ラベル ミヤタ 宮田珠己 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ミヤタ 宮田珠己 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年7月26日月曜日

2021.07.26 宮田珠己 『ニッポン47都道府県 正直観光案内』

書名 ニッポン47都道府県 正直観光案内
著者 宮田珠己
発行所 本の雑誌社
発行年月日 2019.01.30
価格(税別) 1,650円

● 現代の代表劇な紀行作家をひとり挙げよと言われれば,宮田珠己さんを挙げる人が多いのではないか。取りあげる対象の独特さ。その対象を見る目の独特さ。それを表現する文章の独特さ。
 若いときは太宰治の文章を真似しがちだったという人がいると思うのだが(生まれてすみません,とか言いたくなるでしょう),宮田さんの口吻にもそういうところがある。

● 以下にいくつか転載。
 だいたい半島というのはおしなべて変なのです。煮詰まっているというべきでしょうか。煮詰まっているから文化が濃い。濃縮されている。つまりいろいろやりすぎということです。(和歌山 p11)
 それはあくまでオフィシャルな答え。そんな杓子定規な態度では現場で起きている状況に対応できません。私に言わせれば,リアス式海岸とは穴を味わう海岸のことです。(岩手 p17)
 なぜ関東平野はダサいのか。答えは簡単。山がないから。これに尽きます。山,ないったらない。東京を出て京浜東北線や宇都宮線で北を目指すとき,車窓に広がる茫漠とした風景の絶望感といったらありません。(埼玉 p23)
 長野県は全国にチェーン展開している神様とは違うタイプの神様があふれている気がします。(長野 p116)
 京都が陰陽道だの魔界だのオカルト的な側面をたまに打ち出してくることがありますが,それはただ人間の心の闇を表現したものにすぎません。妖怪だの鬼だの幽霊だの名前のついた怪異は,結局は人間が作り出したもの。(奈良 p118)
 お寺も神社も,京都に比べて人間くささが薄い気がします。(奈良 p119)
 飛鳥ほど正々堂々とわけがわからない場所はありません。(奈良 p122)
 不思議なもので,水のきれいな場所は何度行っても飽きません。滝だの湖だの鍾乳洞だのリアス式海岸だのはすぐに飽きるのに,透明な水は飽きないのです。(高知 p138)
 食いだおれ,なんて言葉がありますが,いまやおいしいものは日本中にあるので,わざわざ大阪まで行かなくてもいいかも。(大阪 p160)
 旅の醍醐味はつまり意表を突かれること。これまでの思い込みが否定され,新しい世界が開けるとき,旅は最大限に盛り上がります。(中略)それまで基本的に海は左側に見えていたのが,関門トンネルを抜けた途端,級に海が右側に現れるのです。その瞬間,世界がねじ曲がったかのような錯覚に襲われます。(山口 p169)
 どこであれ神宮と名のつくところは案外見るものが少ないというのが定説です。ほとんど森になっているからです。(三重 p250)
 そもそも歴史に興味のない人間にとっては古代ほどどーでもいい時代はありません。(宮城 p275)
 何びとも京都を懐柔することはできません。人はついつい京都に選ばれたがります。自分だけに秘密の京都が扉を開いてくれないかと期待しますが,いちげんの観光客にそんなことは起こりません。いや,いちげんでなくても起こりません。(京都 p290)

2017年8月6日日曜日

2017.08.06 宮田珠己 『日本ザンテイ世界遺産に行ってみた。』

書名 日本ザンテイ世界遺産に行ってみた。
著者 宮田珠己
発行所 淡交社
発行年月日 2015.07.21
価格(税別) 1,600円

● 暫定世界遺産のひとつに栃木県の足尾も入っている。その足尾にも宮田さんは足を運んでいて,足尾について所感を述べている。まず,そこを読んでみたかった。
 今では,市やNPO法人が連携して植林を行い,ニセアカシアやヤシャブシの森が再生しつつあるそうだ。といっても未だ木の間隔はまばらであり,本当に森が回復するのは,それらが倒れて土となる未来,それこそ何百年も先のことでしょう,と星野さんは言った。(p89)
 もし仮に、トロッコ列車や鉄索が今も残っていれば,結構見応えがあったんじゃないだろうか。私の頭の中では,足尾はもう,いろんな乗り物のレールが張り巡らされた,映画の中の未来都市みたいなイメージである。(p92)
● もちろん,ぼくも足尾には何度か行ったことがあるんだけど,たんに行ったことがあるというに過ぎないな,何も見てしなかったな,と思わされた。
 今は本書を読んだんだから,そのうえでもう一度足尾を訪れて(できれば自転車がいい),本書に出てくるあれやこれやを見ておきたい。

