著者 堀江貴文
発行所 光文社新書
発行年月日 2017.03.20
価格(税別) 740円
● 堀江さんが説くところと,phaさんの説くところが,似ているというか,かなりの部分で同じ。片や世界中を飛び回り,片や働くのや人とのコミュニケーションはダルいという。
が,この2人,けっこう以上にウマが合うんじゃなかろうか。
● 以下に多すぎる転載。
僕は,「高学歴の若者たち」がカルト宗教に洗脳されたことを,特に不思議とは思わなかった。僕の眼に映る彼ら学校教育のエリートは,「洗脳されることに慣れた人たち」だった。もともと洗脳に慣れた人たちが,信仰先を変えただけ。そんな風に感じたのである。(p17)
知識とは,原則として「ファクト」を取り扱うものだ。主観の一切入り込まない事実(ファクト)にもとづく知。それが知識である。一方,常識とは「解釈」である。主観の入りまくった,その時代,その国,その組織の中でしか通用しない決まりごと。それが常識である。(p20)
学校はもともと,子どもという「原材料」を使って,「産業社会に適応した大人」を大量生産する「工場」の一つだったのである。(p25)
国家のために働き,税を納め,子を産み,果ては国家のために戦地に赴くような「国民」を育ててこそ,国民国家は成立する。(中略)そうした国民意識の形成には,学校教育が欠かせない。人間に何かを仕込むには,幼く,判断能力の低いうちに行うのがもっとも効率がいい。(中略)だから世界のどの国でも,学校の誕生・発展はナショナリズムの台頭と連動している。(p29)
インターネットがもたらしたものについて,「国境がなくなった」と考えている人は多い。遠い外国の情報を瞬時に,リアルタイムで入手できるようになったと。しかし,インターネットがもたらした本当の衝撃は,国家がなくなることなのだ。(中略)「日本に住む日本人である」ことよりも,「インターネットがつながっていること」「アマゾンの配達が届く場所であること」「スマホの充電ができること」の方が,日々の生存戦略に関わってくる。(p37)
結局のところ,「別の世界」というイメージを作り出すのは,「接触コスト」だと言える。(中略)しかし,今やテクノロジーの進歩によって,このコストが限りなくゼロに近づきつつある。(中略)それはすなわち,「国民国家」というファンタジーの瓦解を意味する。(p40)
人はもう,大概の場所に簡単に行けてしまう。簡単に行けるということは,あえて行かなくてもいいということだ。「場所」の意味がうしなわれたとき,都道府県も国民国家も,すべては「人生を楽しむためのファンタジー」に変わるのである。(p41)
家を持たず,住む場所にこだわらない生き方自体は,実は誰にでもできる。バックパッカー旅行の延長だと考えてみればいい。(p54)
G(グローバル)人材の最大の特徴とは何か。それは実は,「所有からの解放」にある。(中略)インターネットは,人とあらゆるモノ,そしてモノ以外を繋ぐ最強のインフラとなった。G人材とは,このことを心から理解し,最大限に利用している人たちのことを指す。だから彼らにとって一番大切なのは,モノではない。情報だ。(p60)
ひと昔前までは,情報もまた「所有」することに価値があった。みんなが知らない情報をたくさん持つことは権威の象徴だったし,高等教育によって得られる知識もその一種だったと言える。それが,インターネットの登場によって大きく変わった。情報は「所有すべきもの」から,「アクセスすればいいもの」へと変化を遂げたのである。(p62)
スナップチャットは,アメリカを中心に,10代~20代のユーザーに熱烈な支持を受けているサービスだ。インスタグラムやツイッターと違い,上げたデータが最大でも24時間で消滅してしまうという特徴がある。(中略)「データがすぐ消えるなんて」と戸惑うのは,所有やアーカイブにこだわる古い世代だけだ。ネットネイティブ世代は,「画層がすぐ消える世界」の価値を直感的に見抜く。(p62)
インターネットの登場がもたらした恩恵は,「他者と通信できる」ことではない。情報やモノ,あらゆるものの「所有」の価値を著しく下げたことなのである。これこそ,インターネットのもたらした社会変化が「情報革命」と呼ばれる所以だ。(p64)
