書名 吉本隆明 最後の贈りもの
著者 吉本隆明
発行所 潮出版社
発行年月日 2015.04.20
価格(税別) 1,600円
● 詩歌論。吉本さんの詩や短歌,俳句に対する考えが直截に述べられている。語りを文字にしたものなので,読みやすくもある。
が,それでもぼくがどれほど理解できたかは,少々以上にわかりかねる。
● 新海均さんが「はじめに」を書いている。茂木健一郎さんとの共著を作ったときの,茂木さんの対応にチクリとコメント。
多忙な茂木さんが半年を経過しても原稿に手をいれてくれないことを詫びると「いいですよ。気にしないでください。待ちますから。こっちも仕事が減って楽ですから」と、気配りの行き届いた返事をしてくれる。結局,本が出たのは,二〇一二年六月。吉本さんが亡くなってからになってしまった。(p4)
自分が閑職に異動させられたとき(本人は左遷と受けとっていたようだ)の,吉本さんから励まされたことも書いている。
二〇〇七年二月,私は編集部から外れ,校閲部に異動となったので,挨拶に行った。すると,「・・・・・・で,体は楽になった? 給料は減った? 変わらない? 変わらないんだったらいいな。俺だったら,自家製の勉強をするな。チャンスですよ。(会社には)知らん振りして・・・・・・。ぜひチャンスを生かしてください」と大きな声で言う。(p6)
● 日本語の音構成についての,吉本さんの指摘。
子音の第三列音に「あいうえお」をつなげて,それを短縮していくと,「か」今日なら「か」行の,「さ」行なら「さ」行の音自体が表現されます。日本語の五十音はほとんどこれで理解することができます。(中略) そこから大きくはずれるのは「や」行音と「わ」行音です。いくら母音と子音を重ねても,「や」行の音と「わ」行音は出てきません。ということは,「わ」行音と「や」行音はちがう原則にのっとっているに相違ない。それはなにかというと,母音の二つ重ねだと思います。(p27)
日本語のばあいは,「あいうえお」の母音五音,それに各行の第三列音である「くすつぬふむる」の七音,例外の「や」行音,「わ」行音,「ン」の三音があれば足ります。合わせて十五音で日本語は表現できるということになります。(p29)
● 日本語で書く場合に,外国の流儀を取り入れれば,それだけでグローバルになるか。なるわけがない。
森(有正)さんのエッセイを読んでいると,なんでここまで入れ込まなきゃいけないんだと感じることがよくあります。あそこまでいったら,「もうフランス人そのままじゃないか,ヨーロッパ人そのものじゃないか」と,ぼくなんかは思います。 じつをいうと,外国の文化や芸術との格闘はそこまでいかなければ意味がないんです。加藤周一のように小手先のテクニックで西洋のまねをしたところで,なんの意味もありません。(p61)
まず日本語で,日本語の表現でいったら,これが限界じゃないかというところまで行ったら,それはグローバルな意味をもつだろうと思いますね。そうじゃないとグローバルにならないですね。(p124)
今,グローバル,グローバルって言っているけれども,本当の意味のグローバルはどこにもないよって思います。 地域語同士があるっていうだけです。地域語には,はやっている地域語と,日本語みたいに(中略)(はやっていない)地域語もある。ただこれは,はやりすたりの問題であって,地域語としては同等なんだって,僕なんかはそう思います。(p116)
● その他,以下にいくつか転載。いずれも,オォッと思ったこと。
短歌でも俳句でもいいんですけれども,古典の短歌に劣らない短歌をつくる可能性があるとしたら,そこに自分をうち込んだ自己劇化っていうのが必要です。自己の真実に対して自己劇化を加えることが技術的にできれば,多分,匹敵するだろう。(p84)
地獄という概念で,その人が生まれたことに対しては責任がないはずなのに,そこに責任をもたせたいというのが『往生要集』の一番の要点,理念の最初の要求だと思います。(p96)
チンパンジーとか,そういうのを研究すると,人間の言葉に一番近い言葉だから,これを研究すると,人間の言葉の本質がだんだんうまく解明できてくるよとかんがえるのと同じことで,それは本当は一番,遠いやり方で,簡単に見当違いをしているっていうふうになる(p122)
少し前になりますけれども,臨済宗の管長さんが老苦を,老人としての苦しさでもって首吊り自殺をしちゃったことがあるんですよ。(中略) それで,京都で,浄土真宗東本願寺派の集会でおしゃべりに行っていたとき,(中略)(そこにいた坊さんに)聞いたんですよ。 するとその坊さん,(中略)何て言ったかっていうと,「いやあ,臨済宗の管長になるような,修行をして,悟りを開いたそういう人でも,普通の庶民のおかみさんに及ばないっていうことは,あり得ますからね」って言ったんですよ。それで,それだけ言ってもらえれば,僕には,ああ,わかった,わかったと。(p125)
