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2020年9月30日水曜日

2020.09.30 永江 朗 『私は本屋が好きでした』

書名 私は本屋が好きでした
著者 永江 朗
発行所 太郎次郎社エディタス
発行年月日 2019.12.01
価格(税別) 1,600円

● ヘイト本が主題。なぜ出版されてなぜ流通してなぜ売れるのか。その状況に対してどうすれば良いのか。そこを追求していくと,日本の出版・流通・小売が抱える問題にぶつかる。もちろん,一刀両断的な解決法などない。
 一方で,ヘイト本の定義も問題になる。本書に,『日本国紀』もヘイト本に含めるとすると,という表現が出てくる。『日本国紀』はぼくも読んだ。正直,薄っぺらいと思った。これをベストセラーにできる出版社がすごいのか,こういうものが売れるはずと風を読むことができた編集者がすごいのか。いろいろとすごいんだろうけれども,だからといってこれをもヘイト本に含めてしまっては,表現の自由のその自由がすこぶる狭いものになってしまうのではないか。
 この種の問題を論じるときの第一の問題点がここにある。定義自体に自分の信条や好みをもぐり込ませてしまう危険性。

● 以下に多すぎる転載。
 小さな本屋が好きだった理由はいろいろありますが,完結したひとつの世界が表現されているように感じることが大きいと思います。(p14)
 数年前から小さな本屋をのぞくのが苦痛になってきました。(中略)その原因がヘイト本です。店頭にヘイト本が並んでいるのを見ると,いやな気分になります。(p15)
 本屋という仕事は,ただそこにあるだけで,まわりの社会に影響を与えることができるものなのだ-本屋を取材するようになってまもなくのころ,ヴィレッジヴァンガード創業者の菊地敬一さんから聞いた言葉です。(p16)
 出版界には「仕入れて売る」という他の小売業ではあたりまえの概念が存在しません。多くの本屋,とりわけ小さな本屋の場合,店頭に並んでいるのは,自発的に仕入れたわけではない,取次から見計らいで配本される本です。発注しなくても商品が自動的に送られてくるのです。(p17)
 ひと昔まえまでは雑誌とコミックの売上が小さな本屋を支えていました。雑誌はだいたい毎日新発売の商品がでますし,同じものが一日に何冊も売れます。本屋にとってはあまり手間がかからず,確実は売上を見込める商品だったのです。ところが,その雑誌が,インターネットとスマホの普及とともに壊滅してしまいました。(中略)雑誌全体の売上は,ピークだった一九九〇年代なかばの三分の一になってしまいました。(p21)
 ここ数年,カフェや雑貨売り場を併設する本屋が増えました。(中略)あるカフェ併設の本屋のマネージャーが,こんなことを言っていました、「一〇〇〇円の本を売って得られるマージンは二〇〇円ちょっとです。一〇〇〇円のドリンクのマージンは八〇〇円です。ぼくらは,一〇〇〇円の本を売りつづけるために,一〇〇〇円のドリンクを売るんです」と。そこで,「いや,一〇〇〇円のドリンクを売るために,返品できる一〇〇〇円の本を,ドリンクを飲ませながら無料で見せているんじゃないですか?」と心のなかでツッコミましたが(p23)
 その人の意思では変えられない属性-性別・民族・国籍・身体的特徴・疾病・障害・性的指向など-を攻撃することばは,批判ではなく差別です。(p29)
 ビジネス書なんかでも,書名や内容がポジティブなもののほうが売れる。ネガティブな書名は売れません。『嫌われる勇気』もやっぱりポジティブじゃないですか,なんとなく。(今野英治 p49)
 店が小さくたって,間口は狭めちゃだめ。おしゃれな売り場をつくって瞬間的に売れたとしても,たぶんそれは続かない。(中略)一見,お客さんを選んじゃったほうが効率が上がるかとも思うんだけど,そこh溶媒として危険な気がしますね。(笈入建志 p69)
 圧倒的に普通のお客さんが多いわけだよね。その普通のお客さんっていうのは,安定性を求めてて,あんまりとんがっているところには行かない。(今野英治 p70)
 出版社の経営者や幹部は一国一城の主という意識が強いから,共同でなにかをするのが苦手だ。(p95)
 Nさんが取次に入社してからの一〇年間でも,書店の荒廃ぶりは明らかだという。売上が減り,利益が減ると,書店は人件費を削る。人が減れば,従業員ひとりあたりの仕事は増える。作業量は増えるが,給料は安いままだ。ほとんどの書店員は本が好きで書店に入社する。だが,荒廃していく現場で身も心もボロボロになっていく。(p100)
 本を読んでいない書店員,本を読まない取次の社員が多い,とNさんは言う。「本が好きでこの業界に入ってきた人が,仕事をするうちにだんだん本が嫌いになっていく」(p104)
 大手・中堅の総合出版社はどこも「売れるものならなんでも」というのが現実だ。各社の刊行物を眺めれば,それは明らかだ。(p108)
 出版社ではヒットした本の二番煎じ・三番煎じの企画が歓迎される。なぜなら,ヒットした本の七割・八割は売れることが多いからだ。(中略)言いかえると,それだけ二番煎じやパクリ本を求める読者がいるということでもある。(p114)
 ネット右翼というのは本を読まないので。タイトルしか読みませんから。(古谷経衡 p151)
 ネット右翼って,基本的な性質は,嫌韓ではなくて反メディアなんですね。(古谷経衡 p152)
 ネット右翼というのは思考力が低いから。彼らは自分の基礎的な歴史についての知識がないので,だれかに依存しないではいられなんです。(古谷経衡 p154)
 やっぱり,人間ってもっとも近いものを攻撃しますから。(中略)ファシストはもっとも近いファシストを攻撃しますから。(古谷経衡 p160)
 本当に強い人間は強さを言わないのと同じです。バブルの時代の風俗を見ていくと圧倒的に自虐ですよね。(中略)かつては日本が破滅していくパターンが多かった。それは自信があったからで,それが人間の心理でしょう。いまはどうみても衰退しているので,自国を賛美しないといけない。(古谷経衡 p162)
 アレントはユダヤ人虐殺に手を貸した者たちが,けっして悪魔のような存在ではなく,目のまえに与えられた仕事を淡々とこなすだけでその仕事の意味については深く考えようとしない,いたって凡庸な人ひとであることを発見した。それと同じく,編集者にとっても取次の従業員にとっても,そして書店員にとっても,ヘイト本は他人事でしかない。(p170)
 もちろんわたしだって,「世の中のすべての本は丹精こめてつくられたものであり,つくり手の熱い思いがこめられている」なんてナイーブな幻想を抱いてはいない。食っていくために「しかたなく」つくられている本も多いだろう。「しかたなく」でなくても,「ほんのちょっとした思いつき」だったり。書店の平台に並んでいる新刊の多くは,そうしたやっつけ仕事だ。(p171)
 ポルノに限らず,出版という行為,あるいは表現という行為には,なんらかの後ろめたさがあるものだ。だれかを傷つけていないか,だれかを不快にしていないか,と。(p171)
 人は騙されやすい。騙されやすいからこそ,差別は拡大されやすく,憎悪は扇動される。そこに火をつけ,燃料を供給するのがヘイト本だ。(p175)
 「ナチスがやったことは許せませんね」「KKKは狂っている」という人が,同じ口調で「在日特権は許せません」と語る世界にわたしたちは生きている。嫌韓反中本ブームを見ていて,「ああ,ナチのユダヤ人虐殺って,こんなふうに広がっていったんだな」と思う。(p176)
 本屋大賞は「もっともすぐれた作品」を選ぶ賞ではなく,「もっとも売りたい本」を選ぶ賞である。(中略)本屋大賞の選考システムでは,内容的にすぐれた本を選ぶのは不可能だ。なぜなら本屋大賞は人気投票方式だから。(p183)
 本屋大賞の第一次選考上位一〇作が発表されると,多くの書店では前作を陳列する。しかし,いちばん売れるのは一位の作品で,二位以下はあまり売れない。(中略)それは読者/消費者が一位以外に関心をもたないからである。(中略)ビジネスにおいては一位と二位では天と地ほどの違いがあり,二位ではだめなのである。(p185)
 ネットって貧者の核兵器みたいなところがあるでしょう?(中略)金もないし名前も出したくないし,でもなにかを言いたい人間には核兵器級の力がある。(p218)
 出版に道徳も倫理もないとわたしは考えている。露悪的に言うなら,人間の欲望をくすぐり,たくみにつけいり,雑誌や書籍を売りつけ,カネを巻き上げるのが出版という商売だ。(中略)世の中の書物がすべて清く正しく美しい内容だけだったら,それは悪夢だ。(p229)
 四〇年まえと比べて新刊発行点数は三~四倍に増えたけれども,販売部数は同じ,返品率は四割と高止まりしたままとうのでは,人もシステムも疲弊してしまうのが当然です。(p242)
 四〇年まえと比べて,新刊の年間発行点数は三~四倍に増えました。なにが増えたのでしょうか。たぶん,なによりもつまらない本が増えたのだと思います。もともと本は玉石混淆で,しかも玉より石のほうが多かったけれども,その混合比がいまは一対九ぐらいじゃないでしょうか。圧倒的につまらない本が多い。(p247)

2018年8月6日月曜日

2018.08.06 永江 朗 『おじさんの哲学』

書名 おじさんの哲学
著者 永江 朗
発行所 原書房
発行年月日 2014.04.02
価格(税別) 1,800円

● 『批評の事情』に連なる1冊。誰を取りあげるかの切り口が「おじさん」。「おじさん」の意味はアマゾンのレビューででも確認を。
 吉本隆明に対してけっこう辛口。田中小実昌,山口瞳,伊丹十三など評論家じゃない人も取りあげられている。若い頃に読んだ“コミさん”の小説を読み返してみようかと思った。

