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2017年10月6日金曜日

2017.10.06 内田 樹・釈徹宗 『聖地巡礼 コンティニュード』

書名 聖地巡礼 コンティニュード
著者 内田 樹・釈徹宗
発行所 東京書籍
発行年月日 2017.09.01
価格(税別) 1,800円

● シリーズ,4冊目。今回は対馬。副題は「対馬へ日本の源流を求めて!」。
 本書で蒙を啓かれたところは2つある。ひとつは,日本神話は対馬発祥であるらしいこと。古き日本が対馬には残っていること。
 もうひとつは,対馬に朝鮮半島から受けた文化的影響の痕跡は皆無であること。地理的に近いから影響を受けるという単純なことではないらしい。

● 案内役の永留史彦さんが主役。情報の提供役。著者二人はそれに乗って勝手に喋っているだけ。もっとも,それが編集方針かもしれない。

● 以下にいくつか転載。
 やっぱり旅の友は司馬遼太郎ですよ。『街道をゆく』です。頁折りすぎて,一体どこが大事なんだかわかんなくなっちゃいましたけど。(内田 p13)
 「じゃあ対馬では朝鮮の文化と日本の文化が融合しながら発達していったような形跡があるのか」と,よく聞かれるんですが,そういうものはほとんどありません。(中略)言葉なんかもですね,対馬の言葉,特に対馬の南端の豆酘という所には,対馬の中でもまたちょっと独特の方言が残っていたりします。(中略)対馬に残るそういう言葉は,中世以来の日本の古い言葉だということがわかりました。(中略)古い朝鮮語の影響というのはまったくない。(永留 p16)
 対州ソバは名物ですね。源流がわからないんですが,対馬では,縄文時代の貝塚から蕎麦の実が見つかっています。だから,それがそのまま続いていたとしたら,対馬の蕎麦はもっとも古代の蕎麦に近いんじゃないかと。(永留 p68)
 植生ですね,やっぱり,風土感というのは。(内田 p77)
 近代化があれほど早く可能になったのも,幕藩体制があったからだと思います。日本中に人材がいたわけだから。中央集権一極集中だったら,あんなことできませんよ。(内田 p93)
 体制が腐るときは頭から腐っていくわけだから,一極集中で頭が腐ったら手がつけられませんよ。(内田 p93)
 永留 南のほうも対馬海流は流れてはいるけど,幅が広い分,流れは穏やか,航海しやすいです。水道にホースをつないで,口を細くすると勢いが強くなる。あれと同じです。(中略) 内田 離れているほうが渡りやすくて,近いほうが渡りにくい。ここは流れが速いんですね。 釈 距離じゃないんだ。(p106)
 対馬に阿麻氐留(あまてる)神社というのがあります。この阿麻氐留神社というのも,天照大神を祀るようになって阿麻氐留神社になったんじゃなくて,その逆じゃないかというのが神話研究者の定説なんですね。(永留 p137)
 永留 海で生活する人たちにとってはね,遭難した人は助けるというのが,これがまず原則なんですね。 内田 そうか,海民の常識なんだ。海民というのはね,砂漠のノマドと同じだという話を,前にしていましたよね。(中略)砂漠でもね,荒野の彼方から到来して旅人は必ず幕屋を上げて歓待しなければならない。(p183)
 聖地は大体この世とあの世の境界線上にあるんです。海と陸の境界は「さき」と呼ばれるんだと中沢新一さんの『アースダイバー』に書いてありました。(中略)今は海岸線が遠ざかって,海なんか見えないような町中でも,古い岬の突端だった地には今も神社仏閣,病院,大学,墓場,そしてラブホテルがあるのです。(p241)
 釈 ここに来たら,日本神話をリアルに実感できますね。 内田 本で読むとリアリティーないけど,ここに来るとリアルですね。(p243)
 対馬を巡って,あらためて「日本の宗教は神道で,仏教は外来の宗教だ」などといった捉え方がいかに見識がせまいかっていうのがよくわかりました。神道もかなり外来ですから。(釈 p252)
 政治が絡むと聖地は力を失います。でも,延喜式から延々とやっているわけだよね。千年以上前から政治は宗教に介入している。(内田 p257)
 昔,天安門の前で行進するとき毛沢東がいたり朱徳がいたりして,後ろのほうにレーニンとかマルクスとかエンゲルスの写真も一緒に行進してたじゃないですか。あれは中国共産党の境内に,ご祭神としてマルクスやレーニンを勧請しているんですよ。(中略)毛沢東神社に合祀しちゃうの。毛沢東神社の神格を高めるために,いろいろと有名で霊験あらたかなご祭神を勧請してくる。(内田 p258)
 考えてみたら,パレスチナ地方の一民族の神話が,キリスト教の展開によって世界中で共有されることになったわけです。我々が日本人の神話として共有しているのも,いくつかある部族の一つの神話だったのでしょう。(釈 p263)
 全く国境を閉ざされてしまうと,ほんとうの日本の辺境になっちゃうんですよ。(中略)国境が開かれていると,外国への窓口になるんです。閉ざされると条件が一八〇度変わります。(永留 p274)
 「貧すれば鈍す」って,ほんとうに汎用性の高い教訓ですよ。経済的余裕がなくなると,人間は思考力が衰えるんです。(中略)「金がある人」というのは「金のことを考えない人」のことです。ですから,逆も同じで,実際はどれほど貧乏でも,「金のことを考えない人」は「金のある人」なんです。暇だから。(中略)自分は「貧乏だ」と思っている人は四六時中お金のことばかり考えて,お金さえあればすべてが解決するというシンプルな思考にはまり込んでしまう。(内田 p331)
 釈 何度も聖地巡礼をやっていて,体感的にわかったことなのですけど,「ある程度歩いて到達しないとダメ」な気がします。 内田 ダメです。いきなり,「はい,聖地に着きました」というのは。(p338)
 倍音声明で面白いのは,自分は声を出さないで,ただ他人の声を聴いているだけの人には,倍音がちゃんと聴こえてこないということです。超越的な音,誰のものでもないその音を聴き取るためには,自分のパーソナルな,自分に固有の声をその場に差し出さなければならない。(内田 p357)

