書名 いつか来る死
著者 糸井重里
小堀鷗一郎
発行所 マガジンハウス
発行年月日 2020.11.12
価格(税別) 1,400円
どういう転機があってかわからないが,訪問医療に転じて在宅看取りに関わるようになり,その分野での発言が糸井重里さんの目に留まり,「ほぼ日」で対談するに至った。それを書籍化したのが本書。
● 以下に転載。
人生って,みつ豆のさくらんぼを最後のお楽しみに取っておいたら誰かに食べられちゃった,みたいなことだらけです。後で,後で,と考えていると,せっかくいただいた命を,存分に使えないままにしてしまう。「やりたいこと」って,意外とできていないものですよ。(p3)
死を意識すれば,やりたいことが見えています。そして,ただやりたい放題やるんじゃなくて,ぼくが思いっきり動くことが,みんなも喜ぶことになるよう,一致させる意欲が湧いてくる。(中略)「上からの命令」や「社会の仕組み」といった,やりたいことを邪魔する要因から解き放たれるためには,「死」というカードを持っておくと強い。(p3)
子どもたちは最初の頃はお見舞いに来ていたのですが,だんだん来なくなって。その女性は10ヶ月あまり,寝たきりのまま,暗い集中治療室の中で生き続けました。(中略)入院によって,命は永らえたけれど,実際は,病院における孤独死といっていい状態だった。それが,果たして,本人と家族の希望だったのか。(中略)患者本人や家族の意向は,思い込みや誤解を含んでいることもあります。だからこそ,彼らの意向に全面的に従うことが,必ずしも患者本人の最期の希望を代弁することにならないんです。(小堀 p20)
「もうダメです」と言われてどうするか。(中略)大部分の人は,それでも病院で何とか生かしてほしいと願うものです。それに,骨と皮のような状態になって病院から出された人でも,多くの場合は「訪問診療にするのはもう少し待ってください」「病院い通いたい」と言う。死を受け入れたくないんでしょうね。(小堀 p34)
自己犠牲の精神で仕事ができるのは立派だと思いますが,それは極めて稀な存在ですよ。そういう人たちをスタンダードとして,みんなに強いるのはとんでもない話です。そういう意味で,ぼくは「寄り添う」という言葉が嫌いです。(小堀 p40)
医師にとって,死は敗北なんです。救命,根治,延命,その三つが医師の使命。そうなると,「死なせない」ことにはものすごく興味がありますが,死をどう迎えるか,どう受け入れるかといったことはなるべく避けようとしますね。(小堀 p46)
最後は医師が心臓マッサージをして,さらに心臓に直接アドレナリンを注射することもありました。そうするとちょっと脈拍が出るんですよ。(中略)一般の人が考える「最期まで手を尽くしてくださった」というのは,そういう行動なんですおね。してほしい,と思っていることはご家族は多い。その現実を忘れてはいけないと思っています。(小堀 p48)
ちゃんと生きてない人は,ちゃんと死ねないんですよ。死ぬときになって急に自分が生きてきた軌跡を立派にはできないから。(小堀 p51)
この仕事をしていると,人それぞれにカルミネーション(最高点,頂点,極致)というものがあるのだなと実感します。(中略)すごく貧乏だったんだけど,「風呂場から海の見えるような家に住みたい」という夢を持って,夫婦二人で実現した患者さんもいた。もう負たりとも90歳超えてから,別荘を作ったんです。そのときに奥さんが「努力すればなんでもできるんです」と言っていました。よくある言葉といえばそうだけど,実際に夢を実現した人が言うと重みが違う。(小堀 p52)
赤ちゃんや子犬って,「生きていくつもり」の塊なんですよね。その感じが,死ぬ間際の犬にもまだあって,何をしていいかわからなかった。そばにいることしかできませんでした。(p57)
ぼくはその人が望む最期を実現できるように手助けしたいけれど,本人に死ぬつもりがないとどうしようもない。(中略)本人が死期を悟ってくれるのを待つことになります。(小堀 p57)
年をとると,要請されること,望まれることが減っていくんですよ。そんななかで,恋愛関係になると「あなたを待っています」というメッセージが毎日来るものだから,そっちに転んでしまうんでしょうね。それがお金目当てだったとしても。誰からも要請されていないと思ったときから,心の死が始まるんです。(p63)
