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2020年11月14日土曜日

2020.11.14 岸見一郎 『定年をどう生きるか』

書名 定年をどう生きるか
著者 岸見一郎
発行所 SB新書
発行年月日 2019.06.15
価格(税別) 830円

● 定年を絡ませる必要はなかったような気がする。無理に定年を持ち込んだために,文章がいったり来たりすることになってしまったような。冗長というか。
 著者にもサラリーマン経験はあるのだが,定年で辞めるサラリーマンの機微にはやや疎かったりするんだろうか。定年=やるべきことと人間関係の喪失=一気の老け込み,があてはまる定年退職者なんて,今どき,いてもごく少数派ではないか。そのごく少数派に向けて書いたのだと言われれば,そうでしたかと申しあげるほかはないが。
 アドラー理論の射程距離も無際限ではないのだろう。やや雑に流れたような印象を持ってしまった。


● とはいえ,以下に転載。
 これまでの人生のように上り坂を苦労して登らなくてよくなり,これからは自転車のペダルから足を外して坂を下るというふうに考えれば,むしろ老年は楽に生きられるというわけです。(p29)
 定年の前と後に価値的な優劣があるわけではありません。例えてみれば,冬が他の季節に比べて劣っているわけではないようにです。冬には冬のよさがあって,それは他の季節のよさと比べることはできません。(p30)
 私には,会社で働いている人が社会との接点を失った引きこもりの人のように見えることがあります。(p32)
 現実はこうなのだといってしまったら,そこから先には進めなくなります。現状はこうだが,そうであってはいけないと考えなければ現状を変えていくことはできないのです。(p40)
 人は「今ここ」を生きているのですから,未来のことを考えても意味がないということです。(中略)未来は「未だ来てない」のではなく,「ない」からです。(中略)不安は未来に関わる感情ですから,未来を手放せば不安から自由になることができます。(中略)今考えられることがあれば,それは未来ではなく,「今」する準備のことです。あるいは,このようにいうこともできます。今変われないのなら,未来にも変われない,と。(p53)
 過去も今できることをするための妨げになることがあります。今,変わるのであれば過去は手放さなければなりません。(p54)
 まず人間の価値を生産性で見ないということです。生きることそれ自体に意味があることを知らなければなりません。(p54)
 学校に行かなくなった子どもの親に私がよくいうのは,何の疑問もなく自動的に身体が学校に運ばれている子どもよりも,今は学校に行っていない子どもの方が,勉強することの意味や人生の意味などについて深く考えているということです。(p56)
 何かをしていなければ怠けているように思う人は,この何かをしなければならないという思いから脱却しなければなりません。人の価値を生産性で見ないという考えにつながっていきます。(p58)
 この趣味には何か意味があるかなどということを考えていれば趣味を楽しむことはできないでしょう。(p69)
 学校は英語ではschoolといいますが,その語源はギリシア語のschole,「暇」なのです。実用性から離れて時間をかけなければ学問とはいえないのです。(p70)
 何が与えられているかではなく,与えられたものをどう使うかが大切だとアドラーはいっています。(p71)
 カメラを買ったのにすぐに使わなくなってしまうというような失敗をしないためには,最初から何もかも揃えて始めるというのではなく,できることから少しずつ始めるのが賢明なのです。(p72)
 自分が経済的に優位であるということを,妻や他の家族よりも優位であるということの根拠にする男性がいます。(中略)このようなことは劣等感によるものです。(中略)本当に優れている人はそのようなことはしないで普通でいられるのです。(p74)
 エネルギーがあればそのエネルギーの向けどころを変えれば立ち直りは早いのですが,エネルギーがあまりなければ,まずそのエネルギーを出すところから始めなければなりません。(p80)
 仕事の場でも,評価は必ずしも正しいとは限りません。(中略)入社試験もそうです。本当は優秀な能力を持っている人でも会社がそれを正当に評価できず,試験に落ちるということはよくあります。(中略)評価と自分の価値や本質は何の関係もないのです。(p82)
 愛という感情があるから二人の関係がよくなりよいコミュニケーションができるわけではありません。よいコミュニケーションができていると思えた時に,この人を愛していると感じられるのです。(p86)
 若い人は就職活動の時,ワードもエクセルも使えますと自分の持っている知識を会社にアピールするのですが,そのことは(中略)自分は他の人と同じ知識を持っている,言い換えれば,他の人に取って代わられるくらいの能力しか持っていないということを会社にアピールしているに等しいのです。(p111)
 仕事は何のためにするのかといえば,私は他者貢献だと考えています。(中略)貢献感を持つことができれば自分に価値があると思え,対人関係の中に入っていけます。(中略)理想をいえば,そんなことすら忘れて自分が取り組んでいることに喜びを感じられることが望ましいと私は考えています。(p127)
 仕事中心の人生を送ってきた人は家事の多くを免除されてきました。いわばそれまでずっと甘やかされて生きてきた人は,定年後には甘やかされて生きることから脱却しなければなりません。(p154)
 他者(定年後にはそれが家族になりますが)が自分の期待を満たすために生きているのではないことを知らなければなりません。(p155)
 いつも一緒にいなければ満足できないというのであればおかしいのです。それは依存であって愛ではありません。一人で過ごすこともできるが二人でいる時の方がより楽しいというのが,本当の意味での自立といえます。(p161)
 人生設計をしてみても,その通りにはならないのは,若い時も定年後も同じです。(中略)人生設計をすることを勧めないのは,このように先が見えない,先のことは決められないからということもありますが,計画を立てると「今」が将来の準備期間になってしまうからです。何かを達成してもしなくても,人は今ここでしか生きることはできないのです。(p167)
 効率的に生きることに意味はありません。誰もが必ず死ぬのですから,効率的に生きるというのは,できるだけ早く死ぬということになってしまいます。(p168)
 人は幸福であることを願うことも,願わないこともできるのではなく,誰もが幸福を目指している,幸福でありたいと願っているというのが,ギリシア哲学の考え方です。(p174)
 お金があってもなくても,また会社で高い地位についていてもついていなくても,幸福に生きるためには,そのようなことにとらわれないことが大切です。(p176)
 持っていないものを失うことはできません。過去も未来も持つことはできません。「各人は今だけを生き,かつそれだけを失う」(p184)
 哲学者の鶴見俊輔はこういっています。「敗戦直後,食事をする気力もなくなった男は多くいた。しかし,夕食をととのえない女性がいただろうか」(p193)
 現実がどんなに苦しくても,本を読めばそこには現実とは違う世界が待っています。苦しさを忘れ,愉快な気持ちになれます。これは現実逃避ではありません。本を読んでいる「今」も現実だからです。(p196)
 問題は間違うことではなく,間違うことを恐れてしまうことです。(p199)
 何もしないうちから,この歳になると記憶力が衰えたというようなことをいって何かを学ぼうとしない人は多いですが,学生時代のように本気で学べば大抵のことはかなりの程度まで身につけることができます。(p200)
 ドイツの詩人であるリルケは,批評してもらうべく自作の詩を送ってきtカプスに,批評を求めるようなことは今後一切やめるように,そして,「書かずにはいられない」のであれば,詩を書くようにと助言しました。(p201)
 とにかく朝目が覚めたら,今日という日を今日という日のためだけに生きる。できるのはこれだけです。(p205)

