著者 勢古浩爾
発行所 KKベストセラーズ
発行年月日 2017.11.30
価格(税別) 1,400円
● 勢古さんの著書を読むのは,これが初めて。“定年”を素材にしているが,定年そのものについて語るのではなく(それも語っているのだが),定年を話材にして自らの人生論を開陳している。メディア論であったり世相巷談であったりするわけだ。
● 以下に転載。
「こうすれば,こうなりますよ」というほど,人間関係も生活も人生も単純なものではない。こうすれば,お金の不安はなくなる,健康になる,人生はうまくいく,という識者がいるが,みなインチキである。(p5)
定年を間近に控えた人が考えることは,「会社を辞めたら,オレなにをするかなあ」だろう。「なにもしなくいいんだ」という選択肢は最初からないようである。(中略)どうやら,人はなにかを「しなければ」不安になるらしい。(p8)
「おれだって,定年後はなにもしたくないよ,腐るほど金があればそうするよ」という人がいるかもしれない。それはだめな自由である。お金がないのに,自由に生きるのがいいのである。(p11)
もしわたしに有り余る金があったとしても,欲しいものがほとんどない。金持ちはよくまあ二千万円の腕時計を買ったり,家にプールを作ったり,車を何台も持ったりするねぇ。金持ちのワンパターンである。(p34)
買ったモノは買ったとたんに,色褪せる。欲求がそこで消滅するからだ。手に入れたものは欲求の残骸である。だからまた,次のモノが欲しくなる。きりがない。(p37)
こういう欲の少ない人は,世間から「つまらない男」といわれかねない。(中略)だが,わたしたちは,つまらない人間たちから,おもしろい人といわれるために生きているのではない。(p43)
たかだか健康維持のためにわざわざお金を使うことはない。お金を使ってフィットネスクラブやヨガ教室に通わないとやった気にならない,というのはひ弱な精神である。逆にいうと,お金を払ってどこかに通えばやった気になる(英会話なども同じ)というのは,自分を騙す自己満足である。(p51)
世間は一々「老後,老後」とやかましすぎる。(中略)ほんとうは「老後」なんて大雑把なものはないのである。あるのは,今日という一日だけである。(p69)
常識にしばられない,ということの反対側に,自分で自分をしばらない,ということがある。(中略)歳など関係なく,やろうと思えばだれでも大抵のことはできるのである。男でも,料理は当然できる。そして,やはり自分でできたほうが,なんでもおもしろい。(p72)
六十も過ぎれば,どんな人間も大差ないな,と思うようになる。エライとされてきたものも大したことないな,専門家といえど,ピンは少なく,大半はキリばかりではないか,とわかり,そんな世間の価値観がどうでもよくなるのである。(p77)これを若いときから察知している人もいるかと思う。それでも周りにはシニカルになっているところは微塵も感じさせずに,淡々と仕事をしている人がいるのじゃないか。
ここでそれを外側に出してしまうと,せっかくの正しい洞察が自分の足元を掘り崩すことになる。それも,言われるまでもなくわかっているかと思うが。
すべては相対的である。ひとりの贅沢な時間があるのも,残余の膨大な猥雑な時間があるからである。世間があるから,ひとりもあるのだ。(p81)
世間体を気にする人は,世間の価値観を内在化しているのである。(中略)世間体を気にするとは,実体のない世間を相手に独り相撲をとっているのである。(中略)世間の目を恐れて行動が萎縮剃るのも,その逆に過度なアピールになるのも,自分自身の自由のなかで生きているのではなく,世間の目のなかで生きていることはおなじである。(p84)
人生に「こうすればこうなる」なんてことはない。それはインチキビジネス書や成功本の幼稚な手口である。だから,こうすれば金儲けができる,成功する,雑談力があがる,老後は豊かになる,人生は充実する,輝く,なんてことはないのだ。(中略)すべての甘言は疑似餌である。食えたものじゃないのである。「輝く」なんてバカな言葉を使っている時点で,すでにアウトである。(p113)
どうも「楽しい」という言葉は薄っぺらいのである。「人生は一度限りなんだから」という言い方もさもしいが,だから「楽しまなければ損だ」というふうになると,さもしさの二乗という気がして,黙って勝手に楽しんでいろよ,といいたくなる。(p117)
後悔など,人間である以上,して当然である。「存分に生き切る」とか「悔いのない人生」という。そんなものあるのか。もう,言葉がやかましいのである。おまけに,あつかましい。(p122)
深味とは,我慢の数である。広がりとは,濁を呑み込んだ数である。(中略)悔いて,反省したことがない人間はいつまでたっても浅いままだ,ということだけはわかる。「悔いのある人生」が正しいのだ。(p123)
ほとんどの仕事はなくてもいい仕事ばかりである。(中略)もう,売り上げが一兆円を超えたとか,世界何位,業界何位とか,東大出身で大手商社勤務だとか,豪邸だの六本木ヒルズだのが,まったくどうでもよくなる。(p132)
どう生きていけばいいのか,もへったくれもない。すでに人生の大半を生きてしまったのだから。(p137)
お笑い番組などで,こういう場面をたまに見る。ある芸人がまじめなことをいうと,先輩芸人が「あほか。これはテレビ,てれび!」というのである。これがテレビの本質である。(p142)
不安を煽るような話やうまそうな話,おもしろすぎる話は,ほんとかウソかと考えるのがめんどうだから,わたしはすべてウソと見做す。(p144)
自由を持て余して途方にくれ,なんらかのしばりを欲するようになると本末転倒である。(中略)「豊かさ」や「充実」などにとらわれることなく,自分ができることやしたいことをするだけである。(p163)
二万円,三万円の食べ物など,その価格に値するほどうまいはずがない。めくるめく快感などないように,至高の味なんかあるわけがないのだ。(p175)
自然権とか天賦とかいっても,人間がそう考えただけである。だから当然,不備なものである。(中略)基本的人権は,他人の権利を尊重する者にしかないと思う。(p177)
いまの世の中を見ていると(どの時代でもおなじかもしれないが),おれが正しい,おれが引っ張る,夢を持て,楽しい人生を送らなければ損だぞ,と前衛に出たがっている人間だけが幅を利かせ,マスコミもそれに喝采する。むろん,それは悪いことではない。(中略)ただ,それだけではまずい。聞き飽きたわ,という気もする。(p197)

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