2021年12月29日水曜日

2021.12.29 岡本太郎 『岡本太郎 歓喜』

書名 岡本太郎 歓喜
著者 岡本太郎
編者 岡本敏子
発行所 二玄社
発行年月日 1997.09.26
価格(税別) 2,800円

● 再読。前回は2012年に読んでいる。去年は南青山の岡本太郎記念館や川崎にある岡本太郎美術館を訪ねてみたのだが,岡本太郎への興味は,少なくとも2012年以前からあったことがわかる。
 大阪万博のとき,ぼくは中学生だったが,「太陽の塔」に対する興味はほぼ全くなかった。気になったのはいつ頃からだろう。今では「明日の神話」を見るためだけに渋谷に行くことがある。

● 本書は岡本敏子さんが編んだ,岡本太郎が残した文章のアンソロジー。それに絵を付けたもので,画集と言ってしまうとちょっと違う。画集として絵だけを見ていくのもありだとは思うけれど。
 アンソロジーから文章を抜書きするのもアホっぽい話だが,以下に転載。
 生きる瞬間,瞬間に絶望がある。絶望は空しい。しかし絶望のない人生も空しいのだ。(中略)絶望こそ孤独のなかの,人間的祭りである。私は絶望を,新しい色で塗り,きりひらいて行く。絶望を彩ること,それが芸術だ。(p3)
 どんなことがあっても,自分がまちがっていたとか,心をいれかえるとか,そういう卑しい変節をすべきではない。一見,謙虚に見えて,それはごま化しであるにすぎないのだ。(p4)
 理解され,承認されるということは他の中に解消してしまうことであり,つまり私,本来の存在がなくなってしまうことだ(p6)
 この瞬間に徹底する,「自分が,現在,すでにそうである。」と言わなければならないのです。現在にないものは永久にない,というのが私の哲学です。逆に言えば,将来あるものならばかならず現在ある。(p7)
 そのころ,すでに日本から遊学している絵描きが,パリに四,五百人ほどはいたのではないか。みんな年輩者だった。不思議だったのは,彼らがまったく日本人だけでかたまり,フランス語のフの字も喋らない。生活者としてここにとけ込まないで,それでいながら,一生懸命パリらしい街角や,セーヌ河の風景,あるいは金髪の女を描いていることだった。血肉の中に熱く深いかかわりも持たずに,手先だけで格好をつけたイメージを描いたって,何の意味があるか。(p9)
 抽象絵画では自分を少しもいつわったり,しいることなく,しかも世界共通語として誰にでも語りかけることができる。純粋な線とかリズム,色彩には,人と人との隔てをつける地方色というものはない。(p10)
 私の青春時代の絶望的な疑いや悩み,それをぶつけて,答えてくれたものは,ニーチェの書物であり,バタイユの言葉と実践であった。情熱の塊のような彼との交わりは,パリ時代の,そして青春のもっとも充実した思い出である。(p14)
 ただ単に芸術家としてあることの空虚さに耐えられなくなったのである。(p15)
 兵隊を特別訓練する係に東京帝国大学哲学科出身の,いわばインテリ将校がいた。士官学校出身の生粋の軍人よりも,かえって軍人ぶって残酷なしごきをやったものだ。(p17)
 私はむしろ断言したい。青春こそがこの世界の肉体であり,エネルギー源である。(p24)
 革命的な芸術作品は必ず,形式と内容のズレを秘めている。(p28)
 毅然と,受けて立つ姿だ。受けて立つのでなければノーブレスはひらかない。それは聖なるものの大前提である。(p33)
 芸術とは,愛したり理解したりするものではない。それによってひっ捉えられ,つきとばされる。ついに踏みとどまって自分で立ち上がる。そういう力である。(p36)
 芸術なんて,愛好したり,いい気分で鑑賞するものだとは,私は思わない。作家と鑑賞者の果し合いであり,作品は,猛烈に問題をぶつけあう,いわば決闘場なのだ。だから「いいわね。」などとよろこばれてしまったら,がっかりだ。安心され,神経の末梢を素通りする作品などは意味がない。(p38)
 私は思うのだが,人間のほんとうに生きている生命感が,物として,対象になって,目の間にあらわれてくれば,それは決してほほえましいものなどであるはずがない。むしろ “いやな感じ” に違いない。(p39)
 現実とトコトンまで対決し,あらゆる傷を負い,猛烈な手負いになって,しかもふくらみあがってくれば,それこそ芸術だ。だから好かれちゃいけない。「いやな感じ」でなければいけない。(p39)
 私は現代日本の色彩の貧しさ,にぶさに窒息する。だから象徴的に,原色をぶつけるのだ。芸術の本質は挑戦にある。(p42)
 赤こそ男の色ではないか。激しさを象徴する。自分の全身を赤にそめたいような衝動。この血の色こそ生命の情感であり,私の色だと感じつづけていた。(p43)
 私のうちに起こる情熱は,絵という形をとることもあるけれど,そうじゃないことも多い。芸術の衝動がある。表現は何でもいいはずだ。だからありとあらゆることを私はやる。(p46)
 経験からすれば,苦労した作品より,ひとりでにどんどん進んでできてしまったものの方が,いつでもいい。(p47)
 私にとっては衝動を実現するということが問題なのであって,結果はじつは知ったことじゃない。(中略)芸術ってのは画面じゃなくて,つまりそういうエモーションの問題だけだと思うからだ。(p47)
 若い時から私は深い森のただ中に,真赤な炎をふき上げてそそり立つ,孤独な火の樹のイメージを,強烈な神聖感として心のうちに抱いていた。(p49)
 密教においては,「秘仏」に象徴されるように,あらわにならないがゆえにこそ力である。この神秘力,呪力が芸術においても,実はその本質なのである。(中略)見せる,と同時に見せないという矛盾が,一つの表情の中に内包され,充実していなければならないのだ。(p51)
 人間は本来,非合理的存在でもある。割り切れる面ばかりでなく,いわば無目的な,計算外の領域に生命を飛躍させなければ生きがいがない。(p52)
 彫刻を絵のように,つまり肉づけしたイメージとして見るのだったら,たいへんな見当ちがいだ。彫刻と絵画の世界はちがう。(p56)
 いったい子供は「絵」を描いているのだろうか。「絵」ではないのだ。自分の若々しい命をそこにぶちまけている。(中略)出来た絵はいわば足あとのようなものだ。描き終わった絵を,前に置いて,鑑賞している,という子供は恐らくいない。(p66)
 素朴に,無邪気に,幼児のような眼をみはらなければ,世界はふくらまない。(p69)
 ・・・・・・帰りはこわい。こわいながらも,通るのだ。天神様に行きたいのではない。こわい帰りに賭けるのだ。(中略)帰りの道,夜は,死を意味する。(中略)しかしこの宵闇に死ぬからこそ生きるのだ。そういう生命の奥底にある感動,神秘の意思が,子どもの本能のなかに生きている。(p70)
 ミケランジェロだとかダ・ヴィンチ,さらにミロのヴィーナスなど,中学校の教科書の中に,ちょうど喫茶店のウィンドウのお菓子のようにお行儀よく,できあいの美学として並べられまつり上げられてしまっている。そのように無意味化し,形式化する美の基準をうち破ってゆくのが芸術ではないか。(p73)
 法隆寺は焼けてけっこう。自分が法隆寺になればよいのです。(中略)そのような不逞な気迫にこそ,伝統継承の直流があるのです。むかしの夢によりかかったり,くよくよすることは,現在を侮蔑し,おのれを貧困化することにしかならない。(p80)
 人間の声はすばらしい。歌というと,われわれはあまりにも,作られ,みがきあげられた美声になれてしまっている。美声ではない。叫びであり,祈りであり,うめきである。どうしても言わなければならないから言う。(p88)
 アノニーム,無名になる。すると逆に女は猛烈に女になり,男は男になる。(p89)
 さらにごそごそと戸棚をさぐっている小林秀雄のやせた後姿を見ながら,なにか,気の毒のような,もの悲しい気分だったのをおぼえています。(p90)
 私はいわゆる美術品に興味がない。(中略)展覧会に行ったり,画集をひらいて見るなどということは,むしろ苦痛だ。それらは狭い枠のなかに,窒息してしまっている。なにか惨めな気がする。(p91)
 すべて十年の修行がいるとしたら,いったい芸術家や評論家はどういうことになるんだろう。たとえば百姓を描くのには,十年畠を耕さなきゃダメだとか,小説家がオメカケさんを書こうとしたら,オメカケさんにならなくちゃ,なんて珍無類だ。(中略)つまり何ごともすべきじゃない,言うべきじゃないってことになる。しかも,一つことだけに十年くい下がっている間に,すべての現実は進んでしまう。それじゃ世の中に追いつけっこない。(p93)
 なまじその道に苦労した目は,あぶない。知らずにゆがんで,平気でにぶってる。素人が素直に直観で見ぬくものが,案外本質であり,尊い。(p93)
 誰を思い出すにも,まず顔である。身体全体,そのヴォリュームは,漠とした背景であるにすぎない。よく,したり顔で,四十を過ぎたら自分の顔に責任をもて,なんて言うやつがいる。いやったらしい表現だ。第一,自分の顔に責任をもっているような顔なんて,考えただけでうす汚い。(p94)
 私は作品に眼玉を描く。(中略)執拗に眼玉を描きこんでいるのは,たしかに新しい世界に呪術的にはたらきかける戦慄的な現代のマスクを創造しようとしているのだ,と思っている。(p95)
 かの子は特異な作家であるように考えられているが,実は日本文学史上ではきわめて正統派であると私は考える。「文学に憧れる文学」という,現代日本文学発生からの宿命的な雰囲気から外れてはいないからである。(p99)
 絶対に滅びないもの,またいつも力だけで勝つ,勝つに決まっているものに男性的魅力はない。(p105)
 動物が食っているところを見ると,全身でむさぼり食うという感じ。爽快だ。(中略)何もかも忘れて,手と足と腹と,身体じゅうで食ってみたいのである。(p107)
 誰でもが思う存分,四方八方に生きたらいいじゃないかと思う。(中略)専門家こそ逆に何も知らないのだ,とさえ言い切れる。この世界は,政治にしても,商売でも,文化一般でも,あらゆるものがからみあって生きている。そのなかの細分化されたほんの一部,針のさきで突いたくらいの狭い領分にどれほど詳しかったところで,その中に頭をつっ込んだきりではメクラ同然だ。(p108)

