2018年10月4日木曜日

2018.10.04 岸見一郎 『老いる勇気』

書名 老いる勇気
著者 岸見一郎
発行所 PHP
発行年月日 2018.03.3028
価格(税別) 1,400円

● アドラーによれば,悩みのすべては人間関係から発生する。が,幸せも人間関係の中にしかないと著者は言う。生産性だけが価値ではない。それを踏まえたうえで,共同体への貢献が幸福感を生む。
 三木清『人生論ノート』からの引用がめだつ。高校生の頃,推奨されていたものだが,読まないまま今に至る。

● 以下に多すぎる転載。
 新しいことを学ぶということ自体は,胸踊る楽しい経験です。辛いこともありますが,これまでの蓄積をリセットすることなく,若い頃に戻ることができ,若さを“疑似体験”できます。これは誰にでもできます。必要なのは,特別な才能や適性ではなく,ほんの少しのチャレンジ精神です。(中略)アルフレッド・アドラーの言葉を使うならば,「不完全である勇気」です。(p16)
 私は若い頃,学生オーケストラでホルンを演奏していました。今,もし演奏するチャンスがあれば,技術的にはあの頃に及ばないとしても,少し練習をすれば,若い頃よりもはるかに質の高い演奏ができるのではないかと思います。その後,楽器を手にすることはなくとも,音楽は聴き続けてきましたし,音楽に対する理解度が,若い頃とは違います。(p21)
 日本には枯淡の境地を美徳とする文化的土壌もありますが,意欲を枯らしてはいけないと思います。(中略)人間はいくつになっても進化できます。ただし,注意しなければいけないことが,一つあります。どこに向かって進化するかということです。(中略)そこに他者との競争や勝ち負けを持ち込む必要はありません。勝ち負けや他者からの評価を気にして汲々とするのではなく,昨日できなかったことが今日はできた,という実感を持つことが大切です。(p25)
 「やってみてはどうですか?」と提案しても,「はい,でも」という答えが返ってくることがあります。これはするかしないかで迷っているのではなく,「しない」と宣言しているのです。この「でも」の壁を越えなければ,前に進むことはできません。(p32)
 仕事の場面では,確かに生産性も重要ですが,人の価値を生産性に置いてはいけないと思います。(中略)「働かざる者食うべからず」ではなく,働ける人が,働ける時に働く。何もできなくても,それを「申し訳ない」と思う必要はありません。(p34)
 貢献していると感じられるということは,意識が他者にも向けられるようになったということです。これは恢復の一歩です。(p46)
 先々のこと,残された時間を考えることからは,何も生まれません。(中略)なぜ,先々のことをそんなに案じるのでしょうか。それは,時間や人生を一本の直線としてとらえているからです。(中略)しかし,たとえどこかに到達しなかったとしても,そのプロセスの一瞬一瞬が完全であり,完成されたものであると考えることもできます。この場合,時間や人生の長さは問題になりません。(p59)
 先々のことを案じるのは,「今,ここ」をなおざりにしている,ということでもあります。「今,ここ」を大事に生きていないから,先々のことが気になるのです。(p61)
 人間は,いつまでも若くあれるのか。この問いに対し,フランスの哲学者ジャン・ギトンは,「自分の前に永遠があると考える限り」と答えました。(中略)永遠を信じるとは,自分には無限の時間がある,と考えることです。人間の生は,決して無限ではありません。しかし,余命に関係なく,「今,ここ」で自分にできること,しなければならないことだけを考えて生きれば,いつまでも若々しい心で,悠々と生きることができます。(p63)
 死に方や死に際に,ことさら注目すること自体にも疑問を感じます。その人の人生が短くても,自ら命を断ったとしても,そこにばかり焦点を当てて,その人の生涯を見たり語ったりしてはいけないと思います。(p79)
 プラトンは,「死を恐れるということは,知らないことを知っていると思うことだ」というソクラテスの言葉を伝えています。(p80)
