著者 森 博嗣
発行所 KKベストセラーズ
発行年月日 2017.11.25
価格(税別) 1,400円
● 自分に自信を持つな。楽観は馬鹿でもできる。自分の相撲を取るしかないと言ったところで,それで負けたら,自分の相撲を考え直さなければならない(が,そうする人は少ない)。
といったことがみっしりと詰まっている。明晰であり,したがって説得力に富む。何より,読んでいて面白い。
● 以下に多すぎるであろう転載。
なにをしても上手くいかない,と悩んでいる人は,ほとんどの場合「道」を探している。上手くいく方法はないか,成功した人が知っていて自分は知らない方法があるに違いない,と。しかし,そうではないと思う。(中略)どこに問題があるのかといえば,それは「道を探そうという姿勢」にある。積極性は立派だが,自分の道というのは,探すのではなく,自分で築くものだからだ。(p15)
たとえば「どんな仕事がしたいのか」と尋ねると,ほとんどの人は既に存在する職種を具体的に答える。(中略)世の中で大成功をして大金持ちになった人というのは,たいてい,それまでなかった仕事を始めた人である。誰もやっていなかったことを発想して実行したのだ。(p16)
根本的に間違っている点がある。それは,(中略)「やり甲斐」や「生き甲斐」を誰かからもらおうとしていることだ。「見つけよう」としていることだ。そういうものが,どこかにあると信じている。(中略)その言葉の本来の意味が示すとおり,抵抗に遭いながらも,それを成し遂げたとき,本当の「価値」があなたの内から生まれる。したがって,やってこそ,生きてこそ,本人だけが感じるものなのである。(p205)
情報というのは,生きものである。自分から採りにいったものは,生きた情報だが,誰かからもたらされた場合は,ほとんど死んでいる情報だと考えて良い。(中略)情報も自分の中に取り込まれた瞬間,あるいはその直前に殺される。情報は死んだもの,固定されたものになって認識される。その後は変化しない。他者を介した情報が死んでいるのはこのためだ。(p19)
多くの情報は死んでいるものであって,それはそのままでは活かせない。単なるヒントでしかない。それを生き返らせるには,「想像力」という人間だけが使える魔法が必要なのである。(p23)
馬鹿に大袈裟に(しかも必要以上に繰り返し)伝えられる情報は,実は大したものではない。大騒ぎさせて,誰かが儲けようと仕掛ているだけのことで,慌てるような事態ではない。(中略)真に受けると,高いものを買わされるだけだ。(p20)
四十代になるまではシンプルなものを求めて,無駄なものを極力排除して生きてきた。でも,それは間違いだった。生きているうちは,どうしたって単純にはならない。決まりきった形にはならないのである。(p22)
死ぬときになって初めて,自分が歩いてきた道の全貌が見える。もうその先がないから,道が定まるというわけだ。(p22)
やる気を出すことよりも,実際にやることの方が簡便な場合があるからだ。それなのに,素直な若者は,やる気を出そうと無理をする。たとえば,「仕事を好きになろう」と努力するのも同じだ。でも,仕事を好きにならなくても仕事はできるし,やる気がなくても,やることはできることに気づいてほしい。(p25)
馬鹿な者は皆を馬鹿にして終わり,賢い者は馬鹿を見て学ぶから,さらに賢くなる。(p26)
本当に自分を救えるのは自分だけである。そして,どんな場合にも,どんな悩みにも,あるいは,誰にでも通用するアドバイスはたった一つだけだ。それは「やれば」である。(中略)今直面していること,やりたくないこと,それをやれば良い。やる気なんか出す必要はない。いやいややれば良い。泣く泣くやれば良い。ただそれだけのこと。(p26)
ものを作る人は知っていることである。どんなに難しく,どんなに面倒なものであっても,少しずつやれば,必ず完成する。(p27)
