著者 鷲田清一
永江 朗
発行所 ちくま文庫
発行年月日 2011.04.10(単行本:2008.02)
価格(税別) 800円
● 「〈殺し文句〉から入る哲学入門」というんだけれども,その〈殺し文句〉すら,何やらぼくには理解できず。わからなくても,その言い方をカッコイイと思える人は,哲学に向かう資格があるのかもしれない。ぼくにはカッコイイと思える感覚もなかったから,哲学には無縁の徒ということになるな。
本書を読み終えたあとも,本書で紹介されている哲学書のどれかを読んでみようとは思えないでいる。
● ただ,引っかかったところはいくつかある。
オルテガは「二〇世紀でいちばん大衆的な人は,何といっても科学者だ」と言っているらしい(p54)。「そのココロはというと,彼らは自分には知らないことがないと思っている」からだというんだけれど,本当かね。そんな科学者がいるのか。
例として,「ノーベル賞をもらったらみんな急に文明評論をはじめるじゃないですか。教育論とかね。ぜんぜん知らない領域ですよ。(中略)それは大衆の典型じゃないですか」ということが挙げられる。江崎玲於奈さんのことですかね。彼はむしろ例外なんじゃないですか。
どちらかというと,世間の側がノーベル賞をもらった科学者にそういう役柄を求めて,有無を言わさずやらせてしまうってことじゃないのかねぇ。
● 以下にいくつか転載。
介護は絶対に肉親がしてはいけませんね。他人だったらビジネスとしてのサーバントですむけど,肉親だと存在そのものがサーバントになってしまう。これは耐えられませんよ。(永江 p100)
何年か前に,「なぜ人を殺してはいけないのか」という議論があったでしょう。(中略)僕はあれを観てカチンときた。だってそんな質問はあらへんでしょう。言うなら「なぜあなたを・・・・・・」と言うべき。そして目の前で「なぜあなたを殺してはいけないんですか」と問われたら,僕はそんな問いには絶対応えへん。(鷲田 p117)
レヴィナスはわざと日常用語を使っている。人間の日常というのはとても複雑で,哲学はシンプルなんです。生まれて育って結婚して子供を育ててみたいなことを全部哲学にすると,こんなになっちゃう。平凡な人間の日常について徹底的につきあって書くとこうなる。(内田樹 p119)
臨床というと,「みんな苦労してはるな。助けにいこか」とか,「ケアしないといけない」とか思うかもしれないけど,僕はそういう臨床ってあんまり好きじゃない。そやなしに,「こんなもんや」と思っていた場所があって,助けにいこうと思って,そこに実際に立ってみると,いままでわかっていたはずのものが壊れていく。それが臨床やと僕は思う。(鷲田 p122)
鷲田 思想家というのはブルドーザーみたいなものだというイメージが,僕にはあるんですよ。(中略)書斎で瞑想にふけっているのではなく,「こうでないとおかしい!」という衝迫が先にあって,それを証明するために論理的に考える。(中略)永井 緻密に考えを進めていったら結論が見えたというのではなくて,先に結論があって,そこに行く最短距離をどうやったら論理的に作れるかを考える。(p263)これは,科学者もそうだと思う。ひらめきのない人は哲学者にも科学者にもなれない。新商品の企画や開発もそうでしょう。市場調査をいくら積みあげたってダメだ。
ハピネスって,ハプニング(happening)なんですよ。ハプ(hap)っていうのはもともと北ヨーロッパ系の言葉で,幸運とか,たまたま起こるっていうことを意味する語。これまでのハピネスのイメージって,がんばったらそのご褒美として達成できるっていうイメージだったじゃないですか。ところが二〇年ぐらい前からかなあ,女の子が「ラッキー!」っていうようになった。いいことがあったらラッキーなんですよ。これは幸福論にとって本質的なことです。(鷲田 p302)
0 件のコメント:
コメントを投稿