2021年3月23日火曜日

2021.03.23 伊集院 静 『作家の贅沢すぎる時間』

書名 作家の贅沢すぎる時間
著者 伊集院 静
発行所 双葉社
発行年月日 2020.09.20
価格(税別) 1,000円

● 話材は酒場,ギャンブル,ゴルフから,人生論,来し方を語る的なものまで多岐にわたるが,ぼくには京都人の合理性についての文章が一番面白かった。
 粗野な田舎者が都を荒らすときの身の処理方について,京都とパリに共通性があるという話。

● 以下に転載。
 私は店の味覚は覚えていないが,主人の顔と人となりは忘れない。行き着く処,味覚より人である。信頼する人がこしらえれば,それが一番なのである。(p33)
 横浜の時代は,早朝から夜遅くまで働きっぱなしだった。(中略)早朝五時半に起きて,アメリカ軍専門の移動の車を運転し,夕刻まで荷積みから荷揚げまでをくり返し,夕刻からコックまがいのことを夜の十二時までやり,十二時からゴルフ練習場のボール拾いを深夜二時までやり,事務所の土間で休んだ。どこで睡眠を摂っていたのかわからないが,何も持たない人というのは,他人と同じことをしていてはどうにもならないのだろう。(p34)
 私の基礎体力は中学,高校,大学と野球部のグラウンドでの日々の練習で培われたものではなく,むしろ学生の身分で社会に出て,日々,働いていた中で,(中略)本当の意味での “地の体力” がついたのではないかと思うことがある。(p42)
 あれは絶品の鍋だった。競輪場でさんざん打ち負かされた後でも,笑顔になれたのだからたいした味である。(p45)
 労務者風の客が多いのもどこか安心できる。(p47)
 やがて少しずつ仕事が増えても,腹が満たされればそれでよかったから,特別な店もない。私に言わせれば,そんな若い時から,どこそこの何が喰いたい,と思う方がおかしい。(p53)
 私はこの店の主人に,店に活けてある茶花,掛けもので,京都の大半を教わった。茶花だけで百種類近くを酔った目で眺め,三年間,四季を三度巡ることで覚えることができた。それは花器もともに覚えることで,陶器を学ぶことができた。(中略)しかし肝心は,京都には “奥のまた奥” があることを知ったのが何より役に立った。(p69)
 京都人はなかなか本音を口にしないと言う。(中略)彼等は表面上で挨拶をしている時は,男も女もあのとおりのやわらかい物腰とはんなりとして聞こえる京都弁から伝わって来る印象は,まことにソフトである。しかしソフト,やわらないだけで京都人は千年も,この都で生きながらえるわけがない。(p76)
 京都人は合理的なんですよ。そこが他の土地の人間と違ってるんです。(中略)さてこの合理性が癖者なのである。この合理性の源泉になっているのは徹底した個人主義なのである。どこかの街の人間に似ていないか? どう近代以降のフランス人に,パリの人々に似ている。パリもフランス革命以来,何度も戦場となった。しかしパリの人々は戦争の間はじっとしていたのである。(中略)ふたつのみやこびとに共通しているのは,どんなことがあろうと自分たちだけは生き抜く,という精神である。合理性,個人主義のバックボーンはそこにある。(p77)
 京都は古い伝統を守っているかのように思えるが,それは違う。(中略)京都人ほど新しいもの,モダンなもの,異国にあるものを積極的に受け入れて来た街も珍しい。(中略)新しい店だからと言ってあなどらない方がイイ。むしろそういう店が狙い目のように思う。京都だから,京料理というのは観桜客と同じで間違っている。(p78)
 それまで閑古鳥が鳴いていた店が,何名かの遊び人が,ここはと言いはじめるとたちどころに連日連夜,満杯になる。銀座の凄みのひとつだ。(p96)
 鮨屋ってものは丁寧にやってさえすれば傾くことはないんです。そうですね。粗く見積っても利は八割を超える仕事です。(中略)しっかり修行して仕事さえ身に付ければ,それから先は,少しの運があればいいんです。(p114)
 私は職人にも,店にも「美味い」とは言わない。どこかおべんちゃらを言ってるようで,こちらが金を払っているのだから,しかもそれなりの値段を取る。不味いじゃ,おかしいだろうという考えだ。(p122)
 身体の大きな鮨職人は半分以上がおかしな味覚である。名人と呼ばれた人は小柄な人が多い。(p123)
 私は,飲食店の主人は無口な方が良いと思っている。(p145)