もし,人によって能力に差があるとしたら,それはスピードの差だ。百メートルを九秒台で走れる人はざらにいない。(中略)しかし,凡人でも数秒長くかければ百メートルくらい到達できる。さらに言えば,その時間をかけようとせず,自分には才能がないから,と走らないのが大多数の凡人である。たまたま走ってみた凡人が成功者となる,というだけのこと。(p28)
どんな偉業も,緻密な計画のもと,こつこつと日々積み重ねて,ときには大勢が力を合わせ達成されたものである。たとえば,ピラミッドを思い浮かべてほしい。〆切間際にえいやっと作ったものなど歴史に残るはずがない。(p29)
本当の達人とは,けっして一発勝負のようなやり方をしない。偶然良いものができることなど期待していない。回り道と思えるほど面倒であっても,誰にもできそうな簡単な方法を採用する。面倒くさい道が最も失敗が少ないと知っているからだ。神業とは,手間をかける方法のことである。(p32)
大事な約束の時間に遅れてくる人がいる。「電車が遅れまして」と言い訳をするのだ。「おや,この人は電車が絶対に遅れないものだと認識しているのか。そんな現状把握力では,なにをやっても成功しないだろうな」と僕は思うのである。(p33)
一言でいえば,自分の意志に反している時間が「無駄」である。(p35)
楽しさとはそういうもので,楽しんでいるほど,もっと楽しいことを発想してしまう。だから,雪だるま式に楽しくなるのである。(p38)
できないことはない。少しずつ進めれば,ほどんどのことは誰にでも可能になる。ようするに,できないと予測した主原因は,能力不足ではなく,「面倒だな」と感じた自分の感情にある。(p40)
自分は人と同じだと思いたがる。それは違う。似ているかもしれないけれど,絶対に同じではない。また,この違っていることこそが,人間の優れた点でもある。(p45)
同じ趣味の人とつき合いたい,と言う人がいるけれど,どうせなら違う人間の方が面白いし,チームとしても有利だ。(中略)違う資質の者が集まってこそ協力し合える。(p46)
カメラで写真を撮るとき,何を写すか,どういう構図にするのか,という決断が最大の仕事である。「さぁ,撮るぞ」と決まったら,シャッタを押すだけだ。あとは機械がやってくれる。写真を撮るという仕事は,実は写真を撮る動作を起こす以前にすべて終わっているのである。世間で観察される仕事の多くは,このカメラがやる段階の作業でしかない。(中略)ほとんどの道は,道を歩きだしたときには,その大半は終っていると考えても良い。どの道をいつ歩きだすのか,というところに最大の人間的決断がある,ということ。(p52)
柔道とか華道とか書道とか,古来,さまざまな分野で日本人は「道」を築いてきたけれど,いずれも,技を極めるだけではなく,なんらかの礼節を重んじる。そして,人間の品を磨こうとしている。そういう文化が,西洋に比べて強いのは,たぶん,コミュニケーションを充分に取らない民族性が根本にあって,その反動として生まれてきたものではないだろうか。(p55)
近頃の報道というのは,ただ発信源が用意した情報をもらいにいき,それを広めているだけであって,広告に限りなく近い機能になってしまった。(p56)
インターネットも初期の頃は,みんな自分で調べ,自分で考え,自分で作り出したものを公開していた。だから価値があった。(p58)
ときどき,ちょっと高価なものを求めるのも良いと思う。素晴らしい道具は,帰納的な満足度だけではなく,使う人間の背筋を正す効果があるものだ。(p66)
僕はパソコンに出合わなかったら,文章を書く仕事をしていなかったと思う。(p66)
世の中には,計算では辿り着けない問題が多い。(中略)それは道が見えない状況であり,こんな状況からの思考は,遠くをぼんやり眺めて,「あそこは何だろう?」と思った瞬間にワープして新しい発見をする,というような体験になる。(p72)
小説の執筆は,発想で夢を見るような行為なのである。「理系なのに小説が書けるの?」と言われるのだが,僕には,小説と数学は「同じ頭」を使う対象に思えるのだ。(p73)
