぬこの場所に,他ならぬこの瞬間に,他ならぬこの人といっしょにいるという事実に,人知を超えた「何か大いなるもの」の意思を感知できると,人間はとても豊かな気持ちになれる。(p272)

2015年9月28日月曜日

2015.09.25 内田 樹・釈徹宗 『現代霊性論』

書名 現代霊性論
著者 内田 樹・釈徹宗
発行所 講談社文庫
発行年月日 2013.04.12(単行本:2010.02)
価格(税別) 581円

● 眼からウロコが何十枚も落ちる。ただし,読書で落ちたウロコは,短時日でまた付いてしまうもの。落ちっぱなしになってくれればいいのにね。

● ともあれ。全文を引き写したいくらいのものだ。が,厳選して以下に転載。それでも少々以上に多すぎるか。
 なによりもまず宗教的寛容。ある宗教について,そのクオリティや意義を論じるのは,その次の段階の話だと僕は思っています。(内田 p12)
 政治を語っても,生活文化を語っても,文学や芸能を語っても,僕たちの関心は必ず「その制度文物の宗教的な意味は何か? それはどのように宗教的に機能しているか?」という問いに収斂されます。そして,実際に,この問いはおよそ人間のかかわるすべてのものについて有効な問いまのです。ということはつまり,人間たちは古来あらゆる社会制度を宗教的なしかたで設計し,運用してきたということになります。(内田 p14)
 アナログな世界にデジタルな分節線を引くこと,切り分けられないはずのものを截然と切り分けることこそが人間の本性だからです。そうしないと人間は生きていくことができないのです。現に,「二元論的に世界を切り分けるのはよくない」と主張している人自身,すでに世界を「よいこと」と「よくないこと」に二元論的に切り分けているわけですし・・・・・・。(内田 p16)
 都会だと,目に入るものは刺激が強いし,耳から入ってくる音はうるさいし,臭気も気分のよいものではないし,身体に触れる刺激もとげとげしいものばかりでしょう。それなら自己防衛上,視覚情報も聴覚情報も遮断して,五感の感度を下げるのは当然なわけですよ。(内田 p44)
 低刺激環境にいると,身体感度をかなり上げても,それによって深いな入力を浴びるリスクがない。だから,いつのまにか感覚の回路が全開してしますう。(中略)そういうふうに感覚回路の開いた子たちはコミュニケーション感度がいいんです。(中略)言葉のレベルではなく,非言語的なレベルで「わかる」んです。でもね,ほんとうはそういう能力が生きてゆく上で一番大切な力じゃないかと僕は思うんです。(内田 p44)
 「名前を与えられる」というのは,規定づけられる,縛られる,ってことですから。宗教学的に言うと,「名前は呪術の機能を持つ」ということになります。(釈 p49)
 日本でも明治維新以降,国民はみんな名字と名前をつけられますけど,これはつまり,「個人」という縛りがなかったら近代は成立しないということです。(中略)個人を特定できなかったら,徴税も徴兵もできないわけです。全員が名字と名前を名乗ることによって,近代の呪縛が始まったわけですね。(釈 p50)
 宗教は超歴史的に固定的で,政治だけが変化するというものではない。すべての人間的営為を押し流していく滔々たる巨大な流れがある。宗教と政治を二元的に対立させると身動きがとれなくなる。(内田 p54)
 名前は本来呪術的に機能しているのに,現代人はそれをただの記号として,機械的に処理しようとする。それがいろいろな問題を引き起こしている。(内田 p57)
 僕はご存じのように,父子家庭で娘を一人で育てました。出産こそしなかったけれど,育児はずいぶん真面目にやりました。でも,そのことが僕の自己実現を妨害しているなんて思ったことは一遍もない。どう考えたって僕が業界的に成功することなんかよりも,子どもと一緒にいて,子どもを育てるほうが楽しいに決まっている。ですから,子育てに専念していた十二年間は,学者らしい仕事はほとんど何もしてないんです。翻訳を少しやったくらいで。でも,それで何かを失ったなんて思わない。子育てを通じて学んだことのほうが,その時間難しい本をばりばり読んで学べたことよりも,ずっと大きかったと思う。(内田 p64)
 すでに人口に膾炙している情報を,いつの間にか自分の意見として信じ込んでしまうと,その結果,誰かの都合のよい方向に誘導されたり,操作されることがあるという自覚は必要ですね。その自覚の有無が,大人と子どもの分岐点なのかもしれない。(釈 p67)
 下手でも何でも、芸能でもファッションでも,政治でも法律でも何でも,とりあえず自分なりのフォームができると,それを応用してあるときバアーッといろんなことがわかる,知的快感が連鎖することってありますよね。(釈 p69)
 都市生活には土俗の宗教性がありません。そこで「占い」や「スピリチュアル」がブームとなる。「占い」が都市部ほど盛んなのは,都市生活者がなんらかの縛りを求めていることの表れの一つなんじゃないでしょうか。(釈 p74)
 最大の供養というのは「その人が生きていたらするであろうふるまいを繰り返すこと」だと思うんです。自分が死んだ後も,自分が今しているような日々の営みを誰かが継いでくれると思ったら,死ぬときに気が楽じゃないですか。(内田 p80)
 E阪先生はね,全然叱らないの。歯を見て,「あらー,これは大変なことになってますよ。がんばって闘いましょうね」っていうふうにおっしゃる。要するに「歯を悪くする邪悪な霊」みたいなものを想定して,僕がその無辜なる被害者で,E阪先生と二人で悪と闘うっていう,そういう物語に巻き込んでしまうんです。僕の生活習慣とか,ブラッシング不足とか,そういうことは一切とがめないんですよ。(内田 p92)
 言われて直せるようなら,「生活習慣」なんて言わない。(中略)患者自身をまず免罪する、そうしないと患者自身が「戦力」になりませんからね。(内田 p93)
 逆に言えば,民間宗教者というのは,その場にいるその相手,個人と個人との関係性の中で機能する技法だということです。ですから,いわゆるマス(大衆)を相手にすると,ある意味,詐欺に近くなると思うんですね。詐欺というか,とても罪つくりなことだと思います。(釈 p94)
 荒行や座禅や瞑想をすることで,この世と外部をつなぐ回路が開いて,いろんなものが見えたり聞こえたりするのを,伝統宗教では「単なる生理現象だから,宗教の本質には関係ない」とばっさり切って捨てます。(釈 p100)
 このメジャー宗教の裏バージョンには,だいたい共通する特徴があります。 一つは,超越的唯一性を説くというところです。(中略) さらには,人間がそれに合一することを説きます。唯一絶対なるものと自分が一体となる。ほとんどがこういう構造をとっていますね。ですから,そこでは,変性意識や自己変革といった,自分というものが新たなものに生まれ変わるという体験が重要になります。(釈 p102)
 少し前まではインターネットを使えない人たちが,「デジタルデバイド」により情報にキャッチアップできなくて下流に吹き寄せられると言われてましたけど,現実には,ネットのための初期投資はどんどん安くなっている。(中略)だから,インターネットで遊んでいるのが一番お金がかからない。それが「引きこもり」状態をより容易にしている。その若いネットピープルたちが好む娯楽は,ロックコンサート鑑賞とスポーツ観戦なんだそうです。(内田 p107)
 グローバリゼーションとか男女雇用機会均等法とか,そういう流れにのって,がんがん働いていた若い女性が,どこかで心身の限界に達して,ぷつんと切れる。そしてまったく逆の方向に同じように走りだす。そういうふうに僕には見えます。ペースダウンするわけじゃないし,それまでの価値観からまったく離れようというのでもない。能力主義・成果主義を別のかたちで表現しているような気がするんです。オウム真理教がそうでしたけれど,「表」の能力主義・成果主義で疲れた人たちが,次には「裏」の能力主義・成果主義に飛びついてしまう。(内田 p112)
 若い人たちが宗教やナショナリズムに走るときって,どうも生活実感が希薄なんだな。日々の生活なんてどうだっていい,自分の身体なんかどうなってもいいという,なんだか捨て鉢な感じがする。(中略)具体的で持ち重りのする身体実感に根ざしたものが感じられないんです。(内田 p118)
 ヨーガを実践する「ポスト新宗教」にコミットしている知り合いから聞いたんですけど,師弟関係を嫌がる人がすごく多いらしいんですね。自我が少しでも傷つけられるのを避けるから,頭を下げたり師弟関係を結ぶことなく繋がろうとする。だから,信者をたくさん獲得できるかどうかもそこがポイントや,って言ってましたね。(釈 p119)
 ものごとには必ず裏表があるんですよね。こういう「いいこと」があれば,必ず「よくないこと」がある。対になっている。それがリミッターとして機能していると思うんです。しかし霊能力で商売している人たちというのは,「裏側」のことを言わないですよね。わりと単純なことなんですけどね。たとえば「瞑想は夜してはいけない」なんて当たり前のことなんだけれど。(中略) でも,瞑想することで自分の霊的ステージを上げようといった功利的な発想で修行をしている人は,自分の体感が「こんなことしたくない」とアラームを鳴らしていても,気がつかない。(内田 p125)
 神道というのは共同体を繋げるための宗教です。だからそこには教義とか教えとか,あるいは思想とかは別に必要ないわけです。その代わりに,たとえばみんなで同じタブーを共有したりします。(釈 p131)
