2020年7月5日日曜日

2020.07.05 櫻井秀勲 『誰も見ていない書斎の松本清張』

書名 誰も見ていない書斎の松本清張
著者 櫻井秀勲
発行所 きずな出版
発行年月日 2020.01.01
価格(税別) 1,500円

● デビュー当時から松本清張を担当していた編集者の記憶をまとめたもの。松本清張を振り返ることは,そのまま昭和後期文学史を書くことになる。文学史というか文壇夜話というか。
 ぼくは松本清張の読者ではないのだが,これは読まずばなるまい。そう思わせるだけの面白さがあった。

● 以下に転載。
 和服で原稿を書く文豪にしては,椅子に腰かける形式の机を使うのは珍しい。(中略)和服だと畳に座って書くのがふつうだし,特に時代ものを書くとなると,畳でないと,文章にも雰囲気が出ないものなのだ。ここが成長文学のポイントになるのだが,清張さんの文章は,現代ものと時代もので,それほどの差異がない。時代小説を読んでみるとわかるのだが,現代文なのだ。(p4)
 書斎の机の脇にベッドを置いている作家は,ホテルで書いている人々に多い。書き疲れたら,二,三時間仮眠してはまた起きて,書きつづけるタイプである。初期の清張さんはそうだった。(中略)あまり健康的ではないが,私の知る範囲でいうと,おかしな表現だが,健康を気にするタイプほど,早く衰えるようだ。(p5)
 これは誰の場合でも同じことだが,「話す」より「聴く」ことのほうが大事だ。(中略)私はまず今日の先生は,どんなことに興味をもつのか,どんなことに同意してほしいのかを探る。(p28)
 私は間違いなく,清張さんは超天才だと思う。それは四百字詰め三十枚から五十枚くらいなら,ほとんど話したものと書いたものと,内容が違わないのだ。(中略)清張さんは,大作でも口述筆記が可能だったのだ。(p34)
 松本清張が国民的作家と呼ばれるようになった理由は,ここにあると私は思っている。若い同僚が耳で聞いて面白い,といってくれた-という箇所は重要だ。(中略)書くだけでは,人はなかなか読んでくれない。むしろ朗読して,面白がってくれるかどうかを調べたほうが,成功する率は高いと思うのだ。(p37)
 外語大というところは実に奇妙な学校で,その言語学科があろうがなかろうが,たちどころにしゃべれる学生が集まるのである。一種の天才集団だった。(p87)
 清張さんが二十二歳も年下の私を可愛がってくれたについては,一つだけ,性格が酷似していたことによる。二人とも,大の負けず嫌いだったのである。それは将棋を指していて,互いにわかったことだった。(p89)
 清張さんが他の作家と根本的に違った点は,過去の作品をほめても,ちっともうれしそうな顔をしないことだった。(中略)松本清張の真骨頂は,次に何を書くか,自分にはどんな才能が眠っているかの二点についてだけ,生き生きとした関心を示す点にあった。(p90)
 「作家は絶えず旅をすべきである」というサマセット・モームの言葉を戒めとしていた松本清張は,旅だけでなく現場取材も丹念だったし,電話取材も巧みだった。これらの取材力を駆使して,短い一篇を書く場合でも,惜しみなく時間,労力,史料を注ぎ込んだのである。(p94)
 松本清張には,作家の資質は才能ではなく,「原稿用紙を置いた机の前に,どれくらい長く座っていられるかという忍耐強さ」という特異な考え方があった。後年,私が独立して作家になろうと決意したとき,清張さんは「一日十六時間,机の前に座れ」と私に指示している。私はそれを十三時間に値切るという珍問答を交わしたほどだった。(p94)
 新人時代からつき合っていた各出版社のすぐれた編集者たちが,ほとんど全員役職者になってしまい,各社とも若手編集者に交代したからなのだ。そうなると“清張さん”ではなくなり“清張先生”として巨大な作家を目の前にするので,編集者も畏れ多くて,くだらないおしゃべりができなくなってしまったのだ。これはなにも松本清張に限らず,ほとんどの作家の作品が,初期から中期に傑作が揃っていることと無縁ではない。(p98)
 清張さんの歩き方は,後年の文豪然としたゆったりした様子からは想像できないほど,せかせかしたものだった。私はこの歩き方を見て,じっくり考えるタイプではないと判断した。(p115)
 文壇には序列などないように見えて,実は厳然としてある。同じ用に新聞社や出版社にも格式があり,(中略)チンピラ作家には「書かせてやる」式の言葉遣いを平気でするのだ。(p120)
 清張さんの作品鑑定は,実にはっきりしている。「面白いかね?」 この一点に尽きる。その意味では松本清張は文芸評論家にはなれない。評論家はさまざまな点から作品を論じるが,「面白い」という言葉だけは使わない。(p123)
