著者 内田 樹・釈徹宗
発行所 東京書籍
発行年月日 2016.12.01
価格(税別) 1,600円
● 聖地巡礼シリーズの3冊目。副題は「長崎,隠れキリシタンの里へ!」。案内役の下妻みどりさんが重要な役割を果たしていて,3人目の著者といっていいと思うんだけど,彼女は著者には入っていない。
● 話は八方に飛ぶ。それがこの聖地巡礼シリーズの面白さ。隠れキリシタンから日本の風土や鎖国の話に及ぶ。
編集段階で整理はしているんだろうけども,整理しすぎないその按配がよろしいのだろう。
● 以下に,多すぎるかもしれない転載。
キリスト教にしても,浄土真宗にしても,弱者の宗教という面があります。弱者が苦難の人生を生きるための手立て,それは「信じる」です。「信じる」という態度は,人間のあらゆる感情やパフォーマンスの中で最も強いものだと思います。(釈 p18)
「日本の宗教土壌にはキリスト教のような一神教は合わない」とよく指摘されますよね。確かに反りが合わない面もあるのですが,日本においてもときどき一神教的な宗教が大きく展開するんです。たとえば,浄土真宗や日蓮宗などは一神教的な性格を持っている宗派です。(釈 p26)
世界に誇れる日本の資源といったらそれですよ。霊的な資源というのは,土地に長い時間をかけて堆積してゆくものなんですから。その上に現代的なものが乗って押しつぶしているけれど,これをどうやって賦活させるのか,それが二一世紀の日本の課題だと思います。(内田 p61)
自己利益とか党派性とかまったく無関係に純粋に論理的にある立場の瑕疵を吟味するというのは,ユダヤ教が源流でしょうね。ラビたちの聖句をめぐる論争というのは,「あなたがそう言うなら,私はそれと反対のことを言う」という知的な訓練ですからね。自分の個人的信条をいったん「棚に上げて」,ある主張の論理的瑕疵を徹底的に追求する。あれやると,頭よくなるんです。(内田 p65)
来世に強烈なリアリティがないと態度をつらぬき通すことなどできなかったでしょう。純粋な信仰だけで殉教したのは,ローマと長崎だけだとも言われます。(釈 p79)
日本は(太平洋戦争で)負けすぎたんです。もう少し負け方が穏やかだったら,臥薪嘗胆,「次は勝つ」という気持ちも持てたでしょうけれど,もうそんな言葉も出ないほどにボロボロに負けた。(内田 p87)
コアに本来の濃厚な宗教性があって,周りにそれを守ろうという人たちがいて,さらにその周りには観光客がいる。だから強い聖地の周辺は俗化する。(釈 p96)
もしかすると,キリスト教にはある「巨大な言い落とし」があって,それは「自分を愛する」とはどういうことかについて何も教えていないことじゃないかなと,あるときふっと思ったんですよ。(中略)東洋的な発想からすれば,「孝の始め」はまず自分の身体を大切にすることであって,自分の身体をできるだけ傷つけないように保持する。でも,身体保全の原理は,殉教と矛盾する。だから,身体髪膚を「与えられたもの」だとは考えないで,自分の所有物だと思う。(中略)身体軽視はユダヤ教からキリスト教が分離するときのたぶんいちばん大きな切断線じゃないかと思うんです。(中略)ユダヤ教では日々守るげき祭祀儀礼や食事や服装についても詳細な規定がある。自分の身体をていねいに扱って,栄養状態もよく管理して,身体を気分よく使える状態にしておかないと,こういう煩瑣で具体的な儀礼は守れない。でも,キリスト教の場合は,心の中にほんとうの信仰があれば,外形的な戒律や儀礼はどうでもいいとされる。(内田 p106)
どういう理由か,行政が手がけるアートってことごとくダメですよね。道を綺麗に整備して,点々と置いたりするアートにしても,まともなものってないですから。(釈 p130)
聖地の霊的な力は行政が介入すると必ず衰えますね。聖地の力と行政の介入は反比例する。(内田 p134)
踏んじゃった自分に対する自己評価は激しく下がる。だから,自己評価を上げるためには,私は恥ずべき人間だという厳しい倫理的断罪を自分自身に突きつけるしかない。(中略)だから,踏み絵ってほんとうに残酷な刑罰だと思うんです。処罰するのが役人ではなく,自分自身なんですから。自分からは逃れようがない。(内田 p135)
他と妥協しにくいタイプの宗教もけっこうあります。浄土真宗や日蓮宗などはその代表です。弱者の宗教はその傾向が強い。(釈 p160)
オラショはたぶん瞑想の道具なんでしょうね。たぶん途中からトランス状態ですよ。(内田 p161)
やはりどこか自然とシンクロしないと,宗教って明るさが出ませんよね。逆にいえば,内省型の宗教も自然とシンクロさえすれば開放的な部分が生まれる。(釈 p161)
日本のクリスチャンって,どこかの段階で自己決定して洗礼を受けるわけじゃないですか。だから,どこか自分の信仰に不安がある。自己決定して選ぶことができた信仰なら,自己決定で捨てることもできるわけですから。でも,この土地の人たちにはそういう不安がない。(内田 p170)
釈 成功者のうしろめたさというのは世界の各文化圏で見られるそうです。むしろプロテスタントのように,社会的成功こそが神の救いという考え方のほうがちょっと珍しいみたいです。そうすると,あらためてカトリックの共同体志向とプロテスタントの個人志向が確認されますね。 内田 だから,カトリックの方が海外布教がうまいし,その延長で植民地経営もうまい。アメリカのプロテスタンティズムは植民地経営向きじゃないですね。(p180)
邪悪さというのは,どこからか「スケールの問題」になるんです。人間が制御できないものは人間世界に持ち込んではいけない。人間の物語に回収できないんですから。(内田 p201)
