2025年11月16日日曜日

2025.11.16 ホテルとディオール

● PR誌2冊を斜め読み。ひとつはこれ。何年か前にどこかの地下鉄駅に置いてあったのをもらってきたんだと思う。
 写真がキレイで,いつか泊まってみたいなぁと妄想に浸れるかなと思ってね。

● 読むところは星野佳路氏のインタビュー(p6~p7)のみ。と言っても,「星のや」には泊まったことはないし,これからもないような気がする。
 お値段もそれなりにするしね。無理して泊まることもない。

● そのインタビュー記事からいくつか転載。
 単に多くの人に来てもらうのではなく,観光地側が制限を変えるなどして,お客さんを選ぶ傾向にあります。しかし,日本は相変わらず2019年に戻ろうとしているようで,世界との差が開いてしまうのではないかと懸念しているんです。
 新しい観光の形として私が考えているのがステイクホルダーツーリズムというもの。(中略)実現させるためには,連泊滞在を強烈に提唱する必要がある。現状,国内旅行の宿泊数は,大半が1泊2日。それだとホテルや交通機関にお金が落ちますが,地元には還元されません。連泊することで中日ができ,アクティビティや飲食を楽しむことにより,経済の循環が生まれます。
 今までは観光地がお客さんに合わせていましたが,これからは地域の特徴を現地から発信し,興味を持った人が訪れる時代。
 星野リゾートではマイクロツーリズム(自宅から1~2時間で行ける場所を旅する)を引き続き推奨しています。観光産業が排出しているCO²の半分が交通で,移動距離が短くなればCO²は劇的に減ります。
● 今どき,CO²の話をしているのかと思ったんだけども,これは本気でそう考えているのか,宿泊候補者へのアピールなのか。この分野の意識高い系が集うホテルには,正直,行きたくないけどな。
 観光地が客を選ぶというのも,おそらく上手くいかないだろう。選ばれる人は多くはないからで,そうなると観光が業として成立しなくなる。これも,それをわかった上でのアピールなのかもしれないけれど。

● もうひとつは,「DIOR MAGAZINE No.45」。ディオールの広報誌。
 こちらは見ても全然ピンと来ない。

● モデルのディーヴァ・カッセルのインタビュー記事からいくつか転載。
 好みやビジョン,フォルムは流行によって変化するものですが,私は,カラーやテクスチャーを組み合わせることで,どんな風に今の時代に融合させ,新たなピースを創造するのかを見るのが好きです。
 私が表現したいと思うのは,ウェアの着こなし方だけでなく,ウェアが体現するものは自分自身で決めることができる,ウェアは私たちを支えてくれるものである,という点です。
 ファッションは自己肯定である
 すでに所有するピースを使って違うスタイルを作り,新しいフォルムを与えることが好きです。
 服飾とは,私たちの振る舞いや歩き方,呼吸の仕方をもデザインします。歴史的な服飾を纏うと,私たちはあっという間にその時代への旅路に招待されます。
● 何だかよくわからない。自分の顔をキャンバスにして絵を描く芸術家(女性)にはピンと来るんだろうか。
 若者であっても,身なりに無頓着な男性は多いだろう。むしろ,無頓着であることに矜持を持っている人もいるのではないか。

● それゆえ,男性にとってはつけ入る隙はいくらでもあるということになる。わずかな努力で報われる分野であるかもしれない。

2025年8月22日金曜日

き2025.08.22 酒井順子・関川夏央・原武史 『鉄道旅へ行ってきます』

書名 鉄道旅へ行ってきます
著者 酒井順子
   関川夏央
   原 武史
発行所 角川文庫
発行年月日 2024.03.25(単行本:2010.12.20)
価格(税別) 800円

● 単行本でも読んでいることを,読み終えてから知った。もちろん,だから損したとかいう話ではない。

● 「人工的なものは何一つない。聞こえてくるのは,川のせせらぎと野鳥の鳴き声だけだ。何の夾雑物もなく,大自然と裸の自分が相対しているうちに,心が研ぎ澄まされてくる。(p181)とは共著者の原武史の文章なのだが,こういう文章を書く(こういう文章しか書けない)人を,ぼくは信用しない。心が研ぎ澄まされる? 何だ,それ。
 おまえはどんな文章を書けるのだ? と言われると,そういう文章すら書けないわけだが。

