書名 七つの自転車の旅
著者 白鳥和也
発行所 平凡社
発行年月日 2008.11.19
価格(税別) 1,600円
● 7つの自転車旅が行われた時期は大きくバラバラ。青春時代を懐かしむように書かれたものもあれば,最近のものもある。
最も印象に残ったのは“第2章 津軽から秋田へ”。その年齢でしかできないことというのは,自転車旅にも存在する。
● ぼくなんかは,若い時期にそういうことをしないで過ごしてしまったので,定年になってまったき自由を得たら,若いときにできなかったことをガンガンやって,当時の空白を埋めようと思っていた(今も思っている)。が,事はそう単純にすむものではないらしい。
若い時分の空白は,いつまで経っても,空白のまま残るしかないのだろう。
● アグスティン・ピオ・バリオス・マンゴレという南米最大のギター作曲家,が紹介されている。
白鳥さんの手にかかると,すこぶる魅惑的な音楽家に思えてくる。CDを探してみようかと思った。
● 以下にいくつか転載。
この映像作品(「四季・ユートピア」)の素晴らしい魅力は,しかしそういう物語構造にあったのではない。ドキュメント作品のように,そこにある人や風景や物事を等身大で扱いながら,なおかつそこに驚くべき詩を発見したことが,奇跡的だった。(p51)
森は恐ろしい。だからこそ,人々は森を刈り,そこに耕作や牧畜の光を入れようとしたのであろう。(p55)
記念写真用程度のカメラは持っていた。止まって出そうと思ったが,できない。 見世物デハナイゾ オマエ トオリガカリノモノ。 集落全体がそういう風に言っているかのように思えた。(p57)
津軽にもいろいろ事情はあるのだろうが,人々の生活ぶりに,この国の地方世界を侵しつつある,ある種の衰退と陰鬱は,個人的にはほどんど感じなかった。さながら,中世の都市国家のように,中央の都合など関係のないところで街が成立しているかのようで,そのことにかえって驚かされた。(p93)
今日だけでも,二〇インチ小径車で約八〇kmも走ったのはいささか出力過剰的だったかもしれない。(p93)
小径車で80km走るのは,一般的にけっこう大変なこととされているんだろうか。ぼくは140kmほど走ったことがあるんだが。
ロードには乗ったことがないので比較ができないんだけど,そんなに違うものなんだろうか。
予定の行程を無事消化して目的地に辿り着き,宿を確保し,泊まる街の中を流す黄昏の時間は,自転車旅行者にとって,静かな,だが何物にも代えがたい喜びに満ちた濃密なひとときである。(p114)
北陸を自転車で旅して誰もが感じるものは,車の少ない旧市街や名もない海沿いの漁村を行く道,工業地帯の傍らに見つかる味わい深い町並みなど,太平洋岸の都市ではすでにあらかた失われた,湿度と節度と叙情に満ちた空気感だ。(p117)
もう一五年も前だが,旧い四輪車にどっぷり浸かっていた頃に,ランドナーで旅行していた女子大生を見て,ちょっと参ったな,と思った場所である。(p120)
日本海の海岸線を旅することの醍醐味のひとつは,間違いなく落日の景観だろう。海に呑み込まれていく太陽は,どうにも切なく,その切なさの中に,何か手の届かないものへの思いが残る。(p126)
北に日本海を見る風景の感覚は,南に太平洋を見るそれとえらく異なる。ちょっと眩暈が起こりそうなくらいの位相感覚の揺らきなのだ。(p192)
旅に出ようが出まいが,旅を続けようが帰ろうが,とどのつまり,存在は旅でしかあり得ない。われわれは地上のまれ人として,何十年かこの地表を動き回り,やがては来た場所に帰っていく。旅は畢竟その比喩だ。(p201)
人間的なものの属性のひとつは,ゆっくりと活動することであるのかもしれない。素早いもの,高度な運動性を備えたものは,超人的であることは間違いないが,その中には獣性の要素も含まれる。(p285)