● 他にいくつか転載。
 私は関西生まれだから知っているが,若狭は海もきれいだし,神社仏閣など見どころも多い。それなのに,みんな京都に目がくらんで,若狭を素通りしているのは実にもったいないことである。(p37)
 列車も車も景色は同じじゃないかと思うものの,やっぱり鉄道に乗りたかった。同じ景色でも列車から見るほうが,数倍いい気がする。(p85)
 堰堤の上流側に湿原が広がっており,その景色が雄大で,目を奪われた。ちょっとした尾瀬のような味わいがある。(p88)
 縄文土器は,単に文様がたくさん付いているというだけでなく,その曲線がとても美しい。(p153)
 世界遺産登録の条件として,当時のままに残されている,もしくは正しく復元されているかどうかが重視されるため,縄文遺跡は元の姿がはっきりわからない点が悩ましいところだ。(中略)だからといって,発掘跡の穴ぼこを保存しただけでは,見る人の心に訴えにくいという問題もあり,その両立はどの遺跡でも苦心しているようだった。(p160)

2015年11月27日金曜日

2015.11.18 宮田珠己 『旅するように読んだ本』

書名 旅するように読んだ本
著者 宮田珠己
発行所 ちくま文庫
発行年月日 2015.06.10(単行本:2012.05)
価格(税別) 740円

● 著者の書評集。あるいは,著者の楽屋を公開した本と言ってもいいのかも。宮田さんはこういう本を読んでいたのか,っていう。

● 本書に登場する本の中で,ぼくが読んだことがあるのは,アラン・ド・ボトン『旅する哲学』のみだった。
 読んでみたいと思ったのは,五来重『四国遍路の寺』(角川ソフィア文庫)と河本英夫『飽きる力』(NHK新書)。

● 以下にいくつか転載。
 孤立した文化というのは,ユニークになりがちだ。世界の国々を見ても鎖国していた国ほど独特な社会になる。(p89)
 死んだ後に,ストレスのない楽ちんな天国(極楽)と,苦痛に満ちたしんどい地獄があるという発想は,洋の東西を問わず共通しているが,ただ個々の地獄描写には,書き手がどんな苦痛を思いつけたかによってそれなりの違いが生まれてくる。そうした書き手の創意工夫が,地獄案内本の読みどころと言えよう。(p124)
 鈴木理生には,もう一冊ちくま学芸文庫になっている著作があって『江戸の町は骨だらけ』というのらしい。まだ読んでいないが,読まないうちから,強力おすすめである。(p166)
 中野美代子という人は,周囲がどう評価しようとまるで気にせず,自分の興味関心に向かって突っ走る人なのだ。他人のことなど知ったこっちゃないスタンスが徹底しているから,読む側も小気味いい。(p170)
 歩けなかった患者が歩けるようになったとき,よっしゃ,ってんで,いっぱい歩いてしまうとそれ以上よくならない。意識的な身体運動は,一生懸命になるほど歪んでいく。(p214)
 素晴らしい著作だけれど,内容が専門的だったので真面目に読み込んでしまってネタに昇華させられず。残念。(p246)

2015年10月31日土曜日

2015.10.27 宮田珠己 『52%調子のいい旅』

書名 52%調子のいい旅
著者 宮田珠己
発行所 旅行人
発行年月日 2003.06.24
価格(税別) 1,300円

● 宮田さんの比較的初期のエッセイ集。知的,技巧的,といった言葉が本書の形容としては相応しいだろうか。
 知的だったり,技巧が見えてしまったりすると,意外に飽きられるのも早いのではないかという危惧もあり。