● 以下にいくつか転載。
 マニアって,あえて自分に徒労的義務を課すんだけ。(関川 p127)
 (五能線は)演歌の代替物なんだろう。冬,日本海,荒波,「都落ちする私」。自己憐憫は不滅だから。ここで疑似体験するんだろうね。(中略)もともと,演歌と汽車と「都落ち」は相性がいい。それからフォークソングも。演歌の変奏だったから。(関川 p137)
 戦跡は観光には適さない。遺構がなく,つかみどころがないからだ。(関川 p168)
 汽車趣味もお城・戦国趣味も,やっぱり「児戯」には違いない。ただ,雑学自慢にならない言語化ができれば救われるのだが,それはラクなことではない。(関川 p170)
 「旅情」を感じつつ孤独にひたる,などというのもやや見当違いではないかと思う。「旅情」や「感傷」など,実人生に掃いて捨てたいほどある。あえてよそに探しに行くことはなかろう。(関川 p217)
 ガツガツしてる奴は年をとってもガツガツしてる。あんまり年齢は関係ないですね。(原 p244)

2025年8月8日金曜日

2025.08.08 『秩父三十四ヵ所を歩く 改訂版』

書名 秩父三十四ヵ所を歩く 改訂版
発行所 山と渓谷社
発行年月日 2006.03.
価格(税別) 1,400円

● 先月,初めて秩父に行った。面白そうなところだ。面白いと言ってはいけないのかもしれない。ただ者ではない感に満ちているということだ。
 他所から移り住む人も多いかもしれない。一度来たら虜になる人がいそうな気がする。沖縄のように気候風土が日本離れしているわけではない。空気感が独特という感じを受けた。

● 酒や食も奥深さを湛えているような気がするが,何より神社仏閣が多い。人口に比して明らかに過剰だ。
 それを支えているものは何なのか。それを追求したいとは思わないが,秩父三十四ヵ所は巡ってみたいと思っている。本当にやるかどうかはわからないが,その気はある。

● 若い頃(中年の頃)は,退職したら四国八十八ヵ所を歩いて回りたいと思っていた。体験記をいくつも読んだ。この前に弘法大師の本も読もうと思って,ちくま学芸文庫の4冊を買った。
 が,手を付けていない。四国八十八ヵ所を巡るのは半ば以上諦めている。

● が,秩父ならばできるかもしれない。
 と思って本書に目を通してみたわけだが,果たして実行するやいなや。

● 巻頭に秩父札所連合会会長の羽金文雄さんの挨拶文(?)が載っているのだが,これがまことにつまらない。こうした挨拶文はこういうふうに書くものという不文律があって,それにしたがっているのだろうな。
 というより,本人が書いたものではないかもしれないが。

2025年2月22日土曜日

2025.02.22 角田陽一郎 『人生が変わるすごい「地理」』

書名 人生が変わるすごい「地理」
著者 角田陽一郎
発行所 KADOKAWA
発行年月日 2019.08.02
価格(税別) 1,500円

● 地理とあるけれども,若い人への人生論のようなもの。

● 昭和50年代まで「中国の子供たちは目がキラキラしている(日本の子供にはなくなったものだ)」という爺様がいたが,どうもそれに近い印象を持ってしまうところもあった。
 後半では中国の経済力を称賛する記述がけっこうあるのだけれども,現在の中国は破綻の危機に瀕しているわけで,経済に限らず,目先の情勢トレンドをどう扱えばいいかはなかなか難しい。

