著者 櫻井秀勲
発行所 きずな出版
発行年月日 2019.10.01
価格(税別) 1,600円
● 皇位は皇統に属する男系の男子がつないでいく。のだが,ぼくら庶民も同じだけれど,その家の文化は母から子につながれる。
それも含めて,皇后とは絶大な苦労の別名かというのが読後感。男子を生まなければというプレッシャーだけでも尋常じゃない。
● 天皇は国政に関する権能を有しない。だったら,政府がしっかりしてれば,天皇なんて誰でもいいか。
そんなわけがない。誰でもそう思うだろうが,そうである所以を平明に説いている。
● 著者も雅子妃に否定的で,雅子妃をたしなめることのできない皇太子(現天皇)にも苦言を呈していたと記憶する。そのあたりを踏まえてくれるともっと深味がでるんじゃないかと思いながら読んでいったのだが,最後にそのあたりのことがサラッと書かれている。
現時点ではサラッとしか書けないし,サラッと書けば充分ということなのだろう。雅子妃に対する著者の見方が変わったということもある。雅子妃御自身も皇后になって変わられたということもあるのかもしれない。
● 以下に転載。
皇太子のお妃になられる女性は皇后学を学ぶことになります。私は正田美智子さまが皇后学を学ぶために宮内庁分室に通い始めた頃から,ずっと「皇后学」の様子を見つづけていましたが,この勉強が相当きついものであったことを知っています。(p19)
美智子さまが初の男子となる浩宮さま(現・天皇陛下)を抱いて,宮内庁病院から東宮仮御所にお帰りになるとき,車の窓を下ろして,記者団に写真を撮りやすくしたことがあります。これが後に,学習院派と呼ばれる常磐会の人たちからいじめを受ける原因になったのです。彼らは「天皇陛下にお世継ぎの皇太子のお顔を見せる前に,庶民に見せるとは何事か!」と,問題視したのです。(p20)
日本の歴代の皇后には「男子を出産する」という任務がありました。(中略)これは皇后になる女性にとって,非常にきびしいもので,出産だけは,本人の自由にならないことでもあるからです。(p25)
天皇家といえども,現在の一二六代までに来るには,さまざまな事件や戦いがあったからです。いい換えれば「男子」を得るための女御合戦,という側面もあったのです。これは戦国時代の大名たちも同じでした。織田家も豊臣家も徳川家も,優秀な世継ぎを得ることに力を注ぎました。それに勝ったのが徳川家であり,だからこそ,約三〇〇年もの長い幕府時代が続いたのです。どの家系も,正夫人だけでは家系がなかなかつづきませんでした。それは天皇家といえども同様です。(p27)
昭和二〇年までの日本は,神国日本であり,天皇は現人神と呼ばれていました。(中略)なぜそうなったかについては,むずかしい議論もありますが,米英と戦うとき,一神教であるキリスト教徒と戦うには,こちらも一神教にしないと,戦争に対する概念が,バラバラになりかねなかったからです。(p45)
(昭和)天皇の心の中には「全責任は自分」という覚悟があったので「自分の家族を幸せにする」ことは考えていなかった,といえば嘘になるでしょうが,全国民の幸せを優先していることは,誰が観ても明らかでした。(p51)
常磐会とは学習院女子中・高等科卒業生の同窓会です。戦後新設された学習院女子短大(現・学習院女子大)や学習院大学だけの卒業生の入会は認められていません。(p57)
恐らく近代の皇后の中で,香淳皇后ほど歴代皇后の事跡を学んだ方はいらっしゃらないのではないか,と思うのです。その辺の家のおばさんとは,天と地ほど隔絶した天皇家であり,皇后なのです。香淳皇后が「あの人嫌い!」というわけがありません。千数百年にわたって,連綿と継承されてきた皇后というものの地位を,自分が穢してはいけない。この一心だったのではないでしょうか?(p62)
華族であれば,血筋はすぐ判明します。ところが庶民になると,まったくわかりません。実際,東宮御教育常時参与として皇太子明仁親王の教育責任者だった小泉信三博士(元・慶應義塾大学塾長)は,それこそ正田家の家系を三〇〇年,さかのぼって調査したといっています。それが天皇家というものの存在価値なのかもしれません。(p63)