● 以下に転載。
 最近知ったのだが栃木県の宇都宮はギョウザの町らしい。たまたま訪れる機会があり,宇都宮駅の売店のおばさんに,このへんでは一番と教えられた駅近くの店へ行ってみると,ギョウザの研究を一五年続けてきたという店で,ウナギギョウザとかワサビギョウザとか何でもかんでもギョウザ化していた。面白そうであり,さっそくあれこれ食ったら特にうまくなかった。 気を取り直して今度は逆に,焼きギョウザと水ギョウザしかないこだわりの有名チェーン店に行ってみると,行列になって期待したのに,食べるとまたもやうまくなかった。まずいとは言わないが,こんなギョウザならどこでも食えると思ったのである。(p28)
 栃木に住む者としては聞き捨てならない。とは思わない。しょせんは餃子,という言い方ははなはだ穏当ではないけれど,画期的に旨い餃子は食べたことがない。
 が,「王将」よりは「みんみん」や「正嗣」の方が旨くないかい?
 グルメはもともと食べるのが好きだから,食べてるだけでうれしいのであり,どうしたって食べ物に甘い。その点私は,食いたくないのに食っているので,まずいもの食うぐらいなら何も食わないという分別があり,舌が客観的である。(p29)
 私はいつも何となく食っているだけなので,極端にうまいか極端にまずいものしか判別できない。したがって,その私がうまいと言うものは,本当にうまいのであって,さぬきうどんは,宇都宮のギョウザと全然違って真にうまい。(p29)
 ぼくも四国に住んでいたことがあるから,讃岐うどんの旨さは知っているつもり。初めて讃岐うどん を食べたのは,今は昔,宇高連絡船の立ち食いスタンドでだった。
 立ち食いスタンドでも讃岐うどんは旨かった。“名物に旨いものなし”に例外があることを初めて知った経験だった。
 が,讃岐うどんが例外なんだと思う。宇都宮の餃子に限らず,言っちゃなんけども,喜多方ラーメンも“まずいとは言わないが,こんなラーメンならどこでも食える”というものだったし,札幌ラーメンもそうじゃないか。長崎チャンポンもしかり。讃岐うどんが例外なのだ。
 趣味ができないのは面白かったら腰を上げて突っ込もうと思っているからで,趣味なんか最初は面白くないに決まっており,少しずつ始めていたら面白いところまでちっとも到達しない。だからやるときは,ためらうことなくどーんと一気に駒を進めなければならない。(p32)
 世界一周はもったいないというのが私の持論だ。(中略)いろいろな国や地域,そしてそれぞれの大陸の個性をじっくり味わって旅をするのが面白いわけだから,簡単に一周するのは雑だと私は思っているのである。(p81)

2015年10月6日火曜日

2015.10.05 宮田珠己 『ふしぎ盆栽ホンノンボ』

書名 ふしぎ盆栽ホンノンボ
著者 宮田珠己
発行所 講談社文庫
発行年月日 2011.02.15(単行本:2007.02)
価格(税別) 790円

● ホンノンボとはベトナムの盆栽のようなもの。あくまでも“のようなもの”であって,日本の盆栽とは趣を異にする。
 植物ではなくて岩が主役。そこにミニチュアの人形を配したりもする。基本的に,底に水をはる。

● そのホンノンボを求めて,何度もベトナムを訪れる。本書は基本的には紀行文だ。ホンノンボはその紀行の要に位置するものだが,あくまで著者の紀行を楽しむために本書はある。