 作家が批評,批判をいやがるようになったら,必ず売れなくなる。非難には必ずその原因が潜んでいるもので,夫が妻から「あなたこの頃,帰りが遅くなったわね」といわれるようになったのと似ている。(中略)批評家とは妻のようなもので,小さい話のうちに気づかせてくれる。そういうありがたい存在なのだ。(p124)
 短編小説だけで作家が食っていくのは,容易いことではない。一つには注文が来なければ収入がなくなるからだ。(p139)
 私は編集者として,単純に雑誌には常にエロチックな作品が必要であり,「小説新潮」は実に巧みに,舟橋聖一という大物作家にそれを描かせているな,という感想を持っていた。(p146)
 評論家は自分のために評論しているんだ,というのが,清張さんの考えだった。ところが編集者は違う。売れるかどうかを考えて,一作一作読んでいる。売れるには,面白くなければならないが,それを大切にするのは,すぐれた編集者だ,というのが編集者観だったのではあるまいか。編集者にとっては,最高にうれしい作家だった。(p149)
 長年にわたるつき合いの中で,私には頑固な一面を,一回も見せたことはなかった。自分の考えと違っていれば,悔しそうに睨み返すのが常だった。(p150)
 清張さんが小学校しか出ていないという話は,広く知られている。(中略)ところが,清張さんは,私などは足元にも及ばない知識と解釈の持ち主だった。(p166)
 清張さんには,私を見下せる,ある実力があったのだ。(中略)やはり私たちは,まったく同等の知識をもつ同士では,本当の仲よしにはなれないもの。自分のほうが確実に相手より上だ,という分野を持っていないと,いばれないものなのだ。私が驚いたのは,清張さんは英会話が堪能なことだった。(中略)清張さんは発音が日本式で「アイ シー,アイ シー」と,うなずくのだが,驚くほど雄弁なのだ。(p167)
 これでわかるように,清張さんは何事にも勉強熱心だった。(中略)私は何十回,いや何百回,清張さん宅に通ったかわからないが,清張さんが華族部屋から玄関に出てきたのは,数回あるかないかで,ほとんどは書斎から降りてくる。ということは,原稿を書いているか,書斎に誰か客がいるか電話中か,ということであり,つまりは勉強や取材をしている,ということなのだ。(中略)極論するならば,二六時中(十二時間)ではなく,四六時中(二十四時間)勉強しているということなのだ。(p168)
 この清張さんから教えられた知識のふやし方で,私が便利に,いまでも使っている秘密の方法を書いておこう。「一度に三つ覚えなさい」というものだ。これはどういうことかというと,一例として「始祖」の字を国語辞典で引くとしたら,その前の「自然淘汰」と,その後ろの「紫蘇」の字も覚えてしまえ,というのだ。(中略)天才といわれる人でも,こういう工夫をしているのだと,私はひどく感動した思い出がある。(p169)
 「櫻井君,互いに新人なのだから,四十年間この道で働いていこう」 清張さんは,私にそういったのだった。いま思うと,清張さんは,自分自身を励ます意味でいい出したような気もする。(中略)人間というのは誰でもそうだが,若いうち,あるいは経験不足の頃は,自信より不安のほうが大きい。大作家,松本清張といえども,その例外ではなかったということだ。(p171)
 店側が釣り銭を間違えて多く客に渡した場合,○○メートル離れたら,店側のものではなく,客のものになる-といった記事を載せたことがあった。ところが名古屋でこの記事を悪用した女性がいたというので,あちらの警察から,編集長の私に問い合わせがあったのだ。こんなことは極秘なので,誰も知らないと思っていたら,なんと! 清張さんから電話があり,「これは面白い! いい記事だ!」「くわしく聞かせなさい」と催促があったのだ。このときほど清張さんの取材力に驚いたことはない。愛知県警かどこかの署に,ネタ元がいる,ということだからだ。(p176)
 先生の人物間は,角度と立場によって大きく異なる。まず働き者でなければ優遇しないし,評価も低い、(中略)何を(中略)私に共鳴を求めているかというと「遊びへの嫌悪」だった。(p186)
 私と非常にうまが合ったのは,長編ではなく,短編こそ小説である,と思っていた点だった。それはいかにも芥川賞作家らしかった。直木賞は基本的に「物語性と長編」が中心であり,芥川賞は「短編と芸術性」が重要だった。(p188)

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