書名 出口版 学問のすすめ
著者 出口治明
発行所 小学館
発行年月日 2020.11.02
価格(税別) 1,500円
● 著者はAPU(立命館アジア太平洋大学)の学長。脳出血で倒れ,約1年間職務を離れリハビリに努めていたが,来年1月から一部,業務に復帰できるらしい。 こちらがその声明文(?)なのだが,いや,相当な執念でしょう。電動車椅子でひとりで電車に乗れるようになったとサラッと書いているのだが,自分だったらそもそもそれを試みるだろうか。
● 頭も凄いのだが,頭だけの人,頭先行の人ではない。著書で語っていることに,自分の素行が負けていない。
APUでも次の学長をと考えたのかどうなのか。復帰の可能性があるなら続けてもらおう,と決めるのに時間はかからなかったろう。著者の活躍は大学の広告塔としても大したものだ。著書の発行やメディア露出でAPUの知名度も上がった。これを広告費に換算したらいくらになるだろう。
● 以下に多すぎる転載。
「人間は考える葦」ですから,学びや勉強の最終目的は「考える力を養成すること」に尽きると思います。(中略)そして,当たり前のことですが,自分の意見を主張するためには,「数字・ファクト・ロジック」,即ちエビデンスの裏付けが必要になります。(p4)
日本人の場合,「勉強」というと,どうしても机に向かってコツコツ積み上げるもの-つまり,ひたすらインプットするものというイメージからなかなか抜け出せないようです。でも,インプットするだけでは,半分,あるいはそれ以下しか勉強したことにはなりません。インプットしたものをアウトプットしなければ,身につかないのです。(p4)
僕は,一夜漬けこそがとても効率がよく,覚えたことを忘れない勉強法だと思っています。(中略)「今夜中に数学のテスト勉強をする」というようなあいまいな取り組み方ではなく,「ここからここまでを3時間で憶える」「この問題集を1時間でマスターする」などと短く区切って考え,決めた時間内に集中して勉強したのです。(p18)
僕は原則として本を読むときにラインを引いたり,付箋を立てたりはしません。また,読書ノートのようなものは,生まれてこのかた一度も作ったことがありません。(p21)
モノを覚えるとき,僕が実践しているコツは一つだけ。読んだり聞いたりしたことをそのまま覚えようとするのではなく,読み聞きしたものをもとに自分で考えて,考えた結果を他人に話すのです。(中略)読んだものについてアウトプットすることが,集中して読み込むのと同じくらい大切なのです。(p22)
アウトプットすることが大事なら,読書日記をつければいいじゃないかという意見もありますが,それはあまり効果がないと思うのです。(中略)もし書くのであれば,Facebook,あるいはブログなどに投稿したほうがいいでしょう。(中略)自分用のノートや日記は,いわば誰も遊びに来ない部屋。Facebookやブログは恋人が訪ねてくる部屋です。(中略)緊張感が全く違うのです。(p22)
常識を疑うということはゴテゴテに修飾された「エピソード」ではなく,数字・ファクト(データ)をベースにしたエビデンスで考える,あるいは,何が原理原則かということを突き詰め,原点から考えることと言い換えてもいいでしょう。(p26)
いかに自分に刺激を与えてくれる人と出会うかーー。人から学ぶには,その点が重要なポイントになってきます。そのためには,「数多くの人と会ってみる」しかありません。(p28)
僕は,基本的に「その人といっしょにいると楽しいか,あるいはおもしろいかどうか」だけでつき合う相手を選んでいます。(p29)
何も飛行機や新幹線を使わなくても,旅は十分にできると考えています。吉行淳之介のエッセイに『街角の煙草屋までの旅』という作品があります。(中略)いつも通っている煙草屋までの道であっても,目のつけどころによっては,旅しているときと同じような発見があるというのです。僕も全く同感です。(p30)