大事なことは,「自分は今道草をしている」という自覚だろう。その自覚の下,多少なりとも後ろめたさを持っていれば,大きな無駄にはならない。そうまでして道草をするのは,なんらかのメリットがあると感じているからであって,その予感を信じた方がよろしいでのではないか。(p75)
「他者からのおすすめ」は,自分の「予感」よりもだいぶ当りの確率が低い,ということは確かなように観察できる。(p75)
自分を見つけたかったら,なんでも良いから,自分以外のものに没頭することである。(中略)自分を見つけるには,「我を忘れる」ことが大事なのだ。(p78)
よく「自給自足」なんて呼ばれる田舎暮らしがあるけれど,あれは,ただ食料を自分で作っているというだけの話だ。自給自足だったら,衣料品も電気も水道も治安もすべて自給自足しなければならないのではないか。病気になったからといって薬を飲んだり,医者にかかるようでは,自給自足とはいえない。(p85)
社会において,絆よりももっとずっと大切なのは,他者の自由をお互いに尊重することだ。(p88)
それでも人間は長生きをするのだから,その人生の中で,自分の道を見つけ,そこへ挑む姿こそ尊い,ということ。他者の顔色を窺ってばかりいては,道は見つからない。また,人が歩かなければ,道は草木に覆われ,たちまち消えてしまうのである。(p90)
健康というのは,大事なことではあるけれど,それが生きる目的になるのだろうか?(中略)車や道具は,それを使って何をするのか,が目的なのである。人間も,健康に支えられて何を成すのか,が人生である。(p92)
人生の道を進むうえで,自分の気持をコントロールすることは大事だ。それができることが「自由」という概念でもある。(中略)「では,具体的にどうすれば実現できるのか?」という疑問を,大勢の人たちが抱いているはずである。(中略)皆が欲しがっているノウハウは,この世に存在しないのだ。(p95)
ダイエット法だって,つぎつぎ開発される。実は,食べないで運動する,という究極のノウハウがあるにもかかわらず,ああでもないこうでもない,と方々で謳われ,沢山の本が出る。何故なら,みんな,食べたいし運動もしたくないけれど,痩せたいからだ。生き方や仕事のし方についても,これと同じで,みんな,そんなに頑張りたくないのに,楽しく生きたい,楽しく仕事がしたいと望んでいるのである。(p97)
多くの人は,「考える」を,本を読んだりして勉強することだ,とイメージしているが,これは間違い。学ぶことは,頭に情報を入れる行為であり,つまり食べることと同じだけれど,考えるのは,頭を動かすことで,これは運動すること,アウトプットする行為なのだ。したがって,頭を使って考えると,お腹が減るように,頭の空腹感を覚え,知識や情報が欲しくなる。(p99)
まず,何を考えれば良いのか,を考える。これが大切であって,この思考をいつも持っているかどうかが,その後の人生を決めるだろう。(p102)
楽しいことは,「発想」から生まれるものだ。他者が持ってくる面白そうなものに飛びつくだけの人生では,真の楽しさを知らずに終わることになる。そういう人は,誘われることでしか楽しめない。誘われるようになるにはどうすれば良いのか,と悩んでばかりいる。(p102)
学んだり,誘われることは出費になるけれど,発想は生産的で,収入につながる可能性が高い,という違いだ。アウトプットするから,仕事になり,対価が得られる,という側面である。(p103)
「発想」ごいうものは,そんな一分や一時間で頭から出てくるものではない。それこそ,じっくりと考える,頭を使う行為なのだ。(p104)
現代人は,情報を食べすぎて頭が肥満気味のはずだ。肥満になると,頭が動きにくくなってしまい,深く考えなくなり,どうでも良くなり,カッとしやすくなったりするように観察される。(中略)もし自覚があったら,気をつけてもらいたい。特に,自分だけのことならばそれでも良いが,その決断を人に押しつけようとする人がわりと多いのだ。(p109)
