2021年12月18日土曜日

2021.12.18 出口治明 『0から学ぶ「日本史講義」戦国・江戸篇』

書名 0から学ぶ「日本史講義」戦国・江戸篇
著者 出口治明
発行所 文藝春秋
発行年月日 2020.10.15
価格(税別) 1,500円

● 「古代篇」「中世篇」に続く3冊目。本書の帯のコピーは「世界史とのリンクで見えてくる新たな近世」。世界史の中に日本史を位置づけて,歴史的事象の関連を解き明かしていく。ゆえに,本書の特徴の第一は明晰性だ。
 「古代篇」「中世篇」も同様だが,「古代篇」「中世篇」は中国からの影響が圧倒的に大きかったのに比べて,さすがに幕末からはイギリスの登場頻度が多くなる。

● 以下に多すぎる転載。
 江戸時代は平和で牧歌的な理想的な時代だったと持ち上げる人もたくさんいます。本書では,そうした俗説に対して,数字(データ,エビデンス)・ファクト(事実)・ロジックに照らしてみると,江戸時代は日本史上では最低の時代だったのではないかという問題提起を行っています。(p8)
 僕は,歴史は科学だと思っています。過去の出来事をあらゆる学問の手段を駆使して再現しようとする学問が歴史であって,個人の解釈が歴史であるはずがないのです。過去の出来事が一回限りであるように,歴史はひとつです。(p9)
 宗教改革が何を意味するかといえば,ローマ教会は失った領土を取り戻すか,その代わりの土地を探さない限り,お布施が入らず組織が維持できなくなるということです。(p13)
 十六世紀中頃の明では,銀一両(およそ四〇グラム弱)が銅銭七百五十文ほどで取引される一方,日本では同じ重さの銀が二百五十文ほどという価格差がありました。つまり日本で銀を銅銭で買って,中国でその銀を売れば,もうそれだけで五百文ほどのボロ儲けができたのです。石見銀山だけではなく,兵庫の生野銀山などからも,どんどん銀が算出しました。美味しい密にカブトムシやスズメバチが群がるように,多数の明船が日本にやって来たのです。(p19)
 後期倭寇は,海賊というより,海の商人の共同体,「海民の共和国」のようなものでした。中国の海禁政策のもと,中継貿易がさかんになり,最初は琉球,それが後期倭寇に代わって,そのネットワークにポルトガルが乗っかったというのが,「南蛮貿易」の実態だったと理解すればいいと思います。(p22)
 織田信長は時代を超えた道理性を備えた人で,信長の登場からやはり近世が始まるように思えます。(p30)
 義昭と信長は当知行安堵という,現在の土地所有者の権利をそのまま認める政策を取りました。既成秩序をむやみに破壊しようとはしていません。(p32)
 信長が舞台の中央に躍り出たのには,彼の人生のタイミングの良さにも触れる必要があります。ダーウィンが提唱した進化論でいうところの「運」です。(中略)ちょうど世代交代の時期にあたり,戦国時代を彩った大物大名たちが次々と死んでしまったのは信長にとって大きな幸運でした。(p36)
 日本の仏教界は,キリスト教との論理的な論争に慣れていませんでした。キリスト教の神学はイスラム神学を経由してアリストテレスなど古代ギリシャ以来の論理学を取り入れ,宗教改革を通じて高度に洗練されていました。そこに魅かれた仏教僧などのインテリが宗旨変えします。キリスト教はインテリ層中心に布教を進めたといえますね。(p38)
 織田信長の物事の進め方を見ると,モンゴル帝国の手法によく似ている感じがします。どういうことかというと,チンギス・カアンが率いたモンゴル軍団の手法は「俺らのいうことを聞くなら見の安全を保証するで。抵抗するなら見せしめに皆殺しやで」というものです。(p42)
 信長は大きな理由もなくあまり人を殺してはいないのですね。実は問題を起こした部下に対しても,追放はしても切腹までさせるケースは少ないのです。(p42)
 信長の事績を見ると,自分から約束を破ったことはあまり見当たりません。約束は守るし,大義名分を重視していたことがよくわかります。(p44)
 問題は,このとき信長だけではなく,有能だった長男の信忠も討たれてしまったことです。本能寺の変の本当の重大さは,王と王太子が揃って殺されてしまったことなのです。(中略)後継者も討たれたために,権力の空白が生じました。(p50)
 刀狩令以降も,腰に差したり使ったりしなければ,所持しても別にかまへんでということで,農家のなかに刀はたくさん保存されていました。刀狩りは,刀をすべて没収するのではなく,おおっぴらに刀を使った行為をやめさせることが狙いでした。(中略)中世の自力救済を禁止するのが一番の狙いだったのですね。(p69)