歴史上の人物を調べてみると,「偉人」といわれる人はあまねく生涯をかけて勉強し続けています。(中略)僕がとくにすごいと思うのは東晋の法顕です。法顕は仏典を求めて399年にインドに赴きますが,このときすでに60歳を超えていました。中国に帰ったのは412年ですから,75歳のときです。(p31)
ほとんどの人は環境さえ整えば,自分を磨こうとするのではないかと僕は思います。なぜなら,そのほうがはるかに人生が楽しいからです。(p34)
ツールがあると考え方が変わります。たとえば,数字が発明される前と後では量に対する考え方も違うだろうし,クルマが発明される前と後では移動の概念も異なるでしょう。(池谷裕二 p41)
僕は歴史学や考古学の氏名もそこにあると思っています。当時の時代背景を頭の中で再現して,「なるほど,だからこのとき,こんな決断をしたのか」と納得することができる。(池谷裕二 p42)
人間は今の尺度で未来を測りがちですが,それはだいたい間違っていますから。(池谷裕二 p42)
学者など頭がいいと思われる人ほど,物事を悲観的に見がちなのですが,そういう説はこれまでは当たったためしがないのです。(p43)
技術はじわじわと発展するのではなく,階段状にステップアップするものです。だから1階にいるいまの人たちには2階の世界が見えません。(中略)人間は現在の延長線上で未来を見るので,「1階の常識」で物事を判断してしまう。(池谷裕二 p44)
僕は科学をやる者として,大風呂敷にすがりたい気持ちは抜けないんですよ。(中略)精神は脳が生み出した幻覚にすぎませんが,だからといってないがしろに扱うことはできません。よりどころとしての精神は,人が生きるうえで絶対に必要です。(池谷裕二 p47)
集中力の正体は,意外に思われるかもしれませんが,鈍感であることです。(池谷裕二 p57)
僕も高校から大学2年生くらいまでに得た知識が,いまの自分を形づくっていると思います。社会人になり,自分から発信するようになってから言っていることって,あの頃得た知識にちょっと色づけしたものだったりするんですよね。(池谷裕二 p61)
子どもは親の言語ではなく,友だちの言語を覚えるんです。たとえばアメリカに引っ越すと,我が子たちは日本語で話すのをやめて,英語で話しだします。つまり,子どもは親とのコミュニケーションなど,全く重視していない一方で,友だちにはものすごく影響される。それが実は10代,20代という,大人になるギリギリのところまで続くんです。(池谷裕二 p64)
研究には,没頭する力,オタクのように続ける力が必要です。(中略)そのやる気や没頭する力が最も発揮できるのは,研究を楽しんでいるときです。(池谷裕二 p64)
ある文化系の先生が,「世の中に役に立つと思って研究しているわけじゃない。好きだからやっているだけです」といわれてしましたが,それがいちばん大事ですね。(p65)
進化や変化にとって,ゆらぎは大きな要素です。生物も宇宙も,何か偶発的なものがあって,そこから新しいものが生まれてくるという仕組みで成り立っているのだと思います。整っているところでは,何も起こりません。私からすると,それは美しくない。(吉田直紀 p75)
宇宙はゆらぎから生まれて,人間は宇宙から生まれました。そう考えると,私たちが根本的にゆらぎのあるもの,多様性のあるものをありがたがるのも当然だという気がします。(吉田直紀 p75)
コンピュータがもたらしたものは大きいですね。私たちが観測できるのは,ある一瞬を切り取った宇宙の状態だけ。人類が何億年もずっと宇宙を見続けることはできないので,一瞬と一瞬の間はよくわからなかったのです。しかし,物理法則の知識とコンピュータ・シミュレーションを使ってあいだを埋めていけるようになった。(吉田直紀 p79)
脳をフル回転させて計算したり考えたりするのは,せいぜい2時間✕2時間が限度ですね。あとはいわゆる作業に充てたり,集中しないでぼんやり考えたり。でも,ぼんやり考えるのも研究には大事なんです。(吉田直紀 p83)
イタリア人とかアメリカ人の研究者は,白黒がつかないギリギリのところでうまく議論するのですが,日本人は少しでもグレーなところに入ると,サッとあきらめて引いてしまう。(吉田直紀 p84)