 どのような宗教も社会とは別の価値体系を持っています。そうでなければ宗教である存在意味も希薄になってしまうと言ってもいいでしょう。つまりその宗教も,社会と対峙する面があるということです。もちろん,教団内というのは単なる社会の縮図ですので,内部はどこにでも見られる権力構造だったりしますが,いずれにしても,社会とは別のものを提示するところに宗教の面目があるわけです。(釈 p144)
 武道では「胆力」と言うんですけど,「驚かされちゃいけない」ということを教える。「驚かされない」ための秘訣は,いつも「驚いている」ことなんです。(内田 p151)
 「人知を絶した境域における適切なふるまい方」,それを主題にした文学作品が世界性を獲得する。僕はそう思う。(中略) 世界文学になるような作品は,あらゆる時代,あらゆる場所に共通する「どうしていいかわからないときには,どうすればいいか」という難問を扱っているから世界文学になり得る。(内田 p153)
 ふつうに生活している人の枠組みをわざわざ揺さぶって,不安にさせてるんですね。(中略)先祖を供養してないでしょうとか,思わぬ方向から球を投げて,誰もがどきっとするようなことで揺さぶっておいて・・・・・・。マッチポンプですよね,自分で火を点けておいて,うちに頼めば火を消しますよ,というのと同じ手法ですね。(釈 p190)
 死者たちは正しく弔わなければならない。しかし,どのような喪服の儀礼が正しいのかについては誰も確言する権利を持たないし,持ってはならない。(中略)なぜならば,それは本来死者たちの判断に委ねられるべきことだからです。でも,死者は語らない。(内田 p205)
 国民国家という近代的な国家制度はまだできて日が浅い。それはあらゆる人間的制度がそうであるように,いずれ賞味期限が切れて消滅する。長いスパンで見れば,暫定的な制度にすぎない。しかし,これに代わる新しい統治形態が標準的なものになるまでは,国民国家を基準に共同体のありようを考えざるを得ない。(内田 p218)
 一流の詐欺師はできいるだけターゲットに不満を残さない詐欺を行いたいので,そのために,予め「クーラー」という役目の人間をつけておきます。このクーラーは,ふだんからターゲットに対して何かと世話を焼いたり,相談に乗って親切にしたりして,すごく信頼されるようにしておきます。充分な信頼関係ができたところで,詐欺師が詐欺を行うんです。詐欺師はすぐ逃げますが,そこからがいよいよクーラーの出番です。クーラーはこのターゲットに対して,「まあ,よう考えたらこれぐらいで済んでよかったやん」とか「あいつ見てみ。あいつに比べたらずっとましやで」と言って,この人の不満や苦しみを半減させることで,本質的な詐欺の被害から目をそらさせるわけです。(釈 p232)
 現代人は自分と他者の間にはっきりした境界線を引きたがりますね。「自立」や「自己決定」「自己責任」も同じ流れです。だいたい人間は「自己決定」なんかできないし,「自己責任」も取れない。人がなんらかの決断をするときは,いろんなファクターが関与しているわけで,百パーセント自分の判断で事を決めることなんかあり得ない。(内田 p241)
 前に大峰山という女人禁制のところに,性同一性障害者の人たちが入山をこころみたという事件がありましたでしょう。性差別反対を掲げて。女人禁制というのが特異なローカル・ルールであって,一般性がないというのは指摘のとおりなんです。でも,そういうローカル・ルールは非合理的だから撤廃しろと主張している人たちご自身は,性同一性障害の人たちなわけですよね。「自分たちの性の特異なありようを認めろ」と,「強制的異性愛体制で全員を標準化,規格化するな」という主張をしている人たちが,なぜ大峰山の人たちの「宗教性の特異なありよう」は認められないと言えるのか。彼らは自分の特異性には配慮を要求し,他人の特異性には権利を認めない。自分の論理矛盾に気づかずにいられるその愚鈍さが,どうにも僕には耐えられない。(内田 p248)
 行うべき儀礼を表の顔とするなら,行うべきではない儀礼,つまり裏の顔は「タブー」となります。(中略)たとえばヒンドゥー教のカースト制度や,神道のケガレ観は負の側面ですね。(中略) 日本のケガレの観念のユニークなところは,ケガレ状態の人に接触すると,ケガレが伝染すると考えるところです。(釈 p260) 境界線上をタブーとするというのは,タブーについて考える上で大きな手がかりになります。(釈 p269)
 おそらく儀礼の定義というのは,基本的にはその儀礼の起源を言えないということなんじゃないでしょうか。(中略)それができたらそれはもう儀礼ではなくなる。(中略) 起源に遡行すると,最後にはすべてが闇の中に消えてしまう。でも存在している。(中略)僕はこういうものに対して人間はもっと畏れの気持ちを持つべきだと思います。(内田 p276)
 オカルトというのは,「隠された知」というのがもともとの語源なんですけど,「真実は隠されている/私(占い師)はそれに気づいている」という構図が危ないんです。(釈 p278)
 「三十二歳まで結婚できない」と言われたときに,「はあ,そうですか」と言ってしまったら,もう結婚するのは難しくなる。というのは,そんなバカな占いでも,行って三千円払って予言を聞いた以上は,その払った三千円が惜しくなるからです。そこで三千円払った自分の行動を正当化するためには,予言が実現したほうがいい。ほんとに人間って,人生を信じられないほどの安値で叩き売るんです。怖いですよ。(内田 p280)
 「最後にすべては解明されるのであるが,その答えは私が想像していたものとはまったく違うものである」という確信だけが推理小説を読む快楽を担保している。生きる快楽を担保するのも同じ「不可知」だと思うんです。(内田 p282)
 その頃西武が開発した「ロフト」とか「シード」を店舗展開したとき,彼は江戸時代の古地図を参考にしたんだそうです。(中略)江戸の場合,人通りの多い通りには共通性があって,それは,「汐見坂」か「富士見坂」のどちらかだった。ゆるい坂道を歩くと,その先に東京湾が見える通りと,その道の先に富士山が見える通り,そういう坂道に人々は惹きつけられる。(内田 p291)
 われわれが考えることって,だいたい同じようなことです。みんな似たようなことで苦悩し,死について考えたり,死を希求したりします。大切なのは,「それはけっして自分だけが気づいているのではない」という感覚です。(釈 p296)
 自我というのは一種の仮説だと思っているんです。内と外という言い方をしたときに,自我というのは内側のことだと思う人がいるけれど,そうじゃない。外と内の境界面みたいな,皮膜みないなものが自我じゃないかと思います。(内田 p297)
 村上春樹さんもかいていたけれど,作家の条件というのは,自分のヴォイスが見つかるかどうかにかかっている。自分のヴォイスを探しあてたら,あとは無限に書ける。(中略)「ヴォイス」は音声ですからね。ずっと身体的です。声質,音の響き,厚み,奥行き,そういうもの全部含めてヴォイスなんです。自我が操作する道具じゃないんです。インターフェイスなんですよ。(内田 p298)
 たぶん世の中で起こる苦しみの総量というのは一定であって,僕が回避した分のツケを誰かが払っている。そう思ったら,ぞっとして。それからあと自分の幸運を試すようなことは絶対に止めようと思った。(内田 p303)
 ツキってダマで来るんですよね。平均的に来るということはない。いいことは集中的に来るし,悪いことも集中的に来る。いいときに図に乗って「好天モデル」をベースにして生きていると,ある日どかんと不運に遭遇する。(内田 p304)
 宗教というのは,愛とか労働とか言語と同じレベルのものです。「言語って必要ですか」「愛って必要ですか」「労働って必要ですか」「共同体って必要ですか」「空気って必要ですか」「地球って必要ですか」という質問と同じことですよね。それらがあるからこそ,僕たちは現にここにいるわけであって,必要か必要じゃないかなんていう議論ができる論件ではないんです。人間が必要だと思ったから宗教をつくり出したわけではなくて,宗教があったから人間ができた。(中略) 自己決定できない問題について,「必要かどうか」を論じても始まらないです。(内田 p312)
 宗教の戒律だって,「戒律を守る」のではなくて,戒律に守られているんですよ。宗教のエートスを守ることによって危ない場面を避けることができて,守られていくと考えるべきでしょう。(釈 p316)
 「運がいい人」というのは,周りからは「選択するときにいつも正しいほうを選ぶ人」というふうに見えているんだと思います。でも,そうじゃない。「運がいい人」っていうのは選択しない人なんです。分かれ道に至って,「さて,どちらの道を進んだものか」と自問する人は,その時点でかなり運に見放されている。というのは「運がいい人」の眼には道は一本しか見えていないから。(内田 p317)
 繰り返しさまざまなトラブルに巻き込まれる人がいますね。それは,ご自分で「そういう道」を選んでいるからそうなるんですよ。人間だって生物である以上,すべての生物と同じく自己保存の機能が生得的に標準装備されています。だから,危険なファクターが近づけば,「危ない」というアラームが鳴りだす。そのとき(中略)アラームを消してしまう人がいる。そういう人がだいたいトラブルに巻き込まれる。(中略)みんなが「あの人はいい人だよ」と言っても,その人の近くにゆくと自分のアラームが鳴るという場合は,世間の評価よりも自分のアラームを信じたほうがいい。(内田 p317)