2020年8月11日火曜日

2020.08.11 岸見一郎 『本をどう読むか』

書名 本をどう読むか
著者 岸見一郎
発行所 ポプラ新書
発行年月日 2019.02.07
価格(税別) 800円

● 私はこう読んでいるという具体的な回答を示しているというよりも,自身の読書歴を語っているようであり,さらには自叙伝のようでもあり。
 外書購読の指南でもあり,たくさん読めばいいと考えることや速読に対する戒めでもある。

● 以下に転載。
 私は本を読むことは他の何かの目的のためにされることではなく,ただ楽しいから読むというのでいいと考えています。生きるということも本来楽しいものです。人は何かのために生きるのではありません。何かのためにでなく生きられることが幸せです。(p7)
 対人関係はこのように悩みの源泉であるかもしれませんが,他方,生きる喜びや幸福もまた対人関係の中でしか得ることはできません。そこで,幸せになろうと思うのであれば,対人関係の中に入っていく勇気が必要です。(p10)
 ただ黙って話を聞いていればカウンセリングになるわけではありません。(中略)絶えずなぜ今この人はこの話をしたのだろう,次はどんな話になるだろうかと推測しながら話を聞くのでなければ話を聞くことにはならないのです。(p26)
 相手を理解するためには,「もし自分だったら」と考えるのではなく,「もしも自分がこの人だったら」と可能な限り相手の立場に身を置いて考えることが必要です。(p27)
 本を読むのは,ちょうどグライダーが他の飛行機や車に引っ張られ,飛び立った後にロープを切り離して滑空するように,考える最初のきっかけとして必要なことはあります。しかし,いつまでもロープを切り離さないようでは駄目なのです。(p37)
 未来はまだきていないというより,ただ「ない」のです。(中略)私はこれからどんな人生を送るかを神が知るような形では何も決まっていないと考えていますし,何も決まっていないからこそ,この人生は面白いと考えています。(p63)
 自分が賛成し納得できることばかりが書いてある本を読んでいると,日常の生活においても異論に対して不寛容になります。(p68)
 読み始めて面白くなければ本を閉じる勇気を持たなければならないと思います。面白くないというのはその本がよくないほんだからというわけではなく,多くの場合,今の自分には必要ないからです。(p124)
 大学院を終えると,奈良女子大学でギリシア語を教えることになりました。四月にα,β,γから学び始める学生が秋には『ソクラテスの弁明』を読めるようになりました。(p160)
 外国語で読むということはゆっくりしか読めないものです。(中略)ゆっくり読まないと力はつきませんし,著者が時間をかけて書いたものを速く読んでもあまり意味がないように思います。(p160)
 私の場合は絶えず複数の本を読んでいます。多い時には同時に十冊ぐらいは読んでいます。(p172)
 家にいると意外に本を読むことはできません。なぜ通勤や通学の時には本が読めるかというと,本を読むこと以外のことはできないからです。(p184)
 批判以前にこの本で著者が何をいいたいのかを理解するのが先決です。そのために,私は「まえがき」と「あとがき」を丁寧に読むようにしています。(p195)
 トロイアの遺跡を発掘したハインリヒ・シュリーマンは,多くの言語を習得しました。彼の学習法は声に出して読むことで,そのために近所の人から苦情が出て何度も引っ越しをいなければなりませんでした。(p206)
 語学には終わりはありませんが,これだけのことができたらある言語を学んだという最低限の目安は,辞書を引けば本を読めるということです。辞書を引けるためには,文法を知っていなければなりません。(中略)後は,たくさん読んでいくしかありません。(p209)
 一人で外国語を勉強するとどこまで覚えなければならないかわからず,細かいところまですべて覚えようとして途中で挫折することがあります。(中略)独学では何を覚えるべきか,覚えなくてもいいかという判断をすることができないのですが,エクスプレスシリーズ(白水社)は初学者に必要なことが最小限に書いてあるので,それだけをまず覚えることができます。(p219)
 どんな言語を学ぶ時にも自分が読みたい本を選ぶと,やがて外国語を読んでいるというよりは,読書していると思えます。(p220)
 原書を読むおはフルカラーの世界を垣間見るようです。それに対して,翻訳はモノクロ写真のようです。(中略)翻訳で読んでこれを原語で読みたいと思う本があるなら,そのためにだけその本が書かれた言葉を学んでもいいくらいです。(p220)
 自分で考えられるようになるためには,読むよりも書くことが必要になってきます。(p238)
 最近は本を読みながら書いてあることや思いついたことを書き留める時,音声入力をすることがあります。私はキーボードを打つのはかなり速いのですが,音声入力はそれよりも速いです。原稿を書く時も音声入力をすることがあります。(中略)とにかく話してみると内容はともかくたちまちたくさん書くことができます。(中略)最近はかなり正確に変換するようになってきたので使わない手はありません。(p242)
 本を読むことで現実を超えることができました。これは現実から逃げるということではなく,本を読む時に感じる喜びの感情,生命感の高揚が現実を超える力になるということです。(p248)
 ゆっくり本を読めば,慌ただしく駆け抜けるように本を読む時には見えなかったものが見えるようになります。生きる時も,急がず,後どれだけ生きられるかというようなことを考えなくなると人生が違ったふうに見えてくるでしょう。生き方と直ちに変えることは容易なことではありませんが,本の読み方を変えることならできます。(p250)

2020年6月27日土曜日

2020.06.27 岸見一郎・古賀史健 『幸せになる勇気』

書名 幸せになる勇気
著者 岸見一郎
   古賀史健
発行所 ダイヤモンド社
発行年月日 2016.02.25
価格(税別) 1,500円

● 自立とは自己中心性からの脱却であり,自己中心性とは子供時代の生存戦略である“いかにすれば愛されるか”をベースにしたライフスタイルのこと。その自己中心性から脱却できるのは,愛する誰かができたとき。まず自分から愛せるようになること。
 そのあたりが本書の結論かと。一読すべし。

