書名 戦争と外交の世界史
著者 出口治明
発行所 日経ビジネス人文庫(単行本:2018.09)
発行年月日 2022.08.01
価格(税別) 1,000円
● 内容はタイトルのとおりなのだけれども,歴史の本でもあると同時に,生き方論になってもいる。たとえば,交渉ごとは理念を持った者が勝つという話がそうで,自分の人生史においても理念が必要だと言いたいようだ。
それは目先の損得だけを考えていたのでは持ち得ないものだし,感情に流されてもダメだ。ひっきょう自分は何をしたいのか,どうなることを望んでいるのか。そこに至るにはどうすればいいのか。戦略を冷静に考えよ。著者が最も言いたいのはそういうことのようにも思えた。
● しかしながら,世界史に登場するあまたの事例を知って,ではそれを現在に照射すれば過たず行くべき道を選択できるかというと,どうも事はそう簡単なことではないように思う。
正しく照射するのは相当に難しいだろう。だからこそ,人間は同じ過ちを延々と繰り返してきたのでもあるだろう。
● 以下に転載。
ごく大雑把に言ってしまえば,物質的に生活が豊かになっている状態,それに対して精神的に豊かな状態を文化,そのように考えてもいいでしょう。(p3)
人間は生態系にないものを,ほかの生態系から持ってくる。そのことで自分の生態系を豊かにして生きてきました。(中略)それは多くの場合,交易の形を採りました。相手を殺して物を奪うよりも,話し合ってお互いに必要なものを交換し合うほうが,はるかに労力が少なくてすむのです。(p3)
私たちが働いて生きていく日々の中で繰り返される,喧嘩や仲直り,妥協と打算,取引きと駆引き,握手と裏切り,それらの多くも,自分や自分の所属する集団や組織の利益を優先することに端を発している場合がほとんどです。世界史の中で結ばれた条約や勃発してしまった戦争を振り返って検証してみることは,現代を生き抜くことの知恵につながるのではないか。(p5)
交易をめぐる争いが発展して戦争になる,ということが多かったのですが,その起点は定住にありました。人間はいまから一万二千年ほど前に,脳に突然変異かとも思える変化が起きました。それは定住して他社を支配したいという欲望を持ったことです。(中略)最初は植物,次いで動物,そして金属。それから自然界のルール(中略)さえも自分で支配したいと思うようになります。そこから神=GODという概念も誕生したのです。(p8)
イタリア半島で,分裂と抗争の時代が長く続いたのは,この半島の真ん中にローマ教皇が領主である国,ローマ教皇領が存在したことに,その理由が求められます。(p43)
侵略者は大衆の支持を得ている宗教施設を襲うことを,なるべく避けようとします。民衆の反感を浴びることが恐いし,神様の祟りがそれ以上に恐いからです。(p50)
土地を耕して収穫を得る農耕民と,自然の草で家畜を養う遊牧民とでは,土地に対する価値観に違いがあります。農耕民は土地を財産として守ろうとし,遊牧民は草を求めて大草原を自由に移動します。(p75)
現代の中国の社会や文化の原型は,ほとんど宋の時代に形成されています。(p88)
キタイは宋から得た絹や銀を元手とし,宋から生活物資や文明の利器を購入して,国を豊かにします。結果として宋も潤う。(中略)仕掛人の寇準は臆病どころではなく,冷製でしたたかな政治家だった,という評価が一般的になりつつあります。(p89)
一一世紀の半ばを過ぎる頃には地球の温暖化が進んだこともあって,西ヨーロッパも豊かになり始めました。その過程で貧富の差も大きくなり,寄生階級が強くなっていきます。(p97)
信仰の問題に世俗的な利害関係が結びつけば両者ともに譲れません。(p116)
交渉のセオリーとして,あいまいな妥協点を残したまま決着をつければ,後に必ず混乱が起きてしまう。(アウグスブルクの宗教和議は)その典型的な事例であったともいえます。(p132)