● 以下にいくつか転載。
 あるとき紀州高野山を訪れて,金剛峯寺の石の庭を見たとき,ふと,もしこの石が巨大な岸壁だったらわたしはこれをどうやって登るだろうと,まるでロッククライマーになった気分で思い,それと同時に,わたしと庭を隔てていた何かが突然崩れて,ああ,それでいいのだ,何も秘密なんてなかったのだ,と確信を得て,一気に日本庭園とうものが身近に感じられるようになったのだった。 つまり,庭はもともと全体を地形として見るように設計されているものなのだという当たり前のことに,今さらながらに気がついて,なあんだ,文化とか伝統とかいってしかつめらしい顔してるけど,それでいいんじゃないか,と思ったわけである。(p26)
 (ホンノンボには)日本の庭石などのように,できるかぎり自然の風情を活かしつつ,というような配慮はまるでない。人工物であることにまったく衒いがないのだ。日本のように具体的なイメージを表に出さずに奥に秘めてしまって,その先は独自に想像してください,というようなまわりくどいことはまったくしないで,そっちのほうが粋だとも,こっちは野暮だとも思わず,思ったらそのままつくるというスタンスが貫かれているのである。(p30)
 わたしがホンノンボめぐりで学んだことのひとつが,このように,何ごともこじつければ,それなりに面白く見えるようになる,ということだ。かっこいい言葉で“見立て”ともいうが,つまりこじつけのことである。退屈な人生を面白くするのは,こじつけなのである。(p67)
 裏庭の盆栽園を拝見すると,どれもリウさんの盆栽に匹敵する繊細な品質を保っているように感じられたが,リウさんのようには売れていないらしい。(中略) 「いくらぐらいで売っているのですか?」 「いいものは百五十万ドンぐらいです」 リウさんの十分の一以下の値段だ。(中略) これだけ値段が開くということは,ブランド・イメージの差だけでは説明がつかないような気がする。 わたしが見たところ,ンガンさんは,あまり営業だとか売り込みだとか,そういった攻めの仕事が得意でなさそうであった。どこかおずおずして,表情にこわばりがある。引っ込み思案な性格が,顔や態度にはっきり表れていた。(p182)
 引っ込み思案だと損をすると著者は言いたいわけではない。が,まるで自分のようだと思う人は多いのではないか。ぼくもそうで,「攻めの仕事」はまったく不得手だ。
 自分に自信が持てないというか,自分に居直れない。そこに自負のようなものも感じているから,いよいよ進退きわまる。ま,「攻めの仕事」が不得手ならば,守りの仕事をすればよいのだが。
 知識で解決しようとすると,感動を覚えた肝心のポイントは,かえって奥深く埋もれてしまって見えにくくなり,何も知らずに感動できた最初の一撃を,あれが最良だった,と後悔とともに思い返すはめになるのだ。(中略)もともと人間は,たどり着けない事柄をこそ面白いと感じるものであるらしい。(p189)

2015年10月5日月曜日

2015.10.04 宮田珠己 『ジェットコースターにもほどがある』

書名 ジェットコースターにもほどがある
著者 宮田珠己
発行所 集英社文庫
発行年月日 2011.03.25(単行本:2002.03)
価格(税別) 619円

● 奇書といっていいんでしょうね。ジェットコースターにこれほどまでにこだわる人がいたのかという発見。
 巻末の座談会はへぇぇの連続を生む。

● 2000年に著者と一緒に,ジェットコースターに乗るためにアメリカまで出かけた西島君,今はどうしてるんだろう。
 高校を卒業して1年目は浪人というか,コンビニでバイトをしてたようなんだけど。どの世界に行っても,花を咲かせることのできるキャラクターのようなんだけど。

● いくつか転載。
 アメリカでは客に大人が多い。日本では遊園地は原則として子供のものという認識だが,アメリカでは大人もたくさん遊びにくるのだ。つまり遊園地が全体に大人向けにできているわけである。 この事実をさらに追求すると,アメリカと日本では,遊びを悪いことと考えるか,逆によいことと考えるか,その大前提のところがすでに違っているのではないかという深い考察に結びつく。日本ではまだまだ遊びは悪であり,暗黙のうちに遊園地はまだ善悪の区別のつかない子供向けと前提されているのである。(p50)
 ジェットコースターは痛くないことが最低必要条件なのだ。いくらデカくても,速くても,痛いとすべてが台無しである。その点で,アメリカの新型コースターは非常によくできていた。日本だってやればできるはずなのだが,どういうわけか日本製で痛くないコースターはほとんどない。(p116)
● ぼくはといえば,ジェットコースターには乗らないタイプ。単純に怖いから。
 が,この本を読むと乗れそうな気がしてきた。乗らないと思うけど。

2015.10.02 宮田珠己 『晴れた日は巨大仏を見に』

書名 晴れた日は巨大仏を見に
著者 宮田珠己
発行所 白水社
発行年月日 2004.06.15
価格(税別) 1,600円

● 巨大仏はとにかく周囲と調和しない。仏像なのにありがたみもない。「マヌ景」(マヌケな風景)の典型だ。でも,気になる。
 というわけで,全国の巨大仏を巡りながら,なぜ気になるのかを探ってみよう。