2021年12月24日金曜日

2021.12.19 出口治明 『出口版 学問のすすめ』

書名 出口版 学問のすすめ
著者 出口治明
発行所 小学館
発行年月日 2020.11.02
価格(税別) 1,500円

● 著者はAPU(立命館アジア太平洋大学)の学長。脳出血で倒れ,約1年間職務を離れリハビリに努めていたが,来年1月から一部,業務に復帰できるらしい。
 こちらがその声明文(?)なのだが,いや,相当な執念でしょう。電動車椅子でひとりで電車に乗れるようになったとサラッと書いているのだが,自分だったらそもそもそれを試みるだろうか。

● 頭も凄いのだが,頭だけの人,頭先行の人ではない。著書で語っていることに,自分の素行が負けていない。
 APUでも次の学長をと考えたのかどうなのか。復帰の可能性があるなら続けてもらおう,と決めるのに時間はかからなかったろう。著者の活躍は大学の広告塔としても大したものだ。著書の発行やメディア露出でAPUの知名度も上がった。これを広告費に換算したらいくらになるだろう。

● 以下に多すぎる転載。
 「人間は考える葦」ですから,学びや勉強の最終目的は「考える力を養成すること」に尽きると思います。(中略)そして,当たり前のことですが,自分の意見を主張するためには,「数字・ファクト・ロジック」,即ちエビデンスの裏付けが必要になります。(p4)
 日本人の場合,「勉強」というと,どうしても机に向かってコツコツ積み上げるもの-つまり,ひたすらインプットするものというイメージからなかなか抜け出せないようです。でも,インプットするだけでは,半分,あるいはそれ以下しか勉強したことにはなりません。インプットしたものをアウトプットしなければ,身につかないのです。(p4)
 僕は,一夜漬けこそがとても効率がよく,覚えたことを忘れない勉強法だと思っています。(中略)「今夜中に数学のテスト勉強をする」というようなあいまいな取り組み方ではなく,「ここからここまでを3時間で憶える」「この問題集を1時間でマスターする」などと短く区切って考え,決めた時間内に集中して勉強したのです。(p18)
 僕は原則として本を読むときにラインを引いたり,付箋を立てたりはしません。また,読書ノートのようなものは,生まれてこのかた一度も作ったことがありません。(p21)
 モノを覚えるとき,僕が実践しているコツは一つだけ。読んだり聞いたりしたことをそのまま覚えようとするのではなく,読み聞きしたものをもとに自分で考えて,考えた結果を他人に話すのです。(中略)読んだものについてアウトプットすることが,集中して読み込むのと同じくらい大切なのです。(p22)
 アウトプットすることが大事なら,読書日記をつければいいじゃないかという意見もありますが,それはあまり効果がないと思うのです。(中略)もし書くのであれば,Facebook,あるいはブログなどに投稿したほうがいいでしょう。(中略)自分用のノートや日記は,いわば誰も遊びに来ない部屋。Facebookやブログは恋人が訪ねてくる部屋です。(中略)緊張感が全く違うのです。(p22)
 常識を疑うということはゴテゴテに修飾された「エピソード」ではなく,数字・ファクト(データ)をベースにしたエビデンスで考える,あるいは,何が原理原則かということを突き詰め,原点から考えることと言い換えてもいいでしょう。(p26)
 いかに自分に刺激を与えてくれる人と出会うかーー。人から学ぶには,その点が重要なポイントになってきます。そのためには,「数多くの人と会ってみる」しかありません。(p28)
 僕は,基本的に「その人といっしょにいると楽しいか,あるいはおもしろいかどうか」だけでつき合う相手を選んでいます。(p29)
 何も飛行機や新幹線を使わなくても,旅は十分にできると考えています。吉行淳之介のエッセイに『街角の煙草屋までの旅』という作品があります。(中略)いつも通っている煙草屋までの道であっても,目のつけどころによっては,旅しているときと同じような発見があるというのです。僕も全く同感です。(p30)
 歴史上の人物を調べてみると,「偉人」といわれる人はあまねく生涯をかけて勉強し続けています。(中略)僕がとくにすごいと思うのは東晋の法顕です。法顕は仏典を求めて399年にインドに赴きますが,このときすでに60歳を超えていました。中国に帰ったのは412年ですから,75歳のときです。(p31)
 ほとんどの人は環境さえ整えば,自分を磨こうとするのではないかと僕は思います。なぜなら,そのほうがはるかに人生が楽しいからです。(p34)
 ツールがあると考え方が変わります。たとえば,数字が発明される前と後では量に対する考え方も違うだろうし,クルマが発明される前と後では移動の概念も異なるでしょう。(池谷裕二 p41)
 僕は歴史学や考古学の氏名もそこにあると思っています。当時の時代背景を頭の中で再現して,「なるほど,だからこのとき,こんな決断をしたのか」と納得することができる。(池谷裕二 p42)
 人間は今の尺度で未来を測りがちですが,それはだいたい間違っていますから。(池谷裕二 p42)
 学者など頭がいいと思われる人ほど,物事を悲観的に見がちなのですが,そういう説はこれまでは当たったためしがないのです。(p43)
 技術はじわじわと発展するのではなく,階段状にステップアップするものです。だから1階にいるいまの人たちには2階の世界が見えません。(中略)人間は現在の延長線上で未来を見るので,「1階の常識」で物事を判断してしまう。(池谷裕二 p44)
 僕は科学をやる者として,大風呂敷にすがりたい気持ちは抜けないんですよ。(中略)精神は脳が生み出した幻覚にすぎませんが,だからといってないがしろに扱うことはできません。よりどころとしての精神は,人が生きるうえで絶対に必要です。(池谷裕二 p47)
 集中力の正体は,意外に思われるかもしれませんが,鈍感であることです。(池谷裕二 p57)
 僕も高校から大学2年生くらいまでに得た知識が,いまの自分を形づくっていると思います。社会人になり,自分から発信するようになってから言っていることって,あの頃得た知識にちょっと色づけしたものだったりするんですよね。(池谷裕二 p61)
 子どもは親の言語ではなく,友だちの言語を覚えるんです。たとえばアメリカに引っ越すと,我が子たちは日本語で話すのをやめて,英語で話しだします。つまり,子どもは親とのコミュニケーションなど,全く重視していない一方で,友だちにはものすごく影響される。それが実は10代,20代という,大人になるギリギリのところまで続くんです。(池谷裕二 p64)
 研究には,没頭する力,オタクのように続ける力が必要です。(中略)そのやる気や没頭する力が最も発揮できるのは,研究を楽しんでいるときです。(池谷裕二 p64)
 ある文化系の先生が,「世の中に役に立つと思って研究しているわけじゃない。好きだからやっているだけです」といわれてしましたが,それがいちばん大事ですね。(p65)
 進化や変化にとって,ゆらぎは大きな要素です。生物も宇宙も,何か偶発的なものがあって,そこから新しいものが生まれてくるという仕組みで成り立っているのだと思います。整っているところでは,何も起こりません。私からすると,それは美しくない。(吉田直紀 p75)
 宇宙はゆらぎから生まれて,人間は宇宙から生まれました。そう考えると,私たちが根本的にゆらぎのあるもの,多様性のあるものをありがたがるのも当然だという気がします。(吉田直紀 p75)
 コンピュータがもたらしたものは大きいですね。私たちが観測できるのは,ある一瞬を切り取った宇宙の状態だけ。人類が何億年もずっと宇宙を見続けることはできないので,一瞬と一瞬の間はよくわからなかったのです。しかし,物理法則の知識とコンピュータ・シミュレーションを使ってあいだを埋めていけるようになった。(吉田直紀 p79)
 脳をフル回転させて計算したり考えたりするのは,せいぜい2時間✕2時間が限度ですね。あとはいわゆる作業に充てたり,集中しないでぼんやり考えたり。でも,ぼんやり考えるのも研究には大事なんです。(吉田直紀 p83)
