書名 岡本太郎 歓喜
著者 岡本太郎
編者 岡本敏子
発行所 二玄社
発行年月日 1997.09.26
価格(税別) 2,800円
大阪万博のとき,ぼくは中学生だったが,「太陽の塔」に対する興味はほぼ全くなかった。気になったのはいつ頃からだろう。今では「明日の神話」を見るためだけに渋谷に行くことがある。
● 本書は岡本敏子さんが編んだ,岡本太郎が残した文章のアンソロジー。それに絵を付けたもので,画集と言ってしまうとちょっと違う。画集として絵だけを見ていくのもありだとは思うけれど。
アンソロジーから文章を抜書きするのもアホっぽい話だが,以下に転載。
生きる瞬間,瞬間に絶望がある。絶望は空しい。しかし絶望のない人生も空しいのだ。(中略)絶望こそ孤独のなかの,人間的祭りである。私は絶望を,新しい色で塗り,きりひらいて行く。絶望を彩ること,それが芸術だ。(p3)
どんなことがあっても,自分がまちがっていたとか,心をいれかえるとか,そういう卑しい変節をすべきではない。一見,謙虚に見えて,それはごま化しであるにすぎないのだ。(p4)
理解され,承認されるということは他の中に解消してしまうことであり,つまり私,本来の存在がなくなってしまうことだ(p6)
この瞬間に徹底する,「自分が,現在,すでにそうである。」と言わなければならないのです。現在にないものは永久にない,というのが私の哲学です。逆に言えば,将来あるものならばかならず現在ある。(p7)
そのころ,すでに日本から遊学している絵描きが,パリに四,五百人ほどはいたのではないか。みんな年輩者だった。不思議だったのは,彼らがまったく日本人だけでかたまり,フランス語のフの字も喋らない。生活者としてここにとけ込まないで,それでいながら,一生懸命パリらしい街角や,セーヌ河の風景,あるいは金髪の女を描いていることだった。血肉の中に熱く深いかかわりも持たずに,手先だけで格好をつけたイメージを描いたって,何の意味があるか。(p9)
抽象絵画では自分を少しもいつわったり,しいることなく,しかも世界共通語として誰にでも語りかけることができる。純粋な線とかリズム,色彩には,人と人との隔てをつける地方色というものはない。(p10)
私の青春時代の絶望的な疑いや悩み,それをぶつけて,答えてくれたものは,ニーチェの書物であり,バタイユの言葉と実践であった。情熱の塊のような彼との交わりは,パリ時代の,そして青春のもっとも充実した思い出である。(p14)
ただ単に芸術家としてあることの空虚さに耐えられなくなったのである。(p15)
兵隊を特別訓練する係に東京帝国大学哲学科出身の,いわばインテリ将校がいた。士官学校出身の生粋の軍人よりも,かえって軍人ぶって残酷なしごきをやったものだ。(p17)
私はむしろ断言したい。青春こそがこの世界の肉体であり,エネルギー源である。(p24)
革命的な芸術作品は必ず,形式と内容のズレを秘めている。(p28)
毅然と,受けて立つ姿だ。受けて立つのでなければノーブレスはひらかない。それは聖なるものの大前提である。(p33)
芸術とは,愛したり理解したりするものではない。それによってひっ捉えられ,つきとばされる。ついに踏みとどまって自分で立ち上がる。そういう力である。(p36)
芸術なんて,愛好したり,いい気分で鑑賞するものだとは,私は思わない。作家と鑑賞者の果し合いであり,作品は,猛烈に問題をぶつけあう,いわば決闘場なのだ。だから「いいわね。」などとよろこばれてしまったら,がっかりだ。安心され,神経の末梢を素通りする作品などは意味がない。(p38)
私は思うのだが,人間のほんとうに生きている生命感が,物として,対象になって,目の間にあらわれてくれば,それは決してほほえましいものなどであるはずがない。むしろ “いやな感じ” に違いない。(p39)
現実とトコトンまで対決し,あらゆる傷を負い,猛烈な手負いになって,しかもふくらみあがってくれば,それこそ芸術だ。だから好かれちゃいけない。「いやな感じ」でなければいけない。(p39)
私は現代日本の色彩の貧しさ,にぶさに窒息する。だから象徴的に,原色をぶつけるのだ。芸術の本質は挑戦にある。(p42)
赤こそ男の色ではないか。激しさを象徴する。自分の全身を赤にそめたいような衝動。この血の色こそ生命の情感であり,私の色だと感じつづけていた。(p43)
私のうちに起こる情熱は,絵という形をとることもあるけれど,そうじゃないことも多い。芸術の衝動がある。表現は何でもいいはずだ。だからありとあらゆることを私はやる。(p46)
経験からすれば,苦労した作品より,ひとりでにどんどん進んでできてしまったものの方が,いつでもいい。(p47)
私にとっては衝動を実現するということが問題なのであって,結果はじつは知ったことじゃない。(中略)芸術ってのは画面じゃなくて,つまりそういうエモーションの問題だけだと思うからだ。(p47)
若い時から私は深い森のただ中に,真赤な炎をふき上げてそそり立つ,孤独な火の樹のイメージを,強烈な神聖感として心のうちに抱いていた。(p49)