2017年9月10日日曜日

2017.09.10 内田 樹・釈徹宗 『聖地巡礼 リターンズ』

書名 聖地巡礼 リターンズ
著者 内田 樹・釈徹宗
発行所 東京書籍
発行年月日 2016.12.01
価格(税別) 1,600円

● 聖地巡礼シリーズの3冊目。副題は「長崎,隠れキリシタンの里へ!」。案内役の下妻みどりさんが重要な役割を果たしていて,3人目の著者といっていいと思うんだけど,彼女は著者には入っていない。

● 話は八方に飛ぶ。それがこの聖地巡礼シリーズの面白さ。隠れキリシタンから日本の風土や鎖国の話に及ぶ。
 編集段階で整理はしているんだろうけども,整理しすぎないその按配がよろしいのだろう。

● 以下に,多すぎるかもしれない転載。
 キリスト教にしても,浄土真宗にしても,弱者の宗教という面があります。弱者が苦難の人生を生きるための手立て,それは「信じる」です。「信じる」という態度は,人間のあらゆる感情やパフォーマンスの中で最も強いものだと思います。(釈 p18)
 「日本の宗教土壌にはキリスト教のような一神教は合わない」とよく指摘されますよね。確かに反りが合わない面もあるのですが,日本においてもときどき一神教的な宗教が大きく展開するんです。たとえば,浄土真宗や日蓮宗などは一神教的な性格を持っている宗派です。(釈 p26)
 世界に誇れる日本の資源といったらそれですよ。霊的な資源というのは,土地に長い時間をかけて堆積してゆくものなんですから。その上に現代的なものが乗って押しつぶしているけれど,これをどうやって賦活させるのか,それが二一世紀の日本の課題だと思います。(内田 p61)
 自己利益とか党派性とかまったく無関係に純粋に論理的にある立場の瑕疵を吟味するというのは,ユダヤ教が源流でしょうね。ラビたちの聖句をめぐる論争というのは,「あなたがそう言うなら,私はそれと反対のことを言う」という知的な訓練ですからね。自分の個人的信条をいったん「棚に上げて」,ある主張の論理的瑕疵を徹底的に追求する。あれやると,頭よくなるんです。(内田 p65)
 来世に強烈なリアリティがないと態度をつらぬき通すことなどできなかったでしょう。純粋な信仰だけで殉教したのは,ローマと長崎だけだとも言われます。(釈 p79)
 日本は(太平洋戦争で)負けすぎたんです。もう少し負け方が穏やかだったら,臥薪嘗胆,「次は勝つ」という気持ちも持てたでしょうけれど,もうそんな言葉も出ないほどにボロボロに負けた。(内田 p87)
 コアに本来の濃厚な宗教性があって,周りにそれを守ろうという人たちがいて,さらにその周りには観光客がいる。だから強い聖地の周辺は俗化する。(釈 p96)
 もしかすると,キリスト教にはある「巨大な言い落とし」があって,それは「自分を愛する」とはどういうことかについて何も教えていないことじゃないかなと,あるときふっと思ったんですよ。(中略)東洋的な発想からすれば,「孝の始め」はまず自分の身体を大切にすることであって,自分の身体をできるだけ傷つけないように保持する。でも,身体保全の原理は,殉教と矛盾する。だから,身体髪膚を「与えられたもの」だとは考えないで,自分の所有物だと思う。(中略)身体軽視はユダヤ教からキリスト教が分離するときのたぶんいちばん大きな切断線じゃないかと思うんです。(中略)ユダヤ教では日々守るげき祭祀儀礼や食事や服装についても詳細な規定がある。自分の身体をていねいに扱って,栄養状態もよく管理して,身体を気分よく使える状態にしておかないと,こういう煩瑣で具体的な儀礼は守れない。でも,キリスト教の場合は,心の中にほんとうの信仰があれば,外形的な戒律や儀礼はどうでもいいとされる。(内田 p106)
 どういう理由か,行政が手がけるアートってことごとくダメですよね。道を綺麗に整備して,点々と置いたりするアートにしても,まともなものってないですから。(釈 p130)
 聖地の霊的な力は行政が介入すると必ず衰えますね。聖地の力と行政の介入は反比例する。(内田 p134)
 踏んじゃった自分に対する自己評価は激しく下がる。だから,自己評価を上げるためには,私は恥ずべき人間だという厳しい倫理的断罪を自分自身に突きつけるしかない。(中略)だから,踏み絵ってほんとうに残酷な刑罰だと思うんです。処罰するのが役人ではなく,自分自身なんですから。自分からは逃れようがない。(内田 p135)
 他と妥協しにくいタイプの宗教もけっこうあります。浄土真宗や日蓮宗などはその代表です。弱者の宗教はその傾向が強い。(釈 p160)
 オラショはたぶん瞑想の道具なんでしょうね。たぶん途中からトランス状態ですよ。(内田 p161)
 やはりどこか自然とシンクロしないと,宗教って明るさが出ませんよね。逆にいえば,内省型の宗教も自然とシンクロさえすれば開放的な部分が生まれる。(釈 p161)
 日本のクリスチャンって,どこかの段階で自己決定して洗礼を受けるわけじゃないですか。だから,どこか自分の信仰に不安がある。自己決定して選ぶことができた信仰なら,自己決定で捨てることもできるわけですから。でも,この土地の人たちにはそういう不安がない。(内田 p170)
 釈 成功者のうしろめたさというのは世界の各文化圏で見られるそうです。むしろプロテスタントのように,社会的成功こそが神の救いという考え方のほうがちょっと珍しいみたいです。そうすると,あらためてカトリックの共同体志向とプロテスタントの個人志向が確認されますね。 内田 だから,カトリックの方が海外布教がうまいし,その延長で植民地経営もうまい。アメリカのプロテスタンティズムは植民地経営向きじゃないですね。(p180)
