編者 季刊「新そば」
発行所 文春文庫
発行年月日 2015.09.10
価格(税別) 650円
● 各界の大御所が「そば」について書いている。上手く書けるかどうかは別にして,「そば」は素材として取りあげやすいだろう。
菅原文太のものが面白かった。昔の作家先生のものが意外につまらない。
● ぼくの場合,そばといえば,駅の立ち食いそばか,“富士そば”か,市販の乾麺を家で茹でるかだ。蕎麦屋に行くのは年に一度もあるかどうか。いや,直近3年で蕎麦屋に行ったことは一度もない。
それでも,そばについて語ろうと思えば,けっこう語れそうだ。たぶん,つまらない話になるだろうけど。
● 以下にいくつか転載。
里見弴さんの随筆に,うまい豆腐屋が近所にある幸せを記したものがあるが,本当にそうで,豆腐とかソバとかいうものは,遠方にあっては無意味に近い。(色川武大 p57)
そばは冷たい食べものであることに気が付く。あのほろ苦い,草っぽい感じが,味の根幹をなしている。(大岡昇平 p76)
食べ物と建築とはパラレルだというのが,僕の持論である。物質を身体がどう受容するか。料理も建築も,共にその受容の仕方をデザインしているわけである。(中略)ゆえに物を食べながら建築のヒントを得ることも多い。(隈研吾 p135)
ラーメンとカレーライスはかなりまずくても食えないことは無いが,そばだけはまずいそばは食えたものではない。そばくらい旨い,まずいのはっきりした食べ物は無い。(中略)出前のそばはおいしいと言うところからはほど遠い。(菅原文太 p173)
それは素材四分に人柄六分,と私は思っている。これは何の仕事にも通じることだろう。(菅原文太 p174)
ヒマラヤのような高所にくると人間の食欲は減退し,生まれ故郷の味や家庭の味がたまらなく食べたくなるのだ。(田部井淳子 p196)
あのソバの手打ちの神技には,「人棒一如」の妖気が立ちこめている。打ち手の心づかいと,棒の無心ぶりは完全に一枚となっていて,アレがソバの味だと直感せしめられる。(永田耕衣 p217)
私にとって「そば」は,日本文化の簡素さを代表するものでありながら,その奥深さは,料理芸術の粋であるように思われる。(福井謙一 p229)
そばと,なっとうだけは,どうもいただけない,と西の方から東京へ出てきたばかりの人がこぼすのを,あれ以来,幾度も耳にした。そういう人にかぎって,何年かすると,そばをよけいに好むようになるようだ。(古井由吉 p236)
いったいそばが好きなら,どこにいたって,そばを探して喰えばいいのであって,それがどこそこの店でなくてはそばではないぞ,とやかましく宣伝してまわる人に出あうと,ずいぶんこの人はそば嫌いだなと思ったりする。(水上勉 p246)
ソバの問題は,それだけ凝って工夫するのに,食べるのはアッという間だということである。作る手数と,食べる手数の比でいえば,ソバは料理のうちでもかなり極端なほうではなかろうか。(養老孟司 p297)
波の音を聞きながらそばをすすっていると,これが芝居になる。うどんは芝居にならぬがそばは芝居になる。(淀川長治 p299)
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