著者 岸見一郎
古賀史健
発行所 ダイヤモンド社
発行年月日 2016.02.25
価格(税別) 1,500円
● 自立とは自己中心性からの脱却であり,自己中心性とは子供時代の生存戦略である“いかにすれば愛されるか”をベースにしたライフスタイルのこと。その自己中心性から脱却できるのは,愛する誰かができたとき。まず自分から愛せるようになること。
そのあたりが本書の結論かと。一読すべし。
● 以下に多すぎる転載。
親が子どもを尊敬し,上司が部下を尊敬する。役割として「教える側」に立っている人間が,「教えられる側」に立つ人間のことを敬う。尊敬なきところに良好な対人関係は生まれず,良好な関係なくして言葉を届けることはできません。(中略)なにかの条件を付けるのではなく,「ありのままのその人」を認める。これに勝る尊敬はありません。そしてもし,誰かから「ありのままの自分」を認められたなら,その人は大きな勇気を得るでしょう。尊敬とは,いわば「勇気づけ」の原点でもあるのです。(p41)
その具体的な第一歩がどこにあるか,おわかりになりますか?(中略)じれはきわめて論理的な帰結です。「他者の関心事」に関心を寄せるのです。(中略)あなたの目から見て,どんなに低俗な遊びであろうと,まずはそれがどんなものなのか理解しようとする。(p51)
まったく勉強しようとしない生徒がいる。ここで「なぜ勉強しないんだ」と問いただすのは,いっさいの尊敬を欠いた態度です。そうではなく,まずは「もしも自分が彼と同じ心を持ち,同じ人生を持っていたら」と考える。(中略)これこそが「共感」なのです。(p54)
距離をおいて眺めているだけではいけない、自分が飛び込まなければならない。飛び込むことをしないあなたは,高いところに立って「それは無理だ」「これだけの壁がある」と批評しているだけです。そこに尊敬はなく,共感もありえません。(p55)
「いまの自分」を積極的に肯定しようとするとき,その人の過去はどのようなトーンで彩られると思いますか?(中略)答えはひとつ。すなわち,自分の過去について「いろいろあったけど,これでよかったのだ」と総括するようになる。(p63)
理想には程遠い「いまの自分」を正当化するために,自身の過去を灰色に塗りつぶしておられる。(中略)そして「もしも理想的な学校で,理想的な教師に出会っていたら,自分だってこんなふうじゃなかったのに」と,可能性のなかに生きようとしている。(p64)
過去とは,取り戻すことのできないものではなく,純粋に「存在していない」のです。そこまで踏み込まない限り,目的論の本質には迫れません。(p65)
歴史とは,時代の権力者によって改竄され続ける,巨大な物語です。(中略)個人も同じです。人間は誰もが「わたし」という物語の編纂者であり,その過去は「いまのわたし」の正統性を証明すべく,自由自在に書き換えられていくのです。(中略)過去が「いま」を決めるのではありません。あなたの「いま」が,過去を決めているのです。(p66)
これは過去に縛られているのではありません。その不幸に彩られた過去を,自らが必要としているのです。あえて厳しい言い方をするなら,悲劇という安酒に酔い,不遇なる「いま」のつらさを忘れようとしているのです。(p69)
カウンセリングにやってくる方々は,ほどんどがこのいずれかの話に終始します。自身に降りかかった不幸を涙ながらに訴える。あるいは,自分を責める他者,また自分を取り巻く社会への憎悪を語る。(中略)でも,われわれが語り合うべきことは,ここにはないのです。(中略)われわれが語り合うべきは,まさにこの一点,「これからどうするか」なのです。(p71)
彼個人が心に肺炎を患っているのではあく,すでに学級全体が重篤な肺炎を患っていた。その一症状として,彼の問題行動が表れた。それがアドラー心理学の発想です。(p140)
誰とも競争することなく,勝ちも負けも存在しない。他者とのあいだに知識や経験,また能力の違いがあってもかまわない。学業の成績,仕事の成果に関係なく,すべての人は対等であり,他者と協力することにこそ共同体をつくる意味がある。(p141)
協力したかったのではありません。もっと切実に,単独では生きていけないほど弱かったのです。人間は,その「弱さ」ゆえに集団を形成し,社会を構築した。(p147)
「わたし」の価値を,他者に決めてもらうこと。それは依存です。一方,「わたし」の価値を,自らが決定すること。これを「自立」と呼びます。(p152)
「人と違うこと」に価値を置くのではなく,「わたしであること」に価値を置くのです。(中略)あなたの個性とは,相対的なものではなく,絶対的なものなのですから。(p153)
