著者 角幡唯介
発行所 幻冬舎
発行年月日 2015.02.10
価格(税別) 1,400円
● 著者の角幡さんをひと言でいえば,おそろしく文才のある探検家,ということになろうか。内省する探検家といってもいい。内省しないで探検家が務まるとも思えないが。
内省を言葉に翻訳するのが巧みなのだろう。この文才は新聞記者を経たことによって鍛えられたものではない(たぶん)。持って生まれたものだろう。
● 探検家であることがまずある。その上での文才だ。探検家の心性は,自らを危険にさらすことを厭わないどころか,ジリジリとそっちに近づこうとする心の構えだ。
著者にいわせれば,それが「表現」だからであり,「生き死ににかかわるような緊張感に触れなければ」調子が出ないからというのだけれども。
つまり,ぼく(ら)には理解できないもの。というか,頭の表面では理解できても,それ以上には行かないように,たぶん無意識にストッパーを掛けているものだ。そのストッパーが壊れている人を探検家というのかもしれない。
● 「サードマン現象」の話が面白かった。「極限状況に直面した時,自分とは別の人間がそばにいて,助けてくれるという不思議な体験」をする人がいるらしい。
もちろん,その人の脳の仕業に違いないのだが,言われてみればあっても不思議はないように思えてくる。もっとも,著者はその体験をしたことはないそうだ。
● 以下にいくつかを転載。
こと本を読むことに関する限り,私は誤読を恐れない。たとえ著者の意図とはことなるものであっても,読み手の感性と共鳴するものがあれば,それは読書としては成功だからである。(p8)
読書には未消化だった経験に適切な言葉を与えてくれるという効能があり,言葉が与えられることでかたちの曖昧だった経験は明確な輪郭を伴った思想に昇華されるのである。(p8)
本を読んだほうが人生は格段に面白くなる。読書は読み手に取り返しのつかない衝撃を与えることがあり,その衝撃が生き方という船の舳先をさずかにずらし,人生に想定もしていなかった新しい展開と方向性をもたらすのだ。(p9)
どうやら子供というのは自然そのものであるらしい。自然というのは人間には制御できないもの,どうしようもないものと私は理解している。(中略)そう考えると子供というのは雄大な自然そのものだ。(中略)つまり,子供を育てるということは自然を相手に格闘するのに等しいわけで,やっていることは山登りと同じなのだ。(中略)男は子供のような大自然を胎内に宿すという経験を永遠に持てないため,女のように自分の独立した身体で自然を理解することができないのである。(p18)
少なくとも学生なら私は就職に対して抵抗感を持つべきだと思う。なぜならそれは社会に対して安易に迎合しないという,若者だからこそ許される反逆の精神の表れだからだ。(p27)
フェイスブックに象徴されることだが,お互いに誉めそやしたり,いいね!と励まし合ったりするあの雰囲気は一体何なのだろう。(中略)およそ他人にとってはどうでもよい話にしか思えない日常の話題を写真付きで公開し,おまけに喜び合って,気持ちよくなれそうな相手に一方的に友達リクエストなるものを送って交際を求めるという,あのわけの分からない空間の魅力が私にはさっぱり理解できないのだが,あれなどは典型的な優しさ,気持ちよさ蔓延ツールであろう。(p31)
ネットやメールというのは,実名で書く表向きの部分は優しさと思いやりであふれており,(中略)一方,そこからハミ出した悪口や露骨な本音や誰かを傷つけるような言動をする時,(中略)匿名で散々やるという,裏表がきっちり分かれた情報世界なのだと私は認識している。(p32)
読書強制的状況は探検でフィールドに出た時に最大限に達する。行動中は動くのに忙しいし疲労も蓄積するので,本を読む暇などないのではないかと思われるかもしれないが,案外そうでもない。(p37)
何かを表現することには狂気が宿る。ひとつのころを徹底的に肯定するためには,他のすべてのことを切り捨てなければいけないのだ。(p43)
クライマーが山に命を賭けることができるのは,それが表現だから以外の何物でもない。(p44)
表現することにはどうしても他者と相いれない部分が出てくる。作品を作ることの本質は他者と何かを共有することではなく,むしろ自己と他者を区別し,独自の世界を構築することにある。(p44)
出発する前は死ぬ確率が三割ぐらいあると冷静に考えていたが,だからといってそれが私の行動を妨げる要因にはならなかった。たとえそれをやることによって好きな女から振られ,家族から勘当され,友人も離れ,全財産を失い(全然なかったけど),路頭に迷うことになったとしても,ツアンポー峡谷を探検しない人生よりはマシだった。(p45)
雪崩に遭って分かったことは,状況が危険な局面に突入しようとしているまさにその瞬間に,当人がその状況を的確に捉えることはできないということである。いい換えると決定的な一線を越えるその瞬間,本人は一線を越えたことを自覚できない。(p54)
それにしてもなぜみんな同じところに行くのだろう?(中略)登山は本来自由を目指す行為のはずなのに,今では多くの人が同じ山を目指し,そして同じことをやろうとする。(p103)