● 以下にいくつか転載。
 私にとって巨大仏が気になるのは,“ぬっ”とした感じのさらにその奥に,何か殺伐として手触りが隠れている気がするからではないかと思うのである。 突然不穏なことを言うようでなんだが,世界平和大観音にも牛久の大仏にも,ぬっとした巨大仏にはすべて,何か妖怪的な,見ようによっては,人間のことなどまったく知ったことではないというような,非常な手触りがないだろうか。(p48)
 思えば何もこれは巨大仏に限ったことではなく,むしろ深い山の中で一夜を明かすときや,宇宙の果てを想像するとき,あるいは自分が死んだ後の世の中について思うときなどに,強く心の中に沸き上がる人間の力ではどうしようもない圧倒的な孤独のようなものであり,言い換えれば,この世界があること自体の怖さ,理由もわからないままにこの世界が厳然と存在し,そこにどかから来たのかもわからない自分がいる,という怖さ,それを人口的に少しだけ感じさせるのが巨大仏なのではないか。(p50)
 巨大仏が“ぬっ”とした印象を持つのは,それが仏さまであるという意味を失って,そこにそんな巨大なオブジェが唐突にあるだけの風景として見えたときだった。廃墟も,その機能や意味を失ってただのオブジェになったとき,そこにあるモノの存在の不気味さが,“ぬっ”とこちらの心に迫ってくる。(p211)
● 本書に登場する編集者(男女各1名)が面白く描かれている。編集者が著者をインスパイアすることがあるんだね。だいぶ著者を助けているようだ。

● タイトルの由縁は,白い巨大仏は空の青さとの対比で映える。だから,見に行くなら晴れの日がよいということ。

2015年9月24日木曜日

2015.09.23 宮田珠己 『モンタヌスが描いた驚異の王国 おかしなジパング図版帖』

書名 モンタヌスが描いた驚異の王国 おかしなジパング図版帖
著者 宮田珠己
発行所 パイ インターナショナル
発行年月日 2013.04.12
価格(税別) 1,900円

● 「18世紀以前に,ヨーロッパ人によって日本の絵図」しかも,「(ピエール・)ロチの主人公が,実際のナガサキの町を見て幻滅するよりも前の,夢の国であった日本の絵」を掲載して,それを勝手に楽しんでみようという趣向なんだろうか。要するにデタラメなんだけど,当時のヨーロッパ人が日本をどんなところだと思っていたのかがわかる。
 が,学術書の趣もある。

● 当時の彼らが持っていた情報を延長して想像するから,彼らの中の日本は中国だったりインドだったりする。
 マルコポーロのジパングが日本のことを指していたのかどうかもわからないらしい。そうなのか。

● これがわずか300年前のことだったというのが,不思議な気がする。この300年間の変化というのは,想像を絶するものなのかもな。

2015年8月3日月曜日

2015.08.01 宮田珠己 『四次元温泉日記』

書名 四次元温泉日記
著者 宮田珠己
発行所 筑摩書房
発行年月日 2011.12.05
価格(税別) 1,500円

● 迷路のような通路を持つ宿を訪ねる。四次元とは迷路のことらしい。
 が,温泉もいいものだとなっていくんだけど,その契機になったのが“奥那須K温泉”。とりわけ,K温泉の“天狗の湯”。

● いくつか転載。
 昔どこかの国を旅行したときに,お前たち日本人はコーヒー一杯で半日過ごせるか,と訊かれたことがあった。日本人はせっかちだから滞在型リゾートには不向きだと,その相手は暗に言いたかったわけだが,コーヒーは無理でも温泉なら半日といわず何日も過ごせるのが日本人なのだった。 湯治は,滞在型リゾートの日本版なのかもしれない。(p117)
 これまでいくつかの温泉宿を巡ってきたが,歴史ある温泉はたいてい陰気である。(p118)
 以前知り合いの鉄道オタク高校生が「そうですか? 自分は新幹線でも十分風情感じますけど」と言っていた。思わぬ意見に一瞬驚いたが,なるほどそういうものかと納得した。人間のスピードに対する感覚が,いとも簡単に変容することを,私はジェットコースターで学んで知っていたのである。(中略) 意外なのは,その変容した感覚が個人を超えて伝達される,すなわち種として伝わることである。(p125)
● 著者の感性と文章だけで読ませる紀行文。面白い。一気に読める。これは,何というのか,素人でできることではないんでしょうね。
 何に目を付けるか。逆に,何に目を付けないか。このあたりがたくまずしてユニークだ。迷路は外して考えても。

