ラベル ワタナ 渡辺和子 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ワタナ 渡辺和子 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018年4月3日火曜日

2018.04.03 渡辺和子 『愛と励ましの言葉366日』

書名 愛と励ましの言葉366日
著者 渡辺和子
発行所 PHP
発行年月日 2004.06.02
価格(税別) 1,200円

● 著者のこれまでの著作のアンソロジー。

● アンソロジーから転載するのもどんなものかと思うんだけども,いくつかを転記しておく。
 自分が自分らしくなるためには,まず自分で自分を「肯定する」ことがたいせつです。「こんな私でもこれはほかならない私だ」と,肯うことです。(p2)
 光を見る時に,影の部分があることに気付く人でありたい。傑作を見る時に,それが生まれるまでに存在してに違いない駄作へのいたわりを持つ人でありたい。(p7)
 自分の生活を大切にしたいなら,相手を許さないといけない。許すことによって,自分が相手の束縛から解放されるからである。(p8)
 愛というのは力であって,使えば使うほど溢れてくる。(p34)
 相手をレディーに育てたいなら,レディーとして接しなさいという金言があるが,なってほしい相手の姿,つまり信頼に値する姿は,当方の信頼によってのみ実現できる(p52)
 「生きる力」は,生きる悦びからしか得られない。そして生きる悦びは,自分自身である悦びなしに味わうことはできないのだ。(p91)
 愛するということは,たいせつにするということである。ていねいに生きるということと深くかかわっている。(p103)
 他人に勝つことよりたいせつなことは自分に打ち克つことであり,他人を指図することよりもたいせつなことは,自分を自分が思うように動かせるということです。(p105)

2017年10月16日月曜日

2017.10.16 渡辺和子 『面倒だから,しよう』

書名 面倒だから,しよう
著者 渡辺和子
発行所 幻冬舎
発行年月日 2013.12.20
価格(税別) 952円

● 置かれた場所で咲きなさいもそうだけれども,タイトルがいい。内容をひと言で言い表してもいる。
 しかし,こういう本を何度読んでも,自分は何も変わらない。凡夫の悲しさ。

● 以下にいくつか転載。
 人には皆,苦労を厭い,面倒なことを避け,自分中心に生きようとする傾向があり,私もその例外ではありません。しかし,人間らしく,よりよく生きるということは,このような自然的傾向と闘うことなのです。(p17)
 「何をおっしゃいます。一回一回が仕始めで,仕納めでございます」(p19)
 マザー・テレサに,こんな言葉があります。「私はいつも心の中に,死んでゆく人々の最期のまなざしを忘れていません。この世で役立たずのように見えた人たちが,死の瞬間に“愛された”と感じながらこの世を去ることができるためなら,何でもしたいと思っているのです」(p23)
 年齢のいかんにかかわらず,一人ひとりが忘れていけないのは,時間の使い方は,そのまま,命の使い方だということなのです。そんざいに生きていないか,不平不満が多くなっていないかを,時にチェックしてみないと,私たちの使える時間には限りがあるのです。(p26)
 「神さまの教えとは何ですか」と問われたとしたら,「あたりまえのことを,心をこめて実行すること。与えられる一つひとつのいのちも,ものも,両手でいただくこと」と答えるでしょう。(p36)
 「どうせまた同じことをするんだからいいわ」と思っても,一回一回をていねいにしなければいけないということ。人間にとって全く同じことは二度とあり得ませんから(p44)
 つまずかない人生を送ることが,人間にとって大切なのではありません。人間のこと,つまずくのはあたりまえ,ただ,その時くじけてしまわないことが大切なのです。(p49)
 時間の使い方はいのちの使い方。この世に“雑用”という用はない。用を雑にした時に,雑用が生まれるのだ(p53)
 「あなた方には,脱いだはきものを揃える自由があります」(中略)自由に生きるということは,好き勝手をすることでは決してなくて,“よく生きる”自由を行使することなのです。(p61)
 あまり人に流されないということです。(中略)相手がていねいに話をすれば,私もていねいに話しをする,相手が無愛想なら私も無愛想に,という態度ではなく,相手がどうであろうとも,私は私,人は人として生きるということです。(p69)
 何もかもぶちまけるのが親しさではありません。親しさというのは開示性の度合いではなく,相手の独自性を尊重する度合いです。(p75)
 人にいうと愚痴になることを抑えて自分の中に納めていくと,人はそれだけで美しくなります。(p77)
 マザー・テレサはびっくりするほど,厳しいお顔をしていらっしゃいました。聖人のようなお優しい表情かと思っていたら,お目も,お顔つきも厳しくて,しかもある意味で憂いを持っていらっしゃいました。(p80)
 働き盛りの五十歳の時いただいたうつ病,六十代半ばでかかった膠原病,その副作用による骨粗鬆症,三度の圧迫骨折とその痛み,そして逃れることのできない老いの重荷,その一つひとつを,両手でいただいて,これからもみことばに支えられて生きてまいりたいと存じます。(p102)
 自分の好きなものだけを愛するのであれば,それは自己愛です。(p129)
 相手の言うことに耳を傾ける,そしていうべき時にはいうけれども,いわなくていいことを相手の話を遮ってまでいわない。そこに「思いやり」があるのです。(p136)
 私は,不機嫌は,立派な環境破壊だと思うのです。(中略)許すこと,ほほえみを交わし合うことを惜しまないようにしましょう。一生の終わりに残るものは,我々が集めたものではなくて,我々が与えたものなのですから。(p144)
 看護の「看」という字は「手」と「目」と書きます。お薬などももちろん大事ですが,看護の原点は温かい手とまなざしであり,そのぬくもりにより人の心は癒され,満たされるのです。(p155)