 神楽坂は,よくぞこれだけ,どこから出て来たんだ,という高齢者で満杯である。見ているだけで食欲がなくなる。(p150)
 取材の折,私は小紙を数枚持っていくだけで,カメラやテープは持たない。自分の目で見て,それで記憶するだけである。撮影した写真で,あれこれというのは,いざ文章にする時にかえって邪魔になる。脳裏に刻まれないものを小説,文章にしても,それはどこか甘さがあるのではないかと思っている。(p162)
 正直に言って海外の酒造メーカーは百年前の味覚を百年前と同じ製法で作って売っとるんだよ。企業努力をしないので呆れたよ。(p166)
 何をやっても上手く行かない時はあるものだ。そういう時は一目散に,その場所から遁走するのが一番らしい。私も,その考え方に賛同する。(p169)
 戦争は,国と国との喧嘩である。喧嘩の場合を考えれば,迎撃ミサイルで攻撃ミサイルが射ち落とせないのは子供にだってわかる。攻撃目標,つまり喧嘩相手にむかって突進して来た者を,気楽に受けて勝った喧嘩など,この世にひとつもない。(p171)
 世間には昔から考えてもどうしようもないことがヤマほどある。答えが出ないことの方が,実は私たちが生きている社会にはあふれているのだ。(p175)
 私は二十歳を過ぎたあたりから,休日を取ったことがない。いつも仕事か,何かに追い回されていた。(p188)
 大勢の人が集まったり,群れる場所へついつい出かけるという行動は,あまりよろしくない。どこへ行ってもロクなことはない。(中略)人と同じ行動をしていると,疲れるだけである。(p190)
 本屋へ行くもよし,旅に出るのもよし,ただし思い立ったらすぐに立ち上がるのが人間行動の初期の重要な点である。(p194)
 それまでに自分でこしらえたフォームを崩さずに辛抱していると,やがてプラスの領域に自分が入りそうだという予感がして来る。(中略)その予感がすると,大半のケースがプラスになっている。(p209)
 私は気取ったり,斜に構えることができないので,ひさしぶりに逢うと,「元気だったの? どうしたかね,仕事の件は?」と声をかけてしまう。それが結果として,百人余りの人のサインで,二時間を超えてしまう。(p215)
 最初から,ストーリーも,構成も,最終シーンもできている小説は実際書いてみると,実につまらない作品になってしまうんです。(中略)これまで書いたどの小説も,不安というか,果たしてこの作品は最後まで書けるんだろうかと,ひと文字,ひと文節を手探りで進めて行った方が,何かとぶち当たることが多いのはたしかなんだ。ずっとその理由がわからなかったのだけど,もしかして,不安や恐れの中にしか核心は潜んでいなかったのかもしれないね・・・・・・(p217)
 ギャンブルで勝つということは,麻雀なら百点差でいいのである。勝ちに,大勝も,僅差の勝利もないのである。(中略)大金をせしめるだけが目的なら,ギャンブルなんぞしない方がいい。(p219)
 的中する時は,買い目が少ないものです(中略)買い目の点数を絞れるということは,その勝負への勘が鮮明なんだろうね。(p219)
 麻雀でバラバラの配牌が来た時,どんな手牌も五巡目でテンパイできるのだから,その一見バラバラに見える牌の,どこにビクトリーロードがあるのかを,真剣に考えれば,まず大きなマイナスになることはない。(p220)
 家族と言っても,家人と数匹の犬しかいないのだから,彼等がそう希望すれば言うことをきくしかない。(p221)
 絵画でも,彫刻でもそうだが,どう鑑賞するかは個人個人で受け止めることで,イイ作品は見ればひと目でわかる。それが大人でも子供でもである。どんな時代に,どんな立場で,どう描いたかは,さして重要ではない。(p232)
 ルネサンスの大パトロンであったメディチ家の礼拝堂を見た時,昔の金持ちはどれだけ悪いことをしたのだろうか,と昔も現代も金持ちのありようは変わらぬものだと思った。(p234)
 クラブを手にして,目標を決めたら,考えずに,サーッと打つことだ。(p268)
 物というものにいっさい興味が,或る時から失くしてしまった。その理由はここでは書かないが,ともかく物にいっさいこだわるということを三十代半ばでやめた。(p273)
 皆が皆同じようなフォームでスイングしていたら,そりゃビックリするような新人は出て来ませんよ。(p281)