教育を通じて合理的,科学的な思考が身についていれば,簡単にあきらめて「破れかぶれで散ってやろう」などという発想にはならない。(p84)
優れた研究者は,無駄なこと,余計なことをたくさんしています。人間がいくら賢いといっても,自然ほどは賢くないんです。だから,頭で考えるだけでなく,とにかくありとあらゆる可能性を考えて,手を動かして試してみるしかありません。(吉田直紀 p86)
労働時間が長くて成果(成長率)があがっていないのに,「勤勉」だといえるのでしょうか。もっとシンプルに労働生産性をみると,日本は統計を取りはじめた1970年以降,実に半世紀にわたってG7で最下位を続けているのです。(p95)
さて,この結果からいえることは,「日本人は会社に対するロイヤルティが低い」ということです。会社や組織に逆らうと,誰もが満足するようなことにはならないので,みんなが空気を読んで表面上は社風に合わせているけれど,心の中ではあまり信頼していない--。エデルマンのデータは,そういっているのです。(p96)
日本に決定的に欠けている視点があります。それは,「大学は輸出産業である」ということを,多くの人が理解していないことです。アメリカには移民だけではなく,年間110万人もの留学生が集まってきます。アメリカの大学は学費が非常に高いので,1年間留学しようと思ったら,学費だけで600万~700万円,これに生活費を加えると合計で1000万円ほどかかります。これを掛け算すると1100万人✕1000万円=11兆円です。しかもこれは有効需要ですから,アメリカの大学は,わが国の自動車産業に匹敵するくらいの輸出をしていることになるのです。(p103)
平成の30年間で,GDPの世界シェアは半減以下となり,国際競争力(IMD調べ)は1番から30番になり,平成元年には世界のトップ企業20社のうち14社を占めていた日本企業がゼロになったのです。戦争がなかったという意味ではいい時代だったと思いますが,経済的には完敗でした。(p109)
貪欲に世界から学ぶことを行わずに,「日本はええ国やで」といいながらお互いにマスターベーションをして傷を舐め合っていると気持ちがいいですよね。「アメリカやフランスのような人種差別はないし,世界でいちばん安全で犯罪も少ない。日本料理もおいしい。こんなええ国はないで」と。しかし,閉じられた世界というのは,そこに安住しているかぎり不安も不満もなく心地よいかもしれませんが,世界がどんどん小さくなっていくことは避けられません。それは,何も学んでいないからです。(p110)
どの国の経済でも,強くなるために必要なのは「人口✕生産性」です。人口が少ない国は,一人ひとりの能力を上げていかなければなりません。フィンランドやノルウェーなどの北欧諸国は,その点を強く意識しています。(p119)
高度成長時代,「日本の経済は一流,政治は三流」といった財界人がいました。ですが,世界の歴史を見ていると,経済だけが一流で,政治が三流などということはありえません。(p129)
外国語は勉強すれば誰でもできるようになるものです。つまり,偏差値と直結するものでもなく,頭のデキがどうこうという問題でもないと思います。インセンティブの設計次第なのです。(p130)
大学の成績は平均点ではなく,自分の好きな分野,得意な分野だけでもきちんと「優」を取っていたら,評価していいと僕は思います。すべておいて「平均点以上を」というのは,製造業の工場モデルの延長線上の発想といえます。しかし,これからの社会で求められる “発想力” は,平均点で測れるものではありません。(p133)
「こいつは素直そうだ」とか「上司のいうことを聞きそうだ」という印象だけでの選抜はやめなければなりません。そもそも,多くの企業が入社試験で取り入れている「面接」は,実はほとんどが面接担当者の好き嫌いで決まっているのです。面接は選択を誤りやすいということは,ニューヨーク・フィルハーモニックのブラインドオーディションで明らかになっています。(中略)リクルート総研の調査では,入社時の面接結果と,入社後のパフォーマンスとのあいだには,ほとんど相関関係がなかったそうです。(p134)