● あるいは,自分の感性をいったん殺して書いているのかもしれない。人工的というか,技巧的というか,理知的というか,そういう感じも受けた。

2015年7月21日火曜日

2015.07.18 宮田珠己 『日本全国もっと津々うりゃうりゃ』

書名 日本全国もっと津々うりゃうりゃ
著者 宮田珠己
発行所 廣済堂出版
発行年月日 2013.08.25
価格(税別) 1,500円

● 本書ではいくつかのキーワードが登場する。箱庭,異界感,迷路といった言葉だ。こういうものに著者は惹かれるのだ,と。

● 前著に比べるとスラスラと読めた。理由はわからない。

● 以下にふたつほど転載。
 旅行者によくある問題として,有名な刊行スポットに行くと,あらかじめざっくりした中身を知っているがために,現地ではその事前知識を確認しにいくだけの旅になってしまうジレンマがある。だが,そういう場所も,見るべきポイントを押さえようと思って見物するから面白くないので,見るべきものにはこだわらず,自分の見たいものを素直に見れば,面白いはずである。(p13)
 それはつまりこういうことだ。神社仏閣への参道のような,信仰に関する階段は上ってみたいが,単に物理的に高いところへたどりつくためだけの階段は却下だと。 なぜ宗教的な階段はオッケーかというと,そのような階段は高いところにたどりつくだけでなく,異界への道でもあるからである。(p148)

2015.07.16 宮田珠己 『日本全国津々うりゃうりゃ』

書名 日本全国津々うりゃうりゃ
著者 宮田珠己
発行所 廣済堂出版
発行年月日 2012.04.10
価格(税別) 1,500円

● ネットでの連載をまとめたもの。必ずしも軽い読みものを目指しているわけではないようだ。おちゃらけようと計算しているわけでもないようだ。
 いや,計算しているのかもしれない。宮田さんは生真面目な人なのだろう。その生真面目さでおちゃらけを目指そうとして,自分でも折り合いがつかなくて困っているという風情もある(と感じた)。

● ひとつだけ転載。
 ガイドブックを見ると,東照宮では,陽明門,《三猿》,《眠り猫》,《鳴龍》などが「見逃せません」ということになっている。しかし,「見逃せません」には気をつけないといけない。なぜなら,「見逃せません」以外のものを見逃すからだ。(中略)しかも「見逃せません」は多くの場合退屈だったりする。(p103)

2015年7月15日水曜日

2015.07.14 宮田珠己 『旅はときどき奇妙な匂いがする』

書名 旅はときどき奇妙な匂いがする
著者 宮田珠己
発行所 筑摩書房
発行年月日 2014.12.10
価格(税別) 1,500円

● なんか,抽象画を文章化したものを読んでいるような気になることがあった。「おわりに」で宮田さんが次のように書いている。
 旅についての本,つまり,旅先ではなく,旅そのものについて書かれた本は、あまりないように思う。
 自分としてはこういう実験をやってみたかったのだ。
 要するに,具体的な旅の紀行ではなく,旅それ自体に
いきおい,抽象的にならぬざるを得ないということか。いや,そういうことよりも,文章で遊んでいるところがあって,そこから抽象画という印象につながっているような気がした。