2021年3月20日土曜日

2021.03.20 三竹大吉 『世界の大学を旅しよう!』

書名 世界の大学を旅しよう!
著者 三竹大吉
発行所 Jacaranda Press
発行年月日 2020.11.13
価格(税別) 1,800円

● 『世界の美しい大学』とか『世界の美しい図書館』とか『世界の美しい本屋さん』といった写真集があるが,実際にそうしたところに出向いてみたいとは思わない。書物で写真を見て色々と妄想するのが楽しい。
 実際のところ,図書館や本屋に行ってみたところで,言葉がわからないわけだから,手も足も出ないわけだ。

● 若い頃は,知(正確には人文知というかな)というものの力というか,威力を無邪気に信じていた。世界を統べて良い方向に持っていくのは知だと思っていた。
 知の殿堂は大学だ。だから,大学は尊ばれるべきものだと思っていた。

● しかし,大学がどうでもいいものになったのはいつからだったか。日本の大学はダメでも欧米の大学は違うのじゃないかと思っていた時期もあるが,今では大学と名のつくものはすべてどうでもいいものになった。
 しいて申さば,理系だけあればいいのじゃないか。人文系や社会科学系については大学がある必要はない。学びたければ独学すればよろしい。インターネットと図書館があるのだから,大学なんかなくても学びに困ることはない。

● ということなので,この本に出てくるイギリスや東南アジアの大学にも,実際に行ってみたいとはまったく思わない。本書の写真で満たされる。
 建物じたいに建築物として見るべきところが多くあるのだと思うのだが,それも素人ではどこまで味わえるか心もとない。本書のような書物で充分かと思う。

● 以下に転載。
 古い図書館の定石だが大小の地球儀がバランスよく配置され図書館のアクセントとなっている。(p27)
 オバマ大統領が核廃絶を訴えた有名な演説のフラチャニ広場もすぐ近くだ。(p39)
 著者は民主党支持なのかね。リベラル派というかね。リベラルに行っちゃう人って,騙されやすい人なんじゃないかと思っていてね。どうでもよろしいのだが。
 数あるカレッジ(オックスフォード大学であれば39カレッジ)のひとつに見事合格したとしよう。入学後に待っているのは,有名な個人指導(チュートリアル制度)である。これは教授と生徒が週に1回行うプライベート・レッスンで,毎回レポート用紙に平均10ページ程度のエッセイが義務付けられている。「年がら年中,読んで,書いて,議論するという学習」が徹底的に行われる。大学1年生から大学院並みの個人レッスンがずっと続く学生生活は想像しただけでも強烈だろう。(中略)講義やセミナーも並行して聴講できるが出席しなくてもかまわない。担当教授と対面による真剣勝負の場を中心に1週間が回っているので,時間が空いているから他の授業も取ってみようという発想にならない。(p62)
 日本でも音大ではそんな感じなんじゃないかと思うけどねぇ。このチュートリアル制度を理想的なメソッドのように書いているけれども,弊害はないのかね。イギリスでもこれではもうダメだという議論があってもいいような気がするが。
 オックスフォードとケンブリッジの学部卒業生は,7年を経て申請すればMA(修士号)が授与されるという。これは言葉は違えどオックスブリッジの学士は他校の修士に等しいということをあからさまに表現しているようにも取れる。(p66)
 「オックスフォード出身者は,世界は自分のものという顔つきで歩き,ケンブリッジ出身者は,世界が誰のものであっても構わないといった顔つきで歩く」(p66)
 FAHASAの社員と一緒に仕事をするようになって気付いた点は,ベトナムの人がとても賢いということ。(中略)日本の本を整理していても,言葉は読めないのに裏表紙の数字(ISBNナンバー)から瞬時に仕分けしていく。(中略)数字に強い。そして性格的にも根のところでひとりひとりとても強い部分を持っているように感じる。(p133)
 例えば,図書館の責任者に面会を取る。すると実際に面会する際は戦法は決まって大人数で部屋に入ってくる。代表者はいるが,集団で接客しようとする。(中略)タイ人の気質なのだろうと思う。(p149)
 タイ人はとてもおっとりしている。歩くスピードもゆっくり。(中略)まず自己主張ということをしない。自分の考えを他人に押し付けない,集団で行動するのが好き。朝から晩までガムシャラに仕事をしたりは絶対にしない,仲間内での揉め事をなにより嫌う,みんなで仲良く一緒に仕事して,一緒にランチに出る。(p149)

