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2020年2月15日土曜日

2020.02.15 岩城宏之 『指揮のおけいこ』

書名 指揮のおけいこ
著者 岩城宏之
発行所 文藝春秋
発行年月日 1999.05.30
価格(税別) 1,524円

● 再読。指揮の才能の他に文才まである。前者は今更としても,後者はぼくにも与えて欲しかったぞ。

● 本は読み物として面白ければ,それ以上は望まないというのが,ぼくの基本的な態度。面白さには色々あるが,文章そのものが味わうに足るものであれば,言うことはない。自分には書けないなぁと思わされる文章を読む楽しみ。
 本書はそれも満たしてくれるのだが,やはり文章以外の,指揮者という職業の大変さや面白さを教えてもらえるという実用的な面も大きい。というか,専門家のエッセイとは必ずそこのところがウリになるものだろう。

2019年1月1日火曜日

2019.01.01 岩城宏之 『フィルハーモニーの風景』

書名 フィルハーモニーの風景
著者 岩城宏之
発行所 岩波新書
発行年月日 1990.08.20
価格(税別) 550円

● 30年前の風景になる。5章構成。
 最初の2章(全体の3分の1)が,本書の価値の8割。ウィーン・フィルとベルリン・フィル。世界を代表する2つの“ハーモニカー”についての分析。両方を指揮したことがあればこその説得力。

● 以下に多すぎる転載。
 何故ウィーン・フィルが世界唯一の無形文化財であるかという秘密は,彼らの音楽に対する「趣味性」だ,と思うのである。(p8)
 カラヤンに抵抗し,彼の棒とは全く関係のないテンポで,整然と引き出したあのアンサンブルの秘密は,いったい何なのだろう。コンサートマスターが大袈裟に合図をしたわけではない。実に不思議だった。(p15)
 オーストリアは人口七百万の小さな国である。純血を貫くのは甚だ困難であろう。同時にこれは,ウィーン・フィルのすべてのセクションの音楽家たちが,同門であることを意味する。つまり師弟関係で成り立っているわけだ。(中略)同じ奏法,同じ音色の集合体ということが,あのオルガントーンの最大の秘密だと思う。(p34)
 ひとりがクールな感じで言った。「あのジイさん(ベーム)の棒の通りに弾いたらエライコトになるんだぜ。もうすっかりモウロクしているからテンポは延び放題だし,手がブルブル震えっぱなしで,何がなんだかわからないんだ。でもとにかくエライ指揮者だし,いや,偉大な人だったんだから,お客さんの期待と感動に水を差さないように,あれたちがカバーしてやってるのさ。苦労するよ。ショウバイ,ショウバイ」(p36)
 メイフラワー号から始まった複合民族の移民国家が短期間に世界最大の国を形成したエネルギーは,彼らが「味覚への欲求」を捨て去ったことからくるのではないかと思うのだ。(p53)
 最近数年間の両者のギクシャクはかなり話題になったが,本来運命的に敵同士である指揮者とオーケストラの関係を考えると,三十年という長い年月の付き合いとしては信じられないほど良好な関係だったといえる。(中略)オーケストラが彼のもとで演奏することの利益は,多大の収入の保証はともかく,まず第一に働きやすいからなのである。(p55)