● 以下に転載。
 森高さんも,この歌(「私がオバさんになっても」)を作ったときは,二一世紀に空前の熟女ブームが来て,女性たちが四十代になっても「女子」とか自分たちを呼んじゃって,膝小僧を堂々と出す時代になるとは思っていなかったでしょう。(p7)
 ぼくが自分を成熟した大人ではないなと判断することのひとつが,こうして文章を書いていても,つい括弧で言葉を補いたくなってしまう癖です。ひとことでいい切ることができない。いい切る勇気がない。だからつい括弧で補ってしまう。補うのはたんに補足だけではありません。自分に対する批判や冷笑を先回りして述べるようなところがある。(中略)防御のためにあらかじめ自分でツッコんでおく。(p13)
 ぼくは人にものを教わるのが嫌いです。先生に教えてもらうくらいなら,本を読んで独学したほうがいいと思っています。実際,和服の着方は本を見て覚えました。しかも,教わるのだけじゃなくて,教えるのも苦手なんですね。他人から「教えてください」といわれると,「そんなことは自分で考えてよ」と追い払いたくなる。(p25)
 大学で教えてほしいという依頼を引き受けたのは,「そうだ,自分が知りたいことを教えればいいんだ」と思いついたからです。(中略)自分で知りたいと思っていることを,学生に調べて発表してもらったり,たまには自分でも調べて話せばいいや,と。(中略)これは当たりでしたね。(p26)
 先生と呼べる存在が身近にある,ということで人は何かを学ぼうとする。ときには(というか,たいていの場合は),実体としての先生以上のものを,生徒は先生に見る。そして学ぶわけです。(p32)
 人間,ジェラシーとプライドとコンプレックスから自由になれたら,どんなに幸福かと思います。ブッダのいう「悟り」って,そういうことでしょう?(p33)
 アドリブにもお約束はあります。ジャズだと,大まかなリズムとコード進行は無視しない。(p34)
 ブログというのは,そんなにじっくり考えて書くものじゃない。(中略)なんというか,勢いみたいなものがそがれてしまう。(p35)
 「叔父さんは勢いでものをいう」といいかえてもいいかもしれない。目の前にあることに対して,まずは発言してみる。発言したあとで,その発言の整合性を考えて,いろいろ理屈をこねる。内田樹のブログ文のおもしろさはそういうところにあると思います。(p35)
 物を買うために働き,ときにはローンで物を買い,ローンを返すためにまた働く。人びとは自分が持っている時間をどんどんお金に替えて,他人に売り渡してきました。バブルが崩壊すると,この魔法が効かなくなります。ニンジンをぶら下げられても欲しくなくなっちゃった。というか,ニンジンがニンジンじゃないと気がついた。(p57)
 彼ら(革共同両派など)の武力は国家権力に対してではなく,対立党派や自分たちの内部の異端分子に向けられました。これは思想的退廃です。(中略)ぼくはこれを「自分の右隣にいるヤツを殴る思想」と呼びます。右端にいるヤツじゃなくて右隣。右端を殴る勇気がないから,簡単なほうに逃げている。で,こういう風潮を広めたのは,吉本隆明なんじゃないかと思うわけです。(中略)吉本の攻撃スタイルって,右隣にいる人に「おまえは右に座っているじゃないか」と罵るものだったわけで。(p69)
 吉本のキーワードのひとつは「自立」です。考えてみると,同調圧力が強いといわれる日本人にとって,「自立」ほど魅力的な言葉はないのではないでしょうか。茨木のり子がブームになったのだって「倚りかからず」という言葉がかっこよかったからでしょう。(p72)
 とくにインターネットのツイッターやフェイスブックの世界では,目の前の事象に対して脊髄反射的に何かをいったり書いたりするようになっています。じっくり考えているとツイッターの速い流れについていけません。議論を深めることはできない。(p97)
 全共闘運動は大人たちがつくったシステムや価値観に「NO!」という,いわば駄々っ子みたいな運動だったわけですが,そのシステムや価値観のなかには旧来の「お勉強」が入っていました。(中略)勉強することが,当時の若者言葉でいうなら「ブルジョア的」だった。いま振り返ると滑稽ですが,中国の文化大革命やその矮小版であるカンボジアのポルポトがやったことなど,グロテスクで愚かなことが現実に行われたのですから,笑っている場合ではありません。(p95)
 でも,新しいことというのは,常に周縁から起きるんですね。ぼくの専門分野は出版産業,それも書店業についてですが,出版の新しい風は常に業界外から吹いてきました。(p99)
 とくにお年寄りの作家になると自分の文学観からはみ出るものに対しては理解より拒絶のほうが先立つみたいで。(中略)「中心」だけが選んでいたのでは文学賞も滅びます。(p100)
 鷹峯のお宅で(生田耕作から)うかがった言葉の中で,もっとも印象的だったのは「多数派はいつも間違える」というものでした。歴史を振り返ると確かにそうなんですね。日中戦争から太平洋戦争の泥沼に入っていく過程を見ても,日本人の多数は戦争歓迎でしょう。(中略)民主主義なんていうけど,軽佻浮薄な民衆に政治なんかまかせていたら間違ってばかりです。(p105)
 ぼくはツイッターに三日で飽きた男ですし,ミクシーもフェイスブックもやりませんが,ときどきネットの掲示板的なところを覗きます。五分ぐらいでどんよりした気持ちになりますね。みんな心のなかのどす黒い部分をネットで吐き出している。(p115)
 ネットからぼくが感じるのは「みんな聴いてほしいんだ」ということです。黒い書き込みは匿名だから,たんに吐き出すだけだけれども,やっぱり聴いてほしいわけでしょう。聴いてほしいけれどもだれも聴いてくれないからエスカレートしていく。(p116)
 ある週刊誌の元編集長がこんなことをいっていました。「間違ってもいい。一週間たてば次の号が出る」 旅の恥はかき捨てならぬ,報道の恥は書き捨て。マスメディアというものは本質的に刹那的なものだと思います。(p120)
 「善人がファシストになること,それがファシズムというものだ」と森毅はいいます。ぼくが『不良のための読書術』を書いたいちばん大きな動機はこれでした。人はほうっておくと善人になるし,善人はファシストになる。だから不良になるよう心がけよう。本を読んで不良になろう,というのがぼくの読書術です。(p130)
 「一丸となって」というのは多様性を失うことですから,失敗したときのリスクも大きくなります。(p132)
 「あんなにがんばって,たいへんだったろうな」と思います。勝つころで得られるのがおカネであれ地位であれ,あるいは賞賛や名誉であれ,そんなもののためにたいへんな努力をするなんて,と。(p134)
 植草甚一は変な叔父さん,変なおじいさんでした。その特徴は,徹底的な愚行です。分別のある大人ならやらないようなことをする。いや,大人だけじゃなくて,若者だってやらないようなことをする。(p156)
 なーんだ,一日四時間くらいなら,ぼくだって聴いていることがあるよ,と思ったけれども,植草甚一のほかの文章を読むと,ほかのことをしながらの「ながら聴き」ではないようなんですね。ガチで聴いている。もしかしたらノートなんかも取っているかもしれません。これはちょっとできないな。(p157)
 三年間二千冊という数字に,森本哲郎は「それはすごい。で,発見がありましたか?」という。すると植草甚一は「ないです」とひと言。すごいひと言です。一〇冊,二〇冊を読んでの「ないです」ではありません。(中略)たぶん二千冊も買い込まなくても,十冊,二十冊ほど読んだあたりで,発見は「ない」とわかっていたはずです。感の鋭い人ですからね。でも三年間,二千冊,律儀に買い込んじゃうわけです。(p160)
 ぼくの考えでは,スタンダードは簡単で難しい。(中略)スタンダードは奥が深い。うるさい人は襟幅やウエストの絞り方にミリ単位でいろいろいうわけです。(中略)それに比べれば,いわゆるモード系のほうがルールはゆるい。モード系のルールは流行からはずれていないかどうかだけですから。(p171)
 デパートに勤めているとき,ぼくが発見したことのひとつは,「お金持ちは値段を訊く」ということです。「値段を訊くのは恥ずかしい」なんて考えるのは貧乏人ですね。貧乏人ほど見栄っ張りです。(p186)
 コミさん(田中小実昌)がヨレヨレにもかかわらずかっこよく見えたのは,まず,働いているようすがなかったからです。ふらふらと東映本社の前を歩いていたりする。そのときコミさんの表情は弛緩しています。(中略)でもいま考えると,コミさんが働いていないわけがない。エッセイや小説の執筆でけっこう忙しかったに違いありません。(中略)この,忙しくても忙しいことを周囲に感じさせない,それどころか暇を持て余しているように見える,というところもコミさんの尊敬すべき点です。(中略)忙しいときに「忙しい」と自分でいうのは野暮です。(p195)
 行き先も確かめずに衝動的にバスに乗り,鞄からとり出した哲学書を読んでぼんやり考えるコミさんから,そんなふうにぼくは考えます。考えることを愛好する,智を愛するというのは,コミさんのような生活から生まれるんじゃないだろうか。案外,ソクラテスってコミさんみたいな人だったのかもしれない。(p199)
 非常に精緻にけなされても,それは何か自分の或る一面を衝かれているにすぎないと思うくせに,ほめられると,それがただの一言であっても,自分の全作品全生涯をほめられたように感ずるのである。(谷川俊太郎 p233)
 ぼくがツイッターやフェイスブックに近づかないのも,打たれ弱いからということがあります。(p234)
 以前,谷川さんにインタビューしたとき,ぼくは少し意地悪な気持ちで,斎藤孝の『声に出して読みたい日本語』のブームについてどう思うかと訪ねたことがあります。それは批判的な言葉を期待してのものでした。でも谷川さんはぼくのその意図を察したのでしょう,少しぼくの目を見てから「あれはいいと思うよ」といいました。その目は,他人の口を借りてそこにいない誰かの悪口をいってはいけないと諭しているようで,その瞬間,ぼくは恥ずかしくなりました。(p234)
 英雄や偉人はいるだろう。でも英雄や偉人だって,二四時間いつも英雄であり偉人であるわけではないだろう,というのが小田実の「チョボチョボ論」です。(p244)
 世の中を不幸にするのはまじめな人たちです。ふざけていたずら半分で戦争を起こそうという人はいません。まじめな人が戦争を始める。(中略)ふまじめな人がする迷惑の範囲はたかがしれています。ところがまじめな人による迷惑はスケールがでかい。(p245)
 オウム真理教の信者たちは,邪悪でふざけた人だったわけではない。むしろ世間的な尺度でいえばまじめないい人たちでしょう。まじめないい人たちが,ばかげた宗教にだまされて殺人者になっちゃった・・・・・・のではなくて,まじめないい人たちだから,ばかげた宗教を信じて邪悪な殺人者になったんです。(中略)そして,普通の人は,たいていまじめです。放っておくと,どんどんまじめになります。(p246)
 取り調べが続くあいだ,彼(鶴見俊輔)は拘置所に入れられました。そこでは元ボクサーの殺人犯もいたそうです。ぼくが当時のことを彼に聞いたとき,「そりゃあ,いい人間だったよ」と彼は笑っていいました。「なにしろ人を殺しちゃうぐらいだもの,いい人間なんだよ」と。(p248)
 勝っている社会って,じつい居心地の悪い,いやなものです。バブル時代の日本がそうでした。(中略)だからバブルがはじけた時はほっとした。バブルで浮かれている時よりも,バブルがはじけて仕事が減って,「苦しいね。しんどいね」といっている時のほうが,気持ちとしては楽でした。(p250)
 敗戦当夜,食事をする気力もなくなった男は多くいた。しかし,夕食をととのえない女性がいただろうか。他の日とおなじく,女性は,食事をととのえた。この無言の姿勢の中に,平和運動の根がある(鶴見俊輔 p253)
 もちろん彼らも派手に論争しましたし,とくに吉本隆明は『試行』などで罵詈雑言を浴びせたわけだけれども,それはひとつの芸みないなものであって,罵詈雑言を浴びせられる方も芸だとわかっていて,つきあったりつきあわなかったりしたわけです。それに対してぼくらの世代,一九六〇年前後に生まれた世代は,批判されるといまひとつ冷静ではいられませんね。線が細いのかもしれない。もちろんあらゆることを世代に還元してしまうのは良くないけれど。(p257)
 だいたい合ってりゃいいんですよ。いや,合ってなくても,おもしろけりゃいいじゃん。(中略)正しくてつまんないことより,間違ってておもしろいほうがいい,とぼくなんかは思うんですけど。(中略)もうソースやエビデンスはいいので,ぼくはおもしろい叔父さんのアドバイスというかぼやきが聞きたい。(p258)

2018年3月21日水曜日

2018.03.21 永江 朗 『65歳からの京都歩き』

書名 65歳からの京都歩き
著者 永江 朗
発行所 京阪神エルマガジン社
発行年月日 2017.10.01
価格(税別) 1,380円

● 京都は人を選ぶ。京都に呼ばれる人と呼ばれない人がいる。ぼくは高校の修学旅行以来,都合6度,京都を訪ねたことがあるんだけど,ついに京都に呼ばれることはなかった。
 金沢にも同じものを感じる。奈良はそうじゃないんだが。