2015年8月25日火曜日

2015.08.20 内田 樹・中沢新一 『日本の文脈』

書名 日本の文脈
著者 内田 樹
    中沢新一
発行所 角川書店
発行年月日 2012.01.30
価格(税別) 1,600円

● けっこう分厚い本なんだけど,読み始めたらグイグイ引き込まれた。心身の関連のこと,日本文化の特徴,ユダヤ的思考など,次から次へとそうだったのかと思わせる内容が展開される。

● 最も印象に残ったのはユダヤ的思考についての部分。こういうのってまとまった話をこれまで聞いたことがなかったから。
 それは「ブレイクスルー」っていうことだと思うんです。与えられた枠組みを乗り越えていくことが,ある民族集団のフルメンバーの条件であるという。(中略)「ユダヤ人の枠組みを絶えず超えていくことができる人間をユダヤ人として認定する」というひじょうに不思議な条件を課した。そういう不思議なことを考えついた集団が,何千年か前に中東の荒野にいたんです。(内田 p145)
 ノーベル賞が受賞の対象としている学問は,そもそもユダヤ人が得意とする学問なんですよね。ユダヤ人が能力を発揮しやすい学問が,学問の王道になっている(中沢 p147)
 ユダヤ人が学術的なブレイクスルーを担うのは当たり前なんです。ユダヤ人は知的なパラダイムの変換以外のことを知的営為とは認めないんですから。(中略)他の人は,パラダイムを変えることが学術の第一目的だとは思っていない。むしろ緻密化するとか,体系化するとか,教条化するとか,格付けに使うとか,その格付けに基づいて資源の傾斜配分したりすることが学問だと思っている。(内田 p147)
 僕らから見ると「それってすごくユダヤ人的ですね」ということも,レヴィナスにしてみたら,たぶん「それ以外に,どういう思考法があるの?」ということなんだと思うんです。ユダヤ的に思考する人にとって,ユダヤ的以外の仕方で思考するということがよくわからないんじゃないかな。(内田 p150)
 レヴィ=ストロースの場合,(中略)外に出て行くんですね。自分の手持ちの理論や学説で説明できるものには興味がない。自分の理論で説明できないことに惹きつけられる。そこに自分の理論を適用するためじゃなくて,自分の理論を書き換えるために外部に向かう。(内田 p151)
 ユダヤ人は都市型文化の中で無から有をつくりだすことに関しては天才ですけど,自然から贈与されて,それを潤沢に享受するということに関しては歴史的経験がないんじゃないかな。(内田 p167)
 レヴィナスを読んだときに,直感的に,この人の頭の中で動いているのは,日本人の頭の中ではぜんぜん動いていない部分だっていうのは感じたんですね。いまになって思うと,それがたぶん「一神教的」な思考回路だったんでしょうね。 一言で言うと「被造物」感覚です。自分は神によって創造された被造物であって,世界の創造に対して「遅れている」という意識。もうすでに世界は始まっていて,自分の知らないルールでゲームは進行している。(中略) そのような不能感,不全感がないと人間の思考は限界を超えられない。(中略)神が自分に何を命じているのかさっぱり意味がわからない。(中略)にもかかわらず,いまここでただちにおのれの責任において神の言葉を解釈して,それを実践しなければならない。ユダヤ人はこの霊的な緊張感のうちに追い込まれるわけです。(内田 p312)
 古代ユダヤ人が考えたのは,身も蓋もない言い方をすれば,「どうやったらもっと頭がよくなるか」ということだったと思うんです。そして,それは「正解のない問い」とか「人知を超えた超越的存在」とか「理解も共感も絶した他者」とか「一度も現実になったことのない過去」とか,そういう手のつけようのない難問を「いま,私に切迫したもの」として引き受けることでしか達成できない,と。答えられない問いにまっすぐ向かうことで,脳のパフォーマンスは爆発的に向上する。そのことを古代ユダヤ人は経験的に知っていたのだと思います。(内田 p314)
● その他,以下に転載。
 チベットの学問というのは,本を読んで頭の中にいろんなことを詰め込むのではなくて,まず呼吸法をやるんです。からだの中には自分でコントロールできる部分とコントロールできない部分があって,呼吸法によってそれをつなぐことができるようにならないと学問を始めちゃいけないと言われるくらいです。(中沢 p27)
 中心と周縁というこの図式だと,からだは主体の外側,いわば主体が乗っている「ヴィークル」というか,自己拡張のための道具のようなものとしてとらえている。だから,身体訓練というのをヴィークルの性能を上げることだと理解している。(中略) でも,呼吸法をやるとそうじゃないことがわかる。内側に入り込んでゆくと,人間のからだはソリッドなものじゃないし,だいたい主体という中心なんか存在しないんです。あるのは精密な関係の網の目だけで。(内田 p28)
 最初のうちはドライバーとヴィークルの関係で,意思が身体を統御するというふうに心身二元論的にからだをとらえていたのが,次第に「人馬一体」,「車馬一体」になる。心が命じてからだが動くんじゃなくて,からだがあることをしたことによって心のありようが変わる。からだが動くと心が変わる。からだがそれまでできなかったある動作ができるようになると,それまで存在しなかった心の状態が出現する。(内田 p29)
 武道をやっていちばん変わったことは,「自分の内側には未知のものがある」という,自分自身に対する畏怖の念なんです。それはいわゆる自尊心とは違うんです。自分自身の中に,わけのわからない,底知れないものがいる。だから,もっとていねいに自分自身とかかわらないといけない。そういう自分を大事にするという感覚が,武道を通じて出てきたんですね。(内田 p29)
 僕が着目していたのは,「惰性」ということです。社会制度のある部分は,歴史的状況が変わってもあまり変わらない。まったく変わらないものもある。たとえば貨幣,親族,言語といった社会制度の根本をなすものは惰性が強く効いているから,歴史的な条件の影響を受けない。(中略) そういうものは時代が変わっても,あまり変わらない。ということは,われわれが理解できる以上の意味がそういう仕掛けの中には組み込まれているんじゃないか。(中略)そこには何か集団の存立にかかわる人間についての知がある。それを見通す努力が必要なんじゃないか。(内田 p34)
 もし,相手にその価値がわかるものを贈与したら,相手が等価物を贈り返す。それで「チャラ」になったら,交換は終わってしまう。交換は始められた以上,停止されてはならない。そして,「贈られた相手にはその価値や有用性がわからないもの」だけが,等価物による相殺が不可能であるがゆえに,交換をエンドレスに継続させる力を持っている。(内田 p37)
 努力に対する報酬が予測可能であるほうが人間は一所懸命に労働するという考え方って,人間理解として,あまりに底が浅いと思うんです。人間の労働パフォーマンスが高まるのは,努力と報酬のあいだに,どういう法則があるのかが予見できないときですよね。これは,必ずそうなるんです。(中略)労働と報酬が正確に数値的に相関したら,人間は働きませんよ。何の驚きも何の喜びもないですもん。(内田 p44)
 「ワクワクする」という感覚が関係してるんじゃないでしょうか。「正しいかどうかわからないけどワクワクする」と「正しいけどワクワクしない」ってあるじゃないですか。なんとなくテンションが上がる。生命力の針が一目盛り分だけ高くなるような方向に向かう。学問的なテーマにしても,日々の仕事にしても,「ワクワク」を選択し続けていると,なんとなくいいことが続いて起こる。身体の中に,自分自身を正しい方向に導くセンサーがある。このセンサーの構造法則をなんとか解明したいと思ってるんです。(内田 p116)
 人間が自分の限界を超えるような働きをするのは,夢中になっているときだけです。そして夢中になるのは,自分がしていることがどういう結果をもたらすことになるのか,あらかじめわかっているからではなく,何が起きるか予測がつかないからなんです。何が起きるか予測がつかないけれど,何かとてつもなくおもしろそうなことが起こりそうだというワクワク感にドライブされて,人間は限界を超えて能力を発揮する。(内田 p119)
 いまある生産様式や生産手段の内側に踏みとどまって,労働した分だけきっちり報酬を受け取ることを最優先する人間はいかなるイノベーションとも無縁です。イノベーションを担うのは,「もっと楽にしごとしたい」「単位時間内にもっとたくさんの仕事をしたい」と思う人間なんですから。横着な人間だけがイノベーターになるんです。横着であるためにはいかなる努力も惜しまないというタイプの人間が学術や技術の壁を突破する。(内田 p46)
 よく科学と宗教を対立させて,科学者は科学的で,宗教家は非科学的だというような愚かなこをを言う人がいますけど,それは「科学主義的」な,イデオロギー的な態度であって,少しも科学的ではないと僕は思う。すべての科学者はランダムに見えるさまざまな現象の背後には,すべてを統率している不可視の秩序がひそんでいることを先駆的には確信している。それと宗教者の「摂理が存在する」という先駆的確信とどこが違うのか。(内田 p50)
 子どもの遊びで「かくれんぼ」ってあるじゃないですか。「鬼」には視覚情報としては何も与えられない。聴覚情報もほとんどない。だけど,勘のいい子どもは「何かがあそこの後ろに隠れている」ということがわかるようになる。そのための訓練ですよね。(中略)そういう情報は,感覚入力としては徴候化していない。でも,わかる。感覚入力の閾値以下の情報を感知できれば,わかる。 そういう精密な,通常の感覚ではとらえられない入力を受信する訓練を,人類はその黎明期からずっとやってきた。(内田 p59)
 ほんとうに危機的なのは,いまある資源だけで,タイムリミットが迫る中で,とにかく何とかしなければいけないという状況に置かれることですよね。船が難破するとか,致死性のウィルスが飛散してくるとか,ゴジラが上陸するとか,金なんかいくらあってもどうにもならないというのが死活的な危機であるわけです。そういう状況をどう生き延びるかということをいつも考えていると,つねに自分のまわりにいるすべての人の,それぞれの潜在的可能性のもっとも良質な部分に焦点を合わせるようになるんです。(内田 p67)
 外来の漢字を「真名」といい,これが正統的な言語で,土着語は「仮名」で一段低く,暫定的な地位しか与えられていない。この「外来が上で,土着が下」というのは日本の文化構造の全体を貫く基本的スキームじゃないかと僕は思っているんです。(内田 p82)
 できるだけ多くの人に届けて,日本人全体の知的パフォーマンスを高めたいと思ったら,アカデミックな言語で記述された命題を,土着語,生活言語に置き換えなきゃいけない。翻訳しなきゃいけない。この「真名」を「仮名」に開くっていう仕事はたぶん日本に特有のものなんだと思うんです。(内田 p84)
 日本語というのは,取り扱いのむずかしいもので,自分の身体実感にしっくりなじむような命題を書こうとすると,どうしても言葉を使うための力業が必要になる。(中略)水を含んだスポンジを重ねて城を築くようなものなんですよね。(内田 p89)