 イタリア人とかアメリカ人の研究者は,白黒がつかないギリギリのところでうまく議論するのですが,日本人は少しでもグレーなところに入ると,サッとあきらめて引いてしまう。(吉田直紀 p84)
 教育を通じて合理的,科学的な思考が身についていれば,簡単にあきらめて「破れかぶれで散ってやろう」などという発想にはならない。(p84)
 優れた研究者は,無駄なこと,余計なことをたくさんしています。人間がいくら賢いといっても,自然ほどは賢くないんです。だから,頭で考えるだけでなく,とにかくありとあらゆる可能性を考えて,手を動かして試してみるしかありません。(吉田直紀 p86)
 労働時間が長くて成果(成長率)があがっていないのに,「勤勉」だといえるのでしょうか。もっとシンプルに労働生産性をみると,日本は統計を取りはじめた1970年以降,実に半世紀にわたってG7で最下位を続けているのです。(p95)
 さて,この結果からいえることは,「日本人は会社に対するロイヤルティが低い」ということです。会社や組織に逆らうと,誰もが満足するようなことにはならないので,みんなが空気を読んで表面上は社風に合わせているけれど,心の中ではあまり信頼していない--。エデルマンのデータは,そういっているのです。(p96)
 日本に決定的に欠けている視点があります。それは,「大学は輸出産業である」ということを,多くの人が理解していないことです。アメリカには移民だけではなく,年間110万人もの留学生が集まってきます。アメリカの大学は学費が非常に高いので,1年間留学しようと思ったら,学費だけで600万~700万円,これに生活費を加えると合計で1000万円ほどかかります。これを掛け算すると1100万人✕1000万円=11兆円です。しかもこれは有効需要ですから,アメリカの大学は,わが国の自動車産業に匹敵するくらいの輸出をしていることになるのです。(p103)
 平成の30年間で,GDPの世界シェアは半減以下となり,国際競争力(IMD調べ)は1番から30番になり,平成元年には世界のトップ企業20社のうち14社を占めていた日本企業がゼロになったのです。戦争がなかったという意味ではいい時代だったと思いますが,経済的には完敗でした。(p109)
 貪欲に世界から学ぶことを行わずに,「日本はええ国やで」といいながらお互いにマスターベーションをして傷を舐め合っていると気持ちがいいですよね。「アメリカやフランスのような人種差別はないし,世界でいちばん安全で犯罪も少ない。日本料理もおいしい。こんなええ国はないで」と。しかし,閉じられた世界というのは,そこに安住しているかぎり不安も不満もなく心地よいかもしれませんが,世界がどんどん小さくなっていくことは避けられません。それは,何も学んでいないからです。(p110)
 どの国の経済でも,強くなるために必要なのは「人口✕生産性」です。人口が少ない国は,一人ひとりの能力を上げていかなければなりません。フィンランドやノルウェーなどの北欧諸国は,その点を強く意識しています。(p119)
 高度成長時代,「日本の経済は一流,政治は三流」といった財界人がいました。ですが,世界の歴史を見ていると,経済だけが一流で,政治が三流などということはありえません。(p129)
 外国語は勉強すれば誰でもできるようになるものです。つまり,偏差値と直結するものでもなく,頭のデキがどうこうという問題でもないと思います。インセンティブの設計次第なのです。(p130)
 大学の成績は平均点ではなく,自分の好きな分野,得意な分野だけでもきちんと「優」を取っていたら,評価していいと僕は思います。すべておいて「平均点以上を」というのは,製造業の工場モデルの延長線上の発想といえます。しかし,これからの社会で求められる “発想力” は,平均点で測れるものではありません。(p133)
 「こいつは素直そうだ」とか「上司のいうことを聞きそうだ」という印象だけでの選抜はやめなければなりません。そもそも,多くの企業が入社試験で取り入れている「面接」は,実はほとんどが面接担当者の好き嫌いで決まっているのです。面接は選択を誤りやすいということは,ニューヨーク・フィルハーモニックのブラインドオーディションで明らかになっています。(中略)リクルート総研の調査では,入社時の面接結果と,入社後のパフォーマンスとのあいだには,ほとんど相関関係がなかったそうです。(p134)
 理解できないことがらに直面したとき,それを排除してしまう日本式と,わからないことをおもしろがるアメリカ式の違いですね。(p142)
 日本の大学が,マネジメントに関してもきちんとやっているかといえば,私は疑問ですね。あれはマネジメントではなく,その真似事だと思います。(生田幸士 p143)
 欧米では人と違うことが強みとして評価される教育システムになっています。ところが日本では,人と違っていることは全く評価されません。ずっと昔から,ほかの人と違うことをしていると「直しなさい」と言われてしまう。これは大きな問題だと思いますね。(生田幸士 p146)
 企業の経営層には立派な大学を出ておられる人が少なくありません。ところが,そういう人が「外国人との会食などでは,政治や宗教の話題はご法度だよ」などという話を平気でするのです。これは大きな勘違いで,(中略)100人以上会ったグローバル企業のトップは,政治や宗教の話が大好きでした。では,どうして日本の経営者が勘違いをしているかというと,外国人が彼らに合わせて話のレベルを下げているからです。(p148)
 知識も教養も足りないから,何ごとにつけてもファクトに基づいてロジカルに論じるのではなく,ついつい成功体験をベースにした根拠なき精神論に走ってしまうのです。(p149)
 創造性は「知識✕考える力」です。考える力をもう少し具体的に述べると,考える型やパターン認識の蓄積です。つまり先哲の考える型や発想のパターンを学ばないと,創造的なアイデアは出てきません。型を学ばないと型破りな発想も生まれない。(p150)
 相対的に知的レベルが高い人は,180度意見を変える可能性がある。とたえば安土桃山時代,日本のキリスト教人口は約40万人で,人口比でいうといまの数倍以上の信者がいました。実はその多くは,元お坊さんです。学のある人のほうが,理屈で負けたらコロッと転向するのです。(p151)
 創造性に関しては,遊び心がすべてです。楽しまないといいアイデアは出てきません。莫大な利益を生んだアイデアも,それ自体を目的にしていたらきっと生まれなかったでしょう。自分がおもしろいと思うことをやっていたら,結果的に利益や業績につながったというけーすのほうが多いはずです。(生田幸士 p154)
 遊ぶのも怠けるのも,もとをたどれば「もっと気持ちよくなりたい」という人間の欲ですね。(生田幸士 p155)
 子どもたちは生まれながらにして,さまざまなことを自分で吸収する力を持っている。大人はそのお手伝いをすればいい。(加藤積一 p162)
 邪魔をしなければいい,と言い換えた方がいいかもしれないねぇ。
 ここは子どもたちが育つ場所で,先生たちが仕事をする場所ではない。ただ子どもたちを見て,遠くで「うん」とうなづいてあげるだけで,子どもたちは自信がつくんだよ(加藤積一 p164)
 日本の教育を省みると,どうしても「みんな同じ」がいいことだと教えてしまう。でも,それはどうなのかなと思います。(加藤積一 p168)
 日本は第2次世界大戦に破れて経済も社会もガタガタになってしまいました。だから国として十分な社会保障を行う余裕もなく,その役割を企業に担わせてきたのです。制服,社員食堂,社宅といった衣食住から,冠婚葬祭やレクリエーションまですべて企業が面倒を見るわけですから,いってみれば人民公社ですよ。その環境に過剰適応して,ひたすら協調性重視でやってきたので,そこから抜け出るのが難しい。(p170)
 ディテールへのこだわりは,グランドデザインがあってこそ意味をなすと思うのです。(p177)
 いま中高一貫校では,6年間のカリキュラムを高1までに終えて,残り2年間は受験のテクニックを教えていますが,こんなムダなことはありません。できる子は高1で統一試験を受けて大学に直ぐに行けばいいと思います。(中略)日本で(飛び級が)できないのは,やはりグランドデザイン能力の低さのせいだと思います。(p179)