考えたことを言葉で述べる。これは,述べるために考える,という行為を促す。最近は,ツイッタなど,短くしがちだけれど,本来は,言葉を尽くして,丁寧に論じることが大事だ。したがって,ツイッタよりはブログの方が少しましである。(p110)
感情的な表現を排除して,理屈で述べることも重要であり,また,自分の立場や自分の利益を基盤とした理屈でないことが,説得力を増す。そういったことを考えることが,いわゆる「思想」というもので,ぼくは行動よりもこちらの方がずっとレベルが高く,品があり,人間的だとイメージしている。(p112)
丁寧な言葉で自分の考えを述べ,また反対意見にも耳を傾ける。もし自分の考えが間違っていると気づいたら,素直に謝って,意見を変える。議論とは,こうして自分を修正するためのものだ。自分だけでは行き着けないところまで考えを巡らすための有力な手法の一つである。この試論をするためには,自分の意見を言葉で述べることが第一歩だ。(p112)
「考えを言葉で述べる」とはいっても,「言葉で考えろ」という意味ではない。たとえば,僕自身,考えることの九割は言葉ではない。映像で考えている。(p112)
いろいろな場合を想定して考えておくことで,予定や計画どおりに実行できる。結局この確率の高さが,その人を成功へと導くのである。この,自分が思ったとおりになることを「自由」という。自由に必要なものは「想定」だといっても良い。(p115)
それは「ああ,よくここでこれを思いつきましたね」と感心する部分である。すると,この成功者はにんまりとして答えるのだ。「そうなんですよ。これを思いついたときには,絶対に上手くいくとかんじましたね」と。これが「発想」である。(p115)
プログラミングをしていた頃には,目を瞑ってもアルゴリズムやコードが見えた。寝ているときには天井にリストが現れた。それくらい「没頭」していると,ふとした切っ掛けで生まれてくる発想がある。(p116)
よく「メモをしない」ということを書いていて,周囲に驚かれるのだが,そもそも文字で考えていないので,メモをしてもしかたがない。できないのである。(p120)
たとえば,キャラクタの「目」で見たシーンであれば,そのキャラクタの視力によって見え方が違う。近視の人ならば,同じシーンでもぼんやり見える。そういったそれぞれのカメラで映像を考えている。そうすることで,そのキャラクタ本人の「体験」を作り出すことができ,それがそのまま自分の体験となる。小説で書いたことか,それとも実際に体験したことか,が時間が経つとわからなくなる,といったことは,僕の場合は日常茶飯事だ。(p121)
なにごともそうだが,未来を悲観的に考えることが基本だ,と僕は思っている。自分がやろうとしていることに対しては特にそうだ。(中略)ものごとを成功させたかったら,とにかく徹底的に心配することが大事なのである。多くの失敗は,楽観的な予測から生じている。(p129)
悪いことを考えると,それに取り憑かれてしまい,ろくなことはない,などとおっしゃる方も多いのだが,これこそが失敗する人の精神論と呼ぶべきものだ。もう少し強い言葉であえて表現すると,「楽観は馬鹿でもできる」となる。(p130)
しかし,理論は正しい。理論を理解することは,たとえるなら,神を信じるのと似ている。必ずできるという自信を生み,だからこそ,諦めずに実験を続けられる。(p135)
誰にでもできるのが「努力」である。一歩一歩進むだけ。ゴールを信じることの難しさに比べれば,努力はむしろ楽しいほど易しい,といえるだろう。努力が苦しいのではない,上手くいかない場面になって,どうすれば良いかと迷うことが苦しい。わからないことが苦しいのだ。ここで,また理屈を編み出す。やることが決まる。するとあとはそれを試してみるだけだ。(p136)
努力が苦しいと感じるのは,その道が正しいことを疑っている状態だからである。(中略)「道に迷った」と思うだけで,ハイキングは遭難になってしまう。そうなると,一歩一歩が苦しみになる。(中略)このような場合,まず考えるしかない。(中略)暫定的な対策を練る。このようにして,生まれるのが「仮説」である。仮説であっても,なんらかの道理が必ずある。正しそうだ,という雰囲気がある。それをとりあえず信じて,つまり,仮説が正しいと信じ込んで,またあるき始めるのだ。(中略)このようなことを繰り返して,人間は物事を進める。人生もまったくこれと同じだ,と僕は思う。(p139)