● 著者は京都に家を建てたくらいだから,京都に呼ばれた人だ。しかも,東京にずっといた人だから,京都を外から見る視点も当然ある。

● 以下にいくつか転載。
 わたしも行列を見ると,「そんなに素晴らしいのか」「そんなに美味いのか」と,一瞬,並びたくなりますが,冷静に考えてパスします。並ぶ時間がもったいない。体力ももったいない。わたしが並ぶのは[出町ふたば]と大晦日の[花もも]だけです。(p55)
 人気の甘味処などでは,行列がなかなか進みません。なぜかというと,京都の人は店の外に行列ができていても意に介することなく,のんびりとマイペースですごすからです。(中略)お店の人も,「食べ終わったら早く出ていってください」といった態度はチラとも見せません。「どうぞ,ゆっくりしてって!」という気分がありありなのです。(中略)そして気がつきました。これが京都の時間であり,京都の「あたりまえ」なのだと。(p56)
 若者に「お寺と神社の違いはなんだと思う?」と訊ねたら,「お寺は拝観料を取られるけど,神社はただで見られる」と返ってきました。(p62)
 目が覚めたらぜひ,ホテルで朝食をとる前に散歩することをおすすめします。できれば朝食もホテルのレストランではなく,街なかの喫茶店で。(p81)
 わたしは,たまに大阪に行くことがあっても,晩ごはんは京都に戻って食べることが多い。(中略)大阪よりも京都のほうがおいしい,大阪よりも京都のほうがおいしい店が多い,というのがここだけの本音です。(p93)
 料理の味や店の雰囲気,接客など,さまざまは要素を考慮した上で,想定的に高いと感じるのは,観光客を主要客層に想定したお店です。エリアでいうと祇園や四条河原町界隈の店。木屋町や先斗町も高めです。四条烏丸や新町通も。(p96)
 京都は和食以外においしい店がたくさんあります。なかでも中華料理は独特の発展を遂げています。(中略)どの店でも「京都ならではだなぁ」と感心するのが春巻です。(p98)
 年末年始の京都はしっかり休むお店が多いので,この時期に旅をするときは注意が必要です。(中略)この「国際的な観光都市といわれても,盆暮れ正月はしっかり休む」「ビジネスよりも伝統行司が大事」という姿勢こそ京都らしいところです。(p137)
 本が好きな人にとって,京都は天国のような街です。街のあちこちに本屋があり,それぞれが個性的です。(中略)たしかに,新刊本はどこででも手に入るし,どこで買っても同じ。でも,本屋という空間は一つひとつ違います。京都の本屋は京都に行かなければ味わえません。(p142)
 「大は小を兼ねる」という言葉が本屋には当てはまらないということがわかります。わたしはアバンティブックセンターにも大垣書店にもなかった本を,ふたば書房で見つけたことがあります。(p145)
 以前,女優の浜美枝さんから,こんな話をうかがいました。浜さんはデビュー間もないころ,写真家の土門拳から「いいものを見なさい」とアドバイスされたそうです。(p156)
 茶の湯に用いる道具類のなかで,最大のものが茶室です。茶室はお茶を点てて飲む「場所」ではなく,茶道具のひとつなのです--というのは,建築史家の藤森照信さんの受け売りですが。(p174)
 柳が「民藝」ということばを与えた瞬間,それまで誰も鑑賞の対象だと思っていなかった茶碗や水瓶や箪笥などが美しく見えてきました。千利休が数百年前にやったこと-侘び茶の創造-に匹敵する美意識の革命です。(p208)
 木曽義仲が都に攻め入るところでは,義仲の田舎ぶりが嘲笑されます。義仲は粗野で無教養な武士として描かれます。これは『平家物語』が都人,つまり京都の人の視点で描かれているからでしょう。都会人が非都会人を見くだすところが木曽義仲の描き方に反映されています。(p242)

2017年11月16日木曜日

2017.11.16 永江 朗 『新・批評の事情 不良のための論壇案内』

書名 新・批評の事情 不良のための論壇案内
著者 永江 朗
発行所 原書房
発行年月日 2007.06.05
価格(税別) 1,500円

● 次の批評家たちが俎上に乗っている。
 内田樹 小熊英二 藤原帰一 森達也
 姜尚中 北田暁大 鈴木謙介 酒井隆史

 三浦展 玄田有史 斎藤貴男 矢部史郎
 稲葉振一郎 野口旭 金子勝

 菊地成孔 陣野俊史 仲俣暁生 田中和生
 縄田一男 山下裕二 森川嘉一郎 ササキバラ・ゴウ
 本田透 荷宮和子 山崎まどか

 ドン小西 遠山周平 赤城耕一 福野礼一郎 山口淳
 松田忠徳 犬養裕美子

● このうち,ぼくが読んだことがあるのは,内田樹と三浦展だけ。あとは知らない。あ,温泉評論家の松田忠徳はNHKのEテレに出ていたのを見たことがある。だいぶ前のことだけど。
 すでに言論界から消えてしまった人もいるのかもしれない。が,元々知らないんだから,そういう人がいたとしても,ぼくにはわからない。

● 以下にいくつか転載。
 誰だって知っているような細部をつなぎあわせて全体を俯瞰してみると,誰もが知っているはずだけどよくは自覚していなかったことが顕在化してくる,というのが小熊の仕事の本質ではないだろうか。(p26)
 小熊が本当にすごいのは,大量に資料を読んだことでも,厚い本を書いたことでもなく,大量の資料の中から的確にテキストを抜き出し,それを再編集・再構成したところにある。小熊の本当の才能は編集者としてのそれである。(p29)
 「余裕」とは過剰に熱狂しないことであり,条件反射的に物事を考えないことである。(p33)
 重要なのは,何が正しいかではなく,なぜ(それらを主張する人びとにとっては)正しいのかなのだ,と藤原は言っているように私には思われる。つまり,絶対的な正しさを発見してそれに合致しないものを否定するような態度からは,何も生まれないと藤原は考えているのではないか。(p34)
 姜尚中は小さな声でゆっくりと話す。だから,彼といると,つい全身の注意を彼に向けることになる。彼がゆっくりと話すのは,たぶん幼いことに吃音癖があったことと関係しているのだろう。(p55)
 知識人とは,常に自分を括弧に入れて,物事を観察し,分析する人のことである(中略) いくら「生活者」を名乗ったところで,抽象的論理的思考のなかでは自分を括弧に入れて考えざるをえない。対象化とはそういうことなんだから。(p61)
 面と向かって相対する場合ならば,顔の表情や声の様子などから,その文脈を類推することができる。しかし,文字だけの情報のとき,この文脈は教養に置き換えられる。教養は経験と洞察力に左右されるので,階層化が不可癖だ。(p62)
 基本的に同意せざるを得ないのは,格差の拡大はコミュニケーション能力においても深刻であり,不平等化・格差拡大を批判する者がいずれも「勝ち組」の側に属しているという矛盾についでである。(p63)
 書籍の出版点数が年々増えても,メガヒットに集中する「一人勝ち」現象が起きるのは,コンピュータによるデータ管理が進んだことも一因だ。(p67)
 宮台の女子高生分析が,一〇年経って見るといくつかの誤りがあったように(結局,茶髪も援交も,ただの流行現象でしかなく,その意味ではかつて朝シャンを「みそぎ」になぞらえた大塚英志と同じく,深読みというか意味付与しすぎていた),対象との距離の近さが情報の誤読を招く可能性は否定できない。(p68)
 人工知能の研究では,身体を持たない意識だけの人工知能には限界があることがわかっている。(中略)身体がなければ,意識は自己と他者,内と外といった概念が理解できない。外界を理解するモノサシがないのである。(p71)
 言葉は存在を規定する。フリーターという言葉はまたたく間に認知され,一般用語となった。(中略)言葉ができたことで,フリーターになること,フリーターであることの後ろめたさは減った。(p94)
 企業は役に立たない人材,給料に見合った働きをしていない人材から首を切るわけではない。首を切りやすい社員から手をつける。中間管理職が狙われやすいのは,彼らの多くが労働組合に加入しておらず,また,彼らがちょっとでも有能だと経営者は自分の立場を脅かすと感じるからだ。(p96)
 一介の労働者が改札窓口に座るだけで鉄道経営者を代弁する気持ちになってしまう。支配は権力機関が強権を発動して行われるわけではない。「みんな」が自動改札を使っているのだから一人の例外もなく自動改札を使うべきだ,などと根拠もなく考えるこの駅員のような,支配されたがる人びと,支配の道具になりたがる人びとによって権力の支配は完遂される。(p105)
 資本家は労働者を安くこきつかって商品を作り,それを売って利益を得る。(中略)労働者は自分が作ったものを自分で買う。しかも,安く作って高く買う。資本家は作ったときと売ったときの二回,労働者=消費者から収奪するのである。(p111)
 私は,批評家とは皮肉屋でなければならないと考えている。(p150)
 情報誌の編集部というのはポップカルチャーに関する情報が大量に集まってくる。(中略)集まってくる情報の全体を肌で感じることができる。担当以外のこともなんとなく分かる。(p163)
 たとえば文学賞でも,選考委員に評論家が加わっているもののほうがおもしろい。芥川賞や直木賞がつまらないのは,選考委員が作家ばかりだからだ。作家は小説を書くプロではあるけれども,一部の例外を除いてあまり小説を読まない。(中略)選評などを読むと,自分とは違う種類の才能は認めたくないのだなと感じることが多い。新人に賞を与えない理由としてよく使われる「人間が描けていない」だの「小説になっていない」だのという言葉はその最たるものだろう。(p169)
 評論には切り口が必要で,たいていの評論家は得意技というかオリジナルな武器というか,そういうものを持っている。(p171)
 人生は短く,芸術は永遠である。文学の,少なくとも純文学の書き手には,そうしたロマンチックな幻想がある。だが田中はその甘い幻想を冷たく突き放す。(p174)
 いま考えると,固有名詞を閉じた内輪の言語であるとして批判した富岡多恵子の議論は,最初から無理目のものだった。固有名詞に限らず,あらゆる言語は内輪の言語であるしかないのだから。それが開かれているか閉じているかは,程度の差でしかない。(p174)
 セックスがあるからこそ,多くのおたくも非おたくもアニメに惹かれるのであり,それは成功したキャラクターの魅力なのだ。(p205)
 一五歳の少年がほしのあきに夢中になるとは考えにくい。ほしのあきがグラビアアイドルとしてブームになったのは,グラビアアイドルを支えるファンの年齢が上がったことを示している。(中略)「萌え」がブームとなった背景には,こうした変化-三〇年前なら一〇代の若者が夢中になったものに,現在は三〇代,四〇代の大人が夢中になり,しかもそれを隠そうとはしない-があることを押さえておく必要がある。(p208)
 それにしても,本田をはじめオタクたちはなぜ自分を被害者として措定して語りたがるのだろう。何かを好きになるのに理由はいらない。たしかに世間の偏見はあるが,好きだから好きだ,と言わないところに,なんとも窮屈なものを感じてしまう。(p213)
 市場原理主義は強者の論理だ。郵政などの民営化にしても,市場解放論にしても,誰もが強者の立場で発言したがる。(中略)勝者よりも敗者のほうが圧倒的に多いということが分かりきっているのに,あたかも自分は関係ない,もしくは自分は敗者にならないという前提でそれらに賛成する人がほとんどだった。(p218)
 なぜネットの中では弱いものがより弱いものを叩く構造になるのか,までは充分に説明しきれていない(p219)
 セレクトショップ系の古書店では,センスに合わないものを受け入れない。「何を集めるか」だけでなく,「何を排除するか」でこれらの店の品ぞろえは行われている。(p224)
 かつては実売九〇万部を誇った『暮しの手帖』が,いま往時ほどの輝きがないとすれば,それは同誌によって商品の質が向上し,消費者の生活もよくなったからである。(p254)
 雑誌の役割が,一般読者にはなかなか体験できないことを,代わって体験して報告することにあるとするなら,豊かになった日本人にとって,代行はもはや必要なくなった。ただし,だからといってモノについて語ることが不要になったわけではない。(中略)逆に,誰もが鑑賞できるからこそ,批評家の言葉が求められる。(p263)
 分析して批評するためには,その対象を大量に調べなければならない。批評家には何よりもまず量が必要なのだ。音楽評論家は大量に音楽を聴いていなければならないし,文芸評論家は大量に文芸作品を読んでいなければならない。(中略)だが松田自身が言うように,重要なのは短期間にこの調査が行われたことだ。同時にたくさんの対象を調べることによって見えてくるものがある。(p269)

2017年10月19日木曜日

2017.10.19 永江 朗 『本の現場』

書名 本の現場
著者 永江 朗
発行所 ポット出版
発行年月日 2009.07.13
価格(税別) 1,800円

● 副題は「本はどう生まれ,だれに読まれているか」。
 本は売れなくなったのか,そうだすれば理由は何か。若者の活字離れというのは本当なのか。出版社-取次-書店という流通経路に問題はないのか,あるとすればそれは何か。
 そういったことを緻密に取材しながら,自身の考察を展開する。

● が,「本の現場」を素材にして,永江さんの世界観が述べられているものでもある。「本の現場」に興味がない人が読んでも面白いと思う。
 って,そういう人は本なんか読まないか。