 少なくとも中国との関係でいえば,日本は中国の文化を咀嚼するというより,ただあこがれていて,長くその影響下に置かれていました。(中略)国宝や重要文化財に指定されている襖絵がたくさんありますが,そこに富士山や宮島など日本の名所旧跡が描かれているのを見たことはありますか? ないですよね。ほとんどすべてが中国の名所旧跡を描いた水墨画です。当時の人々が,いかに中国に魅せられていたかということがよくわかります。(p187)
 水が高いところから低いところに流れるように,高みにあるものは世界中に伝播します。日本や韓国が中国の影響下にあったように,ヨーロッパはみなギリシャやローマに憧れて模倣していました。ただ,その当たり前のことを,「日本は他国の文化を咀嚼して・・・・・・」というひねくれたかたちで自慢するのは,劣等感の裏返しではないかと思うのです。(p188)
 ダイバーシティは何を生むのでしょうか。化学変化です。いろいろな背景を持つ人が集まることでケミストリーが生じ,ケミストリーからイノベーションが生まれる。(p190)
 起業や社会起業にチャレンジしようとするとき,まず何が必要なのでしょうか。細かいことをいいだすとキリがありませんが,僕が大事だと思っているのは,「志」と「算数」の「ふたつです。「志」は(中略)「世の中にはこの事業が必要だ」という信念と言い換えてもいいでしょう。「算数」は,そのやりたいことを全部数字に直していくということ。(p191)
 何かに取り組むとき,生真面目にひたすら考えていても,たいしたアイデアは出てきません。どうせチャレンジするなら,机に向かって頭が沸騰するまで考えるのではなく,遊び心を持って,おもしろおかしく取り組んだほうがいいでしょう。そのほうが確実に長続きすると思います。(p192)
 運はあくまで “プラスアルファ” と考えるべきで,幸運を期待して努力を怠ると何ごとも成し得ないのはいうまでもありません。運は人智を超えたものであり,「俺はいつもついているんだ」とか,「運も実力のうち」「運は引き寄せることができる」などという言葉には,なんの根拠もないのです。(p198)
 実は人間の企ての99%は失敗しています。(中略)でも,「失敗するかもわからないが,これだけはやりたい」「世界を変えたい」というチャレンジャーがいたからこそ,人間の社会は進歩してきたのであって,挑む人がいなければ世の中は何も変わらなかったはずです。そして,「自分は多数派ではなく,1%に入る」と思えた人だけが,成功への切符を手に入れることができるのです。これは,実はカルヴァン派の人たちの考え方と同じです。(p198)
 運が人智では左右できないとすれば,人生は川の流れに流されていくしかありません。そして,流れ着いたところで精一杯がんばるしかない。僕は常にそう思っています。(p199)
 アメリカでは,大学の卒業生はなんのためらいもなくベンチャー企業やNPO,NGOに就職します。ヨーロッパでは「ノブレス・オブリージュ」といわれるように,自発的に社会問題を解決していこうという考えを持った層の人たちがたくさんいて,大企業ではなく,小さくとも自己実現ができる組織を目指す傾向にあります。しかし,製造業の工場モデルが社会常識となっている日本では,いまだに多くの学生が右にならえで大企業を目指します。大企業への就職が経済的安定を意味する途上国ならいざ知らず,先進国でみんなが既存の大企業を目指している国は,日本くらいなものではないでしょうか。(p205)
 「差をつけてはいけない」というのは,人間性の無視といってもいいでしょう。人間はだれでも能力に差があるので,できないことをやらされることほど不幸なことはありません。(p208)
 いくら優秀な人たちが集まっていても,気心が知れている同じようなメンバーで会議をいていたら行き詰まるだけです。日本は同質圧力が強く,議論するときにもお互いに気を遣い合うので,なかなか結論を出せません。(p212)
 グローバル企業は意思決定が速いことで知られています。これはなぜかといえば,文化風土が違う人たちが集まって意思決定を行うためには,情緒ではなく「数字・ファクト・ロジック」で合理的に判断するしかないので,かえって素早く意思決定が行えるからです。(p212)
 バーナード・ショーは,「世界を変えるのは少数派だ」と述べました。賢い人は,多数派に合わせれば自分もかわいがってもらえることがすぐにわかるから,即座に同調します。でも,不器用な人は同調できずに自分を押し通して,結果的に世界を変えていく。(p225)
 まわりから批判されると,「そうかもしれない」とすぐに態度を変えてしまう人が少なくありませんが,そういう人は結局,自分の生き方に自信がなく,腹落ちしていないのだと思います。(p226)
 他人に何かをいわれて潰れてしまう人って,もともと「まわりからいわれた情報でできあがっている人」だと思います。(ヤマザキマリ p226)
 彼らがすごいのは,絵だけではなく,多元的な興味があって基本的に頭がいいことです。「ダ・ヴィンチは絵画だけではなく,彫刻,建築,数学,解剖学などができた万能人だ」といわれますが,この時代の人にとっては,結構それが普通だったりするんです。(ヤマザキマリ p232)
 日本人は,一度始めたことは最後までやるべきだと考えがちですが,それでいいものができるとは限らないし,未完だからこそ人の心に響く作品もあります。そこをわかっていない人が多いですね。(ヤマザキマリ p234)
 ダ・ヴィンチ的な素質を持った人って,われわれが「苦手」とか「変人」と括ってしまう人の中に,実は結構いると思うんですよ。(ヤマザキマリ p234)
 経済的に豊かなわけではないので,高齢者は年金を少ししかもらえません。でも,ボタンをちゃんと上まで締めて,自分の気品を演出している。横柄さや威圧感がないんですよ。自分にふさわしい見せ方,あり方というものをきちんとケアできるプライド,とでもいえばいいのかな。あの芯の強さはポルトガルに行かないと学べなかったものです。(ヤマザキマリ p240)
 行き詰まっているときにやった仕事は,夜中に書くラブレターみたいなもので,全くダメです。あんなに命を削るお見をして描いたのに,朝起きて読み返すと羞恥心のパンチを喰らう。だったら,いったん逃げて,清々しい風通しの良い気持ちになってから挑んだほうが絶対にいいですよ。(ヤマザキマリ p246)
 植物もその場でずっと根を張り続けるものと,種を飛ばして別の土地で咲くものがあるじゃないですか。たぶん人間にも色んな性質の人がいて,動いた方が咲ける人もいるでしょう。動こうとする人がいたとき,無理に押し込めない社会になってほしいなと思いますね。(ヤマザキマリ p247)
 美談は,ある意味ではマスターベーションですよね。仕事でもなんでも,大事なことは,いい結果を残すことです。それなのに潔く腹を切って死んでしまったら,何も残らない。それよりも逃げて捲土重来を期すほうが,はるかに正しい選択だと思います。(p248)
 本当の意味で立ち向かっているのは,世間体など気にせず,必要に応じて逃げることができ,いい塩梅で自分を甘やかしながら生き延びていくことのできる人のほうですよ。(ヤマザキマリ p248)
 私はイタリア時代,電気・水道・ガス・電話を止められるほどお金には苦労したし,漫画家として軌道に乗るまではいろいろな仕事をしていました。だから,もしいま漫画がぜんぜん売れなくなって,再び無一文になったとしても,怖くはありません。お金がどうにもならない,という状況からでなければ得られない栄養もある。(ヤマザキマリ p249)
 サボったら落ちていく,がんばったら上がるという基本的な仕組みがなかったら,社会は後退していきます。(p253)
 社会の構造的な格差によって,人生にチャレンジできない人もたくさんいます。自己責任論は,弱者にとっては,希望なき社会への道しるべになる危険性を秘めています。(p253)
 ただ単に次世代にバトンをつなぐだけなら,それほど無責任なことはありません。まず大人ががんばって,そのがんばる姿を若者や子どもたちに見せる必要があるのです。(p254)