● 以下にいくつか転載。
 旅行中はなるべく,しがらみのない世界に心遊ばせたい。そうなると,日本とはかけ離れた土地に行きさえすればそれでよし,という簡単な話にはならず,むしろそんな非日常的な土地で日常的な光景を見せつけられると,逆にどこまで行っても脱出できない,お釈迦様の手のひらのなかで飛び回る孫悟空のような幻滅を覚えるのである。(中略) かつては,そんな逃げ腰ではダメだと自分を戒めていた。旅とは,日本の日常から,外国の日常へと身を移し,日本の日常を相対化することだと思っていた。 そのためにはなるべく多くの人と知り合い,話をし,その価値観を知り,自分にひきつけて考えなければならない。 それなのに,現地で知り合った人にうちに泊まりにおいでと言われると,多少の好奇心が働く一方で,やっぱり,面倒くさい,と思ってしまう自分の正直な気持ちは,長い間,劣等感の源だった。(p52)
 私が旅を書くのは,その旅をパッケージにして目に見える形で所有するためだったような気がする。 日本の日常から外国の日常へと身を移し,日本の日常を相対化する,(中略)それが旅の正攻法であるなら,私の旅はまったく逆で,自分にとって心地よいパッケージを次々と生み出すためにあったと言えるかもしれない。 世に役立つ旅,新しい知見をもたらす旅。そんな立派な旅は私にはもともと向いていなかったのだ。(p191)
 観光地でもない場所が,面白い旅を約束してくれることは稀である。というかほとんどない。 観光地を一歩出てみれば,さきほどまで自分がいた場所がどんなに見どころに満ちていたか思い知ることになる。(p65)
 気合いとは心身に力をいっぱいに込めることだと考えていたが,そうではない。気合いとは,そんなふうに病気に真っ向から対峙することではなく,お前のことなどまるで知ったことではない,との心構えで,言ってみればふわりと宙に浮くことだった。そうやって敵の攻撃を無力化するのだ。(p77)
 海に入ると,普段大地が覆い隠している非常な現実,つまり生と死は隣り合わせであるという現実が,世界のベースに横たわっていることが理解され,死が突然身近なものに感じられる。本来,大自然とはそういうものだが,深入りしなければそれを感じさせない山と違って,海は波打ち際の一歩先から不気味である。(p97)
 もし私が,ビーチチェアで寝そべるときがくるとしたら,それは,慌しく観光地をハシゴしていく旅行などは無粋の極みだ,という世間の圧力に屈したときだ。 本当は,やっぱり観光地をめぐりたい。持てる時間のすべてを使って,見られるものは見たい。 そうして歩き回って疲れたとき,そのとき初めてどこかに横たわればいい。疲れてもいないのに,最初から横になってどうするか。(p111)
 なによりいいのは,移動中は,自分はじっと座っているだけなのに,風景のほうで次々と移り変わり,常に何がしかの感慨を提供してくれることだ。(中略) つまり旅にまつわる面倒くさい様々な雑事がすべて棚上げにされ,自分はただ座っていられて,景色は面白く,荷物は肩に重くなく,それでいて時間を無駄にしていないという,旅のいいところだけを抽出したものが,移動なのである。(p120)
 インターネットの登場で,海外旅行が不自由になってきたのである。(中略) 当然予約を入れておいたほうが,安心かつ効率的であって無駄がない。 だが,効率的であって無駄がないことは,旅の自由さとは矛盾する。むしろそうなると,予約した通りに行動しなければならなくなって不自由なのである。(p140)
 以前ラオスを旅していたとき,三〇〇ミリ近い望遠レンズを持った西洋人女性を見かけた。鳥でも撮影するのかと思ったら,人ばかり撮っていた。望遠レンズがあれば,本人に悟られないで撮れるのだった。嫌な感じであった。(p157)
 聖なる山須弥山は,理念ではなく,地理感覚として存在する。 しかも須弥山は,上に行けば行くほど広がる逆四角錐になっている。頂上に至るまでには,オーバーハングの斜面を延々登り続けなければならない。このオーバーハングも,ラダック下流の大峡谷を彷彿させる。(p162)
 私は胸のなかに,どこにいても地形から逃れられないという妙な気持ちが高まってくるのを感じた。 その後もパンゴン・ツォにたどり着くまで,ずっと私は地形のなかを旅した。人間がここに道を作らなくても,この風景はずっとこの姿で存在していたのだ。それは想像を超えた事態だ,ものすごいことだという認識が,私を打った。自分の小ささが怖いようだった。(p174)
 たしかに私は親切だった。なぜか外国人旅行者を見ると,世話を焼きたくなるのだ。 私が日本を旅行するのは何の苦労もないが,外国人にとってはそうではない。だからつい口を出したくなる。それと同時に,彼らといると,見慣れた日本が違って見えてくるんじゃないかという期待もあるのだった。(p180)
 人間の住むところ,どんな場所にも生活はあり,生活のあるところ,どんな場所も本人にとって桃源郷ではないとするなら,桃源郷はよそ者が夢見心地で語る,楽観的な錯覚に過ぎないということになりそうである。 そのとき,無理矢理にでもこう考えることは出来ないものだろうか。桃源郷が錯覚であるのと同じように,現実もまた錯覚のひとつではないかと。 当事者にとって痛みさえ伴う現実が,他者からは桃源郷に見えるとするなら,当事者である自分自身を他者の目で眺めることによって,現実を桃源郷に変えることはできないものか。(p212)
 旅行中には旅行中なりのストレスがある。しかし,それは普段とは何か別の種類のものらしく,現実を少し浮き上がらせるような形で神経に作用し,どんな現実主義者をも,わずかに夢見心地にさせる。(p214)
 おそらく,われわれが現実と思っている日常は,自意識のせいで現実の絶対値よりもわずかに陰に籠もった側に偏っている。現実の絶対値は,われわれが現実と思っている感じよりもあっけらかんとしていて,意外性や異様さが含まれており,理路整然としておらず,わずかに幻想よりである。つまり現実はわれわれが認識しているよりもファンタジーなのであり,多少夢見心地なぐらいのほうが,現実に覚醒していると言ってもいいのではあるまいか。(p217)