自国が貧しくても,手元にあるモノがいくら少なくても,インターネットに接続できる機器さえあれば,「所有」しているのと同じように,さまざまなものにつながれる。インターネットがもたらす効用は計り知れない。(p69)
だから,日本の凋落を嘆くニュースに一喜一憂するのはやめよう。国が傾こうが,街の過疎化が進んでいようが,それ自体が人の運命を左右したりはしない。もう誰も,国と心中する必要はないのである。(p73)
(安保法の)の反対派も賛成派も,多くは法案を理解せず,雰囲気に流されて声高に「反対」「賛成」と叫んでいるだけの人たちだった。そういう人たちは,たとえば本当に戦争が始まったら,みんなで一斉に戦争を煽る方向に進むことが多い。(中略)社会を悪しき方向に押し遣るのは,いつでもこうした「雰囲気に飲まれる」人たちなのだ。(p76)
これからの人々の幸福の指標となるものは何か? 「感情のシェア」である。あなたが自分自身の「楽しい」や「嬉しい」「気持ちいい」といった「快」の感情をシェアすると,そこにたくさんの賛同者(いいね!)が集まり,つながっていく。そして,そのつながりが関わった人たち全員に豊かさをもたらす。この共感が,これからの世界を動かす原動力なのだ。(p78)
貧しい人が逆転できるチャンスも,100年前とは比べものにならない。これからは,人がやりたがらない辛い仕事のほとんどはAIやロボットがやてくれるようにもなるだろう。人類はもう,モノを奪い合ったり,嫌なことを押し付けあったりして暮らす必要はない。(p81)
これからの時代に重要なのはむしろ,「やりたいこと」のためにどれだけ本気になれるかだ。なぜなら,支持や共感を得られるのは,心からやりたいことをやっている人だけだからである。(p82)
僕はこれまでの人生で,親や学校教育に忠実だったことは一度もない。僕が唯一従っていた相手は,何かにのめり込んでいく自分,つなわち「没頭」だった。(p85)
学校は,あの手この手を使って,子どもたちの欲望にブレーキをかけさせる、そして,急ブレーキによって人生にエンストを起こさせるようなこの介入のことを,傲慢にも「指導」などと呼んでいるのだ。(p86)
今学問と呼ばれている領域だって,言ってしまえば「誰かの没頭体験」のアーカイブだ。(p90)
あれをしてはダメ,これをしてはダメ,禁止のルールを増やしていくことは,非常にコストの安い教育手法だ。教師たちは難しいことを考えず,ただ禁止の柵からはみ出した者を叩いておけばいい。(p97)
これからの時代は,何の変哲もないオールB人材よりも,際立った特徴を持つ「専門バカ」の方が生き残りやすくなる。なぜなら,オールB人材の代わりはいくらでもいるが,「専門バカ」の代打が務まる人材はなかなかいないからだ。(p99)
たとえば,「先祖供養のためにこの墓を買いなさい」「高濃度の水素水でダイエット!」などという宣伝文句にひっかかるのは,教養がないせいだ。最低限の科学的知識があれば,オカルト的インチキは一発で見抜ける。でもこうした教養は,学校教育など経由しなくても身につけることができる。というより,学校では身につかないのだ。(中略)「えらい人から教わる」式の学校教育では,真の教養は得られないのである。(p100)
教養とは,それぞれが好きなことをしていく中で,必要なタイミングで身につけるものだ。(中略)人は,興味の持てないことをやらされている時には,さっさと片付けることだけを考え,問題意識を持ったり,それについていちいち調べたりはしない。のめりこんでいる人だけが,目の前のものを真剣に見つめ,それについて多角的に考える。(p101)
安心してほしい。親に,教師に否定されてきた歴史があろうと,いつだって挽回のチャンスは有る。なぜなら,没頭する力は人間に標準的に備わっているものであって,枯渇したりはしないからだ。いつだって,蘇生する時を待っているのである。(p107)
人は,「没頭が約束されたもの」に取り組んだときに没頭に至るわけではない。目の前のことにとことん取り組み,ふと我を忘れた瞬間がやってきた時に初めて,自分がそれに没頭していたことを発見するのだ。つまり,没頭を体験したいのであれば,何でもいいからとことんやってみればいいのである。(p109)