● 以下にいくつか転載。
 なぜ90年代に本が売れなくなったのだろう。(中略)「若者の時代が終わったから」と佐々木(利春)さんは言う。(中略)バブルの頂点で若者が雑誌や書籍にそっぽを向き始めた。いや,若者の数そのものが減り始めたのだ。 「やっぱり本は若者のものなんです。誰だって若いときは読んだ。でも,年をとったら読まなくなる」(p12)
 中村(文隆:ジュンク堂書店)さんの実感でも,この十数年で新刊店数は倍以上,そして中村さん自身の作業量も倍以上に増えたという。(p16)
 「2匹目のドジョウとはよく言うけど,いまは平均すると4匹目,5匹目までは出る。最近の新書なんて,ほとんどが一昔前なら雑誌で16頁の特集を組めば済んじゃうようなものですよ」(p17)
 「共同出版」はお金の流れがブラックボックス化している。客(著者)は「出版社と著者が費用を折半している」と思っているが,現実には客が全額負担してさらに出版社にマージンを払っている。(p39)
 まったく無名のアマチュアが自身のWebサイトでコツコツと作品を発表しても,それが編集者に発見されてプロになる可能性はほとんどない。評論家の福田和也が(中略)「ネットの文章って,最初に編集者を『ダマす』という行為を通過してないでしょう。学生によく言うんだけど,編集者一人ダマせないのに,読者をダマせるわけがない。プロを目指すんなら,原稿料にならない文章をネットにだらだら書かないほうがいいね。ネット経由で一発当てる人もいるけど,長くやっていけるとは思えない」と発言している。私も含めて,出版界でこう考える人は多いだろう。(p49)
 ケータイ小説を読んでいると「こんな下らないもの!」と罵りたくなるが,しかしノベルス版で大量生産されるミステリーであるとか,文庫本の官能小説も似たようなものである。(p52)
 本が売れるためには,まず有名にならなければならないのだ。(p55)
 原稿料や印税率が低下する最大の理由は,出版不況が続いて出版社の経営が悪化しているからであるが,書き手の変化という要因も大きい。一言でいえば,書き手のアマチュア化である。たとえば大学の教員なり会社員なりが,自分の専門知識を生かした本を書く。本業ではないから,印税についてあまりうるさいことはいわない。(p59)
 取り換え可能なのはライターだけではない。小説家だって似たようなものだ。(中略)表現物の唯一性と代替不可能性は,作家だけが信じているにすぎない。(p66)
 「Webマガジンは選択したくなかった。志向性の強い読者しか来なくなりますから。偶然でも手にとってもらう機会がなくなるのは,雑誌にとってつらいことです(p88)
 「朝の読書」と「読書マラソン」を取材してみて,「若者の読書ばなれ」という紋切り型の言い方が,いかに表面的なものでしかないかを痛感した。(p105)
 むしろ大人の読書離れのほうが問題だと考える人が,最近は増えている。しかもそれは大人自身にとって問題であるだけでなく,子どもの読書環境としても問題である。(p106)
 世の中には何の抵抗もなく本を読んで意味をつかむことができる人と,本を読むこと自体にたいへんな労力を要するだけでなく意味をつかむのに苦労する人とがいる。(中略)読書あるいは文字文化との親和性に関連した格差は存在するのではないか。(中略)しかもその格差は親から子へと拡大再生産される。(p106)
 日常的に書店に足を運ぶ人は,世の中全体で見ると少数派なのかもしれない。もう何年も書店に行っていない,という人は意外と多い。いや,本を扱うことで生活しているはずの書店員・書店主のなかにも,ほとんど本を読まないという人がいるのだから。(p107)
 よく「電車の中で本を読む人も減りましたね」なんて言うけれども,それは思い込みにすぎない。「読書ばなれが進んでいる」と思って電車内を見るから,「本を読む人が減ったなあ」と感じるのである。これは「青少年の犯罪が増えた」というのと同じ。統計を見ると青少年の犯罪は激減しているのに,犯罪が増えているように思わされているだけだ。(P124)
 では,新書は誰が読んでいるのか。「学生か中年男性の二つですよね」と田口(久美子:ジュンク堂書店)さんは言う。学生は大学の授業で使う。(中略)「どうして女性は少ないんでしょうね。不思議よね」(p133)
 新書はどれだけロングセラーにできるかが重要だと思う。でもそれは本の力だけじゃないのよね。たとえば背にある整理番号のつけかた一つで,棚の補充のしやすさが変わるの。些細なことなんだけど,長い目で見ると,それがロングセラーになるかどうかを決めていたりするのよ。(p134)
 05年のベストセラー1位は『頭がいい人,悪い人の話し方』だった。06年の1位は『国家の品格』だった。07年の1位は『女性の品格』である。なんと3年連続で新書が首位だ。しかもこの3冊がそろいもそろってクズみないな内容である。(中略)クズ本の山に埋もれて,真っ当な本が見えなくなってしまっている。(p136)
 08年春から大学に勤務して驚いたが,いまどきの大学生はほんとうにお金を持っていない。(中略)だた,みんな身なりがこざっぱりしているので,ひどく貧乏そうに見えないだけで。(p164)
 文学賞に限らず,賞はどんな作品が選ばれるかでその後の性格が決まる。読ませ大賞も,第1回が『鏡の法則』でなければ,その後も続いていたかもしれない。(p165)
 かつて私は,リリー・フランキーを出版業界のリトマス試験紙と呼んでいた。イラストレーター,エッセイストとしては,以前から一部で人気が高かった。だがそれはあくまで「一部」だった。編集者の間でも評価は二分していた。好悪ではない。「わかる」「面白い」と言う人と,「わからない」「つまらない」と言う人のギャップが激しかった。リリー・フランキーがわからない編集者に未来はない,というのが私の考えだ。(p168)
 ベテランの書店員や編集者に聞くと,ベストセラーの「つくられかた」には変化があるようだ。誰もが指摘するのが「一極集中」である。売れるものはすごく売れるが,売れないものはぜんぜん売れない。だが,売れるものと売れないものの質的な差はそれほどでもない。(中略)消費者は売れているものに飛びつく。「売れている」という事実によって,さらに売れる,加速する。(p178)
 私の半径3メートル以内だけの印象かもしれませんが,自分も含めて最近急速にネットに対する関心が薄れてきているんですよ。この前会った雑誌の編集者はメールはチェックするけど情報の収集にネットを使うのはもうやめた,と言ってました。(中略)ネタ集めにはネットはほとんど使えないと実感したそうです。僕もよく大学での講義のとき,学生にアンケートを取るんですけど,彼らもネットに関心を持っていないですね。まあ,対象が早稲田の編集者志望の学生ばかり,という特殊性はありますが。(p218)

2017年4月1日土曜日

2017.04.01 永江 朗 『小さな出版社のつくり方』

書名 小さな出版社のつくり方
著者 永江 朗
発行所 猿江商會
発行年月日 2016.09.26
価格(税別) 1,600円

● 出版界(出版社,取次,書店)の問題点を整理して,どこをどう直せばいいか,どうすれば出版界が活気づくのか,を検討している。
 背景には本が売れなくなったという事情がある。が,売れないのと読まれないのは違う。

● そういったところを,しつこく,いろんな観点から深掘りしている。その方法論として永江さんが採用したのが,小出版社を現に運営している人たちに取材して探ってみるというやり方。
 実際には,小出版社を取材するという仕事が先にあって,では何を訊けばいいかというのが後からついてきたのかもしれないけれども。

● 以下にいくつか転載。
 新聞広告を出したことは何度かあるが,書評ほどの効果はないというのが実感だ。(p22)
 返品削減はじめコストカットは,短期的には利益を増やしても,長期的には市場を収縮させ,自分たちの首を絞めることになる。(p40)
 一人ひとりの給料が高いので,経営側は人件費を抑えるために従業員を減らそうとする。従業員が減ると,ひとりあたりの労働量は増える。余裕がなくなり,アイデアも生まれにくくなる。(中略)給料を下げて人を増やしたほうが,長期的には出版界活性化につながるのではないだろうか。(p41)
 取次の社員はリスクを恐れる。自分が口座開設をOKした出版社が倒産したら,責任を問われるからだ。だが,出版というビジネスは,うまくいくこともあれば失敗することもある。(中略)できるだけリスクを回避しようと石橋を叩いてばかりいるので,誰も橋を渡らなくなり,出版界は活力を失ってしまった。(p55)
 読者にとっては,出版社が大手か零細かなんて関係ないし,本の内容だけで買うとは限らない。たとえ1000円でも2000円でも,ふつうの人は本を買うときシビアになる。チープな造本では購入意欲が失せる。こうした感覚は出版業界に長くいると鈍くなってしまう。(p57)
 出版社には企画会議があるでしょう? あれでだいたいつまんない企画になってくる(p62)
 ある大手書店チェーンの幹部は(酒の席での発言ではあったけれども),出版社が淘汰再編されたほうが書店の仕事は楽になるといっていた。売上は落ちているのに仕事量が増え続けている書店現場の悲鳴とも聞こえる。(p75)
 近年,美術館の展覧会は進化していて,60年代や70年代のようにただ泰西名画を集めただけ,あるいは個人の作品を年代順に並べただけという展覧会は少なくなった。明確な,しかも斬新なコンセプトで,展覧会そのものが表現であるかのような企画が増えたし,個人の回顧展にしても切り口が重視される。(p84)
 アートというものが時代のひとつ先のイシューをとらえるものだから,『BIOCITY』をつくりながら,このテーマは何年か前にアートで取り上げられていたものと感じることはよくあります。3.11以降,アートは変わったと思います。9.11以降にアメリカで起きたようなことが,日本でも起きている。たとえば,参加型の作品など関係性のアートが増えている。(p90)
 「(著者が)無名でさえなければ」という言葉は身も蓋もないように聞こえるけれども,これも重要なポイントだ。無名で,後ろ盾もなく,なんの実績もない出版社が最初に出す本で,著者も無名というのでは,売る自信がなかった。(p102)
 「風」だ。なんとなくの「風」を感じられるかどうか。人が書店でワクワクしている感じが減っている(p117)
 AKB48など秋元康氏のアイドル・ビジネスは漫画雑誌のつくり方に似ている。アイドルグループを運用するためにメンバーを新陳代謝させていく。 「一方,手塚プロとか藤子プロなど個人事務所のあるコンテンツは寿命が長いんです。コンテンツ側で管理する人間がいないと,コンテンツの寿命は短くなる」 佐渡島さんの感覚では,作品の80%は運用によって寿命を長くできるという。ところが出版社のしくみでは,長期的に運用できるのは5%程度にとどまる。(p119)
 作家に限らず,クリエイターにとって自己模倣は危険な罠だ。スタイルを確立したなどといえば聞こえはいいが,同じことの反復である。(p127)
 本を世に送り出すためにつくった出版社が,いつのまにか出版社を存続させるために本をつくるようになる。書店も取次も同様。存続することが自己目的化して,手段と目的が逆立ちしてしまう。「本が売れない」という状況は,その帰結だ。しかし「本が売れない」のは「新刊書が新刊書店で売れない」のであって,「本が読まれていない」のとは違う。(p133)
 店舗をつくるにあたって,ほかの書店は参考にしなかった。ヒントになったのはニューヨーク滞在中に通ってインデペンデント系の書店だった。日本の書店はビジネスモデルとして終わっている世界だから,参考にしても意味はない。(p143)
 セレクトした本がハマりすぎないこと。完璧すぎると図書館のような,博物館のような棚になってしまうのだ。鑑賞するにはいいけれども,購入意欲は刺激されない。人が買う気になるには,隙間というか,ノイズが必要だ。(p144)
 SNS全盛の時代になって,ふつうの人が共感するものがリツィートされたり拡散していくようになった。とくに消費の現場ではいい意味での“ふつう”“等身大感”みたいなものが重要になってきたと思う。(中略)出版界にはいまだに「80年代リブロ池袋店神話」みたいなものが生きているが,そんな化石にしがみついていては滅びるだけだ。(p150)
 そこの客層と向き合わずに自分のスタイルだけ貫くほうがよほどかっこ悪いと思ったんですね。お客さんを無視するのはどうなのか。お客さんに合わせるべきだと思った。(p152)
 ここ数年,本を置くカフェや生活雑貨店,洋服店などが増えた。だが,そうした店で本が売れているのを見たことがない。装飾品以上の役割を果たしていない。(p154)
 自宅を仕事場にすると際限なく仕事をしてしまうか,逆に怠けて遊んでばかりになるかになってしまい,ほどよく仕事と休息のバランスを保つのは難しい。(中略)曜日に関係なく朝の5時半に起きてパソコンに向かい,晩ごはんを食べたあとの夜の10時までダラダラと仕事を続けるのは我ながらよくないと思う。つい仕事をしてしまうのは,私が働き者だからではなく,仕事をしていないことに漠然とした後ろめたさを感じるからだ。よくないことだと思う。(p181)
 体力は歳とともに落ちていく。とくに回復力が落ちる。(中略)内面のほうはどうか。時代の変化についていけないということはないけれども,新しいことへの好奇心が感動が薄れる人もいるだろう。感性が鈍るというよりも,「新しい」ともてはやされることに既視感を抱くのだ。(p184)
 予算がないと,どうしても料金の安い業者を選んでしまいがちだが,料金にかかわらず信頼できる担当者のいる会社と取引するほうがいいと下平尾さんはいう。とくに小規模な出版社にとっては,印刷所やデザイナーも巻き込んで,いっしょに一冊の本づくりに参加するチームになってもらえるかどうかが大きい。(p206)
 さまざまなアンケートでも読者の購入動機のいちばんは「書店店頭で見て」という衝動買いである。(p226)