 どんな言語を使って,どんなふうに思考するのが正統的日本人であるかって考えると,実は「野蛮人」こそ日本人なのではないか。僕はそう思うんですよ。日本人が恰好つけて気取ったことをやると,全部欧米の物真似になってしまうでしょう。「出来の悪い欧米人」になってしまう。欧米文明を過剰に内面化した日本人て,必ず「ヨーロッパではこうである。アメリカではこうである。だから日本はダメなんだ」っていう言い方になりますよね。でも,そういう人たちの言葉が日本人に対して強い指南力を発揮することは絶対ない。(中略)「うるせえな,そんなこと知るか馬鹿野郎」と思っている。 この「知るか馬鹿野郎」という土着のサイドからの反感を言語化する仕事のほうが実は日本の知識人としては正統的な仕事じゃないかと思うんですよ。(内田 p100)
 合気道の稽古をやってきたんですけれど,だんだん動きが乗ってくるとどうなるかというと,ゆらゆらふらふらしてくるんですね。(中略)ピシッと前後に足を開いて,腰が決まっている状態よりも,少しゆるんでふらふらしているときのほうがなんだか調子がいいんです。(内田 p101)
 芸能とか儀礼だと,身体技法について「どうしてこういう型をしなければならないか」についての合理的な説明を自制するでしょう。「昔からこうです」というふうに有無を言わせずに叩き込む。うっかり説明しちゃうと,「だったら,こうした方がいい」とか「こっちの方が楽だ」っていうことになって,伝来の型が崩れてしまう。身体技法についてはできるだけ合理的説明は避けたほうがいいんです。(内田 p102)
 型がある種の身体運用を要請するときに,どうしてその動きができなければいけないのか,その理由は自分で考えないといけない。(中略)そのつど,ある身体技法の必要性について,包括的な仮説を立てないと稽古にならない。もちろんその仮説は稽古が進めば,必ず破綻するんです。でも,仮説抜きの稽古というのは無意味なんです。(内田 p111)
 大切なことは,自分の修行の現時点でも目的が暫定的なものにすぎないという自覚だと思うんです。最終目的地までの旅程が全部からかじめ開示されていて,それを「すごろく」を上がるように俯瞰的に点検しながら進んでゆくというのは,日本的な修行のあり方じゃない。(内田 p111)
 アメリカから来た学者が,今西さんと弟子の伊谷純一郎さんに「あなたたちはどうしてこんなにすごい研究(サル学)ができたんですか?」と訊いたら,「日本人はサルとのあいだに距離がない。だいたい同じ目線でものを見てるから,相手のことがよくわかる」と。(中略) 日本人がつくりだした科学の中でも創造的なものは,だいたいそういう特徴を持っています。つまり目線が低いんです。(中沢 p114)
 ニーズもマーケットもない。でも,「教えたい」と思う人たちがいた。そして学校をつくった。「そういう先生に就いて学びたい」と言い出す少女たちがぽつりぽつりと出てきた。そういう順番だと思うんですよ。これこれの知識や技術を教えてほしいというニーズがあったから学校をつくったわけじゃない。(中略) でも,僕は教育ってそれでいいと思うんですよ。「あの学校に行って,何を勉強するつもりなの?」って訊かれたときに,「よくわかんないけど,行きたい」っていうので。(内田 p121)
 僕が武道を始めてわりと早い段階で先生から言われたのが「伝書を読むな」ということでした。「極意にかぶれる」と言って武道では嫌うんです。本に書いてあるものを読んで「わかった」と思うのはひじょうに危険なことだ,と。(内田 p161)
 日本文化がどういうふうにつくられているかというと,中心の価値を打ち立てるってことをしない。(中沢 p173)
 日本は自然が豊かだから,自然の豊穣性が日本の王権の権威を下支えしている。砂漠とか,飢饉が頻繁に起こるような土地だったら,天皇制は無理でしょうね。(内田 p176)
 戦闘の跡ってあんまりないでしょう。日本神話を見るともっぱら結婚ですよね。(中略)「結婚とは,戦争の弱化した形態である」というわけですね。(中沢 p180)
 中沢 からだが柔らかいのって大事なんですね。銀座のホステスから聞いたんだけど,「相撲取りほどいいものはない」って。(中略)「相撲取りと一度したらやめられない」って言いますよ。癒されるんだって。 内田 日本人の基本なのね。対人関係の攻略の基本は「ふにゃふにゃ」にあり。 中沢 そういう人々に中心的価値の構築ができるわけないし,する必要もない。(p181)
 地場の女の子は見たこともない男の子にセックスアピールを感じる。(中略)フラッとやってきたよそ者に対してエロスを感じるのは世界共通ですね。(中略)そういうふうに混交することで,生物学的多様性を担保しつつ,同時に戦争を回避した。(p183)
 おじさんにはプリンシプルがある。世界理論がある。「俺らの相手は世界だ」っていう。あれ,邪魔なんですよね。おばさんは世界なんか相手にしない。相手にするのは町内会。ローカルから始めるのがおばさん。(中略) 日本人は,結局それしかないと思うんですよ。おのれのローカリティを徹底して,はい,こんなにローカルなんですって言い切って,さらにおのれのローカリティを相対化できる言語を持っていれば,それこそ世界性でしょ。(内田 p198)
 システムはでき上がったものだけを見るんじゃなくて,どういう歴史的文脈で出てきたのかを見ないといけない。ある静態的なシステムができる前に,どのような過激な暴力があったのか。それをちゃんとわかった上で,民主主義の世の中はこうだっていう話になっていかないと。(内田 p220)
 民主主義というシステムは,たえず誰かが身銭を切って下支えしないと保たないんです。(中略)生身の肉体が分泌する情念とか名誉心とか理想とか,そういう生き生きとしたものが民主主義のシステムを下支えしている。(内田 p221)
 なによりすばらしいのは,この国には「宗教」というものがないことじゃないですか。「信心」はあるんです。美しいもの,真実のもの,何か価値があるものに出会ったら深い信心を持つ。でも,それが宗教のシステムの中にとらえられることを好まなかった。(中沢 p232)
 あるとき,橋本治さんのことを「あの人は頭が丈夫だ」って養老先生がおっしゃったことがあった。どういうことですかってお訊きしたら,ふつうの人の頭には入らないものが入るんだそうです。ふつうの人は「これはこれ,あれはあれ」と分けて処理するけど,そういうものを同時に入れて,一つの文脈を生成することによって関係づけられる。この能力を「頭が丈夫」と呼んでいる。(内田 p251)
 「からだを介して」「からだを使って」ということは,言い方を換えると「時間をかけて」ということだと思うんです。なんだかんだ言って,欧米の学問の根本は無時間モデルでしょう。真理が一望される観照モデルを理想とする。問いと答えのあいだにタイムラグがない。ところが,東洋の学びの場合には,禅の公案にしても典坐料理にしても,すぐに答えが出ない状況に置かれますね。(中略) 父性原理と母性原理というのは,無時間モデルと有時間モデルの違いだと思います。(中略)東洋的な学びがめざしているのは,「正解」じゃなくて,「成熟」なんだと思います。(内田 p257)
 東京人は,出会い頭にガツンとかまして上下関係をつくるというところがありますよね。人を批判するのも平気だし。(中略)それは結局「人間関係は使い捨て」だからですよね。地方からどんどん人が集まってくるから,いくらでも替えがきく。(中略)都市の開放性が,逆にじっくりと人間関係を熟成させていくことを妨げている。(内田 p271)
 中沢 その東北の人がぼそっと「有機農法とか言ってる連中は嘘つきが多いんだ」って。複雑な思いを抱えているんですね。 内田 このあいだ,秋田の白神山地のマタギの方と対談したんですけど,エコの人たちのことを嫌がってましたね。穏やかな方でしたけど,エコロジーとか自然環境保護の人たちには困っているって。(中略)自然に対していいことだけしようという発想は無理なんだって。(p273)
 日本では原発問題になると,推進派も反対派もたちまちこわばってしまう。推進派は「経済成長」という錦の御旗を掲げ,反対派は「被爆者の苦しみ」という錦の御旗を掲げて,その裾に隠れて居丈高な物言いをする。(中略)この「虎の威を借る狐」たちを笑いのめす文化的伝統を持っていないというのが,日本人の宗教的な弱さだと思う。(内田 p285)
 日本人は,上からの指示には従順だし,きちんと設計して精巧にものをつくることにおいては能力が高いんだけど,従来の手順では対応できない危機的状況で自己判断で動ける人材を育てるという気がぜんぜんない。(内田 p291)
 森の中から何か邪悪なものがやってくるっていうのがヨーロッパ人の自然観の基本なんですよね。人間の生活領域の向こう側に「闇の世界」が広がっている。 エコロジーというのは,それが逆転して,今度は「保護すべき宝物」になってしまったわけでしょう。でも,この「邪悪なもの」から「守るべきもの」への転換がなんとなく記号的な操作のような気が僕はするんですよね。(内田 p293)
 今度の震災以降に見えてきたことは,日本の地方の首長にはとても立派な人たちが多いということ。東北の首長たちの立派な立ち居振る舞いに対して,中央政府の連中がぜんぜんダメだとうのがくっきりと見えた。(中沢 p299)
 今度の震災で,市町村合併して自治体単位を大きくしたところが対応に苦しんだ。(中略)自治体のサイズを均一化し,制度を規格化したほうが経費が削減できていいっていうのは統治するほうの都合であって,される側にしたら大変迷惑なわけです。(内田 p299)
 いまのグローバル資本主義市場での消費行動って,要するに「クオリティが同一であれば,もっとも安い価格のものを買う」ということでしょう。でも,「うちの県内でできたものだから」とか「隣の村でつくっているから」というような非経済的な条件で消費行動をとる人が一定数いたほうが市場って安定すると思う。(内田 p301)
 橋口(いくよ)さんは震災直後からずっと原発に向かって「安らかに眠ってください」って祈っているそうです。福島の一号機って十年前にリタイアしていいはずなのに,耐用年数を過ぎてまでこき使った末に事故を起こした。これは酷使した人間が悪いんであって,原発さんには罪がない,と。むしろ「四十年間も働いてくれてありがとう」という「感謝」と「いたわり」の言葉がまずあって,「だからどうぞ鎮まってください」と祈るのが順番だろうって。僕はこの橋口さんの考え方,とても正しいと思うんです。これが日本の文脈ですよ。(内田 p304)
 「逆風」のとき,長期にわたる膠着戦や先行きのおぼつかない後退戦のときに,浮き足立たず,不機嫌にならず,絶望せず,仲間を決して置き去りにせず,静かな笑顔をたたえて自分の果たすべき日々の仕事をきちんと果たすことは,才能や学識だけではできません。例外的に禁欲的であるとか倫理的であるというだけでは務まりません。生命力の強さが必要です。「生物として強い」という条件が要ります。(内田 p333)