 健康によいといわれれば,親に勧めたくなります。しかし,それをするかどうかは,親が決めることです。(中略)押し付けるのは,相手を変えようとする言動,態度です。押し付けられたと感じた親は,子どもの提案に従えば負けたことになります。(p87)
 人間は,ともすると物事の“闇”のほうにばかり目を向けがちです。(中略)ネガティブな側面に心を奪われてしまうと,眼前にある物事のよい面に気づけなくなります。(p93)
 老いた親が何度も同じ話をすると嘆く人がいます。しかし,同じ話をする人はいません。「またか」と思って聞けば,同じ話にしか聞こえません。話のあらすじは同じであっても,よく聞くと細部は毎回,微妙に異なっているものです。その微妙な違いは,その人の「今」を反映していますから,親の心情や関心事を知る重要な手がかりになります。そうした違いに注目して話に耳を傾け,微妙なサインを見逃さない--それが「話を聞く」ということです。(p94)
 本人に危害が及ばないのであれば,現実の世界に引き戻そうとするのではなく,親が生きている世界に,こちらから入ってみてはどうでしょう。(中略)妄想を訴える人は,話を否定されればされるほど症状が深刻化します。(p98)
 本人が思い出したくないから,あるいは忘れる必要があって忘れているのだとしたら,忘れていることをあえて指摘したり,無理やり思い出させようとしたり,記憶を正したりしてはいけないと思います。(p99)
 もしも親が,子どもである自分のことを忘れてしまったとしたら,初めて出会った人とのように,新鮮な気持ちで,親と新たによい関係を築く努力をすればいいのです。(中略)直近のことすら思い出せない親を見ると切なくなりますが,「今,ここ」を生きる親は,人間として理想の生き方をしているともいえます。もうろくという濾過器を通して大事なことは覚えているとしたら,家族にできる最善のことは,覚えていることを大切にし,その意味を汲みとる努力をすることです。(p105)
 過去だけでなく,未来を手放す決心も必要だと思います。先々のことばかり案じていると,今が疎かになります。日々,新たな人生を始められるのですから,明日の課題は明日考えればいいのです。(p106)
 介護をするなら,生産性から離れ,成果や見返りを求めることをやめなければなりません。介護も子育ても,見返りを求めると辛いものになります。介護することで貢献感を持てたとしたら,それでよしとすべきです。(p108)
 親の幸・不幸は,子どもに伝染します。子どもの幸せを願うのであれば,親がまず幸せでなければなりません。(p116)
 人間が不幸そうに振る舞うことには,目的があります。周囲や世間の同情を引くためです。しかし,そうした振る舞いは,子どもを敵に回すことになります。「一所懸命育てているのに,あの子が学校に行かないから,私はこんなに不幸なのだ」ということを世間に知らしめる親の行為が,子どもにとって嬉しいはずがありません。(p116)
 一足先に介護を受ける立場に置かれた人には,介護を受けている自分を卑下したり,申し訳ないと小さくなったりせずに,被介護者のよきモデルになってほしいと思います。赤ん坊が親から面倒をみてもらうことを恥ずかしがったりしないように,与えられるものを堂々と受け取っていいのです。介護をされていても,「楽しそう」「介護を受けるのも悪くはないかもしれない」と周囲が思えるような人生を送れば,それも一つの他者貢献です。(p123)
 相手がどんなボールを投げてきたとしても,「それはおかしい」ではなく,「そうなんだ」と受けとめ,たとえ賛成できなくても,理解することから始めなければなりません。(p128)
 何事も,取り組まないことには始まりません。できない可能性もあるけれど,その場合も「できない」という現実から始めるしかないのです。いつまでも「やればできる」「そのうちやる」という可能性の中に生きていては,道を拓くことはできません。(p137)
 「近所付き合いなんて面倒なだけ。何の益もない」と嘯くのも,対人関係に入っていく勇気がない証左です。アドラーは,「あらゆる悩みは対人関係の悩みだ」といっていますが,生きる喜びや幸福は,対人関係の中でしか得ることはできません。(中略)そのような対人関係に入っていくためにも,何より「自分に価値がある」と思えることが肝心です。(中略)ありのままの自分に価値を認め,「今,ここ」にある自分を好きになる--そのためには,価値についての考え方を転換する必要があります。生産性に価値がないわけではありません。生産性にのみ価値があるわけではないということです。(p138)