 「ドライブしてはいけない。オーケストラをキャリーしろ」(中略)手綱を緩め馬を自由にさせてやる。馬は乗り手の存在を忘れ,自分が行きたい方へ好きなスピードで進む。しかし本当は乗り手に統御されている。指揮とはこうあるべきだとカラヤンは言ったわけである。(p58)
 コッホは笑いながら言うのだった。「われわれフィルハーモニカーは,どんな曲でも一度聴いたら全員のパートを覚えなければならないように躾けられているからでしょうね」 全身に鳥肌が立った。(中略)コンサートマスターのシュヴァルベは「お互いが聴き合わない」とベルリン・フィルの欠点を指摘し,机を叩いて怒っていたが,それはコッホのような能力を全員がふまえた上での,その先の次元のことだったのだ。高いレヴェルの長い伝統の積み重ねに加え,二,三十年でこのような「自発能力者」ばかりの集団に育てあげたカラヤンの凄さに,改めて驚嘆した。(p69)
 指揮とは教わることも教えることもできないものだと,ぼくは思っている。「盗む」だけというのが信念である。だからレッスンなるものをしたことはない。(p84)
 もともと明るい性格で,これはオーケストラの裏方として絶対条件だ(p93)
 わが国でも劇場-芝居小屋の裏方サンにちゃんと「挨拶」しておかないと,公演中に頭の上からトンカチが降ってくるという,何となく伝説みたいな話があるが,洋の東西を問わず「小屋」とは,そういうものらしい。(p97)
 上手くいって当たり前で,ちょっとのミスでも演奏家やお客にこっぴどく怒られる仕事である。だからこそ,われわれは裏方を畏れなければならないし,言い換えれば,彼らへの「感謝」を思わない,あるいは忘れている人間は表方になる資格がないと思う。(p97)
 残響の中での音楽はゴマカシだ。こういう意見がわが国の音楽界の大勢を占めていたと思う。(中略)明治初期に西洋の音楽を受け入れたとき,「音楽は美しい響きの中で聴くもの」という観念が,日本に入ってこなかったのが悔やまれる。(p197)
 概して日本の伝統音楽では,スパッと断ち切る音が素材として使われているようである。ということは同時に,音と音のあいだの「無」-「間」を大切にしたわけだろう。この空間の魅力を,日本人は「余韻」と表現したのではないか。 一方,音と音の間を残響でつなげ,ひとつの流れにしているのが,西洋の音楽だと思う。(中略)われわれの民族では「無」も「有」であり,ヨーロッパ人には「有」のみが「有」なのである。(p200)
 とにかく断言できるのは,超一流のオーケストラならば,必ず超一流の会場を本拠地にしていることだ。良いホールが良いオーケストラを作る,と言ってもいい。普段,音の良いところで演奏している団体は,音の悪いホールに行ってもビクともしないものである。(中略)逆は成り立たない。(p206)
 自分たちの練習場を持っていないオーケストラが,日本にはいくつもあるのだ。毎日のように練習場所を借りてまわるオーケストラに,繊細な音作りを望むのは,無理というものである。(p206)
 最晩年のカラヤンの指揮を,ぼくはTVでしか見ていない。世の中には,以前の華麗な指揮ぶりが見られなくなったと,カラヤンの衰えばかりを騒ぎたてたひとが多かった。しかしぼくは,かれの指揮がとてつもなく高い次元に到達したと感じていた。動きが極端に制約されてしまった身体から,より多くの表現をオーケストラに与えていたと思う。(p211)

