2018年10月20日土曜日

2018.10.20 磯田道史・嵐山光三郎 『影の日本史にせまる』

書名 影の日本史にせまる
著者 磯田道史
   嵐山光三郎
発行所 平凡社
発行年月日 2018.08.15
価格(税別) 1,400円

● 和歌,連歌,俳諧を西行から芭蕉まで辿る。詩歌が諜報と結びついていたことを強調したかったようなのだが,そういうことはあったかもねっていうしごく穏当な話が出てくる。諜報というのをあまり特殊なものと考えない方がいい。かつては日本も普通の国だったのだ。
 しかし,メインは西行解釈で,これが面白い。

● 以下にいくつか転載。
 天皇の経験者が生存状態で(中略)何人もいる。(中略)元天皇が競合してその中の一人が「治天の君」になって院政をしく。(中略)天皇自身が地位ではなく,フィジカルな,個人の体に宿った能力で政治を行う時代であれば,下までそうなるのは当たり前です。(磯田 p12)
 実力社会になると不安定化するのは自然の成り行き(磯田 p13)
 フランスの歴史学者マルク・ブロックが中世の「封建社会」の定義をいくつも述べましたが,そのうちの一つが「暴力の日常化」です。たぶん日本社会は一一四〇年ぐらいから激しい暴力の日常化に入って,(中略)はっきりと中世に突入した(磯田 p14)
 暴力の日常化は死を身近にしていく。そういう時代の人間は故意をしても命がけですし,美しいものを見ても,必死でその瞬間を刻み止めようとします。(磯田 p15)
 結果的に清盛は中世的世界を開き,信長は近世的世界を開いたわけで,いずれも「比叡山バネ」なんです。比叡山に抑え込まれることによって,その反発で次世代を開いた英雄といえます。(磯田 p19)
 あのころ出家した人たちは,いま思えばけっこういい名所へ庵と称する別荘を建てて住んでいる。これも「数寄」ですよね,贅沢の極致でしょう。(嵐山 p24)
 日本人は基本的に世を無常とみていて,人がそこで煩悩に苦しめられている,それを巡礼し見ることによって魂が浄化される。これは能の構造とよく似ています。うち棄てられた人間に対して,その人のことを思ってあげる優しさ。(中略)西行が日本人の琴線に触れて長く愛され,生き残り続けている原因の一つはここにあると思うんです。(磯田 p29)
 中世の教育はレベルが高いですから。近世の寺子屋のような“なんちゃって教育”じゃなくて,住み込みで,今で言えばラテン語でも読みこなせるようなレベルまで鍛えられる。(磯田 p33)
 前近代社会で,馬というのは自動車産業に近い。しかも高級自動車です。ものすごい富をもたらします。(磯田 p36)
 信西が理屈倒れなのは,追われて逃げたときの隠れ方が「土の中に潜れば大丈夫だろう」というものだったことによく表れています。ほんとうに穴掘って隠れたんですから。(中略)「隠れるとは自分の姿が相手に見えないこと」であって,「通報されないこと」だとは考えない。(磯田 p54)
 銃が登場すると,戦いからポエムがなくなります。(中略)弓矢と刀は人間の筋力が相手の死をつくるから,誰の肉体が誰の肉体を滅ぼしたかはっきりしていて,文学になりやすい。(磯田 p72)
 おそらく,日本は「言挙げをしない国」なんです。ヤマトタケルがどうしてあんなに悲惨な死に方をしたのか,荒ぶる伊吹山の神を退治する前に「こうするぞ。殺してやろう」と言挙げをしてしまったからです。(中略)相撲でも,「横綱は無言たれ」といい,ガッツポーズもだめ。それが『古事記』や『日本書紀』の時代からこの国の軸をなしている,この国の古層として沈殿した政治思想の文化であることは理解しておく必要があります。(磯田 p87)
 連歌の時代にはまだ現実の,実体としての自然を詠んでいた。そこからきて,人間の空想力を短い詩形のなかでここまで展開したという点では,西山宗因が登った山は明らかに芭蕉よりも高いと思います。(磯田 p130)
 伊賀上野にいたころの芭蕉は社交的で性格が明るい。気がきいて勘がよくて,人の話を聞くのがうまい。晩年の無常感が漂う芭蕉とはまるで違う。(嵐山 p143)
 ぼくが『三冊子』のなかでいつも心得ているのは,「物の見えたるひかり,いまだ心にきえざる中にいひとむべし」という言葉です。物が「あ,いま見えた!」とピカッと光ったように感じたとき,その感動が心に消えないうちに言語化しろと。(磯田 p187)
 芭蕉俳諧でも浄土真宗でも,本人より弟子に,師匠の思想哲学のエッセンスをわかりやすく伝える者が出たことが,爆発的に広がる一つのきっかけになったのだと思います。(磯田 p189)
 荒海や佐渡によこたふ天の川 も同じで,荒海ですから佐渡も天の川も見えない,その見えないものを見る,幻視するというのが芭蕉の力です。(嵐山 p191)
 嵐山 俳句はみんな嘘ですから。 磯田 そうなんだけれど,『悪党芭蕉』でも指摘されているように,その嘘を「見立てる」というんですね。「見立ての文化」は日本文化論できわめて重要な地位を占めます。何かに見立てる,つまり「~であることにする」。(p200)
 日本はもっともディズニーランドが成功する国なんです。「着ぐるみの中に人はいないことにする」も「夢の国であることにする」もできる。これはけっこう高度で,お互いの合意がないとできない。(磯田 p201)

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