2018年1月15日月曜日

2018.01.15 白鳥和也 『七つの自転車の旅』

書名 七つの自転車の旅
著者 白鳥和也
発行所 平凡社
発行年月日 2008.11.19
価格(税別) 1,600円

● 7つの自転車旅が行われた時期は大きくバラバラ。青春時代を懐かしむように書かれたものもあれば,最近のものもある。
 最も印象に残ったのは“第2章 津軽から秋田へ”。その年齢でしかできないことというのは,自転車旅にも存在する。

● ぼくなんかは,若い時期にそういうことをしないで過ごしてしまったので,定年になってまったき自由を得たら,若いときにできなかったことをガンガンやって,当時の空白を埋めようと思っていた(今も思っている)。が,事はそう単純にすむものではないらしい。
 若い時分の空白は,いつまで経っても,空白のまま残るしかないのだろう。

● アグスティン・ピオ・バリオス・マンゴレという南米最大のギター作曲家,が紹介されている。
 白鳥さんの手にかかると,すこぶる魅惑的な音楽家に思えてくる。CDを探してみようかと思った。

● 以下にいくつか転載。
 この映像作品(「四季・ユートピア」)の素晴らしい魅力は,しかしそういう物語構造にあったのではない。ドキュメント作品のように,そこにある人や風景や物事を等身大で扱いながら,なおかつそこに驚くべき詩を発見したことが,奇跡的だった。(p51)
 森は恐ろしい。だからこそ,人々は森を刈り,そこに耕作や牧畜の光を入れようとしたのであろう。(p55)
 記念写真用程度のカメラは持っていた。止まって出そうと思ったが,できない。 見世物デハナイゾ オマエ トオリガカリノモノ。 集落全体がそういう風に言っているかのように思えた。(p57)
 津軽にもいろいろ事情はあるのだろうが,人々の生活ぶりに,この国の地方世界を侵しつつある,ある種の衰退と陰鬱は,個人的にはほどんど感じなかった。さながら,中世の都市国家のように,中央の都合など関係のないところで街が成立しているかのようで,そのことにかえって驚かされた。(p93)
 今日だけでも,二〇インチ小径車で約八〇kmも走ったのはいささか出力過剰的だったかもしれない。(p93)
 小径車で80km走るのは,一般的にけっこう大変なこととされているんだろうか。ぼくは140kmほど走ったことがあるんだが。
 ロードには乗ったことがないので比較ができないんだけど,そんなに違うものなんだろうか。
 予定の行程を無事消化して目的地に辿り着き,宿を確保し,泊まる街の中を流す黄昏の時間は,自転車旅行者にとって,静かな,だが何物にも代えがたい喜びに満ちた濃密なひとときである。(p114)
 北陸を自転車で旅して誰もが感じるものは,車の少ない旧市街や名もない海沿いの漁村を行く道,工業地帯の傍らに見つかる味わい深い町並みなど,太平洋岸の都市ではすでにあらかた失われた,湿度と節度と叙情に満ちた空気感だ。(p117)
 もう一五年も前だが,旧い四輪車にどっぷり浸かっていた頃に,ランドナーで旅行していた女子大生を見て,ちょっと参ったな,と思った場所である。(p120)
 日本海の海岸線を旅することの醍醐味のひとつは,間違いなく落日の景観だろう。海に呑み込まれていく太陽は,どうにも切なく,その切なさの中に,何か手の届かないものへの思いが残る。(p126)
 北に日本海を見る風景の感覚は,南に太平洋を見るそれとえらく異なる。ちょっと眩暈が起こりそうなくらいの位相感覚の揺らきなのだ。(p192)
 旅に出ようが出まいが,旅を続けようが帰ろうが,とどのつまり,存在は旅でしかあり得ない。われわれは地上のまれ人として,何十年かこの地表を動き回り,やがては来た場所に帰っていく。旅は畢竟その比喩だ。(p201)
 人間的なものの属性のひとつは,ゆっくりと活動することであるのかもしれない。素早いもの,高度な運動性を備えたものは,超人的であることは間違いないが,その中には獣性の要素も含まれる。(p285)
 SFが真に問題としているのは世の人々の多くがそうだと考えている科学技術や未来社会の想像たくましくも無味乾燥な仮想実験なのではなくて,人間と変化,である。と少なくとも私は思っている。そして変化こそ,われわれに知覚可能な,時間の属性だ。(p285)

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