2021年12月18日土曜日

2021.12.18 出口治明 『0から学ぶ「日本史講義」戦国・江戸篇』

書名 0から学ぶ「日本史講義」戦国・江戸篇
著者 出口治明
発行所 文藝春秋
発行年月日 2020.10.15
価格(税別) 1,500円

● 「古代篇」「中世篇」に続く3冊目。本書の帯のコピーは「世界史とのリンクで見えてくる新たな近世」。世界史の中に日本史を位置づけて,歴史的事象の関連を解き明かしていく。ゆえに,本書の特徴の第一は明晰性だ。
 「古代篇」「中世篇」も同様だが,「古代篇」「中世篇」は中国からの影響が圧倒的に大きかったのに比べて,さすがに幕末からはイギリスの登場頻度が多くなる。

● 以下に多すぎる転載。
 江戸時代は平和で牧歌的な理想的な時代だったと持ち上げる人もたくさんいます。本書では,そうした俗説に対して,数字(データ,エビデンス)・ファクト(事実)・ロジックに照らしてみると,江戸時代は日本史上では最低の時代だったのではないかという問題提起を行っています。(p8)
 僕は,歴史は科学だと思っています。過去の出来事をあらゆる学問の手段を駆使して再現しようとする学問が歴史であって,個人の解釈が歴史であるはずがないのです。過去の出来事が一回限りであるように,歴史はひとつです。(p9)
 宗教改革が何を意味するかといえば,ローマ教会は失った領土を取り戻すか,その代わりの土地を探さない限り,お布施が入らず組織が維持できなくなるということです。(p13)
 十六世紀中頃の明では,銀一両(およそ四〇グラム弱)が銅銭七百五十文ほどで取引される一方,日本では同じ重さの銀が二百五十文ほどという価格差がありました。つまり日本で銀を銅銭で買って,中国でその銀を売れば,もうそれだけで五百文ほどのボロ儲けができたのです。石見銀山だけではなく,兵庫の生野銀山などからも,どんどん銀が算出しました。美味しい密にカブトムシやスズメバチが群がるように,多数の明船が日本にやって来たのです。(p19)
 後期倭寇は,海賊というより,海の商人の共同体,「海民の共和国」のようなものでした。中国の海禁政策のもと,中継貿易がさかんになり,最初は琉球,それが後期倭寇に代わって,そのネットワークにポルトガルが乗っかったというのが,「南蛮貿易」の実態だったと理解すればいいと思います。(p22)
 織田信長は時代を超えた道理性を備えた人で,信長の登場からやはり近世が始まるように思えます。(p30)
 義昭と信長は当知行安堵という,現在の土地所有者の権利をそのまま認める政策を取りました。既成秩序をむやみに破壊しようとはしていません。(p32)
 信長が舞台の中央に躍り出たのには,彼の人生のタイミングの良さにも触れる必要があります。ダーウィンが提唱した進化論でいうところの「運」です。(中略)ちょうど世代交代の時期にあたり,戦国時代を彩った大物大名たちが次々と死んでしまったのは信長にとって大きな幸運でした。(p36)
 日本の仏教界は,キリスト教との論理的な論争に慣れていませんでした。キリスト教の神学はイスラム神学を経由してアリストテレスなど古代ギリシャ以来の論理学を取り入れ,宗教改革を通じて高度に洗練されていました。そこに魅かれた仏教僧などのインテリが宗旨変えします。キリスト教はインテリ層中心に布教を進めたといえますね。(p38)
 織田信長の物事の進め方を見ると,モンゴル帝国の手法によく似ている感じがします。どういうことかというと,チンギス・カアンが率いたモンゴル軍団の手法は「俺らのいうことを聞くなら見の安全を保証するで。抵抗するなら見せしめに皆殺しやで」というものです。(p42)
 信長は大きな理由もなくあまり人を殺してはいないのですね。実は問題を起こした部下に対しても,追放はしても切腹までさせるケースは少ないのです。(p42)
 信長の事績を見ると,自分から約束を破ったことはあまり見当たりません。約束は守るし,大義名分を重視していたことがよくわかります。(p44)
 問題は,このとき信長だけではなく,有能だった長男の信忠も討たれてしまったことです。本能寺の変の本当の重大さは,王と王太子が揃って殺されてしまったことなのです。(中略)後継者も討たれたために,権力の空白が生じました。(p50)
 刀狩令以降も,腰に差したり使ったりしなければ,所持しても別にかまへんでということで,農家のなかに刀はたくさん保存されていました。刀狩りは,刀をすべて没収するのではなく,おおっぴらに刀を使った行為をやめさせることが狙いでした。(中略)中世の自力救済を禁止するのが一番の狙いだったのですね。(p69)
 太閤検地では丈量検地といって,できるだけ役人が現地で実際に測ろうとしました。(中略)検地帳には地主ではなく,実際の耕作者が記載されました。(中略)これが何を意味するかといえば,ここで中世の「権門体制」が最終的に終わったのです。(中略)これほど大きな土地政策の変更は,明治の地租改正と,戦後の農地改革ぐらいです。太閤検地にはとても大きな意義があるのです。(p71)
 信長は権力者ですから,金銀が献上されます。それを使って京都で茶道具を買い漁っています。そうすることによって,市場にマネーサプライを供給していたのです。(p76)
 茶器のような,素人には見分けがつかない日用品が威信財になっていく過程では,必ず目利き,つまりそれを鑑定するキュレーターが生まれます。微妙な味わいは専門家のお墨付きがないと有難味がわからないのです。(p83)
 秘書役にはどの世界でも賄賂が集まるものです。(中略)アメリカでも,CEOの秘書に好かれない人はクビになるという冗談があるぐらいで,秘書の機嫌をとるのに皆ものすごく気をつかっています。(p84)
 薩摩が琉球にいうことを聞かせられるのだったら,津島の宗氏は朝鮮にいうことを聞かせられるはずだと秀吉は思っていた節があります。(p88)