他者を救うことによって,自らが救われようとする。みずからの一種の救世主に仕立てることによって,自らの価値を実感しようとする。これは劣等感を払拭できない人が,しばしばおちいる優越コンプレックスの一形態であり,一般に「メサイヤ・コンプレックス」と呼ばれています。(p162)
すべての悩みが対人関係であるのなら,その他者との関係を断ち切ってしまえばいいのか? 他者を遠ざけ,自室に引きこもっていればいいのか? それは違います。まったく違います。なぜなら,人間の喜びもまた,対人関係から生まれるのです。「宇宙にひとり」で生きる人は,悩みがない代わりに喜びもない,扁平な一生を送ることになるでしょう。(p177)
分業とは,人類がその身体的劣等性を克服するために獲得した,類い稀なる生存戦略なのだ。・・・・・・アドラーの最終的な結論です。(中略)むしろ,分業するために社会を形成したと言ってもかまわない。(p186)
人間はひとりでは生きていけないのです。孤独に耐えられないとか,話し相手がほしいとかいう以前に,生存のレベルで生きていけない。そして他者と「分業する」ためには,その人のことを信じなければならない。疑っている相手とは,協力することができない。(p188)
ここで大切なのは「誰ひとりとして自分を犠牲にしていない」ということです。つまり,純粋な利己心の組み合わせが,分業を成立させている。(中略)分業社会においては,「利己」を極めると,結果としての「利他」につながっていく。(p191)
分業という観点に立って考えるなら,職業に貴賤はないのです。(中略)すべての仕事は「共同体の誰かがやらねばならないこと」であり,われわれはそれを分担しているだけなのです。(中略)人間の価値は,「どんな仕事に従事するか」によって決まるのではない。その仕事に「どのような態度で取り組むか」によって決まる(p192)
分業をはじめてからの人物評価,また関係のあり方については,能力だけで判断されるものではない。むしろ「この人と一緒に働きたいか?」が大切になってくる。(p193)
われわれの共同体は,「ありとあらゆる仕事」がそこに揃い,それぞれの仕事に従事する人がいることが大切なのです。その多様性こそが,豊かさなのです。(p193)
なにより危険なのは,なにかが善で,なにかが悪であると,中途半端な「正義」を掲げることです。正義に酔いしれた人は,自分以外の価値観を認めることができず,果てには「正義の介入」へと踏み出します。そうした介入の先に待っているのは,自由の奪われた,画一的な社会でしょう。(p194)
わたしは,「わたし」を信じてほしいと思っている。(中略)ゆえにわたしは,先にあなたのことを信じるのです。たとえあなたが信じようとしなくても。(中略)われわれは「自分のことを信じてくれる人」の言葉しか信じようとしません。「意見の正しさ」で相手を判断するのではないのです。(p206)
(ルカによる福音書では)ただ隣人を愛するだけではなく,自分自身を愛するのと同じように愛せよ,と言っているのです。自分を愛することができなければ,他者を愛することもできない。自分を信じることができなければ,他者を信じることもできない。そこまで含んだ言葉だと考えてください。(p209)
仕事によって認められるのは,あなたの「機能」であって,「あなた」ではない。より優れた「機能」の持ち主が現れれば,周囲はそちらになびいていきます。(中略)他者に「信頼」を寄せて,交友の関係に踏み出すこと。それしかありません。われわれは仕事に身を捧げるだけでは幸福を得られないのです。(中略)「わかりえぬ存在」としての他者を信じること。それが信頼です。(p210)
変わるかもしれないし,変わらないかもしれない。でも,結果がどうなるかなど,いま考えることではない。あなたにできることは,いちばん身近な人々に信頼を寄せること,それだけです。(p216)
他者に無条件の信頼を寄せること。尊敬を寄せていくこと。これは「与える」行為です。(中略)そしていま,あなたはなにも与えようとせず,「与えてもらうこと」ばかりを求めている。さながら物乞いのように。金銭的に困窮しているのではなく,心が困窮しているのです。(中略)与えるからこそ,与えられる。「与えてもらうこと」を待っていてはならない。心の物乞いになってはならない。(p218)
われわれはみな,「わたしは誰かの役に立っている」と思えたときにだけ,みずからの価値を実感することができる(中略)。しかし一方,われわれは自分のおこないがほんとうに役立っているのかについて,知る術を持ってません。(中略)そこで浮かび上がるのが,貢献感という言葉です。「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚があれば,それでいい。それ以上の根拠を求める必要はない。貢献感の中に,幸せを見出そう。(p237)