自分を没頭まで追い込むための最良の方法は,「自分で決めたルールで動く」ことだ。自分でプランを立て,自分のやり方でそれを遂行する。それでこそ工夫の喜びや,達成感が湧いてくる。誰かの命じたルールに従い,それに合わせてただ体を動かしているだけでは,喜びも興奮も感じようがない。(中略)だから,どんなに小さくてもいい。自分でルールを設け,「自分で作り出したゲームをプレイする」状況を作ろう。(p109)
誰にだってできることばかりだ。障害があるとしたら,「恥ずかしい」「失敗が怖い」くらいだろう。そんなものは,「無理」のうちには入らない。(中略)「失敗が怖い」くらいで臆するのは,あまりにももったいないというものだ。(p114)
そもそも,「仕事につながる趣味」などこの世界には存在しない。誰かが自分の没頭の中からつかみだしたものが,仕事になったり,お金になったりするだけなのである。(中略)後先考えない没頭から,新しい仕事へとたどり着く。こうした例をよく知っている。(中略)目標からの「逆算」を思い切ってやめたほうが,得られるものの可能性は大きく膨らむのである。(p117)
「サッカー選手になれる確率は低い野田から,サッカーにハマるのは無駄だ」。これは裏を返せば,「サッカーをやるからには,サッカー選手にならなければならない」という謎の強迫観念にとらわれているということだ。サッカーという入り口は,サッカー選手という出口にしかつながっていない・・・・・・とても窮屈な考え方だ。(p122)
貯金は「無駄」。それが僕の,昔から変わらない考え方である。なぜか? 「貯金」は,ただの現状維持に過ぎないから。1万円を使わないことで「1万円のまま」残す。そこには何の成長も,喜びもない。(中略)1万円を「使う」ことによって10万円へ,100万円へと増やしていくように,自分自身の市場価値を高めていくのだ。(p128)
「貯金型思考」の人が重んじるのは,「蓄える」ことだ。蓄える対象は,お金だけではない。モノ,学歴,肩書き,資格など,「価値があるとされているもの」全てである。そして,「蓄える」ことに不可欠なマインドは,なんといっても「我慢」だ。(中略)一方,「投資型思考」に必要なマインドは,勇気やワクワク感だ。投資とは,「お金を使う」こと。的確に先を読み,自分がいいと決断したところに積極的に使っていかなければ,リターンは決して得られない。(中略)あなたの価値を最大化するのは,「どれだけ我慢をしたか」ではなく,「どれだけ自ら決断をしたか」なのである。(p130)
世間で言われている自己投資のほとんどは,その目的を果たしていない。なぜなら,そもそものベースが「投資型思考」になっていないからである。(中略)そもそも学校に通うという方法は,費用対効果,時間対効果があまりにも悪い。(中略)起業家の考え方を知りたいなら,セミナーなんかに行かなくても,その人の著書を読んだり,SNSで発信されている情報を得れば十分だ。簡単に目的を達成する手段があるのに,わざわざ学校やセミナーに通うのは無意味な遠回りだ。そしてリターンが少ないということは,それは「投資型」ではなく,「貯金型」にとどまっているということなのである。(p133)
日本人は,預貯金の利率が皆無に近くても投資より預貯金を取る。つまり,もっと大きな価値を得られるチャンスよりも,「ゼロリスク」であることを選ぶのだ。(中略)失敗のリスクを下げる一番簡単な方法は,「変化」を避けることだ。だが,この方法では必然的に,「良い変化」も捨てることになる。(p135)
預貯金の実態は「貸し付け」だ。預貯金がないと困るのは,実は僕たちではなく金融機関の方なのである。つまり金融機関は,人々の老後を本当に気づかって貯金させようとしているのではない。「お金を貸してくれ!」と必死に主張しているだけなのだ。「いざという時」という概念は,そのために利用しているフィクションでしかない。(p138)