 当時の日本の米の生産力は二千万石といわれます。また一万石で兵隊を二百五十人ぐらいは出せると考えられています。この数字で計算すると,当時の日本は五十万人の兵士を動員できることになります。当時の世界で,五十万人規模で軍隊を動員できるのは,中国と日本しかありませんでした。後で満州の女真族が,清を建国して明が倒れますが,そのときの満州軍は三十万人ぐらいです。また当時の日本は戦国時代でしたから,実戦に慣れていました。銀の生産量も世界の三分の一を占め,お金は山ほどありました。単純に数字のうえでいえば,明と戦うのは決して秀吉の妄想だけではなかった。日本の軍事力が歴史上ピークをつけた時代でした。(p90)
 (徳川家康は)実は幸運に恵まれただけで,この時代に生きた戦国武将のなかでは,ごく平凡な価値観の人物だったように思えます。(p106)
 家康はそれほど仁義を守っていません。武田と結んだり北条と結んだり,しょっちゅう同盟相手を変えています。(中略)自分が有利なように動くという,戦国大名としてはごく普通の感覚を持っていた人だと思います。(p110)
 徳川政権のキモは,要するに大名から民衆まで,それぞれのポジションを固定化させることでした。それは,戦国の乱世に収拾をつけるためでしたが,その反面,社会の流動性や発展のポテンシャルが喪われることにつながります。(p117)
 現在華やかに活躍している華僑の歴史は,意外に新しいのです。鎖国(海禁)は,もともと明の政策でしたから,中国人が大量に東南アジアに出ていくのはアヘン戦争の後なのです。(p134)
 伊達政宗や黒田官兵衛は,領地は日本でもうこれ以上増やせないから,海外と商売して大きくなろうと考えていました。伊達政宗は家臣の支倉常長をヨーロッパに派遣しています。こういう動きを封じるためというのが,鎖国の一番の理由ではないでしょうか。(p145)
 十七世紀の後半になると,日本の銀山の産出量が減り,海外輸出に制限をかけるようになります。世界の貿易商人にとっては,「もう日本に行っても案外利益は薄いで」というわけですから,鎖国はたいして邪魔されませんでした。(中略)つまり鎖国の二百年の間は,わざわざ海外から日本にやって来る価値がなかったというわけですね。(p146)
 殉死は戦国時代の遺風のように思われがちですが,実は戦国時代にはあまりなかった風習です。戦国の世が終わり,亡き主人への忠誠心をアピールするパフォーマンスとして,江戸時代に入ってから流行していたのですね。(p153)
 江戸は独身者の多い町でした。そのなかには不満分子も大勢いたわけで,実は放火も多かったのです。火事の隙に金目の物を盗むことで生計を立てる人間さえ少なくなかったといわれています。(p156)
 (明暦の大火では)わずか二日間で江戸のほぼ全域が焼き尽くされました。(中略)死者は三万人~十万人余りといわれます。当時の江戸の人口は三十万人と見積もられていますから,多くて三割近くの人が亡くなったことになります。ちなみに一九二三年の関東大震災の頃の東京市の人口は二百五十万人,うち震災の死者・行方不明者は十万人程度といわれています。(p157)
 江戸の町では,火事が起こることを前提にして,すぐ壊せ,かつまたすぐに組み立てられるような,柱の細い,いわば安普請の家を建てていました。西洋の家が庶民でも石造りで非常に頑丈なものをつくって代々何百年も住むという発想とは根底から異なります。これは現代に至るまで尾を引いています。日本は鉄筋コンクリートの建物でも二,三〇年でもうダメやと壊してしまうでしょう。(p160)
 桃山文化は何かといえば,その入れ物になったのがお城です。(中略)それに続いた寛永文化は,京都で武家と公家と町衆が交流するところから生まれています。(中略)寛永の頃は「いれいなものがええな」ということで「きれい」という言葉が異性を風靡したようです。(中略)こういった当時の藝術のスポンサーとなったのは,武家や公家,もしくは朱印船や鉱山経営などで幕府の御用をつとめて巨富を築いた豪商たちでした。(p162)
 元禄文化になると,江戸,大坂,京都の新興の町人たちが文化の担い手の中心になっていきます。(中略)庶民相手の出版事業も始まりました。現代の私たちが日本の古典文学と呼んでいるものは,この時代になって初めて広く読まれるようになったものです。(p164)
 日本の庶民の間では,中国同様に犬を食べることは珍しいことではありませんでした。(中略)綱吉の政策によって,犬食の習慣は,日本では表だって見られなくなりました。(p171)
 (新井白石には)理想を追求するあまり,現実を直視しなかったところが見られます。(p184)
 日本の武家政権のブレーンは,実は鎌倉時代以来,ずっと僧侶たちでした。(中略)お坊さんは公家を除けば日本で唯一の知識階級だったのです。(p186)
 現代の皇室の祭祀や皇室についての考え方には,もとをたどると儒学の影響が大きく見られます。江戸時代の儒学は明治の日本を用意したという言い方もできますね。(p191)
 幕府の幹部は継友を推していました。尾張家が御三家筆頭だったからです。(中略)やはり血統を考えると先に生まれたほうが強いということになります。しかし大奥の女性たちは,英明な紀州藩主として実績と名声の高かった吉宗に期待しました。日本の女性は地位が低かったと言われたりしますが,江戸時代でも将軍家の跡継ぎを鶴のひと声で決めているわけですから,決して低くはなかったのですね。(p196)
 吉宗の不思議なところは,生涯が美談に包まれていて,名君として語られていることです。不安定な立場の吉宗が,自分のことを相当フレームアップしたのだと思います。(p200)
 大坂米市場は,世界初の先物取引所として有名です。(中略)といって,「世界のトップランナーだったんやで」といってしまうのも,少し短絡的かもしれません。というのも,これはかなり特殊な状況で発達した取引市場だったからです。(中略)取引が高度化したというよりは,米だけに絞って限られた人々が取引をしている,「米一元制」といってもいい経済の仕組みのなかで生まれてきたのではないか,というのが僕の考えです。(p206)