個人的にどれほど苦しもうとも,殺した事実は変わらない,殺された人は生き返らない,だから無意味だというのは悪質なニヒリズムです。システムに対して我々が抗せるのは屈託とかやり切れなさとか,そういうどうしても片付かない気持ちなんです。片付かない気持ちってね,思っている以上に現実変成力があるんです。(内田 p203)
もっとキリシタンの心性の解釈には多様性があっていいんだと思います。(遠藤周作の)『沈黙』という物語は力がありますから,ついそれに居着いてしまいますけれど,複数の物語が共生している方が土地にとっては風通しがよいんじゃないですか。(内田 p207)
中国がそうでしたよね。イエズス会は明代に宮廷に入り込んで,多くの宮廷人を改宗させることに成功しました。特にヨーロッパの科学技術を持ち込んで,それによって知識人層の関心をつかんだことが大きかった。でも,後にやってきた修道会は,イエズス会に比べるとはるかに原理主義的で,祖霊崇拝の儀式をすべて否定した。(中略)それが皇帝の逆鱗に触れて以後キリスト教は禁教となります。(内田 p227)
戦国時代まではじゃんじゃん山の木を伐採して,築城や製鉄に使っていた。特に製鉄は大量の木材を消費した。そのせいで,戦国末期には日本の山は次々と禿げ山になっていった。その森林の保護を徳川政権が行った。ジャレド・ダイアモンドの『文明崩壊』によると,人類史で,文明による自然破壊を政治権力が介入して停止させた事例は徳川時代の日本だけだそうです。(内田 p234)
鎖国というのも,よくよく考えると実に大胆な政策難です。強制的に歴史の進歩を停止させようとしたんですから。経済を定常化し,社会のかたちも定常化しようとした。(中略)その方が人間は幸福だと考えたんでしょう。これは独特の統治理念の実践だったと思いますね。(中略)これは,かなり性根の据わった統治理論を持ってないと維持できないですよ。(p234)鎖国が完成したのは家光の時代か。そこまで考えて鎖国に踏み切ったんだろうか。むしろ何も考えてなかったのではないか。
(戦国末期に)日本人は当初は外来の科学技術の導入に対して貪欲でしたけれども,どこかの段階でブレーキがかかった。僕はどうしてブレーキがかかったのか,それが気になるんです。(中略)信長や秀吉の時代の日本の統治者たちは,海外についてもかなり信頼性の高い情報を有していたはずだからです。(中略)東アジアに限って言えば,当時の日本の政権の方が,マドリッドの政府よりも,情報収集力も分析力も圧倒的に高かったはずですよ。(内田 p240)
イエズス会士たちが個人的には島原の乱に対して同情的だったのは当然ですけれど,修道会として他国の内戦にコミットするということはしないでしょう。でも,そういう「陰謀集団がすべてを陰で操っていた」という話は歴史解釈において知的負荷を劇的に軽減してくれるので,あまり深くものを考える習慣のない人は飛びついちゃうんです。(内田 p242)
僕は告白については,やや懐疑的なんです。告白するとき,当人は自分をふたつに分裂しているわけですよね。罪や弱さを暴露される自分と,それを容赦なく暴露する自分。そうやって人格を便宜的に二分割する。いわば成熟した自分と未熟な自分に分けてしまう。そして,成熟した自分が仮借なく未熟な自分を分析し,切り刻んでいく。それってうまくゆきすぎて,結果的にあまり人間を成熟させない気がする。成熟って,自分の未熟さを受け入れるってことだと思うんです。(内田 p256)
儀礼は心身の負担を軽減するために装置なんですよ。儀礼なしで,自分の信仰は果たして真実のものであろうか,それとも表層的な欺瞞的なものに過ぎないのか・・・・・・なんて頭抱えだしたら,身体が持たないですよ。(内田 p260)
内田 この「負けしろ」の大きさが,僕は日本の最大の国民資産だと思います。「落人部落」とか「隠れキリシタン」というのは,すぐれて日本的な存在なんだと思いますけれど,それを可能にしたのは,この奥深い谷なんです。 釈 なるほど,負けても生きていける,そういう地形なんですね。(p264)
宗教って,ある種のひとつの「病み方」なんですよね。健全な人ってこの世に一人もいないですから。程度の差はあれ,みんな心を病んでいる。そして,人間の持つ本質的な弱さは必ず「物語」を求める。宇宙を統べるひとつの統一的な摂理があって,自分の個人的な祈りが,そこに伝わると,宇宙の風景に,自分の祈りによってわずかではあれ変化がもたらされる。(中略)どこかで類的な宿命に繋がっていたい。有限的な存在が,無限の境地と,ある超越性の回路を経由して繋がることを夢見る。そういう物語を人間はどうしても必要としているんだと思います。(内田 p284)
宗教的迫害の対象になることは,強烈な選民意識を刺激するはずです。ネガティブではあるけれど,劇的な高揚感があるはずで。(内田 p286)
神に至る道には神なき宿駅があるというのがユダヤ教以来の一神教の基本です。神が今まさにここに顕現して来ない,神が今ここでは不在であるという事実そのものが,神の不在に耐えても信仰を維持できるような宗教的成熟を促す,という。(内田 p287)
地下に潜伏というのをネガティブに考えがちですけど,地下に潜伏ってけっこうワクワクする経験のような気がするんです。(内田 p287)
国民国家というのは一個の幻想であり,イデオロギーです。(中略)かつてはそうではなかったし,いずれそうではなくなる。そういう期間限定の歴史的構成物です。でも,「国民国家の時代」においては,その事実はなかなか可視化されません。(内田 p293)
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