「人生のここぞという場面でお金を一気に投入すべし」。この理屈自体には,僕も反対しない。その通りだ,とすら思う。「ただし,僕の考える「持っているものを大胆に使うべき大事な場面」は,結婚する時でも老後でもない。それは「今」だ。多くの人が勘違いしているが,そもそも人間は「今」しか生きられない。過去はただの思い出だし,まだ存在していない未来のリスクをかれこれ考えるなんて無駄だ。(p142)
「投資型思考」の人間た大切にするべきは,「コスパ」だ。時間対効果,費用対効果がよくなければ,それは「投資」にはなり得ない。(p144)
「みんながやっている努力」をやってもいきなり突き抜けるのは難しいが,「誰もやっていなかった」領域なら,一足飛びで大きなリターンが生まれる確率は高い。(中略)使うべきは,時間でも労力でもない。お金ですらない。「頭」なのだ。(p147)
より「レア」な人材になればいいのである。代わりがいくらでもいるポジションではなく,「多少のお金を積んでも,この人でなければ困る」と思わせる地位を得れば,あなたの時価総額はたちどころに上がっていく。たとえば,こんな二人を考えてみよう。一人は,自動車免許を持っている,早大卒の商社マン。もう一人は,ムエタイの達人で,歌手活動もしている女子高生。あなたは,どちらに価値を感じるだろうか。(中略)では,そのレアさ,つまり希少性は何によって作られているのか? それは,彼らの付加価値を示す要素,言わば“タグ”である。(p149)
「1万時間」を三つ揃えるのも,もちろん方法としてはありかもしれない。だが,組み合わせ次第では,それらを完全に飛ばして,いきなり100万分の1の人材になることもできるのだ。僕としては,そちらを狙うことをお勧めしたい。(p152)
面白ければ,ユニークであればいい。僕がそう言い切れるのは,手軽に「レア人材」になった人たちが,そのことを踏み台に,着実に次のステージに進むのを見てきたからだ。みんな,もっとインスタントに「唯一無二」の存在になって,そのメリットを利用しつくして次へ進めばいいじゃないか。僕は本気でそう思っている。(p153)
大切なのは,思考を柔らかくし,あらゆる可能性を想像してみることだ。アイデアを膨らませれば膨らませるほど,世界は何でもありだということが見えてくる。(中略)その自由な視点こそが,投資的な行動のためにもっとも必要なのである。(p154)
自分が今までの努力で得てきたものを,なんとか未来にも活かしたい。そこに費やしてきた時間を無駄にしたくない。そういった未練とは潔く手を切ってほしいのである。あくまでも,「今」あなたが何をしたいのかが出発点だからだ。(p155)
手持ちのものをうまく使うことだけを考えている人と,「これを作りたい」というビジョンがはっきりしている人。どちらの方がパフォーマンス高く理想を実現できるだろうか。そして何より,どちらの方が,お客にとって理想的な空間になるだろうか?(p157)
近年,特に価値の下落が著しいのは,「国家の承認によって権威づけられていたタグ」だ。つまり,学歴や国家資格である。わかりやすいところで挙げると,弁護士資格がそうだ。(中略)不動産鑑定士だってそうだ。(中略)今となっては「食えない」資格として名高い。(p158)
僕が問題視するのは,こうした考え方に反発する人たちの,「時間をかけ,苦労や我慢を重ねて得るものの方が,短い時間で手に入れるものよりも価値が高いはずだ」という,根拠のない思い込み--つまり思考停止である。(中略)僕は,「10年の修行」にこだわって思考停止する人たちよりも,彼らのように本来の目的を見失わず,質の高い努力で素早く世に出ていく人を応援したい。そして,あなたにもできたら後者であってほしいと願っている。(p163)
投資的な思考が下手な人間には,共通点がある。彼らは,やたらと「確実な予測」を欲しがるのだ。しかも,自分では一切考えず,誰かの言葉に頼る。(p165)
僕がスマホに入れているアプリはどれも平凡なものである。僕は決して,「特別な」情報や「確実な」予測を元に動いているわけではないのだ。僕の行動のきっかけになるのは,普段の生活の中で得たちょっとした発見や,「これ,いいじゃん」という単純な関心なのである。(中略)僕は自分の「いいじゃん」という感覚を信じている。(p166)