 邪悪さというのは,どこからか「スケールの問題」になるんです。人間が制御できないものは人間世界に持ち込んではいけない。人間の物語に回収できないんですから。(内田 p201)
 個人的にどれほど苦しもうとも,殺した事実は変わらない,殺された人は生き返らない,だから無意味だというのは悪質なニヒリズムです。システムに対して我々が抗せるのは屈託とかやり切れなさとか,そういうどうしても片付かない気持ちなんです。片付かない気持ちってね,思っている以上に現実変成力があるんです。(内田 p203)
 もっとキリシタンの心性の解釈には多様性があっていいんだと思います。(遠藤周作の)『沈黙』という物語は力がありますから,ついそれに居着いてしまいますけれど,複数の物語が共生している方が土地にとっては風通しがよいんじゃないですか。(内田 p207)
 中国がそうでしたよね。イエズス会は明代に宮廷に入り込んで,多くの宮廷人を改宗させることに成功しました。特にヨーロッパの科学技術を持ち込んで,それによって知識人層の関心をつかんだことが大きかった。でも,後にやってきた修道会は,イエズス会に比べるとはるかに原理主義的で,祖霊崇拝の儀式をすべて否定した。(中略)それが皇帝の逆鱗に触れて以後キリスト教は禁教となります。(内田 p227)
 戦国時代まではじゃんじゃん山の木を伐採して,築城や製鉄に使っていた。特に製鉄は大量の木材を消費した。そのせいで,戦国末期には日本の山は次々と禿げ山になっていった。その森林の保護を徳川政権が行った。ジャレド・ダイアモンドの『文明崩壊』によると,人類史で,文明による自然破壊を政治権力が介入して停止させた事例は徳川時代の日本だけだそうです。(内田 p234)
 鎖国というのも,よくよく考えると実に大胆な政策難です。強制的に歴史の進歩を停止させようとしたんですから。経済を定常化し,社会のかたちも定常化しようとした。(中略)その方が人間は幸福だと考えたんでしょう。これは独特の統治理念の実践だったと思いますね。(中略)これは,かなり性根の据わった統治理論を持ってないと維持できないですよ。(p234)
 鎖国が完成したのは家光の時代か。そこまで考えて鎖国に踏み切ったんだろうか。むしろ何も考えてなかったのではないか。
 (戦国末期に)日本人は当初は外来の科学技術の導入に対して貪欲でしたけれども,どこかの段階でブレーキがかかった。僕はどうしてブレーキがかかったのか,それが気になるんです。(中略)信長や秀吉の時代の日本の統治者たちは,海外についてもかなり信頼性の高い情報を有していたはずだからです。(中略)東アジアに限って言えば,当時の日本の政権の方が,マドリッドの政府よりも,情報収集力も分析力も圧倒的に高かったはずですよ。(内田 p240)
 イエズス会士たちが個人的には島原の乱に対して同情的だったのは当然ですけれど,修道会として他国の内戦にコミットするということはしないでしょう。でも,そういう「陰謀集団がすべてを陰で操っていた」という話は歴史解釈において知的負荷を劇的に軽減してくれるので,あまり深くものを考える習慣のない人は飛びついちゃうんです。(内田 p242)
 僕は告白については,やや懐疑的なんです。告白するとき,当人は自分をふたつに分裂しているわけですよね。罪や弱さを暴露される自分と,それを容赦なく暴露する自分。そうやって人格を便宜的に二分割する。いわば成熟した自分と未熟な自分に分けてしまう。そして,成熟した自分が仮借なく未熟な自分を分析し,切り刻んでいく。それってうまくゆきすぎて,結果的にあまり人間を成熟させない気がする。成熟って,自分の未熟さを受け入れるってことだと思うんです。(内田 p256)
 儀礼は心身の負担を軽減するために装置なんですよ。儀礼なしで,自分の信仰は果たして真実のものであろうか,それとも表層的な欺瞞的なものに過ぎないのか・・・・・・なんて頭抱えだしたら,身体が持たないですよ。(内田 p260)
 内田 この「負けしろ」の大きさが,僕は日本の最大の国民資産だと思います。「落人部落」とか「隠れキリシタン」というのは,すぐれて日本的な存在なんだと思いますけれど,それを可能にしたのは,この奥深い谷なんです。 釈 なるほど,負けても生きていける,そういう地形なんですね。(p264)
 宗教って,ある種のひとつの「病み方」なんですよね。健全な人ってこの世に一人もいないですから。程度の差はあれ,みんな心を病んでいる。そして,人間の持つ本質的な弱さは必ず「物語」を求める。宇宙を統べるひとつの統一的な摂理があって,自分の個人的な祈りが,そこに伝わると,宇宙の風景に,自分の祈りによってわずかではあれ変化がもたらされる。(中略)どこかで類的な宿命に繋がっていたい。有限的な存在が,無限の境地と,ある超越性の回路を経由して繋がることを夢見る。そういう物語を人間はどうしても必要としているんだと思います。(内田 p284)
 宗教的迫害の対象になることは,強烈な選民意識を刺激するはずです。ネガティブではあるけれど,劇的な高揚感があるはずで。(内田 p286)
 神に至る道には神なき宿駅があるというのがユダヤ教以来の一神教の基本です。神が今まさにここに顕現して来ない,神が今ここでは不在であるという事実そのものが,神の不在に耐えても信仰を維持できるような宗教的成熟を促す,という。(内田 p287)
 地下に潜伏というのをネガティブに考えがちですけど,地下に潜伏ってけっこうワクワクする経験のような気がするんです。(内田 p287)
 国民国家というのは一個の幻想であり,イデオロギーです。(中略)かつてはそうではなかったし,いずれそうではなくなる。そういう期間限定の歴史的構成物です。でも,「国民国家の時代」においては,その事実はなかなか可視化されません。(内田 p293)

