著者 永江 朗
発行所 原書房
発行年月日 2007.06.05
価格(税別) 1,500円
● 次の批評家たちが俎上に乗っている。
内田樹 小熊英二 藤原帰一 森達也
姜尚中 北田暁大 鈴木謙介 酒井隆史
三浦展 玄田有史 斎藤貴男 矢部史郎
稲葉振一郎 野口旭 金子勝
菊地成孔 陣野俊史 仲俣暁生 田中和生
縄田一男 山下裕二 森川嘉一郎 ササキバラ・ゴウ
本田透 荷宮和子 山崎まどか
ドン小西 遠山周平 赤城耕一 福野礼一郎 山口淳
松田忠徳 犬養裕美子
● このうち,ぼくが読んだことがあるのは,内田樹と三浦展だけ。あとは知らない。あ,温泉評論家の松田忠徳はNHKのEテレに出ていたのを見たことがある。だいぶ前のことだけど。
すでに言論界から消えてしまった人もいるのかもしれない。が,元々知らないんだから,そういう人がいたとしても,ぼくにはわからない。
● 以下にいくつか転載。
誰だって知っているような細部をつなぎあわせて全体を俯瞰してみると,誰もが知っているはずだけどよくは自覚していなかったことが顕在化してくる,というのが小熊の仕事の本質ではないだろうか。(p26)
小熊が本当にすごいのは,大量に資料を読んだことでも,厚い本を書いたことでもなく,大量の資料の中から的確にテキストを抜き出し,それを再編集・再構成したところにある。小熊の本当の才能は編集者としてのそれである。(p29)
「余裕」とは過剰に熱狂しないことであり,条件反射的に物事を考えないことである。(p33)
重要なのは,何が正しいかではなく,なぜ(それらを主張する人びとにとっては)正しいのかなのだ,と藤原は言っているように私には思われる。つまり,絶対的な正しさを発見してそれに合致しないものを否定するような態度からは,何も生まれないと藤原は考えているのではないか。(p34)
姜尚中は小さな声でゆっくりと話す。だから,彼といると,つい全身の注意を彼に向けることになる。彼がゆっくりと話すのは,たぶん幼いことに吃音癖があったことと関係しているのだろう。(p55)
知識人とは,常に自分を括弧に入れて,物事を観察し,分析する人のことである(中略) いくら「生活者」を名乗ったところで,抽象的論理的思考のなかでは自分を括弧に入れて考えざるをえない。対象化とはそういうことなんだから。(p61)
面と向かって相対する場合ならば,顔の表情や声の様子などから,その文脈を類推することができる。しかし,文字だけの情報のとき,この文脈は教養に置き換えられる。教養は経験と洞察力に左右されるので,階層化が不可癖だ。(p62)
基本的に同意せざるを得ないのは,格差の拡大はコミュニケーション能力においても深刻であり,不平等化・格差拡大を批判する者がいずれも「勝ち組」の側に属しているという矛盾についでである。(p63)
書籍の出版点数が年々増えても,メガヒットに集中する「一人勝ち」現象が起きるのは,コンピュータによるデータ管理が進んだことも一因だ。(p67)
宮台の女子高生分析が,一〇年経って見るといくつかの誤りがあったように(結局,茶髪も援交も,ただの流行現象でしかなく,その意味ではかつて朝シャンを「みそぎ」になぞらえた大塚英志と同じく,深読みというか意味付与しすぎていた),対象との距離の近さが情報の誤読を招く可能性は否定できない。(p68)
人工知能の研究では,身体を持たない意識だけの人工知能には限界があることがわかっている。(中略)身体がなければ,意識は自己と他者,内と外といった概念が理解できない。外界を理解するモノサシがないのである。(p71)
言葉は存在を規定する。フリーターという言葉はまたたく間に認知され,一般用語となった。(中略)言葉ができたことで,フリーターになること,フリーターであることの後ろめたさは減った。(p94)
企業は役に立たない人材,給料に見合った働きをしていない人材から首を切るわけではない。首を切りやすい社員から手をつける。中間管理職が狙われやすいのは,彼らの多くが労働組合に加入しておらず,また,彼らがちょっとでも有能だと経営者は自分の立場を脅かすと感じるからだ。(p96)
一介の労働者が改札窓口に座るだけで鉄道経営者を代弁する気持ちになってしまう。支配は権力機関が強権を発動して行われるわけではない。「みんな」が自動改札を使っているのだから一人の例外もなく自動改札を使うべきだ,などと根拠もなく考えるこの駅員のような,支配されたがる人びと,支配の道具になりたがる人びとによって権力の支配は完遂される。(p105)