● 以下に多すぎる転載。
 親が子どもを尊敬し,上司が部下を尊敬する。役割として「教える側」に立っている人間が,「教えられる側」に立つ人間のことを敬う。尊敬なきところに良好な対人関係は生まれず,良好な関係なくして言葉を届けることはできません。(中略)なにかの条件を付けるのではなく,「ありのままのその人」を認める。これに勝る尊敬はありません。そしてもし,誰かから「ありのままの自分」を認められたなら,その人は大きな勇気を得るでしょう。尊敬とは,いわば「勇気づけ」の原点でもあるのです。(p41)
 その具体的な第一歩がどこにあるか,おわかりになりますか?(中略)じれはきわめて論理的な帰結です。「他者の関心事」に関心を寄せるのです。(中略)あなたの目から見て,どんなに低俗な遊びであろうと,まずはそれがどんなものなのか理解しようとする。(p51)
 まったく勉強しようとしない生徒がいる。ここで「なぜ勉強しないんだ」と問いただすのは,いっさいの尊敬を欠いた態度です。そうではなく,まずは「もしも自分が彼と同じ心を持ち,同じ人生を持っていたら」と考える。(中略)これこそが「共感」なのです。(p54)
 距離をおいて眺めているだけではいけない、自分が飛び込まなければならない。飛び込むことをしないあなたは,高いところに立って「それは無理だ」「これだけの壁がある」と批評しているだけです。そこに尊敬はなく,共感もありえません。(p55)
 「いまの自分」を積極的に肯定しようとするとき,その人の過去はどのようなトーンで彩られると思いますか?(中略)答えはひとつ。すなわち,自分の過去について「いろいろあったけど,これでよかったのだ」と総括するようになる。(p63)
 理想には程遠い「いまの自分」を正当化するために,自身の過去を灰色に塗りつぶしておられる。(中略)そして「もしも理想的な学校で,理想的な教師に出会っていたら,自分だってこんなふうじゃなかったのに」と,可能性のなかに生きようとしている。(p64)
 過去とは,取り戻すことのできないものではなく,純粋に「存在していない」のです。そこまで踏み込まない限り,目的論の本質には迫れません。(p65)
 歴史とは,時代の権力者によって改竄され続ける,巨大な物語です。(中略)個人も同じです。人間は誰もが「わたし」という物語の編纂者であり,その過去は「いまのわたし」の正統性を証明すべく,自由自在に書き換えられていくのです。(中略)過去が「いま」を決めるのではありません。あなたの「いま」が,過去を決めているのです。(p66)
 これは過去に縛られているのではありません。その不幸に彩られた過去を,自らが必要としているのです。あえて厳しい言い方をするなら,悲劇という安酒に酔い,不遇なる「いま」のつらさを忘れようとしているのです。(p69)
 カウンセリングにやってくる方々は,ほどんどがこのいずれかの話に終始します。自身に降りかかった不幸を涙ながらに訴える。あるいは,自分を責める他者,また自分を取り巻く社会への憎悪を語る。(中略)でも,われわれが語り合うべきことは,ここにはないのです。(中略)われわれが語り合うべきは,まさにこの一点,「これからどうするか」なのです。(p71)
 彼個人が心に肺炎を患っているのではあく,すでに学級全体が重篤な肺炎を患っていた。その一症状として,彼の問題行動が表れた。それがアドラー心理学の発想です。(p140)
 誰とも競争することなく,勝ちも負けも存在しない。他者とのあいだに知識や経験,また能力の違いがあってもかまわない。学業の成績,仕事の成果に関係なく,すべての人は対等であり,他者と協力することにこそ共同体をつくる意味がある。(p141)
 協力したかったのではありません。もっと切実に,単独では生きていけないほど弱かったのです。人間は,その「弱さ」ゆえに集団を形成し,社会を構築した。(p147)
 「わたし」の価値を,他者に決めてもらうこと。それは依存です。一方,「わたし」の価値を,自らが決定すること。これを「自立」と呼びます。(p152)
 「人と違うこと」に価値を置くのではなく,「わたしであること」に価値を置くのです。(中略)あなたの個性とは,相対的なものではなく,絶対的なものなのですから。(p153)
 他者を救うことによって,自らが救われようとする。みずからの一種の救世主に仕立てることによって,自らの価値を実感しようとする。これは劣等感を払拭できない人が,しばしばおちいる優越コンプレックスの一形態であり,一般に「メサイヤ・コンプレックス」と呼ばれています。(p162)
 すべての悩みが対人関係であるのなら,その他者との関係を断ち切ってしまえばいいのか? 他者を遠ざけ,自室に引きこもっていればいいのか? それは違います。まったく違います。なぜなら,人間の喜びもまた,対人関係から生まれるのです。「宇宙にひとり」で生きる人は,悩みがない代わりに喜びもない,扁平な一生を送ることになるでしょう。(p177)
 分業とは,人類がその身体的劣等性を克服するために獲得した,類い稀なる生存戦略なのだ。・・・・・・アドラーの最終的な結論です。(中略)むしろ,分業するために社会を形成したと言ってもかまわない。(p186)
 人間はひとりでは生きていけないのです。孤独に耐えられないとか,話し相手がほしいとかいう以前に,生存のレベルで生きていけない。そして他者と「分業する」ためには,その人のことを信じなければならない。疑っている相手とは,協力することができない。(p188)
 ここで大切なのは「誰ひとりとして自分を犠牲にしていない」ということです。つまり,純粋な利己心の組み合わせが,分業を成立させている。(中略)分業社会においては,「利己」を極めると,結果としての「利他」につながっていく。(p191)
 分業という観点に立って考えるなら,職業に貴賤はないのです。(中略)すべての仕事は「共同体の誰かがやらねばならないこと」であり,われわれはそれを分担しているだけなのです。(中略)人間の価値は,「どんな仕事に従事するか」によって決まるのではない。その仕事に「どのような態度で取り組むか」によって決まる(p192)
 分業をはじめてからの人物評価,また関係のあり方については,能力だけで判断されるものではない。むしろ「この人と一緒に働きたいか?」が大切になってくる。(p193)
 われわれの共同体は,「ありとあらゆる仕事」がそこに揃い,それぞれの仕事に従事する人がいることが大切なのです。その多様性こそが,豊かさなのです。(p193)
 なにより危険なのは,なにかが善で,なにかが悪であると,中途半端な「正義」を掲げることです。正義に酔いしれた人は,自分以外の価値観を認めることができず,果てには「正義の介入」へと踏み出します。そうした介入の先に待っているのは,自由の奪われた,画一的な社会でしょう。(p194)