2021年3月16日火曜日

2021.03.16 養老孟司 『AIの壁』

書名 AIの壁
著者 養老孟司
発行所 PHP新書
発行年月日 2020.10.12
価格(税別) 880円

● 羽生善治(棋士),井上智洋(経済学者),岡本裕一朗(哲学者),新井紀子(数学者)の4人との対談。が,この分野での対談となると,養老さんとは段差がありすぎて対談にならない。インタビューとしてかろうじて成立しているかどうか。井上智洋さんと岡本裕一朗さんについては特にそうで,どうしてこういう人を相手に選んじゃったの,という違和感がある。
 リベラル派のAI論といった趣。養老さんは野放図なAI化に対しては批判的。

● 以下に転載。
 AIについては,とくに情報技術の面でコロナ禍以降,社会的に大きな変化が生じた。(中略)世の中,なにが起こるかわからない。これは知識としてはよく知っているが,八〇歳過ぎまで生きてきても,それが身に染みる機会は多くない。(p4)
 極めて安易に「これからはAIだ」となってしまう雰囲気があることを警戒している。とくに中国や韓国で行われたことは,当然日本でもやらなければならないという雰囲気が目立つように思う。自分自身の必然性から出ていないことをする癖がこの国の社会にあることを心配する。(p5)
 僕はね,「AIってなんだ?」と問われたら,基本的には「高級な文房具ぐらいに思ってる」と答えます。パソコンだって,情報処理の道具という意味では文房具の一種でしょ? その延長線上で捉えていますよ。(p17)
 道具として見たときに,実際の仕事に使えるか,というと,パソコンという箱にしてもAIというシステムにしても,非常に使いにくいですね。なんといっても,僕らみたいな(中略)人たちが相手にしているのは,自然ですから。都会とか人間の作ったシステムの中では,ものすごく使いやすいんだと思うんですよ。(p18)
 人間の意識だけで社会を形作って「ああすればこうなる」というふうに原因と結果がきれいに揃う思考だけで物事を考えていると-僕が前から言っている「脳化社会」がそうなんだけど-そういう世界観の中にいたら,人間はコンピュータにはかなわないですよね。だから仕事がコンピュータに置き換えられるとか,AIに仕事が奪われるとかいう話になる。だけど僕から言わせれば,そういう原因と結果が必ずきれいに揃うという世界観で仕事をしている方が悪いんだよ。(p18)
 将棋の世界は「局面」で切れるという意味で,AI向きなんですよね。ところが,自然を扱うとなると勝手が違う。まず,「局面」が切れない。虫もそうですけど,どこまでが虫なのかという線引きの問題がある。(中略)自然を扱おうとすると,とても簡単に計算はできませんよ。調べるという行為自体が相手を乱しますから。量子の世界も,そうです。観測の問題として有名なのが,「不確定性原理」。測定しようとすると,途端に相手に干渉するという意味では,量子も自然なんですね。(p19)
 AIそのものが問題なのではない。人間の営みの中で,AIが占めるウエイトが一番問題なんだ。(p21)
 人って「できる可能性のあることはやる」というか,「できることは何でもやっちゃう」という,ある意味では悪く癖がある。そこも考えていく必要はあると思いますよ。(p24)
 医療分野で「診断を機械にやらせよう」という発想は実はそれほど新しいものでもない。(中略)それ以後,時間が経ったわりには機械による診断って全然進んでいないなと。これ,囲碁や将棋とは違うな,なぜだろうと考えて思い当たるのは,多分,医者の抵抗がものすごいからなんですよね。(中略)「機械に任せちゃ,危ない」と煽るのは,もともと医者の傾向じゃないですかね。「自分の仕事を取られる」っていう危機感。(p30)
 前提となる基準が統一されていないような分野は,コンピュータで扱いにくいんですよ。例えば,肝機能の検査は,当時は統一されていなかった。(中略)ただねぇ,僕ら医者はむしろ,統一化や画一化の弊害の方が大きいと感じてきた。(中略)人間をそういう統一した基準で測っていいのか,と。人間の知能を測るIQという基準なんて,典型でしたけどね。(p32)
 東大の医学部に入ってくる連中なんかは,偏差値で言ったら,ものすごく高いんですよ。血圧でいうと,完全に「高血圧」です。だからあの連中は,治療しなきゃいけない。(中略)僕,疑問に思うんですよ。どうして身体のことだと,「偏差値」が外れたらいけなくて,頭だったら外れなきゃいけないのかって。「これ,ダブルスタンダードじゃないの?」と。(中略)要は,社会が「頭のことに限っては,外れた方がいい値」とバイアスをかけているということです。それがまさにAI化が進んでくる背景と重なる。(p33)
 案外,人のおおもとに立ち返れ,ということかもしれないよ。僕ね,AIが人の暮らしに入ってきて,面白いと思うのは,こういう時代になって初めて,「人が生きるとはどういうことか」と,みんなが考え始めたこと。(p35)
 ここまで作ってきた社会は,簡単に壊せなくなっちゃった。これが困るんですよ。しかも,壊せないぐらい堅牢な組織なり,システムなりを作り上げた人が,力を持ってしまっている。例えば,車なんかもそうだよね。(中略)今まで車が殺した人間の数は,戦争より多いと言われている。だけど,今さら止められないのはここまで「作っちゃった」からでしょ?(p36)
 そういう「トリアージ」の問題って,医療現場では日常的に起こっていますよね。その都度,状況で判断していくしかない。それを,理屈ですべて詰めようというのは,どこかおかしいと思うね。本来の解決法は,それを理屈で詰めなくても良くなるような状況を発生させること。つまり,「自動運転にしない」と。(中略)そういう問題をぎりぎりと論理で詰めることは,本当はできないんだという結論になってもいいと思うんです。論理の問題じゃない。状況の問題なんだと。(p41)
 将棋で言えば,コンピュータと人間の価値観の差異として,時系列を意識するか否かの違いは大きい。人間は時系列を意識しながらインプットをしていく生き物です。それに対して,コンピュータソフトが選択していくのは,(中略)その瞬間に一番評価値の高い手を選んでいくことの繰り返しです。だから,人間から見ると,時系列がつながらずに全部が点。非常にまばらに見えるんですよ。一貫性がないんです。(羽生善治 p45)
 今の子どもに準備しなきゃならないのは,答えとしての「出力」ではなく,いかにいろんなプロセスを経験させるかという「入力」の方なんですよね。まず,五感を鍛えろと。(中略)子どものうちはやっぱり,あらゆる感覚を訓練しないことには,生き物として話にならない。(p46)
 ライブラリーが単なるデータとして蓄積されているだけでは,何も面白くない。ここまで分類されてくるのに,実はこんな積み重ねがあったとか,情報を深められる話まで入ってくると,豊かな情報になって見える世界に厚みが増してくる。(p47)
