2020年6月26日金曜日

2020.06.26 和田秀樹 『自分が高齢になるということ』

書名 自分が高齢になるということ
著者 和田秀樹
発行所 新講社
発行年月日 2018.06.27
価格(税別) 900円

● 認知症は癌と同じ。長生きすれば罹患するものと考えておかなければならない。親がボケたらどう接すればいいかという問題もある。本書はそれに答えるもの。
 それ以前に,認知症なるものを正しく認識するために,読んでおくとお得な本。

● 老いたら,ノルマや義務からは解放されるのだから,子どもに帰ったつもりになって楽しいことを追いかけろ,という。
 なるほどと思うわけだ。では,その楽しいことを抱えている老人はさて,どのくらいいるだろうか。本書の論調は,老人になってからでもそれは見つかるということなのだけども,そう上手くいくかどうか。
 可能であれば,老人になる前に見つけておけるといい。何でもいいと思うのだが,それを見つけておければ,退職金が1,000万円増えることよりも価値があるだろう。

● 以下に転載。
 高齢者は,正常値にこだわりすぎて血圧や血糖値を下げますが,下げすぎないほうが調子がいい(p5)
 認知症になったりした場合,頭や体を趣味や生きがいなどに積極的につかていると衰えが遅くなる(p5)
 ボケないにこしたことはありませんが,確率が2分の1ならそうなる前提で生きるしかありません。(p29)
 わたしは晩年が幸せならその人は幸せな人生だったと考えています。(中略)若いときにどんなに成功しても,あるいは大勢の人に取り囲まれ持ち上げられていても,老いて誰も寄りつかず,家族からも避けられて孤独になってしまう老人の人生を幸せとは思えません。(p29)
 いくら頭がしっかりしていても,何の刺激も楽しみもない日々を過ごすくらいなら,ボケてもいいから屈託のない笑い声を上げる生活のほうがはるかに幸せな日々だと思います。(p39)
 過去の嫌な思い出,毎日の決まりきった約束事,そういうものからすべて解き放たれて,楽しい思い出に浸ってのんびりと過ごすことができるのなら,それは幸せな時間ということもできます。ボケることでそういう時間を取り戻せるとしたら,認知症はわたしたちの人生の最後に用意されているプレゼントと受け止めることだってできます。(P44)
 認知症は,つらい記憶でも自分の都合のいいように書き換えてしまう力があるからです。(中略)もし,自分の親が認知症になったとしても,本人の記憶を「それは違うよ」とか,「あのときはこうだった」と打ち消すのは意味がないと言うべきでしょう。その人の中に生きている物語をそのまま受け入れたほうが,本人はもちろん,見守る家族も楽になるからです。(p46)
 よく問題にされてしまう「徘徊」にしても,実際にはぼく一部の人の症状にすぎず,大部分の人は地域や家族に見守られながら穏やかに暮らしているという現実こそ,もっと注目されてもいいはずです。(p49)
 ボケを蔑視したり,無用な恐れを持ってしまうと,自分が認知症とわかったときに「できなくなること」だけを思い浮かべてしまいます。(中略)すると,できることがあるのにそれもやらないで,閉じこもってしまうようになりかねません。これではせっかく残っている能力(残存能力)も活用されなくなりますから,脳の老化がさらに進んでしまいます。(p62)
 この「周りに迷惑をかける」という気持ちが,認知症への拒否反応をどうしても引き起こしてしまいます。(中略)極端な言い方をすれば,高齢になっても人生を楽しもうとする限り,周りに迷惑をかけることは避けられないのです。(p65)
 認知症の進行を早める生活スタイルの一つとして,「人と会わない」「出かけない」というパターンが有るということです。出かければ迷惑をかけるという考え方のほうが,どんどん認知症を進めてしまい,結局は迷惑をかけることになってしまうのです。(p70)
 認知症を進めてしまう生活スタイルがもう一つあります。「あきらめ」です。(中略)いまできることまであきらめてしまうようになると,認知症はその進み方も早くなってしまいます。(p71)
 認知症患者と接してきて感じるのは,あまりプライドが高いといいボケ方をしないなということです。(中略)いいボケ方をする老人は,その点で屈託がないというか,洒脱なところがあります。(p75)