2015年5月16日土曜日

2015.05.11 尾田栄一郎 『ONE PIECE STRONG WORDS 2』

書名 ONE PIECE STRONG WORDS 2
著者 尾田栄一郎
発行所 集英社新書ヴィジュアル版
発行年月日 2014.03.09
価格(税別) 760円

● ここでも内田樹さんの「解説」が面白かった。以下に転載。
 僕は武道と能楽を稽古していますが,その分野には強い型というものがあります。その型が周りにいる人たちの身体に刻み込まれ,他人の身体にまで「感染する」,そういう力を持つ型のことです。(中略) いかに力感があふれていても,破壊力があっても,スピードが速くても「感染しない型」があります。どこか生物として不自然な動きは感染しません。(p188)
 「美しい」というよりは「強い」という印象を与える芸術作品がときどきあります。そういう作品は近づくと「身体が整う」「身体が浮く」「身体が泡立つ」など,いろいろな感触を僕に残します。誰でも同じように感じるかどうかはわかりませんが,とりあえず僕は芸術作品を身体で受け止め,自分の身体の反応に基づいて,作品のクオリティを計ることにしています。(p191)
 外部から到来したものを自分がずっと探し求めていたものだと感じて,それに一気に同化できる「被感染力」の高さこそ,他のどんな種にもまさって人類の成長と変身を可能にしたものだ(p193)
 イノセントで,(食欲以外については)無欲で,冒険への好尚と友人に対する無限責任以外に生きる上での特段の方針を持たないルフィは,その「空虚」さゆえに,世界を支える天蓋になりつつあります。なぜこの少年がその任にふさわしいのか。それは,世界のコスモロジカルな中心は「空虚」でなくてはならないからです。「クッションの結び目」と同じです。クッションの結び目は実在物ではありません。布のドレープが全部そこに集約される「空虚」です。(p195)
 「おれは助けてもらわねェと生きていけねェ自信がある」というのは,ルフィという人の「強さ」のありようを語ってあまりある名言です。(中略) ふつうは逆に考えます。誰にも依存しない,誰にも頼られない,自立した人間がいちばん強い。そう思っている人がたくさんいます。もしかしたら現代日本人の過半はそう信じているかも知れません。でも,違いますよ。いちばん強いのは「あなたなしでは生きられない」という言葉を交わし合って生きる人です。 「あなたなしでは生きられない」というようなかたちで他人に依存するのは危険な生き方ではないかと思う人がいるかも知れません。その人がいなくなっちゃったらどうするんだよ,と。そのときはなんとかなるんですよ,実は。問題は「あなたなしでは生きられない(ので,死にました)」という事後的な話ではなく,「あなたなしでは生きられない(だから,死なないで)」という懇請の方なのです。(p199)
 この依存を緩和する方法が一つあります。それは頼ってくる人を頼らなくてもいいくらいに強くすることです。(中略)どうすれば人間は強くなるか。そう,「あなたなしでは生きられない」と人に言われると人間は強くなるのでした。(中略)ですから,考えれば自明のことなのですが,「あなたなしでは生きられない」という祝福に対しては「私もあなたなしでは生きられない」という祝福を返すことがもっとも効率的だということになる。(p201)
 現代の日本人のほとんどはそんなふうには思っていません。それよりは自分につがりついてきたり,懇請したりする人間をできるだけ切り捨てようとしている。扶養家族や生活保護受給者や老人や幼児のような「足手まとい」なんかいない方が生きる競争では有利になると信じ込んでいる。そのために,できるだけ濃密な人間関係を持たないようにしている。それが賢い生き方だと思っている。(p202)
 他人から依存されるときにこそ人間の潜在能力は爆発的に開花する(p202)
 ルフィが不動の船長の地位を占めている最大の理由は彼が「何かが足りない」というタイプの愁訴を(「腹が減った」と「退屈」以外)絶対に口にしないことにあると僕は思います。すべての必要はすでに満たされている。「何かが足りない」という欠落感は必ず「隙」を作り出します。「何かが足りない」というのは,文字通りそこに「隙間」があるということに他ならないからです。「何かが足りないせいで,ものごとがうまく進まないのだ」という他責的な言葉づかいで現状を説明する習慣を持つ人はやがてその「隙」をことあるごとに誇示し,ことさら大げさに語るようになります。それはほとんど自分の弱点を満天下に公開しているに等しいのですが,愚痴を言う人はなかなかそのことに気づきません。(p206)
 魚人族との戦いにおいて『ONE PIECE』で今回ルフィが直面するのは「テロリストには理があるのか?」という問題です。これはおそらく作者である尾田さん自身の問題でもあるのでしょう。 もちろん,こういう場合にもルフィには迷いがありません。彼には直感的にわかる。それはルフィの判断基準がおのれの「生身の身体」だからです。生き物として正しいかどうか,それがルフィの唯一の基準です。(p211)
 麦わらの海賊たちは「小さな義理」を重んじるけれど,「聖戦完遂」というような「大きな話」は信じません。友情は信じるけれど,イデオロギーは信じない。イデオロギーを信じないのは,どれほど整合的であっても,過激であっても,イデオロギーにはそれが生きる上でどうしても必要なのだと訴える生身の身体による支えがないからです。(p214)
● 『ONE PIECE』本体を読んでみたくなった。たぶん,読むことになるだろう。まんが喫茶かネットカフェかレンタルショップに急げ。
 既刊77巻。買って読むってことにはなりそうにないものな。読み終えたあとにブツが残るのはイヤだから。コミックは貸本屋で借りて読むって人が多いんじゃないか。