2015年9月28日月曜日

2015.09.25 内田 樹・釈徹宗 『現代霊性論』

書名 現代霊性論
著者 内田 樹・釈徹宗
発行所 講談社文庫
発行年月日 2013.04.12(単行本:2010.02)
価格(税別) 581円

● 眼からウロコが何十枚も落ちる。ただし,読書で落ちたウロコは,短時日でまた付いてしまうもの。落ちっぱなしになってくれればいいのにね。

● ともあれ。全文を引き写したいくらいのものだ。が,厳選して以下に転載。それでも少々以上に多すぎるか。
 なによりもまず宗教的寛容。ある宗教について,そのクオリティや意義を論じるのは,その次の段階の話だと僕は思っています。(内田 p12)
 政治を語っても,生活文化を語っても,文学や芸能を語っても,僕たちの関心は必ず「その制度文物の宗教的な意味は何か? それはどのように宗教的に機能しているか?」という問いに収斂されます。そして,実際に,この問いはおよそ人間のかかわるすべてのものについて有効な問いまのです。ということはつまり,人間たちは古来あらゆる社会制度を宗教的なしかたで設計し,運用してきたということになります。(内田 p14)
 アナログな世界にデジタルな分節線を引くこと,切り分けられないはずのものを截然と切り分けることこそが人間の本性だからです。そうしないと人間は生きていくことができないのです。現に,「二元論的に世界を切り分けるのはよくない」と主張している人自身,すでに世界を「よいこと」と「よくないこと」に二元論的に切り分けているわけですし・・・・・・。(内田 p16)
 都会だと,目に入るものは刺激が強いし,耳から入ってくる音はうるさいし,臭気も気分のよいものではないし,身体に触れる刺激もとげとげしいものばかりでしょう。それなら自己防衛上,視覚情報も聴覚情報も遮断して,五感の感度を下げるのは当然なわけですよ。(内田 p44)
 低刺激環境にいると,身体感度をかなり上げても,それによって深いな入力を浴びるリスクがない。だから,いつのまにか感覚の回路が全開してしますう。(中略)そういうふうに感覚回路の開いた子たちはコミュニケーション感度がいいんです。(中略)言葉のレベルではなく,非言語的なレベルで「わかる」んです。でもね,ほんとうはそういう能力が生きてゆく上で一番大切な力じゃないかと僕は思うんです。(内田 p44)
 「名前を与えられる」というのは,規定づけられる,縛られる,ってことですから。宗教学的に言うと,「名前は呪術の機能を持つ」ということになります。(釈 p49)
 日本でも明治維新以降,国民はみんな名字と名前をつけられますけど,これはつまり,「個人」という縛りがなかったら近代は成立しないということです。(中略)個人を特定できなかったら,徴税も徴兵もできないわけです。全員が名字と名前を名乗ることによって,近代の呪縛が始まったわけですね。(釈 p50)
 宗教は超歴史的に固定的で,政治だけが変化するというものではない。すべての人間的営為を押し流していく滔々たる巨大な流れがある。宗教と政治を二元的に対立させると身動きがとれなくなる。(内田 p54)
 名前は本来呪術的に機能しているのに,現代人はそれをただの記号として,機械的に処理しようとする。それがいろいろな問題を引き起こしている。(内田 p57)
 僕はご存じのように,父子家庭で娘を一人で育てました。出産こそしなかったけれど,育児はずいぶん真面目にやりました。でも,そのことが僕の自己実現を妨害しているなんて思ったことは一遍もない。どう考えたって僕が業界的に成功することなんかよりも,子どもと一緒にいて,子どもを育てるほうが楽しいに決まっている。ですから,子育てに専念していた十二年間は,学者らしい仕事はほとんど何もしてないんです。翻訳を少しやったくらいで。でも,それで何かを失ったなんて思わない。子育てを通じて学んだことのほうが,その時間難しい本をばりばり読んで学べたことよりも,ずっと大きかったと思う。(内田 p64)
 すでに人口に膾炙している情報を,いつの間にか自分の意見として信じ込んでしまうと,その結果,誰かの都合のよい方向に誘導されたり,操作されることがあるという自覚は必要ですね。その自覚の有無が,大人と子どもの分岐点なのかもしれない。(釈 p67)
 下手でも何でも、芸能でもファッションでも,政治でも法律でも何でも,とりあえず自分なりのフォームができると,それを応用してあるときバアーッといろんなことがわかる,知的快感が連鎖することってありますよね。(釈 p69)
 都市生活には土俗の宗教性がありません。そこで「占い」や「スピリチュアル」がブームとなる。「占い」が都市部ほど盛んなのは,都市生活者がなんらかの縛りを求めていることの表れの一つなんじゃないでしょうか。(釈 p74)
 最大の供養というのは「その人が生きていたらするであろうふるまいを繰り返すこと」だと思うんです。自分が死んだ後も,自分が今しているような日々の営みを誰かが継いでくれると思ったら,死ぬときに気が楽じゃないですか。(内田 p80)
 E阪先生はね,全然叱らないの。歯を見て,「あらー,これは大変なことになってますよ。がんばって闘いましょうね」っていうふうにおっしゃる。要するに「歯を悪くする邪悪な霊」みたいなものを想定して,僕がその無辜なる被害者で,E阪先生と二人で悪と闘うっていう,そういう物語に巻き込んでしまうんです。僕の生活習慣とか,ブラッシング不足とか,そういうことは一切とがめないんですよ。(内田 p92)
 言われて直せるようなら,「生活習慣」なんて言わない。(中略)患者自身をまず免罪する、そうしないと患者自身が「戦力」になりませんからね。(内田 p93)
 逆に言えば,民間宗教者というのは,その場にいるその相手,個人と個人との関係性の中で機能する技法だということです。ですから,いわゆるマス(大衆)を相手にすると,ある意味,詐欺に近くなると思うんですね。詐欺というか,とても罪つくりなことだと思います。(釈 p94)
 荒行や座禅や瞑想をすることで,この世と外部をつなぐ回路が開いて,いろんなものが見えたり聞こえたりするのを,伝統宗教では「単なる生理現象だから,宗教の本質には関係ない」とばっさり切って捨てます。(釈 p100)