皇后は(昭和)天皇を「お上」と呼び,天皇は「良宮」と呼んでいたと言われます。これで見ると,ご夫妻でありながら,常に公的なものが感じられます。これは一般市民に似たものがあり,男たちは家に帰ってきても,仕事を忘れない一面があるものです。(p70)
昭和天皇は社会の変化に先行して,知人や考え方を切り換えていったのですが,皇后は長年,つき合っている友人や仲間を,変えられるわけではありません。いや,宮中に新しい女性の友人など,入れるわけがありませんでした。ここに天皇と皇后の,皇居内でのルールがあります。(p71)
これは私のまったくの推測ですが,昭和天皇は神から人間に戻らえたことにより,皇室のあり方を新しく開かれたものにしたい,とお考えになっていたように思います。(中略)しかし,それは自分の代にはできません。そこで皇太子に任せようとしたのではないでしょうか?(p72)
皇室が明るくなれば,日本の社会全体も明るくなります。それに,美智子さまのすばらしい点は,単に一人の女性のロマンスだけで終わらせなかったところです。(中略)その後,ファッションでもミッチーブームを起こしましたし,「ナルちゃん憲法」によって育児の分野でもブームを起こしています。(p74)
諸外国の王室を見回してみても,美智子皇后に匹敵するような国王のお妃はいないでしょう。私たちはもっと,美智子皇后の事跡を高く評価していいのではないでしょうか。(p76)
彼のいうところを要約すると,ハワイの日本人はまだ一世が残っており,彼らはもともと皇室への尊崇の念が強く,そこに美智子妃ブームが日本と同じように起こっているというのです。(中略)それまで毎週毎週,皇太子ご一家の動静を報じるのに,やや,じくじたるものがあったのですが,この夜で私の考えは大きく変わったのです。(p82)
このとき,美智子さまを強烈に排除しようとした,松平信子という華族で,学習院常磐会々長の女性が,礼儀作法を教えています。松平はのちに,「だから一般の方では困るのよ。宮中の礼儀をお知りにならないのだから」と,いかにも一般人は困ったものだ,というふうに,大勢のマスコミの前で語ったことがありましたが,ともかく学習院出身でないことが,とことん許せなかったのでしょう。(p85)
私はたった一回だけ,美智子妃殿下時代に,妃殿下の母上の正田富美子さんと会っています。(中略)また私にはなぜ富美子さんが「会いたい」といってきたか,ほぼわかっていました。それというのも,一年ほど前から,美智子妃がノイローゼ状態になっていたからでした。(中略)話の内容は私の考え通り,流産とその以後のいじめについてでしたが,ここでは書けないほど生々しいもので,まさに元皇族,華族夫人たちの総攻撃という有りさまでした。(p88)
皇后時代の美智子さまは,本当に苦労された,といえるでしょう。古い魔物は自分から滅んでいかないかぎり,退治することは不可能でした。なぜならこちらは美智子さまお一人に対し,常磐会のメンバーだけでも,約八〇〇人いたのです。(中略)とはいえ,古い世代は時間と共に,少なくなっていきます。世の中というのは,時間と共に新しくなっていくものです。そしてここが大事ですが,皇后が活躍するためには,天皇が聡明でなければなりません。日本国にとって幸いだったのは,平成,令和時代を治める二人の天皇が,非常に聡明であり,その上に進取,革新的な性格をもっていることです。(p92)
菊栄親睦会とは,元皇族たちの団体です。(中略)親睦会の会員は旧皇室への憧れが強く,全員が旧宮家のメンバーだったのです。そのため,庶民階級から皇室に入った美智子妃へのいやがらせは,ピークに達していました。庶民に皇室の伝統を汚されていはいけないと,浩宮がまだ美智子さまのお腹にいた頃,廊下に油をまいて滑りやすくした事件もあったと聞いています。私はこの話を常磐会の幹部から聞いているので,そちらでも驚いたということでしょう。(p98)