音楽でいえば,バイオリンとか,ピアノとかで,古典の,モーツァルトならモーツァルトを演奏する人ってあるでしょう。要するにあれは批評なんですよね。批評家なんですよ。(p137)
歴史というのは,いわばその時代における頂点でかんがえられます。その頂点のところで把らえられやすいし,また,文化の担い手というのは知識的な部分です。知識的な部分というのは,確率的にいえば,わりあいに上層のほうに多いわけです。(p167)
それから文化,あるいは文学,芸術の世界というのは,一つは場がなければ-場の産物ですからね-進歩していかないという,そういう性質を持っていますから,単独者がどこかで詩あるいは文学をやりというばあいには,単独でじぶん自信がパターン化するまで修練を重ねることをまず前提として必要とします。そのうえで,初めて場を持つものと対等の基盤に立てるわけです。その上でつくられるわけです。だから単独者とか疎外者が,優れた作品を生むのが大変むずかしいというのは,そういうところに一つは依存しています。支配者であれ,支配者に近き存在であれ,文学,芸術とうようなものがえてして,階級的に上層というものにになわれるという宿命を持っていることは大変避けがたいことなんです。(p167)
例えば、高松塚というのはたまたま壁画がわりあいによく保存されて発掘された。そうすると,高松塚の塚の主,埋められた主はたれであるかというようなことを(中略)一かどの歴史家というものが口角あわを飛ばして論証しようとするわけです。(中略)それらの論証に一様に欠けていることは,高松塚に埋められた主がたれであるかということが,その時代の歴史的な現実の全体からいってどういう意味を持っているんだということがふまえられていないことです。つまり,全体からみれば,そんなことどうだっていいじゃないかということですよ。 (その)自覚なしに,そういう立証にのめり込むということは全くナンセンスだということです。そのナンセンスを素人がやるならいいけれども,歴史学者がそれをやるわけです。そうするとやりきれないです。(p169)
書名 「すべてを引き受ける」という思想
著者 吉本隆明
茂木健一郎
発行所 光文社
発行年月日 2012.06.20
価格(税別) 1,500円
● 吉本さんと茂木さんの対談。ではなく,茂木さんが吉本さんにインタビューしている。そのインタビューは2006年に行われた。
吉本さんからこれだけの話を引きだすんだから,インタビュアーが誰かは大事だ。
● 親鸞の「往相」と「還相」の話が26ページに出てくる。この話が一番印象的。「救済の問題というのは(中略),ある地点まで行ってそこから還ってきた,そういう目で見ることだ」ということ。
充分には理解できない。わからない。だけども,この視点はとんでもなく重要なのだというのはストンと腑に落ちた。
● 二人の話に登場する人物たちを列記してみる。
夏目漱石
親鸞
三木茂夫(比較解剖学者)
安藤昌益
多田富雄(免疫学者)
荒川修作
正宗白鳥
小林秀雄
源信
宮沢賢治
谷川雁(詩人)
永井均(哲学者)
白川静
丸山眞男
千石イエス
鮎川信夫(詩人)
三浦つとむ(マルクス主義者)
蓮實重彦
折口信夫
中沢新一
今西錦司
鈴木光司(作家)
栗本慎一郎
澁澤龍彦
江藤淳
デズモンド・モリス
ドストエフスキー
トルストイ
マルクス
レイコフ
チョムスキー
ラスキン
リチャード・ドーキンス
ニーチェ
シモーヌ・ヴェイユ
レーニン
レヴィ=ストロース
アダム・スミス
カフカ
ミシェル・フーコー
サルトル
ラマルク
ベルクソン
● 以下に,吉本発言をいくつか転載。
ホスピス医は二重に悪いことになります。第一に死を前提にした医療なんて認めがたいし,そのうえ,自分たちはいいことをしているんだと考えているとしたら,これはもうどうしようもないわけです。(p52)
人間というか人類には,根拠のないタブーをつくらないと済まないようなところがあります。そういうところだけは動物の習慣性と同じで,その点ではまず動物性を脱していないといえます。 日本でいえば,被差別部落のようなものがありますが,部落差別に何か根拠があるのかといえば,何もない。(p56)
事物というのはまず自己を満たすことが大事なのではないか。ぼくは自己を満たすことを「自己慰安」と呼んでいますけれども,自己が慰安されるところがないようなことは考えないほうがいいと思っています。(p84)