資本家は労働者を安くこきつかって商品を作り,それを売って利益を得る。(中略)労働者は自分が作ったものを自分で買う。しかも,安く作って高く買う。資本家は作ったときと売ったときの二回,労働者=消費者から収奪するのである。(p111)
私は,批評家とは皮肉屋でなければならないと考えている。(p150)
情報誌の編集部というのはポップカルチャーに関する情報が大量に集まってくる。(中略)集まってくる情報の全体を肌で感じることができる。担当以外のこともなんとなく分かる。(p163)
たとえば文学賞でも,選考委員に評論家が加わっているもののほうがおもしろい。芥川賞や直木賞がつまらないのは,選考委員が作家ばかりだからだ。作家は小説を書くプロではあるけれども,一部の例外を除いてあまり小説を読まない。(中略)選評などを読むと,自分とは違う種類の才能は認めたくないのだなと感じることが多い。新人に賞を与えない理由としてよく使われる「人間が描けていない」だの「小説になっていない」だのという言葉はその最たるものだろう。(p169)
評論には切り口が必要で,たいていの評論家は得意技というかオリジナルな武器というか,そういうものを持っている。(p171)
人生は短く,芸術は永遠である。文学の,少なくとも純文学の書き手には,そうしたロマンチックな幻想がある。だが田中はその甘い幻想を冷たく突き放す。(p174)
いま考えると,固有名詞を閉じた内輪の言語であるとして批判した富岡多恵子の議論は,最初から無理目のものだった。固有名詞に限らず,あらゆる言語は内輪の言語であるしかないのだから。それが開かれているか閉じているかは,程度の差でしかない。(p174)
セックスがあるからこそ,多くのおたくも非おたくもアニメに惹かれるのであり,それは成功したキャラクターの魅力なのだ。(p205)
一五歳の少年がほしのあきに夢中になるとは考えにくい。ほしのあきがグラビアアイドルとしてブームになったのは,グラビアアイドルを支えるファンの年齢が上がったことを示している。(中略)「萌え」がブームとなった背景には,こうした変化-三〇年前なら一〇代の若者が夢中になったものに,現在は三〇代,四〇代の大人が夢中になり,しかもそれを隠そうとはしない-があることを押さえておく必要がある。(p208)
それにしても,本田をはじめオタクたちはなぜ自分を被害者として措定して語りたがるのだろう。何かを好きになるのに理由はいらない。たしかに世間の偏見はあるが,好きだから好きだ,と言わないところに,なんとも窮屈なものを感じてしまう。(p213)
市場原理主義は強者の論理だ。郵政などの民営化にしても,市場解放論にしても,誰もが強者の立場で発言したがる。(中略)勝者よりも敗者のほうが圧倒的に多いということが分かりきっているのに,あたかも自分は関係ない,もしくは自分は敗者にならないという前提でそれらに賛成する人がほとんどだった。(p218)
なぜネットの中では弱いものがより弱いものを叩く構造になるのか,までは充分に説明しきれていない(p219)
セレクトショップ系の古書店では,センスに合わないものを受け入れない。「何を集めるか」だけでなく,「何を排除するか」でこれらの店の品ぞろえは行われている。(p224)
かつては実売九〇万部を誇った『暮しの手帖』が,いま往時ほどの輝きがないとすれば,それは同誌によって商品の質が向上し,消費者の生活もよくなったからである。(p254)
雑誌の役割が,一般読者にはなかなか体験できないことを,代わって体験して報告することにあるとするなら,豊かになった日本人にとって,代行はもはや必要なくなった。ただし,だからといってモノについて語ることが不要になったわけではない。(中略)逆に,誰もが鑑賞できるからこそ,批評家の言葉が求められる。(p263)
分析して批評するためには,その対象を大量に調べなければならない。批評家には何よりもまず量が必要なのだ。音楽評論家は大量に音楽を聴いていなければならないし,文芸評論家は大量に文芸作品を読んでいなければならない。(中略)だが松田自身が言うように,重要なのは短期間にこの調査が行われたことだ。同時にたくさんの対象を調べることによって見えてくるものがある。(p269)
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