昔の世界史の教科書では,三〇年も続いた戦争によってドイツの大地は荒れ果て,人口も激減したと書かれていました。しかし最近の文献では,「そうでもなかった」と書かれています。大戦争といっても,結局は傭兵同士の争いです。(中略)日本の応仁の乱で京都中が焼け野原になった,というのは嘘で,応仁の乱が続いた約十年の間も賀茂祭などは行われていた,という話とよく似ています。(p135)
トルコ人(トゥルクマーン)の帝国であるオスマン朝や,モンゴル人の国であるモンゴル帝国は,自分たちの民族の人口が少ないので,その支配については寛容を常とし,武力行使は決定的な場面にのみ限り,人材登用を大切にしました。(p166)
百済から仏教を始めとして,漢字や暦や医療など最新の文化や文明が伝わっています。ではそれらの最新情報,最新の技術に対して,日本からの見返りは何であったのか。それは傭兵でした。(中略)倭は傭兵の需要に応えるために,半島の南端の加羅に小さな出先機関のようなものを設けていたと推測されます。それが俗に言う任那の実態でした。(p198)
中国という大国は東の朝鮮半島と南のベトナムについて,あそこは自国の一部だという認識を持っています。ですから強大な統一国家が生まれると,すぐに朝鮮半島の制圧に向かいます。(p200)
高句麗は強力でした。この国は中国北東部の遊牧民,女真族がつくった国です。後に渤海や金や清を建国する民族です。(p200)
新羅について付言すると,唐との関係が悪化すれば,日本へ使者を送り友好関係を訴えます。しかし唐との関係が修復されると,知らん顔をします。巧みに孤立を避ける賢さとしたたかさがありました。(p208)
南北戦争といえば子どもの頃から僕たちが教えられている「奴隷解放宣言」や「人民の人民による人民のための政治」というリンカーンのゲティスバーグの演説などは,戦争の主因を語るものではありませんでした。それらの宣言や発言は,「北軍側の我々は人道的な戦争をやっているのです」という,全世界に向けて自分たちの正当性を訴えたマニューバ(作戦行動)の一部と考えるのが妥当だと思います。(p221)
南軍が四分の一に満たない人口で,四年間も戦えたのは何故か。南部にはリー将軍を始めとして,優秀な将校が多かったからです。南部の裕福な農家の男子は,士官学校に進むことが多かったのです。(p222)
南北戦争は一国の将来を決める政策論争を,あいまいな妥協で決着させず,血を流して決定した厳しい市民戦争でした。この市民戦争の記憶はアメリカの市民意識の中に,強烈に刻まれていると思います。(p223)
中国の伝統的な外交の考え方は朝貢でした。中国は天朝であるから,対等の国は世界中どこにもない。(中略)中国は長い間,世界で最も進歩した文化と文明を持つ強国でした。わざわざ外国と交易をして入手したい物品がそもそもなかったのです。(p226)
大英帝国と初めから自由貿易を行っていたら,輸入品もきとんとチェックできたし,アヘンも追放できたはずです。「蛮族との交易などカッコ悪くて出来るか」とばかり,広東十三行という民間に丸投げしてしまった。そこにアヘンが入ってきたのであり,建前ばかりを大事にする尊大な態度が,国益をストレートに追求する大英帝国に巧妙に利用されたのです。(p288)
ヴァレンヌ事件(ルイ十六世が国外脱出を図った事件)は,それまでまだ国王を信頼していた素朴な市民感情を裏切る結果となりました。国王に少し贅沢を辛抱してもらって一緒に生きていこうと,多くの市民は考えていたのです。進歩的な人々も立憲君主制を構想していました。しかし王家がそれを拒否するのであれば,話は変わってきます。(p306)
タレーランの正統主義は,みごとに国益を守りました。フランスの皇帝ナピレオンがヨーロッパ中を荒し回り戦争を仕掛けたのに,フランスのペナルティはほとんどゼロ,領土も失わず,賠償金も払いませんでした。(中略)交渉ごとでは,きちんとした理念や理論を持つ側が有利です。個人や国家の利害を露骨に主張せずに,自国の言い分や国益を理念に盛り込めるからです。(p331)
