2017年10月21日土曜日

2017.10.21 外山滋比古 『20歳からの人生の考え方』

書名 20歳からの人生の考え方
著者 外山滋比古
発行所 海竜社
発行年月日 2013.05.29
価格(税別) 1,300円

● 外山人気は今も持続しているようだ。90歳を超えてなお,出版ペースが落ちない。それ自体が人気の理由のひとつなのだろう。

● 20歳にここまで求めるのは酷のように思う。それは20歳の自分を顧みて感じることで,普通に優秀な人は,このあたりのことには気づいているのかもしれないけれど。

● 以下にいくつか転載。っていうか,少し多すぎるかもしれない。
 本に書いてあったことを自分の考え,知識のようにふりまわすのは趣味がよくない。いわゆる知識人に反感をもつことが,年とともに多くなった。知識,教養を疑うようになった。(中略)ものまねはやめよう。自分の責任で新しいことを考え出そう。(中略)たとえ間違っていても自分の頭で考えたことは独創である。人間は独創によってのみ進化する。模倣では変化を起こすことはできても,創造はできないのではないか(p9)
 弱は能く強を制す,というが,そうではない。強は勝手に自滅するのである。(p15)
 失敗をおそれては逆上がりだってできない。失敗先行である。成功先行を望むのは人情かもしれないが,それでは何もできない。(中略)マイナスがあってプラスが続く。そのマイナスが大きいほどプラスも大きくなる。(p18)
 いけないのは三代目である。個人の問題ではない。その役まわりになったのはむしろ犠牲であった。だれがなっても三代目では勝ち目が少ない。(p24)
 思考力は困ったとき,苦しいときに働くもののようである。何不足ない状況では思考はしばしば,眠っている。(p31)
 思考を育てるにはあまりよけいな本など読まないことである。ことに,すぐれた本は敬遠するほうが賢明である。いささか困った矛盾である。(p33)
 勉強家,博学多識の人は概して模倣的になりやすいのは是非もない。(p35)
 発憤というのは,この内燃化した我慢をもとに大きなことを動かす心的活動だと考えることができると思われる。発憤には,内圧の高まった我慢の蓄積がないといけないのだが,そのストレスは多く,不幸,苦難によって生ずる。(中略)不幸(?)にして,恵まれた環境に育つものは,苦難,困窮にあうことも少なく,したがって,発憤のチャンスも少ない。恵まれた育ち方をした人間の背負っているハンディキャップである。(p42)
 ある有名な女性の作家が,「描写が大切である。比喩に逃げるのはいけない」と述べていると聞いてひどく反発を覚えた。比喩に逃げるのではなく,描写できないものは比喩を援用して表現するほかはない。新しい考えを伝えるには比喩はもっとも有効な手法である。小説家は勝手な作り話をするしか能がない。未知,抽象などを相手にしないから比喩をバカにできる。(p50)
 十九世紀までの歴史家は,歴史は過去を再現できると信じた。いまなお,そう考える歴史家がいるようだが,時というものの存在をよく考えないための錯覚である。歴史は過去のあるがままを再現することはできない。(中略)歴史は過去の現実,事実をそのものを表しているのではなく,時によって生まれたものだからである。(p64)
 事実ということから言えば,歴史はウソを含んでいるが,ウソが入らないところからは歴史は生まれない。(p65)
 富士山の近くに住む人は,そして遠望の富士を見たことのない人は,そもそも,富士が美しいなどと感ずることもない。(中略)遠くからやって来た人は,地元の人の知らなかった価値を苦もなく見つけることができる(p68)
 ヨーロッパに“名著を読んだら著者に会うな”ということわざがある。(中略)読んで感銘を受けるのは,どこにいるかわからない人の書いた本だからである。(p69)
 カネを出すほうが,受け取るほうより強いのである。供給が需要に追いつかなかった長い間,人々は,この大原則に気づかなかった。供給過剰になって初めて消費者は選択肢が自分の側にあることに気づいて自覚・自立する。(p81)
 ことわざを読み解くのはへたな小説よりはるかにソフィスティケイション(洗練)のすすんだ思考を必要とする。(中略)正しい意味というのか,文字,文章ほどにはっきりしないことが多い。言い換えると誤解に寛大である。(p83)
 本の知識から新しい発見の生まれることは少ない。創造は多く生活の中にある。(p100)
 教育は小学校から大学まで,一貫して,目の勉強を強制する。知識は増えるけれども,自ら考える力は少しも伸びない。(中略)少し落ち着いたところで,そろそろ知力の枯渇を意識するようになったところで,あわてて耳で考える修行に入る。晩学は成り難し,と昔の人も言った。考えるのはものを知り,学ぶよりはるかに厄介である。(p101)
 傷のあるリンゴは甘い。それを知らないから傷のあるリンゴは安い。少し黒い斑点のできたバナナがうまい。しかし面くい消費者から見向きもされないから捨てられる。(p119)
 選ぶ人が賢くないと,選ばれる人も賢くなれないで,有権者のご機嫌をとるポピュリズムが流行する。弱者支援などと言って,バラマキを善政のように考える。心ある有権者はデモクラシーに懐疑的になるが,それを口にすることはタブーだから,口にするものは少ない。(p123)
 台所に立つようになってから,頭の働きがよくなったような気がする。それまで,浮世ばなれたことばかり考えていたのに,炊事をするようになって,足が地についたというか,具体的,実践的な考え方が,わずかだができるようになった。(p128)
 知識があれば,万事うまくいく,と思っていると,考えることの出番がなくなり,ひどいのになると,知識さえあれば考える必要はないと誤解するまでになる。(p140)
 少しくらい悪く言われても,考えを変えるほど意気地なしではない。(p154)
 あるとき,テキストを離れて,詩作について,ちょっと,おもしろそうな顔をされて,“かるたとり”方法という話をされた。ご自身(西脇順三郎),詩を創るときに試みられるものらしい。主題について頭に浮かぶことを,小さな紙片につぎつぎ書きとめる,ひとつひとつは短いフレーズである。出そろったら,しばらく風を入れる。寝させる。放っておく。そして,今度は,先の紙片を気の向くままに拾っていく。これが“かるたとり”である。全部拾ってしまったら,はじめから見直す。つながりがおもしろくないところは,前後の入れ替えをする。そしてまた分秒ながめる。これをくり返して,これでいい,となったら糊づけするなどして,順序が狂わないようにする。それが原型になる。それに基づいて詩を書いていくのだ,と言われた。(p183)
 (T・S・エリオットは)詩人は新しい詩情を自ら生み出すのではなく,化合によって新しい詩情の結合の仲立ちをするのだというのである。(p185)
 万物流転する中にあって,あえて,流れを否定,源泉を目指すのは誤った歴史的思考ではないだろうか。作品もほかのすべてのものごとと同じように時間の流れに沿って生きていくことができる。そういうように考えて,文献学の原理を批判し,文献学が,原稿,それにもっとも近いもののみをよしとし,他をすべて,乱れたテキスト,異本ときめつけるのに強い反感をもった。(p207)
 平安朝の名作で,いま原稿に近いテキストの残っているものはひとつもない。現存する最古のテキストは鎌倉期になってからのものである。長い空白がある。文学史は,京都の大火によって古稿本がいっせいに焼失したという説明をしていたが,とても信じられない。やはり,鎌倉期に現れたすぐれて強力な異本によって,それまでのもろもろのテキストをすべて消滅させたと考えるほうがずっと自然である。(p211)

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