理解できないことがらに直面したとき,それを排除してしまう日本式と,わからないことをおもしろがるアメリカ式の違いですね。(p142)
日本の大学が,マネジメントに関してもきちんとやっているかといえば,私は疑問ですね。あれはマネジメントではなく,その真似事だと思います。(生田幸士 p143)
欧米では人と違うことが強みとして評価される教育システムになっています。ところが日本では,人と違っていることは全く評価されません。ずっと昔から,ほかの人と違うことをしていると「直しなさい」と言われてしまう。これは大きな問題だと思いますね。(生田幸士 p146)
企業の経営層には立派な大学を出ておられる人が少なくありません。ところが,そういう人が「外国人との会食などでは,政治や宗教の話題はご法度だよ」などという話を平気でするのです。これは大きな勘違いで,(中略)100人以上会ったグローバル企業のトップは,政治や宗教の話が大好きでした。では,どうして日本の経営者が勘違いをしているかというと,外国人が彼らに合わせて話のレベルを下げているからです。(p148)
知識も教養も足りないから,何ごとにつけてもファクトに基づいてロジカルに論じるのではなく,ついつい成功体験をベースにした根拠なき精神論に走ってしまうのです。(p149)
創造性は「知識✕考える力」です。考える力をもう少し具体的に述べると,考える型やパターン認識の蓄積です。つまり先哲の考える型や発想のパターンを学ばないと,創造的なアイデアは出てきません。型を学ばないと型破りな発想も生まれない。(p150)
相対的に知的レベルが高い人は,180度意見を変える可能性がある。とたえば安土桃山時代,日本のキリスト教人口は約40万人で,人口比でいうといまの数倍以上の信者がいました。実はその多くは,元お坊さんです。学のある人のほうが,理屈で負けたらコロッと転向するのです。(p151)
創造性に関しては,遊び心がすべてです。楽しまないといいアイデアは出てきません。莫大な利益を生んだアイデアも,それ自体を目的にしていたらきっと生まれなかったでしょう。自分がおもしろいと思うことをやっていたら,結果的に利益や業績につながったというけーすのほうが多いはずです。(生田幸士 p154)
遊ぶのも怠けるのも,もとをたどれば「もっと気持ちよくなりたい」という人間の欲ですね。(生田幸士 p155)
子どもたちは生まれながらにして,さまざまなことを自分で吸収する力を持っている。大人はそのお手伝いをすればいい。(加藤積一 p162)
邪魔をしなければいい,と言い換えた方がいいかもしれないねぇ。
ここは子どもたちが育つ場所で,先生たちが仕事をする場所ではない。ただ子どもたちを見て,遠くで「うん」とうなづいてあげるだけで,子どもたちは自信がつくんだよ(加藤積一 p164)
日本の教育を省みると,どうしても「みんな同じ」がいいことだと教えてしまう。でも,それはどうなのかなと思います。(加藤積一 p168)
日本は第2次世界大戦に破れて経済も社会もガタガタになってしまいました。だから国として十分な社会保障を行う余裕もなく,その役割を企業に担わせてきたのです。制服,社員食堂,社宅といった衣食住から,冠婚葬祭やレクリエーションまですべて企業が面倒を見るわけですから,いってみれば人民公社ですよ。その環境に過剰適応して,ひたすら協調性重視でやってきたので,そこから抜け出るのが難しい。(p170)
ディテールへのこだわりは,グランドデザインがあってこそ意味をなすと思うのです。(p177)
いま中高一貫校では,6年間のカリキュラムを高1までに終えて,残り2年間は受験のテクニックを教えていますが,こんなムダなことはありません。できる子は高1で統一試験を受けて大学に直ぐに行けばいいと思います。(中略)日本で(飛び級が)できないのは,やはりグランドデザイン能力の低さのせいだと思います。(p179)