2018年12月31日月曜日

2018.12.31 岩城宏之 『オーケストラの職人たち』

書名 オーケストラの職人たち
著者 岩城宏之
発行所 文藝春秋
発行年月日 2002.02.25
価格(税別) 1,524円

● 指揮者と演奏者がいるだけでは,コンサートを催行することはできない。裏方の人間がいなければ。
 その裏方の仕事を,というより傑出した裏方人のエピソードを,著書ならではの視点でご紹介。

● 以下にいくつか転載。
 世界一のステージマネージャーがいるオーケストラは,必ず世界一流である。逆もまた真だ。(p24)
 弦楽器の名器は,死蔵しておいたらダメになってしまうのである。ヨーロッパやアメリカの音楽好きな金持ちは,手に入れた名器を,これはと目をつけた優秀な若い奏者に,タダで貸し与えている。よい楽器は,上手い奏者が引き続けていると,ますますよくなるのだ。下手なのが弾くと,楽器もダメになる。でも金庫にしまっておくよりは,まだましかもしれない。日本中に,成金の名器コレクターたちが,何人もいる。企業として買いあさったところも多い。世界中の数少ないクレモナの名器の多くを,殺しているようなものだ。文化への犯罪だといいたい。(p72)
 準備万端整うのを待っていたら何事もできないから,まず決行するのが,ぼくの主義である。(p101)
 日本も含めて世界中,お医者さんには音楽好きが多い。ひと頃,NHK交響楽団の定期会員には,聖路加国際病院の医師や看護婦さんが,実にたくさんいた。ひとつの企業(?)の中の,オーケストラ定期会員率というデータがあれば,おそらくこの病院がナンバーワンだったろう。現在でも,多分そうだろうと思う。(p112)
 写譜のミスよりも,むしろアレンジャー--作曲家のスコアのまちがいの方が多いものである。(p122)
 勘がよく,能力のある楽員は,最初に目を通す,つまり初見で弾くときに,写譜の間違いの音を,直観で正しい音に直して,演奏するものである。(p145)
 聴衆の耳は常に保守的であり,聴き慣れた音楽を好む。(p152)
 元を正せばすべて親類関係なのだ。区別するために仕方なくクラシックとかジャズ,演歌などと言っていることから,差別や逆差別,得体の知れない優越感やコンプレックスが生まれたのではないか。(p159)
 彼らは当然,仕事の安全な利益を考える。ひと月に一度は音楽会に足を運ぶと予測するクラシック愛好者を,人口の二パーセントと計算しているそうである。(中略)毎月一度というのは,ちょっと希望的すぎると思う。(p160)
 本当のことをいうと,自分で外国のオーケストラを指揮するのは,仕事であるというより,ぼくの最高の嬉しい趣味なのだ。とんでもないことを書くが,ほかの日本人の音楽家の演奏を観るのは,どうも好きじゃない。(p165)
 ピアノ技術研究所に入ってまずショックだったのは,あれだけ親しんできたピアノの音がわからないことでした。(中略)ピアノの調律の音としての響きが聞こえなくて,ピアノの音楽しかきくことができないわけです。(瀬川宏 p200)
 あるレベルまでは機械調律でもっていくことはできます。でも,曲を弾くとなると,塩加減というのかな。スープは飲み始めにちょっと薄いと思うくらいのが,最後まで飲んだとき,本当においしいですよね。ぼくらの仕事にもそれがあるようなんです。断言はできませんが。でもそうじゃないかな,と思うんです。(瀬川 p206)
 本来オーケストラというガクタイ集団は,演奏が終わるやいなや,一刻も早くステージから出ていきたい本能の持ち主なのだ。(p212)
 驚いたことに,大勢の客が,他の人の邪魔にならないように,静かに立ち上がり,足音をしのばせて,そーっと会場を出て行ったのだ。『ドナウ』が終わるころは,お客は三分の一くらいになっていた。ぼくはこの聴衆のあり方に,すごく感動した。彼らはもちろんウィーン・フィルの『ドナウ』が好きなのだ。だが,ベートーヴェンの「運命」の白熱した演奏の興奮のあとに,この美しいワルツを聴きたくなかったのだ。ベートーヴェンの感動だけを胸にしまって,その日をおしまいにしたかったわけである。なんでもかんでも拍手して「タダのおみやげ」を,何曲も聴こうというレベルではないのだった。(p228)
 先の音楽会の宣伝も今日の音楽会が終わってからでなく,開始の前に配るのが重要だと思います。つまり,食べ物のことは,これから食べる食事とは関係なく,食事前に考えたほうがいいと思うんです。終わったばかりでは,次の食事のことは考えませんからね。(佐藤修悦 p247)

2018年12月27日木曜日

2018.12.27 岩城宏之 『指揮のおけいこ』

書名 指揮のおけいこ
著者 岩城宏之
発行所 文藝春秋
発行年月日 1999.05.30
価格(税別) 1,524円

● 達意の文章。達意というか,しなやかな文章。音楽家の多くは本を読まないらしい。何となく納得する。活字がかったるくなるのではないか。一流の音楽は一流の文学を超えるし。
 最も面白かったのは,暗譜で振って失敗した話。なるほど,こういうことが起こり得るのかと。