2016年11月20日日曜日

2016.11.17 永江 朗 『誰がタブーをつくるのか?』

書名 誰がタブーをつくるのか?
著者 永江 朗
発行所 河出書房新社
発行年月日 2014.08.30
価格(税別) 1,400円

● 本書でいう「タブー」とは何か。著者による定義が与えられている。
 法的な根拠のない規制は,自主的な規制だ。マスメディアが自分で自分の手足を縛っている。そういう規制が存在するということをメディア自身が認めている規制もあれば,公式には認めていないものもある。ないことになっている規制だ。ないことになっている規制を「タブー」と呼ぼう。その規制について語ることさえ忌避されているような規制だ。(p31)
● 本書はいわゆる読みものだけれども,学術論文に仕立てることもできるだろう。該博な知識と検証が背後にある。フィールドワークもある。
 もっとも,学術論文に仕立てるなどというのは,あまり賢い人間がやるものではないだろうけど。

● 以下にいくつか転載。
 世の中がひとつの方向に進んでいるとき,それに異を唱える者は嫌われる。この「空気」に国家権力などが加わると,とても息苦しいことになる。(p16)
 雑誌にとってコンビニは重要な販売拠点である。雑誌によっては書店での販売数よりコンビニでの販売数が多いものもある。(中略)そう思って眺めると,世の中の雑誌にコンビニ批判の記事はほとんどない。コンビニはフランチャイズ・オーナーとその家族が過酷な労働を強いられるなど,問題も多いのだけど,それを批判する記事は週刊誌などでもめったに載らない。(p18)
 もしもわいせつ物が国民に深刻な悪影響を与えると本気で考えているなら,たとえITで取り残されようと経済的に孤立しようと,インターネットのアクセス制限をするだろう。それをしないということは,悪影響云々なんて行政だって信じていないのだ。信じていないのになぜ規制はあるのか。(p23)
 国家による規制であれ,民間企業の自主規制であれ,読者であるぼくたちの多くは日常的に規制を規制として意識していない,という現実がある。ぼくたちは息苦しさすら感じていない。自分たちはまったく自由だと思っている。(p23)
 官庁の情報ほど裏取りが必要ではないのか。東日本大震災と東電福島第一原発の事故で明らかになったのは,官庁の情報は油断ならないということだ。警察も含めて,役所・役人は,流す情報をコントロールすることで世論をコントロールしようとする傾向がある。それはもう,彼らの本能みたいなものかもしれない。民はこれに由らしむべし,これを知らしむべからず,というのはいつの時代も権力者とその手先の本音だ。官庁の発表情報を垂れ流すメディアは,役所・役人の道具になり下がっている。(p39)
 宗教がタブー扱いされるもうひとつの理由は,教団や信者たちの抗議の執拗さだ。たぶんこちらのほうが宗教タブーの本質だとぼくは思う。ようするに面倒なことになるのだ,新興宗教にかかわると。(中略)熱心な信者は疲れを知らない。しかも,こうした嫌がらせが信仰の証しであると信じている。(p58)
 「噂の真相」も記事で取次を取り上げたことがあるが,しかしそれは匿名座談会という形式の,しかも社内の不倫がどうこうという,ゴシップとも呼べない程度のものだった。岡留安則編集長に,この記事のつまらなさをなじると,「大手取次についてやれるのはこれが限界。これ以上のことはウチでも無理」と彼は苦笑した。(p80)
 このエピソードは「かもしれない」「かもしれない」の連続である。そして「かもしれない」が伝わり,時には尾ひれがつき,面白がると同時に我が身に降りかかりそうになると「面倒くさいからそういうことはやめよう」と考える。それこそがタブーのメカニズムだ。ここで重要なのは何があったのかという事実ではなく,「あったかもしれない」という憶測だ。(p86)
 本も雑誌も読まれなければその言論は伝わらない。言論は伝わってこそ初めて言論となる。「つくるのはご自由に。でも流通はさせません」では言論封殺と同じである。(p126)
 どうも,「見せたくない」という感情の正当化のために「有害だ」とされているように思える。「見せたくない」という感情は,他者の表現活動を制限するほど強い根拠を持つものなのかどうか,検討する必要がある。(p162)
 法律や条令による規制は,国家や自治体,政治家や法律家がぼくたちに無理やり押しつけるわけではない。新たな規制の背景には,規制を求めるぼくたちの声がある。タブーも規制も一方的,一面的なものではないのだ。(p188)
 ポルノグラフィーは国家によって規制され弾圧されているかのように見えながら,じつは規制されることで存在していた。ポルノグラフィーは規制に依存していた,国家に寄生していたと考えることもできる。その意味では,ポルノグラフィーは国家と対立しているように見せかけて,国家と共犯関係にあった。国家と一体となって,国民の欲望をコントロールし,それを貨幣に替えてきたのではないか。(p198)
 タブーへの侵犯にはスリルがある。それは背徳感ともいえるし,もっと生理的なものかもしれない。(中略)このときの快感はなんによってもたらされるのか。自分の生存を脅かすリスクによってではないのか。自動車が退屈になったのは,安全性が高まったからだ(p209)
 インターネット時代になって,タブー破りが簡単になるかと思いきや,かえって不自由になった。(中略)ブログにしてもツイッターにしても,いわゆる炎上という状況になる。(p214)
 匿名の大衆は常にタブーを求め,タブーを侵犯する者を監視し,侵犯する者を処罰しようとする。タブーとは我々大衆自身の欲望だ。(p215)

2016年10月24日月曜日

2016.10.17 永江 朗 『51歳からの読書術』

書名 51歳からの読書術
著者 永江 朗
発行所 六耀社
発行年月日 2016.02.25
価格(税別) 1,500円

● 著者が自身の読書スタイルの変遷を語ったもの。読書スタイルの変遷を語ることはつまり,世相の移り変わりを語ることでもある。

● 副題は「ほんとうの読書は中年を過ぎてから」。それが納得できる内容だ。
 が,“ほんとうの読書”ができるためには,若いときから“ほんとうじゃない読書”を重ねていないといけない。そうじゃないと,“ほんとう”かどうかもわからない。

● 以下に転載。
 和歌というのは,どれだけ過去の作品を知っているかが,創作の上でも鑑賞の上でも鍵になる。引用に次ぐ引用で,イメージを借用したり,エピソードを借用したりして,自分の和歌をつくっていく。現代の著作権についての考え方からすると,ほとんどパクリじゃん,といわれかねない。しかしそういうものなのだ。価値観が逆なのだ。パクって引用してイメージを広げるのがすぐれた和歌なのだ。 素晴らしい! ひとりでゼロから生み出せるものなんてほとんどない。クリエイターだ,アーティストだと威張っていても,その創作のほとんどは先人の仕事の上にある。教育というものそれ自体がパクリの練習みたいなものだ。(p23)
 オトナには時間がないのだ。終わりは刻々と迫っている。無駄な本は読みたくない。つい最近まで「無駄こそ人生」なんていっていたくせに。(p34)
 「こんな本はダメだ」という書評があってもいいとは思うけれども,けなすくらいなら無視したほうがいい。(p35)
 『日本の歴史』と『世界の歴史』を読んでみて思ったのは,日本の歴史,人類の歴史というのは愚行の繰り返しだということ。人間はちっとも進歩していない。いつも下らないことで争い,つまらないことで人を殺す。(中略)歴史の本を読んでいると絶望的な気持ちになる。どうして歴史家たちはシニシズムに陥らないのか不思議でならない。(p43)
 『平家物語』を読むと,日本人の性格が一千年前から変わっていないのに呆れた。日本人は人を持ち上げて落とすのが得意なのだ。(p44)
 読んでもわからない文章は,読み手ではなく,書き手のほうに問題があるのだ,という人もいる。そういうこともあるだろうが,すべてにあてはまるとは思えない。(p66)
 本は一冊だけで存在するのではなく,一冊の本の後ろには何百という本があり,それら後ろにある本を読む機会が増えたので,一冊の本がよりわかりやすくなったのだ。(p70)
 古本屋では文学全集がびっくりするほど安い。二束三文ならぬ,一セット三千円状態だ。(中略)ハードカバーの立派な函入りが,新刊の文庫版よりも安い。文学全集や百科事典の古書価格が暴落したのは,整理術や片づけ術の本がベストセラーの常連になるのと相前後してのことだと思う。(p79)
 一九六〇年代後半から一九七〇年代前半に起きた文学全集ブーム,百科事典ブームは,ほんとうに「読むため」ではなく,たんに「見栄のため」に購入する人が支えていたのだろうと推測できる。出版関係者は「本が売れなくなった」と嘆くけれども,「読むため」に購入する読者はあまり変わらないのではないか。(p80)
 ベストセラーはブームが終わってからブックオフで買って読むのがちょうどいい。ほんとうに価値ある内容であれば,一冊百円でも十分に得るところがあるだろう。つまらない本なら,なぜあのときみんなこれに熱狂したのか考える楽しみがある。(p106)
 毎日新聞社が戦後まもなく開始して,いまも継続している「読書世論調査」のデータを見ると,ふだん本を読むと回答する人の比率は,一九六〇年代からほとんど変化していないことがわかる。つまり,よくいわれる「読書ばなれ」は起きていないのだ。それと同時に,中高年が意外と本を読んでいないということもわかる。(中略)しかし,自分が老眼・飛蚊症・白内障になってみると,「こりゃあ,老人の読書ばなれが起きるのも当然だよなあ」と感じることが増えた。(P124)
 普通車の自由席で立ち続けて失われる時間よりも,グリーン車で快適に本を読む時間を買う。自由席で立ち続けたことによる疲労は,その日だけでなく翌日や翌々日にも影響する。(中略)時間を気にせず貧乏旅行ができるのは若者の特権だったのだ,といまにして思う。(p131)
 蔵書は少ないほうがいい。たくさんあると,どの本がどこにあるのかわからなくなる。本棚を見まわして,把握できる本だけを所有するのがいい。(p136)
 ある大学図書館では,亡くなった教授の遺族から寄贈された本が,未整理のまま段ボールに詰められ大量に積まれているそうだ。遺族としては「○○文庫」なんて名前のついた棚が図書館にできるのを夢見ているのだろうけれども,そうした価値のある本をたくさん持っている人は学者でもまれだ。(p139)
 図書館がこんなににぎやかになったのは,いつごろからだろうか。(中略)変わり始めたのは十年ぐらい前からだと思う。利用者が増えた理由はいくつかある。まず図書館の使い勝手がよくなった。開館時間が延び,なかには夜遅くまで開いているところもある。コンピューターとインターネットによる検索システムの充実ぶりも大きい。(中略)利用者の側も変わった。(中略)かつて図書館といえば勉強する学生の姿が多かったが,いまは老人ばかりだ。それも圧倒的に男性が多い。(p168)

2015年8月3日月曜日

2015.08.01 永江 朗 『「本が売れない」というけれど』

書名 「本が売れない」というけれど
著者 永江 朗
発行所 ポプラ新書
発行年月日 2014.11.04
価格(税別) 780円

● タイトルの「けれど」に続くのは,だからといって本当に読書離れが起きているのかという著者の疑問。
 本が売れなくなった,本屋が減少しているのは事実としても,だから本離れが進んでいると言ってしまうのは浅薄に過ぎないか,という主張のようだ。

● 街の小さな本屋には黒船の来襲が何度もあった。
 まず,コンビニの登場。街の零細店は書籍ではなく雑誌とコミックで食べてきた。その雑誌がコンビニでも扱われるようになった。
 次は,ブックオフとメガストア。特に,出版部数が減少している現在では,零細店にはベストセラーであってもわずかしか配本されないか,あるいはまったく配本されない。重版されてやっと店頭に並んだときには,ブックオフにも出回っている。
 で,最後がアマゾン。ネットで注文すれば翌日には配送される。スピードでまったく太刀打ちできない。