 江戸で「米価安の諸色高」という現象が起こります。(中略)なぜこんなことが起こったかといえば,江戸に町民が増えたからです。(中略)武家が消費の主役であった時代には,武家が買えなければ「需要はないで」ということで,商品の価格は下がったはずですが,需要面で町民のウエイトが大きくなってくると,武家が買えなくても町民が買う商品が増えていきます。(p208)
 水野忠成は「田沼意次の再来や」「賄賂政治や」と評判が悪いのですが,「全体的には正しいことをやっていれば,ちょっとぐらい後ろ暗い部分があってもかまへんで」というとても合理的な考えの持ち主でした。(p231)
 一八三三年から三六年にかけて,天保の大飢饉が起きます。これは亨保,天明と並ぶ,江戸の三大飢饉のひとつです。水野忠成は「江戸で餓死者を出すな」という方針のもと,備蓄米百五十万俵を放出して施米します。松平定信の時代から江戸町会所に備蓄された古米で「もらっても食えたものじゃない」という批判もありましたが,忠成は「死ぬよりましやで」と言ったそうです。そのため江戸では米騒動が起きずに済みました。(p232)
 たくさんガールフレンドをつくり,お金をふんだんにばら撒いて贅沢をしたので「化政文化」が花開いたのです。文化というのはお金をつかわないと生まれませんよね。家斉政権はそういう意味で皮肉にも文化的には素晴らしい時代となったのです。(p235)
 江戸での生活が文化的で楽しいから,農業を捨てて人が集まる。そう考える農本主義的な「改革」は,農村復興のため,江戸に人が集まらないように,もっといえば,江戸を魅力のない町にしようとしたのですね。(p253)
 幕府も,大砲などを近代化して守りを固めないとあかんで,とわかっていました。これが天保の改革のもうひとつの側面です。(中略)だから水野忠邦は出世欲の塊だっただけでなく,自身の政治に確かな目的があって,政策判断をしていたのだと思います。失脚してすべてパーになってしまいましたが。(p257)
 林則徐が洋書を集めてこいと部下に命じたとき,部下が「政治や軍事の本ですね?」と問うと,林則徐は「違う。全部や」と答えたそうです。連合王国と戦おうと思ったら,ヨーロッパ全体を理解しなければ勝てないと考えていた。そのため買い集めた本のなかには,生命保険の知識も入っていたのですね。(p260)
 『海国図志』で勉強した西洋の知識が明治維新につながっていくので,明治維新は林則徐の志を継いだもの,あるいは林則徐のリベンジともいえるのです。(p260)
 幕府による「寛政の改革」や「天保の改革」は失敗に終わりましたが,同時期に行われた諸藩の改革は成功しています。両者の命運を分けたのは,農業か商業かの選択でした。朱子学か実学か,といってもいいかもしれません。(p262)
 「武士道」という言葉は,実は一九〇〇年以前の用例はほとんどありません。実際のところ「武士道」は,新渡戸稲造が英文で『武士道』という本を一八九九年に書いて有名になった言葉なのです。(中略)実際に『葉隠』を読んでみると,(中略)サラリーマンの処世訓のような話でした。(p276)
 もともと武士の本源は鎌倉時代の「御恩」と「奉公」です。源頼朝が領地を安堵してくれたからその対価として奉公するというかたちの,ギブアンドテイクの関係なのです。(中略)かつての武士は終身雇用ではなかったのです。どんどん転職して,いい上司を見つけて,一族を繁栄させるのが武士やでという考えが,戦国が終わった後,江戸時代にもずっと根底に生きていたのだと思います。「主君のために死ぬのが武士道や」という考えは,明治時代になって,欧米先進国に対抗するテーションステートを構築しようとしたときに,つくられた虚構です。(p277)
 江戸や京都,栄えている地方都市の男性を中心に,字が読める人はそこそこいて,ヨーロッパにそれほど遅れていたわけではないと思います。しかし「世界のなかでも優れていた,というのはいいすぎやで」というのが現在の研究者の認識です。(p288)
 「江戸しぐさ」には,まったく史実上の根拠がありません。(中略)新しく捏造された「伝統」だったわけです。(中略)「武士道」が,明治時代に創られた「伝統」であったのと同様です。(p290)
 工場制機械産業は,二十四時間操業が理想なのです。鉄鋼の高炉などが代表的ですが,一回火を入れたら止めるとものすごいロスが生じます。(中略)ところが人間は長時間労働を続けると疲れます。そこでどうしたかといえば,清から輸入した紅茶に,カリブ海の植民地から持ってきた砂糖を山ほど入れて労働者に飲ませました。(p294)
 歴史には,フランスの歴史学者フェルナン・ブローデルが指摘したように,気候の変動といった,人間にはどうしようもない大きな波があり,人口動態やオーストリアのハプスブルグ家とフランス王家の争いのような中規模の波があります。さらに個人の人生の波があり,三つの波が重なったときに,歴史上の大英雄が現れたりします。典型はナポレオンです。(中略)そのような天才が幕末の日本にも現れます。それが阿部正弘でした。(p300)
 現在ではこれ(日米修好通商条約)は不平等条約だと思われるのですが,当時のことを考えたら致し方のない側面もあります。(中略)近代国家の考え方は日本にはありません。(p310)
 松蔭が松下村塾で教えた時間はほんの一,二年でした。(中略)吉田松陰は老中間部詮勝が京都に来たときに暗殺計画を立てていますから,現代からいえばテロリストといってもおかしくない人です。(p316)
 それぞれの天下は・織田信長十五年,豊臣秀吉十六年,徳川家康十八年。だいたい同じ期間です。(中略)面白いことに,武家政権を開いた平清盛と源頼朝も同様です。(中略)会社の経営にしても全力で取り組めるのは十五,六年が限界だと思います。昔からリーダーの寿命は変わらないのかなと思ったりもします。(p350)