● 以下に転載。
 テンポの違いとか解釈の相違も重大だが,音色に関しては曲の最初から最後まで,無限の組み合わせが連続するのだ。つまり指揮者は,オーケストラにピタリと合奏させるために存在するのだけれど,物理的にピタリとは絶対にいかないからこそ,存在理由があるわけだ。(p9)
 ほとんどの楽譜は演奏したあとで捨てる。なまじっか持っていると,継ぐに指揮するときに,自分の書き込みとかメモに頼って,勉強しないでやってしまう。だからいちいち新しいのを買う。(p14)
 奏者たちは指揮棒の先など見ていない。指揮者の目を見ているのだ。(p19)
 指揮者なしだと,オーケストラはいわば安全運転をするので,テンポの動きや表情の幅が希薄になる。このことのために,指揮者の存在理由があるのだ。(p26)
 大抵の「ガクタイ」は長いリハーサルが嫌いだ。(p52)
 指揮者はリハーサルでしゃべりすぎてはいけないのだ。楽員たちは,解説やおしゃべりの多い指揮者を,最も嫌う。つべこべ言わずに,自分のやりたい解釈を指揮棒で表現しろ,というのだ。(中略)不自由な外国語だと,余計なことを言う余裕がない。(中略)ところが母国語だと(中略)延々としゃべってしまう。(p56)
 ヨーロッパ語には音楽上のニュアンスを一言で表す単語が豊富だ。(中略)ぼくの英独仏語はイイカゲンなものだ。本当はデタラメをやっているに違いない。だが,このデタラメでイイカゲンで嬉々として仕事をする,ということが,肝心なところなのである。どの国の指揮者にとっても,自分の国のオーケストラとの仕事が一番難しい,と書いた。お互いわかり過ぎている関係には,チンプンカンプンが起こり難いからである。「アバタもエクボ」は,とても大切なのである。(p63)
 新聞の音楽会広告を眺めていると,みんなダラダラと絶え間なく仕事をしているように見える。余計なお世話かもしれないが,心配してしまう。(p69)
 指揮者に限らず,一,二パーセントの例外を除いて,音楽家は活字というものを読まない種族である。(p69)
 指揮という仕事は,オーケストラの真ん中でカッコよく両手を振っている商売と思われているが,あの動作は,水面に出ている氷山の一角なのである。(中略)水面下の圧倒的な大部分は,スコアの分析である。(中略)その上で,自分が再現したい理想の演奏を,ひたすら「思う」のである。指揮とは,この「思い」だけだと言っていいのだろう。(p88)
 巨匠たちは「枯れた美」そのものだった。九十歳の女性指揮者の「枯れた美」はいかがなものか。(p97)
 その場の雰囲気のための潤滑油としての罪のないウソを,女はつけないのである。だから指揮者には向かない。(p98)
 事故に直面したとき,ガチャーンの前に,キャッと叫んでハンドルから手を離してしまう女性ドライバーが,かなり多いそうだ。(中略)指揮者は,練習と本番のどの瞬間でも,絶え間なく事故の防止に神経を遣わなければならない。(p99)
 そして最初のミスっぽいのは,指揮がどこかでヘンだったことからくる。事故のほとんどの原因,遠因は指揮者からと思っていれば間違いない。(p99)
 『春の祭典』の演奏の難しさは,身も心も疲れ果てているときに,最大の難所がくることにある。(p122)
 大事故の原因は,頭の中にフォトコピーした架空のスコアをめくっていたとき,いつものくせで,うっかり二ページ一緒にめくってしまったからだった。というより,そのうっかりの映像が,目の前に出てしまったのだ。(p126)
 「巨匠」となるのは,冥王星に旅行するより難しい。「巨匠」は多くの「名指揮者」の中で,特別に巨大なエネルギーを持ったバケモノなのである。(p133)
 大物指揮者になるための一番の近道は,ユダヤ人になることだ。指揮者に限らず,世界的な演奏家の九〇パーセント以上は,ユダヤ人である。(p137)
 もう一つ,世界的な大物の音楽家であるための,強力な資格があるのだ。ホモセクシュアルである。この割合も,過半数をはるかに越える。(p138)
 指揮者はオーケストラにどんな瞬間も採点されている。(p139)
 目を瞑りっぱなしなら,自宅でCDを聴いているのと,同じではありませんか。(中略)せっかくナマの現場にいるのなら,素晴らしい演奏をしている音楽家の動作の美しさを,時々は目を開けて見てほしい。(p145)
 問題は,やたらに大仰な身振りの,何もかもダメな指揮者がいることである。しかも(中略)聴きわける力のない,多くの聴衆は,カッコいいと思われてしまうヤカラがたくさんいるから,困るのだ。(p146)
 ウィーン・フィルの定期演奏会は,日曜日の朝十一時である。定期会員は座席を親子代々受け継いでいるから,旅行者がこの定期演奏会を聴くのは,まず不可能だ。(p162)
 最近聞いた話だが,東京近辺だけでも「指揮で食っている」人間が,少なくとも千五百人はいるのだそうだ。(p186)
 どんな楽器と比較しても,指揮棒は恥ずかしいほど安いのだ。せいぜい二,三千円のものを,絶対に折れないから得だと思って買っていくような根性で,相手がアマチュアのオーケストラでもコーラスでも,指揮をしようというのが間違っている。(p193)
 指揮は,頭の中で自分の理想の演奏状態を架空に作り上げ,それを両腕と顔を使って,オーケストラに伝える。(p199)
 あらゆるスポーツにとって最も大切なことは,「力を抜く」である。スポーツに限らない。人間の動作や行動のすべてにあてはまる。だが,「力を抜く」とはどういうことなのだろうか。(中略)力を抜くためには,まず,あり余る力が必要なのだ。(中略)あれは要するに,合理的な力の出し方を言っているのだと思う。(p210)