少なくとも中国との関係でいえば,日本は中国の文化を咀嚼するというより,ただあこがれていて,長くその影響下に置かれていました。(中略)国宝や重要文化財に指定されている襖絵がたくさんありますが,そこに富士山や宮島など日本の名所旧跡が描かれているのを見たことはありますか? ないですよね。ほとんどすべてが中国の名所旧跡を描いた水墨画です。当時の人々が,いかに中国に魅せられていたかということがよくわかります。(p187)
水が高いところから低いところに流れるように,高みにあるものは世界中に伝播します。日本や韓国が中国の影響下にあったように,ヨーロッパはみなギリシャやローマに憧れて模倣していました。ただ,その当たり前のことを,「日本は他国の文化を咀嚼して・・・・・・」というひねくれたかたちで自慢するのは,劣等感の裏返しではないかと思うのです。(p188)
ダイバーシティは何を生むのでしょうか。化学変化です。いろいろな背景を持つ人が集まることでケミストリーが生じ,ケミストリーからイノベーションが生まれる。(p190)
起業や社会起業にチャレンジしようとするとき,まず何が必要なのでしょうか。細かいことをいいだすとキリがありませんが,僕が大事だと思っているのは,「志」と「算数」の「ふたつです。「志」は(中略)「世の中にはこの事業が必要だ」という信念と言い換えてもいいでしょう。「算数」は,そのやりたいことを全部数字に直していくということ。(p191)
何かに取り組むとき,生真面目にひたすら考えていても,たいしたアイデアは出てきません。どうせチャレンジするなら,机に向かって頭が沸騰するまで考えるのではなく,遊び心を持って,おもしろおかしく取り組んだほうがいいでしょう。そのほうが確実に長続きすると思います。(p192)
運はあくまで “プラスアルファ” と考えるべきで,幸運を期待して努力を怠ると何ごとも成し得ないのはいうまでもありません。運は人智を超えたものであり,「俺はいつもついているんだ」とか,「運も実力のうち」「運は引き寄せることができる」などという言葉には,なんの根拠もないのです。(p198)
実は人間の企ての99%は失敗しています。(中略)でも,「失敗するかもわからないが,これだけはやりたい」「世界を変えたい」というチャレンジャーがいたからこそ,人間の社会は進歩してきたのであって,挑む人がいなければ世の中は何も変わらなかったはずです。そして,「自分は多数派ではなく,1%に入る」と思えた人だけが,成功への切符を手に入れることができるのです。これは,実はカルヴァン派の人たちの考え方と同じです。(p198)
運が人智では左右できないとすれば,人生は川の流れに流されていくしかありません。そして,流れ着いたところで精一杯がんばるしかない。僕は常にそう思っています。(p199)
アメリカでは,大学の卒業生はなんのためらいもなくベンチャー企業やNPO,NGOに就職します。ヨーロッパでは「ノブレス・オブリージュ」といわれるように,自発的に社会問題を解決していこうという考えを持った層の人たちがたくさんいて,大企業ではなく,小さくとも自己実現ができる組織を目指す傾向にあります。しかし,製造業の工場モデルが社会常識となっている日本では,いまだに多くの学生が右にならえで大企業を目指します。大企業への就職が経済的安定を意味する途上国ならいざ知らず,先進国でみんなが既存の大企業を目指している国は,日本くらいなものではないでしょうか。(p205)
「差をつけてはいけない」というのは,人間性の無視といってもいいでしょう。人間はだれでも能力に差があるので,できないことをやらされることほど不幸なことはありません。(p208)
いくら優秀な人たちが集まっていても,気心が知れている同じようなメンバーで会議をいていたら行き詰まるだけです。日本は同質圧力が強く,議論するときにもお互いに気を遣い合うので,なかなか結論を出せません。(p212)