2021年12月4日土曜日

2021.12.04 松浦弥太郎 『ふたりのきほん100』

書名 ふたりのきほん100
著者 松浦弥太郎
発行所 光文社
発行年月日 2021.04.30
価格(税別) 1,500円

● 副題は「恋愛と結婚のエッセンシャル。」。自分がそのとおりにはできていなかったとしても,落ち込まないことが大事でしょ。このとおりにできてる人なんか,まずもっていないから。
 松浦さんってストイックな人なのだろうが,ストイックさを周囲に感じさせない気配りもある人なんだろうか。

● 以下に転載。
 行動は,感情を変えることができるのです。(p13)
 あなたがそばにいるときも,離れているときも,わたしは「あなたを優先する」と決めています。(p25)
 気持ちの張りを失うと,美しさは簡単に喪われてしまいます。(p49)
 短所を気にするのではなく,よいところをどんどん伸ばしてください。(p59)
 わたしたちによくないことが起きたとしても,必ずそこにはよほどの理由があるのです。そのよほどの理由は,静かにそっとしておくことがよかったりもするのです。(p79)
 いつも明るく過ごします。そのために,心とからだを整えます。(p81)
 ふたりのことに,手遅れはほとんどありません。そもそもゴールが存在しないのだから,結果を急がなくていいことに意味があります。(p127)
 答えがかんたんに手に入る現代社会だからこそ,正しい問いをふたりで見つけたい。(中略)正しい問いとは,ほんとうに必要なことは何か。ほんとうに知りたいことは何か。というように,問いの動機に立ち返ることです。(p135)
 本当のよろこびを生み出すのは「もの」ではなく,その「もの」から生まれる時間です。(p145)
 どんなことでも最短距離を選ばずに,ちょっと寄り道という遠回りをしてみる。そこにある余裕や余地から生まれる,新しい考えや発想をわたしは大切にしていきたいのです。(p161)
 永遠を信じると,今日がおろそかになり,感謝の気持ちも薄れていってしまいます。(p169)
 どんなものでも時間がたてば,冷めるものです。(中略)そのままにしておくと,冷めは悲しみに変わります。冷めたものは,温めなおせばいいのです。(p173)
 譲ることは負けることではありません。人と争わずに,一歩前に進むための心がけなのです。(p185)
 心のゆとりとは,自分を自分でいっぱいにしないこと。(p189)
 老いとは自由になっていくこと。もっているものを整理して,人間関係を整理して,自分の心を整理して,少しずつシンプルになっていくこと。(p205)
 面倒くさいからと逃げてばかりいると,前に進みません。どんなときでも,一歩前に進む気持ち,何があっても逃げない,という心構えが大切です。(p245)
 できるだけ嫌いなことや逃げてなことに触れないよう,出くわさないように注意をしてあげましょう。(中略)嫌いなことや苦手なことを克服することを求めてもいけません。(p305)
 バカにされることがわかっていても,オヤジギャグを連発する人は,ユーモアの価値を知っています。(p319)
 ものごとには上手い下手があります。(中略)だけど,その行為に心がこもっていれば,人は不満を抱いたりしないものです。(p341)
 人にはできないことがあるのです。相手ができないことは受け入れることです。相手ではなく,自分のために。(p351)
 欠点こそ,人の魅力のひとつです。だから欠点を嫌わないでください。人は,完璧だから自信がもてるのではありません。完璧ではない自分を知っているからこそ,失敗も想定内でいられます。だから不安がなくなるのです。(p369)
 何かあったときに「えー!」と否定的に受け止めていると,そこから前に進めません。大切なことは,その先にあります。(p371)
 世の中の多くのことには,答えがありません。むりやり答えを出そうとすると,その場しのぎになることも多いのです。(p381)
 だけど暮らしのコンセプトは,おもしろく,楽しく。何をするにも,何を考えるにも,すべてがそこにつながっていると,日々を明るく,軽やかに過ごせます。(p425)