 太閤検地では丈量検地といって,できるだけ役人が現地で実際に測ろうとしました。(中略)検地帳には地主ではなく,実際の耕作者が記載されました。(中略)これが何を意味するかといえば,ここで中世の「権門体制」が最終的に終わったのです。(中略)これほど大きな土地政策の変更は,明治の地租改正と,戦後の農地改革ぐらいです。太閤検地にはとても大きな意義があるのです。(p71)
 信長は権力者ですから,金銀が献上されます。それを使って京都で茶道具を買い漁っています。そうすることによって,市場にマネーサプライを供給していたのです。(p76)
 茶器のような,素人には見分けがつかない日用品が威信財になっていく過程では,必ず目利き,つまりそれを鑑定するキュレーターが生まれます。微妙な味わいは専門家のお墨付きがないと有難味がわからないのです。(p83)
 秘書役にはどの世界でも賄賂が集まるものです。(中略)アメリカでも,CEOの秘書に好かれない人はクビになるという冗談があるぐらいで,秘書の機嫌をとるのに皆ものすごく気をつかっています。(p84)
 薩摩が琉球にいうことを聞かせられるのだったら,津島の宗氏は朝鮮にいうことを聞かせられるはずだと秀吉は思っていた節があります。(p88)
 当時の日本の米の生産力は二千万石といわれます。また一万石で兵隊を二百五十人ぐらいは出せると考えられています。この数字で計算すると,当時の日本は五十万人の兵士を動員できることになります。当時の世界で,五十万人規模で軍隊を動員できるのは,中国と日本しかありませんでした。後で満州の女真族が,清を建国して明が倒れますが,そのときの満州軍は三十万人ぐらいです。また当時の日本は戦国時代でしたから,実戦に慣れていました。銀の生産量も世界の三分の一を占め,お金は山ほどありました。単純に数字のうえでいえば,明と戦うのは決して秀吉の妄想だけではなかった。日本の軍事力が歴史上ピークをつけた時代でした。(p90)
 (徳川家康は)実は幸運に恵まれただけで,この時代に生きた戦国武将のなかでは,ごく平凡な価値観の人物だったように思えます。(p106)
 家康はそれほど仁義を守っていません。武田と結んだり北条と結んだり,しょっちゅう同盟相手を変えています。(中略)自分が有利なように動くという,戦国大名としてはごく普通の感覚を持っていた人だと思います。(p110)
 徳川政権のキモは,要するに大名から民衆まで,それぞれのポジションを固定化させることでした。それは,戦国の乱世に収拾をつけるためでしたが,その反面,社会の流動性や発展のポテンシャルが喪われることにつながります。(p117)
 現在華やかに活躍している華僑の歴史は,意外に新しいのです。鎖国(海禁)は,もともと明の政策でしたから,中国人が大量に東南アジアに出ていくのはアヘン戦争の後なのです。(p134)
 伊達政宗や黒田官兵衛は,領地は日本でもうこれ以上増やせないから,海外と商売して大きくなろうと考えていました。伊達政宗は家臣の支倉常長をヨーロッパに派遣しています。こういう動きを封じるためというのが,鎖国の一番の理由ではないでしょうか。(p145)
 十七世紀の後半になると,日本の銀山の産出量が減り,海外輸出に制限をかけるようになります。世界の貿易商人にとっては,「もう日本に行っても案外利益は薄いで」というわけですから,鎖国はたいして邪魔されませんでした。(中略)つまり鎖国の二百年の間は,わざわざ海外から日本にやって来る価値がなかったというわけですね。(p146)
 殉死は戦国時代の遺風のように思われがちですが,実は戦国時代にはあまりなかった風習です。戦国の世が終わり,亡き主人への忠誠心をアピールするパフォーマンスとして,江戸時代に入ってから流行していたのですね。(p153)
 江戸は独身者の多い町でした。そのなかには不満分子も大勢いたわけで,実は放火も多かったのです。火事の隙に金目の物を盗むことで生計を立てる人間さえ少なくなかったといわれています。(p156)
 (明暦の大火では)わずか二日間で江戸のほぼ全域が焼き尽くされました。(中略)死者は三万人~十万人余りといわれます。当時の江戸の人口は三十万人と見積もられていますから,多くて三割近くの人が亡くなったことになります。ちなみに一九二三年の関東大震災の頃の東京市の人口は二百五十万人,うち震災の死者・行方不明者は十万人程度といわれています。(p157)