 わたしは,「わたし」を信じてほしいと思っている。(中略)ゆえにわたしは,先にあなたのことを信じるのです。たとえあなたが信じようとしなくても。(中略)われわれは「自分のことを信じてくれる人」の言葉しか信じようとしません。「意見の正しさ」で相手を判断するのではないのです。(p206)
 (ルカによる福音書では)ただ隣人を愛するだけではなく,自分自身を愛するのと同じように愛せよ,と言っているのです。自分を愛することができなければ,他者を愛することもできない。自分を信じることができなければ,他者を信じることもできない。そこまで含んだ言葉だと考えてください。(p209)
 仕事によって認められるのは,あなたの「機能」であって,「あなた」ではない。より優れた「機能」の持ち主が現れれば,周囲はそちらになびいていきます。(中略)他者に「信頼」を寄せて,交友の関係に踏み出すこと。それしかありません。われわれは仕事に身を捧げるだけでは幸福を得られないのです。(中略)「わかりえぬ存在」としての他者を信じること。それが信頼です。(p210)
 変わるかもしれないし,変わらないかもしれない。でも,結果がどうなるかなど,いま考えることではない。あなたにできることは,いちばん身近な人々に信頼を寄せること,それだけです。(p216)
 他者に無条件の信頼を寄せること。尊敬を寄せていくこと。これは「与える」行為です。(中略)そしていま,あなたはなにも与えようとせず,「与えてもらうこと」ばかりを求めている。さながら物乞いのように。金銭的に困窮しているのではなく,心が困窮しているのです。(中略)与えるからこそ,与えられる。「与えてもらうこと」を待っていてはならない。心の物乞いになってはならない。(p218)
 われわれはみな,「わたしは誰かの役に立っている」と思えたときにだけ,みずからの価値を実感することができる(中略)。しかし一方,われわれは自分のおこないがほんとうに役立っているのかについて,知る術を持ってません。(中略)そこで浮かび上がるのが,貢献感という言葉です。「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚があれば,それでいい。それ以上の根拠を求める必要はない。貢献感の中に,幸せを見出そう。(p237)
 この世に生を享けた当初,われわれは「世界の中心」に君臨しています。周囲の誰もが「わたし」を気にかけ,昼夜を問わずあやし,食事を与え,排泄の世話さえしてくれます。(中略)この独裁者にも似た圧倒的な力。その力の源泉はどこにあるのか? アドラーはそれを「弱さ」だと断言します。(中略)「弱さ」とは,対人関係において恐ろしく強力な武器になる。(p241)
 彼ら(新生児)は甘えやわがままで泣いているのではない。生きるためには,「世界の中心」に君臨せざるをえないのです。(p243)
 自立とは,「自己中心性」からの脱却なのです。(中略)「世界の中心」であることをやめなければならない。甘やかされた子ども時代のライフスタイルから,脱却しなければならないのです。(中略)そして愛は,「わたし」だった人生の主語を,「わたしたち」に変えます。われわれは愛によって「わたし」から解放され,自立を果たし,ほんとうの意味で世界を受け入れるのです。(p244)
 われわれが自らのライフスタイルを選択するとき,その目標は「いかにすれば愛されるか」にならざるをえないのです。われわれはみな,命に直結した生存戦略として「愛されるためのライフスタイル」を選択するのです。(p248)
 与えられる愛の支配から抜け出すには,自らの愛を持つ以外にありません。愛すること。愛されるのを待つのではなく,運命を待つのでもなく,自らの意思で誰かを愛すること。それしかないのです。(p256)
 あなたはまだ,自分のことを愛せていない。自分のことが尊敬できていないし,信頼できていない。だから愛の関係においても「傷つくに違いない」「みじめな思いをするに違いない」と決めつけてしまう。(中略)だから誰とも愛の関係をきずくことができない。担保のない愛には踏み出せない。・・・・・・これは典型的な劣等コンプレックスの発想です。自らの劣等感を,課題を解決しない言い訳に使っているのですから。(p259)
 あなたのように「出会いがない」と嘆く人も,じつは毎日のように誰かと出会っているのです。(中略)しかし,そのささやかな「出会い」を,なにかしらの関係に発展させるには,一定の勇気が必要です。(中略)そこで「関係」に踏み出す勇気をくじかれた人は,どうするか? 「運命の人」という幻想にすがりつくのです。(中略)過大な,ありもしない理想を持ち出すことによって,生きた人間と関わり合いになることを回避する。それが「出会いがない」と嘆く人の正体だと考えてください。(p263)
 結婚とは,「対象」を選ぶことではありません。自らの生き方を選ぶことです。(中略)もちろん,誰かとの出会いに「運命」を感じ,その直感に従って結婚を決意した,という人は多いでしょう。しかしそれは,あらかじめ定められた運命だったのではなく,「運命だと信じること」を決意しただけなのです。(p265)
 パートナーと一緒に歩んできた長い年月を振り返ったとき,そこに「運命的ななにか」を感じることはあるでしょう。その場合の運命とは,あらかじめ定められていたものではない。偶然に降ってきたものでもない。ふたりの努力で築き上げてきたものであるはずです。(p266)
 あなたの願いは「幸せになりたい」ではなく,もっと安直な「楽になりたい」だったのではありませんか? (中略)あなたは,愛する者が背負うべき責任を回避していた。恋愛の果実だけをむさぼり,花に水をやることも,種を植えることもしなかった。(中略)あなたはわずかな勇気しか持っていなかった。だから,わずかに愛することしかできなかった。(p270)
 しばしば人は,「最初の一歩」が大切だと言います。そこさえ乗り越えれば大丈夫だと。もちろん最大のターニングポイントは,「最初の一歩」でしょう。しかし,実際の人生は,なんでもない日々という試練は,「最初の一歩」を踏み出したあとからはじまります。ほんとうに試されるのは,歩み続けることの勇気なのです。(p275)
 われわれに与えられた時間は有限なものです。そして時間が有限である以上,すべての対人関係は「別れ」を前提に成り立っています。(中略)現実としてわれわれは,別れるために出会うのです。(p277)
 ある人から「人間が変わるのに,タイムリミットはあるか?」と質問を受けたアドラーは,「たしかにタイムリミットはある」と答えました。そしていたずらっぽく微笑んで,こう付け加えたのです。「寿命を迎える,その前日までだ」。(p278)