 このメジャー宗教の裏バージョンには,だいたい共通する特徴があります。 一つは,超越的唯一性を説くというところです。(中略) さらには,人間がそれに合一することを説きます。唯一絶対なるものと自分が一体となる。ほとんどがこういう構造をとっていますね。ですから,そこでは,変性意識や自己変革といった,自分というものが新たなものに生まれ変わるという体験が重要になります。(釈 p102)
 少し前まではインターネットを使えない人たちが,「デジタルデバイド」により情報にキャッチアップできなくて下流に吹き寄せられると言われてましたけど,現実には,ネットのための初期投資はどんどん安くなっている。(中略)だから,インターネットで遊んでいるのが一番お金がかからない。それが「引きこもり」状態をより容易にしている。その若いネットピープルたちが好む娯楽は,ロックコンサート鑑賞とスポーツ観戦なんだそうです。(内田 p107)
 グローバリゼーションとか男女雇用機会均等法とか,そういう流れにのって,がんがん働いていた若い女性が,どこかで心身の限界に達して,ぷつんと切れる。そしてまったく逆の方向に同じように走りだす。そういうふうに僕には見えます。ペースダウンするわけじゃないし,それまでの価値観からまったく離れようというのでもない。能力主義・成果主義を別のかたちで表現しているような気がするんです。オウム真理教がそうでしたけれど,「表」の能力主義・成果主義で疲れた人たちが,次には「裏」の能力主義・成果主義に飛びついてしまう。(内田 p112)
 若い人たちが宗教やナショナリズムに走るときって,どうも生活実感が希薄なんだな。日々の生活なんてどうだっていい,自分の身体なんかどうなってもいいという,なんだか捨て鉢な感じがする。(中略)具体的で持ち重りのする身体実感に根ざしたものが感じられないんです。(内田 p118)
 ヨーガを実践する「ポスト新宗教」にコミットしている知り合いから聞いたんですけど,師弟関係を嫌がる人がすごく多いらしいんですね。自我が少しでも傷つけられるのを避けるから,頭を下げたり師弟関係を結ぶことなく繋がろうとする。だから,信者をたくさん獲得できるかどうかもそこがポイントや,って言ってましたね。(釈 p119)
 ものごとには必ず裏表があるんですよね。こういう「いいこと」があれば,必ず「よくないこと」がある。対になっている。それがリミッターとして機能していると思うんです。しかし霊能力で商売している人たちというのは,「裏側」のことを言わないですよね。わりと単純なことなんですけどね。たとえば「瞑想は夜してはいけない」なんて当たり前のことなんだけれど。(中略) でも,瞑想することで自分の霊的ステージを上げようといった功利的な発想で修行をしている人は,自分の体感が「こんなことしたくない」とアラームを鳴らしていても,気がつかない。(内田 p125)
 神道というのは共同体を繋げるための宗教です。だからそこには教義とか教えとか,あるいは思想とかは別に必要ないわけです。その代わりに,たとえばみんなで同じタブーを共有したりします。(釈 p131)
 どのような宗教も社会とは別の価値体系を持っています。そうでなければ宗教である存在意味も希薄になってしまうと言ってもいいでしょう。つまりその宗教も,社会と対峙する面があるということです。もちろん,教団内というのは単なる社会の縮図ですので,内部はどこにでも見られる権力構造だったりしますが,いずれにしても,社会とは別のものを提示するところに宗教の面目があるわけです。(釈 p144)
 武道では「胆力」と言うんですけど,「驚かされちゃいけない」ということを教える。「驚かされない」ための秘訣は,いつも「驚いている」ことなんです。(内田 p151)
 「人知を絶した境域における適切なふるまい方」,それを主題にした文学作品が世界性を獲得する。僕はそう思う。(中略) 世界文学になるような作品は,あらゆる時代,あらゆる場所に共通する「どうしていいかわからないときには,どうすればいいか」という難問を扱っているから世界文学になり得る。(内田 p153)
 ふつうに生活している人の枠組みをわざわざ揺さぶって,不安にさせてるんですね。(中略)先祖を供養してないでしょうとか,思わぬ方向から球を投げて,誰もがどきっとするようなことで揺さぶっておいて・・・・・・。マッチポンプですよね,自分で火を点けておいて,うちに頼めば火を消しますよ,というのと同じ手法ですね。(釈 p190)
 死者たちは正しく弔わなければならない。しかし,どのような喪服の儀礼が正しいのかについては誰も確言する権利を持たないし,持ってはならない。(中略)なぜならば,それは本来死者たちの判断に委ねられるべきことだからです。でも,死者は語らない。(内田 p205)
 国民国家という近代的な国家制度はまだできて日が浅い。それはあらゆる人間的制度がそうであるように,いずれ賞味期限が切れて消滅する。長いスパンで見れば,暫定的な制度にすぎない。しかし,これに代わる新しい統治形態が標準的なものになるまでは,国民国家を基準に共同体のありようを考えざるを得ない。(内田 p218)
 一流の詐欺師はできいるだけターゲットに不満を残さない詐欺を行いたいので,そのために,予め「クーラー」という役目の人間をつけておきます。このクーラーは,ふだんからターゲットに対して何かと世話を焼いたり,相談に乗って親切にしたりして,すごく信頼されるようにしておきます。充分な信頼関係ができたところで,詐欺師が詐欺を行うんです。詐欺師はすぐ逃げますが,そこからがいよいよクーラーの出番です。クーラーはこのターゲットに対して,「まあ,よう考えたらこれぐらいで済んでよかったやん」とか「あいつ見てみ。あいつに比べたらずっとましやで」と言って,この人の不満や苦しみを半減させることで,本質的な詐欺の被害から目をそらさせるわけです。(釈 p232)
 現代人は自分と他者の間にはっきりした境界線を引きたがりますね。「自立」や「自己決定」「自己責任」も同じ流れです。だいたい人間は「自己決定」なんかできないし,「自己責任」も取れない。人がなんらかの決断をするときは,いろんなファクターが関与しているわけで,百パーセント自分の判断で事を決めることなんかあり得ない。(内田 p241)