2015年1月29日木曜日

2015.01.29 宮田珠己 『だいたい四国八十八ヶ所』

書名 だいたい四国八十八ヶ所
著者 宮田珠己
発行所 集英社文庫
発行年月日 2014.01.25(単行本:2011.01)
価格(税別) 700円

● 高名な紀行作家である著者の作品を読むのは,今回が初めて。いや,面白かった。書けそうでなかなか書けない文章。
 書くことを職業にする人には,そうする(そうせざるを得ない)必然性のようなものがあるんだと思う。文章技術をいくら磨いても,こうまで面白い文章は書けないものだろう。人と違う何かを先天的にか後天的にか獲得している人じゃないと。

● 「札所よりも,道そのものがお遍路の醍醐味」(p290)というのが,宮田さんの結論。そうなんでしょうね。そうじゃなかったら(札所の方が大事というんだったら)歩き遍路なんてやってもしょうがないことになる。
 いや,“歩き=修行”と考える人もいるだろうし,本当にそうかもしれないから,「やってもしょうがない」ことにはならないだろうけど,その場合であっても,札所じゃなくて道そのものが重要性を帯びてくることに変わりはない。

● 以下に,いくつか転載。
 先延ばしにしているうちに結局やらないまま時だけが過ぎていくというのは,人生によくある展開である。そんなとき,何のためにやるのか,それはオレの人生においてどんな意味があるのか,なんて考えていると,もうだめである。それはつまり,やりたいけど面倒くさいという正直な本音に,言い訳を与えようとしているだけだからだ。 やりたいことは面倒くさい。案外知られていないが,これは人生の根本原理のひとつである。(p16)
 大自然への畏怖心を,弘法大師信仰へとすりかえさせるある意味陰謀によって,四国遍路が作られていると考えるのは,たぶん正しい。 正しいけれども,それを指摘するのは野暮なことでもあるだろう。そんなことはみんなわかっている。わかったうえで,弘法大師という方便を利用しているのだ。(p47)
 何事も最後までやり抜くよりも,途中でサボるほうが難しく,ステージの高い行為だということがわかる。なぜなら,やり抜くのは惰性であって,サボるのは決断だからだ。(p56)
 四国遍路が,その人気において他の巡礼地の追随を許さない最大の理由は,こうした宿のネットワークが出来上がっているからにちがいない。お遍路とは,寺巡りである一方で,宿を繋いでいく旅でもある。(p92)
 仏さまなんて本当はいない,と考えるよりも,仏を信じてそれにすがった人々の思いが札所という形になっている,と考えると,それはかえって親しみやすく温かいものに思える。人々が切実に何かを願ったからこそ,四国遍路は生まれたのである。(p178)
 かくいう私も信仰心などまったくないが,スピードにこだわらないようこだわらないよう,それだけは気をつけながら歩いてきたつもりだ。速さ,日数などにこだわることで,何かが決定的に損なわれてしまう。そういう意識は,はじめから持っていた。(p313)
● 「速さ,日数などにこだわることで,何かが決定的に損なわれてしまう」というのは,遍路に限ったことではない。
 大昔にJR全線完乗を試みたことがあるんだけど,できるだけムダなく短時間でつぶしていこうとスケジュールを立てた。
 時刻表ゲームだから,この場合はそれでよかったのかもしれないだけど,おかげで何も憶えていないという結果になった。時間とお金を惜しみすぎるとこうなる。
 目標を絞って効率だけを追求すると,その行為じたいが痩せてしまう。そういうことはたしかにある。

● 本書を読んだのはたまたまだけど,ラッキーなたまたまだった。これから宮田さんの他の作品を読んでいく楽しみができた。
 若い頃は,好きな作家ができると,その作家のものばかりを次から次へと読んでいったものだけれど,さすがにそこまでの集中力(と言っていいんだろうか)はなくなっている。ポツポツという感じで読んでいくことになるだろうけど,楽しみが増えたことには変わりがない。