● ではどうすればいいのか。対策も書かれているのだが,ここは著者も考えあぐねている様子。主にはヴィレッジヴァンガードを例に出して,次のように言う。
 ヴィレッジヴァンガードが成功した理由はいくつかある。一つは雑貨と書籍・雑誌を混在させたことだ。それまで本屋と文具店の複合店はいくらでもあったが,ヴィレッジヴァンガードは複合店ではなくいわば「混合店」である。(中略)
 混合は思わぬ効果を生んだ。(中略)雑貨は値段の感覚を攪乱させる。(p197)
 菊地(ヴィレッジヴァンガード創業者,菊地敬一)の言葉でぼくが好きなのは「誰からも愛されたいと願う者は,誰にも愛されない」というもの。書店を取材して「どんな書店をめざしていますか」と質問すると,「誰からも愛される書店をめざします」と返ってくることが多い。しかし菊地は,だからだめなのだという。(p200)
● ほかに,いくつか転載。
 売れているものに群がるのは,出版界の問題というよりも,日本社会全体の風潮かもしれない。その結果,どの書店も似たような風景になっている。(p16)
 しばらくまえ「図書館栄えて物書き滅ぶ」などと騒いだ作家や出版社があった。(中略)だったら本屋のない街に本屋を作ってくれよ,自分が住む都会を基準にものごとを考えないでくれよ,と思った。(p31)
 アマゾンは販売する人の顔が見えない。機械で注文して機械が運んでくれるようなイメージなのだ。(中略) 他人と触れあわずにすむことがアマゾンの魅力である。ぼくらは本を買うとき,できれば他人にかかわりたくないと思っているのではないか。(p50)
 ブックオフで古本を買ったり,図書館で本を借りる人が増えたのは,「所有から体験/消費へ」という意識の変容も大きいけれども,バブル崩壊以降の長期不況で所得が減っているからということも大きいのではないか。(中略)しかも新刊書を買わなくても,読書欲を満たすものができた。それがブックオフであり図書館だった,ということではないのか。(p85)
 図書館やブックオフを利用するのは,たんにタダだから,安いから,ではないだろう。図書館やブックオフには新刊書店にはない本がある。新刊書店の店頭からはとっくに消えてしまった本がある。時間軸で考えたとき,新刊書店よりも図書館やブックオフのほうが豊かなのだ。(p199)
 かつて賑やかだったところが寂れると,たんに「静かだな」という感じにはならない。陰惨でおぞましい雰囲気になる。そてもそこでは客の回帰など望めない。(p132)
 本屋の給料は安い。(中略)安いのはアルバイトの時給だけではない。正社員の月給も安い。(中略) 仕事や人生の価値をおカネで計るのは下品だとわかっていても,自分の倍以上の年収を稼いでいる旧友の話を聞くと動揺してしまう。その差は今後も開くだろう。高校ではオレより成績が悪かったのに,オレより偏差値の低い大学に行ったのに,なんて考える自分がいやになる。(中略)こうして書店員を辞めることを考え始める。(p175)
 以前,筑摩書房の編集者で役員だった松田哲夫さんと話していて,「本の定価を倍にするだけで,出版界が抱える問題のかなりが解決する」と盛り上がった。値段が倍になれば,書店のマージンも倍になる。(中略)販売にかかる手間は同じである。しかし2000円になれば,1000円のときと同じ売れ行きは期待できないかもしれない。もしかしたら半減するかもしれない。でも半減すると販売にかかる手間も半分になる。売上額全体は同じだ。(中略) 値段が上がれば読者お購入には慎重になるだろう。(中略)出版社もそれを見越して企画を絞り込む。そうなれば出版点数も減る。(p187)
 「話題の新刊」やベストセラーを追いかけるだけなら楽なのである。何も考えなくていいから。汗だけかいてりゃいいから。(p204)
 「これさえやれば,すべての問題がたちどころに解決する」というような改善策はない。それは出版界に限らず,あらゆることに共通することだ。だけどぼくたちは,つい単純な答えを求めてしまう。(p217)
 週刊誌を近所の零細店で買っていた読者はどうするか。メガストアが都心にできたからといって,いままで零細店で買っていた読者がメガストアまで行くことはあまりない。近所の零細店がなくなると,読者はあきらめる。その週刊誌を買わなくなる。(p219)
 若くして亡くなった筑摩書房の営業部長,田中達治の声が耳元によみがえってくる。「永江は何かというと書店の主体性が重要だというけれど,それはお前さんが一部の優秀な書店員としかつきあったことがないからだよ。主体性にまかせていたら,日本中の書店がとんでもないことになるぞ」(p228)
● 図書館の利用に関して自分の意見をいえば,かつては図書館で本を借りる人たちを軽蔑していた。知に関して吝嗇な,下品極まる人たちだと思っていた。
 家計が大変だとかいろいろ言い訳をするけれど,食や洋服や旅行ではなく,ます本代をケチる。本は借りてすませる。こういうふうになったら終わりだと思っていた。
 図書館なんかに行くとバカがうつると思っていた。

● が,今では,読む本の8割は図書館で借りている。どうしてこうなったかというと,理由はけっこう単純で,ひとつは書庫が満杯になったこと。
 もうひとつは,東日本大震災で,その書庫がとんでもない状況になったこと。以後,不動産と本は所有しないほうがいい,という意見の持ち主にぼくはなった。

● さらにいえば,ぼくが買っていた本のほとんどは地元の図書館にもあることがわかったことだ。ぼくの読書はユニークでも個性的でもなく,ごく一般的なものだったってことがわかってっていうか。
 さらに,図書館から借りるようになると,読書ペースが上がったことだ。返却期限までに読まなければならないから,締切効果が働くようになった。

● 2割は書店で買っているけれど,読み終えたら処分することにしている。基本,手元には残さない。図書館にもある本を手元に残しておいても仕方がない。

2015年7月11日土曜日

2015.07.06 永江 朗 『書いて稼ぐ技術』

書名 書いて稼ぐ技術
著者 永江 朗
発行所 平凡社新書
発行年月日 2009.11.13
価格(税別) 740円

● 研究室で学術論文をまとめるのと,野にあって雑誌原稿を書くのとで,方法論に違いがあるのかどうか,ぼくにはわからない。
 象牙の塔という言葉はすでに死語になっているのだろうし,学術論文といっても,昔と今とではその内実はだいぶ変わっているのかもしれないし。

● 学術面での手引書には,もはや古典となった梅棹忠夫『知的生産の技術』がある。この本が刊行された頃は,当然,パソコンもインターネットもなかったけれども,そんなことはさしたる問題ではないように思う。
 基本的には,そのほとんどが現在でもそのまま通用するのではないか。

● さらに,『知的生産の技術』の著者は学術面の大家だけれども,ここに説かれていることは学術にしか使えないというものではない。
 だからこそ,ずっと読まれ続けているのだろうしね。

● その後,この分野の書籍がどんどん出ている。本書もその系譜につらなるものだと思うが,「知的生産」の範囲を超えて,人生をクリエイティブに生きるにはどういうことに気をつけたらよいか,といった内容になっている。
 という意味では,本書は人生論だと思う。

● 以下に,多すぎる転載。
 ひところ「やりたいことをやりなさい」とよくいわれました。あれはウソです。ウソはいいすぎにしても,本当にやりたいことをやれる人間なんてめったにいません。そもそも,やりたいことがわからない。(p27)
 大切なのは,「やりたいこと」より「やれること」,「できること」です。いまできることをやればいい。手持ちの札だkで勝負する。いちばん堅実で間違えないやりかたです。やれることをやりながら,少しずつやれることを増やしていけばいい。(p29)
 それまでまったく関心のなかったテーマでも,編集者から依頼(というかその前の段階の相談を)されると,関心がむくむくとわいてくるのです。新書をパラパラめくったり,図書館で関連書を眺めていると,おもしろそうに思えてくる。ものごとはたいてい,調べれば調べるほどおもしろくなります。「やりたいこと」でなくても,おもしろいことはたくさんあります。(p33)
 なかなか内定を取れない就活中の学生から相談を受けたことがありますが,彼らは「オレ/ワタシはこんなに優秀なのに,なんで不合格なんだ」と思っている。でも,採用試験は優秀な学生を決めるものではなく,部下にしたい・同僚にしたい人を決めるものですからね。(p46)
 私の経験では,ライターがラクしようと思っているような企画だと,編集者はがっかりしますね。書評を書きたいとか,映画評を書きたいとか。「なーんだ,汗はかきたくないのか」と思うことでしょう。(p53)
 企画というのは,あれこれ寄ってたかって揉んでいくのがおもしろいのであって,パワポ出力なんて,ただのプレゼン上手なやつ,としか印象に残りません。つきあってても,隙のない人はつまらないでしょう。(p55)
 あと,企画書はおもしろくないと。世の中,正しい,正しくない,は関係ありません。おもしろかつまらないかです。正しくてもつまらないものは,意味がありません。くだらないけどおもしろい,というのが最高です。(p55)
 専門分野とまではいわないけれども,得意分野をつくっておくことです。その分野の仕事を重点的にするうちに,ある時点からは意識しなくても自然と情報が集まってくるようになり,人脈なども広がっていきます。(p66)
 ただし,得意分野ができても,それ専門にはならないほうがいいと私は考えています。専門家,そのジャンルの評論家になってしまうと,今度はそれ以外の仕事が来なくなってしまうからです。(p71)
 忘れてしまうのは,それが重要なことでないからだ,という人もいます。(中略)しかし,本当に私たちはどうでもいいことだけを忘れているのか,重要なことは忘れないのか,とあらためて考えると自信がありません。(p81)
 ここしばらく私が使っているのはロディアのブロックメモ11番と革のケースです。(中略)このメモ帳さえ取り出しやすいところ,ジャケットの内ポケットであるとかジーンズの尻ポケットであるとかに入れておけば,いつでもどこでも忘れずにメモすることができます。 革ケースのポケットに入れたメモは,たまったら空き缶に入れておきます。企画を考えるときは,このメモを机の上に並べます。並べ方をあれこれ考えるうちに,企画が生まれてきます。(p85)
 いつもメモ用紙を手放さず,何か思いついたらすぐに書くようにするのもトレーニングのひとつです。この場合,「書く」という行為が大事です。ただ頭の中で考えているだけではアイデアにならない。(中略)字にしてみることで,さらにそこからアイデアが広がっていくこともあります。「書く」ことは同時に読むことであり,「考える」ことだからです。(p87)
 話をするとき,小声でモゴモゴいってたんじゃだめです。聞き取りにくいですから。小声でモゴモゴいうということは,相手のことを考えていないということです。相手に聞いてもらおうという気持ちがなく,自分のいいたいことだけいえばいいと思っているから,小声でモゴモゴになってしまうわけです。(p99)
 同じテーマの似たような本を何冊も買うのはもったいない気がするけれども,こうした素人だったらやらないようなバカなことをするのがプロというものです。(p111)
 読んだ本はできるだけ手元に置き,読んでない本を処分する,というのが原則です。読んだ本はまた使う可能性があります。(中略) 本棚を眺めて,十年以上開いたことのない本は,もう処分してしまってもいいでしょう。(中略)読まない本に埋もれて,読むべき本が見つからないのはばかげています。(p116)
 私たちは隙あらば自分をアピールしようという浅ましい本能があります。取材のために下調べをたっぷりした,それを認めてもらいたい。(中略)こういう自己顕示欲ともいえそうな気持ちが取材をしているときに頭をもたげます。その結果,相手にイエスかノーの二者択一を迫るような質問になってしまう。 しかし,「イエス」「ノー」で答えられる質問ほどつまらないものはありません。意外性もなにもない。(p118)
 フリーライターにとって「あたりまえ」や「当然」は禁句です。「あたりまえ」「当然」「自然なこと」といった瞬間,思考停止に陥ってしまいます。(p122)
 誰もが知っているところを探訪しても,商品価値は低い。商品価値とは情報としての希少性です。珍しいものに価値がある。ありふれたものには価値がない。(p127)
 珍しい場所とはどこか。それを探すには「いま,人が行きたくないところはどこか」を考えればいいでしょう。(p128)
 フリーライターの仕事は読者に代わって何かをする,いわば代行業みたいなものです。(p131)
 ルポルタージュの書き手は幸福になってはいけません。少なくとも読者よりは。私たちは他人の不幸が大好きです。(p132)
 ルポルタージュに名文は必要ありません。事実が正確に書かれていればいい。ライターの主観も個性もいりません。そんなのは邪魔なだけです。読者はライターのことが知りたいのではなく,ライターが体験したことを知りたいだけなのですから。(p133)
 二〇〇九年の夏,私は簡単な実験をしてみました。iPod Touchで森鴎外を読んでみる,という実験です。(中略)青空文庫で無料公開されている『渋江抽斎』をダウンロードしてiPodで読みました。違和感があったのは最初だけです。(p212)
 出版産業の将来について私は楽観的に考えています。というのも,人は「知りたい」動物だからです。「知りたい」に応える仕事は常にあります。(p215)

