著者 渡辺和子
発行所 幻冬舎
発行年月日 2013.12.20
価格(税別) 952円
● 『置かれた場所で咲きなさい』もそうだけれども,タイトルがいい。内容をひと言で言い表してもいる。
しかし,こういう本を何度読んでも,自分は何も変わらない。凡夫の悲しさ。
● 以下にいくつか転載。
人には皆,苦労を厭い,面倒なことを避け,自分中心に生きようとする傾向があり,私もその例外ではありません。しかし,人間らしく,よりよく生きるということは,このような自然的傾向と闘うことなのです。(p17)
「何をおっしゃいます。一回一回が仕始めで,仕納めでございます」(p19)
マザー・テレサに,こんな言葉があります。「私はいつも心の中に,死んでゆく人々の最期のまなざしを忘れていません。この世で役立たずのように見えた人たちが,死の瞬間に“愛された”と感じながらこの世を去ることができるためなら,何でもしたいと思っているのです」(p23)
年齢のいかんにかかわらず,一人ひとりが忘れていけないのは,時間の使い方は,そのまま,命の使い方だということなのです。そんざいに生きていないか,不平不満が多くなっていないかを,時にチェックしてみないと,私たちの使える時間には限りがあるのです。(p26)
「神さまの教えとは何ですか」と問われたとしたら,「あたりまえのことを,心をこめて実行すること。与えられる一つひとつのいのちも,ものも,両手でいただくこと」と答えるでしょう。(p36)
「どうせまた同じことをするんだからいいわ」と思っても,一回一回をていねいにしなければいけないということ。人間にとって全く同じことは二度とあり得ませんから(p44)
つまずかない人生を送ることが,人間にとって大切なのではありません。人間のこと,つまずくのはあたりまえ,ただ,その時くじけてしまわないことが大切なのです。(p49)
時間の使い方はいのちの使い方。この世に“雑用”という用はない。用を雑にした時に,雑用が生まれるのだ(p53)
「あなた方には,脱いだはきものを揃える自由があります」(中略)自由に生きるということは,好き勝手をすることでは決してなくて,“よく生きる”自由を行使することなのです。(p61)
あまり人に流されないということです。(中略)相手がていねいに話をすれば,私もていねいに話しをする,相手が無愛想なら私も無愛想に,という態度ではなく,相手がどうであろうとも,私は私,人は人として生きるということです。(p69)
何もかもぶちまけるのが親しさではありません。親しさというのは開示性の度合いではなく,相手の独自性を尊重する度合いです。(p75)
人にいうと愚痴になることを抑えて自分の中に納めていくと,人はそれだけで美しくなります。(p77)
マザー・テレサはびっくりするほど,厳しいお顔をしていらっしゃいました。聖人のようなお優しい表情かと思っていたら,お目も,お顔つきも厳しくて,しかもある意味で憂いを持っていらっしゃいました。(p80)
働き盛りの五十歳の時いただいたうつ病,六十代半ばでかかった膠原病,その副作用による骨粗鬆症,三度の圧迫骨折とその痛み,そして逃れることのできない老いの重荷,その一つひとつを,両手でいただいて,これからもみことばに支えられて生きてまいりたいと存じます。(p102)
自分の好きなものだけを愛するのであれば,それは自己愛です。(p129)
相手の言うことに耳を傾ける,そしていうべき時にはいうけれども,いわなくていいことを相手の話を遮ってまでいわない。そこに「思いやり」があるのです。(p136)
私は,不機嫌は,立派な環境破壊だと思うのです。(中略)許すこと,ほほえみを交わし合うことを惜しまないようにしましょう。一生の終わりに残るものは,我々が集めたものではなくて,我々が与えたものなのですから。(p144)
看護の「看」という字は「手」と「目」と書きます。お薬などももちろん大事ですが,看護の原点は温かい手とまなざしであり,そのぬくもりにより人の心は癒され,満たされるのです。(p155)
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