2018年11月22日木曜日

2018.11.22 岸見一郎 『三木清『人生論ノート』を読む』

書名 三木清『人生論ノート』を読む
著者 岸見一郎
発行所 白澤社
発行年月日 2016.06.30
価格(税別) 1,800円

● 所々,難解。『人生論ノート』も高1のときの担任の先生が熱烈推薦してた。
 当時読んでも???だったと思うのだが,高校の現代文の教科書には,今思うと,かなり高度な文章が並んでいたな。柳田國男『清光館哀史』とか。
 自分の読書歴の質的ピークは高校の教科書だったかもしれない。

● 以下に転載。
 親しい人が鬼籍に入ると死というものは怖いものではなくなる,そういう気持ちになるというのは事実あることです。(p31)
 我々は我々の愛する者に対して,自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであろうか。(三木 p58)
 愛するもののために死んだ故に彼等は幸福であったのでなく,反対に,彼等は幸福であったが故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。(三木 p60)
 子どもの進学に自分を賭けているという母親は多いようです。しかし,子どもとはいえ,他人です。他人に自分を賭けてどうするのでしょうか。結局,わが子が有名な学校に進学したことを誇りたいということであれば,それは三木のいうとおり「有閑の婦人の虚栄心」だということになるでしょう。(p78)
 自分の考えがあっても,人に合わせてしまう人が多くいます。ある状況でどうするかを自分では決められないので,そこで,他の人の出方を見て追随する。その人たちはその場の,あるいは社会の,時代の空気を読んで行動しているつもりでしょうが,これはまさに三木のいう「虚栄心から模倣し,流行に見を委せる」ことになってしまいます。(p94)
 私が,私が,といっている自分本位の人は,実は個人ではないのです。アドラーの考え方では,関心が自分の方にではなく外に向いていないといけないのです。(p96)
 怒りは人と人を引き離す感情です。(中略)これは子育ての場面で大人がよくおかしてしまう間違いで,叱ることで関係を遠くしておいてから子どもを支援しようとしてもほとんど不可能です。(p128)
 怒りを始めとする感情的な手段に訴えなくても,それについて言葉で説明すればよいのです。そうしないのは,感情は人を支配し,言葉の力が及ばないと考えているからであり,自分が感情に支配されると考える人は,他の人も感情によって支配いうると考えているからです。(p131)
 生理学のない倫理学は,肉体をもたぬ人間と同様,抽象的である。その生理学は一つの技術として体操でなければならない。体操は身体の運動に対する正しい判断の支配であり,それによって精神の無秩序も整えられることができる。(三木 p137)
 すべて小さいことによって生ずるものは小さいことによって生じないようにすることができる。しかし極めて小さいことによってにせよ一旦生じたものは極めて大きな禍を惹き起こすことが可能である。(三木 p138)
 誠実ということを私なりに説明するなら,自分をその状況に参与させること,となるでしょう。混沌から秩序が形成されていくのを離れたところからながめているのではなくて,自らも混沌に秩序をもたらそうと努力することです。(p151)
 孤独は山になく,街にある。一人の人間にあるのでなく,大勢の人間の「間」にあるのである。(三木 p167)
 誰かとお付き合いを始めた時に,相手がどれほど熱烈な愛情を捧げても,ほんとうは愛されていないのではないかと不安に感じるということがあります。相手の愛の言葉を無条件に信頼することができない。それは自分に自信がないからです。(中略)個性的な人とは,自分で自分の価値を見出だせる人です。自分のよさ,価値について,他の誰かからそれを認めてもらう必要がない。(p189)
 過去を思い出している現在がある。現在の関心に照らして思い出されている過去は,過去そのもの,絶対的な過去ではない。今の自分にとって必要な過去,現在の自分にとって都合よく意味づけられた過去でしかない。いま,世間でいわれている「伝統」とはそういうものでしょう。(p204)
 カウンセリングに来られる人たちが過去を持ち出す理由は,現在の自分の正当化です。今の私がこんなにたいへんな思いをしているのは過去のあれやこれやの出来事があったからなんだというのですが,それにこだわっていても問題が解決しない。(p206)

2018年11月18日日曜日

2018.11.18 岸見一郎 『プラトン ソクラテスの弁明』

書名 プラトン ソクラテスの弁明
著者 岸見一郎
発行所 角川選書
発行年月日 2018.08.27
価格(税別) 1,500円

● 高1のときの担任の先生が『弁明』を読めと熱心に勧めていた(数学の先生だった)。で,岩波文庫を買ったんだけど,読まないまま老境に至り,やっと岸見一郎さんの訳と解説で読むことができた。
 ソクラテスが語っているのは,無知の知と,自分の付属物(財産,地位)を自分より優先することの怯懦。

● 70歳で死刑が決まったとき,ソクラテスには3人の子どもがいた。うち2人は幼児。ということは,ソクラテスは精力絶倫の人であったかと思われる。
 彼の哲学を考えるときには,こういうフィジカルな部分を等閑に付すべきではないと思う。

● 以下にいくつか転載。
 ソクラテスは自分が語ることが正しいか,そうではないか,そのことだけに注意を向け,よく考えることを要求しています。ソクラテスにとって重要なことは,話に説得力があるかどうかではなく,「真実」が語られているかどうかです。(p32)
 結論ありきで始まる討論は,そこに至る議論がどれほど論理的でも,議論の全体は結論を導き出すためのものでしかなく,まさに論じるべきことにはいささかも手をつけられていないのです。(中略)結論の正当性が揺らぐとそこに至る議論も瓦解することになります。(p49)
 ソクラテスは「知を愛し求める人」であって,「知者」ではないのです。(p75)
 長く話すソフィストのプロタゴラスとは違って,ソクラテスは問答による対話をしたのです。(中略)この方法で対話を進めていけば,互いに相容れない立場であっても相違点は実際にはあまり多くはなく,多くの点では考えが一致していることがわかってきます。(中略)他の人と話す時だけでなく,思考する時も,心の中で語り手が同時に聞き手として対話をするのです。(p90)
 死を恐れるということは,諸君,知恵がないのにあると思っていることだからだ。つまり,知らないことを知っていると思うことである。なぜなら,誰も死を知らないからだ。死はひょっとしたら人間にとってすべての善きものの中で最大のものかもしれないのだ。それなのに,悪いものの中で最大のものであると知っているように恐れているのだ。とはいえ,どう見ても,これがかのもっとも不面目な無知でないことがあろうか。(ソクラテス p112)
 ここでいわれる「善」は「ためになる」「有益なもの」という意味です。「悪」は,その反対で,「ためにならない」「無益なもの」という意味です。(p119)
 裁判を膨張していたプラトンは,ソクラテスが死刑判決を受けるのを見て,アテナイの民主制に対していよいよ批判的になっていったでしょう。(p171)
 やがて大学院を終え,渡しは奈良女子大学でギリシア語の講義をすることになりました。四月にα,β,γから学び始める学生が秋には『ソクラテスの弁明』を読めるようになりました。受講生は毎年,二,三人しかいませんでしたが,古典の購読に毎回膨大な時間をかけて臨む学生を誇りに思っていました。(p206)