二十歳で大失敗しても,何日か経てば忘れられる。生命そのものがあるから。でも生命力が落ちて,人から望まれなくなっていくと,大きなダメージを受けてそのまま引きこもってしまう。(p64)
64歳と65歳の境目は明確にある。65歳からは死ぬ旅をしているんだ,という自覚が芽生えます。きれいに言えば「諦観」ですね。山登りをしているのではなく,下っているのだとわかる。で,下っているなら,その途中のどこでいなくなっても同じだな,と思うんです。そうなると,やっぱり死がこわくなくなる。(p65)
仕事にしても,人間関係にしても,やりすぎると「おもしろくない」ところまでいってしまうんです。生きることも,「それ以上は面白い?」という質問に対して「そうでもないな」と答えるポイントがあると思います。「このへんでいいんじゃないかな」というところ。(p66)
吉本(隆明)さんは,あるとき「死は自分のものじゃないんですよ」と言ってくれました。死は自分に属さない。命を所有物のようにして,死は決められないんです。(p67)
逆らわずに自然に老いていくのが良い,とはあんまり思えないですね。自然,なんてないですよ。意識と肉体,両方自分でつくっていくものですから。でも,自分ではどのへんで一生懸命になるのをやめるか,についてはよく考えます。(p68)
現在に夢中なのはいいことなんです。ぼくが犬や赤ん坊が大好きなのは,とにかく現在を生きているから。そっと歩かないと転ぶ,なんてまったく思っていないじゃないですか。それはもう,たまらないですよね。(p69)
真に自由なのは赤ん坊ですね。思ったように生きるってすばらしい,感じたように動くってすばらしい,と赤ん坊は教えてくれます。それって,芸術の役目と同じなんですよね。だから,赤ん坊は動く芸術なんですよ。(p70)
先がそんなにないと思うと,ピリッとするんですよ。「なんでもはできないんだから,好きなようにやろう」と度胸が出る。(中略)若い人のほうが,慎重ですよね。先があることを考えると,おいそれとは踏み込めない。(p73)
お墓の前で泣かないでっていう歌があるでしょう。私はそこにいませんって。それは,墓参りしてる人もわかってるんです。わかってるんだけど,墓の前に行きたいんです。(p79)
楽しく生きてこれた理由の一つは,自分自身なんだと思います。みんなに感謝できる人生にするために,ぼくもそれなりの努力をしてきました。(p83)
ぼくはプライバシーをかなり大事なものだと考えています。近年取材などが増えたんですけど,妻や子どもについては,極力話さないようにしている。(小堀 p86)
要素が増えてくるとみんな論理が追いつかなくなって,感情が強くなり,余計なところに迷い込んでしまうんじゃないかなあ。(p88)
ぼくは,カッコいいなと思う人を,真似して生きてきたんです。(p89)
自分というのは,周囲120メートルくらいのところまで自分なんだなと感じます。その自己認識が守られていることが,心の安定につながるし。生活圏が維持されるって,大事ですよね。(p91)
身を粉にして,私生活を犠牲にしてやるからこそ,伝わるものがある。そんなふうに人は思い込んでしまいがちです。(p91)
ぼくは自分のやっている仕事を,使命だとか,人のためにやるべきだとか,思ってないんですよ。今でも新しい発見があって,おもしろいからやってるんです。(小堀 p92)
ぼくはやっぱり,最後の最後まで仕事を続けたいですね。(小堀 p101)
なぜかぼくたちは,死を暗いところに追いやってしまった。そのおかげで生きることが楽しくなったかというと,決してそんなことはない。(p110)
親と子にしかわからない事情とか理屈が,どんな家族にもあるんですよね。(中略)死は「普遍的」という言葉が介入する余地がないのだと思い知らされますね。(小堀 p115)
「親の死に目に会えないかもしれない」と心配している人がたまにいますが,親の気持ちも確認しないでナンセンスなことだ,と思います。(小堀 p137)
妻はうちで看取りました。妻もそれを望んだし。(中略)でも,満足する看取りができたかというと,それはまた別の話です。(中略)本人の希望を叶えても,叶えられなくても,残された家族は何かしら後悔するんです。(小堀 p140)