● CDやDVDについては曲がりなりにも制作者側との協議は経ていると思われる。
 が,コミックの場合はどうなのだろう。「出版物貸与権管理センター」なるものがあって,作者にお金が流れる仕組みはあるようだけど。

2015年5月15日金曜日

2015.05.10 尾田栄一郎 『ONE PIECE STRONG WORDS 下巻』

書名 ONE PIECE STRONG WORDS 下巻
著者 尾田栄一郎
発行所 集英社新書ヴィジュアル版
発行年月日 2011.04.20
価格(税別) 760円

● 巻末の内田樹さんの「解説」が面白かった。ここを読むためだけに,この本を買う価値はあった。

● その「解説」からいくつか転載。
 本格的にスポーツをやっている人や,あるいは自然科学の最先端で仕事をしている人なら,すぐに納得してくださると思いますけれど,ある定型的な「増量法」でごりごりやっている限り,どうしても超えることのできない壁にぶつかります。その壁を超えるためには,発想を根本から変えるしかない。どういうふうに変えるかは分野によって,課題によってさまざまですけれど,いずれにせよ「コペルニクス的転回」が必要です。(p187)
 「この人と一緒に仕事をしいたいか,したくないか」ということは言葉を交わさなくても自分の身体が反応する。自分自身の内臓のわずかな緊張や脈拍や体温の変化,そういうものをていねいにモニターしていると,「この人と一緒に仕事をしいたいか,したくないか」はわかる。 面接する相手を仔細に観察して情報を得ているわけではないのです。自分を観察しているのです。(p194)
 僕たちはふつう自分の強さや才能といったプラス要素を誇示すれば,人々の尊敬や愛情を獲得できると考えています。でも,ほんとうはそうではない。僕たちは「あなたなしでは生きてゆけない」という弱さと無能の宣言を通じてしか,ほんとうの意味での「仲間」とは出会うことはできない。そういうものなのです。(p195)
 僕たちは「あなたなしでは生きてゆけない」という言葉を聴くと深い感動を覚える。それは,その言葉が「だから,あなたにはいつまでも健康で,愉快に,生き続けて欲しい」という強い予祝と祈りの言葉を伴って到来するからです。「あなたなしでは生きてゆけない」という祈りを向けられたものは,その懇請に応えるために「私は生き続けなければならない」という強い使命感を感じます。 予祝と使命感がどれほど人間の生きる知恵と力を高めるか,それは例えば幼児と母親が互いに見つめ合うさまを見れば理解できるはずです。(p196)
 たしかに,「誰の支援もなしに私は生きてゆける。私は誰にも迷惑をかけたくないし,誰からも迷惑をかけられたくない」と宣言する人もある意味では「強い」と言えます。でも,その強さには限界がある。というのは,そのような「自立」した個人には,その人に「死なれては困る」という人がいないからです。その人が仮に疲労の極,絶望の淵に立ったとき,死の限界を超えてもなお踏みとどまることができるでしょうか。僕はむずかしいと思います。(p197)
 僕はこのウソップという登場人物の造形の巧みさに,作者尾田栄一郎の天才性を感じたのです。(中略) ウソップの「責務」とは何でしょう。それは(中略)「ウソをつくこと」です。言い方を変えれば「物語を語ること」です。その才能が集団的なパフォーマンスに必要不可欠のものであるという理路は,ルフィもほかの乗組員も誰もうまく言葉にすることができません。でも,実はそうなんです。あらゆる集団は,「その栄光の冒険譚を末永く語り継ぐ」ストーリーテラーを含むことなしには,そのポテンシャルを最大限まで発揮することはできない。その貢献は,ある意味で,個別的な超人的身体能力のもたらす貢献を大きく上回ります。(p199)
 「自由な」とは,生きる知恵と力を最大化するためには,何をすることもためらわない,そのような開放性のことだとぼくは理解しています。自分なりの「こだわり」とか「美意識」とか「スタイル」とかいうものがあって,それを外すとうまく生きることができないと言っているうちは,まだまだ「自由な人間」とは呼ばれません。(p204)
 ルフィは自由です。仲間の誰よりも自由です。ほとんど無文脈的に自由です。「これまでのいきさつ」とか「ものごとの筋目」といったことはルフィの判断や行動を規制しません。ルフィが気にするのはただ一つ。それが自分にとって「楽しい」かどうか,それだけです。 もちろんこれは平凡な快楽主義とはまったく別のものです。快楽主義者たちは「説明」したがるからです。(p204)
 その人が発する言葉の重さと,そのコンテンツの「政治的正しさ」の間には相関関係は(ほとんど)ありません。むしろ,論理的に正しい命題だけを選択的に語っている人間の言葉はしだいに重みや深みを失っていく。そういうものです。正しい命題は言い換えを嫌います。だから,しだいに録音された音声のリピートのようなものになっていゆく。そういう言葉は人に届きません。(p206)
 僕たちの身体の奥には,そこから言葉が湧き出てくる「マグマ」のようなものが,熱を発して生き生きと活動しています。その「マグマ」からときどき間欠的にボコボコと気泡のように言葉が湧いてくる。それは用意されたものでもないし,検閲されたものでもないし,推敲されたものでもありません。だから,状況や条件が変わるたびにそのつど変わる。でも,源泉は一緒なので,どんなに表現が違っていても,「つじつまが合っている」んです。「マグマ」から湧き出す言葉は重く,深く,熱く,しっかりとした手応えがある。(p207)

2015年5月14日木曜日

2015.05.10 尾田栄一郎 『ONE PIECE STRONG WORDS 上巻』

書名 ONE PIECE STRONG WORDS 上巻
著者 尾田栄一郎
発行所 集英社新書ヴィジュアル版
発行年月日 2011.03.14
価格(税別) 760円

● 『ONE PIECE』のアンソロジーといっていいんだろうか。作家のエッセイや小説から文章を抜きだして1冊のアンソロジーを編むことはしばしばあるように思うんだけども,漫画から「STRONG WORDS」を抜きだすというのは,『ONE PIECE』以外に知らない(あるのかもしれないけど)。
 ただ,漫画からその一部だけを読むってのは,さほどに面白いものではないですね。ストーリーや展開があっての言葉(台詞)なのだろうな。

● ぼくは,じつは『ONE PIECE』は読んだことがない。テレビアニメは見てた。ムスコがまだ小さかった頃だから,15年も前の話か。
 圧巻だと思ったのは,クロコダイルだね。魅力的な悪役だったと思う。で,クロコダイルの巻が終わると,アニメも見なくなっちゃった。
 映画化されたものは,その後もムスコと見たことがあるけど。

● 解説を内田樹さんが書いている。『ONE PIECE』を「昭和残侠伝」になぞらえている。ルフィたちは支配者に刃向かう者なんだけど,体制自体は認めている,というようなことが語られる。

2015年4月29日水曜日

2015.04.26 内田 樹・釈徹宗 『聖地巡礼 ライジング 熊野紀行』

書名 聖地巡礼 ライジング 熊野紀行
著者 内田 樹・釈徹宗
発行所 東京書籍
発行年月日 2015.03.13
価格(税別) 1,500円

● 熊野に行ってみたくなった。熊野古道を歩いてみたい。観光案内書を読んでも,そうした気持ちになることはまずない。
 熊野の大いなるというか,他にはないというか,魅力が存分に伝わってきた。

● 本書の魅力のひとつは,聖地巡礼とは言いながら,それとは関係のない諸々の話題が飛び交うところだ。
 編集の手がだいぶ入っているはずだ。削除された話もかなりあるのじゃないかと思うけれども,その代わり,読みやすくなっているのだろう。