 いかに才能があっても,それを対人関係の中で他者の役に立てなければ,生きる喜びは得られない--つまり,真の幸福とは「他者貢献」だということです。(p146)
 定年後に自分の価値を肯定できずにいるのは,自分の行動が共同体にとって有益だという確信が持てないから,あるいは共同体にとって有益であることを志していないから,ではないでしょうか。感謝されることを目的とし,それを成果として行動する人は,自分にしか目が向いていません。(p146)
 アリストテレスは,「哲学は驚きから始まる」といっています。「なぜだろう」と考えるのが哲学の出発点です。対人関係も同じです。(p149)
 アドラーは「他者を愛することによってのみ,自己中心性から解放される」といっています。他者を愛することによって,初めて「共同体感覚」に辿り着くことができるということです。共同体感覚とは,「私」を主語として物事や人生を考えないということです。(p151)
 だからといって人間が幸福について,まったく何も知らないかというと,そうではありません。知らないものを,知ろうとするはずはないからです。(p157)
 異論や反論があっても考え続けることは,容易なことではありません。声高に叫ばれる安易な世界観やフェイクニュースを鵜呑みにして,排他的な態度をとるのは,それが楽だからです。自分で考えることをしなくて済むので楽なのです。物事を深く考えることなく問題を解決しようとすれば,いきおい「力」に頼ることになります。(p165)
 相手がどのような態度で対話に臨んだとしても,変わらず丁寧に対応することも大切です。相手が怒鳴っても普通に接し,泣き出したとしても動じない。泣くことも,怒鳴るのと同じ示威行動の一つです。(p166)
 どういう時に人は「ちゃんと話を聞いてもらえた」と感じるかというと,一つは,話を途中で遮られないとわかった時です。(中略)もう一つは,この人は決して批判しないとわかった時です。(p167)
 嫌われることを恐れないということのほかに,もう一つ大切なことがあります。それは,影響を及ぼそうとしないということです。(p169)
 そもそも人は人を育てることはできません。できるのは,子どもや孫が育つのを援助すること,子どもが育つ環境を整えることです。(p170)
 歳老いてこそ様々なことを学んでいかなければならないし,本を読んで考えることをし続けなければ,人間としての成長は望めません。(p173)
 なぜ若い人が年長者の話を聞かないかというと,年長者がわかったふうないい方をするからです。(中略)いかに齢を重ねても,わからないことはわからないと率直に認める勇気を持たなければなりません。(p173)
 生き方は,人それぞれ違います。先達の意に沿う必要はありません。さらにいえば,先達よりも,理想主義に燃える若い人のほうが,人生の正しい姿が見えているといえます。(p175)
 後進の力になることは,年長者に課された仕事の一つです。(中略)仕事でも,研究活動や教育の現場においても,後輩や学生が自分を超えられなかったとしたら,その取り組みは失敗だったといっても過言ではありません。(p175)
 古代ギリシア人にとっては,生まれてこないことが何にもまさる幸福であり,次に幸福なのは,生まれてきたからには,できるだけ早く死ぬことでした。(p186)
 三木清は成功は過程であり,幸福は存在であるといっています。幸福は成功と違って何かを達成しなければならないわけではありません。幸福が存在であるというのは,人は幸福に「なる」のではなく,幸福で「ある」ということです。(中略)人は生きている限り幸福ではないのではなく,今ここで幸福なのです。このことはまた人間の価値は「ある」ことにあって,何かを達成することにはないということです。(p186)

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