 少しぐらい不自由を感じても,まだまだ人生を楽しむことはできます。むしろいちばんみっともないのは,つまらなそうに生きている高齢者です。何の楽しみもなく,ただしょぼくれている高齢者です。(中略)いくつになっても溌剌さを失わず,楽しそうに生きている高齢者を目指すべきです。(p80)
 うつ病は改善するけれど認知症は治らない・・・・・・。そのことだけを聞けば,「やっぱり認知症にはなりたくないな」と思うかもしれませんが,わたしに言わせれば逆です。(p86)
 そもそも高齢になるということは,いろいろなノルマや責任から解放されてくるということですから,わざわざ窮屈なルールで自分を縛る必要はないはずです。そのかわり,やりたいこと,好きなことはボケても遠慮なく愉しめばいいのです。(p96)
 出かけるのは嫌いで本を読むのが好き,映画を観ているときがいちばん楽しいというのでしたら,それでちっとも構いません。「閉じこもってばかりいると早くボケる」という人もいますが,要はその人にとって楽しいこと,幸せな時間を大切にすればいいのです。もちろん人と会って話すことは脳にも刺激を与えます。でもそれは,本人が会話を楽しんでいるときです。(p98)
 うつにならないためには,この楽な気持ちで生きるというのが大切な習慣になってきます。同時に機嫌のいいボケになることができます。妄想や徘徊はほとんどの場合,不満や怒りといった悪感情がきっかけとなって起こりますから,感情が安定すれば収まります。すると周囲の人たちとも笑顔でつき合うことができます。(p100)
 もしあなたの家族のだれかがボケたとしても,その人にはあなたと同じ感情があり,あなたと同じように楽しく暮らしたという気持ちがあります。不機嫌に暮らしたいと望む人なんかいないのです。(p107)
 「おばあちゃん,今日は何日だっけ?」とか「何曜日高わかる?」といった質問調の問いかけはやめましょう。(中略)記憶力のトレーニングとか,思い出すトレーニングのつもりだとしても,認知症の高齢者にとっては無用なストレスを与えることになりかねないからです。(p112)
 ところが気がついてみると,取引先の担当者も同業者も,みんな自分より年下になっています。「そうなるとちょっと,居心地悪いね。自分より若い人がすごく熱心で意欲的だし,頼もしくさえ見えるのに,わたしはこの30年,何をやってきたんだろうと考えてしまう」この感覚に納得する人は多いと思います。(p129)
 ボケてもいないのにプライドにこだわって他人に教えてもらうのを嫌がる人なんか,「小さい,小さい」ですね。本人は誇り高い人間のつもりかもしれませんが,たぶん,元気なボケ老人から笑われてしまうでしょう。(p135)
 もしかするとあなたの中にはまだ,役に立つこと,ためになることを優先させなくちゃという気持ちが残っているかもしれません。それもかなり強くです。(中略)でも,楽しいことを優先させ,それで機嫌よく暮らすことができれば,周りの人にとっても好人物です。いつ会っても楽しそうにしている人を見ると,こちらまで楽しい気持ちになってきます。(中略)だれかの役に立ちたいという気持ちはもちろん大切ですが,自分が楽しくなければだんだん意欲も薄れます。(p162)
 60代になって突然に夢中になれる世界に出合えば,「ああ,若いときから始めていればなあ」と時間を巻き戻したい気持ちになるでしょう。でも,30年前に出合ったとしても何の興味も持たなかったかもしれないのです。(p168)
 分別とか威厳とか,そういうしかめっ面も捨てましょう。簡単にいえば,自分の子ども時代に返る気持ちになってみましょう。ボケればどうせ,子どもに返ります。すぐ忘れる,すぐ頼る,嫌なことがあってもケロッとしている,楽しいことだけ追いかける,そういったことは全部,子どもだから許されることですが,老いの特権でもあるのです。(p171)
 ボケればどうせ,自分の歳なんかわからなくなります。というより,どうでもよくなります。好きなことに熱中して暮らしても同じです。いま何歳なのかも忘れてしまいます。(p173)
 愛されるボケには,周りの人を幸せにする力があります。つまりどんなにボケても,できることがあるのです。そのことにぜひ,気がついてください。(p183)

0 件のコメント:

コメントを投稿