● 以下に転載するところも,そうした諸々の話題に属するものが多い。
 だいたい富者というのは,一代目は努力して立志伝中の人物となり,二代目はまだ一代目の苦労を見ているけれど,三代目になると生まれてからずっと金がある状況でしょ。そうすると,社会的に成熟しない。どこか世間を舐めた感じになる。とくに自分の家がすでに持っているものを手に入れようとして,ほかの人たちが必死に努力している様子が馬鹿に見える。だから,どうしても人を見下すようになる。(内田 p40)
 頭がいいし,人間がよく見えてもいるんだけど,そのせいでこの世はろくでもない人間しかいないと諦め切っていて,世の中を改善する気がない。だから,そういう人のまわりにはろくでもない人間ばかりが集まるようになる。(内田 p41)
● 社会事象の行き過ぎについても語られる。すでに何人もの人が語っていると思うんだけども,いつも確認しておくべきことがらだ。
 いまの動きは行き過ぎに対する補正なので,それも必ず行き過ぎます。(内田 p55)
 分配のフェアネスって,徹底すると,最終的にはポル・ポトになっちゃうんです。持てる者から奪い取って弱者に分配するということを徹底すると,必ずどこかで行き過ぎてしまう。たとえ貧しくても「そこそこ幸せ」と思うことが許されない。(内田 p55)
 正しいことでも「正し過ぎる」と災厄をもたらす。正義が正義になり過ぎないように,いいあんばいのところで手控えるというのは「大人の知恵」ですけど,こういうのは社会的に成熟しないと身に付かないし,不公平に怒っている人たちにそれを要求するのは,ほんとうに難しいんです。(内田 p56)
● 世界は連続体で境界はないんだけれども,人間は境界を引かずにはいられないのだ,という話。
 聖と俗の二項対立。そもそも昼と夜であったり,男と女であったり,善と悪であったり,そういう二項対立の中でしか人間は生きていくことができない。実際の世界はアナログの連続体であって,どこにも境界線なんかありません。でも,人間は境界線を引かずには生きられない。(内田 p175)
 さらにいえば,その境界線にもよいのと悪いのがあるような気がするんです。(中略) 悪いボーダーというのは,「UFOや霊魂なんてあるわけない」と線引きしてしまう,いわゆる「科学主義」です。科学主義と科学は別物です。科学主義というのは「エビデンスがあるかないか」という二項対立でデジタルに切り分けて,エビデンスがいま示されていないものについては,判断を留保するということをしないで,「存在しない」と決めつける態度のことです。硬直しているんです。科学主義の内側にとどまっている限り,科学の進歩なんかないのに。(内田 p175)
 ボーダーを引くのは,何もないより,そこに二項対立があったほうが知的に生産的だからです。その線上に感じのいいインターフェイスが生まれる。(内田 p176)
 二項対立で世界を分節しながらも,同時に「二項対立になじまぬもの」のための場所もとっておいてある。この「なにものであるか決めかねるので,どうなるのか,判断保留してしばらく待つ」という態度は人間の科学的知性にとっても,宗教的感性にとっても,非常に重要なものだという気がするんです。(内田 p177)
 相互参入しているクロスボーダーがいちばん多産的なんじゃないかな。海の文化と山の文化は二項対立的ですけれど,それが例外的な場所では「文化の汽水域」みたいに,相互参入して,入り交じっている。塩水と真水が混じり合うところにたくさん魚が棲息っするように,文化の汽水域にもそこにしかないないような不思議な混交体があれこれと生まれてくる。(内田 p178)
● その他,ぼくの脳にひっかかったところを転載。
 日本人はだんだん知的な負荷に耐えられなくなっている気がします。「話を簡単にしてほしい」「右か左か,どっちでもいいから,早く決めてくれ」という苛立ちを感じますね。(内田 p57)
 僕は多くの宗教研究者がいうほど,キリスト教が土着していないとは思っていないんです。たしかにものすごく時間はかかってはいますが,少しずつ昇華されて,日本人の肌感覚になっている部分も少なくありません。いまや教育や倫理観などはかなりキリスト教をベースにしています。(釈 p114)
 女の人がいるから男は真剣に祭りをやるんですよ。(釈 p134)
 城郭建築はもちろん軍事的な意味もあるんでしょうが,そこで暮らす人の身体感覚の感度を高めるための訓練の装置でもあったんだと思います。(内田 p153)
 成功するコミュニティっていうのは,センターに公共的で開放性の高い空間が確保されていること。その場を守る人がいること。いつ行っても,誰かそこを守る人がいる。そういった開かれた空間と恒常的な守り手がいることが共同的な空間が持続するための条件でしょうね。行ったときにドアが閉まっていることがあると共同体の中心にはなかなかなれないんです。(内田 p158)
 その品物についての物語が面白いわけで,贈与された物自体の価値は副次的なんです。「これについては因縁がある。聞きたいかい? 長い話になるよ」というきっかけになることが大切なんです。(内田 p160)
 六本木ヒルズとかレインボーブリッジとか東京スカイツリーとかミッドタウンとか,そういうのを見るとね,なんだか末期だなって気がするんです。六本木ヒルズには一回しか行ったことないんですけれど,なんか,瘴気漂う空間でしたね。(中略) あそこだって霊的に浄化することはできたんでしょうけれど,そういう装置が何もない。神社仏閣がない。祈りのための空間がない。そういう空間は人間が一定数以上いる場所には絶対に必要なんです。(内田 p162)
 「聖地はスラム化する」というのは,大瀧詠一さんの名言ですけれども,聖地の周りに世俗のものが拡がるのは,別に聖地を穢しているわけじゃなくて,聖地の発する人間的スケールを超えた力を抑制して,宗教的に成熟していない人間でも「服用可能」な強度にまで抑制する。そういう働きをめざしていることじゃないんでしょうか。(内田 p227)
 喜捨や歓待の文化は,自然が苛烈で見知らぬもの同士でもとにかく助け合わないと生きていけないという,やっぱりある種の地理的な状況のうえに成り立っているんだと思います。(内田 p283)
 鈴木大拙が「大地の霊」と呼んだ自然の生命力,野生のエネルギーを受け容れ,それを整えられた身体によって制御する技術,それが武道です。僕はそういうふうに理解しています。だから,道場は霊的に浄化された場所でなければならない。そんなものには何の意味もないと思う人もいるでしょう。人間が動き回れる空間があれば,それで十分だと思っている人は,道場を使っていない時間にはカラオケ教室にでも,こども体操教室にでも貸し出したらどうかというようなことを考えつくのかもしれません。でも「そういうこと」をすると道場の空気が変わってしまう。稽古できる状態に戻すために,それなりの儀礼をしないとはじまらない。(内田 p289)

2014年6月30日月曜日

2014.06.30 内田 樹 『先生はえらい』

書名 先生はえらい
著者 内田 樹
発行所 ちくまプリマー新書
発行年月日 2005.01.25
価格(税別) 760円

● このタイトルから本書の中身を想像できる人は,著者の本をすでにいくつも読んでいる人に限られるだろうね。

● 学びを恋愛のアナロジーから説き起こす。
 全員が妄想抜きの同一の客観的審美的基準で異性を眺めるということになったら,おおごとですよ。 恋愛というのは,「はたはいろいろ言うけれど,私にはこの人がとても素敵に見える」という客観的判断の断固たる無視の上にしか成立しないものです。(p15)
 こと生物に関する限り,ほとんどの場合,「誤解」がばらけることの方が,単一の「正解」にみんなが同意することよりも,類的な水準でのソロバン勘定は合うんです。(p16)
 技術には無限の段階があり,完璧な技術というものに人間は決して到達することができない。プロはどの道の人でも,必ずそのことをまず第一に教えます。 では,どうしてそれにもかかわらず,プロを目指す人は後を絶たないのか? それは完璧な技術に到達しえない仕方が一人一人違うからです。(p30)
● そして,脱線だと言いながら,本書の肝を書き下ろす。コミュニケーションの構造についてだ。
 ここでたいせつなことをみなさんに一つ教えておきます。 それは,人間はほんとうに重要なことについては,ほとんど必ず原因と結果を取り違える,ということです。 コミュニケーションはその典型的な事例です。 私たちに深い達成感をもたらす対話というのは,「言いたいこと」や「聴きたいこと」が先にあって,それがことばになって二人の間を行き来したというものではありません。そうではなく,ことばが行き交った後になって,はじめて「言いたかったこと」と「聴きたかったこと」を二人が知った。そういう経験なんです。(p72)
 コミュニケーションを駆動しているのは,たしかに「理解し合いたい」という欲望なのです。でも,対話は理解に達すると終わってしまう。だから,「理解し合いたいけれど,理解に達するのはできるだけ先延ばしにしたい」という矛盾した欲望を私たちは抱いているのです。(p102)
 コミュニケーションの目的は,メッセージの正確な授受ではなくて,メッセージをやりとりすることそれ自体ではないのでしょうか? だからこそ,コミュニケーションにおいては,意思の疎通が簡単に成就しないように,いろいろと仕掛けがしてあるのではないでしょうか?(p103)
● そのことを文学や芸術に落としこんでいく。そうして大団円となる。
 私たちが聴いて気分のよくなることばというのはいくつかの種類がありますが,そのすべてに共通するのは(誤解を招く表現ですが),そこに誤解の余地が残されているということです。(p116)
 わからないけれど,何か心に響く。「たしかに,そうだ」と腑に落ちるのだけれど,どこがどう腑に落ちたのかをはっきりとは言うことができない。だから,繰り返し読む。 そういう文章が読者の中に強く深く浸透する文章なのです。(p131)
 デヴィッド・リンチは(そして,ほかの多くの芸術分野でのクリエイターたちは)「何か言いたいこと」があらかじめあって,それを映像記号やオブジェや音符に託して表現しているわけではありません。「気が付いたら,こんなものができちゃった」というのが,芸術的創造においては,だいたいのみなさんの本音ではないかと思います。(p138)
 作者はしばしば自分がいちばん強い影響を受けた作家や作品のことを忘れます。 そもそもそれを忘れてしまわないと,「どうしてこんな作品ができたのかわからない」という自分自身の創造工程に対する「無知」が失われてしまうからです。 そして,「無知」に支えられない限り,人間は創造的になりえるはずがないのです。 自分がどうして作品を作るのか,どういう技法を使ったのか,誰の影響を受けたのか,どの点が新しいのか,何を伝えたいのか・・・・・・そういうことがあらかじめわかっていたら,人間は創造なんかしません。(p141)
 人間の個性というのは,言い換えれば,「誤答者としての独創性」です。あるメッセージを他の誰もそんなふうに誤解しないような仕方で誤解したという事実が,その受信者の独創性とアイデンティティを基礎づけるのです。(p151)
● というわけで,本書のキーワードをひとつあげろと言われれば,それは「誤解」である,と。「誤解」することが,コミュニケーション(人対人,人対文学,人対芸術)をコミュニケーションたらしめる心臓部であるということ。