2014年10月19日日曜日

2014.10.19 永江 朗 『本について授業をはじめます』

書名 本について授業をはじめます
著者 永江 朗
発行所 少年写真新聞社
発行年月日 2014.09.22
価格(税別) 1,600円

● ユーカリの木から紙になって物体としての本ができあがるまでの過程。
 著者がいて編集者がいて挿絵画家がいてデザイナーがいてという,本の中身ができあがるまでの過程。
 洞窟壁画から粘土板,パピルス,羊皮紙,紙という歴史。印刷に関する歴史。
 そうした本に関する諸々のことがらを(たぶん)小学生に説こうとする。

● さらに,本の未来のこと(ほぼ,イコール電子書籍の話)。書店や図書館のこと。読書について。自分が書くことについて。

● 本が好きな子どもたちは,いつの時代でも一定数いるに違いない。そうした子どもたちには,とっつきやすい本のガイドブックになっていると思う。

2014年7月12日土曜日

2014.07.11 永江 朗 『菊地君の本屋 ヴィレッジヴァンガード物語』

書名 菊地君の本屋 ヴィレッジヴァンガード物語
著者 永江 朗
発行所 アルメディア
発行年月日 1994.01.15
価格(税別) 2,200円

● 「菊地君」とはもちろん,ヴィレッジヴァンガードの創設者である菊地敬一氏のこと。本書は20年前に出版されたものだが,ヴィレッジヴァンガードは今も健在。というより,いよいよ隆盛を極めている。国内にとどまらず,海外にも展開。当然,FC展開なんだろうね。
 宇都宮にも4店舗存在する。ララスクエアの4階にあることは前から知っていたけれども,入ったことは一度もない。本書を読んで,進入を試みたが,はやりダメだった。ここは自分の場所ではないという感じね。

● 本書に出てくるのは発祥まもない頃の話だから,本拠地である名古屋が舞台になる。当時から主なお客は学生だったらしい。
 いい年こいたオッサンが出入りするのが憚られるのは,今も同じということ。無理して入って,店内の風景を乱しては申しわけないから,跳ね返されたままでいるのがいいかな。

● 菊地氏のインタビューが本書のメイン。20年の時差があっても,面白く読めた。

● 菊地氏が語る経営の肝や苦労話。
 グッズは基本的にぼくが興味があるモノを置く。本は興味というよりもやはりニーズで置く。だからこの店にはぼくが読みたい本は一冊もない。(p34)
 ヴィレッジヴァンガードの返品率は三〇パーセント台だ。返品率が一〇パーセントだ,二〇パーセントだと言って喜んでいる本屋は仕事をしているとは思えない。極論を言うと返品は出て当たり前。(p39)
 ヴィレッジヴァンガードの切り口そのものが飽きられてしまう心配はない。なぜなら大学は四年間だから。ヴィレッジヴァンガードの中心のお客は大学生。四年で客が一回転する。だから定番だけ置いても成り立ってしまう。(p44)
 グッズを仕入れる場合は,「○○さんなら喜ぶだろうな」なんてかなり具体的に考えながら決める。これを年齢は何歳,職業は,性別はというマーケティング的に考えていたんではダメだと思う。(p59)
 グッズを選ぶ時は,まず本が先にあって,その本と一緒におけるものを,と考える。(p68)
 たとえば澁澤龍彦のフェアなら,買ってくれるお客は一〇人いればそれでいい。一〇人が一〇冊ずつ買ってくれれば,それで一〇〇冊。小さなフェアはそれで成功だ。それを一〇〇人に買ってもらおうと力むから,大変なことになってしまう。(p71)
 情報収集は世間の半歩先を行くぐらいでいい。今街に出回っている商品で面白いもの,しかも,どこにでもあるものではない商品でいい。(p83)
 本屋の仕事ではある本の隣になにを持って来るのか,なにを持って来たいのかが一番大事なことだ。そのためにはインデックスをたくさん持たなければならない。(p84)
 小さい情報に大きな儲け口がある。大きい情報はだれでもやるから,注意するのは小さい情報だ。オートバイの雑誌でもクルマの雑誌でも,隅っこに書いてあるような小さな情報がいい。(p86)
 ぼくは営業の出身だからよくわかる。チラシを配るのだって大変。ぼくは経験があるから街でチラシを配っていると必ず貰ってあげる。全然受け取ろうとしない人が半分ぐらいいる。あれはものすごく辛い。貰ってあげればいいじゃない。捨てればいいんだから。(p105)
 ぼくの友達は万引き防止機を入れた。彼によると,とんでもない人が盗んで行くそうだ。いつも世間話している隣のオバさんや,昔バイトしていた人の弟が盗んで行ったりする。自分の母親の友達が盗んで行くこともある。どうせ盗むのならわからないように盗んでくれという気持ちになる。(p124)

2014年6月12日木曜日

2014.06.11 永江 朗 『批評の事情』

書名 批評の事情
著者 永江 朗
発行所 ちくま文庫
発行年月日 2004.09.10(単行本:2001.09)
価格(税別) 820円

● 「一九九〇年代デビュー,もしくはブレイク」した批評家を取りあげて,レビューしたもの。取りあげられた批評家たちは,次の44人。社会評論,文芸評論,芸術評論から自動車評論,美容評論にまで及ぶ。
 「不良のための論壇案内」が副題となっているが,当時,不良とか不良のためのという言い方が流行ったんだろうか。
  宮台真司(1959) :( )は生年
  宮崎哲弥(1962)
  上野俊哉(1962)
  山形浩生(1964)
  田中康夫(1956)
  小林よしのり(1953)
  山田昌弘(1957)
  森永卓郎(1957)
  日垣 隆(1958)
  大塚英志(1958)
  岡田斗司夫(1958)
  切通理作(1964)
  武田 徹(1958)
  春日武彦(1951)
  斎藤 環(1961)
  鷲田清一(1949)
  中嶋義道(1946)
  東 浩紀(1971)
  椹木野衣(1962)
  港 千尋(1960)
  佐々木 敦(1964)
  阿部和重(1968)
  中原昌也(1970)
  樋口泰人(1957)
  安井 豊(1960)
  小沼純一(1959)
  五十嵐太郎(1967)
  伏見憲明(1963)
  松沢呉一(1958)
  リリー・フランキー(1963)
  夏目房之介(1950)
  近田春夫(1951)
  柳下毅一郎(1963)
  田中長徳(1947)
  下野康史(1955)
  齋藤 薫
  かづきれいこ(1952)
  福田和也(1960)
  斎藤美奈子(1956)
  小谷真理(1958)
  小谷野 敦(1962)
  豊崎由美(1961)
  石川忠司(1963)
  坪内祐三(1958)

● このうち,ぼくが1冊でも読んだことがあるのは,田中康夫,日垣隆,岡田斗司夫,鷲田清一,夏目房之介,福田和也の6人に過ぎない。複数読んでいるのは,岡田斗司夫だけ。
 
● 「ちょうど10年間(1990年代)の真ん中には,阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件という大事件があって,「日本の土建技術や工業技術は世界一だ」とか,「日本の治安は世界一だ」という自信が一気に吹き飛んでしましました」(p13)という記述がある。
 こうした出来事の影響に敏感であることが,批評家の資質として大変大事なものになるのかもしれない。こういうものに鈍くちゃどうにもならないのかも。
 とはいっても,現在においても日本は世界でも例外的に治安のいい国であり続けていると思われるし,アメリカに対してもドイツに対しても特許収入は黒字だ。しかも,黒字幅は毎年増大している。工業技術は世界一なのではないか。

● そうした出来事は日本の致命傷にはならなかった。台風で大雨が降っても,その大雨が永久に続くと考える人はいない。必ずやむ。やめば旧に復する。それを知らない人が批評家になるのかとも思っちゃったりね。
 瞬間風速に生きる人たちなの,世間を微分しすぎなんじゃないの,とか思った。たぶん(というか確実に),ぼくが浅はかなんだと思うんだけど。

● 以下にいくつか転載。
 店による客の選別に怒るということは,同時に「カネさえ払えば何をやってもいいだろう」という驕り高ぶりとも表裏一体なのだ。いくらカネを積んでも得られないものはある。(p61)
 いいかげんなライターは,この基本取材の部分で手を抜いてしまう。いちばんありがちなのは,新書で出ている概説書を読んで事の全体像をつかみ,次に「Aは危険だ」という論調の本を読み,さらに「Aは危険だ,というのは間違っている」という論調の本を読む。そえから当事者や事情をよく知っている人に話を聞く。この程度で済ませてしまう。(p93)
 一時期,「母原病」などという無神経な言葉が使われたり,あるいは,いまでも精神疾患の理由を母親の育て方に帰したり,あるいは家庭環境に求めたりする評論家がいる。しかし,そんなものは「子育て論」の域を出ないし,精神病患者や心身障害者の母親や家族を追いつめるだけで,それで患者の病が癒えるわけでもなければ,障害者が生きやすくなるわけでもない。(p157)
 そもそも,〈普通の家庭〉〈普通の家族〉なんてない。一人親だったり,夫が失業していたり,息子が不良で少年院に入っていたり,娘が新興宗教にはまっていたりと,どこかしらに〈異常〉を抱えている家族こそが,実は〈普通〉だったりする。すべての〈異常〉,すべての〈特殊〉こそが〈普通〉なのであり,〈普通一般〉などというものは存在しない。(p265)
 この国は誰もが被害者を名乗り,弱者を装いたがる。なぜなら,弱者こそいちばん強いことを知っているからだ。もっとも,本当の社会的弱者は,声を上げることもできずに踏みつぶされていくのだけれども。(p336)

2014年5月16日金曜日

2014.05.15 鷲田清一・永江 朗 『哲学個人授業』

書名 哲学個人授業
著者 鷲田清一
    永江 朗
発行所 ちくま文庫
発行年月日 2011.04.10(単行本:2008.02)
価格(税別) 800円

● 「〈殺し文句〉から入る哲学入門」というんだけれども,その〈殺し文句〉すら,何やらぼくには理解できず。わからなくても,その言い方をカッコイイと思える人は,哲学に向かう資格があるのかもしれない。ぼくにはカッコイイと思える感覚もなかったから,哲学には無縁の徒ということになるな。
 本書を読み終えたあとも,本書で紹介されている哲学書のどれかを読んでみようとは思えないでいる。

● ただ,引っかかったところはいくつかある。
 オルテガは「二〇世紀でいちばん大衆的な人は,何といっても科学者だ」と言っているらしい(p54)。「そのココロはというと,彼らは自分には知らないことがないと思っている」からだというんだけれど,本当かね。そんな科学者がいるのか。
 例として,「ノーベル賞をもらったらみんな急に文明評論をはじめるじゃないですか。教育論とかね。ぜんぜん知らない領域ですよ。(中略)それは大衆の典型じゃないですか」ということが挙げられる。江崎玲於奈さんのことですかね。彼はむしろ例外なんじゃないですか。
 どちらかというと,世間の側がノーベル賞をもらった科学者にそういう役柄を求めて,有無を言わさずやらせてしまうってことじゃないのかねぇ。

