著者 野口悠紀雄
発行所 徳間書店
発行年月日 2019.10.02
価格(税別) 890円
● ご用とお急ぎの方は,「はじめに」「序章」と最終章の第8章だけを読めばいいだろう。が,どうも本書の白眉は第7章,つまりKJ法のダメさ加減を完膚なきまでに指摘しているところにある(と思う)。
ぼくも若い頃にKJ法の研修を受けたことがあるが,まったく盛りあがらなかった。自分の受講態度に問題があるのかと思ったのだが,そうではなかった。そのときに,薄々感じていたことではあるのだが,KJ法じたいがダメだったのだ。
● 以下に多すぎる転載。
ものを作ったり,植物を育てたりする場合には,確かに一定の手続きを,指定されているとおりに実行すれば,必ず一定の成果が得られます。これまで提案されてきた発想法の多くは,そのような考えを延長して,「発想においても,一定の手続きにしたがえば,よいアイディアが得られる」という考えのもとになされてきたのです。ところが,発想は,このような定型的な作業によってなされるものではありません。(p3)
発想は必ず模倣から出発するものであり,(中略)真に独創的な考えとは,模倣から出発しながら,模倣にとどまらずにそこから脱却したもののことです。(p4)
とにかく仕事を開始し,継続するのが重要であることも強調します。仕事を続けていれば,何らかのことがきっかけになって,新しいアイディアが生まれるでしょう。(p5)
科学の基本的な方法は,過去に成功したモデルを新しい問題に応用するという「独創的剽窃行為」です。アイディアの発想でも,この方法が最も強力です。「モデル」は,多くの学問分野で基本的な働きをしています。これは,現実を抽象化したものです。(p7)
アイディアは,組み合わせから生じます。そして,組み合わせは頭の中で行われます。あるいは,頭の中でやるほうが効率的です。(p34)
人間の脳は,無意味な組み合わせを排除する能力を持っている。あらゆる知的活動の中で最も重要なのは,「無用なものを試みないで捨てる」という直観力。(p39)
重大な発見がなぜ偶然のきっかけで得られたかについて,ニュートンが明確に答えています。彼は,「どのようにして万有引力の法則を発見できたのか?」と尋ねられて,「いつもそのことを考えていたから」と答えたのです。(中略)重要なのは,きっかけではなく,彼らが「考え続けていたこと」なのです。(p53)
多くの人が,「〈発想法〉という特別の方法があり,発想力を高めるにはそれを学ぶ必要がある」と考えています。しかし,この考えは間違っています。(中略)具体的な対象と独立した「汎用的発想法」というものは,考えにくいのです。「どの問題にどの方法を適用すべきか」といった判断は,実際の問題に即して訓練するほかはありません。(p76)
発想のための方法も,(中略)癖になって無意識のうちに使えるのでなければ,駄目なのです。これは,人間の能力が限られているため,複数のことに同時に注意を集中できないからでしょう。方法論に気を取られていると,肝心の対象からは注意が離れてしまうのです。(p78)
数学の成績を上げるための最も確実な方法は,「数学は独創」という思いこみをやめることです。そして,「数学は定型的パターンの当てはめ」「その意味で,暗記」と割り切ってしまうことです。このような発想の転換ができれば,数学の成績は間違いなく向上します。逆にいうと,「自分が編み出した方法で解かねばならない」とこだわっている限り,数学の成績はよくなりません。(中略)発想一般に関しても,数学の場合と同じように,過去に成功したパターンに当てはめるのが,最も強力な方法です。しかし,数学の場合と同じように,こうした方法を批判する人が多くいます。「パターンに当てはめるだけでは,定型的な思考しかできない。自由に発想しないと創造はできない」というのです。しかし(中略)発想とは,無から有を生み出すことではありません。既存のアイディアを組み替えることなのです。(中略)「模倣なくして創造はない」のです。(p80)
物理学の方法論も,基本的に同じものです。つまり,「古いアイディアを再利用する」のです。例えば,水素原子の古典的なモデルは,陽子の周りを電子が回るというものです。これは,地球の周りを月が回るモデルを借りてきたものです。(p81)