皇室には二〇〇〇年に及ぶ歴史があります。大企業が「わが社の伝統」といっても,たかだか何百年というと,つい最近の話になってしまいます。(中略)「伝統なんて古いことをいうな!」という人もいるかもしれません。だた,これだけ長くつづくと,それを断ち切ることがいかに難しいか,わかるでしょう。その長い伝統の中でも不要なものを見つけつつ,新しい皇室に脱皮させた美智子皇后は,やはり尋常な女性ではないのです。(p100)
どんな問題でも攻める側と守る側に分かれるのは当たり前で,守旧派は意地悪く見えるものです。その理由はどんな問題のときもそうですが,守る側は「経験と立場,地位」を大事にします。美智子さまにはその三つともありません。(p102)
私はたまたま加賀百万石の大々名の一族,前田利家の直径の子孫,前田利為侯爵の長女の酒井美意子さんと懇意になりました。彼女は先祖が何万石か何十万石か,あるいは百万石なのかで,身分も日常生活も大きく変わると話していました。一般市民である私たちが実感する機械はなかなかないのですが,つい先頃まで,この身分制度は私たちの周りに残っていたのです。(p105)
昭和三四年四月の正田美智子さんと皇太子のご成婚は,当時の日本社会を大きく転換させました。どういうことかというと,世の多くの女性たちが,四年制大学に注目しはじめたのです。(中略)当時,女子が四年制大学に進学する率は二パーセント台でした。(p116)
日本人はこれまで,天皇家の「結婚と出産」を目標にしてきた,という話があります。「何歳で結婚されたか,子どもの人数は何人か」を真似るというのです。(p122)
日本の皇室や世界の王室で,もっとも大事な点は,国民から愛され,慕われる,という点でしょう。明治,大正,昭和とつづいた皇室は,天皇の魅力によって形づくられてきました。この三代の皇后はどちらかといえば,表には出ず,陰にあって天皇を助ける立場であることが多いものでした。ところが平成,令和の時代は,世界も日本も,比較的平和ということもあって,皇后の魅力が重要になってきました。(p134)
古今東西,嫁と姑の考えが一致するなど,ありえません。姑はすでに古い考えになってしまっているのです。(p144)
美智子さまのときは,常磐会の女性たちから追い詰められたのですが,雅子さまは宮内庁長官から追い詰められたのです。(中略)精神的な衰弱が激しいと発表しておきながら,宮内庁長官は,それをさらに強めるような発言をしたのです。つまり「もう,あなたには男子出産は期待していません。秋篠宮さまにお願いしますよ」という通告をしたも同然だったのです。(p144)
いつの間にか日本は,多民族国家になりつつあります。(中略)そこで大切なことは,どんな民族,どんな言語を扱う人々にとっても,理解できる存在でなければなりません。(中略)つまり非言語コミュニケーションのマスターでなければならないのです。(中略)雅子皇后を見ていると,若い頃から諸外国に住んでいたためか,微笑,手の動作,身体の位置など,言葉以外での意思の伝え方が非常にお上手です。(p150)
どの家庭でもそうですが,長男の嫁と次男以下の嫁のあり方は違います。長男の嫁にはきびしく,またそのお嫁さんが生んだ子には,一家揃って育てようとするものです。(p160)
雅子さまは特に外務省のキャリアだっただけに,通訳を通さず,ほとんどの外国要人と話が通じます。(中略)これは余人をもって,代えがたいものがあります。首相夫人でも,各国の王族とフランクにしゃべるわけにはいかないからです。(p177)
皇太子は次の天皇の位に就く立場にあるため,むしろ周囲に遠慮がちになります。そしてそれが国民の好感を呼んだのです。ところが秋篠宮さまは,ご自分のお子たちの教育を,宮内庁や周囲の人々に相談し,その意見を聴いたとは思えません。(p188)

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