 今みたいな小学校という「箱」は,もういらないと思っていて。子どもたちは,あの箱に詰められて,学問も詰め込まれて,もはや虐待ですよ。だから,九月になると自殺が出る。とんでもないことでしょ? そういう事態を招いていることを,先生方が反省しないということがおかしいと思う。そもそも子どもなんて簡単に自殺するもんじゃないよ。(中略)僕の目から見たら,根本的には先生の集団が教育を妨害してるな,という感じですよ。(p49)
 子供のときに幸せを感じさせるということが,非常に大切だと思うんだよ。なぜかというと,いったん幸せを感じたことがある人は,またあるんじゃないかって,人生に希望を持てるから。お先が真っ暗でレールを敷かれちゃったら,希望なんて持てない。(p50)
 逆に局所,局所で最適な解を決めていった方が,全体でも辻褄が合うということもあるんですよ。(p53)
 「頭」だけで特別視されていたような人たちこそ,AIに負けちゃうよって世の中になってきたんだから。(p58)
 江戸時代に「生き馬の目を抜く」って言ったでしょ? あれ,「江戸」,つまり東京の人の形容ですよ。田舎の人から見ると,都会の人は頭が良く見えるんでしょ。頭がいいっていうことは,要するに,人をだますっていうことだよ。(p58)
 人が都市を作ったのは,ここ一万年。農業が始まってからですからね。都市化すればどうしても理性中心の世界になっちゃう。むしろAIが,理性中心社会からの脱却のために,いいターニングポイントを作ってくれればいいんですね。例えば,人間が肉体労働をして田舎で一年の半分を暮らしても,AIがちゃんと,知的な活動のかなりの部分を代わってやってくれるという。(p59)
 何をもって創造性というか。そこですよ。僕からすれば,新しい発見とは,多分「自分に関する発見」なんですよ。世間の評価なんてどうでもいい。(中略)「知らない」から「知る」へのジャンプ。今の教育の悪いところは,その発見になるようなことを,あらかじめ与えちゃう。だから,勉強するほど創造性が落ちちゃう。(中略)問いと答えをあらかじめ提示されちゃえば,発見の喜びは削がれますから。(p63)
 僕らは小さな発見をしょっちゅう繰り返しているじゃないですか。「目からうろこ」というあの感覚が,まさに発見の一つだし,あれこそが創造性だと思う。なのに,今は発見を本人の「能力」とかに被せがち。だから,創造性があるとかないとか言うんです。僕は発見は能力じゃなく,「状況」だと思うんですね。その人と,その状況とがセットになって,「あっ!」に結びつく。(p66)
 脳みそって普段,勝手に動いてるんで。(p67)
 メディアでよく「国際化」という言葉を聞くんだけど,全部を日本語で書いて,出版物として日本人のお客さんに売って,何が国際化だよって。(中略)そもそも,日本語を使っている時点でガラパゴス化してるんですよ。だから,それでいいんじゃないですかね。(p68)
 私が専門としてきた解剖学というのは,「一人一人」を,言ってみればバラしていく学問。「一人一人」から得られた情報を論文にする,つまり「情報化」するわけです。その作業というのが,科学の世界でいうところの「一次産業」なんですよ。現物を見て,そこから起こしていく。(中略)現物が相手だと,均一化・効率化ができないんです。(中略)そこの第一段階のところが,ほとんど経済活動としては認められなくなっているんですね。(p78)
 システムというのは猛烈な初期投資が必要であって,それを先にやってしまった方が勝ちなんですね。(p79)
 そういう流れで,「結果的にでき上がっちゃった社会」が勝手にシステムを構築していってしまう傾向って,その方向性を変えるとすれば,個人の反抗しかないんです。(中略)国レベルでの「反抗」をやっているのがフランスだと思いますよ。いわゆる「大衆化社会」に対して,国ぐるみで抗っている。フランスって,基本的に農業国ですから,国民の考え方が保守的というか,システム化にはあまり向いていないところがある。(p80)
 今,大衆化を一番バカ正直にやっちゃっているのがアメリカという国ですよ。つまり,僕の言葉で言えば,国民がこぞって物事すべてを「意識化」してしまう。これは考えると,無理もないなとも最近思えてきた。なぜかというと,「異文化の人をあれだけひと所に集めたら,議論って通用するの?」って。違いの乗り越えるには,普遍的な理性しかないんですよ。(中略)そして最後は「永遠なるもの」を求めるようになっていくんです。まがいもなく神ですよね。あれ,理性を突き詰めた究極のものですよ。(p81)
 コンピュータを駆使して,公平・客観・中立な社会を作ってきた。でも皮肉なことに,その結果はなんと,猛烈な格差社会ができ上がっていたという。(中略)なんでそうなったかと言うと,シンプルに言えば,「身体性」が置いてきぼりを食った,ってことなんです。(p82)
 カーツワイルは,ある意味で滑稽だけれども,その「不老不死」を希求するところが人間の本性でもありますからね。別に人間改造という文脈じゃなくても,AIあるいはコンピュータが珍重される理由だと思いますよ。つまり,コンピュータの中に入れたものというのは「不死」ですから。(p91)
 汎用AIを議論する前に,「意識って何なの?」と。エネルギーなのか,それとも電気なのか,磁気なのか,引力なのか。未だにわかっていないんですよ。(中略)意識とは何ぞや,という点を問わずに意識の問題を扱う。それは危ないと僕は思う。(中略)科学を推し進める場合に,まず扱うものがわかっているというのが大前提ですよ。じゃないと,錯覚が抜けない。(p97)
 学問というのは,社会にとって危険なんです。場合によっては,大砲を撃ち込むべきものでもあるかもしれないと,前提を問う姿勢は大事。それなのに,むしろいいものとして許容してしまったのは,六〇年代の紛争以降の大学ですよ。(p106)
 機能主義を突き詰めていくと失敗する(p106)
 アングロサクソン流というのは,物事を見るときに,非常に機能的に見るんですね。機能的に見るとこぼれ落ちるものがたくさんあるんです。なぜかというと機能というのは,「枠組み」を決定しない限りわからないから。(中略)本来,機能というのは,その枠組みを前提とするんです。(中略)前提を問うのが学問ですからね。(p107)
 意識って,根本的に矛盾を抱えていて,自分のことに言及するとおかしくなるんです。それは論理的に解けないでしょ。自己言及の矛盾というやつです。(p108)
 ベーシックインカムについて言うなら,日本という国が何をどれだけ必要としていて,何を買わなくちゃいけなくて,なんで稼いでいるのかという産業と需要の全体の帳尻を見なければいけないんだけど,その点を誰が見ているのかなという疑問がありますね。(中略)日本国の貸借対照表みないなものがね。日本全体の資産をあぶり出すというか。そうじゃないと,議論がどうも宙に浮く。いわゆる文化系の議論でね。(p116)
 理性って,簡単に言えばコンピュータ的思考。それでは多様性のあるものは把握できないんですよ。足掛かりに使うのが「統計なんだよね。統計って,物理学から量子力学に入っていったとき,そこに最初に登場するんです。(中略)世の中の事象って頭の中で統計として扱えば,コントロールできるんです。医学が完全にそうなりましたからね。(中略)どういう意味かと言えば,医者は患者を見なくなった。(p126)