人生も,あなたが生まれて,あなたが生きているのは,世界で唯一の条件であって,過去にあなたが生きた例はない。誰も研究していないし,どこにも発表されていない。人生とは,フロンティアなのだ。あなたの生き方は,あなた自身が研究し,あなたの仮説をあなたが試してみるしかない。(p142)
結果は,方針よりも常に具体的であり,直接的に人の心を揺さぶる。これこそが,「現実」という落とし穴である。この落とし穴に嵌らずに生きるためには,どうしたら良いだろうか。(中略)結局,眼の前のケーキに手を出してしまう人たちから搾取する構造が,今の社会の基本的仕組みなのだ。(中略)まずは,搾取されないこと,あるいは,搾取されていることに気づく自覚が大切で,それだけでも,道はずいぶん歩きやすくなるだろう。(中略)大事なのは,他者の理屈ではなく,自分の理屈によって進むことである。誰にでも通用する理屈というのは,数学や物理学だけだと思ってまちがいない。(p152)
人間社会は,空気よりもずっと密度も粘性も高い。(中略)そんな中で人よりも違った動きをしようものなら,たちまち大きな抵抗に遭う。その抵抗は,速度に比例している。目立ったことをするほど,いろいろな邪魔が入るのだ。こういったときに,日頃から自分のフォルムを整え,洗練させ,表面を滑らかに磨いておくと,すっと抜け出すことができる。そういう人は,動いても周りが乱れないからだ。(p156)
周囲の理解とは,ねっとりとつながっている状態であって,結局は,その理解が抵抗になっていることに気づいていない人が多い。(p158)
ここでいう矛盾とは,両立しない選択肢を抱えている状態のことだ。なんとか両立させよう,と考えるのは甘い。両立させられるようなキャッチを謳って,商売をする人がいるけれど,両立しない道理があれば,それは無駄な考えといえる。両立とは,ほとんどの場合,どちらにつかず,中途半端になるだけである。(中略)ただ,ここでいう選択とは,思考の選択ではない。行動の選択である。(中略)思考は矛盾を矛盾のまま取り扱うことができる。人間の頭脳はそれだけの要領を有している。(p160)
生きている状態というのは,例外なく「死ぬ途中」である。どんなに成功していても,どんなどん底にあっても,それがその人の最終的な結果ではない。(p164)
僕自身は,人間も動物であって,野垂れ死にするのが本来である,と考えているから,死ぬときの状況はさほど気にならない。(p165)
生というものは,死と切り離すことはできない。有るか無いかではなく,表裏だと思う。どちらかが,たまたま上になっているだけだ。(p168)
研究論文には,最初に「既往の研究」なる章がある。そのテーマの研究の動向を取りまとめた内容だ。(中略)だが,この部分は研究ではない。(中略)つまり,まとめるだけの行為は,なにも「考えていない」のだ。(p170)
そういった集会が好きな人は,出席しない人を仲間外れだと思い,「あいつは寂しい奴だ」と非難するかもしれない。逆に,集会が嫌いな人は,「馬鹿が集まっている」くらいにしか思っていない。(中略)大事なことは,反対派のことを意識しすぎないことだろう。相手を非難しないと自分たちのアイデンティティが確保できないというのは,それこそ非常に危うい状況といえる。(p172)
プログラミングをした経験のある人は誰もが知っていることだが,入念にプログラムを作っても,走らせてみると必ずエラーが出るものだ。(中略)ここで学ぶことは,「人間は絶対にミスをする」という現実である。どんなに確信があって,いかに慎重に熟慮したうえであっても,絶対に間違いがある。(p175)
世間では,「自分を信じていけ」という言葉がよく聞かれるみたいだが,自分を信じて失敗することは数多い。これを「過信」という。(中略)自分の能力を信じないからこそ,対策が打てるのだ。(p176)