SFが真に問題としているのは世の人々の多くがそうだと考えている科学技術や未来社会の想像たくましくも無味乾燥な仮想実験なのではなくて,人間と変化,である。と少なくとも私は思っている。そして変化こそ,われわれに知覚可能な,時間の属性だ。(p285)
書名 自転車依存症
著者 白鳥和也
発行所 平凡社
発行年月日 2006.11.15
価格(税別) 1,600円
● 静かに興奮できる本。自転車に興味がない人が読んでも面白いと思う。どんな人でも何かには興味のベクトルが向かっているものだろう。自分の興味の持ちようとひき比べながら,充分に楽しめる。
あるいは,何に対しても特別な興味はないという人がいるかもしれない。そういう人が読んでも,やはり面白いと思う。
● そうだったのかと思わされた文章があった。
自転車や独り旅は,若者が持て余しているエネルギーを受け止める装置のひとつになったのだった。政治闘争は,地方出身のありふれた学生たちにその装置の役割を果たすにはもはや質的に変わりすぎていた。そこで,皆,大なり小なり,旅をした。実際に旅に長く出るほどのモチベーションや機会を持てなかった若者でも,田舎から都会に出て,四畳半の風呂のないアパートで学生生活を送り,旅に近い数年間を過ごした。(p165)
ぼくは,学生時代,旅に惹かれることがなかった。それは,学生生活じたいが旅のようなものだったからか。そう言われれば,ストンと得心がいく。
あれは旅だったのか。そうか。卒業は旅の終わりだったのか。わざと留年する人もいるけれども,もっと旅を続けたかったからなのか。
● 自転車好きの人に共通する他の趣味について,次のように指摘する。
ツーリング系のサイクリストは,自転車以外のほかの趣味にも共通の傾向を示す。鉄道なんてのはその最たるもので,輪行を好むサイクリストの三人に一人は,かなりの鉄分が入っている。(中略) オーディオが好きな人も多い。(中略)しかし,これら二者よりさらに浸透度が高いと思われるホビー領域がある。カメラである。(p182)
分裂気質の人が多いんだろうかね。鉄道にしろ,オーディオにしろ,カメラにしろ。
ぼくも自分が分裂気質であることは自覚している。鉄道も好きだ。が,オーディオとカメラには入れ込まなかった。要するに,自分がメカに直接手をくだすというのは,甚だしく苦手意識がある。
自転車もパンク修理やブレーキシューの交換程度は自分でやるけれども,ワイヤーの調整になるともうお手あげだ。お手あげというより,端から自分で何とかしようと思うことがない。
そこが「依存症」という面白さに満ちているであろう領域まで踏み込めない大きな理由になっていると思う。
● 古い駅舎になぜ郷愁を覚えるのか。この点に関する考察も読みごたえがある。問題提起の部分だけ転載しておく。
鄙びた駅や鉄道というものの持つ切なくなるほどの郷愁の理由を説明することなど,半ば不可能に近い。あまりに根源的なものが何かそこに関わっているような気がしてならないからだ。(p223)
● 他にもいくつか転載。
一般的に,入ることと出ることに関して,「入り出」とは言わず,「出入り」と言う。「入り出口」はないが,「出入り口」はあらゆるところにある。 このあたりのことが暗に語っているのは,存在にとっては「出す」ことの方が,「入る」ことより重要なのではないかという示唆である。お金が入ってこなくなったから,困窮状態になったというよりは,お金を使うことができなくなったために,入るべきものも入って来なくなった。息を吸うことができなくなったときにジ・エンド,となるのではなく,もはや息を出すことができなくなったときに完となる。「出る」「出す」は,「入る」「入れる」より優先する。(p39)
そういう間抜けと馬鹿の日々を通り過ぎないと,まともな感覚や判断が身につかないというのが,人生の一種哀しい真実なのかもしれない。極端を知ることがないと,中庸に辿り着かないのだ。(p46)
