2018年11月22日木曜日

2018.11.22 岸見一郎 『三木清『人生論ノート』を読む』

書名 三木清『人生論ノート』を読む
著者 岸見一郎
発行所 白澤社
発行年月日 2016.06.30
価格(税別) 1,800円

● 所々,難解。『人生論ノート』も高1のときの担任の先生が熱烈推薦してた。
 当時読んでも???だったと思うのだが,高校の現代文の教科書には,今思うと,かなり高度な文章が並んでいたな。柳田國男『清光館哀史』とか。
 自分の読書歴の質的ピークは高校の教科書だったかもしれない。

● 以下に転載。
 親しい人が鬼籍に入ると死というものは怖いものではなくなる,そういう気持ちになるというのは事実あることです。(p31)
 我々は我々の愛する者に対して,自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであろうか。(三木 p58)
 愛するもののために死んだ故に彼等は幸福であったのでなく,反対に,彼等は幸福であったが故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。(三木 p60)
 子どもの進学に自分を賭けているという母親は多いようです。しかし,子どもとはいえ,他人です。他人に自分を賭けてどうするのでしょうか。結局,わが子が有名な学校に進学したことを誇りたいということであれば,それは三木のいうとおり「有閑の婦人の虚栄心」だということになるでしょう。(p78)
 自分の考えがあっても,人に合わせてしまう人が多くいます。ある状況でどうするかを自分では決められないので,そこで,他の人の出方を見て追随する。その人たちはその場の,あるいは社会の,時代の空気を読んで行動しているつもりでしょうが,これはまさに三木のいう「虚栄心から模倣し,流行に見を委せる」ことになってしまいます。(p94)
 私が,私が,といっている自分本位の人は,実は個人ではないのです。アドラーの考え方では,関心が自分の方にではなく外に向いていないといけないのです。(p96)
 怒りは人と人を引き離す感情です。(中略)これは子育ての場面で大人がよくおかしてしまう間違いで,叱ることで関係を遠くしておいてから子どもを支援しようとしてもほとんど不可能です。(p128)
 怒りを始めとする感情的な手段に訴えなくても,それについて言葉で説明すればよいのです。そうしないのは,感情は人を支配し,言葉の力が及ばないと考えているからであり,自分が感情に支配されると考える人は,他の人も感情によって支配いうると考えているからです。(p131)
 生理学のない倫理学は,肉体をもたぬ人間と同様,抽象的である。その生理学は一つの技術として体操でなければならない。体操は身体の運動に対する正しい判断の支配であり,それによって精神の無秩序も整えられることができる。(三木 p137)
 すべて小さいことによって生ずるものは小さいことによって生じないようにすることができる。しかし極めて小さいことによってにせよ一旦生じたものは極めて大きな禍を惹き起こすことが可能である。(三木 p138)
 誠実ということを私なりに説明するなら,自分をその状況に参与させること,となるでしょう。混沌から秩序が形成されていくのを離れたところからながめているのではなくて,自らも混沌に秩序をもたらそうと努力することです。(p151)
 孤独は山になく,街にある。一人の人間にあるのでなく,大勢の人間の「間」にあるのである。(三木 p167)
 誰かとお付き合いを始めた時に,相手がどれほど熱烈な愛情を捧げても,ほんとうは愛されていないのではないかと不安に感じるということがあります。相手の愛の言葉を無条件に信頼することができない。それは自分に自信がないからです。(中略)個性的な人とは,自分で自分の価値を見出だせる人です。自分のよさ,価値について,他の誰かからそれを認めてもらう必要がない。(p189)
 過去を思い出している現在がある。現在の関心に照らして思い出されている過去は,過去そのもの,絶対的な過去ではない。今の自分にとって必要な過去,現在の自分にとって都合よく意味づけられた過去でしかない。いま,世間でいわれている「伝統」とはそういうものでしょう。(p204)
 カウンセリングに来られる人たちが過去を持ち出す理由は,現在の自分の正当化です。今の私がこんなにたいへんな思いをしているのは過去のあれやこれやの出来事があったからなんだというのですが,それにこだわっていても問題が解決しない。(p206)

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