 僕はイタリアみたいな社会に注目していて。紀元前からずっと都市をやってきて,都市で生きるとはどういうことか,相当わかっているはずなんですよ。そうするとローマは,東京みたいにはならないでしょ? 東京はちょっとでか過ぎるし,(中略)適正サイズというのがあると思うんですよ。それと同じで,AIも適正サイズがあると思いますよ。(p130)
 哲学者といっても普通の人です。ただ,考え方に癖はあります。例えば,究極的な一つの原理や,独自の発想が頭の中でぽんとでき上がると,「それですべての物事を説明したい」となる。こうした抑えがたい衝動が哲学者の特徴でしょうか。(岡本裕一朗 p135)
 自分たちが教えてきたのは,そもそも誰かの「偏見」から作られたものなんだ,という認識がないと。(p140)
 (人工知能は)方針をこうだと決めたら,揺らがずそこを走る。でもまあ,人間の方がコンピュータ的価値観に寄ってきたというか。今の人って,そういう世界観が好きなんですよ。オリンピックだって,「今年みたいに暑いんだったら,夏の開催はやめて,三ヵ月ずらしましょう」なんて,できないでしょう。いったん歯車に乗せちゃったら,そのまま動いちゃう。(p149)
 親が暇なしで子どもをかまってくれないから,かえって伸び伸びしていたという。子どもがあんなに自由だった時代って,日本になかったんじゃないですか。戦後しばらくの間というのは,日本始まって以来の自由だったんじゃないかな。(p156)
 人生を,経済的,合理的,効率的に生きるっていうなら,「生まれたら,即,死んだらいいだろう」っていうことになりかねない。(p158)
 「芸術とは心地よさだ」と定義したときに,いろんな物差しで測って安定しているということが,一つの評価軸としてあると思うんですね。多次元空間の中で「安定平衡点」っていうんです。これ,要するに普通の平面で考えたら,すごく窪んでるということですよね。そこに落ちるとしばらくじっとしていられて楽だよ,という。(中略)深ければ深いほどそこに溜まって動かないわけですから,生き物って,本能的にはそういう状況って気持ちがいいでしょう?(p161)
 日本人は文化的にも「自ずから」を尊ぶ。『古事記』『日本書紀』で一番使われているのは,「なる」という言葉なんだから。「自ずから,なる」。ひとりでにそうなる。それに対して,欧米人は,あらゆることは「俺がやる」というところがある。何にでも「私」が出てきて。(p169)
 「自ずから,なる」というのは,要するに客観主義に徹するというわけですね。(中略)僕は,発生をテーマにしていたんですけど,発生って,放っておきゃ親が交配して,受精卵がありゃ子ができちゃう。それを,なんで俺が理屈にして論文にせにゃならんのかって自問してしまって。(中略)「なるべくしてなる」って考え出すと,仕事の邪魔になるんですよ。(p170)
 僕は,現実と思われている社会も,もともとバーチャルに近いと思っています。(中略)逆に言うと,インターネットで(人々の欲求が丸裸になったことで)社会がリアル(本当の姿)に近づいたんですよ。自己愛とか商人欲求とか競争心とか,そういうものは教育とか倫理とか,いろんなもので縛ってきたわけで,ネットでそのタガが外れたということでしょう。(p182)
 最近「不安」を口にする人が多くなっている気がします。行政とか企業とかが何かをしたりしなかったりするときに,「それでは不安です」と言う。それをSNSに書いたりする。不安のない状態でいる権利があると考えている人が多い。自分に不安があるのは,相手が対策を間違っているからだって。ところが,ごく素直に考えると,不安を感じない人というのは恐ろしいですよ。(中略)だって,何するかわかったもんじゃないから。(p183)
 一%未満の人だけが発信していたときは,少数の人がホームページを持っていて,その情報をみんなが分散型で共有し信頼するというシステムが機能していました。ところが,八〇%の人が発信者側に回ったときには,嘘だらけになってしまいました。(新井紀子 p184)
 落としどころを探るというのが,女性の共通の傾向かもしれませんね。結婚して子どもを育てていると,原理主義では生活が成り立ちませんから。(新井紀子 p186)
 対談内容を本にしていただくのに,そういうことを言うとおかしいかもしれませんが,文字にして表現できることは一割もないと思うんです。読む側が受け取るのは,表現されたことのうちの一割程度かもしれません。すると,伝わるのは一%未満ということになってしまいます。(新井紀子 p188)
 AIの一番の問題はすべてデータに基づいて予想したり判断したりしていることです。しかもそれを積み重ねていきます。データというのはすべて過去のことです。今いる人間についてのことを過去のデータで判断するってことは,昔も今も人間は変わらない,時間の経過があっても人間は変わらないという前提がないと無理なんです。でも,そんなことありませんよね。(新井紀子 p193)
 人間ってちょっと変わった生き物で,バーチャルで生きていけるんですよ。いわゆる現実から離陸しちゃっても。(中略)制度とか肩書とかみんなバーチャルです。頭の中にしかありませんから。(p197)
 今の人って,物事は予測がつくという考え方をしますね。できるわけがないのに,予測できない方が悪いと思い違いしています。(中略)予測できない状況というのが非常に不安なんですね。(中略)管理できない状況を危機っていうんじゃないですか?(p199)
 人生って想定外のことが起きるんですよ。その常識がなくなってしまって,何でも想定しなきゃいけない,というのが圧力になってしまっていますね。子どもの育て方がそうです。わからないことがあっちゃいけない。(p200)
 「どうしたらいいか書いていない」と批判するのは,教えてもらわなかったら自分は何もできませんと告白しているようなものなのに,そのことに気づいていないんです。(新井紀子 p202)
 きちんと会社勤めしている人というのは,多分,そういう人ですね。答えが欲しい。そういう人と話していても,あまり面白くありませんね。(p202)
 人間っていろんなことができるんですよ。それは,身体だけ見ててもよくわかるんです。(中略)最初からできないって決めていたら,何もできませんね。でも,やろうと思ったら,できるようになるかもしれない。誰かに教わるわけじゃないですよ。自分で考える。だから,何でもかんでも教えちゃダメなんです。(p202)
 生き物は適応能力が非常に高いんですよ。特に,生死に関わるようなことになると,俄然,能力が出てきます。それから,責任を持たせると能力を発揮します。(p203)
 だいたい,食べ物に点数を付けて,それを参考にしようというのが,生き物として終わっていると思います。自分の臭覚で探さなきゃダメだと思うんですよ。評価の星の数が多いところで食べて美味しい気持ちになってしまうこと自体,生き物としておかしい。それが,五感を削いでいることに気がつかない。(新井紀子 p205)