ベルギーが永世中立国となった背景には連合王国の利害が絡んでいました。ドーヴァー海峡に面して,いちばん連合王国と近い国はクランスと,そのお隣のベルギーです。連合王国はドーヴァー海峡の対岸に,永世中立国をつくることで自国の防衛ラインを強化したのです。(p348)
外交という武器なき戦争では,理論的整合性など二の次であり,国益,即ち自国が予期しない武力衝突に巻き込まれないことが全てに優先します。ビスマルクは(中略)なによりもフランスの孤立を考えて外交を展開していたのです。しかしヴィルヘルム二世にはそれを洞察できる頭脳はありませんでした。(p365)
考えの浅いリーダーたちが,目先の利益だけを考えて行動をエスカレートさせた結果,誰に責任があるのか判然としない形で,バルカン半島の事件が世界大戦を引き起こしたのですが,このような確たる信念を持たないリーダーたちによってカタストロフに至る事例は,最近のわが国の大企業などにもよくあるように思います。企業の未来のことはど考えず,粉飾決算によって,目先の整合性だけを守ろうとする事例を想起させます。(p380)
フランスの地で休戦協定が結ばれたとき,ドイツの普通の人々に「敗戦」の意識がどれほどあったでしょうか。B29の絨毯爆撃で焦土と化した大都市や,米軍上陸によって島全体を蹂躙された沖縄など,日本のような体験があれば「敗れたり」の意識は心に擦り込まれます。しかし第一次世界大戦において,ドイツの地に侵入した敵兵は一兵もいませんでした。まだ未発達であった飛行機による空爆もありませんでした。(p385)
ミュンヘン会談で一杯食わされるまで,英仏は幾度かヒトラーのヴェルサイユ条約を無視した行動を黙認してきました。どうしてどんなにヒトラーに対して遠慮したのか。やはり第一次世界大戦後のパリ講話会議で,あまりにもドイツを痛めつけてしまったことを後悔していたからです。(中略)当時の英仏が取った外交政策は,政策と呼ぶにはあまりにも心情に流された行動であったと思います。(p400)
ドイツの空爆に対して応戦した大英帝国側で,いちばん頑張ったのは,ポーランド空軍でした。ナチスに祖国を追われてロンドンに亡命していたのです。(中略)もともと利用できるものは何でも利用するイングランド気質というか,ロンドンの人たちは自分の空の守りを,一部ポーランドに任せていた面もあったようです。(p408)
いかに立派な条約が結ばれても,ひと握りの愚かな支配者や凶暴な権力者の思いつきや憎悪から生じた行動が戦火を招き,平和を破壊してしまう。世界の歴史は,その繰り返しでした。けれどもそれでもなお,大多数の人々は平和に向かって再び歩みだすことを止めませんでした。(p427)
「終わらせる」とはどういうことか。戦争に関係したすべての人に,情報の共有化を徹底することが大切だと考えるべきでしょう。(p432)
そのときの僕を救ってくれたのは,世界史の知識でした。実に多くの優秀な政治家や軍人が,理不尽な理由で左遷されたり殺されたりした事実を知っていたからです。それに比較すれば自分のケースなど,ささいなことだと思ったからでした。(中略)理不尽な状況に置かれても自分を失わないタフネスは,豊富な知的財産から生まれると思います。(p433)
ヨーロッパの各国は昔から,さほど広くない大陸にひしめきあいながら競い合い,外交戦術や交渉技術を高めてきました。その知恵をアジアやアフリカを侵略するのに,役立ててきました。(p437)
何を言うべきかは大切ですが,それと同時に何を言わないでおくかも重要なことです。そして言うべきことの順序も考える必要があると思います。(p437)

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