2018年12月23日日曜日

2018.12.23 岩城宏之 『棒ふりのカフェテラス』

書名 棒ふりのカフェテラス
著者 岩城宏之
発行所 文藝春秋
発行年月日 1981.05.01
価格(税別) 980円

● 40年前に出たものだけれども,古さは感じない。どの分野でも文才のある人はいるもので,音楽界では故岩城宏之さんがその代表だろう(探検家では角幡唯介さん)。こうした人たちの文章を読めることは,幸せのひとつに数えていいと思う。
 これは交友録なのだが,つまりは書き手が自分を語ることになる。

● その交友の相手は次のとおり。
 マルタ・アルゲリッチ
 レナード・バーンスタイン
 千葉馨(N響ホルン奏者)
 ディーン・ディクソン

 延命千之助(N響事務職員)
 ジャン・フルネ
 ジョージ・ゲイバー(NBC交響楽団のティンパニー奏者)
 ヤシャ・ハイフェッツ

 オイゲン・ヨッフム
 ヘルベルト・フォン・カラヤン
 ウィルヘルム・ロイブナー
 黛敏郎

 中村紘子
 長田暁二(レコードディレクター)
 ペンデレツキー(作曲家)
 邱捷春(作曲家)

 スヴァトスラフ・リヒテル
 アイザック・スターン
 武満徹
 ハンス・ウルリッヒ(バンベルク交響楽団バイオリン奏者)