そのとき感じたのは,宮本顕治という人はあるところで年齢が止まってしまったなということでした。それからもうひとつ,いってることが旧制の高等学校の学生とまったくいっしょで,なんだ,こいつはまるで学生じゃないか,と思いました。 戦争中,宮本顕治は刑務所に入っていたわけですが,刑務所のなかで何もしていなかったんだなということがすぐわかりました。「何もしていなかった」というのはつまり,自分は共産党の幹部で政治運動家だというなら,刑務所に入っていても時々刻々移り変わる国内の社会情勢や世界情勢に対して,自分なりの判断を持つべきなのに,それをまったくしてこなかったという意味です。ああ,この人は牢屋に入ってただフラフラしていただけだ,何も考えていなかったんだな,ということが瞬時にわかりました。(p117)
書名 15歳の寺子屋 ひとり
著者 吉本隆明
発行所 講談社
発行年月日 2010.10.18
価格(税別) 1,000円
● 吉本さんが15歳の中学生を相手に話したことをまとめたもの。吉本人生論のエッセンスが読みやすく圧縮されている感じ。
● 次のようなことがらが語られている。
書いてみると,自分でも気がついていなかった自分自身の気持ちがわかることがあるし,それをもっと深く掘り下げていくこともできる。〈話し言葉〉が相手に何かを伝えるための道具だとしたら,〈書き言葉〉は自分の心の中に降りていくための道具だといってもいい。(p12)
なんかよくわかんねえなって思ったら,わかったふりをしないで,わかんねえなって思ってりゃいい。そこでいいことをいおうとすると,たいていまちがいだぞっていうのがある。(p21)
人は誰でも,誰にもいわない言葉を持っている。 沈黙も,言葉なんです。 沈黙に対する想像力が身についたら,本当の意味で立派な大人になるきっかけをちゃんと持っているといっていい。(p23)
誰に才能があって,誰に才能がないとか,そんなことはないというのが僕の考えです。 たとえばいい文章を書くということにしても,才能によるとか,資質によるとか,あるいは感覚がどうだとか,細かく数えるといろんな要素があるわけですが,そういうことは全部,二の次だと僕は思っています。そんなのはたいした問題じゃない。大事なのはしょっちゅうそのことで手を動かしてきたか,動かしてきていないかのちがいだけです。これは物書きに限らず,何でもそうですよ。(p25)
じゃあ,どのくらい手を動かしたらいいのか。 僕は昔っから,「十年やれば一人前になれるよ」っていってきたんですよ。「十年やって,ものにならなかったら俺の首をやるよ」ってね。(p26)
人の人生には,どうしても避けがたい不可避なことがある。 そういう受け入れざるをえないことを,どう受け入れるか。人が「生きる」っていうのは,もしかすると,そういうことなんじゃないか。(p39)
ジタバタしてりゃあ,なんとかなっていくもんですよ。僕なんかはやりたいと思うことを好きにやって,遊んじゃった方がいいんじゃねえかって思っちゃうくらい。ちゃらんぽらんが身を助けるってこともあるからね。(p85)
書名 フランシス子へ
著者 吉本隆明
構成・文 瀧 晴巳
発行所 講談社
発行年月日 2013.03.08
価格(税別) 1,200円
● 「フランシス子」とは吉本さんの愛猫の名前。吉本さんはフランシス子が亡くなった9ヵ月後に自らも逝った。
本書は,その最晩年の吉本さんへのインタビューというのか,問わず語りというのか,吉本さんがゆっくり(だったと思われる)語った話を文章化したもの。
● こういう本は,こちらもゆっくり読まないといけない。1時間で読めてしまうかもしれないけれども,道草を喰いながらゆっくりと。
● こういう本からの転載はいかにも野暮だけれども,いくつかを写しておく。
行き止まりでも,その先を生きていくほかない。 いつでもそう思ってきました。 終わりから始まる。 そういうところは依然として残っています。(p65)
何か大事なものかそうじゃないか,それもよくわからんのだけど,本当は中間に何かあるのに,原因と結果をすぐに結びつけるっていう今の考えかたは自分も含めて本当じゃないなって思います。 何かを抜かして原因と結果をすぐに結びつけて,それで解決だって思おうとしてるけど,それはちがうんじゃないかって。(p66)
親鸞は,そういうごく普通の人々と同じところに自分も行こうとしたんですね。 普通のお坊さんは,自分が修行をして特別な境地に達することで,人々を教化するという考えだったけど,親鸞はちがった。 そこが親鸞の特異なところだし,すごいところだったと思います。 人々を救ってあげる偉い人間がいるんじゃない。 普通の人こそが人間だって考えて,自分の宗教心を普通の人に近づけようとして,うんと努力した人なんです。(p98)
あるところでは若いときには全然なかったことを考えてるんだけど,それを言わないだけ。 思ってるんだけど,やらないだけ。 思ってるんならやりゃあいいじゃないかって思うかもしれないけど,思ってるけどやらないってことがあるんだってことが,いよいよわかってきた。 そういうことがよくわかってくるっていうのがお年寄りの特性っていうか,せめてもの慰めでね。(p107)