 江戸の町では,火事が起こることを前提にして,すぐ壊せ,かつまたすぐに組み立てられるような,柱の細い,いわば安普請の家を建てていました。西洋の家が庶民でも石造りで非常に頑丈なものをつくって代々何百年も住むという発想とは根底から異なります。これは現代に至るまで尾を引いています。日本は鉄筋コンクリートの建物でも二,三〇年でもうダメやと壊してしまうでしょう。(p160)
 桃山文化は何かといえば,その入れ物になったのがお城です。(中略)それに続いた寛永文化は,京都で武家と公家と町衆が交流するところから生まれています。(中略)寛永の頃は「いれいなものがええな」ということで「きれい」という言葉が異性を風靡したようです。(中略)こういった当時の藝術のスポンサーとなったのは,武家や公家,もしくは朱印船や鉱山経営などで幕府の御用をつとめて巨富を築いた豪商たちでした。(p162)
 元禄文化になると,江戸,大坂,京都の新興の町人たちが文化の担い手の中心になっていきます。(中略)庶民相手の出版事業も始まりました。現代の私たちが日本の古典文学と呼んでいるものは,この時代になって初めて広く読まれるようになったものです。(p164)
 日本の庶民の間では,中国同様に犬を食べることは珍しいことではありませんでした。(中略)綱吉の政策によって,犬食の習慣は,日本では表だって見られなくなりました。(p171)
 (新井白石には)理想を追求するあまり,現実を直視しなかったところが見られます。(p184)
 日本の武家政権のブレーンは,実は鎌倉時代以来,ずっと僧侶たちでした。(中略)お坊さんは公家を除けば日本で唯一の知識階級だったのです。(p186)
 現代の皇室の祭祀や皇室についての考え方には,もとをたどると儒学の影響が大きく見られます。江戸時代の儒学は明治の日本を用意したという言い方もできますね。(p191)
 幕府の幹部は継友を推していました。尾張家が御三家筆頭だったからです。(中略)やはり血統を考えると先に生まれたほうが強いということになります。しかし大奥の女性たちは,英明な紀州藩主として実績と名声の高かった吉宗に期待しました。日本の女性は地位が低かったと言われたりしますが,江戸時代でも将軍家の跡継ぎを鶴のひと声で決めているわけですから,決して低くはなかったのですね。(p196)
 吉宗の不思議なところは,生涯が美談に包まれていて,名君として語られていることです。不安定な立場の吉宗が,自分のことを相当フレームアップしたのだと思います。(p200)
 大坂米市場は,世界初の先物取引所として有名です。(中略)といって,「世界のトップランナーだったんやで」といってしまうのも,少し短絡的かもしれません。というのも,これはかなり特殊な状況で発達した取引市場だったからです。(中略)取引が高度化したというよりは,米だけに絞って限られた人々が取引をしている,「米一元制」といってもいい経済の仕組みのなかで生まれてきたのではないか,というのが僕の考えです。(p206)
 江戸で「米価安の諸色高」という現象が起こります。(中略)なぜこんなことが起こったかといえば,江戸に町民が増えたからです。(中略)武家が消費の主役であった時代には,武家が買えなければ「需要はないで」ということで,商品の価格は下がったはずですが,需要面で町民のウエイトが大きくなってくると,武家が買えなくても町民が買う商品が増えていきます。(p208)
 水野忠成は「田沼意次の再来や」「賄賂政治や」と評判が悪いのですが,「全体的には正しいことをやっていれば,ちょっとぐらい後ろ暗い部分があってもかまへんで」というとても合理的な考えの持ち主でした。(p231)
 一八三三年から三六年にかけて,天保の大飢饉が起きます。これは亨保,天明と並ぶ,江戸の三大飢饉のひとつです。水野忠成は「江戸で餓死者を出すな」という方針のもと,備蓄米百五十万俵を放出して施米します。松平定信の時代から江戸町会所に備蓄された古米で「もらっても食えたものじゃない」という批判もありましたが,忠成は「死ぬよりましやで」と言ったそうです。そのため江戸では米騒動が起きずに済みました。(p232)
 たくさんガールフレンドをつくり,お金をふんだんにばら撒いて贅沢をしたので「化政文化」が花開いたのです。文化というのはお金をつかわないと生まれませんよね。家斉政権はそういう意味で皮肉にも文化的には素晴らしい時代となったのです。(p235)