 ニノ・ヴェルキ(オペラ指揮者)
 渡辺暁雄
 ヤニス・クセナキス(作曲家)
 山本直純

 ニカルノ・ザバレタ(ハーピスト)
 ルービンシュタイン

● 以下に多すぎるかもしれない転載。
 言葉では言えない音楽家同士の戦いがあって,特に指揮者と独奏者の場合,その最初の一発でコンチェルトの主導権が決まってしまう。(p9)
 この日の彼(バーンスタイン)は朝十時からニューヨーク・フィルと新日本フィルの野球の試合で大騒ぎをし,午後は東京見物をし,その後は朝の五時までここに書いたとおりだったのだ。スーパースターの狂気のエネルギーとしか言いようがない。(p23)
 アメリカのオーケストラは,市民達の援助で成り立っている。国や州には助けを求めず,したがって介入もさせず,自分達の文化は自分達の手で育てる,と流石はデモクラシイの本場の国だ。(中略)が,問題も大いにある。(中略)膨大な数のスポンサー達の大半が,おばあちゃんたちなのである。要するに金持ちの未亡人,有閑マダムのスノビズムが,その街の音楽を支配することになる。(p34)
 芸事とは所詮,人に夢を売ることだろう。芸人自身に夢はなくとも,人さまが夢を感じれば,その芸事は成功といえるだろう。(p53)
 ぼくは音楽ファンと音楽の話をするのが苦手で,こういう人達は大抵すごい物知りであり,嘗ての自分の姿を見てしまうのに苦痛があるのだろうか。専門になると深く狭くならざるを得ない必然が,広く浅い知識を持つことの出来る暇のないことへの嫉妬を感ずるのかもしれない。(p62)
 目下,山口百恵さんがぼくの神様だから,世界中彼女のテープを持って歩いているが,たまに日本に帰った時にテレビでお顔を拝めれば,十分に満足で,というよりは,そうでなければならないのだ。好きだ,ファンだと称して週刊誌で対談している作家の方々は,ファンとしてはニセモノに違いない。(p68)
 ヘルベルト・フォン・カラヤンという名前,つまりフォンという字が入っているから貴族のような名前なのだけれど,ぼくは一度彼のパスポートを覗いたことがあるのだが,ヘリベルト・カラジャンとあった。(中略)だから,大指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンという名は,もしかしたら芸名だと言うことができるかもしれない。(p87)
 ヨーロッパの中央文化地帯は,長い歴史を,侵略,被侵略のくり返しで過ごしてきて,そもそもが何人だ,ヤレ何人でないなっていうことを神経質に考える必要がないのかもしれない。(p88)
 突然,カラヤンが指揮を中断して,こっちを向いてどなった。「うるさい! こんなにうるさくて,練習ができるか。あの電車を止めてくれ。イワキ,電話をかけて止めさせろ」(中略)カラヤンは,電車の騒音に楽員たちがイライラし始めたのに,先手を打ったに違いない。(p94)
 この人(カラヤン)は,世界中のありとあらゆる知り合いが何語で話すのが得意かを,コンピューターのように記憶していて,何年ぶりで会っても,ヤア,しばらくからして,その人用の言葉をしゃべるので有名だ。(p96)
 もしかしたら世界の音楽ファンのうちの半分が,アンチカラヤンかもしれない。真の偉大なスターにはこういうことはつきものであって,アンチが強烈であればある程,実はやはりカラヤンファンなのだと思うのだ。(p100)
 人気がありすぎることからくる,カラヤンへの世界中の誤解という,不幸も実に膨大ではないのか。彼の指揮者としての恐ろしいまでの才能と能力については,世界中のカラヤンファンの,いったい,何分の一が知っているだろうか。(p100)
 カラヤンは有馬(大五郎)さんに,しみじみと言ったそうだ。「世界中の人間は,自分のことをこれだけの地位,人気を保っているのだから,さぞや自分が政治的にも,実務的にも,権謀術策的にも,あらゆる手を使っているだろうと思っているだろう。そういわれていることはよく承知している」といいながら,カラヤンは右の腕をさすって,「だがなあ,アリマ,本当はこの右手一本だけなんだぜ。この歳になっても音楽の勉強をし続けて,この右手で表すことだけをやっているだけなんだ」と少し寂し気に笑ったそうだ。(p101)
 それにしても,日本のオーケストラは,どうしてその時の指揮者の国籍によって,こうも違ってしまうのだろう。その抵抗のなさ加減に,時には寂しさを思うことがある(p110)
 ドシロウトの二人がやっても,日本人が日本の楽器を持つと,どちらかがかける「イヤーーアッ」のあとの「ポン」が絶妙にピッタリ合って,西洋風に三,四と指揮をされたって,こうは合わないね,とぼくが感心すると,だから「阿吽」というんだと,作曲者(黛敏郎)は威張るのだった。(p117)
 どうもこの人は,何の音も分かっちゃいないらしい。もしかしたらオンチらしいのだ。だが,演奏が上手く行った時に,長田さんが出すOKは,実に,実に的確なのだった。(p136)