ガリレオの成功は,「本筋に関係ないことは全部切り捨てる」という方法によってもたらされました。これこそが,「モデルを作る」ということの本質的な意味です。そして,このことが,近代科学の基本的な方法論なのです。しかし,切り捨てるのは難しいことです。「たとえ不要な情報でも捨てたくない」というのは,人間の自然な欲求だからです。この欲求に打ち勝つことこそ,物理学で最も重要な態度であると,クラウスは述べています。(p95)
一般に,「理解」のためには,具体的な説明のほうがよいと考えられています。しかし,「発想」のためには,抽象的な形で表現されているほうがよい場合があります。それによって,新しい結びつきが可能になるのです。(p98)
多くの科学において,観測は,仮設を検定するために行います。少なくとも,解明したい問題や主張したい命題がまずあり,それらに関連したデータを集めて分析するのです。最初から闇雲にデータを集めても,「理論なき計測」になってしまいます。(p104)
「遊び」ができるのは,高等動物に限られます。長時間遊びに熱中できるのは,人間だけです。(中略)重要なのは,好奇心が持続するという点です。進化の頂点にある生物にこのような能力が与えられているのは,決して偶然のことではないでしょう。遊びには,きっと深い理由があるに違いありません。(中略)実際,科学者は強い好奇心だけに導かれて研究に没頭します。その意味では,遊びと同じことをやっているのです。(p113)
発想の必要条件は,「考え続けること」です。考えていないときに発見や発想が天から降ってくることはありえません。(中略)考え続けるためには,その前提として,仕事に関して現役である必要があります。(中略)潜在意識で発想が進むためには,関連情報が頭に残っている必要があります。(p122)
PCの最大の特徴は,編集が著しく容易なことです。(中略)清書という余計な労力なしに,つねに最新版の文章が読みやすい形で得られます。そこで,紙の場合とは異なる書き方になります。(中略)紙の場合のように一方向的に順を追って書くのではなく,「行きつ戻りつ」という書き方になります。(中略)このため,きわめて大量の書き直しを行うことになります。(p126)
「仕事を始めること」は,絶大な効果をもたらします。なぜなら,その仕事について考えるようになるからです。(中略)これは,大変重要な意味を持ちます。なぜなら,新しい発想は「考え続けることによって生まれる」からです。(中略)構えてしまって仕事に取り掛かれないでいると,この段階には入れません。(p130)
書いた文書は,あたかも他人が書いた文書のように批判的に読むことができる。これによって,自分自身との会話ができる。(p133)
頭に材料を一杯に詰め込んでから散歩すると,「材料が頭の中で撹拌されて」,発想ができるような気がします。(中略)少なくとも,体を動かすことは,発想にプラスの影響を与えるようです。「歩く」ことは,アイディアを得るための,最も手軽で最も確実な技術です。(p137)
こま切れの仕事に時間を取られ,多くの人と会う生活に明け暮れていては,「発想」はできません。手帳を予定で埋め尽くしている人は,発想とは無縁でしょう。(p141)
ホワイトボードにマーカーで書くことには,どうしてもなじめません。単なる懐古趣味かもしれませんが,黒板からホワイトボードへの変更は,大学の知的レベルの低下を象徴しているように思えます。(p155)
カジュアルな接触や簡単な意見交換を行なうための溜まり場が研究者には不可欠でるにもかかわらず,日本の大学や研究所には,なかなか見当たりません。(中略)大学院生も,研究室は要求するにもかかわらず,集会室は要求しません。これは,日本の研究スタイルが,「研究室閉じこもりスタイル」であることを如実に示しています。(p167)
読書は,うまく行えば,著者とのディスカッションとなります。対話の相手として読むことができるのです。したがって,本は,理想的なインキュベーターの代替物となります。(中略)しかも,相手は,現在生きている人に限られません。歴史上の最高の頭脳と対話することもできるわけです。考えてみれば,素晴らしいことです。(p174)
本を読むとき,多くの人は,学ぶ姿勢で読みます。(中略)しかし,ここで述べている読書は,受動的に読むのではなく,能動的・積極的に読むのです。対話するつもりで,本に語り掛ける。大袈裟にいえば,本と格闘するのです。このためには,こちらで問題意識を持っていることが必要です。読み手の頭が空では駄目です。(p176)