「予想外の出来事」は,予想できないから予想外なのだ。では,あなたが読むべき対象は何か。「自分」だ。自分が求めているものは何か,やりたいことは何か。今この瞬間,どんな生き方ができたら幸せなのかを真剣に考え抜くのである。それが,あなたが何に資本を投じるのかを決める原動力となる。(p169)
そして,価値のゆらぎを恐れてはならない。むしろ変化するのは正常だ。毎日,瞬間ごとに自分の判断を更新していくべきなのだ。その覚悟があれば,未来予測など不要だ。(p168)
多くの人たちが,「月曜日が憂鬱だ」「宝くじがあたったら会社をやめたい」などと言うのは,その人たちが会社で行っているのが,秩序のための労働であり,軍隊の行進練習のようなものだからだろう。面白くもなんともなくて当然だ。つまり,会社に行きたくないあなたは,働きたくないのではなく,単に退屈しているのである。(p175)
おそらく今後,かつて絶対に不可欠なものとされてきた共同体の多くが解体されていくだろう。国民国家しかり,会社しかり,学校しかり,さらには家庭しかりだ。それぞれぼんやりした形は残しながら,もっとゆるやかでフレキシブルな,集合と離散を繰り返す共同体になっていくと僕は考えている。理由は簡単だ。閉じた共同体なんて,もう時代に合っていないのだ。(中略)昔はあらゆるものの備蓄・交換・伝達・移動のコストが高く,人が完全に一人で生きていくのは困難だった。好き嫌いを問わず,生存戦略として,無理やりにでも固定化されたコミュニティい所属するしかなかったのだ。でも,今はその必要は全くない。(p179)
僕は今後会社というトップダウン式の大型組織を作ることはないだろう。もう,そんな形の組織で仕事を回す時代ではなくなったのだ。(p181)
現代人はもう,年齢のことを気にしなくていい時代に突入しているのだ。テクノロジーの恩恵は,10歳だろうが90歳だろうが等しく受けられる。ならば,10代でも20代でも,30代でも80代でも同じことをしていいはずだ。(中略)いちいち年齢で人生を区切り,大学,就職,老後というライフステージのことを考える習慣は,工場労働時代の名残でしかないのだ。(p188)
人生なんて極端でいい。偏っていていいはずだ。その許可を自分に出せば,生きるのがもっと楽になる。(中略)みんながやりたくないことを潔く手放し,やりたいことを通じて周りに貢献するようになれば,むしろこれまで以上に生産的で,イノベーティブな社会がやってくると確信している。なぜか? 嫌な仕事がなくなったら,人はヒマになって「遊ぶ」しかなくなるからだ。(p192)
「遊び」と「飯の種」の間に太い線を引いている人に,「新しい飯の種」を生み出すことなんでできない。彼らはいつまでも「会社が供給してくれる,すでに仕事として成立している仕事」だけを追い続ける。そしてその仕事は,テクノロジーの進歩によってみるみるうちに消滅していくのだ。(中略)だからもっと全力で遊ぼう。「社会人が遊んでばかりいてはいけない」などという考え方はすでに流行遅れでしかない。楽しいと思えることの中にこそ,未来はあるのだ。(p196)
「絶対においしいものを食べる」。そう決めて店を厳選し始めると,本当に信頼できるのはネットのグルメサイトなんあkではなく,焼肉,寿司,フレンチなど,個別のジャンルに特化したキュレーターたちだ。(p199)
この数年,残念に思ってきたことがある。それは,「ほとんどの人は,何かを読んで感銘を受けても行動には移さない」ということだ。(中略)多くの人が,ほんの小さな「最初の一歩」を恐れる。そして,「踏み出す勇気がないので,叱咤激励をお願いします」と他人に甘える。だが,それではダメだ。その習慣こそが,学校教育によって植え付けられたものなのだから。(p200)
すべての教育は「洗脳」である。そして洗脳は,洗脳されていることを本人が自覚しない限り,本当の意味で解けることはない。(p205)
自分の力を全て解放して生きることの喜びを,満足感を,ぜひ味わってほしい。(p206)
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