グローバル企業は意思決定が速いことで知られています。これはなぜかといえば,文化風土が違う人たちが集まって意思決定を行うためには,情緒ではなく「数字・ファクト・ロジック」で合理的に判断するしかないので,かえって素早く意思決定が行えるからです。(p212)
バーナード・ショーは,「世界を変えるのは少数派だ」と述べました。賢い人は,多数派に合わせれば自分もかわいがってもらえることがすぐにわかるから,即座に同調します。でも,不器用な人は同調できずに自分を押し通して,結果的に世界を変えていく。(p225)
まわりから批判されると,「そうかもしれない」とすぐに態度を変えてしまう人が少なくありませんが,そういう人は結局,自分の生き方に自信がなく,腹落ちしていないのだと思います。(p226)
他人に何かをいわれて潰れてしまう人って,もともと「まわりからいわれた情報でできあがっている人」だと思います。(ヤマザキマリ p226)
彼らがすごいのは,絵だけではなく,多元的な興味があって基本的に頭がいいことです。「ダ・ヴィンチは絵画だけではなく,彫刻,建築,数学,解剖学などができた万能人だ」といわれますが,この時代の人にとっては,結構それが普通だったりするんです。(ヤマザキマリ p232)
日本人は,一度始めたことは最後までやるべきだと考えがちですが,それでいいものができるとは限らないし,未完だからこそ人の心に響く作品もあります。そこをわかっていない人が多いですね。(ヤマザキマリ p234)
ダ・ヴィンチ的な素質を持った人って,われわれが「苦手」とか「変人」と括ってしまう人の中に,実は結構いると思うんですよ。(ヤマザキマリ p234)
経済的に豊かなわけではないので,高齢者は年金を少ししかもらえません。でも,ボタンをちゃんと上まで締めて,自分の気品を演出している。横柄さや威圧感がないんですよ。自分にふさわしい見せ方,あり方というものをきちんとケアできるプライド,とでもいえばいいのかな。あの芯の強さはポルトガルに行かないと学べなかったものです。(ヤマザキマリ p240)
行き詰まっているときにやった仕事は,夜中に書くラブレターみたいなもので,全くダメです。あんなに命を削るお見をして描いたのに,朝起きて読み返すと羞恥心のパンチを喰らう。だったら,いったん逃げて,清々しい風通しの良い気持ちになってから挑んだほうが絶対にいいですよ。(ヤマザキマリ p246)
植物もその場でずっと根を張り続けるものと,種を飛ばして別の土地で咲くものがあるじゃないですか。たぶん人間にも色んな性質の人がいて,動いた方が咲ける人もいるでしょう。動こうとする人がいたとき,無理に押し込めない社会になってほしいなと思いますね。(ヤマザキマリ p247)
美談は,ある意味ではマスターベーションですよね。仕事でもなんでも,大事なことは,いい結果を残すことです。それなのに潔く腹を切って死んでしまったら,何も残らない。それよりも逃げて捲土重来を期すほうが,はるかに正しい選択だと思います。(p248)
本当の意味で立ち向かっているのは,世間体など気にせず,必要に応じて逃げることができ,いい塩梅で自分を甘やかしながら生き延びていくことのできる人のほうですよ。(ヤマザキマリ p248)
私はイタリア時代,電気・水道・ガス・電話を止められるほどお金には苦労したし,漫画家として軌道に乗るまではいろいろな仕事をしていました。だから,もしいま漫画がぜんぜん売れなくなって,再び無一文になったとしても,怖くはありません。お金がどうにもならない,という状況からでなければ得られない栄養もある。(ヤマザキマリ p249)
サボったら落ちていく,がんばったら上がるという基本的な仕組みがなかったら,社会は後退していきます。(p253)
社会の構造的な格差によって,人生にチャレンジできない人もたくさんいます。自己責任論は,弱者にとっては,希望なき社会への道しるべになる危険性を秘めています。(p253)
ただ単に次世代にバトンをつなぐだけなら,それほど無責任なことはありません。まず大人ががんばって,そのがんばる姿を若者や子どもたちに見せる必要があるのです。(p254)