密教においては,「秘仏」に象徴されるように,あらわにならないがゆえにこそ力である。この神秘力,呪力が芸術においても,実はその本質なのである。(中略)見せる,と同時に見せないという矛盾が,一つの表情の中に内包され,充実していなければならないのだ。(p51)
人間は本来,非合理的存在でもある。割り切れる面ばかりでなく,いわば無目的な,計算外の領域に生命を飛躍させなければ生きがいがない。(p52)
彫刻を絵のように,つまり肉づけしたイメージとして見るのだったら,たいへんな見当ちがいだ。彫刻と絵画の世界はちがう。(p56)
いったい子供は「絵」を描いているのだろうか。「絵」ではないのだ。自分の若々しい命をそこにぶちまけている。(中略)出来た絵はいわば足あとのようなものだ。描き終わった絵を,前に置いて,鑑賞している,という子供は恐らくいない。(p66)
素朴に,無邪気に,幼児のような眼をみはらなければ,世界はふくらまない。(p69)
・・・・・・帰りはこわい。こわいながらも,通るのだ。天神様に行きたいのではない。こわい帰りに賭けるのだ。(中略)帰りの道,夜は,死を意味する。(中略)しかしこの宵闇に死ぬからこそ生きるのだ。そういう生命の奥底にある感動,神秘の意思が,子どもの本能のなかに生きている。(p70)
ミケランジェロだとかダ・ヴィンチ,さらにミロのヴィーナスなど,中学校の教科書の中に,ちょうど喫茶店のウィンドウのお菓子のようにお行儀よく,できあいの美学として並べられまつり上げられてしまっている。そのように無意味化し,形式化する美の基準をうち破ってゆくのが芸術ではないか。(p73)
法隆寺は焼けてけっこう。自分が法隆寺になればよいのです。(中略)そのような不逞な気迫にこそ,伝統継承の直流があるのです。むかしの夢によりかかったり,くよくよすることは,現在を侮蔑し,おのれを貧困化することにしかならない。(p80)
人間の声はすばらしい。歌というと,われわれはあまりにも,作られ,みがきあげられた美声になれてしまっている。美声ではない。叫びであり,祈りであり,うめきである。どうしても言わなければならないから言う。(p88)
アノニーム,無名になる。すると逆に女は猛烈に女になり,男は男になる。(p89)
さらにごそごそと戸棚をさぐっている小林秀雄のやせた後姿を見ながら,なにか,気の毒のような,もの悲しい気分だったのをおぼえています。(p90)
私はいわゆる美術品に興味がない。(中略)展覧会に行ったり,画集をひらいて見るなどということは,むしろ苦痛だ。それらは狭い枠のなかに,窒息してしまっている。なにか惨めな気がする。(p91)
すべて十年の修行がいるとしたら,いったい芸術家や評論家はどういうことになるんだろう。たとえば百姓を描くのには,十年畠を耕さなきゃダメだとか,小説家がオメカケさんを書こうとしたら,オメカケさんにならなくちゃ,なんて珍無類だ。(中略)つまり何ごともすべきじゃない,言うべきじゃないってことになる。しかも,一つことだけに十年くい下がっている間に,すべての現実は進んでしまう。それじゃ世の中に追いつけっこない。(p93)
なまじその道に苦労した目は,あぶない。知らずにゆがんで,平気でにぶってる。素人が素直に直観で見ぬくものが,案外本質であり,尊い。(p93)
誰を思い出すにも,まず顔である。身体全体,そのヴォリュームは,漠とした背景であるにすぎない。よく,したり顔で,四十を過ぎたら自分の顔に責任をもて,なんて言うやつがいる。いやったらしい表現だ。第一,自分の顔に責任をもっているような顔なんて,考えただけでうす汚い。(p94)
私は作品に眼玉を描く。(中略)執拗に眼玉を描きこんでいるのは,たしかに新しい世界に呪術的にはたらきかける戦慄的な現代のマスクを創造しようとしているのだ,と思っている。(p95)
かの子は特異な作家であるように考えられているが,実は日本文学史上ではきわめて正統派であると私は考える。「文学に憧れる文学」という,現代日本文学発生からの宿命的な雰囲気から外れてはいないからである。(p99)
絶対に滅びないもの,またいつも力だけで勝つ,勝つに決まっているものに男性的魅力はない。(p105)
動物が食っているところを見ると,全身でむさぼり食うという感じ。爽快だ。(中略)何もかも忘れて,手と足と腹と,身体じゅうで食ってみたいのである。(p107)
誰でもが思う存分,四方八方に生きたらいいじゃないかと思う。(中略)専門家こそ逆に何も知らないのだ,とさえ言い切れる。この世界は,政治にしても,商売でも,文化一般でも,あらゆるものがからみあって生きている。そのなかの細分化されたほんの一部,針のさきで突いたくらいの狭い領分にどれほど詳しかったところで,その中に頭をつっ込んだきりではメクラ同然だ。(p108)
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