● 以下にいくつか転載。
 介護は絶対に肉親がしてはいけませんね。他人だったらビジネスとしてのサーバントですむけど,肉親だと存在そのものがサーバントになってしまう。これは耐えられませんよ。(永江 p100)
 何年か前に,「なぜ人を殺してはいけないのか」という議論があったでしょう。(中略)僕はあれを観てカチンときた。だってそんな質問はあらへんでしょう。言うなら「なぜあなたを・・・・・・」と言うべき。そして目の前で「なぜあなたを殺してはいけないんですか」と問われたら,僕はそんな問いには絶対応えへん。(鷲田 p117)
 レヴィナスはわざと日常用語を使っている。人間の日常というのはとても複雑で,哲学はシンプルなんです。生まれて育って結婚して子供を育ててみたいなことを全部哲学にすると,こんなになっちゃう。平凡な人間の日常について徹底的につきあって書くとこうなる。(内田樹 p119)
 臨床というと,「みんな苦労してはるな。助けにいこか」とか,「ケアしないといけない」とか思うかもしれないけど,僕はそういう臨床ってあんまり好きじゃない。そやなしに,「こんなもんや」と思っていた場所があって,助けにいこうと思って,そこに実際に立ってみると,いままでわかっていたはずのものが壊れていく。それが臨床やと僕は思う。(鷲田 p122)
 鷲田 思想家というのはブルドーザーみたいなものだというイメージが,僕にはあるんですよ。(中略)書斎で瞑想にふけっているのではなく,「こうでないとおかしい!」という衝迫が先にあって,それを証明するために論理的に考える。(中略)永井 緻密に考えを進めていったら結論が見えたというのではなくて,先に結論があって,そこに行く最短距離をどうやったら論理的に作れるかを考える。(p263)
 これは,科学者もそうだと思う。ひらめきのない人は哲学者にも科学者にもなれない。新商品の企画や開発もそうでしょう。市場調査をいくら積みあげたってダメだ。
 ハピネスって,ハプニング(happening)なんですよ。ハプ(hap)っていうのはもともと北ヨーロッパ系の言葉で,幸運とか,たまたま起こるっていうことを意味する語。これまでのハピネスのイメージって,がんばったらそのご褒美として達成できるっていうイメージだったじゃないですか。ところが二〇年ぐらい前からかなあ,女の子が「ラッキー!」っていうようになった。いいことがあったらラッキーなんですよ。これは幸福論にとって本質的なことです。(鷲田 p302) 

2014年2月27日木曜日

2014.02.26 永江 朗 『平らな時代 おたくな日本のスーパーフラット』

書名 平らな時代 おたくな日本のスーパーフラット
著者 永江 朗
発行所 原書房
発行年月日 2003.10.04
価格(税別) 1,900円

● 本書は次の10人に永江さんが行ったインタビューをまとめたもの。
 ホンマタカシ:写真
 アトリエ・ワン(塚本由晴 貝島桃代):建築
 堀込高樹(キリンジ):音楽
 会田 誠:美術
 佐倉 統:進化論
 柏木 博:デザイン
 角田光代:文学
 古屋兎丸:漫画
 中野裕之:映像
 YAB-YUM(パトリック・ライアン 吉田真実):ファッション

● このインタビューの動機は「あとがき」に書かれている。「おたく世代以降は世界の認識のしかたが違う」「おたく世代以降に世界はどのように見えているのか,そしてそこから何をどう表現しようとしているのか,尋ねてまわるような本はできないだろうか」ということ。
 したがって,比較的若い人たちが登場することになる。

● 社会がどんどん豊かになることとは,機械の普及と同義だろう。人間がやっていたことを機械がやってくれるようになる。したがって,人があまる。労働しなくても喰えるようになる。
 そうなると,ファッションだとか写真だとかデザインだとか,そもそも人生の根幹には関わらない業種が登場し,どんどん社会を浸潤していく。社会に遊びの部分が増えてくる。
 もちろん,いいことに違いない。労働だけで生きていくなんて悲しすぎるっていうか,ぼくは非力なので,戦前に生まれていたら,今よりもっと肩身を狭くして生きなければならなかっただろう。

● 転載を3つほど。
 博物館や美術館は展示になんとか物語性を持たせようとする。彼らは自分を社会教育機関の一つだと位置づけているから,どうしても啓蒙的になりがちだ。大衆を啓蒙するには物語的であることがいちばんだと思っている。私が博物館や美術館のキュレーターなら,作家や作品名のあいうえお順かABC順に展示するのに。(p177)
 実地に体験できることや調査できることは限られています。体験を全体の中で位置づけてマッピングをするためには,文献をガーッと読まなければいけないと思います。(佐倉 p188)
 実際にアフリカに行ってみると,やっぱり貧しいとだめなんですよ。貧しいと素朴ではいられない。ぎすぎすするし,治安も悪いし。(佐倉 p209)
● このインタビューのテープ起こしと原稿作成に使ったのは,ThinkPad1124とThinkPad800だそうだ。現在の著者はMacユーザーだったと思うけど。
 ぼくもThinkPadユーザー。lenovoになってからも,ThinkPadのテイストはそれなりに維持されていると思えるんだけど,昔の無骨な弁当箱のようなThinkPadに対する憧れは今も持っている。その当時は,ThinkPadって高くて買えなかったので。

2014年2月22日土曜日

2014.02.21 永江 朗 『暮らしの雑記帖』

書名 暮らしの雑記帖
著者 永江 朗
発行所 ポプラ社
発行年月日 2007.10.15
価格(税別) 1,500円

● 「狭くて楽しい家の中」が副題。衣食住の質,中身について考えようというもの。
 何でもいいなら考える必要はない。喰えればいい,着られりゃいい,寝られりゃいい,というんだったら,その先はない。

● 著者は次のような人だ。
 便利だけどダサいものを持つよりも,不便を我慢したほうがマシだ。(p23)
 手入れしながら使う。これは包丁に限らず,道具と付き合う基本である。(p76)
 我が家の場合(というよりも正確には妻は)メニューに合わせて食器もテーブルクロスも変える。(p83)
 私はスリッポンの靴も嫌いだ。(中略)嫌いな理由はかかとが安定しないから。(p89)
 筆記具としての機能と品質,そして造形物としての美しさは,値段に置き換えられない。こういう部分で妥協したくはない。(p259)
● 35の読み切りのエッセイ。どこから読んでもOKだ。どれも面白いし,腑に落ちるから。
 最初に双眼鏡で夜空の星を見る話が出てくる。空が星で埋まっているのがわかって世界観が変わる,と。
 星を見るなら天体望遠鏡と短絡するのは,道理を知らない素人なんだね。7~8倍の双眼鏡がいいらしい。新星を発見しようってんなら別だけど。
 双眼鏡が欲しくなった。ぼくは3倍率のオペラグラスしか持ってないので。そのオペラグラスで星空を眺めてみたんだけど,さすがにもの足りなかった。

● この種の話題では,松浦弥太郎さんを逸することはできない。最後に,その松浦さんとの対談(インタビューか)も掲載されている。

● ただ,同時に思う。喰えればいい,着られりゃいい,寝られりゃいい,というのも,それを徹底できれば相当大したものだ。徹底できれば。
 で,そんな人はおそらくいないのだろうね。

2014年2月21日金曜日

2014.02.21 永江 朗 『本を味方につける本』

書名 本を味方につける本
著者 永江 朗
発行所 河出書房新社
発行年月日 2012.07.30
価格(税別) 1,200円

● 「14歳の世渡り術」シリーズの1冊。何が書いてあるかっていうと,本は自由に読めっていうこと。
 自由とはどういうことか。具体的にいくつも例示されている。たとえば,飛び飛びに読む。あるいは,ゆっくり音読する。本をばらす。嫌いな文章を書き写す。写真集をファインダーごしに見る。
 嫌いな文章を書き写すっていうのが斬新だった。

● 他にも,固有名詞を入れ替える,というテクニックも紹介されている。
 本を書き写すとき,固有名詞を別のものに入れ替えてみる。(中略)これはけっこう笑える。(中略)悪人の名前を,嫌いな人のものに入れ替えるとか。(中略) 青空文庫とワープロソフトを使うと,長い小説でも簡単につくりかえられる。青空文庫のサイトから,つくりかえたい作品を選び,テキストファイルをダウンロードする。(中略)ワープロソフトの「置換」などの機能で固有名詞を書き換える。(p161)
● 本書に結論はないんだけど,最も伝えたかったのはここかなと思ったところ。
 本を読めば読むほど,新しい疑問が生まれる。問題を解決するために本を読んでいるはずなのに,本は問題の回答と同時に,その回答の何倍もの新しい疑問を出してくる。(中略)答えを見つけるのではなく,問題を探すこと。それが読書の喜びだ。(p160)

2014年2月5日水曜日

2014.02.05 永江 朗 『ブックショップはワンダーランド』

書名 ブックショップはワンダーランド
著者 永江 朗
発行所 六耀社
発行年月日 2006.06.20
価格(税別) 1,600円

● 書店で働く人に本の紹介をしてもらうという趣向。書店員による書評のようなもの。
 それだけでも充分に楽しんだけど,さらにそこに著者が彩りをつけている。面白く読める読みものになっている。

● 自分の知らない本が次々に登場する。とても手に負えないと思うのが大半だ。これは読んでみたいと思ったのは,旅本とミステリに限られた。
 堀内誠一『パリからの旅』(マガジンハウス)
 アラン・ド・ボトン『旅する哲学』(集英社)
 ロス・マクドナルド『さむけ』(ハヤカワ文庫)
 ケン・グリムウッド『リプレイ』(新潮文庫)

● 以下にいくつか転載。
 90年代の終わりに,デザイナーズマンションブームがあった。(中略)有名建築家が設計したマンションが話題になり,一部の賃貸物件では何年も先まで空き待ち状態になった。もっとも,私が取材した限りでは,実際にデザイナーズマンションに住んでいる人の多くは,値段と広さと立地で選んでいて,建築家の名前も知らなかった。情報と実態はいつも乖離している。(p95)
 一時は「これからはラテン系だ」なんて言ってましたが,どうも肌に合いませんね。やっぱり電車は定刻通りに来ないとイラつくし,デザインはシンプルなのがいい。(p101)
 書店員の世界というのは不思議で,同業他者の店員ととても仲がいい。「うちではこういう本が売れている」とか「あの本はこうやって陳列するとよく売れる」なんていう情報交換をしょっちゅうやっている。冷静に考えれば互いにライバル,商売敵であるはずなのに。(p167)

2013年6月17日月曜日

2013.06.14 永江 朗 『そうだ,京都に住もう。』

書名 そうだ,京都に住もう。
著者 永江 朗
発行所 京阪神エルマガジン社
発行年月日 2011.07.20
価格(税別) 1,400円

● 著者は京都に家を買うことにした。その理由から,実際に完成するまでの経過を詳細に綴ったもの。もちろん,単なる経過報告ではなく,読みものとしても充分に楽しめる。

● 売りに出ていた町家を買って,リノベーションすることになるんだけど,不動産屋,設計技師,工務店とのやりとりが,とても面白い。
 その面白さを支えているのが,著者自身の関与の深さだ。細部までゆるがせにしないんですね。こだわりを貫くというか。自分なら白紙委任しちゃうだろうなぁと思うんですけどね。

● 京都に住みたいと思ったそもそもの理由は,茶室が欲しいってこと。それだけだったら,別に京都じゃなくてもいいわけだけど,そこはそれ,いろんな偶然や成り行きがある。
 著者もまた普段の生活っていうか,食べることや住まうことを,ゆるがせにしないタイプ。だから面白いわけで。なんでもいいや,っていうんじゃね。

2013年3月18日月曜日

2013.03.17 永江 朗 『消える本,残る本』


書名 消える本,残る本
著者 永江 朗
発行所 編書房
発行年月日 2001.02.10
価格(税別) 1,600円

● 10年以上前の本だけれども,古さは感じない(が,そのことを念頭において読んだ方がいいと思う)。著者の書評(「ベストセラーを解読する」)と「個性派書店」のルポがメイン。間に,著者自身の仕事について語ったインタビュー記事などを挟んでいる。

● 書評で取りあげているのは,1997~98年に出版され,ベストセラーになったもの。そのどれもが面白い。
 以前,著者の『いまどきの新書』を読んで腹を立てたことがある。ひとつには著者に与えられたスペースの違いに由来するかもしれない。短いスペースで意を尽くすことは,名人にとっても難しいのだろう。

● じつは,永江さんが書評で取りあげている本の中で,唯一ぼくが読んでいたのが,リチャード・カールソン『小さなことにくよくよするな!』だったりするんですよねぇ。恥ずかしいんですけどね。面白かったかと問われれば,つまらなかったと答えられるところがギリギリ救いってところかなぁ。
 ぼく,この種の本をけっこう買いこんでて,まだ読んでないのが溜まっている。せっかくだから読んでやろうと思ってるんだけれども,時間の無駄かなぁ。
 この本(リチャード・カールソン『小さなことにくよくよするな!』)が言っているのは,現実に逆らうな,すべてを受け入れよ,じっと耐え忍び,苦痛も快楽と思えということだが,ようするにこれは,奴隷は主人の批判などせずに奴隷であることに満足せよ,というのと同じである。(中略) 日本の出版産業がこういうクズ本によって支えられているのも現実である。トホホ。(p56)