2014年6月23日月曜日

2014.06.21 内田 樹・釈徹宗 『聖地巡礼 ビギニング』

書名 聖地巡礼 ビギニング
著者 内田 樹
    釈徹宗
発行所 東京書籍
発行年月日 2013.08.23
価格(税別) 1,500円

● 面白かった。対談形式で高度なことをわかりやすく語ってくれているという印象。聖地が聖地であることの種々様々な理由が語られる。
 中沢新一さんのアースダイバー論は以前に読んでなるほどと思ったものだけど,そのときと同じ感じ。が,それだけではない。もっと広範にいろんなことが語られる。

● たとえば,次のような話。
 「ええかーとし子,向こうに行ったら水が変わるから飲み物,食べ物には気いつけてな。人さまのもんにはどんなにほしくても万劫にも手を出したらあかんで。おまえは末っ子やから,帰ってきても家が困るから,どんなつらいことがあっても辛抱せなあかんでー」。 すると,とし子さんがまたうんうんとうなずく。黙って歩いていると,また「ええかー,とし子」がはじまる。(中略) やがてバスが着く。(中略)昔のバスですから,下から押し上げる窓ですよね。あれを開けてバーッと身体をのり出したんですって。ベンチに座っていたお母さんも気づいてダーッと走ってきて,窓の下で二人は一瞬見つめ合ったそうです。 最後のお別れやなと思って茂利先生が見てたら,お母さんの「ええかー,とし子」ってはじまったんです。そしたら今度は「つらかったら何時でも帰って来いよー」というたんですって。そしたらね,「お母さんっ!」って,とし子さんの声を一回だけ聞いたと茂利先生はいうてはりました。(釈 p137)
 釈さんは「この「帰ってこいよ」「お母さん」といった呼応に,宗教の原型を見る思いがします」と引き取り,本来はかなり合理的でクールな宗教である仏教が,日本に移植されるとだいぶウェットになったと総括する。

● 「つらかったら何時でも帰って来いよー」という思いを忍んで,娘を奉公に出さなければならない母親。その思いをわかったうえで覚悟を決めている娘。ここのところの切なさが,この話の通奏低音。
 すべてはその上での解釈だ。ぼくらはこの母親の崇高な境地をかすめることが生涯に一度でもあるかどうか。良い時代に生きていると言っていいのだろう。これ,相当にしんどいもん。

● ほかにいくつか転載。
 この四天王寺とは,日本でもっとも優しいお寺なんです。すべての敗者を受け入れてきましたから。だから荒陵に建てられるのも無理ないんです。荒陵って,生と死の境界線上みたいなところです。『弱法師』でも『しんとく丸』でもここに捨てられたし,施薬院や悲田院がつくられる。死者や敗者が集い,実はそれらは自分の写し身じゃないかととらえて祀る,そんな場所ですね,ここは。(釈 p128)
 いつ行ってもその場所が自分にとって新しく見えたり,あるいは元の自分に戻れたりするような場所があるんです。(釈 p164)
 じつはそういう場所,ぼくにもある。生まれ故郷に近い山(低い山だけど)の尾根道だ。途中,山幅が狭くなって,両側に集落が見える箇所がある。一方は田んぼが伸びやかに拡がる豊かそうな集落。もう一方は耕地が狭くて貧しそうな集落。どっちにしても今は耕地に縛られたりはしていないんだろうけど,そんなことを思わせる場所。
 もっともそれがぼくにとってのそういう場所である理由ではなくて,眼下に蛇行する河があって,田んぼが拡がっていて,その向こうに家々がひかえめに連坦している。それを眺めていると,何とはなしにここはオレがいてもいい場所だと思う。
 宗教というのはぎゅっとエネルギーが集積してしまうものです。でも笑いがそれをポカッと外すような役目をしていて,そこに演劇の原型を見るような気がします。宗教が熱狂的な方向に行ってしまわないために,どこかで脱臼させるような役割は大事だと思うんです。(釈 p171)

2014年6月10日火曜日

2014.06.09 内田 樹 『街場の読書論』

書名 街場の読書論
著者 内田 樹
発行所 太田出版
発行年月日 2012.04.29
価格(税別) 1,600円

● この人のものを読んだのは,これが初めて。“知の巨人”という手垢にまみれた言葉があるけれども,世の中に巨人はいるものなのだね。
 本書をぼくがどれほど理解できたのか,まったくおぼつかない。けれども,面白かったですよ。面白ければそれでいい。そのように思い決めている。だから,理解できようができまいが,本書を読めてよかったと思う。

● 著作権の話など,なるほどと思うことの連続だった。著作権はもともと政治の産物であって,かくあるべしという不易の理屈に載っているわけではない。
 自分が本を書くのは読んでもらいたいからであって,本を購入してもらいたいからではないっていう,まっとうな話。

● “箴言”のオンパレード。そこから多すぎるかもしれない転載。
 交換においては交換される物品の有用性に着目すると交換の意味がわからなくなる。交換の目的は「交換すること」それ自体である。(p82)
 教条や社会科学は「汎通性」を要求する。あらゆる歴史的状況について普遍的に妥当する「真理」であることを要求する。だが,その代償として失うものが多すぎる。マルクスの理論が普遍的に妥当すると主張してしまうと,なぜ他ならぬマルクスが,このときに,この場所で,このような文章を書き,このような思想を鍛え上げたのか,という状況の一回性は軽視される。(p106)
 たしかに,「快刀乱麻を断つ」読みのもたらす爽快感や全能感が私たちにはときには必要だ。でも,爽快感や全能感を欲するのは,私たちが賢明で強い人間だからではなく,あまり賢明でなく,それほど強くない人間だからである。その原因結果の関係だけは覚えておこう。(p217)
 いったん「極端」まで行ってから「戻ってきた」人の方が,はじめから「そこ」にいる人よりも,自分がしていることの意味をよく理解しているというのは経験的にはたしかなことです。(p241)
 社会問題はぎりぎり切り詰めると,実践的には「どうやって大人を育てるか」というところにいきつきます。(p244)
 物書きは本質的には「ニッチ・ビジネス」である。つまり,「私の代弁者がどこにもいない」という不充足感に苦しむ読者たちをクライアントに評定する,ということである。(p269)
 もし歴史を動かすほんとうに大きな出来事があったとしたら,それは出来事としては出来しないだろうということである。もっとも巨大な人間的努力、もっとも精密な人間的巧知は,「起こってもよかったはずの災厄が起こらなかった」というかたちで達成されるからである。(p291)
 美的価値とは,畢竟するところ,「死ぬことができる」「滅びることができる」という可能態のうちに棲まっている。 私たちが死ぬのを嫌がるのは,生きることが楽しいからではない。一度死ぬと,もう死ねないからである。(中略) 私たちが定型的な言葉を嫌うのは,それが「生きていない」からではない。それが「死なない」からである。(p347)
 真に「古典」という名に値する書物とは,「それが書かれるまで,そのようなものを読みたいと思っている読者がいなかった書物」のことである。書物が「それを読むことのできる読者」「それを読むことに快楽を覚える読者」を創り出すのであって,あらかじめ存在する読者の読解能力や欲望に合わせて書物は書かれるのではない。(p394)
 長く生きてきてわかったことの一つは,人間は「自分宛てのメッセージでないものを理解するために知的資源を投じることについてはきわめて吝嗇である」ということです。 一度,「あ,これはオレ宛ての話じゃないわ」と思われたら,発信者がどれほどがんばってメッセージを送っても,右の耳から左の耳に素通りです。 ですから,ひとりでも多くの人に話を聞いてほしい,書いたものを読んでほしいと思う人間にとっての技術的な最優先課題は「どうすれば,聴き手や読み手はこのメッセージを『自分宛てだ』と思ってくれるか」ということに集約されることになります。(p407)