誰もやったことがない旅。昔から私はいつかそういう旅をしてみたかったのだ。それこそまさにイグジュガルジュクの言う,「人類から遠く離れたところ,はるか遠くの大いなる孤独のなか」であろう。たった一度の人生,そこを目指さずに一体どこに行こうというのか。(p121)
探検というのは別に地理的な探検だけに限定されているわけではない。自分たちの世界の枠組みや常識の外側に飛び出てしまうこと,それこそが探検行為の本質である。(p127)
ヒマラヤや極地や大海原に挑んだ探検家や冒険家の中には極限状況に直面した時,自分とは別の人間がそばにいて,助けてくれる「サードマン現象」という不思議な体験をする人がいるという。(p137)
登山のルポは難しい。確固たる視点を持たずに山に行っても,そこには基本的に自然しかなく,対自然は対人間と違い会話などのやりとりがないため,文章にメリハリをつけるのが難しいのである。服部(文祥)さんの山岳ルポが面白いのは,自然と対話し,そこから読者を唸らせる発想を得ているからだ。(p141)
カルトや狂信的テロ集団が生じるのは別に珍しいことではない。カリスマ性のあるリーダーと,閉鎖的な空間があれば,それはいつでも現れ得る。(p145)
森達也の本は,常にシーンの連続だ。新聞記者はデータとして有用な内容ばかり重宝するから,シーンは不必要な情報として切り捨ててしまう。しかし映像を撮っている人はシーンの中に本質が表れることを知っている。(p146)
山や北極に比べると都会での生活はどこかフワフワしていて生きていることの臨場感に欠けるので,定期的に自然の中で,多少大げさにいうと生き死ににかかわるような緊張感に触れなければ日々での生活でも調子が失われてしまうのだ。(p172)
ノンフィクションを書く時に最も難しい問題のひとつに,予断にどのように対処するかということがある。(中略)ノンフィクションを書く場合は,この予断がないと取材に取りかかることは絶対にできない。(中略)その一方で予断が予断通りのまま進んでも,決して面白い本にはならないということもいえる。(中略)つまりそこには新しい発見が何もない。(中略)予断が崩壊する時は作品にとってピンチでもあるが,新しい物語が広がるチャンスでもある。予断が崩壊した時にこど作り手の感性は試される。(中略)ノンフィクションが作品として成功するかどうかは,予断が覆された時に生じる自分の感情のぶれをどのように描き出すかという,ただその一点にかかっているとさえいえる。(p191)
記者というのは視点が内向きで,他社の知らない特ダネ(あくまで重視されるのは他社が知らないかどうかであり,社会的に有用かどうかという観点は新聞記者の価値判断にはふくまれない)をいかにすっぱ抜くかしか考えてないので,事件の場合は各社の記者が警察幹部から情報を取ろうと血眼になって競争し,特ダネを聞いたら,それが本当に事実かどうかなど二の次で,警察が認めたからというだけの理由で正真正銘の事実であるかのように報道する。(中略)極端な言い方をすると,新聞記者は事実に関心がない。新聞記者が関心があるのは,それが事実かどうかではなく,それが事実として書ける素材であるかどうかであり,より正確にいえば,それが書けるということが誰によって認定されているかどうかである。そもそも本当に事実かどうかなど,誰に分かるというのだろう? 新聞は独自で事実認定する努力を事実上放棄しているのだ。(p210)
事実というと硬い石のようにカチッと確固として存在しているように思えるが,実際にはそうではなく,実は非常に曖昧で捉えどころがない。(中略)さらに事実というものを深く考察すると,ひとつひとつの事実そのものにはさほど意味はないことに気がついていく。(中略)事実に意味を持たせているのは,その事実を事実として成り立たせている事実性のようなものである。(中略)事実というのは事実性にまで到達しないと精確に書くことはできない。いくら表面的には正しく書いたとしても,背後にある事実性を認識した上でそれを書いたのでなければ,本当に事実を書いたことにはならない(p213)
ノンフィクションを書くには,たとえそれがどのようなテーマであれ,絶対に皮膚感覚レベルの実感が必要なのだ。(p217)
自然は死を基調とした恐ろしい世界であり,その奥深くに入れば入るほど人は死に近づくことになる。しかし,というか,だからこそ,というか,とにかく冒険者は自然が与える死の匂いの中で生きることで,その奥底にある,自分たちの命を律動させている何かと触れ合っているような気になるのである。(中略)千日回峰行もまた冒険と同様,自然の中で抽象的で観念的な何かを掴み取ろうとする行為である。回峰行は台風でも豪雨でもとにかく千日間続行しなければならないという人為的な制約を課すことで,本来北極やヒマラヤに比べたら穏当な大峰山を,それらと同じレベルの過酷な自然環境に変成させる。(p264)
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