この世に生を享けた当初,われわれは「世界の中心」に君臨しています。周囲の誰もが「わたし」を気にかけ,昼夜を問わずあやし,食事を与え,排泄の世話さえしてくれます。(中略)この独裁者にも似た圧倒的な力。その力の源泉はどこにあるのか? アドラーはそれを「弱さ」だと断言します。(中略)「弱さ」とは,対人関係において恐ろしく強力な武器になる。(p241)
彼ら(新生児)は甘えやわがままで泣いているのではない。生きるためには,「世界の中心」に君臨せざるをえないのです。(p243)
自立とは,「自己中心性」からの脱却なのです。(中略)「世界の中心」であることをやめなければならない。甘やかされた子ども時代のライフスタイルから,脱却しなければならないのです。(中略)そして愛は,「わたし」だった人生の主語を,「わたしたち」に変えます。われわれは愛によって「わたし」から解放され,自立を果たし,ほんとうの意味で世界を受け入れるのです。(p244)
われわれが自らのライフスタイルを選択するとき,その目標は「いかにすれば愛されるか」にならざるをえないのです。われわれはみな,命に直結した生存戦略として「愛されるためのライフスタイル」を選択するのです。(p248)
与えられる愛の支配から抜け出すには,自らの愛を持つ以外にありません。愛すること。愛されるのを待つのではなく,運命を待つのでもなく,自らの意思で誰かを愛すること。それしかないのです。(p256)
あなたはまだ,自分のことを愛せていない。自分のことが尊敬できていないし,信頼できていない。だから愛の関係においても「傷つくに違いない」「みじめな思いをするに違いない」と決めつけてしまう。(中略)だから誰とも愛の関係をきずくことができない。担保のない愛には踏み出せない。・・・・・・これは典型的な劣等コンプレックスの発想です。自らの劣等感を,課題を解決しない言い訳に使っているのですから。(p259)
あなたのように「出会いがない」と嘆く人も,じつは毎日のように誰かと出会っているのです。(中略)しかし,そのささやかな「出会い」を,なにかしらの関係に発展させるには,一定の勇気が必要です。(中略)そこで「関係」に踏み出す勇気をくじかれた人は,どうするか? 「運命の人」という幻想にすがりつくのです。(中略)過大な,ありもしない理想を持ち出すことによって,生きた人間と関わり合いになることを回避する。それが「出会いがない」と嘆く人の正体だと考えてください。(p263)
結婚とは,「対象」を選ぶことではありません。自らの生き方を選ぶことです。(中略)もちろん,誰かとの出会いに「運命」を感じ,その直感に従って結婚を決意した,という人は多いでしょう。しかしそれは,あらかじめ定められた運命だったのではなく,「運命だと信じること」を決意しただけなのです。(p265)
パートナーと一緒に歩んできた長い年月を振り返ったとき,そこに「運命的ななにか」を感じることはあるでしょう。その場合の運命とは,あらかじめ定められていたものではない。偶然に降ってきたものでもない。ふたりの努力で築き上げてきたものであるはずです。(p266)
あなたの願いは「幸せになりたい」ではなく,もっと安直な「楽になりたい」だったのではありませんか? (中略)あなたは,愛する者が背負うべき責任を回避していた。恋愛の果実だけをむさぼり,花に水をやることも,種を植えることもしなかった。(中略)あなたはわずかな勇気しか持っていなかった。だから,わずかに愛することしかできなかった。(p270)
しばしば人は,「最初の一歩」が大切だと言います。そこさえ乗り越えれば大丈夫だと。もちろん最大のターニングポイントは,「最初の一歩」でしょう。しかし,実際の人生は,なんでもない日々という試練は,「最初の一歩」を踏み出したあとからはじまります。ほんとうに試されるのは,歩み続けることの勇気なのです。(p275)
われわれに与えられた時間は有限なものです。そして時間が有限である以上,すべての対人関係は「別れ」を前提に成り立っています。(中略)現実としてわれわれは,別れるために出会うのです。(p277)
ある人から「人間が変わるのに,タイムリミットはあるか?」と質問を受けたアドラーは,「たしかにタイムリミットはある」と答えました。そしていたずらっぽく微笑んで,こう付け加えたのです。「寿命を迎える,その前日までだ」。(p278)

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