自分が良いと思うことを貫け,という教えは,趣味の道ならば正しい。しかし,相手があるビジネスでは,自分が正しいかどうかではなく,相手が何を求めているのか,を知る必要があるだろう。自分が信じるものに価値があるのではなく,他者が求めるものに価値が生じる,というのが商売の原則だからである。(p176)
日本の大寒波がニュースになっていた。フランスもロシアもそうだ。温暖化するほど,気象は荒れる。それなのに,誰も火力発電所に反対しないのはどうしてなのだろう?(p178)
「絶対に私は勝つ」とか,「俺は絶対に失敗しない」とか,そういう台詞を,ドラマ以外でもし本気で言う人間がいたら,あまり近づかない方がよろしいだろう。そんな人は信頼がおけない。信頼とは,そういった強気の発言によって成立するものではない。(p179)
一番難しいのは,エラーがでなくなってからだ。つまり,プログラムとして間違いがなく,コンピュータはちゃんと計算するのに,出てくる結果が明らかに間違っている,という場合である。(中略)何を考えれば良いかわからないときというのは,なんでも良いから問題を見つけたい。(p185)
ものごとを探求する楽しみは,誰かが手にすれば自分の分がなくなる,というものではない。探求する対象はいくらでもあるし,探求している自分の中から,楽しみが無限に湧き出てくるからだ。(p190)
かように皆さん感情的だということ。言葉が言葉の意味のまま通じるなんて本当に奇跡だ,と文章を書く仕事をしているとしみじみと感じる。(p195)
周囲の人の声に流されない,という姿勢は非常に重要である。無視できないほどに大量に声は押し寄せるけれど,その大部分を遮断しないと,自分の考えが前面に出てこないし,流されていると,そのうちに「考えない人間」になってしまうだろう。(p199)
個々の人が何を言っているかではなく,何人がものを言っているかの方がはるかに大事であり,その人数をきちんと把握すること。(中略)発表した作品に対しては,みんなが評価点をつけるし,いろいろな感想も届くけれど,最も確かなデータは,何人が読んだか,何部売れたか,という数字なのである。(中略)僕は,純粋にそう考えているので,良い評価も悪い評価も同じと見る。(p199)
世の中でよく聞かれる台詞は,「量より質」だろう。この言葉が強調されるのは,現実には,その逆だからである。(p202)
自分たちが良いと信じるものが良い商品ではない。相手が求めるものが良い商品になる。そして,良い商品とは,量が売れるものだ。質を上げれば売れるという幻想を,まず捨てる必要がある。何故なら,質は,人によってまちまちだからだ。作家が仕事ならば,ファンの声ではなく,読者にならない人が,どれくらいいて,何故手に取らないのかを観察しなければならないはずだ。(p203)
掃除という行為は,エントロピィ増大への抵抗という意味で,実に生命的というのか,人間らしい行動である。(中略)落葉を掃き集めたり,雑草を取り除いたり,手入れをすることで実現されるのは,明らかに不自然な光景なのだ。放っておくのが一番自然保護になりはしないか。しかし,人間の感覚として,掃除をして異物を排除すると,そこが「綺麗」になったと感じるのだ。この環状は,人間にとっては自然である。(p209)
日本人が,浮世絵とかアニメなどの平面的な絵で世界観を膨らませられるのは,思考が映像的でないことに起因している,と僕は考えている。つまり,映像イメージがそもそも頭にないから,二次元で満足できる。(p215)
日本語というのは,論理性に乏しい。非常に曖昧な表現しかできない。必然的に,この日本語で思考をする日本人の多くは,論理が苦手で,しかも言葉に拘る。議論をすると,相手の言葉尻を捉え,揚げ足の取合いになってしまう。(中略)英語教育がいろいろ試行されて久しいのに,ちっとも日本人は英会話ができない。しかし,そもそも日本語会話でも不自由なのである。(中略)つまり,英会話が不得意なのではなく,そもそも聞取りや発言が不得意なのである(p216)