2017年10月9日月曜日

2017.10.09 渡辺和子 『幸せはあなたの心が決める』

書名 幸せはあなたの心が決める
著者 渡辺和子
発行所 PHP
発行年月日 2015.09.25
価格(税別) 1,000円

● 平易な文章だけれども,その平易さに力がある。ヨソから引っぱってきたものではなく,著者が自分の生身から絞りだしたものだからだろう。

● 以下にいくつか転載。
 「この世の中に,神以外のものはすべて被造物であり,不完全なものである」(p15)
 「人を許さない人は,また,他人の支配下にある人なのです」(p18)
 私たちの誰一人として,この世に自分から望んで生まれてきた人はいません。ということは,つまり皆,生きることに自信を持っていないのです。だからこそ,つらいこと,苦しいことの多い人生を生きてゆくためには,「あなたは生きていていいのだ」という,他人からの励ましと優しさが要るのです。(p28)
 「人間の自由とうのは,諸条件からの自由ではなく,これら諸条件に対して,自分のあり方を決めていく自由である」(p44)
 世の中のすべての人から見放されたように思う時も,決して自分で自分を見捨てることがない人でいてください。(p49)
 所詮,人間が見通せることには限りがあって,長いめで見ると,案外,物事は異なる評価を持つものですから。(p61)
 人間が人間であるために一つの条件は,実は「いつも幸せではあり得ない」ということ,「その生活の中には必ず幾分かの不幸せのかげが落とされている」ということではないでしょうか。(p63)
 世の中,「かくかく,しかじかあるべきだ」という思いこみをたくさん持てば持つだけ,不自由になります。(中略)それは結局,思いこみというのは,その実現において他人に依存する部分が多いからでしょう。(p64)
 ある人が,自分に負わされた十字架の重みに耐えかねて,神に願いました。「もっと軽いのに替えてください」。大小さまざまな十字架が林立している部屋に案内された彼は,その中から,大きさも重さも気に入ったものを選び出し,神の前に出ました。「これなら一生負ってゆけそうです」。そして気づいたのです。それは最前,自分が肩から外した十字架であったということに。(p72)
 劣等感は誰しもが持つものです。しかしながら,劣等感のかたまりのような人は決して美しくありません。なぜなら,人は,「自分」のかけがえのない価値にめざめて,生き生きと自分の生活をしている時にのみ美しいからです。(p91)
 「一つひとつ,音をさせないように,静かに置いてごらんなさい。さらに,そこに座る人が幸せになるようにと,心をこめて置いてごらんなさい」(p109)
 「面倒だ」と思った瞬間,「だから,しない」のでなく,「だから,する」こと。他人様が入っていらしたら,立つ。他人様とお話しする時はマフラー,手袋を外し,コートも脱ぐ。ポケットから手を出す。(p115)
 人間関係を和やかにするのに,「の」の字の哲学というのがあります。たとえば,夫が会社から戻ってきて,「ああ今日は疲れた」と言った時に,(中略)「ああそう,疲れたの」と,相手の気持ちをそのまま受け入れてあげることがたいせつなのです。(p129)