2018年10月4日木曜日

2018.10.04 岸見一郎 『老いる勇気』

書名 老いる勇気
著者 岸見一郎
発行所 PHP
発行年月日 2018.03.3028
価格(税別) 1,400円

● アドラーによれば,悩みのすべては人間関係から発生する。が,幸せも人間関係の中にしかないと著者は言う。生産性だけが価値ではない。それを踏まえたうえで,共同体への貢献が幸福感を生む。
 三木清『人生論ノート』からの引用がめだつ。高校生の頃,推奨されていたものだが,読まないまま今に至る。

● 以下に多すぎる転載。
 新しいことを学ぶということ自体は,胸踊る楽しい経験です。辛いこともありますが,これまでの蓄積をリセットすることなく,若い頃に戻ることができ,若さを“疑似体験”できます。これは誰にでもできます。必要なのは,特別な才能や適性ではなく,ほんの少しのチャレンジ精神です。(中略)アルフレッド・アドラーの言葉を使うならば,「不完全である勇気」です。(p16)
 私は若い頃,学生オーケストラでホルンを演奏していました。今,もし演奏するチャンスがあれば,技術的にはあの頃に及ばないとしても,少し練習をすれば,若い頃よりもはるかに質の高い演奏ができるのではないかと思います。その後,楽器を手にすることはなくとも,音楽は聴き続けてきましたし,音楽に対する理解度が,若い頃とは違います。(p21)
 日本には枯淡の境地を美徳とする文化的土壌もありますが,意欲を枯らしてはいけないと思います。(中略)人間はいくつになっても進化できます。ただし,注意しなければいけないことが,一つあります。どこに向かって進化するかということです。(中略)そこに他者との競争や勝ち負けを持ち込む必要はありません。勝ち負けや他者からの評価を気にして汲々とするのではなく,昨日できなかったことが今日はできた,という実感を持つことが大切です。(p25)
 「やってみてはどうですか?」と提案しても,「はい,でも」という答えが返ってくることがあります。これはするかしないかで迷っているのではなく,「しない」と宣言しているのです。この「でも」の壁を越えなければ,前に進むことはできません。(p32)
 仕事の場面では,確かに生産性も重要ですが,人の価値を生産性に置いてはいけないと思います。(中略)「働かざる者食うべからず」ではなく,働ける人が,働ける時に働く。何もできなくても,それを「申し訳ない」と思う必要はありません。(p34)
 貢献していると感じられるということは,意識が他者にも向けられるようになったということです。これは恢復の一歩です。(p46)
 先々のこと,残された時間を考えることからは,何も生まれません。(中略)なぜ,先々のことをそんなに案じるのでしょうか。それは,時間や人生を一本の直線としてとらえているからです。(中略)しかし,たとえどこかに到達しなかったとしても,そのプロセスの一瞬一瞬が完全であり,完成されたものであると考えることもできます。この場合,時間や人生の長さは問題になりません。(p59)
 先々のことを案じるのは,「今,ここ」をなおざりにしている,ということでもあります。「今,ここ」を大事に生きていないから,先々のことが気になるのです。(p61)
 人間は,いつまでも若くあれるのか。この問いに対し,フランスの哲学者ジャン・ギトンは,「自分の前に永遠があると考える限り」と答えました。(中略)永遠を信じるとは,自分には無限の時間がある,と考えることです。人間の生は,決して無限ではありません。しかし,余命に関係なく,「今,ここ」で自分にできること,しなければならないことだけを考えて生きれば,いつまでも若々しい心で,悠々と生きることができます。(p63)
 死に方や死に際に,ことさら注目すること自体にも疑問を感じます。その人の人生が短くても,自ら命を断ったとしても,そこにばかり焦点を当てて,その人の生涯を見たり語ったりしてはいけないと思います。(p79)
 プラトンは,「死を恐れるということは,知らないことを知っていると思うことだ」というソクラテスの言葉を伝えています。(p80)
 健康によいといわれれば,親に勧めたくなります。しかし,それをするかどうかは,親が決めることです。(中略)押し付けるのは,相手を変えようとする言動,態度です。押し付けられたと感じた親は,子どもの提案に従えば負けたことになります。(p87)
 人間は,ともすると物事の“闇”のほうにばかり目を向けがちです。(中略)ネガティブな側面に心を奪われてしまうと,眼前にある物事のよい面に気づけなくなります。(p93)
 老いた親が何度も同じ話をすると嘆く人がいます。しかし,同じ話をする人はいません。「またか」と思って聞けば,同じ話にしか聞こえません。話のあらすじは同じであっても,よく聞くと細部は毎回,微妙に異なっているものです。その微妙な違いは,その人の「今」を反映していますから,親の心情や関心事を知る重要な手がかりになります。そうした違いに注目して話に耳を傾け,微妙なサインを見逃さない--それが「話を聞く」ということです。(p94)
 本人に危害が及ばないのであれば,現実の世界に引き戻そうとするのではなく,親が生きている世界に,こちらから入ってみてはどうでしょう。(中略)妄想を訴える人は,話を否定されればされるほど症状が深刻化します。(p98)
 本人が思い出したくないから,あるいは忘れる必要があって忘れているのだとしたら,忘れていることをあえて指摘したり,無理やり思い出させようとしたり,記憶を正したりしてはいけないと思います。(p99)
 もしも親が,子どもである自分のことを忘れてしまったとしたら,初めて出会った人とのように,新鮮な気持ちで,親と新たによい関係を築く努力をすればいいのです。(中略)直近のことすら思い出せない親を見ると切なくなりますが,「今,ここ」を生きる親は,人間として理想の生き方をしているともいえます。もうろくという濾過器を通して大事なことは覚えているとしたら,家族にできる最善のことは,覚えていることを大切にし,その意味を汲みとる努力をすることです。(p105)
 過去だけでなく,未来を手放す決心も必要だと思います。先々のことばかり案じていると,今が疎かになります。日々,新たな人生を始められるのですから,明日の課題は明日考えればいいのです。(p106)
 介護をするなら,生産性から離れ,成果や見返りを求めることをやめなければなりません。介護も子育ても,見返りを求めると辛いものになります。介護することで貢献感を持てたとしたら,それでよしとすべきです。(p108)