 前に大峰山という女人禁制のところに,性同一性障害者の人たちが入山をこころみたという事件がありましたでしょう。性差別反対を掲げて。女人禁制というのが特異なローカル・ルールであって,一般性がないというのは指摘のとおりなんです。でも,そういうローカル・ルールは非合理的だから撤廃しろと主張している人たちご自身は,性同一性障害の人たちなわけですよね。「自分たちの性の特異なありようを認めろ」と,「強制的異性愛体制で全員を標準化,規格化するな」という主張をしている人たちが,なぜ大峰山の人たちの「宗教性の特異なありよう」は認められないと言えるのか。彼らは自分の特異性には配慮を要求し,他人の特異性には権利を認めない。自分の論理矛盾に気づかずにいられるその愚鈍さが,どうにも僕には耐えられない。(内田 p248)
 行うべき儀礼を表の顔とするなら,行うべきではない儀礼,つまり裏の顔は「タブー」となります。(中略)たとえばヒンドゥー教のカースト制度や,神道のケガレ観は負の側面ですね。(中略) 日本のケガレの観念のユニークなところは,ケガレ状態の人に接触すると,ケガレが伝染すると考えるところです。(釈 p260) 境界線上をタブーとするというのは,タブーについて考える上で大きな手がかりになります。(釈 p269)
 おそらく儀礼の定義というのは,基本的にはその儀礼の起源を言えないということなんじゃないでしょうか。(中略)それができたらそれはもう儀礼ではなくなる。(中略) 起源に遡行すると,最後にはすべてが闇の中に消えてしまう。でも存在している。(中略)僕はこういうものに対して人間はもっと畏れの気持ちを持つべきだと思います。(内田 p276)
 オカルトというのは,「隠された知」というのがもともとの語源なんですけど,「真実は隠されている/私(占い師)はそれに気づいている」という構図が危ないんです。(釈 p278)
 「三十二歳まで結婚できない」と言われたときに,「はあ,そうですか」と言ってしまったら,もう結婚するのは難しくなる。というのは,そんなバカな占いでも,行って三千円払って予言を聞いた以上は,その払った三千円が惜しくなるからです。そこで三千円払った自分の行動を正当化するためには,予言が実現したほうがいい。ほんとに人間って,人生を信じられないほどの安値で叩き売るんです。怖いですよ。(内田 p280)
 「最後にすべては解明されるのであるが,その答えは私が想像していたものとはまったく違うものである」という確信だけが推理小説を読む快楽を担保している。生きる快楽を担保するのも同じ「不可知」だと思うんです。(内田 p282)
 その頃西武が開発した「ロフト」とか「シード」を店舗展開したとき,彼は江戸時代の古地図を参考にしたんだそうです。(中略)江戸の場合,人通りの多い通りには共通性があって,それは,「汐見坂」か「富士見坂」のどちらかだった。ゆるい坂道を歩くと,その先に東京湾が見える通りと,その道の先に富士山が見える通り,そういう坂道に人々は惹きつけられる。(内田 p291)
 われわれが考えることって,だいたい同じようなことです。みんな似たようなことで苦悩し,死について考えたり,死を希求したりします。大切なのは,「それはけっして自分だけが気づいているのではない」という感覚です。(釈 p296)
 自我というのは一種の仮説だと思っているんです。内と外という言い方をしたときに,自我というのは内側のことだと思う人がいるけれど,そうじゃない。外と内の境界面みたいな,皮膜みないなものが自我じゃないかと思います。(内田 p297)
 村上春樹さんもかいていたけれど,作家の条件というのは,自分のヴォイスが見つかるかどうかにかかっている。自分のヴォイスを探しあてたら,あとは無限に書ける。(中略)「ヴォイス」は音声ですからね。ずっと身体的です。声質,音の響き,厚み,奥行き,そういうもの全部含めてヴォイスなんです。自我が操作する道具じゃないんです。インターフェイスなんですよ。(内田 p298)
 たぶん世の中で起こる苦しみの総量というのは一定であって,僕が回避した分のツケを誰かが払っている。そう思ったら,ぞっとして。それからあと自分の幸運を試すようなことは絶対に止めようと思った。(内田 p303)
 ツキってダマで来るんですよね。平均的に来るということはない。いいことは集中的に来るし,悪いことも集中的に来る。いいときに図に乗って「好天モデル」をベースにして生きていると,ある日どかんと不運に遭遇する。(内田 p304)
 宗教というのは,愛とか労働とか言語と同じレベルのものです。「言語って必要ですか」「愛って必要ですか」「労働って必要ですか」「共同体って必要ですか」「空気って必要ですか」「地球って必要ですか」という質問と同じことですよね。それらがあるからこそ,僕たちは現にここにいるわけであって,必要か必要じゃないかなんていう議論ができる論件ではないんです。人間が必要だと思ったから宗教をつくり出したわけではなくて,宗教があったから人間ができた。(中略) 自己決定できない問題について,「必要かどうか」を論じても始まらないです。(内田 p312)
 宗教の戒律だって,「戒律を守る」のではなくて,戒律に守られているんですよ。宗教のエートスを守ることによって危ない場面を避けることができて,守られていくと考えるべきでしょう。(釈 p316)
 「運がいい人」というのは,周りからは「選択するときにいつも正しいほうを選ぶ人」というふうに見えているんだと思います。でも,そうじゃない。「運がいい人」っていうのは選択しない人なんです。分かれ道に至って,「さて,どちらの道を進んだものか」と自問する人は,その時点でかなり運に見放されている。というのは「運がいい人」の眼には道は一本しか見えていないから。(内田 p317)
 繰り返しさまざまなトラブルに巻き込まれる人がいますね。それは,ご自分で「そういう道」を選んでいるからそうなるんですよ。人間だって生物である以上,すべての生物と同じく自己保存の機能が生得的に標準装備されています。だから,危険なファクターが近づけば,「危ない」というアラームが鳴りだす。そのとき(中略)アラームを消してしまう人がいる。そういう人がだいたいトラブルに巻き込まれる。(中略)みんなが「あの人はいい人だよ」と言っても,その人の近くにゆくと自分のアラームが鳴るという場合は,世間の評価よりも自分のアラームを信じたほうがいい。(内田 p317)