多数はというのは,たまたま意見が一致した大勢のことではない。意見を一致させようとした大勢なのだ。(中略)これは,民主主義だからではない。それ以前から人間社会にあった「群れ」への羨望という本能的な指向といえる。(p219)
少数派というのは,群れることに嫌悪を感じる人たちである。自分の意見を変えてまで仲間になりたくはない,という価値観であり,したがって,少数派どうしで結びつくこともない。(p220)
僕は,群れるのが嫌いで,「会」がつくものには近づかないことにしている。遊ぶときも一人が良い。「なんか寂しくないですか?」とおっしゃるかもしれないが,寂しいのが大好きなのである。(p223)
こういう思考をする人は,けっして自信家にはならないだろう。発想というものは,それくらい偶然に湧いてくるものであり,自分の能力によって作られたとは到底思えないからだ。(p226)
人間の行動の原理は,自分が好きなことの実現だ,それがすべてだ,という価値観に留まっているうちは,社会情勢も人間関係も,真相を見抜くことは難しい。何故なら,人間はそんな単純な原理で行動しているのではないからだ。(p230)
勉強でも,好きでやるわけではない。嫌いでもやった方が良い,将来のためになる,という理屈があるためだ。なのに,勉強している有人に対しては,「あいつは勉強がすきなんだ」とやっかんだりする。囚われているのは,どちらだろう? 教育する側の人も,大多数が勘違いしている。子供になにかをやらせるときに,それを好きになってもらおうとする。(p232)
自然界は熾烈な過当競争なのだ,と思い知らされる。自然は,基本的に残酷だ。野生には人情など微塵も働かない。(p233)
つきあいのある友人や仕事関係の人たちを,なんとなく歳上だと認識する傾向が,僕にはある。二十歳は若いだろうという相手であっても,「先輩だ」と感じてしまう。(p239)
一人で遊べない大人の方が,人間関係では難しくなる。子供は一人で遊べるし,誰とでも遊べる。馬が合うとか,合わないとか,そんなことは考えてもいない。大人は,例外なく,かつては子供だった。学んで,苦労をして,大人になったはずなのに,本当に子供より賢くなったのだろうか?(p243)
過去のどの状態よりも今が一番良い。昔に戻りたいなんてまったく思わない。それは,僕だけではない。日本も,社会も,かつてよりも今の方が良い状態に,僕には見える。きっと,これからも,まだまだ良くなっていくだろう。(p243)
世間の人の発言を,最近はネットでいろいろ覗き見ることができるのだが,わりと大勢が真剣に後悔しているようなのだ。(中略)そんな様子をみて,僕は,「この人たちは全然ダメージを受けていないな」と感じる。(中略)彼らに比べると,僕は判断ミスがあればダメージを受ける。だから,考えに考え抜いて,これだけ考えたのだから,もう後悔する事態になっても自分を許せる,というレベルに持っていくのだ。(p245)
本当に後悔しているなら,内に秘め,今後は後悔しないように生き方を改めるべきだ。そして,それが取り戻せたと思ったとき,実はこんなことがあった,と初めて語れば良い。失敗しました,これからやり直します,では信用できない。すっかりやり直してから語ってほしいのである。(p248)
知識を沢山持っていることが教養だと信じている人がいるが,それは間違いである。(中略)自分がいかに知らないかを知っていることこそが教養といえる。知っているから思い上がり,油断をし,そして考えなくなる。(p249)
道の先にあるものは未知だ。なにかがありそうな気がする。この予感が,人を心を温める。温かいことが,すなわち生きている証拠だ。したがって,行き着くことよりも,今歩いている状態にこそ価値がある。知識を得たことに価値があるのではなく,知ろうとする運動が,その人の価値を作っている。(p250)
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