2021年3月15日月曜日

2021.03.15 堀江貴文 『僕たちはもう働かなくていい』

書名 僕たちはもう働かなくていい
著者 堀江貴文
発行所 小学館新書
発行年月日 2019.02.06
価格(税別) 820円

● パンドラの箱を開けるという言葉が出てくる。人間はパンドラの箱を開けてしまうものなのだ,と。AI開発でも然り(といっても,ぼくには何がパンドラの箱になるのかはわからないのだが)。堀江さんはそういうものだと割り切っている。
 割り切るも何も,原発はおろか,原爆も水爆も作ってしまっているのだから,それはそうに違いないのだが。

● 徹底的にテクノロジーの側に立つと堀江さんは決めている。そこにゆらぎはない。

● 以下に転載。
 AIを人類の敵とみなし,わけのわからない脅威論で排除しようとするなど,絶対に許されない愚行だ。根拠のない感情論で,テクノロジーの進化をせき止めるのは,人が知性体であることをやめるに等しい。(p8)
 IT革命とグローバリズムにより,経済格差や情報格差,教育格差など,あらゆる分野で格差がどんどん拡大している。今後はAIやロボットを使いこなす人と,そうでない人との格差の拡大が始まる。使いこなす側が受けられる恩恵と,使いこなせない側のフリ液は,これまでの格差とは比べものにならないほど,大きくなるだろう。(p11)
 国にお金を集めても,ロクなことがないからだ。もうこれ以上,変な税収で国家を焼け太りさせるべきではないだろう。そんなお金があったら,アマゾンやグーグルにもっと稼がせてほしい。先進的なIT企業にお金が集まる方が,よほど世の中のイノベーションの助けとなるだろう。(p29)
 人間だって,例えば脳だけの存在で,身体を持っていなかったら,現在のような知性体への進化はなかったはずだ。(中略)身体がなければ世界のリアリティを得られず,成長しない。それは,AIも人間も同じという考え方だ。(p32)
 私たちはみんな,生まれたときから,「手」で触り,知識を蓄え,成長してきた。AIをヒトへ近づけるというなら,同じ順序の成長を課していかねばいけない。ヒトへの進化に近道はないのだ。リアルの世界に出て,痛みを得たり「手」を汚したりしなければ,大事なことはつかめない。(p45)
 今後,アンドロイドの開発において,最も解決しなければいけない課題は,「不気味の谷をどう越えるか?」という基本に戻っていく気がする。「不気味の谷」とは,ロボットの姿や仕草をどんどん人間に近づけていくと,ある程度までは親近感が増すものの,それを越えると,今度は逆に不気味さや嫌悪感が出てくる現象のことだ。(p77)
 AIロボットの膨大なインタラクションデータがクラウドに同期されるようになったら,カーツワイルが指摘したように,人の頭脳や記憶もネット上に保存できるようになる。(中略)人がAIやロボットの研究を続けているのも,永遠の命を得たいという,本能的な希求によるものではないか。(p89)
 人は,いつの時代もパンドラの箱を開ける。そして開いた箱は,もう閉じられない。火力も,原子力も,「人間そっくり」のAIロボットにも同じことが言える。テクノロジーで適切に管理しつつ,私たちの文明に活かす。それができなければ,人は知性体とは言えないのだ。(p91)
 外食産業全般で本当に人手が求められるのはごく限られたパートのみになりつつある。最後の接客のコミュニケーションのパートだけは人間が担い続けていくと思う。(中略)私が飲食業のビジネスモデルとして注目しているのは,スナックだ。仕入れはほとんど酒屋との連携で自動化されており,ママの愛嬌とコミュニケーションの才能で,集客をうまく回している。(中略)中途半端に人を介在させるのではなく,魅力的なママだけは人間で,あとの作業を担うのはロボットで十分だ。(p131)
 金やレアメタルを埋蔵している鉱山の発見にも,AIの画像認識は使われる。山の外観写真の解析だけで,ゴールドラッシュが! という奇跡は,夢物語ではないかもしれない。(p144)
 これからはデータの価値がますます高くなる。(中略)金やアイデアではなく,情報を持つ者が勝つ。(p146)
 あらゆるビジネスは人材集めに尽きると言っても過言ではない(p156)
 専門性の高い分野にも,AIロボットの進出は進んでいる。近い将来,一部の有能な医師が,世界中の患者の診断・手術を,遠隔ロボットを介して手がけることが予測されている。そしてヤブ医者は,きれいさっぱり消え去る。(p165)
 経営者の立場から見てロボットの方が安く導入できるのなら,躊躇なく取り替える。それをしなければ,経営者失格だ。まったく不合理はない。(p168)
 人が働く根源的なモチベーションは,楽しいから,好きだから。それが基本だろう。(中略)これからの時代,生き残れるのは,安定した仕事を与えられた人でも,お金持ちでもない。働かなくてもいい世界で,なおモチベーションを持ち,何かの行動を起こせる人が,生き残れるのだ。(p171)
 遊びが仕事全体の大きな部分を占めるようになって,GDPというものは,経済的発展のたしかな指標にはなりえなくなっている。仕事の定義づけが変化しているこの時代に,「財が足りない」と嘆いているのは,財を獲得するために正しい情報を得ていない証拠だ。「財が足りない」と嘆く人は,「どこに財があるのか気づいていないだけかもしれない」と,まずは考えを改めてみてほしい。(p175)
 日本の経済は長引く不況でひどいことになっているとか,アジアのなかで地位が急落しているとか,ネガティブな情報にばかり目を向けてはいけない。(中略)2018年のGDPは550兆円を超えている。数値は30年余りで,倍以上の増額だ。(p178)
 実は世界に,富は有り余っている。食料なんて,生産されたうちの,ほとんどを廃棄している。(p179)
 食べるために仕方なく・・・・・・という感じで,嫌々働いている人々は,大きな目で見ると,経済を “マイナス成長” させている。そんな無駄な不利益を防ぐためにも,ベーシックインカムを導入して,無理に働いてもらわないことは有効だろう。(p182)
 好きなだけではやっていけない仕事もあると反論する人もいるかもしれないが,好きなだけでやっている人が,だいたいうまくいっているのが事実である。(p187)
 テクノロジーは常に,それまでなかった面白みのある仕事をつくりだし,労働者の所得を上げてきた。人々の人生にやり甲斐をもたらず,優秀なジョブ・クリエイターでもあったのだ。(p189)
 インターネットの出現は,これまでのテクノロジーとは少し様相が違っていた。情報の可視化により,グローバリズムが急進した。(中略)巨大な富の格差が顕著となった。(中略)グローバリズムによって富は最適化されて,1箇所に集まりやすくなったためだ。(p189)
 AIロボットが社会進出を果たしていったとき,私たちは,人にしかできないものは何か? という根源的な問いを突きつけられることになる。(中略)きっと私たちよりも,AIの方が,その答えを待っている。(p191)
 栄華が永遠に続くかのように言われている「GAFA」とて,いつまで支配的な立場を維持できるか,わからない。ひと昔前までは,ハイテク産業はIBMやマイクロソフトの支配が永遠に続くと思われた。だが巨大な力は,もう見る影もない。(p194)
 目立ちたいとか,フロントマンでいたいとか,そういう次元で,私は大事な時間を費やしたりしない。いまこの瞬間を,最高に楽しく,輝いている仲間たちと一緒に,遊び尽くし,やりたいことをやって生きていきたいだけなのだ。その姿を多くの人たちに見てもらい,私と同じ最高の時間を,共有したいだけだ。(p195)

2021年3月8日月曜日

2021.03.08 弘兼憲史 『弘兼流 「老春時代」を愉快に生きる』

書名 弘兼流 「老春時代」を愉快に生きる
著者 弘兼憲史
発行所 海竜社
発行年月日 2020.08.29
価格(税別) 1,000円

● 老いをどう生きるかをテーマにした本をずいぶん読んだ。自分がそういう年齢になっているからだが,その年齢になったからといってその種の本を読むのは,最もつまらない人間かもしれない。
 かつて,「中1コース」や「高1時代」という特定の年齢層に向けた雑誌が学研や旺文社から出ていたが,「中1コース」を読む中学1年生や「高1時代」を読んでいる高校1年生は,基本,つまらない人種ではないか。
 かつての自分がそうだった。老いてもなお変わっていないということだ。