2015年4月29日水曜日

2015.04.26 内田 樹・釈徹宗 『聖地巡礼 ライジング 熊野紀行』

書名 聖地巡礼 ライジング 熊野紀行
著者 内田 樹・釈徹宗
発行所 東京書籍
発行年月日 2015.03.13
価格(税別) 1,500円

● 熊野に行ってみたくなった。熊野古道を歩いてみたい。観光案内書を読んでも,そうした気持ちになることはまずない。
 熊野の大いなるというか,他にはないというか,魅力が存分に伝わってきた。

● 本書の魅力のひとつは,聖地巡礼とは言いながら,それとは関係のない諸々の話題が飛び交うところだ。
 編集の手がだいぶ入っているはずだ。削除された話もかなりあるのじゃないかと思うけれども,その代わり,読みやすくなっているのだろう。

● 以下に転載するところも,そうした諸々の話題に属するものが多い。
 だいたい富者というのは,一代目は努力して立志伝中の人物となり,二代目はまだ一代目の苦労を見ているけれど,三代目になると生まれてからずっと金がある状況でしょ。そうすると,社会的に成熟しない。どこか世間を舐めた感じになる。とくに自分の家がすでに持っているものを手に入れようとして,ほかの人たちが必死に努力している様子が馬鹿に見える。だから,どうしても人を見下すようになる。(内田 p40)
 頭がいいし,人間がよく見えてもいるんだけど,そのせいでこの世はろくでもない人間しかいないと諦め切っていて,世の中を改善する気がない。だから,そういう人のまわりにはろくでもない人間ばかりが集まるようになる。(内田 p41)
● 社会事象の行き過ぎについても語られる。すでに何人もの人が語っていると思うんだけども,いつも確認しておくべきことがらだ。
 いまの動きは行き過ぎに対する補正なので,それも必ず行き過ぎます。(内田 p55)
 分配のフェアネスって,徹底すると,最終的にはポル・ポトになっちゃうんです。持てる者から奪い取って弱者に分配するということを徹底すると,必ずどこかで行き過ぎてしまう。たとえ貧しくても「そこそこ幸せ」と思うことが許されない。(内田 p55)
 正しいことでも「正し過ぎる」と災厄をもたらす。正義が正義になり過ぎないように,いいあんばいのところで手控えるというのは「大人の知恵」ですけど,こういうのは社会的に成熟しないと身に付かないし,不公平に怒っている人たちにそれを要求するのは,ほんとうに難しいんです。(内田 p56)
● 世界は連続体で境界はないんだけれども,人間は境界を引かずにはいられないのだ,という話。
 聖と俗の二項対立。そもそも昼と夜であったり,男と女であったり,善と悪であったり,そういう二項対立の中でしか人間は生きていくことができない。実際の世界はアナログの連続体であって,どこにも境界線なんかありません。でも,人間は境界線を引かずには生きられない。(内田 p175)
 さらにいえば,その境界線にもよいのと悪いのがあるような気がするんです。(中略) 悪いボーダーというのは,「UFOや霊魂なんてあるわけない」と線引きしてしまう,いわゆる「科学主義」です。科学主義と科学は別物です。科学主義というのは「エビデンスがあるかないか」という二項対立でデジタルに切り分けて,エビデンスがいま示されていないものについては,判断を留保するということをしないで,「存在しない」と決めつける態度のことです。硬直しているんです。科学主義の内側にとどまっている限り,科学の進歩なんかないのに。(内田 p175)
 ボーダーを引くのは,何もないより,そこに二項対立があったほうが知的に生産的だからです。その線上に感じのいいインターフェイスが生まれる。(内田 p176)
 二項対立で世界を分節しながらも,同時に「二項対立になじまぬもの」のための場所もとっておいてある。この「なにものであるか決めかねるので,どうなるのか,判断保留してしばらく待つ」という態度は人間の科学的知性にとっても,宗教的感性にとっても,非常に重要なものだという気がするんです。(内田 p177)
 相互参入しているクロスボーダーがいちばん多産的なんじゃないかな。海の文化と山の文化は二項対立的ですけれど,それが例外的な場所では「文化の汽水域」みたいに,相互参入して,入り交じっている。塩水と真水が混じり合うところにたくさん魚が棲息っするように,文化の汽水域にもそこにしかないないような不思議な混交体があれこれと生まれてくる。(内田 p178)
● その他,ぼくの脳にひっかかったところを転載。
 日本人はだんだん知的な負荷に耐えられなくなっている気がします。「話を簡単にしてほしい」「右か左か,どっちでもいいから,早く決めてくれ」という苛立ちを感じますね。(内田 p57)
 僕は多くの宗教研究者がいうほど,キリスト教が土着していないとは思っていないんです。たしかにものすごく時間はかかってはいますが,少しずつ昇華されて,日本人の肌感覚になっている部分も少なくありません。いまや教育や倫理観などはかなりキリスト教をベースにしています。(釈 p114)
 女の人がいるから男は真剣に祭りをやるんですよ。(釈 p134)
 城郭建築はもちろん軍事的な意味もあるんでしょうが,そこで暮らす人の身体感覚の感度を高めるための訓練の装置でもあったんだと思います。(内田 p153)
 成功するコミュニティっていうのは,センターに公共的で開放性の高い空間が確保されていること。その場を守る人がいること。いつ行っても,誰かそこを守る人がいる。そういった開かれた空間と恒常的な守り手がいることが共同的な空間が持続するための条件でしょうね。行ったときにドアが閉まっていることがあると共同体の中心にはなかなかなれないんです。(内田 p158)
 その品物についての物語が面白いわけで,贈与された物自体の価値は副次的なんです。「これについては因縁がある。聞きたいかい? 長い話になるよ」というきっかけになることが大切なんです。(内田 p160)
 六本木ヒルズとかレインボーブリッジとか東京スカイツリーとかミッドタウンとか,そういうのを見るとね,なんだか末期だなって気がするんです。六本木ヒルズには一回しか行ったことないんですけれど,なんか,瘴気漂う空間でしたね。(中略) あそこだって霊的に浄化することはできたんでしょうけれど,そういう装置が何もない。神社仏閣がない。祈りのための空間がない。そういう空間は人間が一定数以上いる場所には絶対に必要なんです。(内田 p162)
 「聖地はスラム化する」というのは,大瀧詠一さんの名言ですけれども,聖地の周りに世俗のものが拡がるのは,別に聖地を穢しているわけじゃなくて,聖地の発する人間的スケールを超えた力を抑制して,宗教的に成熟していない人間でも「服用可能」な強度にまで抑制する。そういう働きをめざしていることじゃないんでしょうか。(内田 p227)
 喜捨や歓待の文化は,自然が苛烈で見知らぬもの同士でもとにかく助け合わないと生きていけないという,やっぱりある種の地理的な状況のうえに成り立っているんだと思います。(内田 p283)
 鈴木大拙が「大地の霊」と呼んだ自然の生命力,野生のエネルギーを受け容れ,それを整えられた身体によって制御する技術,それが武道です。僕はそういうふうに理解しています。だから,道場は霊的に浄化された場所でなければならない。そんなものには何の意味もないと思う人もいるでしょう。人間が動き回れる空間があれば,それで十分だと思っている人は,道場を使っていない時間にはカラオケ教室にでも,こども体操教室にでも貸し出したらどうかというようなことを考えつくのかもしれません。でも「そういうこと」をすると道場の空気が変わってしまう。稽古できる状態に戻すために,それなりの儀礼をしないとはじまらない。(内田 p289)