 原爆のことなど,全然イメージになくて書いた「作品何番」は,ただの「作品何番」としてもすばらしい曲なのだ。だが,「広島の犠牲者のための哀歌」としてこの曲が世に出なかったとしたら,あんなに早く,世界の,いわばスーパー・ヒットになっただろうか。(p141)
 所詮,ソリストたちは名人芸的に勝手に弾きまくり,指揮者たちはそれにヒョイヒョイとテンポを合わせてやり,合わせ方のうまいのがコンチェルトの上手な指揮者であって,しかも合わせてやったぞ,ザマアミロ,というのがコンチェルトだと思っていた。(p154)
 昨日あなたはパリで音楽会をやったそうだが何をやったか。ムソグルスキー=ラヴェルの「展覧会の絵」でした。ああ,あれはすばらしい。だけど私はやっぱりラヴェルのオーケストレーションの方ではなく,ムソグルスキーのピアノ曲の原曲の方が好きだ,と言って彼(リヒテル)は弾きだした。もうそうなったら曲を愛するあまり止まらないのだ。(p155)
 「今年は,音楽界を二百九十回やってしまった。いくらなんでも,これは多すぎる。来年からは数を減らして,もっとじっくり音楽にとりくもうと思うんだ」,と十年程前,アイザック・スターンに言われて,仰天したことがある。(p159)
 ある一人の指揮者が,そのオーケストラの一年中のスケジュールをやったと仮定すると,これは体力と気力の問題で,全く不可能だ。なにしろこの商売,やはり神経と体力をベラボウに使うから,なんとか,人様よりはたくさんの休みを,つくらなければならない。それに,何日にいっぺんずつの休日も大切だけれど,夏の頃に,一ヶ月か二ヶ月の休暇をドカンととらなければ,次のシーズンがだめになってしまう。(p162)
 スターンだけではない。世界中の超一流の演奏家の九〇パーセント以上が,ユダヤ人だと言える。彼らのほとんどがこんな調子なのを見ていると,ユダヤ人の体力,気力その他もろもろのすべてのエネルギーが,全世界の民族の中で飛び抜けていることに,改めて驚嘆するのだ。(p162)
 日本の音楽ファンには,きびしい面というか,まあ,本当のことを言うと,後進的な面があって,例えば,カラヤン,ベルリン・フィルが演奏中にミスをやると,ああ,彼等もやはり人間なのだ,と感激するくせに,ちょっと名を知らない音楽家や団体がミスをすると,すぐに三流だと決めつけてしまうところがある。(p182)
 世界中のほとんどのオーケストラでは,二人ずつ並んでいる絃楽器奏者の席順は,前から後に,収入の順を表すのだ。技術の順でもある。きびしいことである。(p183)
 オーケストラというのは,ハッキリ言ってしまえば軍隊である。(中略)軍隊というのは,将校と兵隊とだけで成り立っているわけではない,と思うのだ。古参の下士官というのがいて,両方をつなぐわけだ。(p183)
 今現在の文化活動的レベルがそう高くなくても,歴史の中のある時期に,一時世界を制覇した国の末裔がやっている芸術には,時々,途方もない個性や大きさが出てきて,非常におもしろい。(p205)
 早くから社会保障がゆきとどき,国民全体の生活レベルが世界一高い国にも,魅力のある芸術は育たないようだ。(p206)
 こういうパーティーでは,ひとしきりグラスで歓談のあと,メインゲストは別室に招き入れられ,当家の主人と少人数で正式なディナーが始まるものだ。(中略)このメインの部屋でわれわれといっしょにディナーを食べる人は,それこそ特権階級的な人というわけで,だから,相当なジイサン,バアサンばっかりである。(p226)
 自分は練習が嫌いなたちなので,部屋で一人でさらっていると全然一生懸命やらないものだからなんにもならないから,お客の前でやる時が,その曲の次の時のための練習だと思っている。お客がいっぱいいると一生懸命に練習ができる,など恐ろしいことを言って笑うのだ。(p231)

2013年1月13日日曜日

2013.01.12 岩城宏之 『音の影』


書名 音の影
著者 岩城宏之
発行所 文藝春秋
発行年月日 2004.08.30
価格(税別) 1,600円

● 著者は著名な指揮者(故人)。指揮のみならず,エッセイを書く才能もお持ちだったのだ。ベタな言葉で申しわけないけれども,軽妙洒脱。
 もちろん,音楽活動を通じて上質なネタをたくさん持っていたのだろうが,それだけではない。文才のなせるワザだ。

● 和田誠さんのイラストも懐かしい。若い頃は,和田誠さんか山藤章二さんの絵が添えられた小説家のエッセイ集をけっこう読んだものだ。丸谷才一『男のポケット』とか山口瞳『酒呑みの自己弁護』とか。そういう意味で懐かしい。

● ちなみに,ぼくの文学系の読書は,第三の新人とその周辺にいた作家で止まってしまっている。遠藤周作,吉行淳之介,安岡章太郎,阿川弘之,北杜夫,山口瞳,丸谷才一,色川武大といったあたりですね。四半世紀前ですな。
 村上龍や村上春樹はまったく読んだことがない。それ以後の作家は言うに及ばす。そろそろ小説も読んでみようかなと考えたりはするんですけどね。