 親の幸・不幸は,子どもに伝染します。子どもの幸せを願うのであれば,親がまず幸せでなければなりません。(p116)
 人間が不幸そうに振る舞うことには,目的があります。周囲や世間の同情を引くためです。しかし,そうした振る舞いは,子どもを敵に回すことになります。「一所懸命育てているのに,あの子が学校に行かないから,私はこんなに不幸なのだ」ということを世間に知らしめる親の行為が,子どもにとって嬉しいはずがありません。(p116)
 一足先に介護を受ける立場に置かれた人には,介護を受けている自分を卑下したり,申し訳ないと小さくなったりせずに,被介護者のよきモデルになってほしいと思います。赤ん坊が親から面倒をみてもらうことを恥ずかしがったりしないように,与えられるものを堂々と受け取っていいのです。介護をされていても,「楽しそう」「介護を受けるのも悪くはないかもしれない」と周囲が思えるような人生を送れば,それも一つの他者貢献です。(p123)
 相手がどんなボールを投げてきたとしても,「それはおかしい」ではなく,「そうなんだ」と受けとめ,たとえ賛成できなくても,理解することから始めなければなりません。(p128)
 何事も,取り組まないことには始まりません。できない可能性もあるけれど,その場合も「できない」という現実から始めるしかないのです。いつまでも「やればできる」「そのうちやる」という可能性の中に生きていては,道を拓くことはできません。(p137)
 「近所付き合いなんて面倒なだけ。何の益もない」と嘯くのも,対人関係に入っていく勇気がない証左です。アドラーは,「あらゆる悩みは対人関係の悩みだ」といっていますが,生きる喜びや幸福は,対人関係の中でしか得ることはできません。(中略)そのような対人関係に入っていくためにも,何より「自分に価値がある」と思えることが肝心です。(中略)ありのままの自分に価値を認め,「今,ここ」にある自分を好きになる--そのためには,価値についての考え方を転換する必要があります。生産性に価値がないわけではありません。生産性にのみ価値があるわけではないということです。(p138)
 いかに才能があっても,それを対人関係の中で他者の役に立てなければ,生きる喜びは得られない--つまり,真の幸福とは「他者貢献」だということです。(p146)
 定年後に自分の価値を肯定できずにいるのは,自分の行動が共同体にとって有益だという確信が持てないから,あるいは共同体にとって有益であることを志していないから,ではないでしょうか。感謝されることを目的とし,それを成果として行動する人は,自分にしか目が向いていません。(p146)
 アリストテレスは,「哲学は驚きから始まる」といっています。「なぜだろう」と考えるのが哲学の出発点です。対人関係も同じです。(p149)
 アドラーは「他者を愛することによってのみ,自己中心性から解放される」といっています。他者を愛することによって,初めて「共同体感覚」に辿り着くことができるということです。共同体感覚とは,「私」を主語として物事や人生を考えないということです。(p151)
 だからといって人間が幸福について,まったく何も知らないかというと,そうではありません。知らないものを,知ろうとするはずはないからです。(p157)
 異論や反論があっても考え続けることは,容易なことではありません。声高に叫ばれる安易な世界観やフェイクニュースを鵜呑みにして,排他的な態度をとるのは,それが楽だからです。自分で考えることをしなくて済むので楽なのです。物事を深く考えることなく問題を解決しようとすれば,いきおい「力」に頼ることになります。(p165)
 相手がどのような態度で対話に臨んだとしても,変わらず丁寧に対応することも大切です。相手が怒鳴っても普通に接し,泣き出したとしても動じない。泣くことも,怒鳴るのと同じ示威行動の一つです。(p166)
 どういう時に人は「ちゃんと話を聞いてもらえた」と感じるかというと,一つは,話を途中で遮られないとわかった時です。(中略)もう一つは,この人は決して批判しないとわかった時です。(p167)
 嫌われることを恐れないということのほかに,もう一つ大切なことがあります。それは,影響を及ぼそうとしないということです。(p169)
 そもそも人は人を育てることはできません。できるのは,子どもや孫が育つのを援助すること,子どもが育つ環境を整えることです。(p170)
 歳老いてこそ様々なことを学んでいかなければならないし,本を読んで考えることをし続けなければ,人間としての成長は望めません。(p173)
 なぜ若い人が年長者の話を聞かないかというと,年長者がわかったふうないい方をするからです。(中略)いかに齢を重ねても,わからないことはわからないと率直に認める勇気を持たなければなりません。(p173)
 生き方は,人それぞれ違います。先達の意に沿う必要はありません。さらにいえば,先達よりも,理想主義に燃える若い人のほうが,人生の正しい姿が見えているといえます。(p175)
 後進の力になることは,年長者に課された仕事の一つです。(中略)仕事でも,研究活動や教育の現場においても,後輩や学生が自分を超えられなかったとしたら,その取り組みは失敗だったといっても過言ではありません。(p175)
 古代ギリシア人にとっては,生まれてこないことが何にもまさる幸福であり,次に幸福なのは,生まれてきたからには,できるだけ早く死ぬことでした。(p186)
 三木清は成功は過程であり,幸福は存在であるといっています。幸福は成功と違って何かを達成しなければならないわけではありません。幸福が存在であるというのは,人は幸福に「なる」のではなく,幸福で「ある」ということです。(中略)人は生きている限り幸福ではないのではなく,今ここで幸福なのです。このことはまた人間の価値は「ある」ことにあって,何かを達成することにはないということです。(p186)

2017年7月12日水曜日

2017.07.12 岸見一郎・古賀史健 『嫌われる勇気』

書名 嫌われる勇気
著者 岸見一郎・古賀史健
発行所 ダイヤモンド社
発行年月日 2013.12.12
価格(税別) 1,500円

● 今でも本屋に行くと平積みになっていたりする。ベストセラーになったものだ(と思う)が,まだまだ売れているようだ。

● アドラー心理学のわかりやすい解説書という理解でいいんだろうか。アドラーの説くところの肝は,因果論ではなくて目的論であるところにあると割り切っていいだろうか。
 さらに,アドラーが言っていることをひと言でまとめてしまえば,「人は人,自分は自分」ということになるんだろうか。