● 以下に転載。
 縄文時代は,約1万5000年前から約2300年前(紀元前3世紀頃)までの結構長い時代を指します。僕ら日本人がこの時代を「縄文時代」と意識しはじめたのは,モースが大森貝塚から縄文式土器を発掘してからのことで,150年も経っていません。日本史の中で一番長い時代であるにもかかわらず,織田信長も徳川家康も坂本龍馬も,縄文時代を知らなかったということです。このささいな事実に気づくことが,「地理思考」をするうえで重要な要素となります。(p26)
 現代に生きる僕たちが,僕たちの目線や常識でかつての時代を判断すると,歴史を曲解してしまう危険をはらむような気がします。(p27)
 「地理思考」で大事なことは,だいたいの標準的な数値を肌感覚で知っていることだと思います。(p33)
 コメと小麦には特筆すべき違いがあるのです。それはなにかというと,米がおもに自給を目的として作られる一方で,小麦は商品的な性格を持つということです。(p38)
 産業革命によって効率化を優先するようになった人類は,働き方も効率優先で考えるようになりました。そこで生まれたのが会社という組織です。(中略)この会社の誕生によって,人間の生活は「食べるために働く」から「働くために食べる」へと転換してしまいました。(p43)
 僕は,世界とは「子どもの集まり」だと思っています。(中略)世界とは「組織化されていない人間社会である」とまずは理解し,1つひとつの国は一個人と同じなのだと考える。それも,上から統制されない,原始的で野蛮な人間関係が如実に現れるものなのだと認識することが,地理試行的な考え方といえます。(p58)
 平和を維持するために,“なあなあで済ましておく” というのは,実は平和の本質なのではないかと僕は感じています。(p67)
 地名は,「人間が環境という外部から影響を受けると,どうリアクションする(してきた)かの集合体」と言い換えることもできます。(p92)
 淀んだ場所だから,街ができる。すごく淀んだ場所だから,街が大都市になる。(p95)
 知の本質は,物事の「縁起」を丁寧に深堀りすることで見えてきます。(p100)
 報道のあり方というのは,テレビ局の内部の視点でいうと,そんな大仰なことではないのです。(中略)それは,スタッフが日々の仕事に忙殺されていることです。それが,結果として雑な仕事になって現れているのだと思います。(p143)
 一時期,築地市場の移転問題と,相撲問題ばかりが取り上げられていたことがありました。それはなぜだと思いますか?(中略)それは,「築地と両国国技館の距離が都心のテレビ局に近かったから」。(p143)
 雑多な人と接触し,情報を寄せ合い,そして情報の混交が進む。それが果たせないのなら,もはや都市に集まっている意味がないのではないでしょうか?(中略)渋谷の高層インテリジェントビルに隔離されたIT企業。そこで働く人は日中ほとんど外部の人と合うことはなく,ほとんどの情報交換をネットですませます。外部の人と接触するのは通勤の満員電車のなかだけという,なんとも皮肉な現実です。(p144)
 ひとすじ縄ではいかない世の中で,僕たちは僕たちはどう生きていけばよいのか? 私も途方にくれることが多くあります。しかしながら,「途方にくれそうになるのが世界なのだ」あるいは,「それが,人間が生きている社会の常なのだ」と理解してしまうことも,意外と有効な考え方ではないかと思っています。(p170)
 結局のところ,地図は「嘘つき」だと僕は思っています。なぜなら,「地図には制作者のイデオロギーが入り込んでいる」からです。(中略)そして,やっかいで,肝要なのは,そのイデオロギーはときとして「人の目には気づかれないように(巧妙に)隠されている」ということです。(p176)
 何かを学ぶ際,いや,人生を送る際にもっとも大切なことは,「適度に信じて,適度に疑う」ことだと僕は思います。そして,その具体的な方法とは,1つの観点から物事を見るのではなく,上から,横から,斜めから,まさにバラエティに富んだ観点を持つことが大切なのです。(p181)
 鎌倉幕府の定義がぼやけるのは,その呼称そのものが後世に名付けられたためです。(中略)学校で習う “勉強” の多くは,つまり若い頃に大人たちから教わる情報は,その定義が曖昧か厳格かなんて要素はまったく考慮されずに,ただ “決まったこと(=定義)” として降ってくるのです。(中略)でも,本当の勉強とは,過膜幕府の成立年を覚えることではなく “鎌倉幕府という定義は,曖昧なのだ!” と理解することなのです。(p211)
 物事の始まりは曖昧です。(中略)事実を追求することも大切ですが,僕は,この歴史で起こった減少もつねに「始まりは曖昧だ」ということを理解することの方が,人生にとって重要なことだと思うのです。(中略)“決まり” とは,誰かが “決めた” から “決まり” なのではありません。(中略)みんなが(意識する・しないにかかわらず)そう思うから “決まり” になるのです。(p217)