2017年7月5日水曜日

2017.07.05 渡辺和子 『どんな時でも人は笑顔になれる』

書名 どんな時でも人は笑顔になれる
著者 渡辺和子
発行所 PHP
発行年月日 2017.03.29
価格(税別) 1,000円

● 著者の最後の著作。

● 同じことを別の人が書いても,これほどの説得力は持たないのではないか。著者が言うから,そうなのかと納得する。
 問題は,納得したところで終わってしまうってことなんだけどね。

● 以下にいくつか転載。
 「神も仏もあるものか」と言いたくなるのは,こういう時です。ところが,実は,「求めること,捜すこと,戸を叩くこと」もたいせつですが,それに応えて与えられるものを謙虚に“いただく心”のほうがよりたいせつなのです。(p3)
 祈ることはたいせつなことです。しかしながら「願う前に,その必要とするものを知っておられる」天の父は,人間が願ったことをそのまま叶えることをもって,ご自分の,その人に対する愛の証しとはなさらないようなのです。なぜならば,私たちはいつも“欲しいもの”を願っているからであり,神様が私たちに叶えてくださるものは,“必要なもの”だからだと思います。(p71)
 他人にすぐれようと思うな 他人とちがった人間になれ(p20)
 苦しみについて評論家めいたことが言えたり,苦しみの正体をあれこれ詮索したりしているうちは,まだ自分に余裕がある証拠であって,苦しみのさなかに入ってしまうと,ただもう生きることで精一杯になってしまい,気がついた時には,苦しみはいつの間にか自分の後ろにあったように思います。(p33)
 履歴書を書かされる時,必ずといってよくほど学歴と職歴が要求されます。しかしながら,もっともたいせつなのは,書くに書けない「苦歴」とでもいったものではないでしょうか。(中略)苦歴は,その人だけのものであり,したがって,その人を語るもっとも雄弁なものではないかと思うのです。(p34)
 お金にならない時間,得にならない時間,その意味では無駄と思える時間の中にしか愛情は育たないということです。(p56)
 他人から受ける不当な扱い,誤解,不親切,意地悪等から全く自由になりたい,なれるはずだと思うことは,すでに人間としての「分際」を忘れた所業である(p59)
 人間はどんなに多くの言葉を費やして語り明かしたとしても,寝食を共にしたとしても,なお理解し合えず,理解し尽くせないものを持つのです。(中略)私たち一人ひとりには不可交信性という部分があって,また,それがあるゆえに「知り尽くしていない」相手に対しての尊敬が生まれ,「知り尽くされていない」自分についての淋しさと同時に誇りが残るのです。(p131)

2014年3月11日火曜日

2014.03.11 渡辺和子 『置かれた場所で咲きなさい』

書名 置かれた場所で咲きなさい
著者 渡辺和子
発行所 幻冬舎
発行年月日 2012.04.25
価格(税別) 952円

● 著者はカトリックの修道女。9歳のとき,目の前で父親を殺される経験(二・二六事件)をし,36歳でノートルダム清心女子大学(岡山市)の学長を命ぜられ,50歳でうつ病に見舞われ,さらに膠原病の治療で重度の(と思われる)骨粗鬆症になり,という艱難辛苦を経て,本書の執筆時に85歳。
 「憂きことのなほこの上に積もれかし限りある身の力ためさん」と詠んだ熊沢蕃山を連想させた。

● そうした自身の体験が編んだ言葉たちだから,読む者の頭ではなくて胸を打つ。
 ていねいに日々を生きること,面倒なことを厭わないこと,私が私がという自我を飼い慣らすこと。いちいち反論することが不可能なことばかりだ。いずれも自分はまったくできていないけれども,そんなこと言われたってなぁとは思わせない。

● 次の3つを転載しておくけれども,これはたまたま今の自分が目に入ってきたこと。5年後,10年後に読み返せば,違ったところが響いてくるのだろう。
 不機嫌は立派な環境破壊だということを,忘れないでいましょう。私たちは時に,顔から,口から,態度から,ダイオキシンを出していないでしょうか。これらは大気を汚染し,環境を汚し,人の心をむしばむのです。笑顔で生きるということは,立派なエコなのです。(p62)
 目には見えなくても,そして時には信じがたくても,一人ひとりの中に,その人の成熟に向かって前進する力と傾向性があることを信じることは,教育の根本といえるでしょう。(p81)
 一生の終わりに残るものは,我々が集めたものでなく,我々が与えたものだ(p101)