● 以下にいくつか(というには多すぎるけど)転載。
 われわれは「どう見ているか」という主観がすべてであり,自分の主観から逃れることはできません。いま,あなたの目には世界が複雑怪奇な混沌として映っている。しかし,あなた自身が変われば,世界はシンプルな姿を取り戻します。問題は世界がどうであるかではなく,あなたがどうであるか,なのです。(p6)
 ご友人は「不安だから,外に出られない」のではありません。順番は逆で「外に出たくないから,不安という感情をつくり出している」と考えるのです。(p27)
 彼(アドラー)は言います。「大切なのはなにが与えられているかではなく,与えられたものをどう使うかである」と。あなたがYさんなり,他の誰かになりたがっているのは,ひとえに「何が与えられているか」にばかり注目しているからです。そうではなく,「与えられたものをどう使うか」に注目するのです。(p44)
 あなたが変われないでいるのは,自らに対して「変わらない」という決心を下しているからなのです。(p51)
 われわれは孤独を感じるのにも,他者を必要とします。すなわち人は,社会的な文脈においてのみ,「個人」になるのです。(p70)
 個人だけで完結する悩み,いわゆる内面の悩みなどというものは存在しません。どんな種類の悩みであれ,そこにはかならず他者の影が介在しています。(p72)
 自らの不幸を「特別」であるための武器として使っているかぎり,その人は永遠に不幸を必要とすることになります。(p90)
 覚えておいてください。対人関係の軸に「競争」があると,人は対人関係の悩みから逃れられず,不幸から逃れることはできません。競争の先には,勝者と敗者がいるからです。(中略)いつの間にか,他者全般のことを,ひいては世界のことを「敵」だと見なすようになるのです。(p95)
 怒りっぽい人は,気が短いのではなく,怒り以外の有用なコミュニケーションツールがあることを知らないのです。(p106)
 いくら自分が正しいと思えた場合であっても,それを理由に相手を非難しないようにしましょう。(中略)人は,対人関係のなかで「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間,すでに権力争いに足を踏み入れているのです。(中略)そもそも主張の正しさは,勝ち負けとは関係ありません。あなたが正しいと思うのなら,他の人がどんな意見であれ,そこで完結するべき話です。(p107)
 人はその気になれば,相手の欠点や短所などいくらでも見つけ出すことができる,きわめて身勝手な生き物なのです。(p120)
 他者から承認される必要などありません。むしろ,承認を求めてはいけない。(中略)われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです。(中略)他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」のです。(p132)
 われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から,自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。(中略)他者の課題には踏み込まない。(p140)
 他者の期待を満たすように生きることは,楽なものでしょう。自分の人生を,他人任せにしているのですから。(p157)
 不幸の源泉は対人関係にある。逆にいうとそれは,幸福の源泉もまた対人関係にある,という話でもあります。(p181)
 あなたは他者によく思われたいからかそ,他者の視線を気にしている。それは他者への関心ではなく,自己への執着に他なりません。(p183)
 「わたし」は,世界の中心に君臨しているのではない。「わたし」は人生の主人公でありながら,あくまでも共同体の一員であり,全体の一部なのです。(p185)
 もしもあなたが異を唱えることによって崩れてしまう程度の関係なら,そんな関係など最初から結ぶ必要などない。(中略)目の前の小さな共同体に固執することはありません。もっとほかの「わたしとあなた」,もっとほかの「みんな」,もっと大きな共同体は,かならず存在します。(p194)
 対人関係を縦でとらえ,相手を自分より低く見ているからこそ,介入してしまう。(p200)
 いちばん大切なのは,他者を「評価」しない,ということです。評価の言葉とは,縦の関係から出てくる言葉です。(p204)
 他者から「よい」と評価されるのではなく,自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えること。そこではじめて,われわれは自らの価値を実感することができるのです。(p206)
 人間は自らのライフスタイルを臨機応変に使い分けられるほど器用な存在ではありません。(中略)もしもあなたが誰かひとりとでも縦の関係を築いているとしたら,あなたは自分でも気づかないうちに,あらゆる対人関係を「縦」でとらえているのです。(p214)
 他者のことを敵だと思っている人は,自己受容もできていないし,他者信頼も不十分なのです。(p237)
 他者貢献とは,「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく,むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそ,なされるものなのです。(p238)
 人生の調和を欠いた人は,嫌いな1人だけを見て「世界」を判断してしまいます。(p246)
 普通を拒絶するあなたは,おそらく「普通であること」を「無能であること」と同義でとらえているのでしょう。普通であることは,無能なのではありません。わざわざ自らの優越性を誇示する必要などないのです。(p261)
 線としてとらえるのではなく,人生は点の連続なのだと考えてください。(中略)人生とは連続する刹那なのです。(中略)われわれは「いま,ここ」にしか生きることがきない。われわれの生とは,刹那のなかにしか存在しないのです。(中略)計画的な人生など,それが必要か不必要かという以前に,不可能なのです。(p264)
 たとえばあなたがエジプトに旅をする。このときあなたは,なるべく効率的に,なるべく早くクフ王のピラミッドに到着し,そのまま最短距離で帰ってこようとしますか? そんなものは旅とは呼べません。家から一歩出た瞬間、それはすでに「旅」であり,目的地に向かう道中もすべての瞬間が「旅」であるはずです。もちろん,なんらかの事情でピラミッドにたどり着けなかったとしても,「旅」をしなかったことにはならない。(p268)
 われわれはもっと「いま,ここ」だけを真剣に生きるべきなのです。過去が見えるような気がしたり,未来が予測できるような気がしてしまうのは,あなたが「いま,ここ」を真剣に生きておらず,うすらぼんやりした光のなかに生きている証です。(中略)過去にどんなことがあったかなど,あなたの「いま,ここ」にはなんの関係もないし,未来がどうであるかなど「いま,ここ」で考える問題ではない。(p271)
 深刻になってはいけません。真剣であることと,深刻であることを取り違えないでください。(p274)
 人生はつねに完結しているのです。(中略)20歳で終わった生も,90歳で終えた生も,いずれも完結した生であり,幸福なる生なのです。(p275)
 それは「ひとりの力は大きい」,いや「わたしの力は計り知れないほどに大きい」ということです。つまり,「わたし」が変われば「世界」が変わってしまう。世界とは,他の誰かが変えてくれるものではなく,ただ「わたし」によってしか変わりえない,ということです。(p281)