● この本もそうだけれども,特に尖ったことが書いてあるわけではない。内容からして尖りようがないはずだ。
 この本で特に熱心に著者が説いているのは,人間関係の断捨離だ。嫌な人から離れろということだ。大事なことだが,老年期になれば自ずとそうなっている人が多いのではないか。
 ぼくは元々,人間関係の構築や維持に熱心ではなかったから,切らなければならないような人間関係は引きずっていない。それでも自らフラッシュバックを招来するようなことをしてしまっているが。

● 老後をどう生きるかくらいは,人の知恵を借りずに,自分で考えて自分で決めたいものだ。
 と言いながら,以下に転載。
 私はこう考えます。「悠々自適が幸福とは限らない」「死ぬまで働くことは悲劇的なことではない」「死ぬまで愉しくチャレンジ」(p4)
 ヘタにお利口になるよりも,バカでも好奇心が健在であるほうが,人生は愉快なはずです。(p18)
 重い罪を犯し実刑判決が確定した人間は,移動の自由を奪われます。それが,罪を犯した人間に対する罰として,もっとも効果的だからにほかなりません。(p24)
 なぜ若い人に「教えてください」と言えないのでしょうか。それができない高齢者は悲しい存在です。(p43)
 自分が利口だと思っているからダメなんだよ。自分がバカだと思っていれば,いろいろなことを教えてもらえるし,発見もあるんだよ。(p48)
 二度目の現役人生で健康寿命を延ばすために大切なのは「食」と「運動」です。神経質になる必要はありません。私流のポイントは「無理をしない」につきます。(p52)
 忘れてはならないのは,いくつになっても,自分ができることがあるということ。それを実行することで「重宝される」生き方があるということです。(p60)
 私たちは今回,外出自粛,三密回避など行動が制約される中で,これまで常識とされてきたライフスタイル以外のライフスタイルがあることを知りました。(中略)また,多くの人が「誰かと会わなくてもそんなに困らない」ということにも気づきました。(p79)
 妻が夫に求めているのは「聞いてもらう」と「共感してもらう」であって,論理や解決策の提示などまったく求めていないというわけです。(中略)男性と女性,その諍いの原因は,どちらが正しいかではないのです。ただ「違う」ということなのです。(p84)
 人は得てして,土俵が前にあると,つい上がりたくなる。土俵に上がれば戦いたくもなってしまう。だから,相手が土俵に上がりそうなら,自分は静かにその場から去る。(p91)
 人類は,体が動かなくなって亡くなる直前まで,なんらかの形で働いてきた時代のほうが圧倒的に長いわけです。(p103)
 「禍福はあざなえる縄のごとし」という言葉もあります。(中略)先に出世したからといって,人生の勝ち負けが決まるわけではないのです。(p108)
 私の知るかぎり,はじめから社長になることを目的としている人は社長にはなれません。(p108)
 過去に決めた選択が正解だったか誤りだったかを,現在の状態で判断してはいけないように思います。選択が正しいかどうか,その答えはその人が人生を終えたとき,初めて見えてきます。(p111)
 結局,日々をどのように生きていくか,そのプロセスを大事にいていくことこそ,人生の醍醐味なのではないでしょうか。(p111)
 「自分の仕事に対してどのような感情を抱きながら臨むか」
結局,仕事における一流と二流,三流の違いは,そこに尽きるような気がします。(p113)
 恵まれたセカンドステージを得る人は,そのためにファーストステージでがんばってきた人だからです。(p127)
 『トム・ソーヤの冒険』に出てくる,ペンキ塗りの話を思い出してください。(中略)同じ仕事でも嫌々やるのでなく愉しんでやっていれば,新しい展開,新しい発見があるということを教えてくれます。はじめから好きな仕事など滅多にありません。続けることで好きになるものなのです。(p136)
 人生の終盤を「老春時代」にするためには,とにかくマイナスの感情とつきあう時間を少なくすることです。(中略)しつこいマイナスの感情を無菌化するためにはどうすればいいか。方法はじつにシンプルです。とにかく,そのきっかけとなった人間,場所から遠ざかるのです。(p154)
 人生の後半期は悪人になったほうが間違いなく快適です。(中略)プライベートの関係なら,最大限「離」を心がけるべきです。(中略)「老春」のためには不快な距離感,ギクシャク感を感じさせる人間関係からは離れることです。(p155)
 「暗いお客さんはイヤですね」
 銀座で長くクラブを経営しているママがそんなことをいっていました。その理由を尋ねるとこういいました。「ほかのお客さんまで暗くなっちゃう。営業妨害ね」(p157)
 人生の残り時間は限られています。余計な人との余計なつきあいは時間の無駄づかいといってもいいでしょう。(p161)
 「その歳で,なんてパワフルなんだ」
 そう感心してしまう人がいます。たとえば,江戸時代,文化・芸術の分野で赫々たる業績を残した葛飾北斎,貝原益軒,伊能忠敬の3人はその代表格かもしれません。(中略)3人に共通しているのは高齢になってからも精力的に仕事を続けたことです。(p164)
 壮年も老年もできるだけ外に出るべきです。歩いて,キョロキョロしているだけでも,なにかしらの発見があります。(p166)
 どんなシーンでも,まず相手を褒めることを心がけます。(中略)新たな人間関係で他人の心を開くカギです。(p176)
 私のポリシーは「年齢やポジションに関係なく,ふだんから敬語を使う」です。(中略)成功している経営者はとても魅力的な人たちなのですが,共通しているのは言葉遣いがとても謙虚だということです。(p183)
 言葉というものは不思議なもので,いったん口に出してしまうと自分を縛ってしまう力があります。(p196)