 江戸での生活が文化的で楽しいから,農業を捨てて人が集まる。そう考える農本主義的な「改革」は,農村復興のため,江戸に人が集まらないように,もっといえば,江戸を魅力のない町にしようとしたのですね。(p253)
 幕府も,大砲などを近代化して守りを固めないとあかんで,とわかっていました。これが天保の改革のもうひとつの側面です。(中略)だから水野忠邦は出世欲の塊だっただけでなく,自身の政治に確かな目的があって,政策判断をしていたのだと思います。失脚してすべてパーになってしまいましたが。(p257)
 林則徐が洋書を集めてこいと部下に命じたとき,部下が「政治や軍事の本ですね?」と問うと,林則徐は「違う。全部や」と答えたそうです。連合王国と戦おうと思ったら,ヨーロッパ全体を理解しなければ勝てないと考えていた。そのため買い集めた本のなかには,生命保険の知識も入っていたのですね。(p260)
 『海国図志』で勉強した西洋の知識が明治維新につながっていくので,明治維新は林則徐の志を継いだもの,あるいは林則徐のリベンジともいえるのです。(p260)
 幕府による「寛政の改革」や「天保の改革」は失敗に終わりましたが,同時期に行われた諸藩の改革は成功しています。両者の命運を分けたのは,農業か商業かの選択でした。朱子学か実学か,といってもいいかもしれません。(p262)
 「武士道」という言葉は,実は一九〇〇年以前の用例はほとんどありません。実際のところ「武士道」は,新渡戸稲造が英文で『武士道』という本を一八九九年に書いて有名になった言葉なのです。(中略)実際に『葉隠』を読んでみると,(中略)サラリーマンの処世訓のような話でした。(p276)
 もともと武士の本源は鎌倉時代の「御恩」と「奉公」です。源頼朝が領地を安堵してくれたからその対価として奉公するというかたちの,ギブアンドテイクの関係なのです。(中略)かつての武士は終身雇用ではなかったのです。どんどん転職して,いい上司を見つけて,一族を繁栄させるのが武士やでという考えが,戦国が終わった後,江戸時代にもずっと根底に生きていたのだと思います。「主君のために死ぬのが武士道や」という考えは,明治時代になって,欧米先進国に対抗するテーションステートを構築しようとしたときに,つくられた虚構です。(p277)
 江戸や京都,栄えている地方都市の男性を中心に,字が読める人はそこそこいて,ヨーロッパにそれほど遅れていたわけではないと思います。しかし「世界のなかでも優れていた,というのはいいすぎやで」というのが現在の研究者の認識です。(p288)
 「江戸しぐさ」には,まったく史実上の根拠がありません。(中略)新しく捏造された「伝統」だったわけです。(中略)「武士道」が,明治時代に創られた「伝統」であったのと同様です。(p290)
 工場制機械産業は,二十四時間操業が理想なのです。鉄鋼の高炉などが代表的ですが,一回火を入れたら止めるとものすごいロスが生じます。(中略)ところが人間は長時間労働を続けると疲れます。そこでどうしたかといえば,清から輸入した紅茶に,カリブ海の植民地から持ってきた砂糖を山ほど入れて労働者に飲ませました。(p294)
 歴史には,フランスの歴史学者フェルナン・ブローデルが指摘したように,気候の変動といった,人間にはどうしようもない大きな波があり,人口動態やオーストリアのハプスブルグ家とフランス王家の争いのような中規模の波があります。さらに個人の人生の波があり,三つの波が重なったときに,歴史上の大英雄が現れたりします。典型はナポレオンです。(中略)そのような天才が幕末の日本にも現れます。それが阿部正弘でした。(p300)
 現在ではこれ(日米修好通商条約)は不平等条約だと思われるのですが,当時のことを考えたら致し方のない側面もあります。(中略)近代国家の考え方は日本にはありません。(p310)
 松蔭が松下村塾で教えた時間はほんの一,二年でした。(中略)吉田松陰は老中間部詮勝が京都に来たときに暗殺計画を立てていますから,現代からいえばテロリストといってもおかしくない人です。(p316)
 それぞれの天下は・織田信長十五年,豊臣秀吉十六年,徳川家康十八年。だいたい同じ期間です。(中略)面白いことに,武家政権を開いた平清盛と源頼朝も同様です。(中略)会社の経営にしても全力で取り組めるのは十五,六年が限界だと思います。昔からリーダーの寿命は変わらないのかなと思ったりもします。(p350)

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