どうも人生というのは,思い通りにならないという面も強いものの,それ以上に,むしろ自分が心底からイメージできる以上のものにはならない,という法則があるようだ(p48)
海外のロードの一流選手のなかには,何かの原因で選手活動ができなくなり,自転車に乗らなくなると,酒に溺れたり,場合によっては本当に「クスリ」に手を出してしまう場合もあるらしい。そういうものをやりたくてやったのではなく,ただ一生懸命自転車に乗っているうちに,われ知らず脳内麻薬の気持ち良さを知ってしまうのではないか,という推論なのである。(p71)
人生に物語やドラマがある,と言っているのではない。逆なのだ。何かの意図を持つようにしか思えない時間の流れや弾道のなかに,人の生というものは置かれているらしい。それはしかし固定されておらず,時間,空間,人間といった要素でいくつかは記述ができるファクターのなかで,刻一刻とその振る舞いを変化させているように見える。(p94)
一個部品を換えると,なんだか全体がしまらなくなってくる。優れた文章にはほとんど手を入れられないことに似ている。ひとついじくると,ほかが,がたがたになってしまうのだ。換えるなら,全体の秩序を再構成しなければいかん,ということになる。(p127)
馬鹿げた車になぜ魅力を感じるのかというと,私にとっては,それが自転車的な何かを持っているからだ。私にとっては,おそらく自転車は,事実そうであったとしても,社会的に意義のある有用な乗り物というよりも,ただ単純に人生に歓びを与えてくれる乗り物なのだ。馬鹿げた車も,また同じ。(p175)
サイクリストは音楽好きではあるが,反面,騒音は嫌いで沈黙を愛するようなところもある。自転車が聴覚と深い関係を持つ乗り物であることと関連しているのだろうね,これは。(p232)
本や文章というものは聴覚の産物である。これは多くの人にとって意外なことだろう。なるほど,朗読などを除けば,文字は目を通して意識に入ってくるものだから,視覚だと思いがちである。しかし言語は聴覚を通して心魂に入ってくる。(中略) つまり,本の好きな人は聴覚人間なのではないか,ということなのだ(p233)
書名 自転車フェチの独り言
著者 白鳥和也
発行所 枻出版社
発行年月日 2009.07.10
価格(税別) 1,500円
● うーむ,なるほどフェチだ。ここまでの思い入れを持てる人が世の中にはいるんだな。いや,けっこういるのかもしれない。
自転車の各パーツに美を見いだすというかね。さらに工作好きであること。漢(おとこ)だねぇと思ってしまいますよ。
● ぼくはまるでダメだ。子どもの頃,男の子だったら誰でも夢中になるプラモデルも,ぼくは上っ面をかすっただけだった。ちょっと細かくなると,もうお手上げだったので。天性の不器用だった。
ぼくの父親は職人で,たいていのモノは自分で作れた人なんだけど。
● もちろん,三つ子の魂百までというわけで,今でも工作はダメだ(と思っている)。自分で自転車をカスタマイズするなんてのは,ぼくにとっては別世界の話になる。パンクくらいは自分で修理できるけれども,たぶん,人の倍の時間を要するだろう。
その分,その世界の人には憧れもある。なれないけどなってみたいっていう。
● 以下にいくつか転載。
だいたいにおいて,道楽の乗り物というのは,個人の独立や自立,自律を絵に描いて額に入れたようなもの(p110)
主人とともに長い時間を過ごし,なおかつ主人に愛され,手をかけられていた乗り物には,独特のオーラがある。一種の迫力に近い。部品自体は物質なんだけれど,物質を超えた何かがそこに生きている。(p125)
多くの人は,本物という物体があると考える。物質の世界の中に原型があると考えるのである。私はそうは思わない。この世の物体はすべて,別の世界の中に存在している理念のレプリカまたは複製だと思っている。(p191)