私の観察では,官僚病患者は,中央官庁より地方や関連組織に多く見られます。そして,幹部職員よりは下級職員に多く見られます。また,日本の大企業の多くは,官庁より官僚的です。こうした組織が,創造的な日本人の潜在力をなんと無駄にしていることか。これらのエネルギーが解放されたら,日本は大きく変わるでしょう。問題は,個人の能力でなく,それを殺してしまう社会制度なのです。(p231)
官僚組織とは,小さな失敗を認めないために,知らぬうちに大きな失敗を犯す組織なのです。(p234)
私は,(KJ法に代表される)マニュアル的発想法に頼ろうと思ったことはありません。その理由は非常に簡単です。これらを使って優れた発想が生まれたという実例を,知らないからです。(p244)
「定型的なルールを覚え,それにしたがわなければならないのだとすると,発想とは何と面倒で退屈な作業だろう」と,私は感じます。(中略)自由であるべき発想を,定型的な方法に閉じ込め,一定の手続きで行われなければならないというのは,本質的なところで誤っています。(p248)
思考は,最終的には文章,図,数式などの形で顕現化されます。ですから,どこかの段階で,形のあるものとして外部化されなければならないのは事実です。問題は,「どの段階で外部化するか」なのです。KJ法は,これを素材の段階(あるいはそれに近い段階)で行っています。つまり,まとまりのない四国の断片を書き出し,それらの関連付けを物理的な作業として行なおうとしています。そのことを川喜田氏は,「データをして語らしめる」と述べています。しかし,まさにこの点こどが問題なのです。(中略)コンピュータにたとえれば,KJ法は,いちいち外部メモリと情報交換するようなものです。したがって,スピードが著しく遅くなります。発想のためのデータはワーキング・メモリーになければならないのです。そして,高速の情報処理をやらないと駄目なのです。このように,「普通の人は頭の中でやっている作業を,なぜわざわざカードに書く必要があるか?」という点が,KJ法に対する最大の疑問です。(p256)
より本質的な問題は,「日常的な観察,見かえ上の関係,あるいは表面上の類似性などに囚われては,真の関係は見ぬけない」ということです。(中略)もし人類がKJ法的な方法にこだわっており,「データをして語らしめる」という方法論から抜け出せなかったら,近代科学は生まれなかったでしょう。(p261)
関連付けを考えたり,マトリックスで考えたりという方法は,部分的には,あるいは無意識的には,われわれが日常的に行なっていることなのです。問題は,それを定式化し,ルール化することです。そして,ルール化された手続きに固執することであり,「そのルールにしたがえば自動的に発想できる」と依存してしまうことです。(p262)
他人の研究を読まないことによってのみ独創的である人もいるが,これはしばしば見せかけの独創性であり,シュンペーターが〈主観的独創性〉と皮肉って呼んでいたところのものである。(サミュエルソン p277)
積極的に求め,挑戦しなければ,何事も起こりません。しかも,時間さえかければ結果が生まれるというわけでもありません。真剣にならなければ,決して成果は生まれません。そして,必要性がなければ人間は真剣になりません。ですから,どうしても何かを生み出したいという,強いインセンティブとモチベーションがなければなりません。そうでなければ,寝食を忘れて仕事に没頭する状態にはならないでしょう。(p280)
創造的活動を行なうのに,高い知的能力は必要でしょうか? これに関して,つぎのような話があります。ある出版社の社長が,創造性がない社員が多いことを心配して,心理学者に調査を依頼しました。1年間社員を綿密に調査した結果,創造性のある人々とない人々の間には,たった1つの差異しかないことが発見されました。それは,「創造的な人々は自分が創造的だと思っており,創造的でない人々は自分が創造的でないと思っている」ということでした。(中略)これは,歴史上の大学社や文学者などを見ても裏付けられます。発想や創造に知能指数はあまり関係がないのです。(p290)

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