2014年6月23日月曜日

2014.06.21 内田 樹・釈徹宗 『聖地巡礼 ビギニング』

書名 聖地巡礼 ビギニング
著者 内田 樹
    釈徹宗
発行所 東京書籍
発行年月日 2013.08.23
価格(税別) 1,500円

● 面白かった。対談形式で高度なことをわかりやすく語ってくれているという印象。聖地が聖地であることの種々様々な理由が語られる。
 中沢新一さんのアースダイバー論は以前に読んでなるほどと思ったものだけど,そのときと同じ感じ。が,それだけではない。もっと広範にいろんなことが語られる。

● たとえば,次のような話。
 「ええかーとし子,向こうに行ったら水が変わるから飲み物,食べ物には気いつけてな。人さまのもんにはどんなにほしくても万劫にも手を出したらあかんで。おまえは末っ子やから,帰ってきても家が困るから,どんなつらいことがあっても辛抱せなあかんでー」。 すると,とし子さんがまたうんうんとうなずく。黙って歩いていると,また「ええかー,とし子」がはじまる。(中略) やがてバスが着く。(中略)昔のバスですから,下から押し上げる窓ですよね。あれを開けてバーッと身体をのり出したんですって。ベンチに座っていたお母さんも気づいてダーッと走ってきて,窓の下で二人は一瞬見つめ合ったそうです。 最後のお別れやなと思って茂利先生が見てたら,お母さんの「ええかー,とし子」ってはじまったんです。そしたら今度は「つらかったら何時でも帰って来いよー」というたんですって。そしたらね,「お母さんっ!」って,とし子さんの声を一回だけ聞いたと茂利先生はいうてはりました。(釈 p137)
 釈さんは「この「帰ってこいよ」「お母さん」といった呼応に,宗教の原型を見る思いがします」と引き取り,本来はかなり合理的でクールな宗教である仏教が,日本に移植されるとだいぶウェットになったと総括する。

● 「つらかったら何時でも帰って来いよー」という思いを忍んで,娘を奉公に出さなければならない母親。その思いをわかったうえで覚悟を決めている娘。ここのところの切なさが,この話の通奏低音。
 すべてはその上での解釈だ。ぼくらはこの母親の崇高な境地をかすめることが生涯に一度でもあるかどうか。良い時代に生きていると言っていいのだろう。これ,相当にしんどいもん。

● ほかにいくつか転載。
 この四天王寺とは,日本でもっとも優しいお寺なんです。すべての敗者を受け入れてきましたから。だから荒陵に建てられるのも無理ないんです。荒陵って,生と死の境界線上みたいなところです。『弱法師』でも『しんとく丸』でもここに捨てられたし,施薬院や悲田院がつくられる。死者や敗者が集い,実はそれらは自分の写し身じゃないかととらえて祀る,そんな場所ですね,ここは。(釈 p128)
 いつ行ってもその場所が自分にとって新しく見えたり,あるいは元の自分に戻れたりするような場所があるんです。(釈 p164)
 じつはそういう場所,ぼくにもある。生まれ故郷に近い山(低い山だけど)の尾根道だ。途中,山幅が狭くなって,両側に集落が見える箇所がある。一方は田んぼが伸びやかに拡がる豊かそうな集落。もう一方は耕地が狭くて貧しそうな集落。どっちにしても今は耕地に縛られたりはしていないんだろうけど,そんなことを思わせる場所。
 もっともそれがぼくにとってのそういう場所である理由ではなくて,眼下に蛇行する河があって,田んぼが拡がっていて,その向こうに家々がひかえめに連坦している。それを眺めていると,何とはなしにここはオレがいてもいい場所だと思う。
 宗教というのはぎゅっとエネルギーが集積してしまうものです。でも笑いがそれをポカッと外すような役目をしていて,そこに演劇の原型を見るような気がします。宗教が熱狂的な方向に行ってしまわないために,どこかで脱臼させるような役割は大事だと思うんです。(釈 p171)